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減給された40代社畜、深夜バイトで国家級ダンジョンの管理者になる  作者: Gaku
第2部:管理者覚醒編

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第68話 57ポイント


「お姉ちゃん。また増えた?」


 白い掛け布団の上で、弟がスマートフォンを持ち上げた。


 細くなった腕には点滴の管が沿い、透明な固定テープの下で青い血管が透けている。窓から差し込む午後の光は柔らかかったが、病室の空気には消毒液の匂いが染みついていた。


「何が?」


「再生数」


「ああ、それね」


 星野ミナはベッド脇の椅子を引き寄せ、画面を覗き込むふりをした。


「聞いて驚かないでよ。昨日の配信、もう二十万回いきそうなんだから」


「すご」


「でしょ? お姉ちゃん、そろそろ超人気配信者って名乗ってもいいかも」


「前から名乗ってるじゃん」


「細かいことは気にしないの」


 明るく返すと、弟が笑った。


 咳に変わらない、短い笑いだった。


 それだけで、ミナは胸の奥に詰めていた息を少しだけ吐けた。


 病室には、空調の風が流れている。カーテンの裾がわずかに揺れ、窓際に置かれた紙の花が、乾いた音を立てた。


 生花は禁止されている。


 だからミナは、色紙を折って作った花を持ってきた。


 赤、黄色、青。


 本物より鮮やかで、枯れない花。


「次、いつ配信するの?」


「今日」


「今日も?」


「今日も」


「最近、毎日じゃん」


「人気者は忙しいんですよ」


 ミナは胸を張った。


 弟はスマートフォンを胸元へ下ろし、少しだけ眉を寄せる。


「危ない場所、行ってないよね」


「行ってない、行ってない」


「ほんとに?」


「ほんとだって」


 嘘だった。


 昨日は、それまでより深い階層へ潜った。


 一昨日も。


 配信画面には映らないところで、足場が崩れた。右足を捻り、壁へ肩をぶつけた。今も服の下に青黒い痣が残っている。


「お姉ちゃん、嘘つくとき、ちょっと早口になる」


「ならないし」


「今も早い」


「気のせいです」


 弟はしばらくミナの顔を見ていた。


 責めるような目ではない。


 心配している目だった。


 その視線に耐えきれず、ミナは窓へ顔を向けた。


 ガラスの向こうには、低い建物の屋上と、薄い雲が広がっている。遠くを走る電車が、玩具ほどの大きさに見えた。


「ねえ」


 弟の声が背中へ届く。


「無理しなくていいからね」


 喉の奥が塞がった。


「何が?」


「配信」


「無理なんてしてないよ」


「でも」


「ミナがやりたいからやってるの」


 振り返る。


 笑顔を作る。


 頬の筋肉が、少しだけ引きつった。


「それに、お姉ちゃんが稼いでくれたら助かるでしょ?」


「俺のせいでしょ」


 弟が言った。


 ミナの笑顔が止まる。


「違うよ」


「治療のお金」


「違う」


「でも、お母さんも仕事増やしてるし、お姉ちゃんも危ない配信してる」


「危なくないって」


「俺がいなかったら、しなくていいんでしょ」


「違うって言ってるでしょ!」


 病室に声が響いた。


 隣のベッドは空いている。それでも、廊下を通った看護師の靴音が、扉の前で一瞬遅くなった。


 ミナは自分の声に驚き、唇を噛んだ。


 弟は何も言わない。


 スマートフォンの画面が消え、黒くなった表面に、痩せた顔が映っていた。


「……ごめん」


 ミナは椅子へ座り直した。


「怒ってないから」


「うん」


「ほんとに、あんたのせいじゃない」


 弟の指へ、自分の手を重ねる。


 骨の形がわかるほど細かった。


「病気になりたくてなったわけじゃないでしょ」


「でも」


「でも、じゃない」


 ミナは弟の手を握った。


「お姉ちゃんはね、できることをやりたいだけなの」


「俺が治らなかったら?」


 その言葉は、あまりにも静かに落ちた。


 ミナの指先から、熱が引いた。


「治るよ」


「先生、治るって言わないじゃん」


「治る」


「お姉ちゃん」


「治るから」


 それ以上は言わせなかった。


 言葉にしたら、本当になってしまう気がした。


 弟はしばらく黙っていたが、やがて小さく頷いた。


「じゃあ、治ったらさ」


「うん」


「また海、行こう」


「行こう」


「前みたいに」


「前より遠くまで行こうよ」


「疲れるよ」


「お姉ちゃんが背負うから」


「無理でしょ」


「鍛えてるんです。ダンジョン配信者なので」


 弟が、また笑った。


 今度は少し長く続いた。


 ミナも笑った。


 看護師が病室へ入り、面談の時間を告げるまで、二人は海の話を続けた。


 何色の浮き輪を買うか。


 何を食べるか。


 どこまで泳ぐか。


 来年の夏が必ず来るように。


 その夏に、弟が必ず隣にいるように。


     ◇


 病室の扉を閉めた瞬間、ミナの笑顔は消えた。


 喉の奥に張りついていたものが、重く沈む。


 廊下は、病室よりも明るかった。


 天井に並んだ蛍光灯が、逃げ場のない白い光を落としている。床は磨かれ、通り過ぎる人影をぼんやり映していた。


 遠くから、食器の触れ合う音が聞こえる。


 配膳車の車輪が近づき、消毒液と温められた食事の匂いが混ざって流れてきた。


 ミナは壁に片手をついた。


 右足に体重をかけると、捻った足首が痛む。


 弟の前では気づかれないようにしていた痛みが、扉一枚を隔てただけで輪郭を取り戻す。


「星野さん」


 看護師に呼ばれ、ミナは背筋を伸ばした。


「はい」


「先生がお待ちです」


 案内された面談室は、病室より狭かった。


 小さな机の上に、厚みのない資料が一部だけ置かれている。


 医師はミナが座るのを待ってから、静かな声で話し始めた。


「今日は、今後の治療について、改めてご説明します」


「はい」


「現在行っている治療は、一定の効果が認められています」


 ミナは頷いた。


 いい話から始めるときほど、その後に悪い話が来る。


 病院へ通うようになってから、それを覚えた。


「ただし、継続が必要です」


「わかっています」


「治療を中断した場合、状態が急速に悪化する可能性があります」


「中断しません」


 医師が一瞬だけ言葉を止めた。


 その沈黙で、次に何が来るのかわかった。


「費用のことですよね」


「……はい」


「払います」


「星野さん」


「払えます」


 言い切った声が、狭い室内の壁に跳ね返る。


 医師は否定せず、資料をミナの前へ向けた。


「費用については、相談員から利用可能な制度をご案内します。今日は、それとは別に、治療を継続した場合と、中断した場合の予後についてお伝えします」


 紙には、三つの時点と、二列の数字が並んでいた。


 六か月。


 治療継続、九十一パーセント。


 治療中断、六十三パーセント。


 差は二十八ポイント。


 十二か月。


 治療継続、八十二パーセント。


 治療中断、三十五パーセント。


 差は四十七ポイント。


 そして、二十四か月。


 治療継続、六十八パーセント。


 治療中断、十一パーセント。


 差は、五十七ポイント。


「これは、同様の状態にある患者さんの経過を基にした統計です」


 医師の声が遠くなる。


「個人の経過を断定する数字ではありません。治療を続ければ必ずこの結果になるわけでも、中断すれば必ず悪化するという意味でもありません」


 わかっていた。


 統計は、弟の未来そのものではない。


 けれど、未来へ続く道の太さは示している。


「治療を中断した場合、二十四か月以内に状態が悪化する危険は、継続した場合と比較して約五・七倍です」


 ミナは、五十七という数字を見つめた。


 ただの二桁。


 配信の再生数なら、誤差にもならない。


 五十七回。


 五十七円。


 コメント五十七件。


 そんな数字なら、笑って流せる。


 だが、紙の上にある五十七は、弟が二年後に笑っている可能性の差だった。


「二年後の生存率で、五十七ポイントの差があります」


 医師が言った。


「治療を継続できるかどうかが、そのまま」


「わかってます」


 ミナは資料を掴んだ。


 紙が指の間で歪む。


「だから、稼ぐんです」


「星野さん」


「あの子が生きられる方に」


 握る力が強くなり、爪の先から血の気が引いた。


「五十七ポイント分、寄せるんです」


 医師はすぐには答えなかった。


 壁掛け時計の秒針が、三つ進む。


「星野さん」


「はい」


「弟さんを助けたいお気持ちは、わかります」


「だったら」


「でも、あなたまで倒れてはいけません」


 ミナの指が止まった。


 医師の目は、彼女の顔ではなく、机の下へ向けられている。


 右足。


 無意識に庇っていた足首。


「歩き方が不自然です。怪我をしていますね」


「これは、ちょっと捻っただけです」


「危険な仕事をしていると聞いています」


「配信です」


「呼び方の問題ではありません」


 声音は穏やかだった。


 だからこそ、逃げるための隙間がなかった。


「弟さんの治療を続けるために、あなたが命を危険にさらす。弟さんは、それを望むでしょうか」


「望むとか、望まないとかじゃないんです」


 ミナは資料を机へ戻した。


 皺になった紙の中央で、五十七という数字だけが歪んでいる。


「やらなかったら、十一パーセントなんですよね」


「それは集団から得られた統計であって」


「わかってます」


 ミナは立ち上がった。


 足首に鋭い痛みが走ったが、顔には出さなかった。


「必ずそうなる数字じゃない。でも、治療をやめても大丈夫だって数字でもない」


「その通りです」


「だったら、続けます」


「治療を、ですね」


「両方です」


 医師の眉がわずかに寄る。


「治療も、配信も」


 ミナは資料を鞄へ入れた。


「今の私にできるのは、それしかないから」


 面談室を出ると、廊下の白い光が目に刺さった。


 病室へ戻る前に、ミナは化粧室へ入った。


 鏡の中にいたのは、笑顔を忘れた女だった。


 目元は赤い。


 唇は乾き、頬には疲れが浮いている。


「だめだめ」


 水を出す。


 冷たい水を両手ですくい、頬へ当てた。


 何度か深呼吸をしてから、口角を上げる。


 一度目は不自然だった。


 二度目も。


 三度目で、配信に映せる顔になった。


「よし」


 呟いた声は、誰にも届かなかった。


 鏡の端には、個室から出てきた母親と、手をつないだ小さな子どもが映っていた。


 子どもは笑っていた。


 その光景を見ないように、ミナは先に化粧室を出た。


     ◇


 同じ日の深夜。


 地下施設の操作室で、誠司は端末の前に座っていた。


 昨夜、黒瀬から告げられた数字は、まだ頭から離れていない。


 あと十九回。


 何度数えても、増えない。


 今夜勤務すれば、残りは十八回になる。


 数字とは、不思議なものだ。


 二割の減給。


 毎月の赤字。


 深夜バイトの時給。


 数字に押されてここへ来た。


 そして今度は、十九という数字に、ここから立ち去れと言われている。


『誠司』


 コトリの声が、思考を中断した。


「どうした」


『星野ミナさんに関する情報を更新しました』


 誠司の背筋が伸びる。


「怪我か?」


『現在、致命的な負傷は確認されていません』


「現在って言い方、怖いな」


『軽度の歩行異常が映像内で確認されています。右下肢を庇っている可能性があります』


 誠司は配信記録を呼び出した。


 映像の中で、ミナはいつも通り笑っている。


 移動の瞬間だけ、わずかに右足を引いていた。


 意識して見なければ気づかない程度だ。


 気づかれないようにしているのだろう。


「それで潜るつもりか」


『その可能性が高いです』


 誠司は眉間を押さえた。


「止められないのか」


『彼女には、登録活動者として潜行する権利があります』


「権利か……」


『加えて、弟さんの治療に関する公開情報と、同様の状態に対する予後資料を照合しました』


 端末に表が表示された。


 六か月。


 十二か月。


 二十四か月。


 治療を続けた場合と、中断した場合。


 誠司の視線は、最後の行で止まった。


 六十八パーセント。


 十一パーセント。


「差は……」


『五十七ポイントです』


「五十七」


『治療を中断した場合、状態悪化に至る危険度は、継続した場合と比較して約五・七倍と推定されています』


 誠司は椅子の背へもたれた。


 五十七ポイント。


 たった二桁の数字が、画面の中で異様な重さを持っている。


 ミナが深い階層へ行くたび、視聴者は勇気だと言う。


 根性がある。


 弟思いだ。


 感動した。


 けれど、違う。


 あの子は勇敢だから潜っているのではない。


 他に道がないと思っているから、潜っている。


「……同じだな」


『何がですか』


「俺と」


 誠司は、初めて地下施設へ来た夜を思い出した。


 減給された給与明細。


 家族に言えなかった赤字。


 美咲が眠った後、一人で求人情報を見ていた暗いリビング。


 危険かどうかより、来月を越えられるかどうかしか考えられなかった。


「数字に追われて、危ない橋を渡るしかなかった」


 誠司は、ミナの映像を見つめた。


「俺も、そうだった」


 違うのは、追われている数字の重さだ。


 自分は生活費だった。


 ミナは、弟の命。


「コトリ」


『はい』


「決めた」


 誠司は操作盤へ両手を置いた。


「あの子が潜っている間は、俺が最優先で見る」


 コトリはすぐには返答しなかった。


 人工知能にしては長い沈黙だった。


『誠司』


「何だ」


『それは不公平です』


 誠司の指が止まる。


『星野ミナさんを優先すれば、同時刻に危機へ陥った他の登録活動者への対応が遅れる可能性があります』


「でも、あの子には」


『他の登録活動者にも、帰りを待つ家族がいる可能性があります』


 誠司は口を閉じた。


『星野ミナさんの事情を知ったことで、あなたの中で命の優先順位が変わりました』


「……そうだな」


『以前のあなたは、事情を知らない者も含め、全員を同じように見ようとしていました』


 端末の隅で、赤い警告灯が一つ点滅した。


 軽度の異常。


 まだ救助を必要とする段階ではない。


 誠司はその灯りを見ながら、息を吐いた。


「ごめん」


『私に謝る必要はありません』


「いや、今のは俺が間違ってた」


 ミナの事情を知った。


 苦しみを理解した。


 だから特別に救いたいと思った。


 その感情は嘘ではない。


 だが、そのために顔も知らない誰かを後回しにすれば、白瀬や蓮が使ってきた理屈と何が違うのか。


 事情を知っている者だけが、人間になる。


 知らない者は、数字になる。


 そんな管理者にはなりたくなかった。


「優先はしない」


『はい』


「でも、見落とさない」


『誠司』


「あの子も。他の人も。全員だ」


 誠司は複数の区画監視画面を同時に開いた。


 以前なら視線を順番に移していた数を超えている。


 眼球の奥が、すぐに熱を持った。


『監視対象を増やせば、身体負荷が上昇します』


「わかってる」


『黒瀬環から、負荷軽減の指示が出ています』


「わかってるよ」


 誠司の声は苦しかった。


「でも、知らなかった頃には戻れない」


 画面の中には、名前のない人々が動いている。


 誰にも事情がある。


 借金がある者。


 家族を養う者。


 夢を追う者。


 ただ金が欲しい者。


 そして、五十七ポイントを背負う者。


「全員を見る」


 誠司は、もう一度言った。


「全員、帰す」


 こめかみの奥で、小さな痛みが脈打った。


 コトリは、それ以上止めなかった。


     ◇


 午前零時を過ぎた頃。


 ミナの配信が始まった。


『みんなー! 今日も来てるよー!』


 明るい声が、操作室に響く。


 画面の中で、ミナは両手を広げている。右足の痛みなど存在しないように、軽くその場で跳ねてみせた。


 コメントが滝のように流れた。


『待ってた!』


『今日は休めよ』


『足、大丈夫?』


『最近潜りすぎじゃない?』


 ミナは笑った。


『大丈夫、大丈夫。ミナ、頑丈だから!』


 誠司の眉が寄る。


「嘘つけ」


『誠司には聞こえても、星野ミナさんには聞こえません』


「わかってるよ」


 配信が進む。


 今日は少し深い階層へ行くと、ミナが告げた。


 コメント欄がざわついた。


『無理すんな』


『弟くんの治療費?』


『最近攻めすぎ』


 ミナは一瞬だけ黙った。


 笑顔は残っている。


 だが、その目だけが画面の外へ逃げた。


『あのね、みんな』


 いつもの勢いが、少しだけ弱くなる。


『ミナの弟、今、頑張って治療してるんだ』


 コメントの流れが遅くなった。


『お医者さんがね、治療を続けられるかどうかで、けっこう変わるって』


 ミナは笑う。


 唇の端が、わずかに震えていた。


『だから、ミナ、頑張るんだ』


 視聴者には見えない位置で、左手が右手首を強く掴んでいる。


『ミナが稼げば、あの子が生きられる確率、上がるから』


 笑顔が少し崩れた。


 それでも、彼女は笑い続けた。


『単純でしょ? だから、やるだけ』


 誠司は画面を見たまま動けなかった。


「単純じゃないよ」


 掠れた声が落ちる。


「全然、単純じゃない」


 その笑顔を作るために、何度鏡を見たのだろう。


 怖くないふりをして。


 痛くないふりをして。


 弟の前でも、視聴者の前でも。


 泣けない者だけが作れる笑顔だった。


 誠司の視界が滲んだ。


 涙を拭う暇もなく、ミナの位置情報と周辺区画の異常値を確認する。


 同時に、他の登録活動者の動きも追う。


 一人も落とさない。


 ミナだけを特別にはしない。


 それでも、この子を絶対に帰す。


 矛盾した願いを、両方抱える。


「頑張れ」


 誠司は、誰にも届かない声で言った。


 十九回しかないのではない。


 十九回もあるのでもない。


 その一回ごとに、帰すべき人がいる。


「お前は、絶対に帰す」


 ミナが深い通路へ足を踏み入れる。


 その背後で、暗闇が静かに閉じた。


 誠司は複数の画面を見開いたまま、操作盤を握った。


「お前の弟のために」


 こめかみの痛みが、さらに強くなる。


「お前を、絶対に帰す」



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