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減給された40代社畜、深夜バイトで国家級ダンジョンの管理者になる  作者: Gaku
第2部:管理者覚醒編

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第67話 決定係数0.91



 グラフの線は、まるで迷っていなかった。


 三十二個の点の間を縫いながら、右肩上がりの直線が伸びている。


 その先には、赤い横線が一本。


 人間の身体が、もう戻れない場所へ踏み込む境界だった。


 午後十一時四十二分。


 地下施設へ到着した佐藤誠司は、操作室へ入る前に、黒瀬環から呼び止められた。


「佐藤さん。少し、お時間をいただけますか」


 黒瀬の声は掠れていた。


 白いシャツの袖は肘まで捲られ、眼鏡の下には濃い隈が残っている。片手には、厚いファイルが抱えられていた。


「今からですか?」


「今でなければ、あなたは端末の前に座ってしまうでしょう」


「まあ、それは……仕事ですから」


「だから、座る前に話します」


 冗談を返せる空気ではなかった。


 誠司は操作室の扉から手を離し、黒瀬の後に続いた。


 連れて行かれたのは、通路の奥にある小さな面談室だった。窓はなく、天井の蛍光灯が一つだけ点いている。白い机と、向かい合う二脚の椅子。空調が弱いのか、室内には機械の熱がこもっていた。


 黒瀬は奥の椅子を引いた。


「座ってください」


「俺、何かやらかしました?」


「座ってください」


 二度目は、さらに硬かった。


 誠司は黙って腰を下ろした。


 黒瀬も向かいに座り、ファイルを机へ置く。


 鈍い音がした。


「佐藤さん。今日は、あなたのデータを持ってきました」


「俺の?」


 黒瀬がファイルを開く。


 並んでいたのは、勤務ごとの心拍数、血圧、呼吸数、端末操作への反応時間、終了後の意識状態、出血の有無。


 誠司には、見覚えのない数字まで記録されている。


「こんなに取ってたんですか」


「端末が自動で収集していました。あなたの身体が、管理者としての操作にどれほど耐えているかを調べるための記録です」


「健康診断みたいなものですか?」


「健康なら、今夜ここへ呼んでいません」


 誠司の笑みが消えた。


 黒瀬は、一枚の資料を抜き出した。


 中央に描かれたグラフには、横軸に勤務回数、縦軸に負荷指数と記されている。


「心拍、血圧、操作遅延、出血、意識混濁の程度を統合して、勤務一回ごとの身体負荷を数値化しました」


「意識混濁って……俺、そんなことになってました?」


「終了後、呼びかけへの反応が遅れた回が七回あります」


「七回も?」


「あなた自身は、ほとんど覚えていないでしょう」


 黒瀬の指が、グラフ上の点を一つずつ辿る。


 序盤は低い位置に散らばっていた点が、勤務回数を重ねるごとに高くなっている。


 多少の上下はある。


 だが、全体として見れば、逃げ道などないほど明確に上昇していた。


「このデータに、単回帰分析を行いました」


 資料の下部に、数式が印刷されている。


 負荷指数=〇・五六八×勤務回数-四・〇九


「勤務を一回重ねるごとに、負荷指数は平均〇・五六八ずつ増加しています」


「平均、ですよね」


「はい」


「だったら、次は下がるかもしれない」


「一時的には」


 黒瀬の返答は早かった。


「ですが、全体の傾向はほとんど変わりません」


 彼女は、数式の下にある数字を指した。


 決定係数 R²=〇・九一一四


「決定係数〇・九一」


 誠司は数字を読み上げたものの、その意味まではわからなかった。


「高いんですか?」


「極めて高いです」


「どのくらい」


 黒瀬は、グラフの上昇線から目を離さなかった。


「あなたの身体負荷の変化は、勤務回数だけで九十一パーセント以上説明できるということです」


 誠司は、もう一度グラフを見た。


「つまり?」


「体調が悪かった日だけ負荷が高かったわけではありません。難しい救助が重なった日だけでもない」


 黒瀬の指が、三十二個目の点で止まる。


「勤務を続けることそのものが、あなたの身体を壊しています」


 蛍光灯が、小さく鳴った。


 誠司は机の下で両手を組んだ。


 指先が冷えている。


「でも、これから身体が慣れる可能性は」


「統計上は、確認できません」


「休めば戻る可能性は」


「一時的に数値は下がります。ですが、勤務回数を重ねるごとに回復量も減っています」


「薬とか、治療とか」


「原因が通常の疲労ではありません。端末との接続時に生じる負荷を止めない限り、根本的な解決にはならない」


 黒瀬は、資料を一枚めくった。


 同じグラフの上に、赤い横線が引かれている。


「負荷指数二十五。これを、不可逆的な損傷が発生する危険域と設定しました」


「不可逆的……」


「元に戻らないという意味です」


「どこが壊れるんですか」


「わかりません」


 黒瀬の声が、初めてわずかに揺れた。


「視覚機能かもしれない。脳機能かもしれない。循環器系かもしれない。複数が同時に損なわれる可能性もあります」


 誠司は赤い線を見る。


 右肩上がりの直線は、その赤を確実に突き抜けていた。


「この回帰式に、危険閾値の二十五を代入しました」


 黒瀬は数式を指で隠し、結果だけを示した。


 到達予測 五十一・二回目。


 九十五パーセント信頼区間 五十・八回から五十一・七回。


「誤差の範囲が狭すぎる……」


 誠司にも、それだけはわかった。


「はい。予測値の不確かさはあります。ただ、五十回前後で危険域へ入るという結論は、ほとんど動きません」


「今は」


「三十二回を終えています」


 黒瀬が顔を上げた。


「佐藤さん」


 蛍光灯の白い光が、眼鏡の奥の瞳を隠している。


「あと十九回です」


 誠司は何も言わなかった。


「現在と同じ傾向で勤務を続けた場合、あと十九回前後で、あなたの身体は危険域へ入ります」


 壁の向こうで、何かの装置が起動した。


 低い振動が床を伝い、椅子の脚を震わせる。


「十九回……」


 誠司は、口の中で確かめた。


 一回。


 一日。


 休まず続ければ、一か月にも満たない。


 勤務の間隔を空けても、回数そのものが減るわけではない。


「一か月と、ちょっとですかね」


「期間の問題ではありません」


 黒瀬の声が強くなる。


「十九回しか残っていないという意味です」


 誠司はグラフを指でなぞった。


 三十二個目の点から、赤い横線まで。


 紙の上では、十センチにも満たない距離だった。


「佐藤さん。休んでください」


「何日くらいですか」


「違います」


 黒瀬は資料を掴んだ。


 紙の端が、その手の中で歪む。


「数日休むという話ではありません。管理者としての勤務を、今すぐ中止してください」


 誠司の指が止まった。


「中止?」


「少なくとも、身体への負荷を減らす方法が見つかるまでは」


「それは、いつ見つかりますか」


「わかりません」


「一週間ですか。一か月ですか。それとも一年?」


「わかりません」


 黒瀬が同じ言葉を繰り返した。


 その声には、分析官としての冷静さより、何かを失うことへの恐れが混じっていた。


 誠司は背もたれに体重を預けた。


 目を閉じる。


 瞼の裏に浮かんだのは、自分の身体ではなかった。


 暗い通路で助けを待つ者。


 赤い警告灯。


 呼びかけても返事をしなくなった探索者。


 間に合わなかった一人。


「休んだら」


 誠司は目を開けた。


「その間、誰が赤いランプを消すんですか」


「天城蓮がいます」


 黒瀬の返答は用意されていた。


「彼はあなたより処理が速い。白瀬の指示下から外すことができれば、代替要員として」


「十九歳の子に、全部背負わせるんですか」


「あなたが壊れるよりはいい」


「俺が壊れなければ、あの子に背負わせていいんですか」


「そういう話をしているのではありません」


「同じですよ」


 誠司の声は穏やかだった。


 だからこそ、黒瀬は言葉を失った。


「天城くんは速い。俺よりずっと優秀です。でも、あの子は今、自分が何を信じればいいのかもわからなくなってる」


 誠司は赤い線から目を逸らさない。


「そんな子に、人の生死を全部押しつけて、俺だけ休むんですか」


「あなたには、ご家族がいるでしょう」


 黒瀬の言葉が、誠司の胸へ刺さった。


 美咲。


 陽菜。


 湊。


 玄関で交わす「行ってきます」と「帰ってきてね」。


 誠司は唇を結んだ。


「だからこそです」


「何がですか」


「帰れない人を、減らしたい」


 黒瀬の手が震えた。


「それであなたが帰れなくなったら、何の意味があるんです」


 誠司は答えられなかった。


 机の上で、赤い線だけが二人を分けている。


     ◇


 同じ頃。


 地下施設から離れた薄暗い部屋で、天城蓮は一人、二つの操作記録を並べていた。


 左には、佐藤誠司。


 右には、自分。


 平均処理時間。


 誠司、六・五七分。


 天城蓮、三・一一分。


「二・一倍……」


 蓮の指が、机を一定の速さで叩く。


 処理速度だけなら、自分の圧勝だった。


 標準偏差を確認しても、偶然の差ではない。検定結果は、p値〇・〇〇一未満。


 速さは才能だ。


 迷わず判断し、不要なものを切り捨て、限られた時間で最大数を処理する。


 それが正しい。


 そう信じてきた。


 蓮は、次の項目へ画面を送った。


 救助成功率。


 誠司、九十八・四四パーセント。


 天城蓮、九十四・二〇パーセント。


 指の動きが止まった。


「……四・二四」


 たった四・二四ポイント。


 誤差に見える程度の差だ。


 蓮は検定を走らせた。


 t値、八・四三。


 p値、〇・〇〇一未満。


 効果量、二・一八。


 画面は、冷たく告げている。


 偶然ではない。


 小さな差でもない。


 蓮は年間の潜行者数を、千人と仮定した。


 電卓へ数字を打ち込む。


 〇・〇四二四×一〇〇〇。


 答えは、すぐに表示された。


 四十二・四。


 蓮は瞬きもせず、その数字を見つめた。


「俺は、あの人の二倍以上速い」


 誰もいない部屋で、声だけが落ちる。


「でも……」


 蓮の指先が震え始めた。


「俺のやり方だと、あの人より四十二人、多く死ぬ」


 声にした途端、その数字が人の形を持った。


 四十二人。


 四十二個の名前。


 四十二の家族。


 帰りを待つ者がいて、食卓に空席ができて、鳴らない携帯電話を握りしめる夜がある。


 蓮は椅子を引き、立ち上がった。


 脚が机の角にぶつかる。積み上げていた資料が崩れ、床に散った。


 拾おうとはしなかった。


「計算が間違ってる」


 誰に言うでもなく呟き、もう一度キーボードへ向かう。


 対象期間を変えた。


 異常値を除外した。


 重症者の割合を補正した。


 誠司が担当した区画と、自分が担当した区画の危険度も揃えた。


 検定方法も変えた。


 等分散を仮定しない方法。割合の差を直接評価する方法。期間ごとのばらつきを含めた解析。


 画面上の数字はわずかに動いた。


 けれど、結論だけは変わらない。


 誠司の方が遅い。


 蓮の方が速い。


 そして、誠司の方が多く帰している。


「なんでだよ」


 蓮は机へ両手をついた。


 爪が白くなる。


「速い方が、多く助けられるはずだろ」


 処理に迷えば、その間に別の場所で状況が悪化する。


 一人へ時間をかければ、次の一人が遅れる。


 全員を救おうとすれば、結局、全員を失う。


 それが、蓮の知っている現実だった。


 耳の奥で、昔の警報音が鳴った。


 赤い光。


 重なり合う救助要請。


 泣きながら助けを求める声。


 どちらを先にするか決められず、何度も画面を切り替えた。


 一人を選べなかった。


 だから、一人も救えなかった。


 あの日から、蓮は選ぶことを覚えた。


 助かる可能性が高い者から処理する。


 時間のかかる者は切る。


 数字を見れば迷わない。


 迷わなければ、あの警報音を思い出さずに済んだ。


「俺は……間違ってない」


 声が掠れた。


 画面には、四十二・四という数字が残っている。


「あの人が、たまたま運がよかっただけだ」


 蓮は誠司の記録を一件ずつ開いた。


 救助まで七分を超えた案件。


 蓮なら三分で終わらせる。


 そう考えながら操作履歴を追う。


 誠司は、救助経路を決める前に、区画内の小さな変化を何度も確認していた。


 崩れかけた壁。


 魔物の移動方向。


 負傷者の呼吸。


 仲間から離れた一人。


 蓮なら、全体の生存率を優先して切り捨てる情報だった。


 誠司は切り捨てていない。


 遅いのではない。


 見ている数が違う。


 次の記録を開く。


 複数の救助要請が重なった夜。


 誠司は、最短経路を選ばず、負傷者同士を合流させていた。一人ずつ救うより時間はかかる。だが、合流後は互いに支え合えるため、救援到着まで全員が生き延びた。


 次。


 次。


 次。


 蓮は、時間を忘れて記録を追った。


 どの操作にも、派手な技術はない。


 誠司に特別な計算能力があるわけでもない。


 ただ、画面の向こうにいる者を、最後まで人間として見ている。


 一件の案件として閉じない。


 一つの数字として切らない。


 蓮の喉が狭くなった。


「あんたの甘さは、本当は強さなのか」


 以前、誠司へ投げた言葉が戻ってきた。


 答えは、既に画面に出ていた。


 蓮が最も信じてきた数字によって。


     ◇


 面談室では、誠司と黒瀬がまだ向かい合っていた。


 机に置かれた資料は閉じられていない。


 五十一・二回目。


 あと十九回。


 その数字は、会話が途切れても消えなかった。


「黒瀬さん」


 誠司が口を開いた。


「俺が休まないと言ったら、止めますか」


「止めます」


「力ずくでも?」


「必要なら」


「黒瀬さん、俺より細いですよ」


「政府職員を侮らないでください」


 黒瀬の声音は硬いままだった。


 だが、誠司はほんの少し笑った。


「そこ、笑うところではありません」


「すみません」


 笑みはすぐに消えた。


「でも、今夜すぐ辞めるとは言えません」


「佐藤さん」


「十九回ある、とも考えられます」


 黒瀬の表情が強張る。


「違います。十九回しかないんです」


「同じ数字でも、見方は変わります」


「言葉遊びで身体は守れません」


「わかってます」


 誠司は荒れた手を見た。


 爪の根元には、乾いた血が残っている。以前なら、美咲に見つからないようポケットへ隠していた。


 今は隠さない。


「俺も、壊れたいわけじゃありません」


「なら」


「でも、今すぐ全部をやめるのも違う」


 誠司は赤い横線を指した。


「この線へ近づかずに仕事を続ける方法を探してください」


「簡単に言わないでください」


「簡単じゃないから、黒瀬さんに頼んでるんです」


 黒瀬は唇を噛んだ。


「勤務回数を減らす。接続時間を短くする。負荷の高い操作を分担する。何でもいい」


「その間も、あなたは端末へ座るつもりですか」


「今夜は」


 誠司は答えた。


「今夜だけでは済まなくなります」


「わかってます」


「わかっていません」


 黒瀬が立ち上がった。


 椅子の脚が床を擦る。


「あなたは、自分が倒れた後の数字を見ていない」


「倒れた後?」


「あなたが救えなくなる人数です」


 誠司は黙った。


「一回休めば、今夜救えない人が出るかもしれない。ですが、無理を続けてあなたが完全に壊れれば、その先で救えなくなる人数は、今夜の比ではありません」


 黒瀬はグラフを指した。


「これは、あなた一人の命を惜しんでいるだけではない。長く救い続けるために、今止まるべきだと言っているんです」


 その言葉に、誠司はすぐ返せなかった。


 目の前の一人を見落とさない。


 それだけを考えてきた。


 だが、明日の一人。


 一か月後の一人。


 一年後の一人。


 そこまで含めて考えなければ、本当に全員を見ていることにはならないのかもしれない。


 面談室の扉が、二度叩かれた。


 黒瀬が振り返る。


「誰ですか」


「天城です」


 若い声だった。


 誠司と黒瀬が顔を見合わせる。


 黒瀬が扉を開けると、天城蓮が立っていた。


 いつもの整った服装とは違い、シャツの襟は崩れ、髪も乱れている。片手には、何枚もの資料が握られていた。


「天城くん?」


 誠司が呼ぶ。


 蓮は部屋へ入り、黒瀬の前を通って、誠司の向かいに立った。


「佐藤さん」


「どうした」


「……あんたの操作ログ、また解析しました」


 蓮は資料を机へ置いた。


 一枚目には、二人の平均処理時間。


 誠司、六・五七分。


 蓮、三・一一分。


「俺の方が二・一倍速い。これは事実です」


「うん」


「検定しても差は消えない。条件を変えても、俺の方が速い」


 蓮は次の紙をめくった。


「でも、救助成功率は、あんたの方が四・二四ポイント高い」


 誠司は、紙に並んだ数字へ目を落とした。


「年間千人が潜るとして、約四十二人」


 蓮の声が震えた。


「俺のやり方だと、四十二人、多く死ぬ」


 誠司はすぐには答えなかった。


 蓮は唇を噛み、俯く。


「なんでですか」


「天城くん」


「なんで、遅い方が多く救えるんですか」


 握り締めた拳が震えている。


「俺はずっと、速く処理すれば、それだけ多く助けられると思ってた。迷わず切れば、残った人間を確実に救えるって」


 呼吸が浅くなる。


「そうしないと、また全員失うから」


 誠司は蓮の前にある資料を手に取った。


 しばらく眺めた後、小さく息を吐く。


「俺は、速く処理しようと思ってないからかな」


 蓮が顔を上げる。


「それじゃ、答えになってない」


「そうだな」


 誠司は困ったように眉を下げた。


「俺、統計とか、よくわからないから」


「その数字は、あんたの結果だ」


「うん。でも、数字を作ろうとしてやったわけじゃない」


 誠司は資料を机へ戻した。


「俺が見てるのは、そのとき画面に映ってる人だけだ」


「一人に時間をかければ、別の一人が遅れる」


「遅れる」


「なら、どうして」


「一人ずつ、確実に帰そうとしてるからだと思う」


 蓮の眉間に皺が寄る。


「全員を救おうとしたら、判断が遅れる」


「そうだな」


「迷って、手遅れになる」


「それもある」


「じゃあ、俺のやり方の方が正しいだろ」


 誠司は、静かに首を横へ振った。


「正しいかどうかは、俺にはわからない」


「なら」


「でも、取りこぼした人は、数字の外へ消える」


 蓮の呼吸が止まる。


「処理を終えた件数には入らない。救えた人数にも入らない。でも、その人にも名前がある」


 誠司の指が、四十二という数字の上へ置かれた。


「俺はたぶん、これが怖いんだ」


「怖い?」


「自分が見なかったことにした人が、どこかに残るのが」


 誠司は少しだけ笑った。


「だから遅い。迷う。何度も確認する」


「それで、結果的に四十二人多く救った?」


「たまたま、そうなっただけだよ」


「たまたまで、こんな差が出るわけない」


「じゃあ、積み重ねかな」


 蓮は何も言えなかった。


 黒瀬も、二人の間へ入らなかった。


「全員を救おうとすれば、効率は落ちる」


 誠司は続けた。


「でも、取りこぼしも減る」


 蓮の目が、数字へ落ちる。


「速く回すことばかり考えると、本当なら救えた人まで置いていくことがある。その差が、四十二人なんじゃないかな」


 蓮の肩が小さく揺れた。


「俺は……」


 言葉が喉につかえる。


「全員を救おうとして、全員失ったんです」


 誠司は黙って聞いた。


「だから、切ることを覚えた。助からない奴を捨てれば、残りは救えるって」


 蓮は歯を食いしばった。


「なのに、あんたは切らない方が多く救えるって証明した」


「俺が証明したんじゃない」


「あんたの結果が証明したんだ」


「なら」


 誠司は資料を蓮の方へ押し戻した。


「次は一緒に考えよう」


 蓮が顔を上げる。


「天城くんは、俺より速い。俺に見えないものを、きっと見つけられる」


「俺のやり方だと、人が死ぬ」


「俺のやり方でも死んだ」


 誠司の声が、わずかに沈んだ。


「間に合わなかった人がいる」


 面談室に、機械の低い振動だけが残った。


「だから、一人で正解を持ってる人なんていないんだと思う」


 誠司は蓮を見た。


「天城くんの速さと、俺の遅さ。両方使えば、今より減らせるかもしれない」


 蓮の唇が震えた。


「……俺を、責めないんですか」


「何を」


「切り捨ててきたことを」


「責めたら、その人たちが帰ってくるのか?」


 蓮は首を振った。


「なら、これからを考えよう」


 黒瀬が、机の上のもう一枚の資料を見た。


 五十一・二回目。


 あと十九回。


 誠司は自分に残された回数を知らされたばかりなのに、その時間を蓮へ渡そうとしている。


「佐藤さん」


 黒瀬が呼ぶ。


「はい」


「あなたの勤務を続けるとは、まだ認めていません」


「わかってます」


「天城さんとの分担で負荷が減る保証もない」


「それも、調べてもらえますか」


 あまりに自然に頼まれ、黒瀬は眉を寄せた。


「あなたという人は……」


 続きを言わず、資料を閉じる。


「次回から、接続時間、操作分担、身体負荷の変化をすべて記録します」


「ありがとうございます」


「ただし、数値が改善しなければ即時中止です」


「はい」


「返事だけでは信用しません」


「美咲にも話します」


 誠司がそう答えると、黒瀬の目がわずかに和らいだ。


 蓮は二人の会話を聞きながら、赤い横線を見つめていた。


「あと十九回って、何ですか」


 誠司と黒瀬が同時に黙った。


 蓮の視線が、回帰分析の結果へ移る。


 負荷指数。


 危険閾値。


 五十一・二回目。


 数字を読む速さだけは、誰よりも早かった。


「佐藤さん」


 蓮の顔から血の気が引く。


「あんた、あと十九回で壊れるんですか」


 誠司は、否定しなかった。


 蓮は自分の解析資料を見下ろした。


 四十二人。


 そして、十九回。


 自分が誠司のやり方を理解するまでに残された時間は、無限ではない。


 蓮は、震える指で二枚の資料を重ねた。


「だったら」


 声は小さかった。


 だが、迷いはなかった。


「俺が、あんたの時間を増やします」



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