第65話 家族という、急所
白瀬亮は、報告書を最後まで読まずに閉じた。
窓の外では、午後の光が高層ビルの硝子に反射していた。雲は薄く、空はよく晴れている。地上を歩く人々の影が、ビルの足元で短く伸びていた。遠くでは車列がゆっくり動き、信号が変わるたびに、街全体が規則正しく息をしているように見える。
その穏やかさが、白瀬には少し退屈だった。
机の上には、天城蓮の処理ログが並んでいる。
H四区画、四名生還。
G二区画、二名即時退避、一名重傷。
結果だけ見れば、十分だった。佐藤誠司は傷ついた。初めて、自分の信じてきたものの足元に穴が開く感覚を知った。天城蓮も、対抗管理者としての役割を果たした。
だが、白瀬の目は、別の箇所で止まっていた。
通信ログ。
佐藤さん。
Hの四人を帰してくれて、ありがとう。
その一文を見た時、白瀬の口元から笑みが消えた。
天城蓮は、揺らいでいる。
効率を武器にして、佐藤誠司の思想を折るはずだった。実際、誠司は折れかけた。だが、折れた先で、蓮まで巻き込まれかけている。敵対者として投入した若い管理者が、対象に情を移し始めている。
白瀬は椅子の背にもたれた。
革の椅子が、わずかに軋む。
「天城くんは優秀だ」
誰もいない室内で、白瀬は静かに言った。
声は窓ガラスに吸われ、すぐに消えた。
「だが、若い」
机の端に置かれたタブレットを指で滑らせる。
画面には、佐藤誠司の周辺情報が表示された。勤務先、過去の評価、減給処分、アマテラス関連の保護措置、家族構成。
妻、佐藤美咲。
長女、陽菜。
長男、湊。
白瀬の指が、そこで止まった。
人間は、理屈では折れないことがある。
正論をぶつけても、失敗を見せても、傷を負わせても、それでも立ち上がる者がいる。佐藤誠司は、まさにそういう種類の人間だった。会社で無能扱いされ、減給され、国家級ダンジョンの管理者に巻き込まれ、初めて救いきれない夜を迎えても、まだ立とうとしている。
ならば、本人を折る必要はない。
本人が守ろうとしているものに、手を伸ばせばいい。
白瀬は、ゆっくり息を吐いた。
「人間の一番の弱点は、守るべきものだ」
その声には、怒りも興奮もなかった。
ただ、事実を確認するだけの冷たさがあった。
白瀬はタブレットを閉じ、机の引き出しから一枚の封筒を取り出した。白い、何の変哲もない封筒だった。宛名はない。厚みもない。中身を知らなければ、ただの事務書類にしか見えない。
指先で封筒の角を整える。
きれいに揃った紙の縁が、蛍光灯の光を細く返した。
「佐藤さん」
白瀬は薄く微笑んだ。
「あなたは、どこまで耐えられるでしょうね」
その日の夕方、美咲は陽菜の学校近くにいた。
空は晴れていたが、風にはまだ昨日の雨の匂いが残っていた。校門前の植え込みでは、濡れた葉が夕陽を受けて小さく光っている。風が吹くたび、細い枝がかすかに揺れ、葉の先に残った水滴が地面へ落ちた。
美咲は、買い物袋を片手に持っていた。
袋の中では、牛乳パックと野菜の袋が触れ合い、歩くたびに小さく音を立てる。もう片方の手にはスマホ。画面には、陽菜からの短いメッセージが表示されていた。
『今日、委員会で少し遅くなる』
その文面の下に、猫のスタンプがある。
いつもなら、それだけで少し笑えた。
けれど最近の美咲は、笑う前に周囲を見る癖がついてしまっていた。校門の前、横断歩道の向こう、電柱の影、停まっている車。怪しいものがないか、誰かがこちらを見ていないか。
自分でも神経質だと思う。
でも、もう何も知らなかった頃には戻れない。
誠司が、ただの深夜バイトをしているわけではないこと。危険なものに関わり、国の人間に監視され、それでも誰かを帰すために画面の向こうと向き合っていること。美咲は知っている。
知っているからこそ、日常の風景が少しずつ違って見えるようになった。
学校帰りの子どもたちの声。
ランドセルの揺れる音。
校庭の砂が風に巻かれて、アスファルトの端に薄く溜まる様子。
すべてが、守られているものに見えた。
スマホが震えた。
美咲は、陽菜からの返信かと思って画面を見た。
非通知。
胸の奥が、わずかに冷えた。
出ない方がいい。
そう思った。
けれど、指は画面の上で止まったまま動かなかった。非通知の文字が、淡く光っている。周囲では子どもたちが笑い、母親同士が挨拶を交わしている。その普通の明るさの中で、スマホの震えだけが異物のようだった。
美咲は通話ボタンを押した。
「……はい」
向こうは、しばらく無言だった。
車の走る音も、人の声も聞こえない。無音に近い沈黙が、耳に貼りつく。美咲は無意識に買い物袋を握りしめた。ビニールが小さく鳴る。
『佐藤美咲さんですね』
男の声だった。
平坦で、年齢が分かりにくい声。
「どちら様ですか」
『ご主人は、今日も大変なお仕事でしょう』
美咲の背筋が凍った。
夕方の風が頬を撫でたはずなのに、肌の上だけ温度が消えた。校門前のざわめきが遠くなる。ランドセルを背負った子どもが数人、目の前を駆けていった。靴音が軽く弾む。その明るい音が、ひどく遠く聞こえた。
「……何の話ですか」
『知らないふりは、お上手ではありませんね』
男は笑わなかった。
笑わない声の方が、ずっと怖かった。
『陽菜さん、今日は委員会ですか。赤い髪留めがよくお似合いですね』
美咲は息を止めた。
視線が、校門へ走る。
まだ陽菜の姿はない。
けれど、赤い髪留め。
今朝、美咲がつけ直してやったものだった。鏡の前で陽菜が「ちょっと曲がってる」と文句を言い、湊が横から「似合ってるよ」と茶化して、陽菜が怒った。そんな、いつもの朝。
それを、この男は知っている。
「あなた、どこにいるの」
声が震えそうになるのを、必死に押さえた。
『近くにはいませんよ』
「嘘」
『本当です。今、直接何かをするつもりはありません』
今。
その言葉が、耳の奥に残った。
『ただ、お伝えしたかっただけです。ご主人の選択は、ご家族にも届くことがある、と』
「……誰なんですか」
『ご主人に聞けば、心当たりがおありでしょう』
通話が切れた。
耳に残った無音が、すぐには消えなかった。
美咲はスマホを握ったまま、立ち尽くした。
指先が冷たい。
膝が少し震えている。けれど、ここで崩れるわけにはいかなかった。校門の向こうから、子どもたちがまた出てくる。ランドセルの揺れる列。先生の声。夕陽に照らされた校舎の窓。
その中に、陽菜がいた。
赤い髪留め。
友達と話しながら、少し頬を膨らませている。何か不満を言っている顔だ。いつも通りだった。何も知らない顔。守られていることにも、狙われたことにも気づいていない顔。
美咲の胸が、痛いほど締めつけられた。
「お母さん?」
陽菜が気づき、駆け寄ってくる。
靴音が、乾いたアスファルトに軽く響く。髪留めが夕陽を受け、小さく赤く光った。
「どうしたの? 顔、白いよ」
美咲は、とっさに笑った。
うまく笑えたかどうかは分からなかった。
「少し、風が冷たかっただけ」
「えー、そんな寒くないよ」
「そうね」
美咲は陽菜の肩に手を置いた。
その体温が、掌に伝わる。
温かい。
生きている。
何も知らず、今日の学校の話をしようとしている。委員会で誰が何を忘れたとか、先生が少し困っていたとか、友達と帰りに寄り道したかったとか。そんな小さな話が、今は何よりも尊く思えた。
美咲は、陽菜の肩に置いた手に少しだけ力を込めた。
「今日は、まっすぐ帰ろう」
「うん? 買い物は?」
「もう済ませたから」
「じゃあ湊のおやつ買った?」
「買ったわよ」
陽菜が安心したように笑う。
その笑顔を見た瞬間、美咲の目の奥が熱くなった。泣いてはいけない。ここで泣けば、陽菜が気づく。だから、美咲は空を見上げた。
夕陽が、校舎の屋上の縁に沈みかけている。
薄い雲が淡い橙色に染まり、風に流されてゆっくり形を変えていた。目を閉じれば、普通の一日の終わりにしか見えない。けれど、美咲の胸の中では、もう何かが変わっていた。
ついに、この日が来た。
あの人の仕事が、家族に牙を剥く日が。
美咲は、陽菜の手を取った。
小学生の頃より少し大きくなった手。けれど、まだ母親の手の中に収まる温かさがある。
守らなければならない。
誠司だけに背負わせてはいけない。
美咲は、家へ向かって歩き出した。
濡れた道の端には、昨日の雨がまだ小さな水たまりを残している。夕陽がその表面に映り、足を踏み出すたびに、光が細かく揺れた。陽菜の靴音が隣で弾む。買い物袋が擦れる音。遠くで鳴る自転車のベル。いつもの帰り道の音が、今は一つ一つ、失いたくないものの音に聞こえた。
スマホが、もう一度震えた。
美咲は足を止めなかった。
画面だけを見る。
知らない番号から、一枚の画像が届いていた。
校門前に立つ、美咲と陽菜の後ろ姿。
撮影時刻は、数分前。
美咲はスマホを伏せた。
喉の奥がひゅっと狭くなる。
陽菜が不思議そうに見上げた。
「お母さん?」
美咲は、握った手を離さなかった。
「大丈夫」
今度は、自分に言い聞かせるためではなく、陽菜に渡すために言った。
「大丈夫だから、帰ろう」
陽菜は少し首を傾げたが、何も聞かなかった。
家までの道が、いつもより長く感じた。
角を曲がるたびに、背後を確認したくなる。停まっている車の窓に、人影がないか見てしまう。電柱の影、路地の奥、マンションの階段。どこにも、それらしい人物はいない。
いないことが、逆に怖かった。
家の玄関を開けると、湊が廊下に出てきた。
「おかえり! おやつは?」
何も知らない声。
美咲は靴を脱ぎながら、湊の頭を撫でた。
「あるわよ。手を洗ってからね」
「やった」
湊が走って洗面所へ向かう。
陽菜が「走らない」と言いながら後を追った。
その声を聞きながら、美咲は玄関に立ったまま、ゆっくり息を吐いた。家の中は、いつもの匂いがした。洗剤の匂い。朝に炊いたご飯の残り香。子どもたちの靴の匂い。何でもない生活の匂い。
ここを守る。
そう思った。
美咲はリビングに入り、カーテンをそっと閉めた。
布がレールを滑る音が、部屋に細く響く。外の夕陽が遮られ、室内が少し暗くなった。子どもたちはまだ洗面所で騒いでいる。水の跳ねる音と、陽菜の注意する声が聞こえる。
美咲はスマホを握り直した。
誠司に連絡するべきか。
迷いは一瞬だった。
隠してはいけない。
彼を心配させたくないからと黙れば、それは一人で抱え込むのと同じだ。誠司が何度も一人で背負おうとしてきたものを、今度は自分が繰り返すことになる。
美咲は、通話履歴から誠司の番号を選んだ。
呼び出し音が鳴る。
一回。
二回。
三回。
その間、リビングの時計の秒針がやけに大きく聞こえた。冷蔵庫の低い音。水道の音。子どもたちの笑い声。その全部が、薄い膜の向こうにあるようだった。
『もしもし、美咲?』
誠司の声が聞こえた。
疲れている。
それでも、家族からの電話だと分かった瞬間に少し柔らかくなる、いつもの声だった。
美咲の胸が締めつけられる。
「誠司さん」
『どうした? 何かあった?』
その問いに、美咲は目を閉じた。
怖い。
怖いけれど、逃げない。
目を開けると、テーブルの上に湊の宿題プリントが広がっていた。陽菜のヘアゴムが一つ、ソファの端に落ちている。今朝まで何でもなかったものが、今は守るべき場所の印のように見えた。
「今日、少し話したいことがあるの」
声は震えていた。
でも、言えた。
「たぶん——あなたの敵が、わたしたちに近づいてる」
誠司は、しばらく返事ができなかった。
耳に当てたスマホの向こうで、美咲の呼吸が聞こえている。浅く、けれど必死に整えようとしている呼吸だった。
誠司は会社の非常階段にいた。
夕方の勤務を終え、アマテラスへ向かう前に少しだけ外の空気を吸おうとしていた。階段の踊り場には、古いコンクリートの匂いがこもっている。非常灯の赤い光が壁を鈍く照らし、足元には細い埃が溜まっていた。
外では車の音がしている。
誰かの笑い声も、遠くから聞こえる。
いつも通りの街の音。
その全部が、一瞬で遠ざかった。
「……美咲」
声が、低くなった。
「陽菜と湊は」
『大丈夫。二人は何も気づいてない。今、手を洗って、おやつのことで喧嘩してる』
いつもの光景のはずだった。
その言葉に少しだけ安心して、同時に、胸の奥が焼けるように痛んだ。
「何があった」
美咲は、電話の内容を一つずつ話した。
非通知の声。
陽菜の赤い髪留め。
校門前で撮られた写真。
ご主人の選択は、ご家族にも届くことがある、という言葉。
誠司は、踊り場の手すりを握った。
金属の冷たさが掌に食い込む。強く握りすぎて、指の関節が白く浮いた。胸の奥で何かが静かに沈み、それから、ゆっくり熱を持ち始める。
怒鳴りたいほどの怒りではなかった。
もっと深い。
声にならないほど、冷たい怒りだった。
「写真は消さないで」
『うん』
「非通知の履歴も、そのまま残して。三神さんと玲奈さんに共有する。美咲、今すぐ玄関と窓の鍵を全部確認して。カーテンは閉めた?」
『閉めた』
「陽菜と湊には、まだ何も言わなくていい。怖がらせたくない」
『分かってる』
美咲の声は震えていた。
だが、崩れてはいなかった。
誠司は、そのことに気づいた。彼女は怯えている。怖いに決まっている。それでも、自分一人で抱え込まず、ちゃんと伝えてきた。
その強さが、痛いほどありがたかった。
「今から帰る」
『誠司さん、アマテラスは』
「帰る」
迷わなかった。
「家を確認してから、行く」
電話の向こうで、美咲が小さく息を飲んだ。
『ごめんなさい。仕事中に』
「謝らないでくれ」
誠司は、目を閉じた。
瞼の裏に、家の玄関が浮かぶ。湊の脱ぎ散らかした靴。陽菜の少し大人びたスニーカー。美咲が朝、急いで整えた傘立て。何でもない暮らしの欠片。
そこに、誰かの手が伸びた。
その想像だけで、息が詰まった。
「俺は、何を言われても耐える」
声は静かだった。
非常階段のコンクリートに、低く響いた。
「会社で何を言われても、減給されても、危険な目に遭っても、初めて人を救えなかった夜も……耐えてきた。耐えるしかないと思ってた」
手すりを握る力が強くなる。
掌が痛い。
それでも離せなかった。
「でも、家族にだけは触れさせない」
言葉にした瞬間、胸の奥で何かが決まった。
「絶対に」
美咲は、すぐには返事をしなかった。
電話の向こうで、湊の声が聞こえた。
『お母さーん、これ食べていい?』
『一個だけね』
美咲が少し離れて答える声。
その何気ないやり取りが、誠司の怒りをさらに深い場所へ沈めた。
守る。
世界を救うとか、国家級ダンジョンを管理するとか、そんな大きな言葉の前に。
この声を守る。
この家を守る。
それだけは、誰にも譲らない。
家に着いた頃、空は藍色に沈み始めていた。
マンションの通路には、夕飯の匂いが混じっていた。どこかの部屋から焼き魚の匂いがして、別の部屋から子どもの笑い声が漏れている。蛍光灯の白い光が、廊下の床に長く伸びていた。
誠司は周囲を確認しながら歩いた。
エレベーター前。
非常階段。
郵便受け。
見慣れた景色の一つ一つが、いつもより暗い影を持って見える。誰もいないはずの角を曲がる時、背中の奥が硬くなった。鍵を差し込む指先に、まだわずかに汗が残っていた。
ドアを開ける。
「ただいま」
湊が真っ先に走ってきた。
「お父さん、早い!」
その声に、誠司は胸を突かれた。
湊は何も知らない。嬉しそうに笑い、手に持ったお菓子の袋を見せてくる。陽菜はリビングの入口から顔を出し、「おかえり」と少し不思議そうに言った。赤い髪留めは、まだついている。
誠司は、一瞬だけ動けなかった。
失いたくないものが、目の前にありすぎた。
「……ただいま」
もう一度言って、湊の頭を撫でた。
美咲はキッチンの前に立っていた。
顔色はまだ白い。けれど、目は逃げていなかった。誠司と視線が合うと、小さく頷いた。
「陽菜、湊。少しだけお父さんとお母さんで話すから、二人で宿題見ててくれる?」
「えー」
湊が不満そうな声を上げる。
陽菜が肩をすくめた。
「湊、先に漢字やっちゃいなよ。あとでゲームするなら」
「分かったよ」
二人の足音が子ども部屋へ向かう。
ドアが閉まる音。
その音が、誠司には妙に重く聞こえた。
リビングに残った二人は、しばらく何も言わなかった。
カーテンは閉まっている。外の光は遮られ、部屋の照明だけがテーブルの上を照らしていた。湊の宿題プリント、陽菜のヘアゴム、飲みかけの麦茶。生活の小さなものが、いつも通りそこにある。
美咲がスマホを差し出した。
「これ」
画面には、校門前の写真が表示されていた。
美咲と陽菜の後ろ姿。
夕陽。
赤い髪留め。
誠司は、唇を結んだ。
怒りで画面を割りそうになり、寸前で手を止めた。これは証拠だ。壊してはいけない。感情のままに動けば、相手の思うつぼだ。
誠司は深く息を吸った。
「三神さんに送る。玲奈さんにも」
「うん」
「しばらく、子どもたちの登下校は一人にしない。学校にも、それとなく相談する。理由は全部言わなくていい。防犯上の懸念があるって形にする」
「分かった」
「美咲も、一人で外に出ないでほしい。買い物はネットでもいいし、俺が行く」
美咲は、そこで首を振った。
静かな動きだった。
誠司は言葉を止めた。
「誠司さん」
美咲は、テーブルの向こうから誠司を見た。
「一人で抱え込まないで」
その言葉は、責めるものではなかった。
けれど、誠司の胸の奥にまっすぐ届いた。
「わたしも怖い。正直、今も手が震えてる」
美咲は自分の指先を見下ろした。
確かに、わずかに震えていた。
「でも、怖いから何もしないんじゃなくて、怖いからこそ、ちゃんと見る。鍵を確認する。子どもたちの予定を把握する。変なことがあれば記録する。あなたに伝える。三神さんたちにも繋ぐ」
声は震えていた。
それでも、言葉は折れなかった。
「わたしも、戦う。この家族を守るために」
誠司は、美咲を見つめた。
守らなければならないと思っていた。
自分が前に立って、危険を全部遮らなければならないと思っていた。
けれど美咲は、後ろに隠れるつもりなどなかった。
誠司の隣に立とうとしている。
「あなたが誰かを帰すなら」
美咲は、テーブル越しに手を伸ばした。
「わたしは、あなたが帰る場所を守る」
誠司は、その手を見た。
家事で少し荒れた指先。
子どもたちの服を畳み、弁当を作り、何度も玄関の鍵を閉めてきた手。
その手が、今、震えながらも差し出されている。
誠司は、ゆっくり自分の手を重ねた。
美咲の手は温かかった。
その温度に触れた瞬間、胸の奥にあった冷たい怒りが、形を変えた。燃え上がる怒りではない。すぐに消える火ではない。もっと低く、深く、長く残る熱。
「美咲」
「うん」
「俺は、今までずっと、向こうから来るものに対応してきた」
誠司は静かに言った。
「異常が起きたら止める。誰かが閉じ込められたら逃がす。白瀬が何かしても、こっちは受けるだけだった」
重ねた手に、少しだけ力を込める。
「でも、もう終わりにする」
美咲の目が揺れた。
「家族に手を出した相手を、放っておかない。白瀬が何を考えて、何を仕掛けているのか、こっちから突き止める」
静かな言葉だった。
だが、そこには今までの誠司にはなかった硬さがあった。
「俺は、敵を倒すために動く」
美咲は目を伏せなかった。
怖いはずなのに、逃げなかった。
「うん」
短く、そう答えた。
子ども部屋から、湊の声が聞こえた。
「お姉ちゃん、この漢字なに?」
「それ昨日も聞いた」
「忘れたんだよ」
いつもの会話。
何でもない日常の音。
誠司と美咲は、手を重ねたまま、その声を聞いていた。
守るべきものは、遠くにある大きなものだけではない。
隣の部屋で漢字を忘れている息子。
少し呆れながら教える娘。
震えながらも隣に立つ妻。
その全部が、誠司の戦う理由だった。
その夜、誠司は管理室に戻った。
地下へ続く階段は、いつもより暗く感じた。非常灯の緑が壁を照らし、足元に細い影を落としている。靴音が一段ごとに響き、深い場所へ降りるほど、外の生活音は遠ざかっていった。
だが、今夜の誠司は一人ではなかった。
ポケットには、美咲から送られた写真のデータがある。
胸の中には、重ねた手の温度が残っている。
管理室の扉を開けると、端末の青い光が迎えた。
『誠司』
コトリの声。
「コトリ」
『はい』
「白瀬亮について、これまでの接触記録、関連ログ、家族周辺の不審情報。全部、時系列で整理してくれ」
少しの間。
それから、コトリが答えた。
『了解しました』
画面が切り替わる。
白瀬の名前が、青い光の中に浮かび上がった。
誠司は椅子に座らず、端末の前に立ったまま、その文字を見つめた。
これまでは、ただ帰したかった。
誰かを、家へ。
今夜からは違う。
帰る場所を壊そうとする手を、止めに行く。
端末の奥で、アマテラスの光点が静かに瞬いていた。
その向こう側で、白瀬亮が何を思っているのかは分からない。
だが、誠司の中では、もう答えが出ていた。
家族にだけは、触れさせない。
その一線を越えた相手に、もう遠慮はしない。




