第64話 迷う資格
朝の光は、地下の休憩室までは届かなかった。
壁際に並んだ蛍光灯が、白く乾いた光を落としている。長机の上には、誰かが飲み残した紙コップが一つ置かれ、冷えたコーヒーの匂いだけが薄く残っていた。換気口から流れる空気は一定で、温度も音も変わらない。それなのに、その部屋だけが、夜の続きに取り残されているようだった。
誠司は、ベンチに座っていた。
背中を丸め、両手を膝の上に置いている。掌には、まだ端末の感触が残っていた。汗で滑った画面の縁。赤い警告。栗原拓海の名前。重傷判定の二文字。
目を閉じると、ミナの声が戻ってくる。
拓海くん。
呼び止める声。
置いていけないと叫ぶ声。
誠司はゆっくり目を開けた。休憩室の床は、古い病院の廊下のような淡い灰色をしている。靴の先に、小さな砂粒がついていた。アマテラスの通路から持ち帰ったものかもしれない。直接、現場にいたわけではないのに、砂埃だけがこちらへ届いたような気がした。
扉が開く音がした。
誠司は顔を上げなかった。
「佐藤さん」
柴田の声だった。
いつもなら少し乱暴に聞こえるその声が、今朝は低く抑えられていた。柴田は何も言わず、自販機で買った缶コーヒーを一本、誠司の隣に置いた。金属の缶がベンチに触れ、かすかな音を立てる。
温かい缶だった。
白い湯気は立たない。けれど、すぐそばにあるだけで、冷えた空気の中に小さな熱が生まれた。
誠司は、それに手を伸ばせなかった。
「……柴田さん」
「はい」
「俺、間違ってたんですかね」
声は、自分でも驚くほど小さかった。
柴田は答えなかった。
ただ、誠司の斜め前に立ったまま、壁の時計を一度見上げた。秒針が進む音が、休憩室の中でやけに大きく聞こえた。
「全員を帰すなんて、ただの綺麗事だったのかな」
誠司は膝の上で指を握った。
爪が掌に食い込む。
「選べなかったんです。G区画か、H区画か。三人か、四人か。分かってたんです。どちらかしか開けないって。蓮はすぐに分かってた。なのに俺は……」
言葉が詰まった。
胸の奥に、昨夜の赤い光がまだ残っている。
「迷ったせいで、一人、救えなかった」
柴田は、しばらく黙っていた。
その沈黙は、慰めを探すための間ではなかった。何かを簡単に言葉で覆わないための沈黙だった。空調の音、蛍光灯の微かな震え、遠くの廊下を誰かが歩く靴音。その全部が通り過ぎても、柴田は急がなかった。
やがて、彼は缶コーヒーを指先で少しだけ押した。
誠司の方へ。
「冷めますよ」
それだけだった。
責めない。
励まさない。
正しいとも、間違っていないとも言わない。
ただ、そこに置かれた温かい缶が、今も手を伸ばせる場所にあることだけを示していた。
誠司は缶を見た。
手を伸ばそうとして、また止まる。
受け取る資格がないような気がした。
その時、休憩室の外が少し騒がしくなった。
複数の足音が近づいてくる。急いでいるが、走ってはいない。扉の前で一度止まり、短い躊躇のあと、ノックがあった。
「佐藤さん、入ってもいいですか」
玲奈の声だった。
誠司は顔を上げた。
扉が開く。
玲奈が立っていた。目元に疲れが残っている。夜通し何かを確認していたのだろう。髪はきちんとまとめられているが、頬の色は少し薄い。その後ろに、藤原と犬飼がいた。
犬飼はいつもの勢いを押し殺しているようで、両手を体の横に固く下ろしていた。藤原は小さく会釈し、誠司の顔を見ると、唇を結んだ。
「……皆さん」
誠司は立ち上がろうとした。
玲奈が首を振る。
「そのままで」
柔らかい声だったが、逃がさない強さがあった。
三人は休憩室に入ってきた。
誰もすぐには話さなかった。長机の向こうに立ち、誠司の前に並ぶ。まるで、責めるためではなく、崩れそうなものの前に立って風を遮るように。
藤原が最初に口を開いた。
「栗原拓海さん、搬送先で処置に入っています」
誠司の喉が動いた。
「……容体は」
「重傷です。でも、命は繋がっています。意識はまだはっきりしていません。ただ、医師からは、救助が数分遅れていたら危なかったと」
誠司は目を伏せた。
助かった。
その言葉を、喜んでいいのか分からなかった。
犬飼が一歩前に出た。
「親父」
その呼び方に、いつものような勢いはなかった。
でも、声は真っ直ぐだった。
「俺、昨日のログ見ました」
「犬飼くん」
「見ました。勝手にすみません。でも、どうしても見たかった」
犬飼は拳を握っていた。
爪が食い込むほど強く。
「九人中、八人が助かった。拓海さんも生きてる。普通なら、あれは……すごいことなんだと思います」
「普通なら、な」
誠司は低く言った。
「でも、拓海さんは重傷だ」
「はい」
犬飼は逃げなかった。
「それは消えないです」
その言葉に、誠司は顔を上げた。
犬飼の目は赤かった。怒っているのではない。泣いたのを無理に押し込めた目だった。
「でも、親父が最初から効率だけで動く人だったら、俺、とっくに死んでます」
休憩室の空気が、わずかに揺れた。
「俺があの時助かったのは、親父が『こいつ一人だから後でいい』ってしなかったからです。怖がってる俺の声を拾って、こっち向いてくれたからです」
犬飼は唇を噛んだ。
「だから、昨日のことで、あんたのやり方が全部間違ってたみたいに言わないでください」
誠司は何も言えなかった。
胸の奥に、別の痛みが生まれる。
責められるより、つらかった。
藤原が静かに続けた。
「佐藤さん。前にも、あなたに言いましたよね」
誠司は藤原を見た。
藤原の声は、あの日と同じだった。揺れそうな人の前で、無理に強くも、優しくもなりすぎない声。
「自分を責めないで、と」
その言葉を聞いた瞬間、誠司の指がわずかに震えた。
「あの時も、あなたは自分の遅れを責めていました。でも、私は今も同じことを言います。あなたは、できる限りのことをした」
「でも」
「はい」
藤原は、遮らずに頷いた。
「それでも、一人が重傷を負った。その事実は残ります」
柔らかいだけの慰めではなかった。
だから、誠司は逃げられなかった。
玲奈が一歩前に出た。
休憩室の蛍光灯が、彼女の横顔を白く照らしている。瞳の奥に、疲労と、怒りと、祈りのようなものが重なっていた。
「佐藤さん」
「……はい」
「あなたが迷ったのは、一人も見捨てたくなかったからです」
誠司は唇を結んだ。
「それは、弱さですか」
玲奈の問いに、すぐ答えられなかった。
弱さだ。
そう思っていた。
選べないことは、弱さだ。
管理者として、迷ってはいけなかった。
そうでなければ、次もまた遅れる。
玲奈は、誠司の沈黙を待ってから言った。
「私は、そうは思いません」
声は静かだった。
「迷うのは、一人一人を人として見ているからです。数字だけで見ていたら、迷わずに済む。けれど、あなたは知ってしまった。光点の向こうに、名前があることを」
誠司の喉が熱くなった。
玲奈の言葉は、昨夜の赤い画面を消してはくれない。
でも、その赤の中に、別の色を置こうとしていた。
「ただし」
玲奈の声が、少しだけ厳しくなる。
「栗原さんの重傷を、なかったことにはしないでください」
誠司は、息を止めた。
「忘れろとは言いません。むしろ、背負ってください。一生」
休憩室の中が、深く静まった。
その沈黙は、先ほどより重かった。蛍光灯の音さえ遠くなり、壁の時計の秒針だけが一つずつ落ちていくように聞こえる。
玲奈は、まっすぐ誠司を見ていた。
「でも、その重さを背負えるあなただから、私たちは、あなたを信じるんです」
誠司は目を伏せた。
胸の奥で、何かが崩れた。
それは、楽になるための崩れ方ではなかった。泣いて終わるようなものでもなかった。ただ、固く固く握りしめていた自分への罰が、少しだけ形を変えた気がした。
背負う。
消さない。
それでも、次の誰かに手を伸ばす。
そんなことが、自分にできるのか。
まだ分からなかった。
藤原が、小さな端末を取り出した。
「栗原さんからではありません。まだ話せる状態ではないので。でも、救護班を通じて、ご家族と、ミナさんたちから伝言があります」
誠司の肩が、わずかに強張った。
聞くのが怖かった。
責められる方が、まだ楽かもしれないと思った。
藤原は画面を見ずに、覚えてきた言葉をそのまま置くように言った。
「管理者さんのせいじゃない。あの状況で、九人のうち八人が歩いて戻って、拓海も生きている。それは、普通なら起きなかったことです」
誠司の目の奥が熱くなる。
藤原の声は震えなかった。
「だから、ありがとうございました。拓海が目を覚ましたら、ちゃんと本人から言わせます」
誠司は、ようやく缶コーヒーに手を伸ばした。
温かさが掌に移る。
その熱は、ひどく小さかった。
けれど、確かにそこにあった。
缶のプルタブを開ける音が、休憩室に小さく響いた。
誠司は一口だけ飲んだ。甘さと苦さが、冷えた喉にゆっくり落ちていく。味はよく分からなかった。ただ、温かいものが体の中へ入っていく感覚だけが、現実の輪郭を少しだけ戻してくれた。
「……ありがとう、ございます」
誰に向けた言葉なのか、自分でもはっきりしなかった。
藤原は静かに頷いた。
犬飼は目元を乱暴に擦り、玲奈は何も言わず、誠司の前に立っていた。柴田は壁際で腕を組み、視線だけを少し逸らしている。
その沈黙は、もう責めるものではなかった。
答えを急がせるものでもない。
ただ、そこにいるための沈黙だった。
「俺は」
誠司は缶を両手で包んだ。
熱が掌に染み込む。指の震えは、まだ完全には止まっていない。
「俺は、また迷うと思います」
玲奈が、わずかに目を細めた。
「次も、選べないかもしれない。怖くなって、手が止まるかもしれない。昨日みたいに、誰かを傷つけるかもしれない」
言葉にするたび、胸の奥が軋んだ。
それでも、言わなければ先へ進めない気がした。
「それでも……画面の光を、ただの数には戻せません」
犬飼が息を飲んだ。
誠司は、缶コーヒーを見つめたまま続けた。
「栗原さんのことは、忘れません。忘れたくない。俺が迷ったことも、遅れたことも、全部持っていきます」
声は小さかった。
だが、休憩室の隅まで届いた。
「そのうえで、次も帰したいです」
誰も、すぐには答えなかった。
蛍光灯が低く唸る。
遠くの廊下で台車の車輪が鳴り、すぐに遠ざかっていった。外の世界は動いている。救えた人も、傷ついた人も、まだ帰れない人もいる。その全部を止めることはできない。
玲奈が、ゆっくり息を吐いた。
「それでいいと思います」
短い言葉だった。
でも、誠司には十分だった。
犬飼が鼻をすすり、無理に笑おうとして失敗した顔になった。
「親父、次も俺、手伝います。俺にできること、何でも」
「ありがとう」
「あと、缶コーヒーはちゃんと飲んでください。柴田さん、たぶんそれ、照れ隠しで買ってるんで」
「犬飼」
柴田の声が低く飛んだ。
犬飼は肩をすくめたが、笑いにはならなかった。今は、それでよかった。無理に明るくする必要はない。ただ、少しだけ息ができる。それだけで十分だった。
誠司は、もう一口飲んだ。
苦さが、さっきより少しだけ分かった。
蓮は、廊下の曲がり角に立っていた。
休憩室の扉は、完全には閉まっていなかった。中の声は、途切れ途切れに届いていた。聞くつもりはなかった。そう自分に言い聞かせながら、足は動かなかった。
佐藤誠司は、責められていなかった。
むしろ、支えられていた。
救えなかった一人を前にして、崩れそうになって、それでも周りの人間が手を伸ばしていた。
蓮は壁にもたれた。
白い壁は冷たかった。背中越しに、その冷たさがシャツを通って伝わる。廊下の床は磨かれていて、蛍光灯の光をぼんやり反射している。人の気配は少ない。遠くの自動ドアが開閉する音だけが、時間を刻むように響いていた。
「あんたは、なんでまだ立てるんだよ」
誰にも聞こえない声で呟いた。
蓮は目を閉じた。
すると、別の景色が戻ってきた。
熱い夏の日だった。
中学三年の終わり。街外れの複合施設で起きた、局所的な地下崩落。正式な報道では、老朽化した地下設備の事故ということになっている。だが、蓮は知っていた。あれは、普通の事故ではなかった。
地下へ続く避難通路。
非常灯の赤。
焦げた金属の匂い。
泣き叫ぶ子どもの声。
蓮は、その場にいた。
偶然だった。母と、妹と、買い物に来ていた。人が流れ、床が揺れ、悲鳴が天井へぶつかった。気づいた時には、通路の一部が崩れ、何人もの人間が閉じ込められていた。
その時の蓮には、まだ力があったわけではない。
ただ、異常の流れが見えた。
どの壁が先に落ちるか。どの通路が残るか。どちらへ逃げれば、まだ助かるか。頭の中に、線が浮かんだ。誰よりも早く、危険の形が分かった。
だから、叫んだ。
こっちだ、と。
全員こっちへ来い、と。
母が妹を抱え、知らない老人が杖をつき、若い女性が泣く子どもの手を引いていた。蓮は全員を見た。全員を逃がそうとした。誰も置いていきたくなかった。
そのせいで、止まった。
老人を待った。
転んだ子どもを起こした。
母に先に行けと叫ばれたのに、妹の手を離せなかった。
通路の奥で、支柱が折れる音がした。
今でも覚えている。
乾いた木が割れるような音ではなかった。
もっと低く、腹の底に響く音だった。巨大なものが、もう支えきれないと諦める音。
次の瞬間、世界が白くなった。
粉塵。
叫び声。
母の手。
妹の泣き声。
全部が、一つずつ遠ざかっていった。
救急隊が蓮を見つけた時、生きていたのは蓮だけだった。
全員を救おうとした。
その結果、全員を失った。
それから蓮は決めた。
迷わない。
待たない。
数える。
救える方を救う。
ひとりを待って全員を落とすくらいなら、ひとりを切ってでも残りを帰す。
そうしなければ、あの日の自分を許せなかった。
蓮は目を開けた。
廊下の白い光が、視界に戻る。
休憩室の中から、誠司の声が聞こえた。
次も帰したいです。
蓮は唇を噛んだ。
腹の底に、説明のつかない苛立ちが湧く。
甘い。
遅い。
危ない。
そう切り捨てたいのに、できなかった。
誠司は昨日、救えなかった一人を前に折れかけた。それでも、自分の言葉で立とうとしている。忘れないと言った。背負うと言った。そのうえで、次も手を伸ばすと言った。
蓮には、それが分からなかった。
分からないのに、目を逸らせなかった。
「あんたは……救えなかった一人を背負って、それでも、また全員を帰すって言うのか」
声は、喉の奥で消えた。
蓮は、自分の掌を見下ろした。
昨日、H四区画を開いた手。
四人を救った手。
そして、G二区画の最後尾を画面の中に残した手。
正しかった。
そう言い聞かせるほど、胸の奥の重さが増す。
「俺には、できなかった」
母の声が、遠くで呼んだ気がした。
妹の小さな手の感触が、指に戻る。
蓮は拳を握った。
「だから、逃げた。効率に」
認めた瞬間、胸の奥にひびが入った。
今まで固く凍らせていたものの表面に、細い線が走る。そこから痛みが漏れてくる。忘れたかった痛み。数字に変えて、計算に沈めて、見ないようにしてきたもの。
佐藤誠司は、それを見ている。
見て、傷ついて、それでも目を閉じない。
蓮は休憩室の扉を見た。
中へ入ることはできなかった。
礼を言うことも、謝ることも、まだできない。
それでも、昨日までとは違う言葉が、胸の中に生まれていた。
あんたの甘さは、本当は弱さじゃないのかもしれない。
あれは、強さなのか。
廊下の奥から、誰かの足音が近づいてきた。
蓮は壁から背を離し、何事もなかったように歩き出した。靴音が、硬い床に短く響く。白い光の下で、その足取りはいつも通りに見えた。
だが、端末を持つ指先だけが、少し震えていた。
休憩室で、誠司は立ち上がった。
缶コーヒーは半分ほど残っていた。全部飲み切るには、まだ喉が狭かった。それでも、最初に置かれた時より、その缶はずっと軽く感じた。
「行きます」
玲奈が頷いた。
「今夜も?」
「はい」
犬飼が何か言いかけたが、藤原がそっと腕で制した。
誠司は扉の前で一度だけ振り返った。
「栗原さんの搬送先、あとで教えてください。会える状態じゃなくても、経過だけは知りたい」
「分かりました」
藤原が答える。
柴田が、いつもの調子に近い声で言った。
「佐藤さん」
「はい」
「缶コーヒー、次は自分で買ってください」
誠司は少しだけ目を伏せた。
笑えはしなかった。
でも、息はできた。
「分かりました」
扉を開けると、廊下の空気が冷たく頬に触れた。
遠くで誰かの靴音が消えていく。誠司はその音を聞きながら、管理室へ向かった。歩くたび、昨日の赤い画面が胸の奥で重く揺れる。
その重さは消えない。
消してはいけない。
誠司は、そう思った。
光点の向こうに名前があることを知ってしまった以上、もう戻れない。ならば、その名前を抱えたまま、次の画面を見るしかない。
管理室の扉の前に立つ。
金属の取っ手は、冷たかった。
誠司は一度だけ深く息を吸い、扉を開けた。
端末の青い光が、暗い室内で静かに待っていた。




