表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
減給された40代社畜、深夜バイトで国家級ダンジョンの管理者になる  作者: Gaku
第2部:管理者覚醒編

この作品ページにはなろうチアーズプログラム参加に伴う広告が設置されています。詳細はこちら

PR
63/74

第63話 全員は、救えない


 その夜のアマテラスは、静かすぎた。


 管理室に入った瞬間、誠司はそれを感じた。機械の低い唸りはいつもと同じで、端末の青白い光も、地下通路を抜ける冷たい空気も変わらない。けれど、画面の中で瞬く無数の光点が、息をひそめているように見えた。


 雨は止んでいた。


 地上の濡れた道路を歩いてきた靴底には、まだ水気が残っている。床を踏むたび、きゅ、と小さく湿った音がした。その音が、管理室の壁に当たり、すぐに消える。普段なら気にも留めない音だった。今夜はそれさえ、何かの前触れのように耳に残った。


 誠司は椅子に座り、端末へ手を置いた。


『誠司。通常監視を開始します』


「頼む」


 コトリの声は落ち着いていた。


 画面右上には、天城蓮の接続表示が出ている。オンライン。誠司より先に入っている。いつものことになりつつあった。


『お疲れさまです、佐藤さん』


 蓮の声が通信に乗る。


「お疲れ」


『今日は今のところ、危険度の高い区画はありません。低レベルの滞留を三件、処理済みです』


「分かった」


 短い会話。


 それだけで、管理室はまた静かになった。


 誠司は階層図を見つめた。光点の群れが、通路に沿ってゆっくり動いている。作業員。探索者。搬送員。配信許可のある活動者。その一つ一つに名前がある。帰る場所がある。


 そう思うようになってから、画面を見る時間が長くなった。


 蓮に言わせれば、それが遅さなのだろう。


 いつか、両方は救えない時が来ます。


 その時、あんたの「全員」は、全員を殺す。


 蓮の言葉は、昨夜からずっと胸の底に沈んでいた。沈んでいるのに、消えない。小石のようにそこにあり、体を動かすたび、内側から鈍く当たる。


 誠司は、ゆっくり息を吐いた。


 答えは、まだ出ていない。


 それでも今夜も、目の前の光点を見捨てない。それだけは決めていた。


『誠司』


 コトリの声が、わずかに変わった。


 細い糸が張るような響き。


「どうした」


『アマテラス深層側で、微弱な干渉波を検出しました』


 誠司の指が止まった。


「どこだ」


『特定中。通常の魔力滞留ではありません。過去に検出されたミラージュ系統の波形と、一部が一致しています』


 空気が冷えた。


 管理室の温度は変わっていないはずなのに、首筋に汗が浮く。背中を伝う前に、肌の上で冷たく広がった。


「蓮、聞こえたか」


『聞こえてます。ミラージュ系統?』


「前に、こっちで何度か出た異常だ。人為的に見える動きをする」


『人為的……』


 蓮の声が一段低くなる。


『白瀬さんからは、そういう説明は受けてません』


「俺も全部を知ってるわけじゃない」


 誠司は階層図を拡大した。


 深層側の線が、ほんのわずかに歪んでいる。大きな赤ではない。むしろ、目を離せば見落とすほど小さい。けれどその歪みは、規則的だった。自然に起きた乱れではない。誰かが指先で水面を撫で、その波紋だけを残したような形。


『干渉波、増大』


 コトリの声が重なる。


 次の瞬間、画面全体に黄色い警告が走った。


 ひとつ。


 ふたつ。


 みっつ。


 まるで暗い地図の上に火が落ちるように、異常表示が次々と広がっていく。


『C一区画、壁面圧上昇。D五区画、通路崩落予兆。F三区画、魔力濃度急変。G二区画、床面亀裂。H四区画、隔壁応答停止』


「同時に……?」


 誠司の声が掠れた。


 画面が自動で分割される。赤と黄色の警告が重なり、階層図の輪郭が見えにくくなった。耳の奥で、警告音が低く鳴り続ける。ひとつひとつは聞き慣れた音のはずなのに、数が増えた途端、それはただの音ではなくなった。胸を内側から叩く圧力になった。


『佐藤さん、優先順位を出します』


 蓮の声は速かった。


『C一区画、活動者ゼロ。放置。D五区画、二名、退避経路あり。自動誘導で足ります。F三区画、三名、俺が処理。G二区画——』


 蓮の声が、そこで一瞬止まった。


 誠司も同じ画面を見ていた。


 G二区画。


 活動者三名。


 そのうち一名の登録名が、見覚えのあるものだった。


 星野ミナ。


 表示された名前を見た瞬間、誠司の喉が詰まった。


 同時に、配信画面が端末の端に開く。許可設定が残っていたのだろう。小さな映像の中で、ミナはヘルメットカメラを少し傾けながら、仲間二人と狭い通路を進んでいた。


『え、ちょっと待って、今、揺れた?』


 ミナの声は、いつもの配信用の明るさを無理に残していた。けれど、語尾が震えている。


 背後で、若い男の声がした。


『床、割れてる。戻った方がいい』


『うん、戻ろ。大丈夫、落ち着いて。配信見てる人、ちょっとだけ画面揺れるかも。ごめんね』


 怖いはずなのに、ミナは笑おうとしていた。


 弟のために。


 自分の不安を、誰かの安心に変えようとしている。


 その顔を見た瞬間、誠司の胸に重しが落ちた。


「コトリ、G二区画の退避ルート」


『通常ルートは床面亀裂により使用不可。南側補助通路へ誘導可能ですが、隔壁開放に二十六秒必要です』


「二十六秒……」


『H四区画、活動者四名。隔壁応答停止により閉じ込めリスク上昇。臨界まで推定五十一秒』


 右側にH四区画が拡大される。


 四つの光点。


 名前はまだ表示されていない。けれど、誠司には分かっていた。そこにも、ただの四ではない誰かがいる。


 蓮が即座に言った。


『Hを優先します』


「待て」


『数ならHです。四人。Gは三人』


「Gにはミナがいる」


『だから?』


 冷たい言葉だった。


 だが、蓮の声には苛立ちも混じっていた。まるで、誠司がそこで止まることを最初から分かっていたように。


『知ってる相手だから優先するんですか』


「そういう話じゃない」


『そういう話です。名前を知ってるかどうかで優先順位が変わるなら、それは管理じゃない。えこひいきです』


 誠司は反論しようとして、言葉を飲み込んだ。


 違う。


 そう言いたかった。


 だが、胸の奥で何かが揺れた。ミナの名前を見た瞬間、自分の視線がG二区画に吸い寄せられたのは事実だった。H四区画の四つの光点を、まだ名前として見られていないのも事実だった。


 それでも。


 それでも、そこにいるのは全員、人だ。


『佐藤さん』


 蓮の声が鋭くなる。


『選んでください。G区画の三人か、H区画の四人か』


 警告音が一段高くなった。


 画面の赤が濃くなる。


 G二区画の映像では、ミナたちの足元に亀裂が走っていた。ヘルメットライトが揺れ、壁に映る影が大きく歪む。ミナの頬に、汗が一筋落ちた。笑おうとしている口元が、ほんのわずかに引きつっている。


『大丈夫、大丈夫。ゆっくり行けば大丈夫だから』


 誰に言っているのか分からない。


 仲間にか。


 配信を見ている誰かにか。


 自分自身にか。


 一方で、H四区画の光点は、狭い袋小路の奥で固まっていた。隔壁が閉じかけている。そこが完全に落ちれば、救助ルートは一気に減る。四人のうち一人が、通路の端で遅れている。名前は出ていない。顔も見えていない。


 だが、帰りを待つ人がいるはずだった。


 誠司の指が、端末の上で止まった。


 Gか。


 Hか。


 どちらか一方。


『数ならHです』


 蓮が言った。


『四人を救う。Gは三人。合理的に考えれば、それしかない』


「両方、開ける」


『無理です』


「南側補助通路と、Hの隔壁を同時に——」


『同時には開かない。動力系統が干渉してる。片方を開ければ、もう片方は最低でも二十秒遅れる』


「迂回ルートは」


『ありません』


「強制開放は」


『片方だけです』


 蓮の声が、低く、速くなる。


『あんたが迷ってる間に、両方落ちる』


 誠司は画面を見つめた。


 G二区画の三つの光点。


 H四区画の四つの光点。


 七つの命。


 端末の青白い光が、指先を照らしている。汗で滑る。呼吸が浅くなる。胸の中で心臓が強く鳴っているのに、耳の奥はひどく静かだった。


 蓮の声も、コトリの警告も、遠くなっていく。


 時間だけが、細く引き伸ばされていく。


 ミナが顔を上げた。


 映像の中で、彼女は一瞬、カメラの向こうを見た。


『……帰るよ』


 小さく言った。


『絶対、帰るから』


 その言葉が、誠司の胸に刺さった。


 H四区画の四つの光点が、赤い線に囲まれていく。


 名前を知らない。


 声を聞いていない。


 それでも、そこにも同じ言葉を言いたい人がいるかもしれない。


 帰る。


 絶対に帰る。


 誠司の唇が動いた。


 だが、声にならなかった。


 選べない。


 選んだ瞬間、選ばなかった方を切り捨てることになる。


 これまで、何度も言ってきた。


 全員を帰す。


 その言葉が、今夜初めて、刃のように自分へ向いた。


『佐藤さん!』


 蓮の怒鳴る声が戻ってきた。


『選べ!』


 誠司の指は、まだ動かなかった。


『……もう!』


 蓮の声が、通信の向こうで弾けた。


『あんたが選ばないなら、俺が選ぶ!』


 その瞬間、H四区画の隔壁制御が奪われた。


 蓮の操作ログが、画面の右側を凄まじい速度で駆け上がる。認証、回路迂回、圧力低下、隔壁開放。赤い警告が何重にも重なり、そのすべてを切り裂くように、蓮のカーソルが一直線に走った。


 H四区画の扉が開く。


 四つの光点が、一斉に出口へ動き出した。


 誠司は、その青へ変わりかけた画面を見た。


 そして、弾かれたようにG二区画へ手を伸ばした。


「コトリ、Gの南側補助通路!」


『動力干渉あり。H四区画開放により、補助通路の開放遅延が発生しています』


「遅延時間!」


『十四秒』


「十四秒もない!」


 映像の中で、ミナたちは走っていた。


 通路の床が斜めに沈み、ライトの光が激しく揺れる。壁面から砂のような破片が降り、画面の端を白く濁らせた。ミナの呼吸がマイクに近く、荒く入る。明るく話す余裕は、もうどこにもなかった。


『こっち、こっち! 佳奈ちゃん、先に!』


『ミナ、後ろ!』


 低い音がした。


 足元ではなく、通路全体が唸る音だった。


 誠司の背中を、冷たい汗が一気に流れた。


「ミナさん、聞こえますか!」


 通信を開く。


 ノイズが割り込む。鉄の軋む音と、誰かの短い悲鳴が混ざった。


『え、管理者さん……?』


「南側の補助通路へ走ってください。前方の赤い扉です」


『でも、閉まってる!』


「開けます。必ず開けます」


 自分の声が震えなかったのが、不思議だった。


 手は震えている。端末の表面を押さえる指に力が入り、爪の先が白くなっていた。喉は渇き、心臓は肋骨を内側から叩き続けている。それでも、声だけは静かだった。


 静かでなければ、彼女たちが崩れる。


「走ってください」


 誠司は言った。


「後ろを見ないで」


 ミナが仲間二人に何か叫ぶ。


 三つの光点が、補助通路へ向かう。


 赤い扉はまだ閉じている。


『開放まで十秒』


 コトリの声。


 十秒。


 H四区画の四つの光点は、すでに出口へ近づいている。蓮の選択は正しかった。四人が救われようとしている。数字で見れば、間違いなく正しい。


 だからこそ、誠司の胸は裂けそうだった。


 正しいことをしても、届かない場所がある。


「強制開放に切り替える」


『強制開放した場合、扉の反動で通路内に衝撃波が発生します』


「扉前の三人への影響は」


『先頭二名は通過可能。最後尾は衝撃範囲に入る可能性があります』


 最後尾。


 映像の中で、最後尾を走っているのは若い男だった。ミナのチームメイト。栗原拓海。さきほどまで「戻った方がいい」と言っていた声の主だ。彼は足を引きずる佳奈を押し出し、自分が後ろに残っている。


 誠司は奥歯を噛んだ。


「ミナさん、最後尾の人を前に!」


『拓海くん、先に行って!』


『無理、佳奈が——』


『いいから!』


 叫び声。


 だが、通路の崩落は待たない。


 床の亀裂が広がる。黒い線が、三人の足元へ蛇のように伸びた。ヘルメットライトが揺れ、壁の影が何度も裂ける。


『開放まで五秒』


 五秒。


 誠司は、自分の息が止まっていることに気づいた。


 H四区画の右画面が青く変わった。


『H四区画、四名全員退避完了』


 蓮の報告が聞こえた。


 誠司は返事をしなかった。


 Gしか見えなかった。


『開放まで三秒』


「間に合え」


 声になったのか、息だけだったのか、自分でも分からない。


『二秒』


 ミナが佳奈の腕を引く。


 拓海がその背中を押す。


『一秒』


 赤い扉が、横へずれた。


 隙間が開く。


 ミナと佳奈が転がるように通路へ飛び込んだ。


 その直後、背後で壁が崩れた。


 白い粉塵が画面を埋め尽くす。


 音が、消えた。


 いや、音はあったのかもしれない。


 警告音も、コトリの声も、蓮の呼吸も、すべてが遠くなり、管理室の空気だけが重く固まった。端末の青白い光が、誠司の顔に落ちている。頬を伝った汗が顎先で止まり、ぽたりと膝に落ちた。


「……拓海さん」


 誠司は、かすれた声で呼んだ。


 映像は白い。


 何も見えない。


「栗原拓海さん、応答してください」


 返事はない。


 コトリの声が、低く告げた。


『G二区画、二名の安全圏到達を確認』


「三人だ」


 誠司は即座に言った。


「三人いた。もう一人は」


『最後尾の一名、崩落衝撃に巻き込まれています。生命反応あり。ただし、重傷判定』


 重傷。


 その二文字が、画面に赤く表示された。


 誠司は、しばらくそれを読めなかった。


 読んでいるのに、意味が頭に入らなかった。


 生命反応あり。


 生きている。


 だが、帰せなかった。


 無傷で、歩いて、誰かのもとへ帰すことはできなかった。


 配信画面の音声が、遅れて戻った。


『拓海くん! 拓海くん、返事して!』


 ミナの声だった。


 泣き叫ぶ寸前の声を、必死に押さえている。画面には粉塵にまみれた彼女の手が映っていた。指先が震え、床を這うように伸びている。佳奈が何かを叫んでいるが、言葉になっていない。


『だめ、戻っちゃだめです。二次崩落があります』


 誠司は言った。


 自分の声が、ひどく遠く聞こえた。


『でも、拓海くんが!』


「救助を向かわせます。必ず向かわせます。だから、今はそこから離れてください」


『置いていけないよ!』


 その言葉が、胸を貫いた。


 置いていけない。


 誠司も同じだった。


 置いていけなかった。


 だから迷った。


 だから、遅れた。


 画面の右側では、H四区画の四人が救護エリアへ移動していた。全員軽傷。蓮の選択で、四人は助かった。


 左側では、ミナと佳奈が泣きながら安全圏へ引き戻され、拓海の生命反応だけが、赤い点として崩落地点に残っていた。


 九人中、八人が生還。


 一名、重傷。


 数字で見れば、奇跡に近い結果なのかもしれない。


 だが、誠司には、その一名しか見えなかった。


 栗原拓海。


 仲間を先に押し出し、最後尾に残った若い探索者。


 その名前が、赤い表示の横に残っている。


「……間に合わ、なかった」


 声が落ちた。


 誰に向けた言葉でもなかった。


 自分の中から、勝手にこぼれた。


 通信の向こうで、蓮が息を吐いた。


『だから言ったでしょう』


 その声は、勝ち誇ってはいなかった。


 むしろ、苦いものを噛み潰したように低かった。


『両方は、救えないって』


 誠司は動けなかった。


『あんたが最初から効率的に選んでれば、もっと早く動けた。Gを切るなら切る。Hを取るなら取る。迷ったから、一人が——』


「やめろ」


 誠司の声は小さかった。


 だが、蓮は止まらなかった。


『事実です。選べなかったから遅れた。選ぶのが嫌だったから、両方に手を伸ばした。その結果、最後尾が巻き込まれた』


「やめてくれ」


 今度は、声が震えた。


 蓮が黙った。


 管理室には、警告音の残響だけが漂っていた。赤かった画面が少しずつ青へ戻っていく。処理済み。退避完了。救助要請済み。搬送準備中。冷たい文字が、次々と状況を整理していく。


 整理されるたびに、現実が硬くなっていった。


 誠司は、端末に置いた手を離せなかった。


 指先に力が入らない。汗で濡れた掌が、画面の縁に貼りついている。立ち上がろうとしても、膝が動かなかった。


 十九話の時とは違う。


 あの時は、疲労だった。遅れだった。自分の限界を見誤った痛みだった。


 今夜は違う。


 選べなかった。


 選ぶことから逃げた。


 全員を帰すという言葉にしがみついて、その数秒で、一人を重傷にした。


 誠司は、画面に残る栗原拓海の赤い点を見つめた。


 その点が、ゆっくり救助ルートへ移動を始める。救護班が到着したのだ。生命反応はある。搬送も可能。死んでいない。死なせてはいない。


 それでも、胸の奥で何かが砕けていた。


『……佐藤さん』


 蓮が、低く呼んだ。


 誠司は返事をしなかった。


『俺は、Hを選びました。四人救った。あれは間違ってない』


 言い聞かせるような声だった。


 誰に向けているのか、分からない。


『間違ってない、はずです』


 最後の一言だけが、わずかに揺れた。


 誠司は、それに気づいた。気づいたが、何も言えなかった。蓮を責める言葉も、自分を守る言葉も、どこにもなかった。


 しばらくして、コトリが告げた。


『栗原拓海、救護班により確保。意識混濁。右下肢および胸部に重傷。搬送中です』


「……生きてるんだな」


『はい。生命反応は維持されています』


 誠司は目を閉じた。


 瞼の裏に、ミナの叫び声が残っている。


 拓海くん。


 その名前を呼ぶ声が、何度も響く。


 誰かにとって、彼は一ではない。


 誰かにとって、彼は四より少ない命でもない。


 栗原拓海。


 帰るはずだった一人。


 誠司は、ゆっくり目を開けた。


 画面は静かになっていた。


 さっきまで火事のように燃えていた警告は消え、階層図には青い光が戻っている。無数の光点が、何事もなかったように動き続けていた。アマテラスは止まらない。誰かが傷ついても、次の誰かは歩いている。


 その事実が、ひどく冷たかった。


「コトリ」


『はい』


「今日のログを、全部残してくれ」


『保存済みです』


「……ありがとう」


 それ以上、何を言えばいいのか分からなかった。


 通信の向こうで、蓮も黙っていた。


 蓮は、自分の端末の前で、H四区画のログを見ていた。


 四名生還。


 軽傷二名。


 重傷者なし。


 正しい。


 自分は正しい選択をした。


 四人を救った。


 G二区画は三人。数ならH。判断は合理的だった。迷いも遅れもなかった。あの状況で、管理者が取るべき行動を取っただけだ。


 それなのに、指先が冷たかった。


 蓮は画面を切り替えた。


 G二区画の映像が、勝手に目に入る。


 粉塵の中で、ミナが泣きながら手を伸ばしている。佳奈が彼女の肩を掴み、救護員が二人を下がらせる。画面の奥では、担架に乗せられた栗原拓海が運ばれていた。顔は酸素マスクで半分隠れている。片方の手が、担架の縁から力なく垂れていた。


 蓮は、すぐに映像を閉じた。


 閉じたのに、消えなかった。


 白い粉塵。


 泣き声。


 垂れた手。


 頭の中に残り続ける。


「……なんでだよ」


 小さく呟いた。


 四人救った。


 正しい選択をした。


 間違っていない。


 なのに。


 どうして、救えなかった一人の顔だけが、こんなにも離れない。


 蓮は椅子の背にもたれ、天井を見上げた。


 部屋の蛍光灯が、白く滲んでいる。


 胸の奥が、ひどく重かった。


 正しいはずの選択が、こんなに苦いものだと、知りたくなかった。


 通信はまだ繋がっていた。


 向こう側で、誠司の呼吸が微かに聞こえる。浅く、重く、何かを堪えている呼吸だった。


 蓮は唇を開きかけた。


 何か言うべきだと思った。


 だが、言葉は出なかった。


 慰める資格も、責めきる強さも、今の自分にはなかった。


 やがて、誠司の声が聞こえた。


「蓮」


 蓮は、息を止めた。


『……はい』


「Hの四人を帰してくれて、ありがとう」


 蓮は目を見開いた。


 責められると思っていた。


 怒鳴られると思っていた。


 なのに、その声は掠れていて、深く傷ついていて、それでも礼を言った。


 蓮の喉が詰まった。


『……仕事です』


 それだけ返すのが、精一杯だった。


 通信はそこで途切れた。


 部屋に残ったのは、端末の冷たい光だけだった。


 蓮はしばらく動けなかった。


 画面には、九人中八人が生還したという結果が表示されている。


 その数字は、どこまでも正しかった。


 けれど蓮の目には、赤い一点だけがいつまでも焼きついていた。



評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

↑ページトップへ