第63話 全員は、救えない
その夜のアマテラスは、静かすぎた。
管理室に入った瞬間、誠司はそれを感じた。機械の低い唸りはいつもと同じで、端末の青白い光も、地下通路を抜ける冷たい空気も変わらない。けれど、画面の中で瞬く無数の光点が、息をひそめているように見えた。
雨は止んでいた。
地上の濡れた道路を歩いてきた靴底には、まだ水気が残っている。床を踏むたび、きゅ、と小さく湿った音がした。その音が、管理室の壁に当たり、すぐに消える。普段なら気にも留めない音だった。今夜はそれさえ、何かの前触れのように耳に残った。
誠司は椅子に座り、端末へ手を置いた。
『誠司。通常監視を開始します』
「頼む」
コトリの声は落ち着いていた。
画面右上には、天城蓮の接続表示が出ている。オンライン。誠司より先に入っている。いつものことになりつつあった。
『お疲れさまです、佐藤さん』
蓮の声が通信に乗る。
「お疲れ」
『今日は今のところ、危険度の高い区画はありません。低レベルの滞留を三件、処理済みです』
「分かった」
短い会話。
それだけで、管理室はまた静かになった。
誠司は階層図を見つめた。光点の群れが、通路に沿ってゆっくり動いている。作業員。探索者。搬送員。配信許可のある活動者。その一つ一つに名前がある。帰る場所がある。
そう思うようになってから、画面を見る時間が長くなった。
蓮に言わせれば、それが遅さなのだろう。
いつか、両方は救えない時が来ます。
その時、あんたの「全員」は、全員を殺す。
蓮の言葉は、昨夜からずっと胸の底に沈んでいた。沈んでいるのに、消えない。小石のようにそこにあり、体を動かすたび、内側から鈍く当たる。
誠司は、ゆっくり息を吐いた。
答えは、まだ出ていない。
それでも今夜も、目の前の光点を見捨てない。それだけは決めていた。
『誠司』
コトリの声が、わずかに変わった。
細い糸が張るような響き。
「どうした」
『アマテラス深層側で、微弱な干渉波を検出しました』
誠司の指が止まった。
「どこだ」
『特定中。通常の魔力滞留ではありません。過去に検出されたミラージュ系統の波形と、一部が一致しています』
空気が冷えた。
管理室の温度は変わっていないはずなのに、首筋に汗が浮く。背中を伝う前に、肌の上で冷たく広がった。
「蓮、聞こえたか」
『聞こえてます。ミラージュ系統?』
「前に、こっちで何度か出た異常だ。人為的に見える動きをする」
『人為的……』
蓮の声が一段低くなる。
『白瀬さんからは、そういう説明は受けてません』
「俺も全部を知ってるわけじゃない」
誠司は階層図を拡大した。
深層側の線が、ほんのわずかに歪んでいる。大きな赤ではない。むしろ、目を離せば見落とすほど小さい。けれどその歪みは、規則的だった。自然に起きた乱れではない。誰かが指先で水面を撫で、その波紋だけを残したような形。
『干渉波、増大』
コトリの声が重なる。
次の瞬間、画面全体に黄色い警告が走った。
ひとつ。
ふたつ。
みっつ。
まるで暗い地図の上に火が落ちるように、異常表示が次々と広がっていく。
『C一区画、壁面圧上昇。D五区画、通路崩落予兆。F三区画、魔力濃度急変。G二区画、床面亀裂。H四区画、隔壁応答停止』
「同時に……?」
誠司の声が掠れた。
画面が自動で分割される。赤と黄色の警告が重なり、階層図の輪郭が見えにくくなった。耳の奥で、警告音が低く鳴り続ける。ひとつひとつは聞き慣れた音のはずなのに、数が増えた途端、それはただの音ではなくなった。胸を内側から叩く圧力になった。
『佐藤さん、優先順位を出します』
蓮の声は速かった。
『C一区画、活動者ゼロ。放置。D五区画、二名、退避経路あり。自動誘導で足ります。F三区画、三名、俺が処理。G二区画——』
蓮の声が、そこで一瞬止まった。
誠司も同じ画面を見ていた。
G二区画。
活動者三名。
そのうち一名の登録名が、見覚えのあるものだった。
星野ミナ。
表示された名前を見た瞬間、誠司の喉が詰まった。
同時に、配信画面が端末の端に開く。許可設定が残っていたのだろう。小さな映像の中で、ミナはヘルメットカメラを少し傾けながら、仲間二人と狭い通路を進んでいた。
『え、ちょっと待って、今、揺れた?』
ミナの声は、いつもの配信用の明るさを無理に残していた。けれど、語尾が震えている。
背後で、若い男の声がした。
『床、割れてる。戻った方がいい』
『うん、戻ろ。大丈夫、落ち着いて。配信見てる人、ちょっとだけ画面揺れるかも。ごめんね』
怖いはずなのに、ミナは笑おうとしていた。
弟のために。
自分の不安を、誰かの安心に変えようとしている。
その顔を見た瞬間、誠司の胸に重しが落ちた。
「コトリ、G二区画の退避ルート」
『通常ルートは床面亀裂により使用不可。南側補助通路へ誘導可能ですが、隔壁開放に二十六秒必要です』
「二十六秒……」
『H四区画、活動者四名。隔壁応答停止により閉じ込めリスク上昇。臨界まで推定五十一秒』
右側にH四区画が拡大される。
四つの光点。
名前はまだ表示されていない。けれど、誠司には分かっていた。そこにも、ただの四ではない誰かがいる。
蓮が即座に言った。
『Hを優先します』
「待て」
『数ならHです。四人。Gは三人』
「Gにはミナがいる」
『だから?』
冷たい言葉だった。
だが、蓮の声には苛立ちも混じっていた。まるで、誠司がそこで止まることを最初から分かっていたように。
『知ってる相手だから優先するんですか』
「そういう話じゃない」
『そういう話です。名前を知ってるかどうかで優先順位が変わるなら、それは管理じゃない。えこひいきです』
誠司は反論しようとして、言葉を飲み込んだ。
違う。
そう言いたかった。
だが、胸の奥で何かが揺れた。ミナの名前を見た瞬間、自分の視線がG二区画に吸い寄せられたのは事実だった。H四区画の四つの光点を、まだ名前として見られていないのも事実だった。
それでも。
それでも、そこにいるのは全員、人だ。
『佐藤さん』
蓮の声が鋭くなる。
『選んでください。G区画の三人か、H区画の四人か』
警告音が一段高くなった。
画面の赤が濃くなる。
G二区画の映像では、ミナたちの足元に亀裂が走っていた。ヘルメットライトが揺れ、壁に映る影が大きく歪む。ミナの頬に、汗が一筋落ちた。笑おうとしている口元が、ほんのわずかに引きつっている。
『大丈夫、大丈夫。ゆっくり行けば大丈夫だから』
誰に言っているのか分からない。
仲間にか。
配信を見ている誰かにか。
自分自身にか。
一方で、H四区画の光点は、狭い袋小路の奥で固まっていた。隔壁が閉じかけている。そこが完全に落ちれば、救助ルートは一気に減る。四人のうち一人が、通路の端で遅れている。名前は出ていない。顔も見えていない。
だが、帰りを待つ人がいるはずだった。
誠司の指が、端末の上で止まった。
Gか。
Hか。
どちらか一方。
『数ならHです』
蓮が言った。
『四人を救う。Gは三人。合理的に考えれば、それしかない』
「両方、開ける」
『無理です』
「南側補助通路と、Hの隔壁を同時に——」
『同時には開かない。動力系統が干渉してる。片方を開ければ、もう片方は最低でも二十秒遅れる』
「迂回ルートは」
『ありません』
「強制開放は」
『片方だけです』
蓮の声が、低く、速くなる。
『あんたが迷ってる間に、両方落ちる』
誠司は画面を見つめた。
G二区画の三つの光点。
H四区画の四つの光点。
七つの命。
端末の青白い光が、指先を照らしている。汗で滑る。呼吸が浅くなる。胸の中で心臓が強く鳴っているのに、耳の奥はひどく静かだった。
蓮の声も、コトリの警告も、遠くなっていく。
時間だけが、細く引き伸ばされていく。
ミナが顔を上げた。
映像の中で、彼女は一瞬、カメラの向こうを見た。
『……帰るよ』
小さく言った。
『絶対、帰るから』
その言葉が、誠司の胸に刺さった。
H四区画の四つの光点が、赤い線に囲まれていく。
名前を知らない。
声を聞いていない。
それでも、そこにも同じ言葉を言いたい人がいるかもしれない。
帰る。
絶対に帰る。
誠司の唇が動いた。
だが、声にならなかった。
選べない。
選んだ瞬間、選ばなかった方を切り捨てることになる。
これまで、何度も言ってきた。
全員を帰す。
その言葉が、今夜初めて、刃のように自分へ向いた。
『佐藤さん!』
蓮の怒鳴る声が戻ってきた。
『選べ!』
誠司の指は、まだ動かなかった。
『……もう!』
蓮の声が、通信の向こうで弾けた。
『あんたが選ばないなら、俺が選ぶ!』
その瞬間、H四区画の隔壁制御が奪われた。
蓮の操作ログが、画面の右側を凄まじい速度で駆け上がる。認証、回路迂回、圧力低下、隔壁開放。赤い警告が何重にも重なり、そのすべてを切り裂くように、蓮のカーソルが一直線に走った。
H四区画の扉が開く。
四つの光点が、一斉に出口へ動き出した。
誠司は、その青へ変わりかけた画面を見た。
そして、弾かれたようにG二区画へ手を伸ばした。
「コトリ、Gの南側補助通路!」
『動力干渉あり。H四区画開放により、補助通路の開放遅延が発生しています』
「遅延時間!」
『十四秒』
「十四秒もない!」
映像の中で、ミナたちは走っていた。
通路の床が斜めに沈み、ライトの光が激しく揺れる。壁面から砂のような破片が降り、画面の端を白く濁らせた。ミナの呼吸がマイクに近く、荒く入る。明るく話す余裕は、もうどこにもなかった。
『こっち、こっち! 佳奈ちゃん、先に!』
『ミナ、後ろ!』
低い音がした。
足元ではなく、通路全体が唸る音だった。
誠司の背中を、冷たい汗が一気に流れた。
「ミナさん、聞こえますか!」
通信を開く。
ノイズが割り込む。鉄の軋む音と、誰かの短い悲鳴が混ざった。
『え、管理者さん……?』
「南側の補助通路へ走ってください。前方の赤い扉です」
『でも、閉まってる!』
「開けます。必ず開けます」
自分の声が震えなかったのが、不思議だった。
手は震えている。端末の表面を押さえる指に力が入り、爪の先が白くなっていた。喉は渇き、心臓は肋骨を内側から叩き続けている。それでも、声だけは静かだった。
静かでなければ、彼女たちが崩れる。
「走ってください」
誠司は言った。
「後ろを見ないで」
ミナが仲間二人に何か叫ぶ。
三つの光点が、補助通路へ向かう。
赤い扉はまだ閉じている。
『開放まで十秒』
コトリの声。
十秒。
H四区画の四つの光点は、すでに出口へ近づいている。蓮の選択は正しかった。四人が救われようとしている。数字で見れば、間違いなく正しい。
だからこそ、誠司の胸は裂けそうだった。
正しいことをしても、届かない場所がある。
「強制開放に切り替える」
『強制開放した場合、扉の反動で通路内に衝撃波が発生します』
「扉前の三人への影響は」
『先頭二名は通過可能。最後尾は衝撃範囲に入る可能性があります』
最後尾。
映像の中で、最後尾を走っているのは若い男だった。ミナのチームメイト。栗原拓海。さきほどまで「戻った方がいい」と言っていた声の主だ。彼は足を引きずる佳奈を押し出し、自分が後ろに残っている。
誠司は奥歯を噛んだ。
「ミナさん、最後尾の人を前に!」
『拓海くん、先に行って!』
『無理、佳奈が——』
『いいから!』
叫び声。
だが、通路の崩落は待たない。
床の亀裂が広がる。黒い線が、三人の足元へ蛇のように伸びた。ヘルメットライトが揺れ、壁の影が何度も裂ける。
『開放まで五秒』
五秒。
誠司は、自分の息が止まっていることに気づいた。
H四区画の右画面が青く変わった。
『H四区画、四名全員退避完了』
蓮の報告が聞こえた。
誠司は返事をしなかった。
Gしか見えなかった。
『開放まで三秒』
「間に合え」
声になったのか、息だけだったのか、自分でも分からない。
『二秒』
ミナが佳奈の腕を引く。
拓海がその背中を押す。
『一秒』
赤い扉が、横へずれた。
隙間が開く。
ミナと佳奈が転がるように通路へ飛び込んだ。
その直後、背後で壁が崩れた。
白い粉塵が画面を埋め尽くす。
音が、消えた。
いや、音はあったのかもしれない。
警告音も、コトリの声も、蓮の呼吸も、すべてが遠くなり、管理室の空気だけが重く固まった。端末の青白い光が、誠司の顔に落ちている。頬を伝った汗が顎先で止まり、ぽたりと膝に落ちた。
「……拓海さん」
誠司は、かすれた声で呼んだ。
映像は白い。
何も見えない。
「栗原拓海さん、応答してください」
返事はない。
コトリの声が、低く告げた。
『G二区画、二名の安全圏到達を確認』
「三人だ」
誠司は即座に言った。
「三人いた。もう一人は」
『最後尾の一名、崩落衝撃に巻き込まれています。生命反応あり。ただし、重傷判定』
重傷。
その二文字が、画面に赤く表示された。
誠司は、しばらくそれを読めなかった。
読んでいるのに、意味が頭に入らなかった。
生命反応あり。
生きている。
だが、帰せなかった。
無傷で、歩いて、誰かのもとへ帰すことはできなかった。
配信画面の音声が、遅れて戻った。
『拓海くん! 拓海くん、返事して!』
ミナの声だった。
泣き叫ぶ寸前の声を、必死に押さえている。画面には粉塵にまみれた彼女の手が映っていた。指先が震え、床を這うように伸びている。佳奈が何かを叫んでいるが、言葉になっていない。
『だめ、戻っちゃだめです。二次崩落があります』
誠司は言った。
自分の声が、ひどく遠く聞こえた。
『でも、拓海くんが!』
「救助を向かわせます。必ず向かわせます。だから、今はそこから離れてください」
『置いていけないよ!』
その言葉が、胸を貫いた。
置いていけない。
誠司も同じだった。
置いていけなかった。
だから迷った。
だから、遅れた。
画面の右側では、H四区画の四人が救護エリアへ移動していた。全員軽傷。蓮の選択で、四人は助かった。
左側では、ミナと佳奈が泣きながら安全圏へ引き戻され、拓海の生命反応だけが、赤い点として崩落地点に残っていた。
九人中、八人が生還。
一名、重傷。
数字で見れば、奇跡に近い結果なのかもしれない。
だが、誠司には、その一名しか見えなかった。
栗原拓海。
仲間を先に押し出し、最後尾に残った若い探索者。
その名前が、赤い表示の横に残っている。
「……間に合わ、なかった」
声が落ちた。
誰に向けた言葉でもなかった。
自分の中から、勝手にこぼれた。
通信の向こうで、蓮が息を吐いた。
『だから言ったでしょう』
その声は、勝ち誇ってはいなかった。
むしろ、苦いものを噛み潰したように低かった。
『両方は、救えないって』
誠司は動けなかった。
『あんたが最初から効率的に選んでれば、もっと早く動けた。Gを切るなら切る。Hを取るなら取る。迷ったから、一人が——』
「やめろ」
誠司の声は小さかった。
だが、蓮は止まらなかった。
『事実です。選べなかったから遅れた。選ぶのが嫌だったから、両方に手を伸ばした。その結果、最後尾が巻き込まれた』
「やめてくれ」
今度は、声が震えた。
蓮が黙った。
管理室には、警告音の残響だけが漂っていた。赤かった画面が少しずつ青へ戻っていく。処理済み。退避完了。救助要請済み。搬送準備中。冷たい文字が、次々と状況を整理していく。
整理されるたびに、現実が硬くなっていった。
誠司は、端末に置いた手を離せなかった。
指先に力が入らない。汗で濡れた掌が、画面の縁に貼りついている。立ち上がろうとしても、膝が動かなかった。
十九話の時とは違う。
あの時は、疲労だった。遅れだった。自分の限界を見誤った痛みだった。
今夜は違う。
選べなかった。
選ぶことから逃げた。
全員を帰すという言葉にしがみついて、その数秒で、一人を重傷にした。
誠司は、画面に残る栗原拓海の赤い点を見つめた。
その点が、ゆっくり救助ルートへ移動を始める。救護班が到着したのだ。生命反応はある。搬送も可能。死んでいない。死なせてはいない。
それでも、胸の奥で何かが砕けていた。
『……佐藤さん』
蓮が、低く呼んだ。
誠司は返事をしなかった。
『俺は、Hを選びました。四人救った。あれは間違ってない』
言い聞かせるような声だった。
誰に向けているのか、分からない。
『間違ってない、はずです』
最後の一言だけが、わずかに揺れた。
誠司は、それに気づいた。気づいたが、何も言えなかった。蓮を責める言葉も、自分を守る言葉も、どこにもなかった。
しばらくして、コトリが告げた。
『栗原拓海、救護班により確保。意識混濁。右下肢および胸部に重傷。搬送中です』
「……生きてるんだな」
『はい。生命反応は維持されています』
誠司は目を閉じた。
瞼の裏に、ミナの叫び声が残っている。
拓海くん。
その名前を呼ぶ声が、何度も響く。
誰かにとって、彼は一ではない。
誰かにとって、彼は四より少ない命でもない。
栗原拓海。
帰るはずだった一人。
誠司は、ゆっくり目を開けた。
画面は静かになっていた。
さっきまで火事のように燃えていた警告は消え、階層図には青い光が戻っている。無数の光点が、何事もなかったように動き続けていた。アマテラスは止まらない。誰かが傷ついても、次の誰かは歩いている。
その事実が、ひどく冷たかった。
「コトリ」
『はい』
「今日のログを、全部残してくれ」
『保存済みです』
「……ありがとう」
それ以上、何を言えばいいのか分からなかった。
通信の向こうで、蓮も黙っていた。
蓮は、自分の端末の前で、H四区画のログを見ていた。
四名生還。
軽傷二名。
重傷者なし。
正しい。
自分は正しい選択をした。
四人を救った。
G二区画は三人。数ならH。判断は合理的だった。迷いも遅れもなかった。あの状況で、管理者が取るべき行動を取っただけだ。
それなのに、指先が冷たかった。
蓮は画面を切り替えた。
G二区画の映像が、勝手に目に入る。
粉塵の中で、ミナが泣きながら手を伸ばしている。佳奈が彼女の肩を掴み、救護員が二人を下がらせる。画面の奥では、担架に乗せられた栗原拓海が運ばれていた。顔は酸素マスクで半分隠れている。片方の手が、担架の縁から力なく垂れていた。
蓮は、すぐに映像を閉じた。
閉じたのに、消えなかった。
白い粉塵。
泣き声。
垂れた手。
頭の中に残り続ける。
「……なんでだよ」
小さく呟いた。
四人救った。
正しい選択をした。
間違っていない。
なのに。
どうして、救えなかった一人の顔だけが、こんなにも離れない。
蓮は椅子の背にもたれ、天井を見上げた。
部屋の蛍光灯が、白く滲んでいる。
胸の奥が、ひどく重かった。
正しいはずの選択が、こんなに苦いものだと、知りたくなかった。
通信はまだ繋がっていた。
向こう側で、誠司の呼吸が微かに聞こえる。浅く、重く、何かを堪えている呼吸だった。
蓮は唇を開きかけた。
何か言うべきだと思った。
だが、言葉は出なかった。
慰める資格も、責めきる強さも、今の自分にはなかった。
やがて、誠司の声が聞こえた。
「蓮」
蓮は、息を止めた。
『……はい』
「Hの四人を帰してくれて、ありがとう」
蓮は目を見開いた。
責められると思っていた。
怒鳴られると思っていた。
なのに、その声は掠れていて、深く傷ついていて、それでも礼を言った。
蓮の喉が詰まった。
『……仕事です』
それだけ返すのが、精一杯だった。
通信はそこで途切れた。
部屋に残ったのは、端末の冷たい光だけだった。
蓮はしばらく動けなかった。
画面には、九人中八人が生還したという結果が表示されている。
その数字は、どこまでも正しかった。
けれど蓮の目には、赤い一点だけがいつまでも焼きついていた。




