第55話 保護対象か、危険対象か
夜が明けても、騒ぎは収まらなかった。
星野ミナの配信映像は、短く切り抜かれ、何度も再生され、何度も拡散された。崩れかけた深層の壁。青白く走る光。震えながら笑おうとするミナの顔。そして、ほんの数秒だけ壁面に浮かんだ文字。
【退避経路 再構築】
【管理者:S.S】
朝の通勤電車の中で、学生がスマホを覗き込んだ。駅前の大型ビジョンでは、ニュース番組が映像の一部をぼかして流していた。コーヒースタンドに並ぶ会社員たちが、紙カップを片手にその話をしている。
「これ、本物なのか」
「管理者って都市伝説じゃなかったのかよ」
「いや、あの光、前にも探索者が言ってたやつだろ」
「S.Sって誰だ?」
何気ない声が、街のあちこちで同じ名前をなぞっていく。
S.S。
それは、地下三階の管理室でただ赤いランプを消してきた男にとって、あまりにも小さな名前の断片だった。
けれど、世間にとっては違った。
見えないはずの力が、見えてしまった。
*
政府庁舎の会議室は、朝の光を受けても明るく見えなかった。
厚いガラス窓の向こうには、薄い雲を透かした白い空が広がっている。窓枠に沿って差し込んだ光が長机の表面に細く伸びていたが、室内の空気は乾き、冷えていた。空調の低い音だけが、重い沈黙の底を這っている。
大型モニターには、ミナの配信映像が停止されたまま映っていた。
青白い光。
壁面の文字。
S.S。
ひとりの官僚が、手元の資料をめくった。紙の擦れる音が、不自然なほど大きく響く。
「昨夜二十三時以降、関連投稿数は急増。検索上位は『管理者』『S.S』『第七ダンジョン救助』『星野ミナ生還』です。すでに複数の報道番組が取り上げています」
別の官僚が続ける。
「探索者界隈では、以前から噂になっていた存在です。今回、初めて映像証拠に近いものが出た。今後、管理者の正体探しが加速する可能性があります」
上座に座る三神官房副長官は、腕を組んだまま動かなかった。
白髪の混じった髪は乱れなく整えられ、視線はモニターに向けられている。だが、その目は映像そのものではなく、映像の先にある利益と危険を測っているようだった。
「問題は、佐藤誠司という民間人が、国家級ダンジョンの制御に関与している事実です」
官僚の声に、室内の視線が集まる。
「今回の件で、彼は探索者たちに英雄視されるでしょう。しかし、情報管理の観点から見れば、これは危険です。力の所在が世間に晒されつつある」
「彼に悪意があるとは限らない」
三神が低く言った。
官僚は一瞬だけ口を閉じた。だが、すぐに背筋を伸ばす。
「悪意の有無ではありません。制御できないことが問題です」
その言葉が落ちた瞬間、会議室の空気がさらに冷えた。
「一人の民間人が、複数の探索者の生死を左右する操作を行っている。今回は成功しました。しかし次も成功する保証はありません。仮に彼が判断を誤れば、責任の所在はどこにあるのか。仮に彼が世論の支持を得て、政府の指示に従わなくなれば、誰が止めるのか」
窓の外で、遠く車の走る音がかすかに響いた。
誰もすぐには答えなかった。
画面の中のミナは、停止した映像の中でこちらを見ている。助かった直後の、涙をこらえた顔。その映像を前にしても、この部屋で語られているのは彼女の命ではなかった。
力の管理。
情報統制。
責任の所在。
そして、身柄。
「佐藤誠司を、国家の管理下に置くべきです」
官僚は、はっきりと言った。
「保護という名目で構いません。外部との接触を制限し、管理者としての行動を監督する。自由に動かせるべきではありません」
三神は、しばらく黙っていた。
沈黙が、時計の秒針を何度も進ませた。
やがて彼は、ゆっくりと目を細める。
「……検討に値する」
その一言で、会議室の空気が決まった。
誰かを救った映像は、誰かを縛るための資料になった。
*
同じ映像を、白瀬総一郎も見ていた。
オービットゲート社の最上階にある執務室は、無駄な装飾が少ない。黒い机、薄いモニター、磨かれた床。壁一面の窓には、都市の高層ビル群が冷たい光を返している。人の声は届かない。遠くの交通音も、厚いガラスに遮られて消えていた。
白瀬は、何度目かの再生を止めた。
画面には、青白い文字が残っている。
【管理者:S.S】
「見つかり始めたな」
独り言は、誰にも向けられていなかった。
だが、その声には苛立ちよりも、薄い満足が滲んでいた。
佐藤誠司。
あの男は、自分がどれほど目立つことをしたのか理解していないだろう。人を救った。ただそれだけだと、本気で思っているはずだ。
だから厄介だった。
白瀬は、英雄を嫌っているのではない。
制御できない英雄を嫌っている。
英雄というものは、民衆の感情を集める。感情は制度を揺らす。制度が揺れれば、利権の置き場所が変わる。白瀬が積み上げてきたものを、ただ善意で踏み越える者を、放置するつもりはなかった。
「政府は動く。注目されすぎた民間人を、彼らは許さない」
白瀬はスマートフォンを取り上げた。
発信先に表示された名前は短かった。
天城蓮。
呼び出し音は二度で切れた。
『見ましたよ』
若い声だった。
まだ少年の響きを残しているのに、温度がない。眠そうでも、緊張しているわけでもない。ただ、画面の向こうの全てをもう計算し終えたような声だった。
白瀬は椅子に背を預ける。
「感想は?」
『丁寧ですね。退避経路の再構築を三段階でやってる。圧力を逃がして、崩落区画を安定化して、最後に通路を開いた。素人にしては悪くない』
「褒めているのか」
『事実を言っただけです』
短い沈黙。
白瀬の指が、机の上を一度だけ叩いた。
『でも、遅い』
天城は、静かに言った。
『全員を同時に安全に出そうとするから、処理が重くなる。俺なら、もっと速く終わらせる。優先順位を切ればいい』
「優先順位?」
『助かる確率が高い順です。全員を救う前提で考えるから、判断が鈍る。情が混ざると、操作ログに無駄が出る』
白瀬の口元が、わずかに上がった。
その冷たさは、彼にとって好ましいものだった。
「君には期待しているよ、天城くん」
『期待はいりません。権限と環境だけください。結果は出します』
通話が切れたあと、執務室には再び静けさが戻った。
白瀬はモニターに映るS.Sの文字を見つめた。
「佐藤誠司。君の善意が、君を縛る」
窓の外で、雲の切れ間から差した光がビルの壁面を白く焼いた。
その眩しさの中で、白瀬の表情だけが暗く沈んでいた。
*
国家ダンジョン対策室の分析棟では、黒瀬環が一人、端末の前に立っていた。
朝から鳴り続けていた内線は、ようやく静かになっている。廊下の向こうで職員たちが忙しく行き交う足音がする。誰かが資料を抱えて走り、誰かが低い声で電話をしていた。
その慌ただしさの中で、黒瀬の周囲だけが切り取られたように静かだった。
モニターには、政府内部の検討資料が表示されている。
【佐藤誠司氏の管理体制について】
【保護措置案】
【外部接触制限】
【常時監督】
言葉は柔らかく整えられていた。
だが、黒瀬には分かっていた。
これは、拘束に近い。
彼を守るためではない。彼を扱いやすくするための囲いだ。
黒瀬は唇を噛んだ。
兄の写真を見た夜を思い出す。十二年前、帰ってこなかった兄。影山恭一が残した願い。その願いを受け継ぐように、地下の端末の前に座っていた普通の父親。
写真で見た佐藤誠司の顔は、あまりにも普通だった。
疲れた目をしていて、少し猫背で、家に帰れば卵焼きでも焼いていそうな人だった。
その人が、今は国に危険視されている。
何百人も救ったから。
見捨てなかったから。
諦めなかったから。
「……ふざけないで」
声は小さかった。
誰にも聞こえないほど小さかった。
けれど、指先は震えていた。怒りだけではない。恐怖でもある。政府の決定に逆らえるほど、自分は強くない。黒瀬環という一人の職員が、会議室で決まりかけている流れを止められるわけではない。
それでも、何もしないことはできなかった。
黒瀬は資料を閉じ、別の画面を開いた。
緊急権限申請。
第四ダンジョンの監視ログ。
整備中の管理端末。
異常値。
複数の取り残された探索者。
黒瀬は画面に並んだ数字を見つめた。
冷たい数字の列の向こうに、人がいる。
佐藤誠司なら、きっとそう見る。
だからこそ、これは残酷な選択だった。
彼に結果を出させる。
彼が人を救えることを、政府に見せる。
そうしなければ、佐藤誠司は守れない。
でもそれは、彼にまた命を背負わせるということだった。
黒瀬は深く息を吸った。
胸の奥に溜まった重いものは、吐いても消えなかった。
「兄さん」
口にした瞬間、喉が詰まった。
「私は、また誰かに、無理をさせるのかな」
答える声はない。
蛍光灯の白い光が、机の上の資料を薄く照らしていた。
黒瀬は端末を閉じた。
椅子に掛けていた上着を取り、廊下へ出る。
磨かれた床に、黒い靴音が硬く響いた。窓の外では、朝の光が街を明るくしている。けれど、黒瀬の足取りは、深い夜へ降りていくように重かった。
地下施設へ向かわなければならない。
佐藤誠司に、伝えなければならない。
あなたは今、保護対象になるか、危険対象になるかの瀬戸際にいる、と。
そして、それを決めるのは、これから救える命の数なのだと。
そんな言葉を、あの普通の父親に告げなければならなかった。
地下施設の通用口に着いた頃には、外の空はすでに夕方の色を帯びていた。
建物の影が長く伸び、コンクリートの壁に薄い橙色が貼りついている。地上から降りてくる風は少し冷たく、排気口の金属柵を震わせていた。遠くで車が通る音がして、それが地下へ続く階段の奥で鈍く反響する。
黒瀬は通用口の脇で立ち止まった。
手にした端末には、第四ダンジョンの異常値が更新され続けている。赤い数字が増え、黄色い警告が赤へ変わる。画面を見ているだけで、胸の奥が細く締めつけられた。
やがて、自動扉の向こうから足音がした。
疲れた靴音だった。
一歩ごとに、今日一日を背負っているような、重い音。
佐藤誠司が出てきた。
作業用の鞄を肩に掛け、少し猫背で、目元には薄い疲れが残っている。映像や報告書で何度も見た顔だった。けれど、実際に目の前に立つと、その普通さが胸に刺さった。
この人が、深層で三人を帰した。
この人が、兄の願いの先にいる。
そしてこの人を、これから試さなければならない。
黒瀬は背筋を伸ばした。
「佐藤誠司さん」
誠司が足を止める。
警戒というより、戸惑いに近い顔だった。
「……はい」
「内閣府ダンジョン対策室の、黒瀬環と申します」
名刺を差し出す指先が、わずかに硬い。
誠司はそれを受け取り、名前を見た。
「黒瀬さん……榊原さんから、お名前は聞いています」
「少し、お時間をいただけますか」
通用口の前に、短い沈黙が落ちた。
地下から上がってくる機械音が、二人の間を通り抜ける。誠司は何かを察したように、鞄の紐を握り直した。
「何か、あったんですか」
黒瀬は、すぐには答えられなかった。
言葉を選べば選ぶほど、卑怯になる気がした。だから、余計な前置きを捨てる。
「星野ミナさんの配信の件です」
誠司の表情が動いた。
「……あの子は、無事ですよね」
「はい。三名とも命に別状はありません。あなたが救いました」
その言葉に、誠司の肩が少しだけ下がる。
それを見て、黒瀬は胸が痛んだ。
彼はまず、自分のことではなく、助かった人のことを気にした。
「ですが、その救助映像が拡散されています。『S.S』という管理者ログも、世間に出ました」
「……やっぱり、まずかったんですね」
誠司は小さく息を吐いた。
叱られると思っている子どものようではなかった。ただ、起きたことを受け止めようとしている顔だった。
黒瀬は首を横に振る。
「あなたは、何も悪いことはしていません」
声が、少しだけ強くなった。
「何百人もの命を救ってきました。昨日も、三人を帰した。責められることではありません」
「じゃあ、どうして」
誠司の声は静かだった。
黒瀬は視線を逸らさなかった。
「力を持ちすぎた民間人は、国家にとって、管理したい対象になります」
誠司の顔が、はっきりと強張った。
風が吹き、通用口横の植え込みがかすかに揺れた。細い葉が擦れ合う音が、やけに乾いて聞こえる。
「管理……ですか」
「政府の一部に、あなたを国家管理下に置こうという動きがあります。平たく言えば、拘束に近い形で囲い込もうとしている」
誠司は黙った。
喉仏だけが、小さく上下する。
「俺が、何かしたんですか」
「いいえ」
黒瀬は即答した。
その一言だけは、迷わず言えた。
「あなたは、何も悪くありません。でも、悪くないことと、自由でいられることは、同じではないんです」
言ってから、自分の言葉の冷たさに唇を噛みたくなった。
誠司は目を伏せた。
家に帰るつもりだったのだろう。鞄の中には、弁当箱か、家族に見せる何かが入っているのかもしれない。今日も仕事を終えて、ただ普通に帰るはずだった。
その普通を、黒瀬は今、奪おうとしている。
「佐藤さん」
黒瀬は一歩だけ近づいた。
「あなたを保護対象にするか、危険対象にするかは――今からの結果で決まります」
誠司が顔を上げた。
「結果?」
その時、黒瀬の端末が震えた。
短い通知音。
だが、その音は通用口の空気を一瞬で変えた。
黒瀬は画面を見る。
赤い警告が、さらに増えていた。
【第四ダンジョン『ツクヨミ』】
【大規模異常発生】
【探索者複数名 孤立】
【管理端末:整備中】
【正規管理者:不在】
黒瀬は画面を誠司に向けた。
「緊急事態です」
誠司の目が、文字を追う。
「第四ダンジョン……?」
「はい。現在、複数の探索者が取り残されています。しかし、第四ダンジョンの管理端末は整備中で、正規の管理者がいません」
風が止んだ。
街の音も、遠くへ退いたように聞こえた。
誠司の視線が、端末の赤い文字に縫い止められている。
「アマテラスの管理者であるあなたは、本来、他のダンジョンの管理権限を持っていません。ですが、緊急措置として、第四ダンジョンの一時的な管理権限を付与することができます」
黒瀬の喉が、痛いほど乾いていた。
それでも言わなければならなかった。
「あなたが、第四ダンジョンの探索者を救えるかどうか。それが、あなたが保護対象か、危険対象かを決めます」
誠司は、すぐには答えなかった。
その沈黙は長かった。
数秒のはずなのに、黒瀬には何分にも感じられた。コンクリートの壁に沈む夕日の色が、少しずつ濃くなっていく。誠司の手が、鞄の紐を握ったまま震えていた。
未知のダンジョン。
慣れない管理領域。
失敗すれば、人が死ぬ。
失敗すれば、自分も危険対象として扱われる。
黒瀬は、その全てを彼に背負わせている。
「断ることは、できます」
黒瀬は言った。
その声は、自分でも分かるほど掠れていた。
「ただし、その場合、あなたは管理者を外される可能性が高い。政府の管理下に置かれます」
「受けたら」
「未知の端末で、今、取り残されている人たちの命を背負うことになります」
誠司は目を閉じた。
長い息を吸う。
そして吐く。
指の震えは止まっていなかった。額にはうっすら汗が滲んでいる。怖くないはずがない。普通の父親が、急に国の判断と人命の重さを両手に載せられて、平気でいられるはずがない。
それでも、誠司は目を開けた。
「……その人たちは、今も中にいるんですよね」
「はい」
「帰れないでいるんですよね」
「はい」
誠司は、ほんの少しだけ笑った。
笑ったというより、困ったように口元を緩めただけだった。
「じゃあ、やります」
黒瀬の胸が詰まった。
「佐藤さん、これは取引です。あなたを守るためでもありますが、同時に、あなたを試すものでもあります。酷な話です」
「分かってます」
「失敗すれば――」
「分かってます」
誠司は、静かに遮った。
怒っているわけではなかった。強がっているわけでもない。ただ、もう決めた人の声だった。
「俺は、ただのデータ入力です。偉い人の考えることも、国の事情も、正直よく分かりません」
誠司は端末の赤い表示を見た。
「でも、目の前で人が死にそうなら、助けます。それだけです」
黒瀬は唇を結んだ。
泣いてはいけない。
今、泣く権利は自分にはない。
彼を追い込んだ側の人間が、彼の優しさに救われたような顔をしてはいけない。
「……ありがとうございます」
それだけを、どうにか言った。
誠司は鞄を肩から下ろし、通用口の奥へ向き直った。
今さっき出てきたばかりの地下へ、もう一度戻っていく。
夕方の光が、彼の背中を淡く照らしていた。どこにでもいる中年の男の背中だった。少し丸くて、疲れていて、決して強そうには見えない。
けれどその背中は、逃げなかった。
黒瀬はその後ろ姿を見つめた。
兄の影を重ねそうになって、すぐにやめた。
佐藤誠司は、兄の代わりではない。
誰かの願いに縛られているだけの人でもない。
今、自分で選んで歩いている。
地下へ続く扉が開く。
冷たい空気が流れ出し、白い蛍光灯の光が床に伸びた。
誠司は振り返らなかった。
黒瀬は、胸の前で端末を握りしめる。
「佐藤さん」
声は届いたか分からない。
それでも、言わずにはいられなかった。
「どうか、無事で」
扉が閉まる。
重い音が、通用口に残った。
数分後、地下三階の管理室に、第四ダンジョン『ツクヨミ』への一時接続が開かれた。
見慣れない地図。
見慣れない警告。
見慣れない赤い光点。
救えば、守られる。
救えなければ、縛られる。
そんな条件の中で、誠司が見ていたのは、ただ一つだった。
取り残された人を、帰す。
冷たい端末の前で、佐藤誠司は震える手をキーボードに置いた。
第四ダンジョン『ツクヨミ』。
彼にとって初めての、未知の管理領域。
第2部の本当の試練が、静かに始まった。




