表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
減給された40代社畜、深夜バイトで国家級ダンジョンの管理者になる  作者: Gaku
第2部:管理者覚醒編

この作品ページにはなろうチアーズプログラム参加に伴う広告が設置されています。詳細はこちら

PR
54/75

第54話 画面の中の、君を


 星野ミナは、笑っていた。


 笑わなければ、画面の向こうにいる数万人が不安になる。


 笑わなければ、自分の足が止まってしまう。


「みんなー、見えてる? ついに来ちゃいました、第七ダンジョン深層!」


 右手に固定した小型カメラのレンズが、青白い洞窟の奥を映していた。岩肌は濡れたガラスのように光を返し、足元には細い水流が黒い線になって走っている。どこか遠くで、水滴が落ちる音がした。ぽつり、ぽつりと、一定の間隔で響くその音が、深層の静けさをかえって際立たせていた。


 ミナの背後には、護衛役の探索者が二人いる。ひとりは前方を警戒し、もうひとりは後ろを振り返りながら進んでいた。どちらも軽口を叩かない。浅層で配信しているときとは、空気の重さが違う。


 コメント欄は、画面の端を流れ続けていた。


『深層きたあああ』

『ミナちゃん無理すんな』

『これ大丈夫なやつ?』

『神配信確定』

『引き返せるうちに戻って』


「大丈夫大丈夫。ミナちゃん、こう見えて運だけはいいから」


 自分で言った言葉に、喉の奥が少し詰まった。


 運がいい。


 本当にそうなら、弟はあんな白い病室で、細い腕に管を繋がれていない。


 配信前に届いた病院からの通知が、頭の隅に貼りついたまま離れない。今月分の支払い。追加の検査。次の治療。数字の並んだ画面を見た瞬間、胃の底が冷たくなった。


 ここで再生数が伸びれば。


 切り抜きが回れば。


 案件が増えれば。


 もう少しだけ、あの子に時間を渡せる。


「今日はね、無茶はしません。ちゃんと帰るところまでが配信だからね」


 そう言った直後、足元の水面が揺れた。


 最初は、誰かが踏み込んだだけの小さな波紋に見えた。だが次の瞬間、洞窟の奥から低い音が押し寄せてきた。


 地鳴りだった。


 岩の内側を巨大な獣が這っているような、腹の底に響く重い音。


「……え?」


 ミナの声が、ほんの少しだけ裏返った。


 前を歩いていた探索者が振り返る。


「ミナさん、下がって!」


 その声が終わるより早く、通ってきた通路の天井に亀裂が走った。細かな石片が雨のように落ちてくる。カメラのレンズに白い粉塵がかかり、画面が一瞬ぼやけた。


 後方で、何かが崩れる音がした。


 乾いた破裂音ではない。重いものが、重いまま地面に叩きつけられる音だった。


「退避路!」


 後衛の探索者が叫び、来た道へ走った。だが、数歩で立ち止まる。


 通路は、塞がっていた。


 青白い岩壁の間に、崩落した岩が隙間なく積み重なっている。そこから細い砂煙が上がり、ライトの光を飲み込んでいた。


 コメント欄の流れが変わる。


『え?』

『今の音なに』

『やばくない?』

『退路ふさがってない?』

『運営呼べ』

『ミナちゃん逃げて』


 ミナは唇を開いた。


 声が出なかった。


 喉が乾いているのに、舌の裏に冷たい唾液だけが溜まる。手袋の内側がじっとりと湿っていく。カメラを持つ手が震え、それを隠すように、ミナは無理やり笑った。


「……ちょっと、びっくりしたね。でも大丈夫。こういう時こそ落ち着いて、ね?」


 誰に言っているのかわからなかった。


 視聴者にか。


 仲間にか。


 自分にか。


 洞窟の奥で、また低い音がした。今度は近い。壁面に走る光の筋が乱れ、足元の水が細かく震えている。


 前衛の探索者が端末を確認し、顔を強張らせた。


「通信、救助信号は飛んでます。ただ、位置が深すぎる。正規ルートが潰れてる以上、外から来るには時間がかかります」


「時間って、どれくらい?」


「分かりません」


 その短い答えが、洞窟の中で不自然なほど大きく響いた。


 ミナは画面を見た。


 コメント欄は、もう読めない速さで流れていた。心配する声、混乱する声、助けを求める声。中には配信を切れというコメントもあった。


 でも、ミナは切れなかった。


 切った瞬間、本当に自分たちがこの暗い深層に取り残された気がしてしまう。


「みんな……ごめんね。ちょっとだけ、やばいかも」


 笑おうとした。


 頬が引きつった。


「でも、見てて。ちゃんと帰るから」


 その言葉の最後に、天井から落ちた水滴がミナの頬を伝った。


 涙に見えないよう、ミナはすぐに顔を横へ向けた。


     *


 地下三階の管理室では、警報音が赤い光と一緒に跳ねていた。


 誠司は反射的に椅子から身を起こした。


 端末の表示が、通常のエントリ一覧から緊急画面へ切り替わる。


【緊急】

【第七管理領域 深層】

【登録活動者 三名孤立】

【退避経路:全封鎖】

【領域安定値:低下中】


「第七……?」


 誠司の指先が、キーボードの上で止まった。


 部屋の空調音が、急に遠くなる。蛍光灯の白い光が机の端で冷たく反射していた。紙コップのコーヒーはまだ湯気を立てているのに、誠司の背中にはうっすら汗が浮いていた。


 コトリの声が、端末から落ち着いて響く。


『誠司。第七管理領域深層で、登録活動者三名が孤立しました。退避経路は全て封鎖。外部救助到達まで、推定時間は不確定です』


「不確定って……間に合うのか」


『現在の安定値低下速度では、通常救助を待つ場合、生存可能性が急速に下がります』


 誠司は奥歯を噛んだ。


 赤い光点が三つ、深層の閉じた区画に取り残されている。地図上では、ただの点だった。これまで何度も見てきた、消してはいけない赤い点。


 けれど、コトリが次に表示したものは、いつものマップではなかった。


『対象の一名は、配信探索者・星野ミナ。現在、生配信中です。視聴者数は増加中』


「配信中……?」


『はい。映像を表示します』


 端末の片隅に、別ウィンドウが開いた。


 そこに映っていたのは、青ざめた若い女性の顔だった。


 ヘルメットのライトに照らされた頬に、粉塵がついている。明るく整えられていたはずの前髪は汗で額に貼りつき、唇の色は薄い。それでも彼女は、カメラに向かって笑おうとしていた。


『大丈夫、大丈夫だよ、みんな……ミナちゃん、運だけはいいから……』


 声が震えていた。


 怖いのに。


 怖くてたまらないはずなのに。


 画面の向こうの誰かを安心させるために、笑っていた。


 誠司の胸の奥で、何かが静かに沈んだ。


 赤いランプを消す。


 登録活動者を帰す。


 それは、これまで何度もやってきたことだった。けれど今、誠司は初めて、赤い点の向こうにいる人間の顔を見ていた。


 怖さを隠して笑う、二十一歳の女の子。


 家に帰りたいと、まだ口に出せずにいる顔。


 誠司の脳裏に、美咲の声がよぎった。


 諦めないで。


 全部を背負わなくていい。それでも、自分が助けたいと思ったものまで手放さなくていい。


 誠司はゆっくり息を吸った。


 指の震えは止まらなかった。止まらないまま、キーに触れた。


「……この子を、帰す」


 コトリは黙っていた。


 その沈黙は、空白ではなかった。


 端末の奥で、彼女が誠司の言葉を受け止めているような、静かな間だった。


 誠司は画面の中のミナを見た。


 それから、三つの赤い光点を見た。


「絶対に、帰す」


『了解しました、誠司。第七管理領域深層、緊急退避経路の再構築を開始します』


 端末の表示が切り替わる。


 崩落区画、圧力分布、安定値、残存通路、封鎖された退避経路。


 数字と線が、夜の管理室に一斉に広がった。


 誠司は椅子に深く座り直し、両手をキーボードに置いた。


 画面の中で、ミナがまだ笑おうとしている。


 その笑顔が消える前に。


 帰り道を、作らなければならなかった。




 最初に触れたのは、圧力分布だった。


 第七管理領域の深層は、誠司が慣れているアマテラスの構造とは違っていた。通路が枝のように分かれ、ところどころで古い洞穴が重なり合っている。崩れた岩がひとつの道を塞いだだけではない。そこに流れていた力の逃げ場がなくなり、別の壁や天井へ押し寄せていた。


 誠司の額に汗がにじむ。


 指を動かすたび、端末の上で白い線が走った。赤い警告が消えない。ひとつ処理すると、別の数値が跳ね上がる。


「こっちを抜いたら、奥が崩れる……じゃあ、先に圧を逃がしてからか」


『はい。第一段階、深層外縁部への負荷分散を推奨します。ただし、分散先の安定値が不足しています』


「不足してるなら、補強する」


『補強に三十七秒必要です』


「やる」


 声は小さかったが、迷いはなかった。


 誠司は補強対象を指定し、崩落しかけている外縁部に管理エネルギーを流した。画面の片隅で、配信映像のミナが膝をついている。探索者のひとりが肩を貸し、もうひとりが崩落した通路の向こうをライトで照らしていた。


 画面越しに聞こえる息づかいが荒い。


『みんな、コメント見えてるよ……大丈夫、まだ大丈夫だから』


 ミナはそう言った。


 けれど、カメラが揺れるたびに、手袋の指先が震えているのが見えた。


 誠司は視線を戻した。


 大丈夫にするのは、彼女じゃない。


 ここにいる自分の仕事だ。


「コトリ、第二段階」


『崩壊区画の安定化へ移行します。誠司、右側の支柱構造が想定より脆弱です』


「そこを先に固定。退路は左へ逃がす」


『左側は狭隘です。三名同時通過は困難』


「同時じゃなくていい。順番に出られればいい」


『了解しました』


 端末に表示された通路の線が、細く青く変わっていく。


 それはまだ道ではなかった。崩れた岩の隙間に、かろうじて息を吹き込むようなものだった。誠司は一つずつ、崩落の向きと残存空間を読み、通れる幅を探した。


 焦るな。


 急げ。


 二つの言葉が胸の中でぶつかり合う。


 早くしなければ死ぬ。


 雑にやれば、もっと早く死ぬ。


 誠司は、震える指を一度だけ机に押しつけた。爪の先が白くなる。痛みで、呼吸が少し戻った。


「……順番にやればいい」


 誰に聞かせるでもなく、そう言った。


「一個ずつ、帰すために」


     *


 ミナの耳に、ぴしり、と細い音が届いた。


 振り向くと、右の壁に入っていた亀裂が広がっていた。ライトの光の中で、石粉がゆっくり舞う。空気がざらつき、喉の奥に砂の味がした。


「ミナさん、立てますか」


「立てる。大丈夫」


 本当は、膝が笑っていた。


 弟の顔が浮かぶ。


 病室の窓際で、小さく手を振っていた顔。


 配信、見るね。


 お姉ちゃんはすごいんだって、友達に言う。


 そんなことを言っていた。


 こんな顔は見せられない。


 怖くて、泣きそうで、もう帰れないかもしれないなんて顔は。


 ミナはカメラに向かって笑った。


「ちょっとだけ、画面揺れるかも。ごめんね。あとで切り抜く人、可愛く編集してね」


 コメント欄が泣き顔の絵文字で埋まった。


 その時だった。


 塞がった通路の奥で、青白い光が走った。


 最初は、目の錯覚かと思った。濡れた岩肌に、細い線が一本浮かび上がる。それが枝分かれし、崩れた岩の輪郭をなぞるように広がった。


 探索者が息を呑む。


「なんだ、これ……」


 光は、冷たいのに温かく見えた。


 ただ照らしているのではない。崩れかけた場所を押さえ、塞がった空間の奥から、道の形を思い出させているようだった。


 ごご、と低い音が鳴る。


 積み重なっていた岩の一部が、ゆっくり横へずれた。砂煙が噴き出し、ミナは腕で顔をかばう。カメラが揺れ、視聴者の悲鳴のようなコメントが流れた。


 けれど、崩れなかった。


 岩壁の奥に、人ひとりが通れるほどの隙間が開いていた。


「……道?」


 ミナの声は、ほとんど息だった。


 その瞬間、カメラが偶然、光の走った壁を映した。


 壁面に、淡い文字が浮かんでいた。


【退避経路 再構築】


【管理者:S.S】


 ほんの数秒だった。


 光は水面に落ちた月のように揺れ、すぐに消えた。


 だが、視聴者の中には見た者がいた。


『今文字出た』

『S.Sってなに』

『管理者?』

『退避経路再構築って出てたぞ』

『誰かが助けてる』

『ミナちゃん走って!』


 探索者がミナの腕を掴んだ。


「行きます!」


 ミナは頷いた。


 足がもつれそうになる。けれど、止まらなかった。細い退避路の中は湿っていて、肩が岩に擦れた。ライトが何度も壁にぶつかり、青白い光が視界の端で跳ねる。


 背後で、また崩れる音がした。


 ミナは振り返らない。


 振り返ったら、膝が折れる気がした。


「走って! もう少し!」


 誰かの声が響く。


 それが仲間の声なのか、自分の声なのか分からないまま、ミナは出口の光へ向かった。


     *


 端末上で、三つの赤い光点が閉鎖区画を抜けた。


 誠司は息を止めて見ていた。


 一つ。


 二つ。


 三つ。


 全ての光点が安全領域へ移動した瞬間、警告表示が黄色へ変わった。


【登録活動者 三名】

【退避完了】

【生命反応:安定】


 誠司の肩から、力が抜けた。


 背もたれに身体を預けた途端、自分のシャツが背中に貼りついていることに気づいた。手のひらは汗で濡れていて、指先がまだ細かく震えている。


「……帰れたか」


『はい。三名全員、生還しました』


「よかった」


 それ以上の言葉は出なかった。


 配信画面では、ミナが安全区域の床に座り込んでいた。ヘルメットを外し、髪を乱したまま、両手でスマホを握っている。


『みんな……ごめん。心配かけた』


 ミナの声は掠れていた。


 泣きそうな顔で、それでも笑っていた。


『誰かが、助けてくれた。今の、見た人いる? S.Sって……誰?』


 誠司は画面を見つめた。


 ミナは、こちらを知らない。


 誠司も、彼女のことを何も知らない。なぜ危険な深層に潜ったのか。何のために笑っていたのか。誰のために、怖さを飲み込んでいたのか。


 ただ、帰せた。


 今はそれだけでよかった。


「コトリ」


『はい』


「ログ、残ったか?」


『管理者表示が、現地光学記録に一瞬投影されました。配信映像にも映り込んだ可能性が高いです』


 誠司は目を瞬かせた。


「……え?」


『現在、配信の同時視聴者数は急増しています。切り抜き動画、短文投稿、掲示板への転載が始まっています』


 端末の横に、関連投稿が流れ始める。


『星野ミナ遭難から生還』

『謎の管理者S.S実在か』

『退避経路が勝手に開いた瞬間』

『管理者様ありがとう』

『これ政府案件だろ』

『S.Sって誰だよ』


 誠司は、画面に並ぶ文字を呆然と見た。


 自分のしたことが、知らない場所で知らない人たちに見られている。


 今まで地下の端末で、誰にも見えない赤いランプを消してきた。助かった人がいても、それは静かに処理済みの表示へ変わるだけだった。


 けれど今夜は違った。


 画面の中で、数万人が見ていた。


 誰かが助けられる瞬間を。


 そこに、見えてはいけない名前の断片が映った瞬間を。


 誠司は小さく息を吐いた。


「……まずいのか、これ」


 コトリは、少しだけ間を置いた。


『状況は、不確定です』


 その言い方で、誠司は察した。


 良いことばかりではない。


 ミナが助かったことは、間違いなくよかった。三人とも帰れた。それは揺るがない。けれど、助けた手の形まで世間に見えたことで、何かが動き出す。


 管理室の蛍光灯が、低く唸った。


 地下の空気は変わらない。端末も、椅子も、冷めかけたコーヒーも、いつものままだ。


 それなのに誠司は、自分の背後で遠い扉がひとつ開いたような気がした。


 画面の向こうで、ミナがスマホを胸に抱きしめている。


『S.Sさん……見てるか分かんないけど』


 彼女は、震える唇で笑った。


『助けてくれて、ありがとう』


 誠司は何も返せなかった。


 返せる場所に、いなかった。


 ただ、端末の前で深く頭を下げるように、目を伏せた。


「……無事でよかった」


 その夜、謎の管理者の名は、一気に広がった。


 星野ミナは、まだ知らない。


 自分を救ったS.Sが、深夜の地下で働く、どこにでもいる父親だということを。


 佐藤誠司も、まだ知らない。


 彼女が笑顔の裏で、弟の命をつなぐために深層へ潜っていたことを。


 ただ一つだけ、確かなことがあった。


 画面の中で震えていた少女は、生きて帰った。


 そして、その奇跡を見た人々のざわめきは、夜が明けても止まらなかった。


 誰かが感謝し、誰かが憧れ、誰かが探し始める。


 その熱の裏側で、別の誰かが同じ映像を見ていた。


 助けた者を、守るためではなく。


 その力を、どう縛るかを考えるために。


評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

↑ページトップへ