第54話 画面の中の、君を
星野ミナは、笑っていた。
笑わなければ、画面の向こうにいる数万人が不安になる。
笑わなければ、自分の足が止まってしまう。
「みんなー、見えてる? ついに来ちゃいました、第七ダンジョン深層!」
右手に固定した小型カメラのレンズが、青白い洞窟の奥を映していた。岩肌は濡れたガラスのように光を返し、足元には細い水流が黒い線になって走っている。どこか遠くで、水滴が落ちる音がした。ぽつり、ぽつりと、一定の間隔で響くその音が、深層の静けさをかえって際立たせていた。
ミナの背後には、護衛役の探索者が二人いる。ひとりは前方を警戒し、もうひとりは後ろを振り返りながら進んでいた。どちらも軽口を叩かない。浅層で配信しているときとは、空気の重さが違う。
コメント欄は、画面の端を流れ続けていた。
『深層きたあああ』
『ミナちゃん無理すんな』
『これ大丈夫なやつ?』
『神配信確定』
『引き返せるうちに戻って』
「大丈夫大丈夫。ミナちゃん、こう見えて運だけはいいから」
自分で言った言葉に、喉の奥が少し詰まった。
運がいい。
本当にそうなら、弟はあんな白い病室で、細い腕に管を繋がれていない。
配信前に届いた病院からの通知が、頭の隅に貼りついたまま離れない。今月分の支払い。追加の検査。次の治療。数字の並んだ画面を見た瞬間、胃の底が冷たくなった。
ここで再生数が伸びれば。
切り抜きが回れば。
案件が増えれば。
もう少しだけ、あの子に時間を渡せる。
「今日はね、無茶はしません。ちゃんと帰るところまでが配信だからね」
そう言った直後、足元の水面が揺れた。
最初は、誰かが踏み込んだだけの小さな波紋に見えた。だが次の瞬間、洞窟の奥から低い音が押し寄せてきた。
地鳴りだった。
岩の内側を巨大な獣が這っているような、腹の底に響く重い音。
「……え?」
ミナの声が、ほんの少しだけ裏返った。
前を歩いていた探索者が振り返る。
「ミナさん、下がって!」
その声が終わるより早く、通ってきた通路の天井に亀裂が走った。細かな石片が雨のように落ちてくる。カメラのレンズに白い粉塵がかかり、画面が一瞬ぼやけた。
後方で、何かが崩れる音がした。
乾いた破裂音ではない。重いものが、重いまま地面に叩きつけられる音だった。
「退避路!」
後衛の探索者が叫び、来た道へ走った。だが、数歩で立ち止まる。
通路は、塞がっていた。
青白い岩壁の間に、崩落した岩が隙間なく積み重なっている。そこから細い砂煙が上がり、ライトの光を飲み込んでいた。
コメント欄の流れが変わる。
『え?』
『今の音なに』
『やばくない?』
『退路ふさがってない?』
『運営呼べ』
『ミナちゃん逃げて』
ミナは唇を開いた。
声が出なかった。
喉が乾いているのに、舌の裏に冷たい唾液だけが溜まる。手袋の内側がじっとりと湿っていく。カメラを持つ手が震え、それを隠すように、ミナは無理やり笑った。
「……ちょっと、びっくりしたね。でも大丈夫。こういう時こそ落ち着いて、ね?」
誰に言っているのかわからなかった。
視聴者にか。
仲間にか。
自分にか。
洞窟の奥で、また低い音がした。今度は近い。壁面に走る光の筋が乱れ、足元の水が細かく震えている。
前衛の探索者が端末を確認し、顔を強張らせた。
「通信、救助信号は飛んでます。ただ、位置が深すぎる。正規ルートが潰れてる以上、外から来るには時間がかかります」
「時間って、どれくらい?」
「分かりません」
その短い答えが、洞窟の中で不自然なほど大きく響いた。
ミナは画面を見た。
コメント欄は、もう読めない速さで流れていた。心配する声、混乱する声、助けを求める声。中には配信を切れというコメントもあった。
でも、ミナは切れなかった。
切った瞬間、本当に自分たちがこの暗い深層に取り残された気がしてしまう。
「みんな……ごめんね。ちょっとだけ、やばいかも」
笑おうとした。
頬が引きつった。
「でも、見てて。ちゃんと帰るから」
その言葉の最後に、天井から落ちた水滴がミナの頬を伝った。
涙に見えないよう、ミナはすぐに顔を横へ向けた。
*
地下三階の管理室では、警報音が赤い光と一緒に跳ねていた。
誠司は反射的に椅子から身を起こした。
端末の表示が、通常のエントリ一覧から緊急画面へ切り替わる。
【緊急】
【第七管理領域 深層】
【登録活動者 三名孤立】
【退避経路:全封鎖】
【領域安定値:低下中】
「第七……?」
誠司の指先が、キーボードの上で止まった。
部屋の空調音が、急に遠くなる。蛍光灯の白い光が机の端で冷たく反射していた。紙コップのコーヒーはまだ湯気を立てているのに、誠司の背中にはうっすら汗が浮いていた。
コトリの声が、端末から落ち着いて響く。
『誠司。第七管理領域深層で、登録活動者三名が孤立しました。退避経路は全て封鎖。外部救助到達まで、推定時間は不確定です』
「不確定って……間に合うのか」
『現在の安定値低下速度では、通常救助を待つ場合、生存可能性が急速に下がります』
誠司は奥歯を噛んだ。
赤い光点が三つ、深層の閉じた区画に取り残されている。地図上では、ただの点だった。これまで何度も見てきた、消してはいけない赤い点。
けれど、コトリが次に表示したものは、いつものマップではなかった。
『対象の一名は、配信探索者・星野ミナ。現在、生配信中です。視聴者数は増加中』
「配信中……?」
『はい。映像を表示します』
端末の片隅に、別ウィンドウが開いた。
そこに映っていたのは、青ざめた若い女性の顔だった。
ヘルメットのライトに照らされた頬に、粉塵がついている。明るく整えられていたはずの前髪は汗で額に貼りつき、唇の色は薄い。それでも彼女は、カメラに向かって笑おうとしていた。
『大丈夫、大丈夫だよ、みんな……ミナちゃん、運だけはいいから……』
声が震えていた。
怖いのに。
怖くてたまらないはずなのに。
画面の向こうの誰かを安心させるために、笑っていた。
誠司の胸の奥で、何かが静かに沈んだ。
赤いランプを消す。
登録活動者を帰す。
それは、これまで何度もやってきたことだった。けれど今、誠司は初めて、赤い点の向こうにいる人間の顔を見ていた。
怖さを隠して笑う、二十一歳の女の子。
家に帰りたいと、まだ口に出せずにいる顔。
誠司の脳裏に、美咲の声がよぎった。
諦めないで。
全部を背負わなくていい。それでも、自分が助けたいと思ったものまで手放さなくていい。
誠司はゆっくり息を吸った。
指の震えは止まらなかった。止まらないまま、キーに触れた。
「……この子を、帰す」
コトリは黙っていた。
その沈黙は、空白ではなかった。
端末の奥で、彼女が誠司の言葉を受け止めているような、静かな間だった。
誠司は画面の中のミナを見た。
それから、三つの赤い光点を見た。
「絶対に、帰す」
『了解しました、誠司。第七管理領域深層、緊急退避経路の再構築を開始します』
端末の表示が切り替わる。
崩落区画、圧力分布、安定値、残存通路、封鎖された退避経路。
数字と線が、夜の管理室に一斉に広がった。
誠司は椅子に深く座り直し、両手をキーボードに置いた。
画面の中で、ミナがまだ笑おうとしている。
その笑顔が消える前に。
帰り道を、作らなければならなかった。
最初に触れたのは、圧力分布だった。
第七管理領域の深層は、誠司が慣れているアマテラスの構造とは違っていた。通路が枝のように分かれ、ところどころで古い洞穴が重なり合っている。崩れた岩がひとつの道を塞いだだけではない。そこに流れていた力の逃げ場がなくなり、別の壁や天井へ押し寄せていた。
誠司の額に汗がにじむ。
指を動かすたび、端末の上で白い線が走った。赤い警告が消えない。ひとつ処理すると、別の数値が跳ね上がる。
「こっちを抜いたら、奥が崩れる……じゃあ、先に圧を逃がしてからか」
『はい。第一段階、深層外縁部への負荷分散を推奨します。ただし、分散先の安定値が不足しています』
「不足してるなら、補強する」
『補強に三十七秒必要です』
「やる」
声は小さかったが、迷いはなかった。
誠司は補強対象を指定し、崩落しかけている外縁部に管理エネルギーを流した。画面の片隅で、配信映像のミナが膝をついている。探索者のひとりが肩を貸し、もうひとりが崩落した通路の向こうをライトで照らしていた。
画面越しに聞こえる息づかいが荒い。
『みんな、コメント見えてるよ……大丈夫、まだ大丈夫だから』
ミナはそう言った。
けれど、カメラが揺れるたびに、手袋の指先が震えているのが見えた。
誠司は視線を戻した。
大丈夫にするのは、彼女じゃない。
ここにいる自分の仕事だ。
「コトリ、第二段階」
『崩壊区画の安定化へ移行します。誠司、右側の支柱構造が想定より脆弱です』
「そこを先に固定。退路は左へ逃がす」
『左側は狭隘です。三名同時通過は困難』
「同時じゃなくていい。順番に出られればいい」
『了解しました』
端末に表示された通路の線が、細く青く変わっていく。
それはまだ道ではなかった。崩れた岩の隙間に、かろうじて息を吹き込むようなものだった。誠司は一つずつ、崩落の向きと残存空間を読み、通れる幅を探した。
焦るな。
急げ。
二つの言葉が胸の中でぶつかり合う。
早くしなければ死ぬ。
雑にやれば、もっと早く死ぬ。
誠司は、震える指を一度だけ机に押しつけた。爪の先が白くなる。痛みで、呼吸が少し戻った。
「……順番にやればいい」
誰に聞かせるでもなく、そう言った。
「一個ずつ、帰すために」
*
ミナの耳に、ぴしり、と細い音が届いた。
振り向くと、右の壁に入っていた亀裂が広がっていた。ライトの光の中で、石粉がゆっくり舞う。空気がざらつき、喉の奥に砂の味がした。
「ミナさん、立てますか」
「立てる。大丈夫」
本当は、膝が笑っていた。
弟の顔が浮かぶ。
病室の窓際で、小さく手を振っていた顔。
配信、見るね。
お姉ちゃんはすごいんだって、友達に言う。
そんなことを言っていた。
こんな顔は見せられない。
怖くて、泣きそうで、もう帰れないかもしれないなんて顔は。
ミナはカメラに向かって笑った。
「ちょっとだけ、画面揺れるかも。ごめんね。あとで切り抜く人、可愛く編集してね」
コメント欄が泣き顔の絵文字で埋まった。
その時だった。
塞がった通路の奥で、青白い光が走った。
最初は、目の錯覚かと思った。濡れた岩肌に、細い線が一本浮かび上がる。それが枝分かれし、崩れた岩の輪郭をなぞるように広がった。
探索者が息を呑む。
「なんだ、これ……」
光は、冷たいのに温かく見えた。
ただ照らしているのではない。崩れかけた場所を押さえ、塞がった空間の奥から、道の形を思い出させているようだった。
ごご、と低い音が鳴る。
積み重なっていた岩の一部が、ゆっくり横へずれた。砂煙が噴き出し、ミナは腕で顔をかばう。カメラが揺れ、視聴者の悲鳴のようなコメントが流れた。
けれど、崩れなかった。
岩壁の奥に、人ひとりが通れるほどの隙間が開いていた。
「……道?」
ミナの声は、ほとんど息だった。
その瞬間、カメラが偶然、光の走った壁を映した。
壁面に、淡い文字が浮かんでいた。
【退避経路 再構築】
【管理者:S.S】
ほんの数秒だった。
光は水面に落ちた月のように揺れ、すぐに消えた。
だが、視聴者の中には見た者がいた。
『今文字出た』
『S.Sってなに』
『管理者?』
『退避経路再構築って出てたぞ』
『誰かが助けてる』
『ミナちゃん走って!』
探索者がミナの腕を掴んだ。
「行きます!」
ミナは頷いた。
足がもつれそうになる。けれど、止まらなかった。細い退避路の中は湿っていて、肩が岩に擦れた。ライトが何度も壁にぶつかり、青白い光が視界の端で跳ねる。
背後で、また崩れる音がした。
ミナは振り返らない。
振り返ったら、膝が折れる気がした。
「走って! もう少し!」
誰かの声が響く。
それが仲間の声なのか、自分の声なのか分からないまま、ミナは出口の光へ向かった。
*
端末上で、三つの赤い光点が閉鎖区画を抜けた。
誠司は息を止めて見ていた。
一つ。
二つ。
三つ。
全ての光点が安全領域へ移動した瞬間、警告表示が黄色へ変わった。
【登録活動者 三名】
【退避完了】
【生命反応:安定】
誠司の肩から、力が抜けた。
背もたれに身体を預けた途端、自分のシャツが背中に貼りついていることに気づいた。手のひらは汗で濡れていて、指先がまだ細かく震えている。
「……帰れたか」
『はい。三名全員、生還しました』
「よかった」
それ以上の言葉は出なかった。
配信画面では、ミナが安全区域の床に座り込んでいた。ヘルメットを外し、髪を乱したまま、両手でスマホを握っている。
『みんな……ごめん。心配かけた』
ミナの声は掠れていた。
泣きそうな顔で、それでも笑っていた。
『誰かが、助けてくれた。今の、見た人いる? S.Sって……誰?』
誠司は画面を見つめた。
ミナは、こちらを知らない。
誠司も、彼女のことを何も知らない。なぜ危険な深層に潜ったのか。何のために笑っていたのか。誰のために、怖さを飲み込んでいたのか。
ただ、帰せた。
今はそれだけでよかった。
「コトリ」
『はい』
「ログ、残ったか?」
『管理者表示が、現地光学記録に一瞬投影されました。配信映像にも映り込んだ可能性が高いです』
誠司は目を瞬かせた。
「……え?」
『現在、配信の同時視聴者数は急増しています。切り抜き動画、短文投稿、掲示板への転載が始まっています』
端末の横に、関連投稿が流れ始める。
『星野ミナ遭難から生還』
『謎の管理者S.S実在か』
『退避経路が勝手に開いた瞬間』
『管理者様ありがとう』
『これ政府案件だろ』
『S.Sって誰だよ』
誠司は、画面に並ぶ文字を呆然と見た。
自分のしたことが、知らない場所で知らない人たちに見られている。
今まで地下の端末で、誰にも見えない赤いランプを消してきた。助かった人がいても、それは静かに処理済みの表示へ変わるだけだった。
けれど今夜は違った。
画面の中で、数万人が見ていた。
誰かが助けられる瞬間を。
そこに、見えてはいけない名前の断片が映った瞬間を。
誠司は小さく息を吐いた。
「……まずいのか、これ」
コトリは、少しだけ間を置いた。
『状況は、不確定です』
その言い方で、誠司は察した。
良いことばかりではない。
ミナが助かったことは、間違いなくよかった。三人とも帰れた。それは揺るがない。けれど、助けた手の形まで世間に見えたことで、何かが動き出す。
管理室の蛍光灯が、低く唸った。
地下の空気は変わらない。端末も、椅子も、冷めかけたコーヒーも、いつものままだ。
それなのに誠司は、自分の背後で遠い扉がひとつ開いたような気がした。
画面の向こうで、ミナがスマホを胸に抱きしめている。
『S.Sさん……見てるか分かんないけど』
彼女は、震える唇で笑った。
『助けてくれて、ありがとう』
誠司は何も返せなかった。
返せる場所に、いなかった。
ただ、端末の前で深く頭を下げるように、目を伏せた。
「……無事でよかった」
その夜、謎の管理者の名は、一気に広がった。
星野ミナは、まだ知らない。
自分を救ったS.Sが、深夜の地下で働く、どこにでもいる父親だということを。
佐藤誠司も、まだ知らない。
彼女が笑顔の裏で、弟の命をつなぐために深層へ潜っていたことを。
ただ一つだけ、確かなことがあった。
画面の中で震えていた少女は、生きて帰った。
そして、その奇跡を見た人々のざわめきは、夜が明けても止まらなかった。
誰かが感謝し、誰かが憧れ、誰かが探し始める。
その熱の裏側で、別の誰かが同じ映像を見ていた。
助けた者を、守るためではなく。
その力を、どう縛るかを考えるために。




