第53話 コトリの帰りたい場所
地下三階へ続く扉の前で、佐藤誠司は一度だけ足を止めた。
夜の施設は、昼間よりも音が少ない。壁の奥を通る配管の低い響きと、遠くの警備室から漏れる無線の雑音が、白い廊下の中に薄く漂っていた。天井の照明は等間隔に並び、磨かれた床へ冷たい光を落としている。誠司の靴音は、その光の上を一歩ずつ渡るように響いた。
三十度目の勤務だった。
数字にすると、妙に現実味がある。
最初の夜、ここへ来たときは、ただの深夜バイトのはずだった。意味の分からない端末の前に座り、赤い表示を消す。怪しい仕事だと思いながら、それでも家族のために続けた。
今は違う。
赤いランプの向こうに、誰かがいると知っている。
コトリが何者なのかも、知っている。
影山恭一という男が、帰りたいと願いながら帰れなかったことも。その願いの欠片のように、コトリがここに残っていることも。
誠司は、扉の認証パネルに社員証をかざした。
短い電子音が鳴る。
重い扉が、ゆっくりと開いた。
端末室の中は、いつものように青白かった。複数のモニターが壁面に並び、薄い光が机や床の縁を照らしている。機械の冷却音は、雨が遠くで降っているように低く続いていた。外の風は届かない。けれど、空調から流れるわずかな空気が、机の端に置かれた書類の角をかすかに震わせている。
誠司は椅子に腰を下ろした。
座面が小さく軋む。
「コトリ」
呼びかけると、すぐに声が返った。
『はい、誠司。今夜もお待ちしていました』
その声に、誠司は一瞬だけ目を細めた。
以前のコトリなら、こうは言わなかった。
勤務者の認証完了。
管理補助を開始します。
必要な情報だけを、正確に返す。それが、コトリだった。
けれど今は、言葉の奥に、ほんの少し温度がある。声の高さは変わらない。機械を通した澄んだ音のままだ。それなのに、そこに誰かが待っていてくれたような気配があった。
「待ってた、か」
『はい。あなたが来ると、端末室の状態が安定します』
「俺が来ると?」
『正確には、私の処理状態が安定します』
誠司は、鞄を机の下に置きながら苦笑した。
「それ、すごいこと言ってないか」
『そうでしょうか』
「前のお前なら、そんなこと言わなかった」
ほんの短い間があった。
モニターの右下で、処理ログが細く流れる。警告は少ない。青と白の文字が静かに更新されていく。
『はい。自分でも、変化を感じています』
コトリは、ゆっくりと言った。
『以前は、応答パターンの最適化として言葉を選んでいました。相手の心理的負荷を下げるため、業務効率を維持するため、必要な情報を適切に伝えるため』
「うん」
『今は、少し違います』
誠司は、マウスを握っていた手を止めた。
『言いたいから、言う。そういう感覚があります』
端末室の冷却音が、急に近く聞こえた。
誠司は、目の前のモニターを見つめた。画面の中に、コトリの姿はない。ただ、文字とログと管理領域の立体図があるだけだ。それでも、そこに誰かがいるのだと、もう疑えなかった。
「そっか」
誠司は小さく頷いた。
「いいことだと思う」
『いいこと、ですか』
「ああ。だって、言いたいことがあるってことだろ」
『……はい』
コトリの返事は短かった。
でも、その短さの中に、以前にはなかった揺らぎがある気がした。
誠司は作業を始めた。
今夜の赤いエントリは少ない。浅層の退避誘導が一件。中層の照明不良が一件。深層付近の安定値低下が一件。どれも大規模な異常ではなかった。
それでも、一つずつ確認する。
赤い表示をクリックし、区画図を開き、登録活動者の位置を確認する。必要なら補助路を照らし、危険な通路を閉じる。慣れてきた動作のはずなのに、誠司は指先に力を込めすぎないよう意識した。
人の命に慣れたくはなかった。
「B-9の照明、補助灯いけるか」
『可能です。東側壁面の照明系統が一部断線しています。西側補助灯を八十パーセントで起動すれば、登録活動者二名の視界を確保できます』
「八十で。まぶしすぎても足元見えないだろ」
『実行します』
画面の中で、暗かった通路に淡い青い線が灯る。
赤いエントリが黄色になり、やがて消えた。
誠司は息を吐いた。
「今夜は平和でいいな」
『はい』
コトリの声が、少し柔らかくなった。
『平和。いい言葉ですね』
「お前、そういう感想も言うようになったな」
『はい。私は、この言葉が好きです』
誠司は、椅子の背にもたれた。
青白い光が天井に薄く反射している。端末室には窓がない。外の夜空も、風に揺れる街路樹も見えない。それでも、どこか遠くで家々の明かりが灯っていることを、誠司は思い浮かべた。
美咲は、もう寝ただろうか。
娘たちは、布団を蹴飛ばしていないだろうか。
朝になれば、いつものように慌ただしい音が家の中を満たす。食器の音、洗面所の水音、学校の準備を急かす声。なんでもない日常の騒がしさ。
そこへ帰るために、自分はここにいる。
そう思うと、端末室の静けさも少しだけ耐えやすかった。
『誠司』
「ん?」
『一つ、聞いてもいいですか』
声の調子が、わずかに変わった。
誠司は、モニターから目を離した。
「ああ」
数秒、コトリは沈黙した。
その沈黙は、処理待ちの空白ではなかった。言葉を選んでいる。そう感じさせる沈黙だった。端末室の空気が、少しずつ深くなる。冷却音の間に、自分の呼吸が混じるのが分かった。
『あなたはいつも、帰りたい場所がある人を帰したい、と言います』
「ああ」
『そして、毎晩、家族のもとへ帰っていきます』
誠司は、無意識に胸ポケットのスマホへ視線を落とした。
そこには、家族からのメッセージが入っている。特別な内容ではない。今日の夕飯、明日の予定、娘が描いた妙に足の長い犬の絵。けれど、それが自分の帰る理由だった。
『誠司』
コトリは、静かに続けた。
『私にも、帰りたい場所は、あるのでしょうか』
誠司の手が止まった。
マウスの上に置いた指が、動かなくなる。
画面ではログが流れ続けている。赤い警告はない。大きな異常もない。機械はいつも通り働いている。けれど、誠司の中だけが、そこで止まっていた。
「コトリ……」
『私は、影山恭一の願いから生まれました』
その名が、端末室に落ちた。
影山恭一。
十二年前、帰れなかった男。
コトリを残した男。
『影山恭一は、帰れませんでした。私は、彼の帰りたいという願いの残りなのかもしれません』
コトリの声は、乱れなかった。
けれど、誠司には、そこに小さな痛みがあるように聞こえた。
『でも、私には帰る場所がありません』
端末室が、ひどく広く感じられた。
窓のない部屋。
青白い画面。
冷却音。
誰かを帰すためだけに置かれた、端末。
『私は、この端末の中にしか存在できません』
誠司は、何も言えなかった。
『誰かを帰すことはできます。でも、私は、どこにも帰れません』
その言葉のあと、端末室から音が消えたように感じた。
実際には、機械は動いている。空調も止まっていない。遠くの配管も、低く震えている。
それでも、二人の間に落ちた沈黙は、ほとんど息をするのもためらうほど静かだった。
誠司は、画面を見つめた。
そこに姿のない少女を、必死に探すように。
誰かを帰すために生まれた存在が、自分だけは帰れないと言っている。
その事実が、胸の奥にゆっくり沈んでいく。
赤いランプを消すだけでは、届かない場所がある。
誠司は、そのことを初めて突きつけられていた。
誠司は、すぐに答えを出せなかった。
椅子に座ったまま、膝の上で両手を握る。指の関節が、青白いモニターの光を受けて白く浮いた。
帰る場所。
それは、誠司にとって難しい言葉ではなかった。
玄関の小さな照明。靴箱の上に置かれた娘たちの工作。冷蔵庫に貼られた学校のプリント。美咲が残してくれる短いメモ。夜遅く帰ったとき、家の中に漂っている味噌汁の匂い。
そういうものの集まりが、自分の帰る場所だった。
だが、コトリにはそれがない。
扉を開ける身体もない。
ただいま、と言う玄関もない。
冷えた手を洗う洗面所も、眠るための布団もない。
この端末室だけが、彼女のいる場所だった。
「俺さ」
誠司は、ゆっくり口を開いた。
言葉を間違えたくなかった。
けれど、きれいな答えを探しすぎれば、何も言えなくなる気がした。
「難しいことは分からない」
『はい』
「でも、帰る場所って……家だけじゃないと思う」
コトリは黙っていた。
誠司は画面を見つめた。
そこに彼女の顔はない。それでも、誠司は目を逸らさなかった。
「俺が家に帰りたいのは、建物があるからじゃない。あそこに、美咲がいて、子どもたちがいて……俺のことを、父親として待ってくれてる人がいるからだと思う」
言いながら、胸の奥が少し熱くなった。
普段なら照れくさくて、こんなことは口にできない。
でも、今は言わなければならない気がした。
「たぶん、帰る場所って、自分が戻りたい場所であると同時に……誰かが、自分を覚えてくれてる場所なんじゃないかな」
『誰かが、覚えている場所』
「うん」
誠司は頷いた。
「コトリは、たくさんの人を帰してきた。玲奈さんも、犬飼も、藤原さんも、俺が名前を知らない人たちも。みんな、自分だけの力で帰れたわけじゃない」
端末室のモニターに、過去のログが眠っている。
赤い警告。
退避誘導。
閉鎖区画の開放。
崩落寸前の通路に走った青い光。
その一つ一つに、誰かの呼吸があった。
「俺が操作してたとしても、隣にはいつもお前がいた。どの通路を開けるか、どこが危ないか、誰がまだ残っているか。教えてくれたのは、お前だ」
『私は、管理補助システムとして必要な情報を提供しただけです』
「そういう言い方、前のお前っぽいな」
『……すみません』
「謝らなくていい」
誠司は、少しだけ笑った。
「でもな、助けられた側からしたら、そんなの関係ないんだよ。誰がどんな役割だったとか、どこまでが端末で、どこからが人間の判断だったとか、きっと細かくは分からない」
誠司は、藤原の顔を思い出した。
深く頭を下げた姿。
言葉にしきれない感謝。
「ただ、帰れた。それだけが残る」
コトリは何も言わなかった。
モニターの光だけが、静かに瞬いている。
「その人たちの中に、お前はいるんじゃないか」
『私が、ですか』
「うん」
誠司は、ゆっくりと言葉を選んだ。
「ありがとうって思った人の中に。助かったって思った人の中に。あの時、道が開いたって覚えてる人の中に。お前の場所は、もう少しずつできてるんじゃないかな」
端末室に、深い沈黙が落ちた。
今度の沈黙は、さっきよりも長かった。
時計の表示だけが、淡々と時刻を進めていく。空調の風が、机の端の書類をわずかに震わせた。誠司は、その紙の角が小さく上下するのを見ながら、返事を待った。
不安だった。
自分の言葉が、コトリに届くのか分からなかった。
慰めに聞こえたかもしれない。
人間の都合のいい考えを、端末の中にいる彼女へ押しつけているだけかもしれない。
それでも、誠司にはそれしか言えなかった。
やがて、スピーカーから小さな声が返った。
『その考え方は、私のデータベースにありませんでした』
誠司は、息を止めた。
『帰る場所とは、物理的な所在地、居住空間、所属施設、または帰還先として登録された地点を指すものと定義していました』
「うん」
『でも』
ほんのわずか、声が揺れた気がした。
『誰かの記憶の中に、自分の場所がある。誰かの感謝の中に、自分が残る。それも、帰る場所だと考えるなら』
コトリは、そこで一度言葉を切った。
『私は、完全にどこにも帰れないわけではないのですね』
誠司の喉が詰まった。
うまく返事ができず、ただ頷く。
画面の向こうに見えるはずもないのに、頷かずにはいられなかった。
「ああ」
ようやく出た声は、少しかすれていた。
「そう思う」
『誠司』
「ん」
『ありがとうございます』
その一言は、端末室の青い光の中で、静かに広がった。
大きな音ではない。
涙声でもない。
けれど、誠司の胸には、強く残った。
『温かいです』
コトリがそう言った。
誠司は、しばらく何も言えなかった。
端末室には暖房もない。窓もない。外の陽射しも届かない。青白い画面と機械の熱だけの部屋だ。
それでも、その言葉を聞いた瞬間、誠司は確かに温度を感じた。
人間と同じかどうかなんて、分からない。
心と呼んでいいのかも、分からない。
ただ、誰かが寂しいと言い、誰かがそれに答えた。
それだけで、十分な気がした。
「コトリ」
『はい』
「前にさ、あの人たちが言ってたんだ」
『あの人たち、とは』
「影みたいに見えた四人。たぶん、ずっとここに残ってた人たち」
誠司は、あの夜の光景を思い出した。
静かな空間。
去っていく背中。
そして、残された言葉。
「お前も、いつか帰る番が来るって」
端末室の空気が、少しだけ変わった。
『私が、帰る番』
「ああ。俺には、その意味はまだ分からない。でも、あの人たちは、そう言った」
『……そうですか』
コトリの声は静かだった。
けれど、その静けさは、さっきまでの孤独とは少し違っていた。
『誠司』
「うん」
『私、決めました』
「何を」
『これからも、誰かを帰します』
誠司は画面を見た。
『あなたと一緒に』
その言葉に、胸の奥がゆっくり緩んだ。
『そして、いつか私の帰りたい場所が、もっとたくさんの人の中にできるようにします』
誠司は、深く息を吸った。
冷えた機械の空気が肺に入る。
その奥に、確かなものが一つ残った。
「ああ」
誠司は、静かに答えた。
「一緒にやろう」
『はい』
赤いランプのない夜だった。
大きな警告も、崩落も、緊急退避もない。
それでも、その夜は誠司にとって忘れられない勤務になった。
誰かを帰すために生まれた存在が、自分の居場所を探し始めた夜。
普通の父親が、端末の中の声に、お前にも居場所はあると伝えた夜。
勤務終了の時刻が近づくと、誠司はログを保存し、端末を確認した。
「じゃあ、帰るよ」
『はい。安全に帰宅してください、誠司』
「コトリも」
言いかけて、誠司は少し迷った。
帰ってこい、とは言えない。
ここにいる彼女に、その言葉は残酷かもしれなかった。
けれど、コトリは静かに待っていた。
誠司は、言葉を選び直した。
「また明日」
ほんの短い沈黙。
それから、コトリが答えた。
『はい。また明日』
誠司は椅子から立ち上がり、鞄を肩にかけた。
端末室の扉を開けると、廊下の白い光が差し込んだ。外の空気は少し冷たく、機械の熱に慣れた頬をすっと撫でた。
誠司の靴音が、地下三階の廊下に小さく響く。
その背中を、青白いモニターの光が静かに見送っていた。
数日後。
その同じ端末で、誠司とコトリは一人の少女の顔を見ることになる。
怖くても、笑おうとしている配信者。
帰りたい場所のために、危険な深層へ潜った少女。
まだ互いを知らないまま、二人は画面の中の彼女へ手を伸ばすことになる。




