第52話 配信探索者・星野ミナ
画面の向こうには、いつも人がいた。
第三ダンジョン浅層、通称「灰羽の回廊」。
天井の低い石造りの通路には、薄い霧のような魔素が漂っている。照明球の青白い光が、壁面に走る鉱脈を淡く照らし、足元の石畳に細かな影を落としていた。奥のほうからは、地下水が落ちる音が聞こえる。ぽたり、ぽたり、と規則正しく響くその音に混じって、遠くで小型モンスターの甲高い鳴き声がした。
そこを、星野ミナは軽やかに歩いていた。
背中には小型の探索バッグ。胸元には配信用カメラ。右手には短い警棒型の魔素ツール。左手には、コメント確認用の薄型端末を固定している。
肩までの明るい髪が、歩くたびにふわりと揺れた。
地上の風は届かないはずの場所なのに、通路を流れる微かな空気が、彼女の前髪をそっと持ち上げる。青白い光を受けた瞳は、画面越しでもよく映える角度を知っていた。
「はーい、みんなー! 今日も来てるよー!」
ミナはカメラに向かって、ぱっと笑った。
画面の隅で、コメントが滝のように流れていく。
『来た!』
『ミナちゃん今日もかわいい』
『浅層とはいえ気をつけて』
『灰羽の回廊って地味に怖いやつじゃん』
『今日の髪型好き』
「髪型気づいた? えらい! 今日はね、ちょっと動いても崩れにくいようにしてきました。なぜなら、ミナちゃんは今日も生きて帰る気まんまんなので!」
軽い笑い声が、湿った石壁に跳ね返った。
探索者が配信を行うようになってから、ダンジョンの空気は少し変わった。
かつては、危険と沈黙の場所だった。
今は、そこにカメラが入り、コメントが流れ、切り抜き動画が生まれる。誰かの危機も、誰かの笑顔も、数秒後には画面の外へ広がっていく。
ミナは、その流れの中心にいた。
チャンネル登録者数、数十万人。
明るく、よく喋り、怖い場所でも視聴者を不安にさせない。危険な場面では声を張り、何も起きない場面では冗談を言い、戦闘が終われば必ずカメラに向かって親指を立てる。
そういう配信者だった。
「今日は第三ダンジョンの浅層を、初心者さん向けに解説しながら歩いていきます。ここ、見た目より滑るからね。石畳に苔っぽいのがあるでしょ? これ、踏むとつるっといくやつです。ミナちゃん、一回ここで盛大に転びました」
『見たい』
『切り抜きある?』
『転倒芸助かる』
『無理すんなよ』
「無理すんなよ、ありがとー。でも大丈夫。こう見えてミナちゃん、ちゃんと強いんだから」
ミナはそう言って、警棒型ツールをくるりと回した。
その瞬間、通路の奥から灰色の小さな影が飛び出してくる。
羽のような薄い皮膜を持つ小型モンスターが、石壁を蹴って一直線に迫った。カメラの映像がわずかに揺れる。コメント欄が一気に速くなる。
ミナの表情は変わらなかった。
「はい、来た」
彼女は半歩だけ横へずれた。
靴底が石畳を擦る音。腰の入った短い動き。警棒の先端が淡く光り、飛び込んできた影の側面を正確に打つ。
甲高い悲鳴。
小型モンスターは壁に弾かれ、霧の中へ転がった。
「危ないから、初心者さんは今みたいに正面から受けないこと。避ける。止める。深追いしない。これ大事」
『うま』
『普通に強い』
『説明しながら倒すのすげえ』
『ミナ先生!』
「先生って呼ばれると照れるなー。じゃあ、今日の宿題は『無理しない』です」
笑いながら、ミナは再び歩き出した。
足音が、石畳の上に小さく響く。
画面ではずっと明るい。
けれど、カメラの映らない位置で、彼女の左手の指はほんの少し強く端末を握っていた。
配信の同時視聴者数は、悪くない。
だが、足りない。
浅層の安全配信は、視聴者に好かれる。コメントも温かい。けれど、爆発的には伸びない。広告収益も、案件単価も、大きく跳ねない。
もっと深い層へ。
もっと危険な場所へ。
もっと誰も映したことのない景色へ。
数字は、いつも静かに彼女を押してくる。
「さて、ここから右に行くと採取ポイント。左に行くと、ちょっと暗めの通路になります。どっち行く?」
ミナは、いつもの調子で視聴者に選ばせた。
コメント欄は、すぐに盛り上がる。
『右』
『左』
『暗い方!』
『安全第一で右』
『ミナちゃんなら左』
「お、左多いね。じゃあ、少しだけ左。危なかったらすぐ戻る。約束」
約束。
その言葉を言うときだけ、ミナの声は一瞬だけ柔らかくなった。
本人も気づかないほど、ほんの少し。
その先に、病室の白い壁があった。
薬品の匂い。
細い腕。
ベッドの上で笑う弟。
お姉ちゃん、危ないことしないでね。
記憶の中の声が、霧の向こうから届いた気がした。
ミナは、まばたきを一つした。
そして、何事もなかったように笑う。
「ミナちゃん、運だけはいいからね」
*
配信が終わったのは、午後四時過ぎだった。
地上に戻ると、空は薄く晴れていた。
ダンジョン管理棟の外には、夕方の光が斜めに差している。コンクリートの広場に伸びた影は長く、風に揺れる植え込みの葉が、その影の上で細かく震えていた。探索者たちの靴音、装備の金具が触れ合う音、遠くの道路を走る車の低い音。それらが混ざり合い、浅層の静けさとは違う、地上のざわめきを作っていた。
「お疲れさまでしたー!」
ミナはスタッフ用の簡易控室で、最後の挨拶を終えた。
配信機材を一つずつ外す。胸元のカメラ。肩の固定具。耳につけていた小型マイク。明るい声を出し続けた喉が、少しひりついている。
鏡の前に立つと、画面で見ていた自分とは少し違う顔が映った。
頬は笑顔の形をまだ覚えているのに、目の奥だけが疲れている。
「……よし」
ミナは両手で頬を軽く叩いた。
ぱん、と乾いた音が控室に響く。
誰もいない部屋だった。
配信中は、あれほどコメントが流れていたのに、終わった瞬間、音が消える。壁際のロッカー、折り畳み椅子、置きっぱなしの空きペットボトル。蛍光灯の白い光が、それらを平たく照らしている。
静かだった。
耳が痛くなるほどの静けさではない。
むしろ、さっきまで誰かの声で満たされていた場所から、全部が引いていったあとの静けさだった。海の水が引いた砂浜みたいに、そこに残ったのは、自分の呼吸だけだった。
ミナはスマホを開いた。
通知がいくつも並んでいる。配信の感想、切り抜きの投稿、視聴者からのメッセージ、案件担当者からの連絡。
その中に、病院からの通知があった。
指が止まる。
ほんの数秒。
それだけで、控室の空気が少し冷えた気がした。
ミナは通知を開いた。
次回治療に関する案内。
請求予定額。
追加検査の可能性。
画面に並ぶ数字は、ただの数字だった。けれど、それはミナにとって、弟の呼吸の残り時間みたいに見えた。
「……今月も、足りない」
声は、誰にも届かないくらい小さかった。
ミナは椅子に座った。
スマホの画面が、膝の上で淡く光っている。指先に、じわりと汗が滲んだ。探索中には冷静に動いた手が、今はうまく動かない。
両親は、もういない。
弟の病室に通うのは、ミナだけだ。
治療の説明を聞くのも、書類にサインするのも、支払いの相談をするのも、夜中に急変の連絡を受けるのも、全部ミナだった。
配信では、そんな顔は見せない。
見せたら、みんな心配する。
心配されると、優しくされる。
優しくされると、立っていられなくなりそうになる。
だから、笑う。
明るく喋る。
怖い場所でも、怖くないふりをする。
ミナは写真フォルダを開いた。
そこには、病室のベッドで笑う弟がいた。細い腕に点滴の管。少し大きすぎる病衣。窓際に置かれた折り紙の星。
弟は、画面の中で弱々しくピースをしている。
「お姉ちゃん、頑張るからね」
ミナの声が震えた。
目の奥が熱くなる。
涙がこぼれる前に、彼女は手の甲で強く拭った。化粧が少し崩れたが、構わなかった。
「泣いてる場合じゃない」
スマホを握り直す。
控室の外で、誰かの笑い声が通り過ぎた。扉の隙間から、夕方の光が細く差し込んでいる。その光の中を、小さな埃がゆっくり漂っていた。
「次、もっとバズらせなきゃ」
ミナは、配信予定表を開いた。
候補の一覧。
第三ダンジョン浅層。
第五ダンジョン中層。
第七ダンジョン深層。
その文字を見た瞬間、指先が止まった。
第七ダンジョン。
最近、不安定だという噂がある。
深層まで潜る配信者は少ない。危険だからだ。だが、だからこそ数字は取れる。誰も行かない場所には、誰も見たことのない景色がある。
ミナは、画面を見つめた。
息を吸う。
胸の奥が痛い。
それでも、弟の写真が脳裏に浮かんだ。
お姉ちゃん。
そう呼ぶ声が、背中を押す。
ミナは、震える指で予定欄を押した。
第七ダンジョン深層。
新規配信予定。
登録。
画面に小さく、完了の文字が出た。
ミナはしばらく、それを見つめていた。
控室の時計の針が、一つ進む。
誰も止めてくれない部屋で、彼女は一人、笑顔の準備を始めていた。
「ミナ、本気?」
翌日の夕方、探索者用のカフェスペースで、山下レイが声を低くした。
管理棟の二階にあるその場所は、探索帰りの者たちでほどよく混んでいた。壁際には装備を背負ったまま座れる広いベンチが並び、窓際の席には夕日が斜めに差し込んでいる。テーブルの上の紙コップから、湯気が細く立ち上っていた。外の植え込みでは、細い枝が風に揺れ、葉の影が窓ガラスの上をゆっくり滑っていく。
ミナは、ストローでアイスティーをかき混ぜた。
氷がグラスの内側に当たり、からん、と小さく鳴る。
「本気って、何が?」
「とぼけないで。第七の深層配信」
レイは、ミナの正面に座っていた。二十代半ばの女性探索者で、ミナより少し先輩にあたる。普段は冗談を言い合う仲だが、今の目は笑っていなかった。
「最近、第七は不安定って話、聞いてるでしょ」
「噂でしょ?」
「噂で済ませていい場所じゃない」
レイの声が、少し強くなった。
近くの席で笑っていた探索者たちの声が、一瞬だけ遠くなる。ミナはストローから指を離した。グラスの中で氷がゆっくり回り、やがて止まる。
「深層まで行く必要ないよ。ミナの配信、浅層でも十分人気あるじゃん」
「人気はあるよ」
ミナは笑った。
いつもの、画面に出す笑顔に近かった。
「でも、それだけじゃ足りないんだよね」
レイは眉を寄せた。
「足りないって、何が」
「数字」
短い言葉だった。
それ以上は言わなかった。
言えなかった。
弟の治療費のこと。毎月届く請求。病院の白い廊下。細くなった手で、それでも自分に笑いかけてくる弟の顔。
そういうものを言葉にすると、目の前のレイはきっと止める。支えると言ってくれるかもしれない。相談しろと言ってくれるかもしれない。
けれど、相談したところで、数字は減らない。
誰かの優しさで、請求書の桁は変わらない。
「ミナ」
レイの声が、今度は少し柔らかくなった。
「何かあるなら、言って。配信のことでも、お金のことでも」
ミナは、笑顔のまままばたきをした。
喉の奥に、小さな塊ができる。
言ってしまいたかった。
助けて。
怖い。
本当は、深層なんか行きたくない。
けれど、その言葉を出した瞬間、自分を支えている細い糸が切れそうだった。
「大丈夫」
ミナは、明るく言った。
「ミナちゃん、運だけはいいから」
レイの表情が曇る。
「それ、いつも言うけどさ」
「本当だもん。危ないとき、なんか道が開いたりするし」
「それを運で済ませるのが怖いって言ってるの」
レイはテーブルの上に置いた手を握りしめた。
爪が、紙ナプキンに小さな跡を残す。
「ダンジョンは、笑ってくれないよ。カメラの前でどれだけ明るくしてても、危ない時は危ない。コメント欄の誰も、手を伸ばせない」
ミナの笑顔が、ほんの少し薄くなった。
カフェスペースの天井から流れる空調の風が、二人の間に置かれた紙ナプキンの端を揺らした。外では夕日が沈みかけていて、窓際の光が赤みを増している。人の声も、食器の音も、どこか遠く感じた。
「知ってるよ」
ミナは、グラスを見つめたまま言った。
「でも、行かなきゃいけない時ってあるじゃん」
「誰のために?」
その問いに、ミナは答えなかった。
答えられなかった。
沈黙が、二人の間に落ちた。
それは短い沈黙だった。時計の秒針なら、五つも進まないくらいの時間。けれど、ミナにはずいぶん長く感じた。胸の奥で、何かがじっとこちらを見ている。
やがて、ミナは椅子を引いた。
脚が床を擦り、低い音を立てる。
「レイさん、心配してくれてありがと」
「ミナ」
「ちゃんと準備する。無茶はしない。危なかったら引き返す」
嘘ではない。
けれど、全部ではない。
ミナはバッグを肩にかけた。
窓の外の風が少し強くなり、植え込みの葉が一斉に揺れた。夕日の光がその葉の隙間を抜け、床に細かい模様を作っている。
「でも、配信はやる」
レイは、何も言わなかった。
ミナはその沈黙を背中で受けながら、カフェスペースを出た。
廊下に出ると、足音がやけに大きく響いた。誰かと笑っていた声が、自分の後ろで扉に遮られる。
スマホが震えた。
病院からではない。
弟からのメッセージだった。
『今日の配信見たよ。お姉ちゃん、かっこよかった』
添えられたスタンプは、病室で暇つぶしに描いたらしい、丸い星の絵だった。
ミナは、壁際で立ち止まった。
視界が少しにじむ。
でも、泣かなかった。
親指で返事を打つ。
『ありがと。次も楽しみにしてて』
送信してから、胸が痛くなった。
次も。
その約束が、自分を深層へ連れていく。
*
その夜、地下三階の端末室では、佐藤誠司が二十九度目の勤務についていた。
外の夜気はまだ肌寒かったが、端末室の中は機械の熱で少しだけ暖かい。モニターの光が誠司の顔を青く照らし、机の端に置いた缶コーヒーの影が細長く伸びていた。天井の空調は一定の音を立て、遠くの配管から水が流れるような低い響きが聞こえている。
赤いランプは少なかった。
暴走のあと、しばらく探索制限が強まった影響だろう。大きな警告はない。代わりに、活動ログの一覧には、見慣れない項目が増えていた。
「第七管理領域、登録活動者の活動増加……?」
誠司は画面をのぞき込んだ。
「コトリ、これ何だ」
『第七管理領域における探索申請件数が、直近七日間で増加しています。特に、映像配信目的の登録活動者が増加傾向です』
「配信目的……ダンジョンを配信するってことか」
『はい。装着型カメラ、外部通信端末、視聴者参加型進行を伴う探索が確認されています』
誠司は、眉をひそめた。
配信という言葉は、もちろん知っている。娘たちも、動画を見る。料理、ゲーム、工作、歌。いろいろなものが画面の中に流れてくる時代だ。
だが、ダンジョンまで配信するのか。
あの赤いランプの向こう側を。
「危なくないのか」
『危険です』
コトリの返答は早かった。
『視聴数を目的とした深層接近、長時間滞在、予定外ルート選択が増加しています。事故リスクは上昇しています』
誠司は、椅子の背から体を起こした。
画面上には、第七管理領域の活動ログが並んでいる。名前は識別番号に置き換えられているが、いくつかの項目には備考がついていた。
配信探索。
深層下見。
視聴者投票ルート。
誠司は、指先で机を軽く叩いた。
こつ、こつ、と小さな音が端末室に響く。
「見てる人が多いと、引き返しづらくなるのかな」
『可能性があります。外部視聴者からの期待、収益、評価が行動判断に影響するケースがあります』
「怖いな」
誠司は、素直にそう言った。
画面の中の数字は、ただの記録だ。
けれど、その向こうには生身の人間がいる。怖くても笑っている人がいるかもしれない。引き返したいのに、引き返せない人がいるかもしれない。
誠司は、少し前に藤原から言われた言葉を思い出した。
管理者様。
探索者の間で、そんなふうに呼ばれているらしい。
もし、その呼び名が広がれば、無茶をする人も出るのではないか。
危なくなっても、誰かが助けてくれると。
見えない管理者が、また道を開いてくれると。
そう思わせてしまったら。
誠司の背中に、薄い汗が浮いた。
端末室は暑くない。それでも、シャツの内側に湿った感覚が生まれた。
「コトリ」
『はい』
「第七の深層、しばらく注意して見ておいてくれ」
『了解しました。第七管理領域深層の活動ログを監視対象に追加します』
「無茶しなきゃいいけどな……」
誠司の声は、端末室の冷却音に溶けた。
コトリは、数秒だけ黙っていた。
その沈黙は、以前の機械的な処理待ちとは少し違っていた。何かを考えているような間だった。
『誠司』
「ん?」
『帰りたい場所がある人ほど、無理をすることがあります』
誠司は、画面から目を離した。
「……そうだな」
その言葉は、自分にも刺さった。
深夜バイトを始めた理由。
家計を支えたかった。
家族を守りたかった。
だから、訳の分からない地下施設にも通った。怖くても、分からなくても、端末の前に座った。
もしかしたら、配信探索者たちにも、それぞれの理由があるのかもしれない。
誠司は、もう一度ログを見た。
第七管理領域。
配信目的の探索増加。
その中に、星野ミナという名前は、まだ表示されていなかった。
誠司は知らない。
画面の向こうで明るく笑う二十一歳の配信者が、弟の治療費のために深層へ向かおうとしていることを。
ミナも知らない。
自分が何度か危機をくぐり抜けてきたその陰に、赤いランプを消し続ける男がいたかもしれないことを。
地上では、夜風が街路樹を揺らしていた。
病院の窓辺では、折り紙の星がかすかに揺れていた。
地下三階では、誠司が第七管理領域のログに注意マークをつけた。
星野ミナ、二十一歳。
数十万人を笑顔にする人気配信者。
その笑顔の裏で、彼女は弟の命のために、危険な深層へ潜ろうとしていた。
家族のために、戦う。
それは、ある男が深夜バイトを始めた理由と、同じだった。
二人は、まだ出会っていない。
しかし数日後、配信画面の中で、その運命が交差する。




