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減給された40代社畜、深夜バイトで国家級ダンジョンの管理者になる  作者: Gaku
第2部:管理者覚醒編

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第51話 英雄と、危険人物


 国家ダンジョン対策室の分析棟は、朝から冷えていた。


 窓の外では、灰色の雲が低く垂れ込めている。雨は降っていない。ただ、降り出す前の湿った空気だけが、建物の外壁に薄くまとわりついていた。換気口から流れ込む風が、廊下の隅に置かれた観葉植物の葉先をかすかに揺らす。その動きだけが、無機質な白い廊下の中で、生き物らしい音を立てていた。


 大暴走から、数日が過ぎていた。


 だが、対策室の中に、終わったという空気はなかった。


 モニターの群れは、いまだに赤や黄色の警告履歴を吐き出し続けている。壁一面に並んだ解析画面には、アマテラス地下領域の立体図、区画ごとの安定値、ミラージュ制御ログ、管理補助システムの介入記録が重ねて表示されていた。


 黒瀬環は、その前に立っていた。


 片手には薄いタブレット。もう片方の手は、白衣の袖口を押さえている。眠っていないのだろう。目の下には薄い影があった。それでも、視線だけは鋭かった。


「暴走の直接原因は、ミラージュの制御不全で確定です」


 若い分析官が、かすれた声で報告した。


 その声は、空調音に半分ほど飲まれた。室内には十数人がいたが、誰も余計な言葉を挟まない。キーボードを叩く音だけが、雨の前の静けさの中で乾いて響いていた。


 黒瀬は画面を見つめたまま、短く頷いた。


「そして、C区画とD区画の境界に生じた歪み」


 彼女が指先で画面を送る。


 青白い立体図の一部が拡大され、境界線が不自然にねじれた。通常なら滑らかに接続されるはずの管理領域が、そこだけ針金を無理に曲げたように歪んでいる。


「自然発生ではありません」


 分析官の喉が、小さく鳴った。


「管理補助システム、コトリの再解析でも同じ結果でした。暴走の引き金となった歪みは、人為的に誘発された可能性が高い」


 室内の空気が、わずかに沈んだ。


 それは、誰かが息をのんだ音ではない。全員が、同じ瞬間に呼吸の量を減らしたような沈黙だった。蛍光灯の低い唸りが、急に耳の奥へ近づいてくる。


 黒瀬は、袖口を押さえていた指を離した。


「ミラージュの大規模運用を強行したのは、白瀬総一郎とオービットゲート社です」


 誰も答えない。


 答えられる者など、いなかった。


「彼らは、自社AIの優位性を証明するために、制御限界に近い運用を行った。結果として、アマテラス全域を巻き込む暴走を招いた」


 黒瀬の声は静かだった。


 怒鳴らない。感情を荒げない。


 だからこそ、机の上に置かれたコーヒーの紙カップまで、固く冷えて見えた。


「それは……未必の故意に近いのでは」


 別の職員が言った。


 黒瀬は、すぐには答えなかった。


 画面の中で、赤い警告履歴が時系列に並んでいる。あの日、誠司が端末に向かい、赤いランプを一つずつ消していた時間。探索者たちが逃げ、救助隊が走り、地上で家族が祈っていた時間。その全部が、数字とログに変換され、冷たい画面の中に閉じ込められていた。


「証拠が足りません」


 黒瀬は言った。


「白瀬総一郎は、政治的な後ろ盾に守られている。こちらが半端な証拠で動けば、逆に潰される」


「では、このままですか」


 その問いには、焦りが混じっていた。


 黒瀬は、ゆっくりと振り向いた。


 窓の向こうで、雲の切れ目から一瞬だけ弱い日が差した。光は磨かれた床に薄く伸びたが、すぐにまた曇りに飲まれた。


「諦める、とは言っていません」


 彼女の声に、室内の全員が顔を上げた。


「白瀬の責任は、必ず追及します。あの暴走で死にかけた人たちがいる。帰れなくなるはずだった人たちがいる。救われたから、なかったことにしていい話ではありません」


 黒瀬はタブレットを閉じた。


 小さな電子音が、室内に落ちる。


「ただし、今はもう一つ、別の問題があります」


「別の問題、ですか」


「佐藤誠司さんです」


 その名前が出た瞬間、空気が変わった。


 敵の名ではない。


 責める相手の名でもない。


 それでも、その名は今、対策室のどの警告表示よりも重かった。


「彼は、アマテラスの暴走を止めました。救助隊の退避経路を開き、孤立した探索者を帰し、ミラージュから制御権を奪い返した」


 黒瀬は、閉じたタブレットを胸の前で抱えた。


「英雄です」


 誰かが、息を吐いた。


 安堵ではなかった。むしろ、その逆に近い。


 黒瀬は続けた。


「ですが同時に、政府の一部から見れば、彼は制御不能な権限を持つ民間人です」


 その言葉が、白い部屋の中に静かに沈んだ。


 誰も、否定できなかった。


 救った。


 だから、危険視される。


 その矛盾が、冷たい刃のように全員の胸に残った。


     *


 同じ日の夕方、誠司は地下施設の通路を歩いていた。


 勤務開始まで、まだ少し時間がある。


 通路の壁はいつもと同じ灰色で、天井の照明もいつもと同じ間隔で並んでいる。床には清掃後のわずかな湿り気が残り、靴底が触れるたび、かすかな音が返ってきた。こつ、こつ、と自分の歩く音だけが先に進んでいくようで、誠司は少し肩をすぼめた。


 暴走のあと、施設の空気は明らかに変わっていた。


 職員たちは、以前よりも丁寧に頭を下げるようになった。警備員も、扉を開けるタイミングが少し早い。誰かが小声で話していても、誠司が近づくと会話が止まる。


 悪意ではない。


 むしろ、敬意に近い。


 それが、誠司には落ち着かなかった。


「佐藤さん!」


 曲がり角の先から、明るい声が響いた。


 振り向くと、藤原響子がこちらへ駆け寄ってきた。探索服ではなく、対策部隊の薄いジャケット姿だった。髪は後ろで一つに結ばれている。まだ完全に疲れが抜けていないのか、頬は少し痩せて見えたが、目だけは強く光っていた。


「藤原さん。もう動いて大丈夫なんですか」


「はい。検査も問題ありませんでした」


 藤原はそう言って笑ったが、その笑顔は一瞬だけ揺れた。


 あの日のことを、忘れたわけではないのだろう。


 D-5区画。塞がれかけた退避路。赤い警告。崩れ落ちる壁。画面上の光点。


 誠司の頭にも、まだ残っている。


 赤いランプは消えた。


 けれど、消したあとも、人の震えまではすぐに消えない。


「佐藤さん、あのとき……私のチーム、また助けてもらいました」


 藤原は、深く頭を下げた。


 廊下の空気が、ぴたりと止まった。


 遠くで誰かが台車を押す音がしていたが、その音さえ薄い膜の向こうへ遠ざかったように聞こえた。


「D-5区画で、見捨てられかけたとき、退避経路が開いて……あれ、佐藤さんですよね」


 誠司は、すぐに返事ができなかった。


 自分がやった。


 確かに、端末を操作した。


 けれど、目の前でこうして礼を言われると、画面の中の光点が、急に体温を持った人間として立ち上がってくる。


「……はい」


 誠司は、小さく頷いた。


「間に合って、よかったです」


 それ以上の言葉は、出てこなかった。


 藤原は顔を上げた。目の端が少し赤い。


「本当に、ありがとうございました」


 誠司は慌てて手を振った。


「いや、そんな。俺は、端末でできることをしただけですから」


「それがすごいんです」


 藤原の声は、思ったより真っ直ぐだった。


「探索者の間で、もう噂になってます。見えないところから道を開いてくれる人がいるって。赤い警告を消して、帰り道を作ってくれる人がいるって」


「噂って……」


「みんな、管理者様って呼んでます」


 誠司は、顔の筋肉が固まるのを感じた。


「管理者様……」


 あまりにも自分に似合わない響きだった。


 家では、朝に卵焼きを少し焦がす父親だ。会社では、つい最近まで無能扱いされていた中年社員だ。深夜バイトでは、端末の前で冷や汗をかきながら、赤いランプを消しているだけの男だ。


 様をつけられるような人間ではない。


「いや、本当に、そんな大層なものじゃないです」


 誠司は苦笑した。


「俺は、ただのデータ入力ですよ」


 藤原は、少しだけ目を見開いた。


 廊下の奥から吹き込んだ空調の風が、彼女の前髪を揺らした。沈黙が落ちる。けれど、それは気まずい沈黙ではなかった。何かを言おうとして、でも言葉にするとこぼれてしまいそうで、二人とも黙っているような静けさだった。


「佐藤さん」


 藤原が、ゆっくりと言った。


「たぶん、助けられた側は、そうは思ってません」


 誠司は返事をしなかった。


 胸の奥が、少し熱くなった。


 嬉しいのか、怖いのか、自分でもよく分からない。


 英雄。


 その言葉は、服の上からでも重かった。


 自分は、そんなものになりたかったわけではない。


 赤いランプを消して、人を帰す。


 ただ、それだけだった。


 妻と子どもが待つ家へ、自分も帰りたい。だから、誰かにも帰ってほしい。始まりは、そんな小さな感覚だった。


「藤原さん」


「はい」


「生きて帰ってくれて、よかったです」


 藤原の唇が、少しだけ震えた。


 彼女は何かを言おうとして、やめた。そしてもう一度、深く頭を下げた。


 誠司は、その横を通り過ぎる。


 背中に、藤原の視線を感じた。


 廊下の先では、地下三階へ続く扉が待っている。その向こうに、いつもの端末がある。コトリがいる。赤いランプがある。


 歩くたび、靴音が小さく響く。


 英雄と呼ばれても、その音は変わらない。


 誠司は、扉の前で一度だけ立ち止まった。


 胸ポケットのスマホには、家族からのメッセージが入っている。美咲から、夕飯を冷蔵庫に入れておくという短い文。娘たちが描いたらしい、丸い顔の父親のスタンプ。


 それを見て、誠司は少しだけ息を吐いた。


「……帰らないとな」


 誰に聞かせるでもなく呟き、彼は地下三階の扉を開けた。


 その背中を、施設の監視カメラが静かに追っていた。


 そして地上では、彼を英雄と呼ぶ声とは別に、まったく違う言葉が動き始めていた。


 制御不能な力。


 国家管理。


 身柄の確保。


 誠司の知らない場所で、彼をめぐる言葉だけが、冷たい金属のように組み上がっていく。


 政府庁舎の上階は、夕方になっても明るかった。


 大きな窓の外には、都心の建物が幾重にも重なっている。ガラスに反射した空は、曇りの底にわずかな朱色をにじませていた。道路を流れる車の光が、遠くで細い線になって動いている。ここから見下ろす街は、静かだった。だが、その静けさは眠りではない。密かに息を潜めて、次の命令を待っているような静けさだった。


 三神官房副長官は、窓際に立っていた。


 背広の襟元に皺はない。髪も乱れていない。机の上には、黒い革張りの資料ファイルが数冊、角を揃えて置かれている。その几帳面さとは裏腹に、室内の空気は重かった。


「一人の民間人が、国家級ダンジョンの全制御権限を実質的に掌握している」


 官僚の一人が、資料を読み上げた。


 声は抑えられていたが、言葉の奥には明確な危機感があった。


「今回の大規模暴走において、佐藤誠司は政府の待機命令を無視し、独断で管理端末を操作。結果として多数の救命に成功しました」


「結果として、か」


 三神が静かに言った。


 官僚は一瞬だけ言葉を止めた。


「はい。あくまで結果として、です」


 窓の外で、雲の切れ間がまた塞がった。室内の明るさが、ほんのわずか落ちる。照明はついているのに、壁際の影だけが濃くなったように見えた。


「もし失敗していたら、どうなっていた」


 三神は振り向かない。


「被害は、地下施設全域に拡大していた可能性があります」


「もし彼が、悪意を持っていたら」


「……国家級ダンジョンの構造そのものを、人質に取れる立場です」


 別の官僚が、低い声で続けた。


「探索者、救助隊、研究員、施設職員。全員の退避経路を、彼一人の判断で開閉できる。現時点で、彼に代わる操作権限者はいません」


 会議室には、壁時計の針が進む音だけが残った。


 秒針が一つ動くたびに、見えない何かが締められていく。


「彼は英雄だと、現場は言っているそうだな」


 三神の声に、感情はなかった。


「はい。探索者の間では、すでに半ば伝説化しています。名前は伏せられているものの、管理者という呼称が広がりつつあります」


「伝説は、厄介だ」


 三神はようやく窓から離れた。


 革靴の音が、厚い絨毯に吸い込まれる。大きな音ではない。それでも、その場の全員が彼の一歩を聞いていた。


「人は、法よりも伝説を信じることがある」


 誰も口を開かなかった。


 三神は、机の上の資料ファイルに手を置いた。


「つまり、君たちは何を提案する」


 官僚の一人が、唇を湿らせた。


 額に浮いた汗が、照明を受けて薄く光る。室内は涼しい。それでも、その汗は引かなかった。


「佐藤誠司を、国家の管理下に置くべきです」


 言葉が落ちた。


 落ちた瞬間、部屋の空気がさらに硬くなった。


「管理下、とは」


 三神が聞く。


「表向きは保護です。身元の秘匿、安全確保、特別任務従事者としての待遇。しかし実態としては、居住地、通信、移動、端末接触のすべてを国家が管理する形になります」


「身柄の確保に近いな」


「必要であれば」


 官僚の声は震えなかった。


「自由に動かれては、リスクが大きすぎます」


 三神はしばらく黙っていた。


 窓の外では、夕暮れの光が街のビルの角に引っかかり、鋭い線を作っている。風があるのだろう。遠くの屋上に立つ旗が、細かく揺れていた。ここまで音は届かない。ただ、その動きだけが、外の世界にも空気が流れていることを示していた。


「白瀬総一郎の件はどうなっている」


 三神が問いを変えた。


「オービットゲート社は、ミラージュの制御不全について、予期不能な環境変動が原因だったと説明しています」


「責任を認めていない、ということか」


「はい。白瀬氏は、むしろ佐藤誠司による独断操作が事態を不安定化させた可能性もある、と」


 室内の数人が、わずかに眉を動かした。


 あまりにも露骨だった。


 だが、露骨であっても、政治の場では言葉として出された時点で意味を持つ。


 三神は、資料ファイルを開かなかった。


 必要なことは、すでに聞いたという顔だった。


「佐藤誠司を英雄として放置すれば、現場は彼を信仰する。危険人物として切り捨てれば、現場が反発する。ならば、保護という名目で囲い込むのが最も穏当だ」


 官僚たちは、沈黙で応じた。


 三神は椅子に座った。


 深く腰を下ろす音が、やけに重く響いた。


「検討に値するな」


 その一言で、部屋の温度が一段下がった気がした。


 誰も大きく動かない。だが、書記役の職員だけが、静かにペンを走らせた。


 紙の上に、佐藤誠司という名前が記録される。


 本人の知らない場所で。


 本人が誰かを帰そうとしている、そのすぐ上の階層で。


     *


 地下三階の端末室は、いつもより静かだった。


 誠司は椅子に座り、モニターの前で小さく肩を回した。端末の冷却音が低く続いている。薄い青色の光が、机の縁を照らしていた。部屋の隅では、ケーブルの束が黒い影のように床を這っている。


「コトリ、今夜の警告は」


 誠司が問いかけると、スピーカーから澄んだ声が返った。


『現在、重大警告はありません。中程度の赤いエントリが二件。いずれも退避誘導で対応可能です』


「そっか。なら、落ち着いてやろう」


『はい、誠司』


 以前なら、コトリは彼を識別番号で呼んでいた。


 今は、名前で呼ぶ。


 それだけのことなのに、誠司は少しだけ救われる気がした。ここに一人で座っているわけではない。画面の向こうに、確かに応えてくれる誰かがいる。


 赤いランプが二つ、端に点灯していた。


 誠司はマウスを握り、ログを開く。指先に、わずかな緊張が走る。慣れてきたはずなのに、赤を見るたび、胸の奥はまだ固くなる。


 慣れてはいけない。


 そうも思う。


 赤いランプの向こうには、必ず誰かがいる。画面の上では小さな点でも、その人には帰りたい場所がある。今日の夕飯を待つ家族がいるかもしれない。読みかけの本が机に伏せてあるかもしれない。喧嘩したまま謝れていない相手がいるかもしれない。


 誠司は、ゆっくり息を吸った。


「第一エントリ、退避経路確認」


『該当区画、B-12。登録活動者二名。通路西側に障害物あり。東側補助路、開放可能です』


「東側を開ける。照明誘導もつけて」


『実行します』


 画面上で、細い青い線が点灯した。


 赤いランプの一つが、黄色に変わり、やがて消える。


 ただそれだけのことに、誠司は小さく息を吐いた。


 英雄。


 管理者様。


 そんな言葉より、この瞬間のほうがずっと確かだった。


 赤が消える。


 誰かが帰れる。


 それだけでいい。


 しばらくして、二つ目の赤も消えた。


 端末室に、静けさが戻る。大きな事件のあとにしては、穏やかな夜だった。誠司は背もたれに体を預け、天井を見上げた。白い照明が目に入り、少しまぶしい。


「俺さ」


『はい』


「今日、藤原さんに会った」


『藤原響子。D-5区画で救助対象となった対策部隊員ですね』


「うん。礼を言われた」


『それは、正当な感謝です』


「正当って言われると、なんか堅いな」


『では、当然の感謝です』


「もっと堅い」


 誠司は苦笑した。


 その笑いは、すぐに小さく消えた。


「管理者様って呼ばれてるらしい」


『探索者間の非公式呼称として、複数ログに確認されています』


「本当にあるんだ……」


『はい』


 誠司は額に手を当てた。


「困ったな」


『不快ですか』


「不快じゃない。ただ、怖い」


 その言葉を口にした途端、端末室の静けさが少し深くなった。


 コトリは、すぐには返さなかった。


 冷却音が、同じ調子で続いている。


「誰かに感謝されるのは、嬉しいよ。助かってよかったって思う。でも、俺はそんな立派な人間じゃない。間違えるし、迷うし、怖いし……会社じゃ、ずっと役立たずみたいに扱われてた」


 誠司は、画面の黒い余白に映る自分の顔を見た。


 疲れた中年の男が、そこにいた。


 目元には皺があり、髪にも白いものが混じっている。英雄という言葉からは、あまりにも遠い顔だった。


「そんな俺が、誰かの命を預かってる。みんなが、勝手にすごい人みたいに思い始めてる。それが、怖い」


『誠司』


 コトリの声は、少しだけ柔らかかった。


『あなたは、自分を大きく見せようとしていません』


「うん」


『だから、私はあなたを信頼できます』


 誠司は、何も言えなかった。


 胸の奥にあった固まりが、少しだけ形を変える。消えたわけではない。ただ、握りしめ続けなくてもよくなった気がした。


「ありがとな」


『はい』


 端末室の外で、かすかに足音がした。


 警備員だろう。一定の間隔で近づき、通り過ぎていく。足音が遠ざかると、また機械の音だけが残った。


 誠司は、モニターの隅に表示された時刻を見た。


 もうすぐ、日付が変わる。


 家に帰れば、美咲は眠っているかもしれない。子どもたちも布団の中だろう。冷蔵庫には夕飯が入っている。電子レンジの温め時間は、たぶん付箋に書いてある。


 それを思うと、誠司の肩から少しだけ力が抜けた。


「終わったら、帰るよ」


『はい。安全に帰宅してください』


「ああ」


 誠司は、残りのログを確認し始めた。


 そのころ、地上では、彼の帰る道とは別の道が作られていた。


 国家の名で。


 保護の名で。


 本人の意思とは関係なく、静かに。


     *


 同じ夜、オービットゲート社の高層フロアでは、白瀬総一郎が一人で映像を見ていた。


 大暴走時の管理ログ。


 ミラージュの異常値。


 そして、佐藤誠司が制御権を奪還した瞬間の記録。


 暗い部屋に、モニターの光だけが浮かんでいる。窓の外には、都心の夜景が広がっていた。無数の灯りが、まるで別の端末画面のように瞬いている。


 白瀬は、椅子に深く座っていた。


 指先で、ワイングラスの縁をなぞる。


 その目に、焦りはない。


 敗北を認めた者の顔でもなかった。


「佐藤誠司」


 彼は、名前を口にした。


 声は低く、静かだった。


「実に厄介だ」


 画面の中で、制御ログが流れる。


 誠司の操作は、洗練されてはいない。粗い。迷いがある。無駄もある。だが、最後には必ず人を帰す。


 それが、白瀬には気に入らなかった。


 合理性だけなら、切り捨てるべき場面がいくつもあった。部分を捨てれば全体が早く安定する。何人かを諦めれば、より多くを守れる。ミラージュはそう判断した。白瀬も、その判断を否定しない。


 だが、佐藤誠司は違った。


 遅くても、迷っても、全員を帰そうとした。


 その結果、ミラージュは敗れた。


 白瀬はグラスを置いた。


 乾いた音が、静かな部屋に響く。


「感情で動く人間ほど、群衆には好まれる」


 彼は薄く笑った。


「そして、群衆に好まれる人間ほど、政府には嫌われる」


 画面の片隅に、別のウィンドウが開いていた。


 若い男のプロフィール。


 天城蓮。十九歳。


 所属は曖昧だ。正式な肩書きよりも、非公式な記録のほうが多い。侵入検知網突破。閉鎖系システム解析。模擬管理領域における異常処理速度、国内最高値。


 白瀬は、その名前に視線を落とした。


「次の駒は、君だ」


 彼は通話ボタンに指をかけた。


 まだ押さない。


 楽しむように、少しだけ間を置いた。


 夜景の向こうで、風に揺れる高層ビルの屋上灯が赤く点滅している。その光は、遠くから見ると警告灯に似ていた。


「英雄には、対抗する天才が必要だ」


 白瀬は、ようやくボタンを押した。


 画面が暗転する。


 その黒い画面に、佐藤誠司の知らない新しい影が、静かに近づいていた。


     *


 勤務を終えた誠司が地上へ出ると、夜風が頬に触れた。


 雨は降らなかったらしい。路面は乾いていた。ただ、空気にはまだ湿り気が残っている。街路樹の葉が風に揺れ、薄暗い歩道の上に細かい影を落としていた。遠くの交差点では、信号が青に変わり、車の列がゆっくり動き出す。


 誠司は、肩にかけた鞄を持ち直した。


 施設の出口に立つ警備員が、いつもより深く頭を下げた。


「お疲れさまでした」


「あ、はい。お疲れさまです」


 誠司も慌てて頭を下げる。


 まだ慣れない。


 どれだけ周囲の目が変わっても、誠司自身は、急に立派な人間になれるわけではない。家に帰れば、脱いだ靴を揃える。洗面所で手を洗う。冷えた夕飯を温める。家族を起こさないように、そっと風呂に入る。


 それでいい。


 それがいい。


 誠司は夜道を歩き出した。


 靴音が、歩道に小さく返る。街路樹の葉が擦れ合い、乾いた音を立てる。ビルの隙間から吹いた風が、ワイシャツの袖を揺らした。


 英雄になった実感など、少しもなかった。


 ただ、今日も赤いランプを消した。


 今日も、誰かが帰れた。


 その事実だけを胸にしまって、誠司は駅へ向かった。


 背後の地下施設では、監視カメラが静かに回っている。


 その映像は記録され、共有され、分析されていく。


 佐藤誠司は、英雄になった。


 しかし、英雄になったことで、彼は新しい鎖に縛られようとしていた。


 制御不能な力は、危険だ。


 政府の一部は、そう考え始めていた。


 一方、白瀬総一郎は、暴走の責任を問われることなく、次の一手を静かに準備していた。


 その駒の名は、天城蓮。


 十九歳。



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