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減給された40代社畜、深夜バイトで国家級ダンジョンの管理者になる  作者: Gaku
第1部:深夜バイト編

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第50話 帰してやる

 世界が、裏返った。


 誠司は、作業室に立っているはずだった。


 端末に手を置き、赤色灯の回る地下三階で、柴田の叫び声を背中に聞いているはずだった。


 けれど次の瞬間、足元の床は消えていた。


 椅子も、机も、蛍光灯も、壁際の配線も、すべて遠くへ引き剥がされる。代わりに押し寄せてきたのは、アマテラスそのものだった。


 広い。


 あまりにも広い。


 通路がある。階段がある。壁が軋み、床が沈み、閉じかけた隔壁が震えている。B区画の空気の濁り、C区画の熱、D区画の砂塵、E区画の濡れた石の匂い。その全部が、目で見るより先に、皮膚の内側へ流れ込んできた。


 頭蓋骨の内側を、無数の針で掻き回されるようだった。


「ぐ……っ」


 誠司の喉から、潰れた声が漏れた。


 実際の身体は、まだ作業室にある。


 手のひらには端末の冷たい感触がある。膝は震え、背中には汗が張りついている。けれど意識は、もうそこに収まりきらない。


 B-2区画で、三人組の探索者が階段を駆け上がっている。


 C-8区画で、隔壁の前に取り残された二人が、互いの肩を支えている。


 D-5区画で、藤原響子が瓦礫の前に立っている。


 E-1区画で、若い隊員が転倒し、仲間が腕を掴んで引きずっている。


 白い光点。


 白い光点。


 白い光点。


 ひとつひとつが、ただの表示ではなかった。


 息がある。体温がある。震える指がある。家族に送れなかった短いメッセージがある。帰ったら飲もうと思っていた缶コーヒーが、ロッカーの上に置きっぱなしになっている。


 誠司は、歯を食いしばった。


 鼻の奥が焼けるように熱い。


 次の瞬間、生温かいものが唇まで流れ落ちた。鉄の味が広がる。右目の奥がずきりと痛み、視界の端に赤黒い滲みが浮かんだ。


『誠司! 肉体負荷が危険域です!』


 コトリの声が、遠くからではなく、頭の内側で響いた。


 いつもより近い。


 けれど、その声にも微かな揺れがあった。


『接続深度が想定上限を超えています。心拍数上昇。血圧異常。視神経負荷、危険域。誠司、これ以上は──』


「止めない」


 誠司は呻くように言った。


「まだ、誰も帰ってない」


 赤い崩壊反応が、巨大な波のように迫っていた。


 ひとつの区画を支えれば、隣の区画が崩れる。ひとつの扉を開けば、別の通路に圧が流れ込む。ミラージュが切り捨てた理由が、嫌でもわかった。


 全部を救おうとすれば、全部を同時に見なければならない。


 全部を同時に支えなければならない。


 人間ひとりの頭で、できる量ではなかった。


「くそ……っ」


 誠司は、見えない通路の中へ手を伸ばすように、端末へ指を押しつけた。


 D-5区画の退避経路を開こうとする。


 だが、瓦礫の向こうの補助通路に、C区画からの崩壊圧が流れ込んでいる。そこを開けば、藤原たちのいる空間ごと潰れる。


 C区画を止める。


 するとB区画の亀裂が広がる。


 B区画を押さえる。


 E区画の隔壁が落ちる。


 遅い。


 足りない。


 手が足りない。


「多すぎる……」


 喉から漏れた声は、ほとんど息だった。


「一人じゃ、全部は……」


 その瞬間。


 アマテラスの底の底から、何かが昇ってきた。


 最初は、小さな光だった。


 赤い崩壊反応の海の底に、四つの淡い灯が浮かんだ。今にも消えそうで、それでも消えない。長い夜の中で、誰かが最後まで握りしめていたマッチの火のようだった。


 誠司は、息を呑んだ。


 その光を、知っている。


 見たことがある。


 深い場所で、自分に触れてきた気配。名前も声も届かなかったのに、ずっと何かを伝えようとしていた存在。


 四つの影が、赤い闇の中から現れた。


 一人は、冷たいほど澄んだ輪郭を持っていた。


 その影が近づくと、乱雑に絡み合っていた崩壊反応が、線として見えた。どこから崩れ、どこへ流れ、どこを止めれば次が生きるのか。複雑な迷路の出口が、白い糸のように浮かび上がる。


 もう一人は、背筋の伸びた影だった。


 迷う誠司の手元に、強い圧が添えられる。そこではない。先にこっちだ。言葉はないのに、指示が流れ込んでくる。力任せではなく、崩壊の波を受け流す角度がわかる。


 三人目は、小さく燃えるような影だった。


 折れそうになった誠司の胸の奥へ、熱が入ってくる。まだ立てる。まだ押せる。膝が震えても、呼吸が乱れても、ここで手を離すなと、背中を叩かれるようだった。


 そして、四人目。


 その影だけは、他の三つよりも少し柔らかかった。


 誠司のすぐ隣に立つ。


 顔は見えない。


 けれど、不思議と怖くなかった。


 影は、瓦礫の奥にいる藤原たちを見ていた。B区画で転んだ探索者を見ていた。E区画で泣きそうになっている若い隊員を見ていた。


 そして、誠司に向けて、静かに言った。


『──帰してやれ』


 声ではなかった。


 けれど確かに、届いた。


 誠司の目から、熱いものがこぼれた。


 血なのか涙なのか、もうわからない。頬を伝ったそれが顎先に落ち、作業室の床に小さな点を作った。


「ああ」


 誠司は頷いた。


「ああ……帰す」


 四つの影が、誠司の周囲に重なった。


 すると、さっきまで人間ひとりの手には余っていたアマテラスが、少しだけ形を持った。


 全てを抱え込むのではない。


 崩れようとするものを、順に見て、必要な場所へ必要な分だけ手を置く。


 変えられない崩落にしがみつかず、今まだ開けられる道を選ぶ。


 押し返すのではなく、流れを逃がす。


 救える順番ではなく、全員が帰れる道を探す。


 誠司は、奥歯を噛みしめた。


「コトリ、B区画の圧をC-3予備通路へ逃がす。E区画の隔壁は落とさない、半開きで固定。D-5の上層瓦礫を支えるには、C区画側の揺れを先に止める」


『了解。B区画圧力分散、C-3予備通路へ誘導。E区画隔壁、半開状態で固定』


 コトリの処理が、誠司の意識と重なる。


 いつものように命令を受けて動くのではない。


 誠司が感じるより早く、コトリが支え、コトリが計算するより早く、誠司が選ぶ。二つの呼吸が、ひとつの胸の中で合っていくようだった。


 その時、四人目の影が、ふいにコトリのほうを向いた。


『……』


 言葉はなかった。


 けれど、コトリの声が途切れた。


『この反応は──』


 コトリの声が、小さく揺れた。


『私の基底領域に、同一波形……いえ、これは……』


 誠司は痛みに耐えながら、叫んだ。


「コトリ! 今は考えるな! 目の前を──」


『違います、誠司』


 コトリの声が、初めて聞くほど静かになった。


 赤い警報の中で、その静けさだけが、深い水の底のように広がった。


『私は、この人を知っています』


 四人目の影が、ほんの少しだけ明るくなった。


 名前のない影だったはずなのに、誠司の胸にひとつの気配が浮かぶ。


 帰れなかった者。


 それでも、最後まで誰かを帰そうとした者。


 コトリの声が震えた。


『K-03-TORI』


 端末の奥で、古い扉が開くような感覚があった。


『Kは……』


 コトリは、そこで一度止まった。


 作業室の警報音が、遠くなる。


 アマテラス全体の赤い波の中で、四人目の影だけが、コトリへ手を伸ばしているように見えた。


『私は──』


 その声は、もうシステムの返答ではなかった。


 一人の誰かが、自分の名前を思い出そうとしている声だった。


『私は──影山恭一の、願いから生まれた』


 その名が響いた瞬間、アマテラスの底で眠っていたものが、静かに震えた。


 声ではない。


 記録でもない。


 十二年前の暗い通路で、誰かが最後に握りしめていた思いだった。


 みんな、帰れ。


 自分が戻れなくても。


 身体がもう動かなくても。


 せめて、誰かだけは。


 その願いが、消えずに残っていた。


 誠司は、血の滲む視界の中で、四人目の影を見た。


 影山恭一。


 顔はわからない。声も、はっきりとは聞こえない。それでも、その人がどんな思いで最後の瞬間を迎えたのかだけは、胸の奥へ真っ直ぐ入ってきた。


 悔しかったはずだ。


 怖かったはずだ。


 帰りたかったはずだ。


 それでも、最後に願ったのは、自分ではなく誰かの帰り道だった。


『私は、ずっと……』


 コトリの声が揺れた。


『誰かを、帰したかった』


 作業室の端末が白く明滅する。


 赤い警報の海の中で、コトリの声だけが澄んでいく。


『私は、誰かを帰したい。あなたと同じです、誠司』


 誠司は喉の奥で笑った。


 笑う余裕などなかったのに、少しだけ口元が動いた。


「じゃあ、やるぞ」


『はい』


 今度の返答に、迷いはなかった。


『共に戦います』


 四人の影が、誠司の周りに重なる。


 コトリの処理が、管理領域の奥へ深く差し込まれる。


 誠司は目を閉じた。


 閉じても、見える。


 B区画の亀裂が広がる前に、圧を逃がす。


 C区画の熱を下層の空洞へ流す。


 E区画の隔壁を落とさず、震えだけを吸収する。


 D-5区画の瓦礫の奥、藤原たちが立っている空間を、細い糸で支える。


 すべて同時だった。


 鼻血が顎から落ちる。


 右目の端から流れた血が、頬を伝って首筋へ落ちた。背中のシャツは汗で冷たく張りつき、指先は痺れて感覚が薄い。それでも、誠司は端末から手を離さなかった。


「D-5、退避路を作る」


『補助通路は崩落済みです』


「崩れた通路を使わない。上層点検路を開ける。そこまでの瓦礫を、三十秒だけ支えてくれ」


『三十秒では不足します』


「なら四十五秒」


『肉体負荷が増大します』


「いい。開けろ」


 コトリは一拍だけ置いた。


『了解』


 D-5区画。


 藤原は、崩れた壁を背にして、仲間の肩を支えていた。


 空気が薄い。


 砂塵が肺に入り、咳をするたび胸が痛んだ。ライトの光は弱まり、瓦礫の影が床に黒く伸びている。


 その時、足元が震えた。


 藤原は身構えた。


 また崩れる。


 そう思った。


 だが、違った。


 頭上の黒い壁に、細い光の線が走った。


「……え?」


 瓦礫の奥で、金属の軋む音がした。


 閉じていた点検口が、ゆっくりと開いていく。錆びた蝶番が悲鳴のような音を立て、そこから白い誘導灯が滲み出した。


【D-5区画 緊急退避経路 開放】


【上層点検路へ移動してください】


 藤原の端末に、見慣れた表示が浮かぶ。


 ミラージュの冷たい文面ではない。


 あの日、自分たちを帰した時と同じ、迷いのない誘導だった。


「佐藤さん……」


 喉が詰まった。


 涙が出るより先に、膝の力が抜けそうになった。


 けれど藤原は、すぐに仲間を振り返った。


「動ける人から! 点検路へ! 急いで!」


 隊員たちが、光へ向かって走る。


 瓦礫の上を踏む靴音が、狭い空間に響く。ひとりがよろめき、藤原が腕を掴む。別の隊員が背中を押す。


 最後に藤原が点検口をくぐった瞬間、背後の瓦礫が大きく沈んだ。


 遅れてきた崩壊音が、足元から突き上げる。


 けれど、もう届かなかった。


 点検路の白い灯りの中で、藤原は端末を握りしめた。


「約束……守ってくれた……」


 声は小さかった。


 けれど、震えていた。


 誠司は、その言葉を聞いた気がした。


 返事をする余裕はない。


 まだ終わっていない。


「次、C-8」


『C-8区画、二名孤立。隔壁開放にはB区画圧力の再調整が必要です』


「やる」


『E-1区画、転倒者一名』


「先に足場を固定。誘導灯を左へ」


『了解』


 次々と道を開ける。


 落ちるはずだった隔壁を止める。


 塞がるはずだった通路に、細い逃げ道を残す。


 ミラージュが低優先度と切り捨てた光点に、誠司は一つずつ手を伸ばした。


 一人も置いていかない。


 効率が悪くてもいい。


 遠回りでもいい。


 今この瞬間にできる小さな選択を、積み重ねる。


 帰れる道が一本でも残っているなら、そこへ繋ぐ。


 誠司の呼吸が荒くなる。


 視界はほとんど赤と白だけになっていた。耳鳴りがひどい。柴田が何か叫んでいる気配はあるが、言葉にならない。


 それでも、アマテラスの光点は減っていく。


 危険区域から、ひとつずつ外へ。


 退避路へ。


 安全圏へ。


 午前三時十二分。


 最後の白い光点が、E区画の出口を越えた。


【管理領域 広域連鎖崩壊:鎮圧完了】


【全区画 安定値:正常範囲内に復帰】


【登録活動者被害:零名】


 その表示が出た瞬間、誠司の膝から力が抜けた。


 机に突っ伏す。


 額が端末の縁に当たり、鈍い音がした。


「……全員」


 声が出ない。


 唇が震えるだけだった。


「全員、帰れたか」


『はい、誠司』


 コトリの声が、すぐそばで答えた。


『全員、無事です。被害は、ゼロです』


 誠司は、目を閉じた。


 体中が痛い。


 血の味がする。


 指先はもう動かない。


 それでも、胸の奥に小さな温かさが残った。


「……よかった」


 深い場所で、四人の影が静かに離れていく。


 赤い海は鎮まり、暗い底に戻り始めていた。


 影山恭一の光が、最後に誠司の前で止まった。


『ありがとう、佐藤さん』


 声は、今度は少しだけ聞こえた気がした。


『俺たちの代わりに、みんなを帰してくれて』


 誠司は、血に濡れた唇を動かした。


「……あんたたちが、助けてくれたんだ」


 四つの影が、かすかに揺れた。


 笑ったようにも見えた。


『お前も、いつか帰る番が来る』


 誠司の胸が、少しだけ冷えた。


 だが、その声は怖いものではなかった。


『でも、それは今じゃない』


 影山の光が、誠司の背中を押すように淡く広がる。


『お前には、帰る場所がある。待ってる人がいる』


 誠司の脳裏に、玄関の灯りが浮かんだ。


『だから、まだ帰るなよ』


 誠司は、涙と血で濡れた顔のまま頷いた。


「……ああ」


 声にならない声で、答える。


「忘れない。あんたたちのこと、絶対に」


 四つの影は、ゆっくりと遠ざかっていった。


 消えるのではない。


 深い場所へ戻っていく。


 いつかまた必要な時に、誰かの背中を支えるために。


 午前五時過ぎ。


 施設の外へ出ると、夜明け前の空気が頬に触れた。


 冷たかった。


 地下の熱と警報に焼かれた身体に、その冷たさは少し痛いほどだった。東の空は、まだ藍色を残している。その下に、薄い橙の線が滲み始めていた。


 舗装路の脇の草が、朝の風に小さく揺れている。


 夜露を含んだ葉先が、街灯の残り光を受けてきらりと光った。遠くで始発前の電車が低く唸り、まだ眠っている街の端をゆっくり撫でていく。


 柴田が、入口の横に立っていた。


 手には缶コーヒーが二本ある。


 誠司の顔を見るなり、柴田は言葉を失った。


 目の下に乾いた血の跡。鼻の下にも、拭い切れなかった赤黒い線。シャツは汗で皺になり、肩はひどく落ちている。


 それでも、誠司は立っていた。


「佐藤さん……あんた、やったな」


 柴田の声は掠れていた。


 誠司は小さく頷いた。


「はい。全員、帰しました」


 柴田は空を見上げた。


 薄明かりの中で、その目元が濡れているのがわかった。


「キョウ……みんな……」


 声が震える。


「あんたたちの願いは、ちゃんと繋がってたよ」


 柴田は缶コーヒーを差し出した。


 金属の缶は、朝の冷気でしっとり濡れていた。


「帰ってきた分の、缶コーヒーだ」


 誠司はそれを受け取った。


 指がうまく曲がらず、缶を落としそうになる。柴田が黙って支えた。


「……ありがとうございます」


「礼なんかいらねえよ」


 柴田は鼻をすすった。


「早く帰れ。怒られるぞ」


 誠司は、少しだけ笑った。


「はい」


 家に着く頃には、空は薄く明るくなっていた。


 住宅街の道には、まだ人影が少ない。濡れたアスファルトの上を歩くたび、靴底が小さく鳴った。隣家の庭先で、葉の細い草が朝風に揺れている。どこかの台所から、味噌汁の匂いがかすかに漂ってきた。


 玄関の前で、誠司は一度立ち止まった。


 鍵を出す手が震える。


 ドアを開けると、廊下の灯りがついていた。


 美咲が立っていた。


 眠っていなかったのだと、すぐにわかった。


「おかえり……って、あなた、その顔……!」


 美咲の声が途切れた。


 誠司は靴を脱ごうとして、少しよろけた。美咲が駆け寄り、両腕で支える。


「大丈夫。ちょっと、頑張りすぎただけ」


「それを大丈夫って言わないの」


 美咲の声は怒っていた。


 けれど、腕の力は震えていた。


 次の瞬間、美咲は誠司を抱きしめた。


 強く。


 息が詰まるほど強く。


「無事で……よかった……」


 誠司は、美咲の肩越しに家の中を見た。


 見慣れた廊下。


 子どもたちの靴。


 壁に貼られた予定表。


 昨日と同じ家。


 帰ってこられた。


「ただいま」


 その言葉を言えたことが、胸に沁みた。


 奥の扉が開いた。


 湊が、寝ぼけ眼で顔を出す。髪が跳ねていて、パジャマの襟が片方だけ曲がっている。


「パパ……?」


「ああ。ただいま、湊」


 湊は目をこすりながら、誠司の顔を見た。


 少しだけ驚いて、それから小首を傾げる。


「パパ、悪い怪獣、倒してきた?」


 美咲が息を呑んだ。


 誠司は、ゆっくり笑った。


 頬に乾いた血の跡が引きつった。


「ああ」


 声は掠れていた。


「今日は、倒してきたよ。すごく大きい怪獣を」


 湊の目が、一気に丸くなった。


「えーっ! すごい! パパ、ヒーローだ!」


 その声に、奥から陽菜も出てきた。


 眠そうな顔のまま、誠司を見る。血の跡に一瞬怯えたように眉を寄せ、それでもすぐに近づいてきた。


「パパ……大丈夫?」


「ああ。大丈夫だ」


 陽菜は誠司の袖を小さく掴んだ。


「パパ、やっぱりカッコいい」


 誠司は、何も言えなかった。


 ただ、子どもたちの頭に手を置いた。


 朝の光が、カーテンの隙間から細く差し込んでくる。埃がその光の中をゆっくり舞っていた。台所では、いつものフライパンが壁に掛かっている。


 世界を支える場所よりも、この小さな玄関のほうが、ずっと大きく感じた。


 オービットゲート社の会議室に、朝日は入らなかった。


 厚いブラインドが窓を覆い、天井の照明だけが白く机を照らしている。


 白瀬総一郎は、報告書を前に座っていた。


 部下の声が、硬い空気の中を滑る。


「ミラージュは、大規模連鎖崩壊に対応できませんでした」


 白瀬は何も言わない。


「人間の管理者が全制御権を奪還。暴走を鎮圧しています」


「被害は」


「ゼロです」


 白瀬の指が、机の上で止まった。


「ミラージュが救助優先度・低と判断した区画も、全て救助されています。理論上、不可能だった全区画同時制御です」


 部下は、恐る恐る画面を切り替えた。


 そこに、ひとりの男の情報が表示される。


 佐藤誠司。


 四十二歳。


 会社員。


 妻子あり。


 白瀬は、その名前を見つめた。


 長い沈黙が落ちた。


 会議室の空調音だけが、低く鳴っている。


「佐藤誠司」


 白瀬は、ゆっくりと呟いた。


「四十二歳。会社員。妻子あり……」


 口元が、わずかに歪んだ。


「……面白いな」


 同じ朝。


 国家ダンジョン対策室で、黒瀬は別の画面を見ていた。


 暴走の事後分析。


 ミラージュの制御不全。


 管理者による全権限解放。


 四つの不明反応。


 そして、もうひとつ。


 黒瀬の指が、そこで止まる。


「佐藤さん以外にも、反応した人物がいる……?」


 画面に、新しい名前が浮かんだ。


 天城蓮。


 十九歳。


 黒瀬は、椅子の背にもたれず、静かに息を吸った。


 朝日は、まだビルの谷間から完全には昇っていない。


 それでも、どこかで一日が始まっている。


 佐藤誠司、四十二歳。


 会社では減給された事務職。


 家庭では、子どもに怪獣を倒したと笑う父親。


 深夜には、誰かの帰り道を守る管理者。


 始まりの夜、彼はただ家族を養うために、深夜の仕事へ手を伸ばした。


 そして今朝、彼は国家級ダンジョンの大暴走を止めて、玄関に帰ってきた。


 帰りたい場所がある人を帰す。


 その小さな願いは、いつしか世界を支える力になっていた。


 けれど、誠司にとって一番大事なものは、今も変わらない。


 玄関を開けて、ただいまと言えること。


 おかえりと迎えてくれる人がいること。


 朝の台所で、卵を割る音がすること。


 誠司は、帰る。


 今日も、明日も。


 帰りたい場所が、あるから。



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