第49話 咆哮
午前二時。
最初に鳴ったのは、警報ではなかった。
地下三階の作業室の床が、低く唸った。
机の脚がかすかに震え、端末の横に置いてあったペンが、ころりと転がった。蛍光灯の白い光が一瞬だけ細く揺れ、壁際の配線カバーから、かち、と乾いた音がした。
誠司は椅子から身を乗り出した。
画面上のアマテラス全域マップ。
さっきまで黄色く滲んでいた歪みが、赤に変わった。
ひとつではない。
B区画。C区画。D区画。E区画。
赤い点が、暗い水面に落ちた血のように、同時に広がっていく。
【緊急警報】
【管理領域 広域連鎖崩壊】
【B区画:臨界】
【C区画:臨界】
【D区画:臨界】
【E区画:臨界】
【崩壊反応、連鎖的に拡大中】
遅れて、作業室全体に警報音が鳴り響いた。
短く、鋭く、耳の奥を針で刺すような音だった。ひとつ鳴るたびに、胸の奥が締めつけられる。赤色灯が回り、白かった壁を血の色に染めた。
「コトリ!」
誠司の声は、自分でも驚くほど掠れていた。
喉の奥が乾いている。さっき飲んだはずの缶コーヒーの苦味だけが、舌に残っていた。
『誠司。広域連鎖崩壊です。ミラージュの制御処理が、許容量を超過しています』
「ミラージュは何をしてる!」
『現在、全区画の同時安定化を試行中。しかし、演算資源の再配分が追いついていません』
端末の別ウィンドウに、ミラージュの判断ログが流れ始めた。
【全区画同時安定化:成功率二・一%】
【損失最小化処理へ移行】
【救助優先度算出中】
【低優先度区画へのリソース配分を一時停止】
誠司は、文字列の意味を理解した瞬間、指先が冷たくなるのを感じた。
「低優先度って……」
声が落ちた。
椅子の背もたれが、背中から遠ざかった気がした。自分が座っているのか、立っているのか、一瞬わからなくなる。
『ミラージュは、全登録活動者の救助が不可能と判断した場合、被害予測数の少ない区画を後回しにします』
「後回し……?」
赤い光点の中に、小さな白い点がいくつも表示されている。
登録活動者。
探索者たち。
今夜も、誰かがそこにいる。装備を背負い、仲間と声を掛け合い、家に帰るつもりで地下へ降りた人たちがいる。
そのひとつひとつに、名前があった。
家があった。
待っている人がいた。
誠司は唇を噛んだ。
「人がいるんだぞ……」
画面の向こうで、ミラージュは何も答えなかった。
ただ数字だけが、冷たく流れていく。
同じ頃、アマテラスD区画では、空気の色が変わっていた。
藤原響子は、最初の揺れで壁に手をついた。
手袋越しに伝わった感触は、石でも金属でもなかった。生き物の背中に触れたような、湿った震えだった。
「全員、姿勢低く!」
藤原の声が通路に響いた。
だが、その声を呑み込むように、奥の天井が裂けた。
ばぎん、と骨が折れるような音がした。次の瞬間、天井から剥がれ落ちた黒い破片が、通路の床に叩きつけられる。細かな砂塵が舞い上がり、ライトの光の中で白く濁った。
「後退! 後退して!」
「藤原さん、後ろも!」
仲間の声に振り返った藤原は、息を止めた。
来た道の壁が、内側から膨らんでいた。
ひび割れが走る。細い線が、蜘蛛の巣のように広がっていく。壁の奥から、低い振動が押し寄せてきた。
逃げ道が、閉じる。
「退避経路を要請!」
藤原は腕の端末を叩いた。
「D-5区画、異常崩壊発生! チーム四名、孤立寸前! 退避経路を要請します!」
通信は一瞬、砂嵐のような雑音に覆われた。
耳元でざらざらとした音が鳴り、呼吸の音まで遠くなる。
やがて、無機質な応答が返ってきた。
『D-5区画、救助優先度・低』
藤原は、言葉の意味を理解できなかった。
「……低?」
『高優先度区画へのリソース配分を実行中。D-5区画への誘導支援は保留されます』
「保留って何よ!」
藤原の声が跳ねた。
その直後、足元が抜けるように揺れた。
仲間の一人が膝をつき、壁に肩をぶつける。ライトが床を転がり、光が通路の天井、壁、藤原の足元をめちゃくちゃに照らした。
熱くもないのに、藤原の首筋に汗が滲んだ。
冷たい汗だった。
皮膚の上を細い虫が這うように、ゆっくり落ちていく。
見捨てられた。
頭のどこかで、その言葉が浮かんだ。
藤原はすぐに否定しようとした。そんなはずがない。国家級ダンジョンの管理システムが、探索者を置き去りにするはずがない。
けれど、端末の表示は変わらなかった。
【救助優先度:低】
【誘導支援:保留】
【推奨行動:現位置待機】
「現位置待機……?」
藤原は、崩れていく天井を見上げた。
砂塵が髪に降る。ヘルメットの縁を叩く小さな粒の音が、やけに大きく聞こえた。通路の奥で、何かが潰れる音がした。ずん、と腹の底に響く重い音だった。
この場所で待てというのか。
ここが潰れるまで。
「藤原さん、どうしますか!」
若い隊員の声が震えていた。
藤原は振り向いた。
三人とも、自分を見ている。顔色は悪い。唇が乾いている。ライトを握る手が、小刻みに揺れている。
ここで自分まで折れたら、終わる。
藤原は息を吸った。
喉に砂が張りついて、胸の奥がざらついた。
「待たない。左の補助通路に抜ける。壁沿いに進んで。天井の亀裂を見て、広がったらすぐ伏せて」
「でも、誘導が……!」
「来ないなら、自分たちで動く!」
言い切った声の裏で、藤原自身の膝も震えていた。
それでも足を出した。
一歩。
靴底が砕けた破片を踏み、じゃり、と乾いた音を立てる。
二歩目を出した瞬間、左の補助通路の入口が崩れた。
壁面が内側へ折れ、黒い瓦礫が雪崩のように落ちてくる。藤原は反射的に仲間の腕を掴んで引いた。
「下がって!」
轟音。
空気が押し潰された。
砂塵が一気に吹きつけ、視界が白く濁る。鼻の奥に鉄のような匂いが広がった。耳鳴りがして、仲間の叫び声が遠くなる。
補助通路は、完全に塞がっていた。
沈黙が落ちた。
警報も、崩落音も、遠くの地鳴りもある。
なのに、その数秒だけ、誰も息をしなかった。
ライトの光が、塞がれた瓦礫の壁を照らしている。細かな砂がまだ落ち続け、さらさらと音を立てた。その音だけが、やけに静かだった。
藤原は端末を握りしめた。
画面の端に、通信ログが残っている。
【救助優先度:低】
指先が白くなる。
その時、彼女の脳裏に、少し前の光景が浮かんだ。
地下施設の通路。
少し困ったように笑う、冴えない中年の男。
けれど、あの日、自分たちを帰してくれた人。
『また助けてくださいね』
自分は冗談めかして言った。
彼は、照れたように、でも確かに頷いた。
『必ず』
藤原の唇が震えた。
砂埃で目が痛いのか、それとも別の理由なのか、自分でもわからなかった。
「……佐藤さん」
小さな声だった。
届くはずがない。
この厚い壁の向こうへも、地下三階の作業室へも、届くはずがない。
それでも、藤原は顔を上げた。
喉の奥から、声を絞り出した。
「佐藤さん!」
瓦礫の壁に向かって叫ぶ。
崩れかけたD-5区画の奥で、藤原響子は、最後に信じたい名前を呼んだ。
「佐藤さん、助けて……!」
地下三階の作業室で、誠司はその声を聞いた。
最初は、警報音に混じったただの雑音に思えた。
端末のスピーカーが、ざり、と砂を噛むような音を立てる。赤色灯が回るたび、画面の縁が暗く沈み、次の瞬間また赤く浮かび上がった。
『……とう、さん……』
誠司は息を止めた。
「今の、何だ」
『D-5区画からの非常通信です。音声劣化が激しく、通常回線では復元不能です』
「復元してくれ!」
『試行します』
コトリの返答と同時に、端末上に細い波形が走った。途切れ、乱れ、ノイズに潰されながら、それでも一本の声が浮かび上がってくる。
『佐藤さん……助けて……!』
作業室の空気が、そこで凍った。
警報音も、床の振動も、端末の処理音も、すべて遠のいた。
誠司の視界には、D-5区画の赤い表示だけが残った。そこに、四つの白い光点がある。そのうちのひとつに、藤原響子の名前が表示されていた。
藤原。
明るく笑っていた顔。
助けられたことを、まっすぐに礼として返してくれた人。
また助けてくださいね、と言った人。
誠司は、端末の端を掴んだ。
指先に力が入りすぎて、爪の下が痛む。
「藤原さんは」
『D-5区画に孤立。周囲三方向が崩落。残存退避路はありません』
「ミラージュは」
『救助優先度・低と判断。現在も支援は保留されています』
その言葉が、誠司の胸の奥で、音を立てて折れた。
低。
保留。
画面の上ではただの分類だった。だが、その向こうには人がいる。瓦礫の前で息を詰め、仲間を励まし、自分の名前を呼んでいる人がいる。
柴田が作業室に駆け込んできた。
「佐藤さん!」
いつもの乱暴な足音ではなかった。廊下を蹴る音が乱れていて、肩で息をしていた。手には通信用の端末を握っている。
「上も大騒ぎだ。アマテラスの八割が赤くなってる。ミラージュはどうなってる」
「人を、切り捨ててます」
誠司の声は低かった。
自分の声ではないようだった。
柴田の顔から血の気が引いた。
「……またか」
短い言葉だった。
だが、その奥に十二年分の重さがあった。
誠司は立ち上がった。椅子が床を擦り、硬い音を立てた。
画面には、まだ大きく表示されている。
【管理者・佐藤誠司は待機してください】
【緊急時を除き、操作介入を禁止します】
【政府命令に基づく制限中】
待機。
その二文字が、赤い光の中でやけに白く見えた。
誠司はそれを見つめた。
会社で頭を下げてきた。理不尽な言葉にも、家族のためだと思って飲み込んできた。命令されたことを守るのが大人だと、ずっと思っていた。
けれど今、画面の向こうで人が潰されようとしている。
待っていろという命令は、誰かを見捨てろという意味だった。
「コトリ」
『はい、誠司』
「介入する」
『現在、介入は禁止されています。違反すれば、管理資格の停止、法的責任、ならびに政府機関からの処分対象となる可能性があります』
「知るか」
誠司は即答した。
柴田が目を見開く。
自分でも驚くほど、迷いはなかった。
「命令がどうとか、資格がどうとか、そんなこと、今はどうでもいい」
誠司は画面のD-5区画を指差した。
「藤原さんがいる。ほかにも、何人もいる。帰るつもりで入った人たちが、帰れなくなってる」
喉の奥が熱くなった。
怒りなのか、恐怖なのか、自分でもわからない。ただ、胸の真ん中にあるものが、もう黙って座っていられないほど強くなっていた。
「俺は、帰したいだけだ」
赤い警報灯が、誠司の頬を照らした。
「だから、帰す」
コトリは一瞬、何も言わなかった。
その沈黙は、機械の処理待ちではなかった。
誠司には、そう感じられた。
『誠司。現状の制限下で、D-5区画単独の退避経路開放は不可能です』
「どうすればできる」
『ミラージュから制御権を奪還する必要があります』
「奪還できるのか」
『部分奪還では間に合いません。B区画からE区画まで、崩壊が相互干渉しています。ひとつの区画だけを開いても、別区画の崩壊圧が流入し、D-5区画は再崩落します』
「じゃあ、全部だ」
誠司は言った。
「全部、俺がやる」
『全制御権の奪還には、管理者の全権限解放が必要です』
その言葉を聞いた瞬間、柴田の顔色が変わった。
「待て、佐藤さん。それはまずい」
柴田の声が震えていた。
怒鳴ってはいない。むしろ、押し殺している。
「あの四人の時も、深いところまで繋がりすぎた。人間の身体で、あれを全部受け止めるのは無茶だ」
誠司は柴田を見た。
柴田の目の奥には、過去の暗い部屋があった。帰ってこなかった四人を、今もそこで待っている目だった。
「柴田さん」
「やめろとは言わねえ。言えねえよ。あんたなら、行くんだろうからな」
柴田は唇を噛んだ。
それから、誠司の肩を掴んだ。
大きな手だった。作業服越しでも、力が伝わった。
「でもな、生きて戻れ。あんたには、帰る家があるんだろ」
その一言で、美咲の顔が浮かんだ。
朝の台所。
卵焼きの匂い。
眠そうに目をこすりながら歩いてくる湊。
心配そうに、それでも誇らしげに見てくれた陽菜。
玄関で交わす、ただいまと、おかえり。
誠司は小さく息を吐いた。
怖くないわけではない。
手のひらは汗で濡れている。背中には冷たいものが張りついている。心臓は、警報音に負けないくらい強く打っている。
けれど、怖いからやめる理由にはならなかった。
帰る場所があるからこそ、誰かの帰る場所も奪わせたくなかった。
「戻ります」
誠司は言った。
「全員、帰してから」
柴田は顔を歪めた。
泣きそうにも、怒りそうにも見えた。
「……馬鹿野郎」
それだけ言って、手を離した。
誠司は端末に向き直った。
「コトリ。全権限解放の手順を」
『誠司。肉体負荷は、これまでの比ではありません。鼻腔出血、視覚障害、意識混濁、神経系への恒久的損傷の可能性があります』
「それでもやる」
『途中で停止できない可能性があります』
「やる」
『あなたが倒れれば、以後の制御は不可能になります』
「倒れない」
言い切った。
根拠はない。
ただ、倒れるわけにはいかなかった。
端末の画面が切り替わる。
【管理者認証】
【佐藤誠司】
【全権限解放申請】
【警告:本操作は管理者の生命維持に重大な影響を及ぼす可能性があります】
【実行しますか】
誠司は、画面の奥に広がる赤いマップを見た。
D-5区画の白い光点が、ひとつ揺れた。
藤原たちが、まだ生きている。
まだ間に合う。
「コトリ」
『はい』
「手を貸してくれ」
また、短い沈黙があった。
その間に、作業室の外で誰かが走る足音がした。遠くで指示を飛ばす声。鳴り止まない警報。空調の風が天井から吹き下ろし、誠司の前髪をわずかに揺らした。
そのすべての中で、コトリの声だけが、静かに届いた。
『──はい、誠司』
それは、いつもの無機質な返答ではなかった。
『共に』
誠司は頷いた。
指先を、実行キーに重ねる。
一瞬だけ、美咲の顔が浮かんだ。
ごめん、ではなかった。
行ってくる、だった。
誠司はキーを押した。
【全権限解放】
【管理領域接続深度、上限解除】
【外部制御システム・ミラージュより制御権奪還開始】
次の瞬間、作業室の音が消えた。
いや、消えたのではない。
多すぎる音が、一気に流れ込んできた。
B区画の崩落音。
C区画の警報。
D-5区画で誰かが咳き込む音。
E区画の扉が軋む音。
何百という足音。何十という心拍。岩が砕け、金属が鳴り、空気が裂ける気配。
それらが全部、誠司の身体の内側で鳴った。
「ぐっ……!」
膝が折れそうになった。
机に手をつく。掌に冷たい金属の感触が食い込む。
鼻の奥が熱くなり、つう、と何かが流れた。唇に触れたそれは、生温かく、鉄の味がした。
柴田が叫んだ。
「佐藤さん!」
声は遠かった。
誠司の視界は、もう作業室を見ていなかった。
アマテラスが見える。
地図ではない。
巨大な生き物の体内に入り込んだように、すべての区画が脈打っていた。赤く腫れた場所。裂けかけた場所。まだ踏みとどまっている場所。そこに散らばる白い光点。
帰りたい人たち。
誠司は奥歯を噛みしめた。
「……藤原さん」
D-5区画。
瓦礫の前で、藤原が仲間を庇うように立っているのが、見えた気がした。
「待ってろ」
誠司は血の混じった息を吐いた。
「今、行く」
端末の画面が、真っ白に弾けた。
地下三階の小さな作業室で、四十二歳の事務職の男が、国家級ダンジョンの全権限を解放した。




