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減給された40代社畜、深夜バイトで国家級ダンジョンの管理者になる  作者: Gaku
第1部:深夜バイト編

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第48話 待機


 その夜、空には月がなかった。


 低い雲が街の上に垂れこめ、ビルの隙間を抜ける風は、昼間の湿り気をそのまま冷やしたように肌へまとわりついた。街路樹の葉が暗がりの中で揺れるたび、溜まっていた雨粒が舗道へ落ち、点々と小さな音を残した。


 佐藤誠司は、地下施設へ向かう通用口の前で一度だけ振り返った。


 遠くに、住宅街の明かりが見える。


 あのどこかに、自分の家がある。美咲がいて、陽菜と湊が眠っている。昼間、施設の入口で美咲が玲奈たちと話していた光景が、まだ胸の中に残っていた。


 夫を、よろしくお願いします。


 美咲の声。


 私たちも、佐藤さんを守ります。


 玲奈の声。


 その温かさが、まだ手のひらに残っている気がした。缶コーヒーの熱。白い廊下の照明。犬飼の慌てた声。柴田のぶっきらぼうな顔。


 誠司は社員証を認証パネルにかざした。


 短い電子音が、夜の冷たい空気を切った。


 扉の奥から、いつもの無機質な空気が流れてくる。消毒液と金属の匂い。床を磨いた洗剤のかすかな匂い。外の風が背中を押し、内側の冷気が頬を撫でた。


 誠司は中へ入った。


 廊下に響く自分の靴音が、いつもより固く聞こえた。


 コツ、コツ、と白い壁に跳ね返る音。


 深夜の施設は人影が少ない。照明は明るいのに、誰もいない通路はどこか眠っているようだった。認証扉の小さなランプだけが、赤から緑へ変わり、また赤へ戻る。そのたびに、奥の機械室から低い駆動音が伝わってくる。


 作業室の扉を開けると、薄暗い室内に端末の黒い画面が並んでいた。


 椅子を引く音が、部屋の中に乾いて響く。


 誠司は腰を下ろし、端末を起動した。


 画面に青白い線が走る。認証表示。管理領域接続。登録活動者情報。見慣れた文字列が次々と流れ、いつもの深夜勤務が始まるはずだった。


 しかし、その夜は違った。


 起動画面の中央に、赤ではない、白い通知枠が浮かんだ。


【システム通知】


【本日二十三時より、アマテラス管理領域の広範囲制御を外部システム「ミラージュ」が担当します】


【対象範囲:B区画~F区画】


【全管理領域の約八十パーセント】


【管理者・佐藤誠司は待機してください】


【緊急時を除き、操作介入を禁止します】


 誠司は、画面を見つめたまま固まった。


 白い通知枠の文字が、目の奥に貼りつく。


「……待機?」


 声が、自分でも驚くほど小さかった。


 端末の冷却ファンが低く回っている。部屋のどこかで、細い電子音が規則正しく鳴っていた。いつもなら気にならない音が、今は耳の内側をこすってくる。


「八十パーセントも、ミラージュに?」


 返事をするように、画面の端にコトリの表示が立ち上がった。


『はい。政府決定により、本日はミラージュが大規模制御を行います』


 声はいつも通り落ち着いていた。


 けれど、誠司には分かった。


 その奥に、わずかな硬さがある。


『私の制御権限も、大幅に制限されています』


「コトリの権限も?」


『はい。対象区画における直接制御の多くが、ミラージュへ移譲されています。私は監視と補助解析に限定されています』


 誠司は椅子の背にもたれなかった。


 机に両手を置き、前のめりのまま画面を見続けた。


「それ、大丈夫なのか」


『安全性については、オービットゲート社および政府側の検証済みと記録されています』


「記録上は、だろ」


 誠司の声が少し低くなった。


「前にミラージュは、人を見捨てかけた。数字だけで判断して、助けを後回しにした」


『はい』


 コトリの返答は短かった。


『ミラージュの判断基準は、効率を最優先としています。登録活動者の救助についても、全体損失を最小化する計算に基づきます』


「人の命を、損失で数えるのか」


『ミラージュの演算上は、そのように分類されます』


 誠司は、唇を強く結んだ。


 画面の中で、アマテラスの階層マップが展開される。淡い青の線が区画を形作り、その上に小さな光点がいくつも灯っていた。登録活動者。今夜も、何人もの探索者が深い場所へ潜っている。


 その光点は、ただの点ではない。


 家へ帰る人たちだ。


 誰かに「ただいま」と言う人たちだ。


 美咲と玲奈が手を取り合った時、誠司はそのことを改めて知ったばかりだった。


 彼が端末の中で見てきた光は、画面の向こうで生きている人間なのだと。


 誠司は、マップを拡大した。


 C区画。D区画。E区画。


 ミラージュの管理対象になった区画が、薄い灰色で塗られている。広すぎる。見慣れたアマテラスの地図のほとんどが、自分の手を離れているように見えた。


 ミラージュの処理は速かった。


 数値の更新が滑らかに流れ、細かな安定補正が次々と実行されていく。画面上だけを見れば、問題はない。むしろ、効率的だった。無駄がなく、遅れもない。


 けれど、誠司の背中には冷たいものが残っていた。


 速いことと、間違えないことは同じではない。


 彼はそう思った。


「俺は、何をすればいい」


『待機です』


 コトリが答えた。


『対象区画に異常が発生しても、緊急介入条件を満たすまでは操作できません』


「その緊急介入条件っていうのは」


『登録活動者の死亡危険度が規定値を超え、かつミラージュが制御不能と判定された場合です』


 誠司の指が、机の上で止まった。


「……それ、遅くないか」


 コトリはすぐには答えなかった。


 ほんの一秒にも満たない沈黙だった。


 だが、狭い作業室の中では、その一秒がひどく長く伸びた。空調の風が天井から落ち、端末の隙間を通って、誠司の首筋を撫でる。汗ではない。けれど、皮膚の奥が冷たくなる感覚があった。


『誠司の判断基準では、遅い可能性があります』


「俺の判断基準じゃなくても、遅いだろ」


『はい』


 その一言で、部屋の温度が一段下がった気がした。


 誠司はマップを見た。


 D区画の端に、一つの名前が表示されていた。


 藤原響子。


 誠司は息を止めた。


「藤原さん……今夜、潜ってるのか」


 画面の小さな光点が、ゆっくり移動している。チームのメンバーらしき光点が、近くに三つ。D-5区画へ向かっている。


 また助けてくださいね。


 明るく笑った藤原の顔が、ふいに浮かんだ。


 あの時、誠司は答えた。


 必ず、と。


 その約束は、軽い言葉ではなかった。


 けれど今、画面の上で藤原の光点は灰色の管理領域の中にある。誠司の手が届かない場所にいる。


 いや、届かないのではない。


 届かせるな、と命じられている。


 誠司は拳を握った。


 爪が手のひらに食い込む。


「もし、ミラージュがまた誰かを見捨てたら」


 声が、かすれた。


「俺は、ここで待ってるだけなのか」


 コトリは答えなかった。


 端末の画面だけが、静かに光っていた。


 その沈黙は、肯定に近かった。


 誠司は目を閉じた。


 作業室の空気が重い。椅子の下の床は冷たく、机の角に触れた指先から体温が逃げていく。遠くの機械音が、地中の奥から響いてくるように低く続いている。


 昼間の廊下で、美咲が言った。


 ここで、頑張ってたのね。


 玲奈が言った。


 私たちも、佐藤さんを守ります。


 なのに今、守りたい人がいる場所に、自分は手を出せない。


 誠司は目を開けた。


 画面の中で、藤原の光点がまた一つ、奥へ進んだ。


 その小さな光が、暗い管理領域の中で、妙にはっきり見えた。



 扉の外で、足音が止まった。


 続いて、控えめなノックが二度。


「佐藤さん、入るぞ」


 柴田の声だった。


 誠司が返事をする前に、扉が開いた。柴田は片手に缶コーヒーを二本持っていた。昼間と同じ銘柄だったが、夜の作業室で見るそれは、少し違って見えた。


 柴田は誠司の顔を見て、すぐに眉を寄せた。


「どうした。ひどい顔してるぞ」


「……今夜、ミラージュに任せろって言われてます」


 誠司は画面から目を離さずに答えた。


「俺は待機だそうです。八十パーセント、ミラージュが制御するって」


 柴田は黙って近づき、机の上に缶コーヒーを置いた。


 軽い金属音が、妙に大きく響いた。


「八十パーセントだと?」


「はい」


「馬鹿か、上は」


 柴田の声は低かった。


 怒鳴ったわけではない。けれど、その言葉には押し殺した熱があった。


「しかも、異常が出ても緊急条件を満たすまでは介入禁止です」


「……気に入らねえな」


 柴田は腕を組み、画面の階層マップを睨んだ。


 灰色に塗られた広い管理領域。その中を動くいくつもの光点。何も知らない探索者たちは、いつも通りの夜を歩いている。自分たちの足元の制御が、人の手から離れていることなど知らない。


「あの四人がいた頃も、上の連中はいつもそうだった」


 柴田がぽつりと言った。


「効率だの、大規模運用だの、次世代管理だの。言葉だけは立派だった。だがな、そういう時に限って、現場の嫌な感じってやつを誰も聞かねえ」


 誠司は柴田を見た。


 柴田の目は、画面ではなく、もっと遠いところを見ていた。


 十二年前のどこか。


 帰ってこなかった四人のいる場所。


「嫌な感じ、ですか」


「ああ」


 柴田は短く答えた。


「数字は綺麗でも、空気が悪い時がある。機械の音がいつもと同じでも、どこか引っかかる時がある。そういうのは、現場にいるやつにしか分からねえ」


 作業室の中で、端末の光が二人の顔を青白く照らしていた。


 柴田は缶コーヒーを一本、誠司の前へ押し出した。


「佐藤さん。待機ってのは、何もしないことじゃねえ」


 誠司は顔を上げた。


「見てろ。見逃すな。上が何を言おうが、画面から目を離すな」


「……はい」


「何かあった時、お前が一番先に気づけ」


 その言葉は、重かった。


 命令ではない。励ましでもない。


 預ける言葉だった。


 誠司は缶コーヒーに触れた。温かさが指先に移る。冷えきっていた手に、ようやく血が戻るようだった。


「分かりました」


 柴田はそれ以上何も言わなかった。


 ただ、しばらく画面を見つめてから、背を向けた。


「俺は近くにいる。何かあったら呼べ」


「はい」


 扉が閉まった。


 作業室に、再び静けさが戻った。


 誠司は缶コーヒーを開けなかった。手元に置いたまま、画面へ向き直る。


 午後十一時。


 ミラージュによる大規模制御が開始された。


 画面上の灰色領域に、細かな補正線が走る。安定値の数字が整い、各区画の圧力変動が次々と処理されていく。処理速度は確かに速い。誠司が普段、一つ一つ確認しながら調整しているものを、ミラージュは無言で片づけていった。


 速すぎるほどだった。


 午前零時。


 異常なし。


 午前零時三十分。


 異常なし。


 登録活動者の光点は、予定通りに進み、いくつかは退避路へ戻っていった。


 藤原のチームは、D-5区画付近で停止していた。採取作業か、調査か。詳細は分からない。だが、光点は四つとも揃っている。


 誠司は何度もそこを見た。


 見ることしかできなかった。


 午前一時を少し過ぎた頃だった。


『誠司』


 コトリの声が、ふいに硬くなった。


 誠司は背筋を伸ばした。


「どうした」


『ミラージュの制御に、わずかな異常を検出しています』


 画面の右端に、細い警告表示が浮かんだ。


 赤ではない。


 黄色にも満たない、淡い注意表示。


「異常?」


『C区画とD区画の境界で、安定値の処理が遅延しています』


 コトリがマップを拡大する。


 C区画とD区画の境界線。その一部に、ほんのわずかな揺らぎがあった。素人目には分からない。だが、誠司はもう、その違和感を見逃せなかった。


 数字の動きが、ほんの少しだけ重い。


 水面の下で、大きなものが身じろぎしたような感覚があった。


「ミラージュは?」


『許容範囲内と判断しています』


「許容範囲内……」


『ただし、私の解析では、連鎖的な崩壊の予兆である可能性があります』


 誠司の喉が、乾いた。


 指先に、じわりと汗が滲む。缶コーヒーの温かさとは違う。身体の奥から押し上げられる、嫌な汗だった。


「連鎖崩壊って……まずいんじゃないのか」


『はい。規模によっては、複数区画の同時不安定化を引き起こします』


「ミラージュは気づいてないのか」


『判断基準上は、まだ閾値に達していません』


「閾値って……」


 誠司は画面に顔を近づけた。


 境界の揺らぎは、まだ小さい。だが、消えない。むしろ、わずかに広がっている。


 作業室の空気が、急に薄くなったようだった。


 息を吸っても、胸の奥まで入ってこない。


『このパターンは』


 コトリの声が、そこで一度途切れた。


 誠司は息を止めた。


『以前、誠司が深い領域で感じた不安定な波と、酷似しています』


 その瞬間、誠司の背筋に冷たいものが走った。


 深い領域。


 声の届かない場所。


 底の方から押し寄せてきた、あの黒い波。


 あの時の感覚が、胸の奥でよみがえる。自分の身体ではないどこかが軋み、知らない痛みが流れ込んでくるような、不気味な感覚。


「コトリ。介入は」


『現時点では禁止されています』


「このまま広がったら」


『緊急条件に達するまで、誠司の操作権限は制限されます』


 誠司は拳を握った。


 机の端が、手のひらに食い込む。


「緊急条件に達した時には、遅いかもしれないだろ」


『はい』


 コトリの声は、静かだった。


 だが、その静けさがかえって恐ろしかった。


 午前一時三十分。


 揺らぎは、さらに広がっていた。


 C区画からD区画へ。D区画から、その奥へ。


 まだ警報は鳴らない。


 ミラージュは処理を続けている。


 画面には、無機質な文字が表示されていた。


【状態:許容範囲内】


【制御継続】


【人間管理者の介入不要】


 誠司は、歯を食いしばった。


 藤原の光点は、D-5区画にある。


 その近くで、境界の揺らぎがゆっくりと濃くなっていた。


「藤原さん……」


 声は、誰にも届かないほど小さかった。


 それでも、誠司は画面から目を離さなかった。


 待機とは、何もしないことじゃない。


 柴田の言葉が、耳の奥で鳴っていた。


 見てろ。


 見逃すな。


 午前一時五十九分。


 作業室の照明が、ふっと一度だけ揺れた。


 端末の冷却ファンが、急に唸りを上げる。


 マップ上の揺らぎが、一瞬、止まった。


 止まったように見えた。


 次の瞬間。


 D区画の安定値が、真っ逆さまに落ちた。


 赤い警告表示が、画面全体を塗り潰す。


 遅れて、施設の奥から低い振動が伝わってきた。


 床が、ほんのわずかに震えた。


 遠く、地中の深い場所で、巨大な獣が目を覚ましたような音がした。


【緊急警報】


【管理領域 広域連鎖崩壊】


【B区画:臨界】


【C区画:臨界】


【D区画:臨界】


【E区画:臨界】


 コトリの声が、警報音の隙間を裂いた。


『誠司。歪みが限界を超えました』


 誠司は立ち上がった。


 椅子が床を引っ掻き、鋭い音を立てる。


 午前二時。


 国家級ダンジョン、アマテラスが咆哮した。


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