第47話 夫がお世話になっています
翌日の朝は、雨上がりだった。
アスファルトの隙間に残った水が、薄い陽を受けて白く光っている。歩道脇の植え込みでは、濡れた葉が風に揺れるたび、小さな雫を落としていた。ビルの壁面に反射した光はやわらかく、昨日まで空に張りついていた重たい雲が、嘘のように遠ざかっている。
佐藤誠司は、地下施設へ続く通用口の前で立ち止まった。
普段なら、一人でくぐる扉だった。
深夜、家族が眠ったあと、疲れた身体を押し込むようにして通っていた場所。家計のために始めたはずの副業が、いつの間にか、誰かの命とつながる場所になっていた。
今日は、その入口に美咲がいる。
美咲は、肩にかけた小さなバッグの紐を指先で握っていた。服装はいつもより少しきちんとしている。派手なものではない。淡い色のブラウスに、落ち着いた色のカーディガン。けれど、誠司には分かった。彼女なりに、ここへ来ることを大事にしてくれているのだと。
「本当に、ここなのね」
美咲が、低く言った。
目の前にあるのは、表から見れば何の変哲もない業務用ビルの裏口だった。金属製の扉。横に設置された認証パネル。監視カメラ。無機質で、少し冷たい。
だが、その扉の向こうに、誠司が何度も座った作業室がある。赤い警告灯が点り、コトリの声が響き、見知らぬ誰かを帰すために手を伸ばしてきた場所がある。
「ああ。地上部分までだけど、榊原さんが許可を取ってくれた」
「中までは見られないのよね」
「機密が多いからな。俺も、全部を知ってるわけじゃない」
美咲は小さく頷いた。
責めるような顔ではなかった。知らされなかったことに傷ついていた時期は、確かにあった。けれど今、その目にあるのは違うものだった。
知りたい、という気持ち。
そして、受け止めたい、という覚悟。
誠司は認証パネルに社員証をかざした。
短い電子音が鳴る。
扉のロックが外れる音は、いつもより大きく聞こえた。金属の内側で、何かが重く動く。美咲の指がバッグの紐を少し強く握った。
「緊張してる?」
誠司が尋ねると、美咲は少しだけ笑った。
「してるわよ。あなたが夜中に何をしていたのか、ようやく少しだけ見に来たんだもの」
「普通の職場じゃなくて、ごめん」
「普通じゃないから、見に来たの」
その言葉に、誠司は返事を失った。
扉を開けると、ひんやりした空気が流れてきた。外の湿った匂いとは違う。消毒液と金属と、清掃された床の匂い。奥へ続く廊下の照明は白く、足元には細長い影が落ちた。
美咲の靴音が、誠司の一歩後ろで控えめに響く。
コツ、コツ、と音が廊下の壁に当たり、少し遅れて返ってくる。いつも一人で歩く時には気にも留めなかった音が、今日は妙に胸に残った。
受付区画の前に、柴田が立っていた。
いつもの作業着姿で、胸ポケットには缶コーヒーが一本差し込まれている。無骨な顔つきは変わらない。だが、誠司と美咲を見ると、目尻がわずかに下がった。
「来たか」
「柴田さん。今日はありがとうございます」
誠司が頭を下げると、柴田は片手をひらひら振った。
「俺に礼を言うことじゃねえよ。上が珍しく気を利かせただけだ」
そう言ってから、柴田は美咲の方を見た。
美咲は背筋を伸ばし、深く頭を下げた。
「佐藤の妻の美咲です。いつも夫がお世話になっています」
その言葉が、白い廊下に静かに落ちた。
誠司は、胸の奥を軽く押されたような気がした。
家で聞く「あなた」と、ここで聞く「夫」は、少し響きが違った。美咲が、自分の知らない場所にいる誠司を、ちゃんと見ようとしている。そのことが、急に現実として迫ってきた。
柴田は、困ったように顎を掻いた。
「世話してるっていうか……世話になってるのは、こっちの方だ」
美咲が顔を上げる。
柴田は照れ隠しのように視線をそらし、廊下の奥を見た。
「あんたの旦那は、ここでいろんなやつを助けてる。画面の向こうの連中をな。顔も名前もろくに知らねえ相手に、毎晩、手を伸ばしてる」
美咲の表情が、ゆっくり変わった。
知ってはいた。
誠司から話を聞いた。ニュースも見た。公聴会での証言も、画面越しに見守った。
けれど、柴田の口から出た言葉は、資料や映像とは違った重さを持っていた。
この人は、夫の働く姿を見ている。
夫が、家では見せない顔で誰かを助けてきたことを、知っている。
「……ありがとうございます」
美咲はもう一度、頭を下げた。
さっきよりも深く、長かった。
「夫を、見守ってくださって」
柴田は少しだけ目を伏せた。
廊下の奥から、機械の低い駆動音が聞こえていた。一定のリズムで続くその音の中に、わずかな沈黙が生まれた。誰もすぐには言葉を足さなかった。
静かだった。
外の雨上がりの明るさとは別の、地下へ続く施設の冷たい静けさ。その中で、美咲の言葉だけが、まだ空気に残っていた。
柴田は胸ポケットから缶コーヒーを取り出した。
「飲むか」
「え?」
「ここの歓迎は、だいたいこれだ」
美咲は一瞬だけ目を丸くし、それから小さく笑った。
「いただきます」
缶を受け取る美咲の手元を見ながら、誠司は息を吐いた。
ずっと別々だったものが、少しずつ近づいている。
家の食卓と、この地下施設。子どもたちの寝息と、赤い警告灯。美咲の「いってらっしゃい」と、コトリの声。
どちらも、自分が帰りたい場所と、帰したい人たちにつながっている。
そう思った時だった。
廊下の向こうから、複数の足音が聞こえた。
軽く、速い足音。誰かが少し急いでいる。
誠司が振り向くと、白い照明の下に、神代玲奈の姿が見えた。その隣には犬飼もいる。玲奈は誠司を見つけて足を止め、それから、美咲の方へ視線を移した。
ほんの一瞬、廊下の空気が変わった。
玲奈は何かを察したように背筋を正し、静かに頭を下げた。
「佐藤さん」
玲奈の声は、いつもより少し硬かった。
作業服姿ではない。今日は外部調整の帰りなのか、落ち着いた色のジャケットを羽織っている。きちんと整えられた髪の横で、細い耳飾りが白い照明を受けてかすかに光った。
隣の犬飼は、何かを言おうとして口を開きかけ、それから美咲を見て慌てて背筋を伸ばした。
「こちらは──」
玲奈が言いかける前に、誠司は一歩横へずれた。
「妻の美咲です」
その言葉を口にした瞬間、廊下の空気が少しだけ柔らかくなった気がした。
美咲は缶コーヒーを両手で持ったまま、丁寧に頭を下げた。
「佐藤美咲です。いつも夫がお世話になっています」
玲奈は、まっすぐ美咲を見た。
そして、深く頭を下げた。
「神代玲奈です。ご主人に、命を救われました」
美咲の指が、缶の側面で止まった。
玲奈は頭を上げないまま続けた。
「B-14区画で、私たちのチームが閉じ込められたことがあります。退避経路は塞がれて、通信も不安定で……正直、もう駄目だと思いました」
廊下の照明が、玲奈の肩に細い影を落としていた。
その声は落ち着いていた。けれど、言葉の底には、今でも消えきらない冷たさが残っていた。
「その時、ご主人が道を開いてくれました。どこに逃げればいいか、何秒後に何が起きるか、全部、私たちより先に見てくれていた」
玲奈はようやく顔を上げた。
「今、こうして生きているのは、ご主人のおかげです」
美咲は、何も言えなかった。
廊下の奥で、機械の低い音が続いている。空調の風が天井の吹き出し口から流れ、玲奈の髪をほんの少し揺らした。外の光はここまで届かない。白い照明だけが、四人の間に静かに落ちていた。
それでも、美咲には見えた気がした。
暗い場所で、夫が端末に向かっている姿。
画面の向こうで、誰かが息を切らして逃げている姿。
誠司の手が、その人たちを家へ帰すために動いていたこと。
それは、もう遠い話ではなかった。
玲奈という人が、目の前に立っている。
夫が救った人が、こうして呼吸をして、目を見て、言葉を届けてくれている。
「俺もです!」
犬飼が、我慢できなかったように声を上げた。
玲奈が横目で少しだけ見たが、犬飼は止まらなかった。
「犬飼です! 佐藤さんには、ほんとに何度も助けてもらってて……いや、二回どころじゃない気がします。俺、たぶん佐藤さんがいなかったら、今ここにいません」
勢いよく頭を下げたせいで、犬飼の前髪がばさりと落ちた。
「ありがとうございます!」
美咲は、缶コーヒーを胸の前で握りしめた。
その手が、小さく震えていた。
「そう……ですか」
声がかすれた。
「夫が……こんなに、たくさんの人を……」
誠司は、何か言おうとしてやめた。
言葉を足せば、この瞬間を壊してしまう気がした。
美咲は一歩、玲奈へ近づいた。
そして、缶コーヒーを片手に持ち替え、空いた手で玲奈の手を取った。
玲奈の指は、少し冷たかった。
「神代さん」
「はい」
「夫を、よろしくお願いします」
玲奈の目が、わずかに揺れた。
美咲は、無理に笑おうとはしなかった。涙をこらえるように目元を細め、それでも玲奈の手を離さなかった。
「あの人、無茶をします。自分では普通のことをしているつもりで、倒れるところまで行ってしまうんです」
「……はい」
「家では、ちょっと疲れてるだけだって顔をします。でも、本当は違う時があるの、分かるんです」
誠司は視線を落とした。
廊下の床に、自分の影が伸びている。美咲の言葉は責めるものではなかった。だからこそ、胸に深く入ってきた。
「だから、止めてあげてください。倒れる前に。私が見えない場所で、夫が一人にならないように」
玲奈は、美咲の手を両手で包んだ。
背筋を伸ばし、まっすぐに答えた。
「はい。必ず」
短い言葉だった。
けれど、そこには軽さがなかった。
「私たちも、佐藤さんを守ります」
美咲はその言葉を受け取るように、ゆっくり頷いた。
その横で、犬飼も大きく頷いた。
「俺も守ります! いや、俺が守るっていうとちょっと頼りないかもしれないですけど、でも、絶対ひとりにはしません!」
柴田が鼻を鳴らした。
「頼りない自覚があるなら、まず訓練増やせ」
「はいっ!」
犬飼が反射的に返事をしたので、美咲が少し笑った。
その笑いは小さかったが、廊下の硬さをほどくには十分だった。
玲奈も、ほんの少し表情を緩めた。
柴田は自販機の方へ歩きながら、ぶっきらぼうに言った。
「全員分、買ってくる。奥さん、甘いのは飲めるか」
「はい。ありがとうございます」
「佐藤さんはいつものな」
「あ、はい」
誠司は返事をしながら、不思議な気持ちでその光景を見ていた。
美咲と玲奈が並んで話している。
犬飼が、美咲に「佐藤さんって家でもあんな感じなんですか」と聞き、美咲が「どんな感じですか」と聞き返している。犬飼が言葉に詰まり、玲奈が少し呆れた顔をする。柴田が缶コーヒーを抱えて戻ってくる。
ただ、それだけの時間だった。
けれど誠司には、胸の奥で何かが静かに満ちていくのが分かった。
一人で赤いランプを消していた頃が、ひどく遠く感じた。
夜中の小さな作業室で、端末の前に座り、誰にも言えないまま画面を見つめていた。自分が何をしているのか、自分でも分からなかった。家族に嘘をつき、会社では肩身を狭くし、ただ生活を守るために必死だった。
それなのに、いつの間にか。
ここには、夫を案じる妻がいる。
命を救われたと頭を下げる人がいる。
見守ってくれた人がいる。
自分を守ると言ってくれる人がいる。
誠司は缶コーヒーを受け取り、指先でその温度を確かめた。
温かかった。
地下施設の白い廊下で、その温かさだけが妙に現実味を帯びていた。
「あなた」
美咲が振り向いた。
「ここで、頑張ってたのね」
その一言で、誠司は喉の奥が詰まった。
大げさな言葉ではない。褒められたわけでも、責められたわけでもない。ただ、美咲が見てくれた。
それだけで、十分だった。
「ああ」
誠司は小さく頷いた。
「でも、一人じゃなかった」
美咲は玲奈たちを見て、それから誠司を見た。
「そうね」
廊下の向こうで、認証扉のランプが緑に点いた。誰かが遠くを歩いていく靴音が、白い壁に反響して、やがて薄れていく。
その日、佐藤誠司を取り巻く輪が、静かに形を持った。
家族と、仲間と、共に戦う者たち。
誰もが、明日も同じような朝が来ると思っていた。
美咲も、玲奈も、犬飼も、柴田も。
そして、誠司自身も。
その温かい時間の終わりに、地下深くではまだ何も起きていなかった。
警告灯は消えていた。
端末は沈黙していた。
アマテラスは、静かに眠っているように見えた。
けれど、その夜。
国家級ダンジョン、アマテラスの制御が、ミラージュに委ねられる。
人の手を離れた深い場所で、破滅の歯車が、音もなく回り始めていた。




