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減給された40代社畜、深夜バイトで国家級ダンジョンの管理者になる  作者: Gaku
第2部:管理者覚醒編

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第56話 ツクヨミの闇


 第四ダンジョン管理棟は、アマテラスの管理室よりも静かだった。


 静か、というより、音が死んでいる。


 夜明け前の空気が、建物の壁に冷たく染みついていた。窓の外には、まだ色の薄い空が広がっている。東の端だけがわずかに白み、雲の縁をぼんやりと浮かび上がらせていた。敷地内の植え込みは風に揺れていたが、その葉擦れの音さえ、分厚い窓ガラスに遮られてここまでは届かない。


 誠司は、黒瀬に案内されるまま、奥の扉をくぐった。


 照明は落とされていない。むしろ白すぎるほど明るかった。天井に並んだ蛍光灯が、床の灰色を均一に照らし、影の逃げ場を奪っている。だが、その明るさがかえって寒々しかった。


 部屋の中央に、端末があった。


 アマテラスのものと似ているようで、まるで違う。


 卓上に並ぶキーの間隔。表示パネルの角度。側面に埋め込まれた端子の数。細かなものが、ひとつひとつ違っていた。見慣れたものなら考えずに指が動く場所に、別のキーがある。押したい位置に、何もない。


 誠司は椅子の前で足を止めた。


 背広の袖口が、手首に冷たく触れる。いつのまにか、手のひらに汗が浮いていた。


「こちらが、ツクヨミの管理端末です」


 黒瀬の声は抑えられていた。


 いつものように無駄がなく、感情を切り落とした声だった。だが、ほんのわずかに息が浅い。彼女も焦っているのだと、誠司にはわかった。


「現在、内部に取り残されている登録活動者は四名。通信状態は不安定。自力退避は困難です」


 四名。


 その数字が、胸の奥に落ちた。


 四名という文字は、ただの数字ではない。誰かの父親かもしれない。誰かの娘かもしれない。誰かに「すぐ戻る」と言って出てきた人間かもしれない。


 誠司は椅子に座った。


 キャスターが床を小さく鳴らした。その音だけが、やけに大きく聞こえた。


 端末の正面に向き直る。画面は暗い。黒いガラスの向こうに、自分の顔が映っていた。目の下に濃い影がある。頬はこけ、唇は乾いている。昨夜からほとんど眠っていない。


 それでも、座るしかなかった。


「起動します」


 黒瀬が短く告げ、横の認証盤にカードをかざした。


 低い電子音が鳴った。


 アマテラスのときのような、鳥のさえずりに似た起動音はしなかった。


 いつもなら、あの小さな音があった。夜の深い底で、かすかに羽ばたくような音。誠司にとって、それは始まりの合図だった。どんなに怖くても、横に誰かがいると思わせてくれる音だった。


 だが、ここにはない。


 画面に白い文字列が走る。機械的で、硬い。余白のない表示。見慣れない項目が縦に並び、見慣れない警告色が滲むように点滅している。


 誠司は無意識に、いつもの位置へ指を伸ばした。


 そこに、キーはなかった。


 指先が宙で止まる。


 ほんの一秒。


 だが、その一秒の中で、部屋の空気がさらに重くなった気がした。


『誠司』


 耳元の小型端末から、コトリの声がした。


 その声だけが、凍った部屋に細い線を引いた。


『私はアマテラス専属の管理補助人格です。ツクヨミには、私の権限が及びません』


「……お前、来てくれないのか」


 声に出した瞬間、自分でも情けないほど頼りなく聞こえた。


 コトリはすぐに答えなかった。


 その沈黙は長くなかった。けれど、誠司の耳には、妙に長く伸びた。蛍光灯の微かな唸り。換気口から吐き出される乾いた空気。隣で黒瀬が一度だけ息を吸う音。


 それらが、全部聞こえた。


『音声での助言のみ可能です。直接の操作補助は、できません』


「……そうか」


『申し訳ありません』


「謝るな」


 誠司は画面から目をそらさなかった。


 目をそらしたら、もう座っていられなくなる気がした。


「声は、聞こえてる」


 コトリは、また少し黙った。


『はい。私は、ここにいます』


 その言葉に、誠司は小さく頷いた。


 ここにいる。


 だが、動かすのは自分だ。


 アマテラスのときは、コトリが導いてくれた。四人の影が、道を照らしてくれた。誠司は必死に手を伸ばしたが、その手を支えるものがあった。


 今は違う。


 見知らぬ端末。違う操作系。届かない補助。誰の影もない。


 目の前には、黒い画面と、下がり続ける数字だけがある。


 誠司は息を吐いた。


 喉の奥が乾いていた。唾を飲み込むと、痛いほど音がした。


「状況を出してください」


 黒瀬が端末の横から最小限の操作を入れる。


 画面が切り替わった。


【第四管理領域:ツクヨミ】

【登録活動者:四名】

【第六層外縁部に孤立】

【退避経路:不安定】

【安定値:六十二】


 六十二。


 まだ猶予はある。そう思った直後、数字が一つ落ちた。


【安定値:六十一】


 誠司の指先に汗が滲んだ。


 画面上では、細い線が迷路のように走っている。通路、封鎖壁、崩落予兆、魔力濃度、登録者の位置。アマテラスなら、色の変化だけで感覚的に危険な場所がわかった。だが、ツクヨミの表示は違った。色が少なく、記号が多い。警告の分類も見慣れない。


 どれが入口で、どれが抜け道なのか。


 どの数字が命に直結しているのか。


 指が、すぐに動かない。


『誠司。左上の群青色の線が、現在の主通路と思われます』


「思われます、か」


『ツクヨミ側の定義がアマテラスと一致しません。断定できません』


「わかった」


 わかった、と言いながら、わかっていなかった。


 誠司は画面に顔を近づけた。


 細かな文字列が目に刺さる。睡眠不足の眼球が奥から重く、視界の端がぼやけた。左手で目元を押さえたい衝動を抑え、右手だけを動かす。


 まず、通路の状態を確認する。


 そう決めて、端末のキーに触れた。


 硬い。


 アマテラスのキーより反発が強い。押し込みの深さも違う。指の腹に伝わる感触が合わず、誠司は一瞬だけ力加減を誤った。


 画面が切り替わる。


 警告音が鳴った。


 短く、鋭く、耳を刺す音。


【操作対象が競合しています】

【退避経路再計算中】


「っ……」


 背筋が凍った。


 画面の隅で、登録活動者の表示が赤く瞬いた。


 誠司は咄嗟に手を引いた。


 心臓が一度、強く跳ねる。喉の奥に冷たいものがせり上がった。


「佐藤さん」


 黒瀬が一歩近づいた。


 靴底が床を擦る音がした。普段なら気にも留めない音なのに、今はその音が、胸の中に直接入ってくる。


「無理なら——」


「いえ」


 誠司は、黒瀬の言葉を遮った。


 自分でも驚くほど低い声だった。


 額から汗が一筋落ちた。こめかみを通り、頬の横を伝う。冷房の効いた部屋なのに、首筋だけが熱い。


「待ってください」


 誠司は指を膝の上で握った。


 震えている。


 少しだけ。


 それを黒瀬に見られたくなくて、握り込んだ拳を机の下に隠した。


 無理なら。


 その言葉は、正しい。


 ここで誠司が判断を誤れば、四人が死ぬかもしれない。自分が無理をしたせいで、誰かを帰せなくなるかもしれない。だったら、退くべきだ。できないことをできると言うのは、ただの無責任だ。


 けれど、退いたところで誰が間に合う。


 この端末の前に、他に座れる人間がいるのか。


 誠司は画面を見た。


 数字がまた落ちる。


【安定値:五十九】


 その瞬間、遠い記憶が胸の奥で揺れた。


 会社の古いパソコン。部署ごとに違う管理表。担当者によって癖のある入力欄。半角と全角が混じった数字。色分けも規則もばらばらで、引き継ぎ資料と呼ぶにはあまりに雑なファイル。


 誰もきれいに整えてくれなかった。


 それでも、毎月の締め日は来た。請求額は合わなければならなかった。入金予定日は間違えられなかった。どれだけ書式が違っても、どれだけ作った人間の癖が残っていても、数字だけは嘘をつかなかった。


 誠司は、息を吸った。


 浅くなっていた呼吸を、腹の底まで落とす。


 一度。


 もう一度。


 握った拳を開くと、指先に血が戻る感覚があった。


「この端末も、結局は数字だ」


 黒瀬が黙った。


 コトリも、何も言わなかった。


 誠司は画面の警告欄ではなく、数字の並びを見た。


 安定値。魔力濃度。通路負荷。登録者の移動速度。封鎖壁の開閉履歴。項目名は違う。配置も違う。だが、落ち方には癖がある。急に下がる場所。一定間隔で乱れる場所。登録者の位置に反応して跳ねる数値。


 意味は、後からでいい。


 まずは、流れを見る。


 誠司は画面の端に表示された履歴を開いた。


 今度は、ゆっくりとキーを押す。押し込みすぎない。反発の戻りを指で覚える。


 画面が変わる。


 警告音は鳴らない。


 誠司の肩から、ほんの少し力が抜けた。


『誠司。過去三分の変動履歴を確認できます』


「見えてる」


 声が、少しだけ戻っていた。


 行が流れる。


 数字が並ぶ。


 それは、きれいな資料ではなかった。だが、誠司には読めた。誰かが急いで作った雑な表でも、必要な数字は必ずどこかにある。見出しが乱れていても、合計がずれていても、異常な値だけは浮く。


「……ここだ」


 誠司は小さく呟いた。


 第六層外縁部。登録者四名のうち、一名だけ、移動速度が極端に落ちている。負傷か、足場の崩落か。周辺の通路負荷が他より高い。主通路へ戻すと、途中で詰まる。


 なら、戻さない。


 迂回させる。


 誠司は別の線を探した。


 画面上では、ほとんど背景に埋もれるほど細い灰色の線。おそらく保守用通路。だが、封鎖履歴を見ると、完全封鎖ではない。開閉ログが残っている。


「コトリ。この線、通れますか」


『直接照合できません。ただ、数値上は完全閉鎖ではありません』


「黒瀬さん。ツクヨミに保守用の退避路はありますか」


「資料上はあります。ただし、通常探索者には表示されません」


「表示されないだけなら、開けられる可能性があります」


 誠司は指を置いた。


 その瞬間、手首の内側に汗が溜まっているのに気づいた。袖口が肌に貼りつき、不快な冷たさを残す。


 画面の登録者表示が、また赤く瞬いた。


【安定値:五十六】


 時間がない。


 部屋の中から、音が消えた。


 蛍光灯の唸りも、換気口の息も、黒瀬の呼吸さえ遠のく。あるのは、自分の心臓の音と、画面に落ちていく数字だけだった。


 誠司はキーを押した。


 今度は迷わなかった。


【保守経路:認証待機】

【手動開放には管理者承認が必要です】


 見慣れない承認画面が出た。


 アマテラスなら、コトリが先回りしてくれる場所だった。必要な認証を整え、誠司が最後の一手だけを押せるようにしてくれた。


 だが、今は違う。


『誠司。私は承認に介入できません』


「わかってる」


 誠司は、画面に表示された項目をひとつずつ追った。


 管理者番号。領域識別。緊急開放理由。対象登録活動者。経路番号。


 手入力。


 間違えれば、開かない。


 誠司はゆっくりと背筋を伸ばした。


 古い事務机に向かうときの姿勢だった。誰も褒めてくれなかった二十年。怒鳴られ、押しつけられ、終電近くまで数字を合わせてきた日々。その全部が、今この指先に残っている。


 無駄ではなかった。


 そう思うには、まだ早い。


 けれど、捨てなくていい。


 誠司は一文字ずつ入力した。


 カチ、カチ、と硬い音が続く。


 黒瀬は何も言わなかった。コトリも口を挟まなかった。ただ、静かに待っていた。


 最後の欄に、理由を入力する。


 誠司は一瞬だけ止まった。


 緊急退避。


 登録者保護。


 色々な言葉が頭に浮かんだ。


 だが、指は短く打った。


【帰還支援】


 誠司はエンターキーに指を置いた。


 その指先が、今度は震えていなかった。




 エンターキーが沈んだ。


 一拍、画面が止まる。


 その間に、誠司の耳は部屋中の音を拾った。黒瀬の浅い呼吸。端末の奥で回る冷却ファンの低い唸り。蛍光灯が小さく震える音。自分の心臓が肋骨の内側を叩く音。


 何も起きない。


 そう思った瞬間、画面の端で細い灰色の線が白く灯った。


【保守経路:一部開放】

【第六層外縁部 補助退避路接続】


「開いた……」


 黒瀬の声が、かすかに漏れた。


 誠司は返事をしなかった。喜ぶには早い。線は開いたが、登録活動者の位置はまだ動いていない。通路そのものが無事かどうかもわからない。


 画面上の四つの点が、赤と橙の間で揺れている。


 一人目は動ける。二人目も遅いが移動できる。三人目はほぼ停止。四人目が、その三人目の近くで止まっている。


 置いていけないのだ。


 誠司は唇を噛んだ。


「コトリ。通信は」


『断続的です。音声は届かない可能性が高いです。ただし、誘導信号なら短く送れるかもしれません』


「短くでいい。こっちへ来い、じゃなくて……」


 誠司は画面の地図を見た。


 迷った人間に、長い説明は届かない。怖い場所で、息が上がって、仲間が倒れているときに、複雑な指示を理解できるはずがない。


 必要なのは、進む理由ではなく、進む方向だ。


「光を出せますか。足元じゃなくて、先の壁に」


『退避誘導灯の再点灯なら可能性があります。ただ、ツクヨミ側の制御権限が必要です』


「俺が入力する」


 画面を切り替える。


 先ほどまでなら、どこを押せばいいのか探すだけで息が詰まった。だが今は、数字の流れが少し見えていた。項目名ではなく、反応を見る。どの値がどの線に繋がっているのか、どの警告が本当に危険なのか。


 誠司はキーを叩いた。


 カチ、カチ、カチ。


 硬い音が、部屋の空気を刻む。


 通路照明。補助灯。誘導表示。非常用標識。


 同じような項目が並んでいた。誠司は一つずつ履歴を開き、最後に反応した時刻を見る。完全に死んでいるものを触っても意味がない。まだ生きている系統を探す。


 あった。


「ここだ」


 誠司は誘導灯を保守経路側へ固定した。


【非常誘導灯:再点灯】

【照度低下:警告】

【継続時間:百八十秒】


 三分。


 三分しか保たない。


 画面上で、一つ目の点が動いた。


 続いて、二つ目も動く。


 だが、三つ目は止まったままだった。


 四つ目の点が、三つ目のそばから離れない。


 誠司の喉が鳴った。


 誰かが、誰かを置いていけずにいる。


 数字でしか見えないのに、その場の空気が浮かんだ。暗い通路。崩れた足場。肩を貸そうとしても動かない仲間。背後から迫る異常。行け、と言われても行けない人間。


「黒瀬さん、三番の状態は」


「生体反応はあります。ただ、移動不能。負傷している可能性が高いです」


「四番は」


「三番の近くに留まっています」


 誠司は奥歯を噛んだ。


 四人全員。


 そう思うことが正しいのか、わからない。全員を動かそうとして、全員を失うかもしれない。先に動ける二人だけでも逃がすべきなのかもしれない。


 その考えが頭をよぎった瞬間、指が止まった。


 画面の端で、安定値がまた落ちる。


【安定値:五十二】


 黒瀬が何か言いかけ、飲み込んだ。


 静寂が降りた。


 広い部屋なのに、世界が画面の四つの点だけに縮んでいく。息を吸うたび、胸の奥が冷たい。背中のシャツが汗で貼りつき、椅子の背もたれから離れない。


 誠司は、自分の膝の上で左手を握った。


 全員を救える保証はない。


 でも、全員を帰すために手を動かすことはできる。


 今できることを、ひとつずつ。


「三番を運ぶ必要があります」


『誠司。補助搬送機構は、ツクヨミでは休止状態です』


「休止なら、動かせるかもしれない」


『保証はありません』


「保証がある仕事なんて、俺は今までやったことがない」


 自分で言って、少しだけ息が戻った。


 誠司は搬送ログを開いた。


 そこには、ほとんど使われていない履歴が並んでいた。古い日付。点検記録。途中で止まった試験運転。整備中の表示。


 その中に、一つだけ、今日の時刻に近い反応があった。


 誰かが触っている。


 ほんの数秒。


 だが、点検ではない。開こうとして、途中でやめたような跡。


 誠司は眉を寄せた。


「……黒瀬さん。今日、この端末に誰かアクセスしましたか」


「いいえ。私が来るまで、封鎖状態のはずです」


 黒瀬の声が一段低くなった。


『誠司。今は救出を優先してください』


「わかってる」


 誠司はその記録を頭の端に押し込んだ。


 今、追うべきではない。


 ただ、その違和感だけは消えなかった。白い画面の奥に、誰かの指の跡が薄く残っているようだった。


 搬送機構を起動する。


【補助搬送機構:休止】

【手動再起動には経路安定化が必要です】


「経路安定化……」


 誠司は地図を睨んだ。


 保守経路の途中に、数値が乱れる箇所がある。そこを通すと搬送機構が止まる。なら、その場所だけ負荷を逃がす。


 アマテラスなら、コトリが何をどこへ逃がすか示してくれた。今は違う。誠司は数字の上下を見て、繋がりを推測するしかない。


 指を動かす。


 負荷分散。


 補助路。


 封鎖壁の一時解放。


 違う。


 通路内圧。


 これでもない。


 額の汗が、顎の先まで落ちた。ポタリ、と机の縁に当たる。小さな水音がした。


 その音に、自分がどれだけ汗をかいているか気づいた。


 息が浅い。


 目が乾く。


 画面の文字が一瞬、二重に見えた。


「佐藤さん、顔色が」


「大丈夫です」


 大丈夫ではなかった。


 鼻の奥に熱い違和感があった。こめかみが脈打っている。頭の芯が細く焼けるように痛い。


 それでも、手は止めなかった。


 数字を見る。


 乱れている値は、通路そのものではない。横の壁面圧だ。つまり、通路が壊れているのではなく、隣接区画から押されている。


 なら、押している側を一瞬だけ開けばいい。


 水の流れと同じだ。


 溜まったものは、逃げ道を作れば下がる。


「ここを開けます」


 黒瀬が画面を覗き込んだ。


「そこは未確認区画です。開けると、別の異常が流入する可能性があります」


「一秒だけです」


「一秒で足りますか」


「足らせます」


 誠司は時間指定を入力した。


 一秒。


 その一秒に、四人の命を乗せる。


 馬鹿げている。


 自分でもそう思った。


 だが、他に道がない。


 誠司はキーを押した。


【隣接区画:一時開放】

【開放時間:一秒】


 画面の線が震えた。


 赤い警告が一斉に増える。


 部屋の端末が短く悲鳴のような音を立てた。


 黒瀬が息を止める気配がした。


 一秒。


 閉鎖。


【経路負荷:低下】

【補助搬送機構:再起動可能】


「動け……」


 誠司の声は、ほとんど息だった。


 補助搬送機構を起動する。


 画面上で、三番の点のそばに小さな白い印が現れた。ゆっくりと近づき、重なる。


 数秒後、三番の点が動いた。


 四番の点も、ようやく動き出す。


 誠司は深く息を吐いた。


 だが、終わっていない。


 一人目と二人目は保守経路に入った。三番は搬送機構に乗った。四番がその横につく。


 出口まで、あと少し。


 そのとき、画面の下部に新しい警告が出た。


【第六層外縁部:再崩落予兆】

【推定到達:九十秒】


 九十秒。


 誘導灯の残り時間は、七十二秒。


 足りない。


 誠司は目を細めた。


 出口を近づけることはできない。なら、途中を短くする。保守経路の壁をもう一枚開ければ、主退避口への距離が半分になる。


 だが、その壁は赤く表示されていた。


【封鎖壁:手動開放非推奨】

【理由:構造保持】


 開ければ、そこが崩れるかもしれない。


 開けなければ、間に合わないかもしれない。


 誠司の指が止まった。


 その一瞬、胸の内側に冷たい穴が開いた。


 どちらを選んでも、間違うかもしれない。


 会社で書類を間違えるのとは違う。謝罪して、残業して、修正すれば済む話ではない。ここでの一行は、人の帰り道になる。ここでの一秒は、人の命になる。


『誠司』


 コトリの声がした。


 静かな声だった。


『私には、選べません』


「……ああ」


『でも、あなたが見ている数字は、私にも見えています』


 誠司は画面を見た。


 封鎖壁の構造保持値。赤い。だが、落ち方は緩やかだ。壁そのものが危険なのではなく、開けたままにする時間が長いと危険になる。


 一瞬だけなら。


 また一瞬だけなら。


 誠司は笑わなかった。


 祈りもしなかった。


 ただ、手を動かした。


「二秒開けます」


「佐藤さん」


「一秒だと搬送が抜けきれない。三秒だと壁が持たない。二秒です」


 黒瀬は止めなかった。


 誠司は開放範囲を最小にした。人ひとりと搬送機構が通る幅だけ。余計なところは触らない。


 入力。


 確認。


 実行。


【封鎖壁:部分開放】

【開放時間:二秒】


 四つの点が、白い線を抜けた。


 直後、画面が赤く染まった。


【第六層外縁部:崩落】

【退避経路:閉鎖】


 心臓が止まるかと思った。


 だが、四つの点は閉鎖の向こう側にいた。


 出口側に。


 生きている。


「行け……」


 誠司は画面に向かって呟いた。


 届くはずのない声だった。


 それでも、声にせずにはいられなかった。


「行け、行け、行け……」


 四つの点が、ゆっくりと出口へ近づく。


 一人目。


【退避完了】


 二人目。


【退避完了】


 三人目の点が、少し遅れる。搬送機構の速度が落ちている。


【搬送出力低下】


「ここまで来て……」


 誠司は補助電源を探した。


 目が痛い。画面の白が刺さる。鼻の奥の熱が強くなる。上唇に、ぬるいものが触れた。


 黒瀬が小さく息を呑む。


「佐藤さん、鼻血が」


「あと一人です」


 誠司は袖で拭わなかった。


 赤い滴が唇の端を伝い、顎へ落ちる。それでも画面から目を離さない。


 補助電源を、搬送機構へ。


 他の照明を落とす。


 誘導灯の残りを捨てる。


 もう出口は見えているはずだ。


 誠司は切り替えた。


【非常誘導灯:停止】

【補助搬送機構:出力回復】


 三番の点が進む。


 四番が、その横についている。


 出口まで、数メートル。


 数値上の数メートル。


 だが誠司には、長い廊下に見えた。暗闇の底から、傷ついた誰かを押し出すような、果てのない距離に見えた。


 三番の点が、出口に重なる。


【退避完了】


 四番が続く。


 一秒。


 二秒。


【退避完了】


 画面の中央に、静かな表示が出た。


【ツクヨミ管理領域 登録活動者:退避完了】

【被害:0名】


 誠司は、しばらく動けなかった。


 表示を読んだはずなのに、意味が胸に届くまで時間がかかった。


 ゼロ。


 誰も死ななかった。


 四人とも帰った。


 その瞬間、身体中の力が抜けた。


 誠司は机に突っ伏した。


 額が硬い天板に当たる。鈍い音がして、視界が暗くなった。鼻血が机に少し広がる。呼吸が乱れ、肩が上下する。


 黒瀬が近づいてくる気配がした。


「佐藤さん!」


「……大丈夫です」


 声は掠れていた。


 自分でも笑ってしまいそうなほど、大丈夫ではない声だった。


 けれど、意識はある。


 画面の文字も、まだ見えている。


 被害、ゼロ。


 それだけで、今は十分だった。


『誠司』


 コトリの声がした。


 先ほどよりも、少しだけ遠く聞こえた。


『あなたは、私がいなくても、人を帰せるのですね』


 誠司は机に額をつけたまま、目を閉じた。


 違う。


 そう思った。


 ひとりだった。確かに、端末を動かしたのは自分だった。認証も、経路も、開放も、自分で選んだ。誰の手も、画面の上に重ならなかった。


 だが、本当にひとりだったわけではない。


 声があった。


 暗い部屋の中で、何度も自分を呼ぶ声があった。


「……いや」


 誠司は、ゆっくり顔を上げた。


 鼻の下をハンカチで押さえる。白い布に赤が滲んだ。


「お前の声が、聞こえてたからだよ」


 コトリは答えなかった。


 ほんの短い沈黙。


 けれどそれは、先ほどの冷たい沈黙とは違っていた。何かが胸の中で言葉を探しているような、柔らかい間だった。


『……ありがとう、ございます』


 誠司は小さく頷いた。


 画面の端で、ログが流れ続けている。


 救出完了の記録。退避経路の閉鎖。補助搬送機構の停止。崩落区画の封鎖。


 その中に、誠司はもう一度、あの違和感を見つけた。


 救出前のアクセス記録。


 整備中のはずの端末に、誰かが触れた跡。


『誠司』


 コトリの声が、わずかに硬くなった。


『ツクヨミの異常には、人為的な痕跡があります』


 黒瀬の表情が変わった。


 誠司はハンカチを鼻に当てたまま、画面を見つめた。


 四人は帰った。


 それは間違いなく、今夜の答えだった。


 だが、この闇を作ったものは、まだ奥にいる。


 窓の外で、夜が薄れていく。


 東の空に、淡い光が差し始めていた。管理棟の白い壁が、少しずつ朝の色を受ける。遠くで、職員用通路を歩く誰かの靴音が聞こえた。乾いた音が、静かな廊下にひとつずつ落ちていく。


 誠司は椅子にもたれ、目を閉じた。


 救出は成功した。


 けれど、黒瀬の取引の答えは、まだ出ていない。


 自分が拘束されるのか。


 保護されるのか。


 家に帰れるのか。


 それすらわからないまま、朝が来る。


 誠司は、血の滲んだハンカチを握りしめた。


 瞼の裏に、四つの点が出口へ進む光景が残っていた。


 あの人たちは帰れた。


 だから今は、それでいい。


 そう自分に言い聞かせながら、誠司は静かに息を吐いた。


 長い夜の終わりに、窓の外の空だけが、何も知らないまま明るくなっていった。


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