第56話 ツクヨミの闇
第四ダンジョン管理棟は、アマテラスの管理室よりも静かだった。
静か、というより、音が死んでいる。
夜明け前の空気が、建物の壁に冷たく染みついていた。窓の外には、まだ色の薄い空が広がっている。東の端だけがわずかに白み、雲の縁をぼんやりと浮かび上がらせていた。敷地内の植え込みは風に揺れていたが、その葉擦れの音さえ、分厚い窓ガラスに遮られてここまでは届かない。
誠司は、黒瀬に案内されるまま、奥の扉をくぐった。
照明は落とされていない。むしろ白すぎるほど明るかった。天井に並んだ蛍光灯が、床の灰色を均一に照らし、影の逃げ場を奪っている。だが、その明るさがかえって寒々しかった。
部屋の中央に、端末があった。
アマテラスのものと似ているようで、まるで違う。
卓上に並ぶキーの間隔。表示パネルの角度。側面に埋め込まれた端子の数。細かなものが、ひとつひとつ違っていた。見慣れたものなら考えずに指が動く場所に、別のキーがある。押したい位置に、何もない。
誠司は椅子の前で足を止めた。
背広の袖口が、手首に冷たく触れる。いつのまにか、手のひらに汗が浮いていた。
「こちらが、ツクヨミの管理端末です」
黒瀬の声は抑えられていた。
いつものように無駄がなく、感情を切り落とした声だった。だが、ほんのわずかに息が浅い。彼女も焦っているのだと、誠司にはわかった。
「現在、内部に取り残されている登録活動者は四名。通信状態は不安定。自力退避は困難です」
四名。
その数字が、胸の奥に落ちた。
四名という文字は、ただの数字ではない。誰かの父親かもしれない。誰かの娘かもしれない。誰かに「すぐ戻る」と言って出てきた人間かもしれない。
誠司は椅子に座った。
キャスターが床を小さく鳴らした。その音だけが、やけに大きく聞こえた。
端末の正面に向き直る。画面は暗い。黒いガラスの向こうに、自分の顔が映っていた。目の下に濃い影がある。頬はこけ、唇は乾いている。昨夜からほとんど眠っていない。
それでも、座るしかなかった。
「起動します」
黒瀬が短く告げ、横の認証盤にカードをかざした。
低い電子音が鳴った。
アマテラスのときのような、鳥のさえずりに似た起動音はしなかった。
いつもなら、あの小さな音があった。夜の深い底で、かすかに羽ばたくような音。誠司にとって、それは始まりの合図だった。どんなに怖くても、横に誰かがいると思わせてくれる音だった。
だが、ここにはない。
画面に白い文字列が走る。機械的で、硬い。余白のない表示。見慣れない項目が縦に並び、見慣れない警告色が滲むように点滅している。
誠司は無意識に、いつもの位置へ指を伸ばした。
そこに、キーはなかった。
指先が宙で止まる。
ほんの一秒。
だが、その一秒の中で、部屋の空気がさらに重くなった気がした。
『誠司』
耳元の小型端末から、コトリの声がした。
その声だけが、凍った部屋に細い線を引いた。
『私はアマテラス専属の管理補助人格です。ツクヨミには、私の権限が及びません』
「……お前、来てくれないのか」
声に出した瞬間、自分でも情けないほど頼りなく聞こえた。
コトリはすぐに答えなかった。
その沈黙は長くなかった。けれど、誠司の耳には、妙に長く伸びた。蛍光灯の微かな唸り。換気口から吐き出される乾いた空気。隣で黒瀬が一度だけ息を吸う音。
それらが、全部聞こえた。
『音声での助言のみ可能です。直接の操作補助は、できません』
「……そうか」
『申し訳ありません』
「謝るな」
誠司は画面から目をそらさなかった。
目をそらしたら、もう座っていられなくなる気がした。
「声は、聞こえてる」
コトリは、また少し黙った。
『はい。私は、ここにいます』
その言葉に、誠司は小さく頷いた。
ここにいる。
だが、動かすのは自分だ。
アマテラスのときは、コトリが導いてくれた。四人の影が、道を照らしてくれた。誠司は必死に手を伸ばしたが、その手を支えるものがあった。
今は違う。
見知らぬ端末。違う操作系。届かない補助。誰の影もない。
目の前には、黒い画面と、下がり続ける数字だけがある。
誠司は息を吐いた。
喉の奥が乾いていた。唾を飲み込むと、痛いほど音がした。
「状況を出してください」
黒瀬が端末の横から最小限の操作を入れる。
画面が切り替わった。
【第四管理領域:ツクヨミ】
【登録活動者:四名】
【第六層外縁部に孤立】
【退避経路:不安定】
【安定値:六十二】
六十二。
まだ猶予はある。そう思った直後、数字が一つ落ちた。
【安定値:六十一】
誠司の指先に汗が滲んだ。
画面上では、細い線が迷路のように走っている。通路、封鎖壁、崩落予兆、魔力濃度、登録者の位置。アマテラスなら、色の変化だけで感覚的に危険な場所がわかった。だが、ツクヨミの表示は違った。色が少なく、記号が多い。警告の分類も見慣れない。
どれが入口で、どれが抜け道なのか。
どの数字が命に直結しているのか。
指が、すぐに動かない。
『誠司。左上の群青色の線が、現在の主通路と思われます』
「思われます、か」
『ツクヨミ側の定義がアマテラスと一致しません。断定できません』
「わかった」
わかった、と言いながら、わかっていなかった。
誠司は画面に顔を近づけた。
細かな文字列が目に刺さる。睡眠不足の眼球が奥から重く、視界の端がぼやけた。左手で目元を押さえたい衝動を抑え、右手だけを動かす。
まず、通路の状態を確認する。
そう決めて、端末のキーに触れた。
硬い。
アマテラスのキーより反発が強い。押し込みの深さも違う。指の腹に伝わる感触が合わず、誠司は一瞬だけ力加減を誤った。
画面が切り替わる。
警告音が鳴った。
短く、鋭く、耳を刺す音。
【操作対象が競合しています】
【退避経路再計算中】
「っ……」
背筋が凍った。
画面の隅で、登録活動者の表示が赤く瞬いた。
誠司は咄嗟に手を引いた。
心臓が一度、強く跳ねる。喉の奥に冷たいものがせり上がった。
「佐藤さん」
黒瀬が一歩近づいた。
靴底が床を擦る音がした。普段なら気にも留めない音なのに、今はその音が、胸の中に直接入ってくる。
「無理なら——」
「いえ」
誠司は、黒瀬の言葉を遮った。
自分でも驚くほど低い声だった。
額から汗が一筋落ちた。こめかみを通り、頬の横を伝う。冷房の効いた部屋なのに、首筋だけが熱い。
「待ってください」
誠司は指を膝の上で握った。
震えている。
少しだけ。
それを黒瀬に見られたくなくて、握り込んだ拳を机の下に隠した。
無理なら。
その言葉は、正しい。
ここで誠司が判断を誤れば、四人が死ぬかもしれない。自分が無理をしたせいで、誰かを帰せなくなるかもしれない。だったら、退くべきだ。できないことをできると言うのは、ただの無責任だ。
けれど、退いたところで誰が間に合う。
この端末の前に、他に座れる人間がいるのか。
誠司は画面を見た。
数字がまた落ちる。
【安定値:五十九】
その瞬間、遠い記憶が胸の奥で揺れた。
会社の古いパソコン。部署ごとに違う管理表。担当者によって癖のある入力欄。半角と全角が混じった数字。色分けも規則もばらばらで、引き継ぎ資料と呼ぶにはあまりに雑なファイル。
誰もきれいに整えてくれなかった。
それでも、毎月の締め日は来た。請求額は合わなければならなかった。入金予定日は間違えられなかった。どれだけ書式が違っても、どれだけ作った人間の癖が残っていても、数字だけは嘘をつかなかった。
誠司は、息を吸った。
浅くなっていた呼吸を、腹の底まで落とす。
一度。
もう一度。
握った拳を開くと、指先に血が戻る感覚があった。
「この端末も、結局は数字だ」
黒瀬が黙った。
コトリも、何も言わなかった。
誠司は画面の警告欄ではなく、数字の並びを見た。
安定値。魔力濃度。通路負荷。登録者の移動速度。封鎖壁の開閉履歴。項目名は違う。配置も違う。だが、落ち方には癖がある。急に下がる場所。一定間隔で乱れる場所。登録者の位置に反応して跳ねる数値。
意味は、後からでいい。
まずは、流れを見る。
誠司は画面の端に表示された履歴を開いた。
今度は、ゆっくりとキーを押す。押し込みすぎない。反発の戻りを指で覚える。
画面が変わる。
警告音は鳴らない。
誠司の肩から、ほんの少し力が抜けた。
『誠司。過去三分の変動履歴を確認できます』
「見えてる」
声が、少しだけ戻っていた。
行が流れる。
数字が並ぶ。
それは、きれいな資料ではなかった。だが、誠司には読めた。誰かが急いで作った雑な表でも、必要な数字は必ずどこかにある。見出しが乱れていても、合計がずれていても、異常な値だけは浮く。
「……ここだ」
誠司は小さく呟いた。
第六層外縁部。登録者四名のうち、一名だけ、移動速度が極端に落ちている。負傷か、足場の崩落か。周辺の通路負荷が他より高い。主通路へ戻すと、途中で詰まる。
なら、戻さない。
迂回させる。
誠司は別の線を探した。
画面上では、ほとんど背景に埋もれるほど細い灰色の線。おそらく保守用通路。だが、封鎖履歴を見ると、完全封鎖ではない。開閉ログが残っている。
「コトリ。この線、通れますか」
『直接照合できません。ただ、数値上は完全閉鎖ではありません』
「黒瀬さん。ツクヨミに保守用の退避路はありますか」
「資料上はあります。ただし、通常探索者には表示されません」
「表示されないだけなら、開けられる可能性があります」
誠司は指を置いた。
その瞬間、手首の内側に汗が溜まっているのに気づいた。袖口が肌に貼りつき、不快な冷たさを残す。
画面の登録者表示が、また赤く瞬いた。
【安定値:五十六】
時間がない。
部屋の中から、音が消えた。
蛍光灯の唸りも、換気口の息も、黒瀬の呼吸さえ遠のく。あるのは、自分の心臓の音と、画面に落ちていく数字だけだった。
誠司はキーを押した。
今度は迷わなかった。
【保守経路:認証待機】
【手動開放には管理者承認が必要です】
見慣れない承認画面が出た。
アマテラスなら、コトリが先回りしてくれる場所だった。必要な認証を整え、誠司が最後の一手だけを押せるようにしてくれた。
だが、今は違う。
『誠司。私は承認に介入できません』
「わかってる」
誠司は、画面に表示された項目をひとつずつ追った。
管理者番号。領域識別。緊急開放理由。対象登録活動者。経路番号。
手入力。
間違えれば、開かない。
誠司はゆっくりと背筋を伸ばした。
古い事務机に向かうときの姿勢だった。誰も褒めてくれなかった二十年。怒鳴られ、押しつけられ、終電近くまで数字を合わせてきた日々。その全部が、今この指先に残っている。
無駄ではなかった。
そう思うには、まだ早い。
けれど、捨てなくていい。
誠司は一文字ずつ入力した。
カチ、カチ、と硬い音が続く。
黒瀬は何も言わなかった。コトリも口を挟まなかった。ただ、静かに待っていた。
最後の欄に、理由を入力する。
誠司は一瞬だけ止まった。
緊急退避。
登録者保護。
色々な言葉が頭に浮かんだ。
だが、指は短く打った。
【帰還支援】
誠司はエンターキーに指を置いた。
その指先が、今度は震えていなかった。
エンターキーが沈んだ。
一拍、画面が止まる。
その間に、誠司の耳は部屋中の音を拾った。黒瀬の浅い呼吸。端末の奥で回る冷却ファンの低い唸り。蛍光灯が小さく震える音。自分の心臓が肋骨の内側を叩く音。
何も起きない。
そう思った瞬間、画面の端で細い灰色の線が白く灯った。
【保守経路:一部開放】
【第六層外縁部 補助退避路接続】
「開いた……」
黒瀬の声が、かすかに漏れた。
誠司は返事をしなかった。喜ぶには早い。線は開いたが、登録活動者の位置はまだ動いていない。通路そのものが無事かどうかもわからない。
画面上の四つの点が、赤と橙の間で揺れている。
一人目は動ける。二人目も遅いが移動できる。三人目はほぼ停止。四人目が、その三人目の近くで止まっている。
置いていけないのだ。
誠司は唇を噛んだ。
「コトリ。通信は」
『断続的です。音声は届かない可能性が高いです。ただし、誘導信号なら短く送れるかもしれません』
「短くでいい。こっちへ来い、じゃなくて……」
誠司は画面の地図を見た。
迷った人間に、長い説明は届かない。怖い場所で、息が上がって、仲間が倒れているときに、複雑な指示を理解できるはずがない。
必要なのは、進む理由ではなく、進む方向だ。
「光を出せますか。足元じゃなくて、先の壁に」
『退避誘導灯の再点灯なら可能性があります。ただ、ツクヨミ側の制御権限が必要です』
「俺が入力する」
画面を切り替える。
先ほどまでなら、どこを押せばいいのか探すだけで息が詰まった。だが今は、数字の流れが少し見えていた。項目名ではなく、反応を見る。どの値がどの線に繋がっているのか、どの警告が本当に危険なのか。
誠司はキーを叩いた。
カチ、カチ、カチ。
硬い音が、部屋の空気を刻む。
通路照明。補助灯。誘導表示。非常用標識。
同じような項目が並んでいた。誠司は一つずつ履歴を開き、最後に反応した時刻を見る。完全に死んでいるものを触っても意味がない。まだ生きている系統を探す。
あった。
「ここだ」
誠司は誘導灯を保守経路側へ固定した。
【非常誘導灯:再点灯】
【照度低下:警告】
【継続時間:百八十秒】
三分。
三分しか保たない。
画面上で、一つ目の点が動いた。
続いて、二つ目も動く。
だが、三つ目は止まったままだった。
四つ目の点が、三つ目のそばから離れない。
誠司の喉が鳴った。
誰かが、誰かを置いていけずにいる。
数字でしか見えないのに、その場の空気が浮かんだ。暗い通路。崩れた足場。肩を貸そうとしても動かない仲間。背後から迫る異常。行け、と言われても行けない人間。
「黒瀬さん、三番の状態は」
「生体反応はあります。ただ、移動不能。負傷している可能性が高いです」
「四番は」
「三番の近くに留まっています」
誠司は奥歯を噛んだ。
四人全員。
そう思うことが正しいのか、わからない。全員を動かそうとして、全員を失うかもしれない。先に動ける二人だけでも逃がすべきなのかもしれない。
その考えが頭をよぎった瞬間、指が止まった。
画面の端で、安定値がまた落ちる。
【安定値:五十二】
黒瀬が何か言いかけ、飲み込んだ。
静寂が降りた。
広い部屋なのに、世界が画面の四つの点だけに縮んでいく。息を吸うたび、胸の奥が冷たい。背中のシャツが汗で貼りつき、椅子の背もたれから離れない。
誠司は、自分の膝の上で左手を握った。
全員を救える保証はない。
でも、全員を帰すために手を動かすことはできる。
今できることを、ひとつずつ。
「三番を運ぶ必要があります」
『誠司。補助搬送機構は、ツクヨミでは休止状態です』
「休止なら、動かせるかもしれない」
『保証はありません』
「保証がある仕事なんて、俺は今までやったことがない」
自分で言って、少しだけ息が戻った。
誠司は搬送ログを開いた。
そこには、ほとんど使われていない履歴が並んでいた。古い日付。点検記録。途中で止まった試験運転。整備中の表示。
その中に、一つだけ、今日の時刻に近い反応があった。
誰かが触っている。
ほんの数秒。
だが、点検ではない。開こうとして、途中でやめたような跡。
誠司は眉を寄せた。
「……黒瀬さん。今日、この端末に誰かアクセスしましたか」
「いいえ。私が来るまで、封鎖状態のはずです」
黒瀬の声が一段低くなった。
『誠司。今は救出を優先してください』
「わかってる」
誠司はその記録を頭の端に押し込んだ。
今、追うべきではない。
ただ、その違和感だけは消えなかった。白い画面の奥に、誰かの指の跡が薄く残っているようだった。
搬送機構を起動する。
【補助搬送機構:休止】
【手動再起動には経路安定化が必要です】
「経路安定化……」
誠司は地図を睨んだ。
保守経路の途中に、数値が乱れる箇所がある。そこを通すと搬送機構が止まる。なら、その場所だけ負荷を逃がす。
アマテラスなら、コトリが何をどこへ逃がすか示してくれた。今は違う。誠司は数字の上下を見て、繋がりを推測するしかない。
指を動かす。
負荷分散。
補助路。
封鎖壁の一時解放。
違う。
通路内圧。
これでもない。
額の汗が、顎の先まで落ちた。ポタリ、と机の縁に当たる。小さな水音がした。
その音に、自分がどれだけ汗をかいているか気づいた。
息が浅い。
目が乾く。
画面の文字が一瞬、二重に見えた。
「佐藤さん、顔色が」
「大丈夫です」
大丈夫ではなかった。
鼻の奥に熱い違和感があった。こめかみが脈打っている。頭の芯が細く焼けるように痛い。
それでも、手は止めなかった。
数字を見る。
乱れている値は、通路そのものではない。横の壁面圧だ。つまり、通路が壊れているのではなく、隣接区画から押されている。
なら、押している側を一瞬だけ開けばいい。
水の流れと同じだ。
溜まったものは、逃げ道を作れば下がる。
「ここを開けます」
黒瀬が画面を覗き込んだ。
「そこは未確認区画です。開けると、別の異常が流入する可能性があります」
「一秒だけです」
「一秒で足りますか」
「足らせます」
誠司は時間指定を入力した。
一秒。
その一秒に、四人の命を乗せる。
馬鹿げている。
自分でもそう思った。
だが、他に道がない。
誠司はキーを押した。
【隣接区画:一時開放】
【開放時間:一秒】
画面の線が震えた。
赤い警告が一斉に増える。
部屋の端末が短く悲鳴のような音を立てた。
黒瀬が息を止める気配がした。
一秒。
閉鎖。
【経路負荷:低下】
【補助搬送機構:再起動可能】
「動け……」
誠司の声は、ほとんど息だった。
補助搬送機構を起動する。
画面上で、三番の点のそばに小さな白い印が現れた。ゆっくりと近づき、重なる。
数秒後、三番の点が動いた。
四番の点も、ようやく動き出す。
誠司は深く息を吐いた。
だが、終わっていない。
一人目と二人目は保守経路に入った。三番は搬送機構に乗った。四番がその横につく。
出口まで、あと少し。
そのとき、画面の下部に新しい警告が出た。
【第六層外縁部:再崩落予兆】
【推定到達:九十秒】
九十秒。
誘導灯の残り時間は、七十二秒。
足りない。
誠司は目を細めた。
出口を近づけることはできない。なら、途中を短くする。保守経路の壁をもう一枚開ければ、主退避口への距離が半分になる。
だが、その壁は赤く表示されていた。
【封鎖壁:手動開放非推奨】
【理由:構造保持】
開ければ、そこが崩れるかもしれない。
開けなければ、間に合わないかもしれない。
誠司の指が止まった。
その一瞬、胸の内側に冷たい穴が開いた。
どちらを選んでも、間違うかもしれない。
会社で書類を間違えるのとは違う。謝罪して、残業して、修正すれば済む話ではない。ここでの一行は、人の帰り道になる。ここでの一秒は、人の命になる。
『誠司』
コトリの声がした。
静かな声だった。
『私には、選べません』
「……ああ」
『でも、あなたが見ている数字は、私にも見えています』
誠司は画面を見た。
封鎖壁の構造保持値。赤い。だが、落ち方は緩やかだ。壁そのものが危険なのではなく、開けたままにする時間が長いと危険になる。
一瞬だけなら。
また一瞬だけなら。
誠司は笑わなかった。
祈りもしなかった。
ただ、手を動かした。
「二秒開けます」
「佐藤さん」
「一秒だと搬送が抜けきれない。三秒だと壁が持たない。二秒です」
黒瀬は止めなかった。
誠司は開放範囲を最小にした。人ひとりと搬送機構が通る幅だけ。余計なところは触らない。
入力。
確認。
実行。
【封鎖壁:部分開放】
【開放時間:二秒】
四つの点が、白い線を抜けた。
直後、画面が赤く染まった。
【第六層外縁部:崩落】
【退避経路:閉鎖】
心臓が止まるかと思った。
だが、四つの点は閉鎖の向こう側にいた。
出口側に。
生きている。
「行け……」
誠司は画面に向かって呟いた。
届くはずのない声だった。
それでも、声にせずにはいられなかった。
「行け、行け、行け……」
四つの点が、ゆっくりと出口へ近づく。
一人目。
【退避完了】
二人目。
【退避完了】
三人目の点が、少し遅れる。搬送機構の速度が落ちている。
【搬送出力低下】
「ここまで来て……」
誠司は補助電源を探した。
目が痛い。画面の白が刺さる。鼻の奥の熱が強くなる。上唇に、ぬるいものが触れた。
黒瀬が小さく息を呑む。
「佐藤さん、鼻血が」
「あと一人です」
誠司は袖で拭わなかった。
赤い滴が唇の端を伝い、顎へ落ちる。それでも画面から目を離さない。
補助電源を、搬送機構へ。
他の照明を落とす。
誘導灯の残りを捨てる。
もう出口は見えているはずだ。
誠司は切り替えた。
【非常誘導灯:停止】
【補助搬送機構:出力回復】
三番の点が進む。
四番が、その横についている。
出口まで、数メートル。
数値上の数メートル。
だが誠司には、長い廊下に見えた。暗闇の底から、傷ついた誰かを押し出すような、果てのない距離に見えた。
三番の点が、出口に重なる。
【退避完了】
四番が続く。
一秒。
二秒。
【退避完了】
画面の中央に、静かな表示が出た。
【ツクヨミ管理領域 登録活動者:退避完了】
【被害:0名】
誠司は、しばらく動けなかった。
表示を読んだはずなのに、意味が胸に届くまで時間がかかった。
ゼロ。
誰も死ななかった。
四人とも帰った。
その瞬間、身体中の力が抜けた。
誠司は机に突っ伏した。
額が硬い天板に当たる。鈍い音がして、視界が暗くなった。鼻血が机に少し広がる。呼吸が乱れ、肩が上下する。
黒瀬が近づいてくる気配がした。
「佐藤さん!」
「……大丈夫です」
声は掠れていた。
自分でも笑ってしまいそうなほど、大丈夫ではない声だった。
けれど、意識はある。
画面の文字も、まだ見えている。
被害、ゼロ。
それだけで、今は十分だった。
『誠司』
コトリの声がした。
先ほどよりも、少しだけ遠く聞こえた。
『あなたは、私がいなくても、人を帰せるのですね』
誠司は机に額をつけたまま、目を閉じた。
違う。
そう思った。
ひとりだった。確かに、端末を動かしたのは自分だった。認証も、経路も、開放も、自分で選んだ。誰の手も、画面の上に重ならなかった。
だが、本当にひとりだったわけではない。
声があった。
暗い部屋の中で、何度も自分を呼ぶ声があった。
「……いや」
誠司は、ゆっくり顔を上げた。
鼻の下をハンカチで押さえる。白い布に赤が滲んだ。
「お前の声が、聞こえてたからだよ」
コトリは答えなかった。
ほんの短い沈黙。
けれどそれは、先ほどの冷たい沈黙とは違っていた。何かが胸の中で言葉を探しているような、柔らかい間だった。
『……ありがとう、ございます』
誠司は小さく頷いた。
画面の端で、ログが流れ続けている。
救出完了の記録。退避経路の閉鎖。補助搬送機構の停止。崩落区画の封鎖。
その中に、誠司はもう一度、あの違和感を見つけた。
救出前のアクセス記録。
整備中のはずの端末に、誰かが触れた跡。
『誠司』
コトリの声が、わずかに硬くなった。
『ツクヨミの異常には、人為的な痕跡があります』
黒瀬の表情が変わった。
誠司はハンカチを鼻に当てたまま、画面を見つめた。
四人は帰った。
それは間違いなく、今夜の答えだった。
だが、この闇を作ったものは、まだ奥にいる。
窓の外で、夜が薄れていく。
東の空に、淡い光が差し始めていた。管理棟の白い壁が、少しずつ朝の色を受ける。遠くで、職員用通路を歩く誰かの靴音が聞こえた。乾いた音が、静かな廊下にひとつずつ落ちていく。
誠司は椅子にもたれ、目を閉じた。
救出は成功した。
けれど、黒瀬の取引の答えは、まだ出ていない。
自分が拘束されるのか。
保護されるのか。
家に帰れるのか。
それすらわからないまま、朝が来る。
誠司は、血の滲んだハンカチを握りしめた。
瞼の裏に、四つの点が出口へ進む光景が残っていた。
あの人たちは帰れた。
だから今は、それでいい。
そう自分に言い聞かせながら、誠司は静かに息を吐いた。
長い夜の終わりに、窓の外の空だけが、何も知らないまま明るくなっていった。




