第44話 あの人は、俺たちが守る
国家ダンジョン対策部隊の庁舎前には、冷たい風が吹いていた。
駐車場の端に残った細い草が、風に押されて同じ方向へ倒れ、またゆっくりと戻る。薄い雲の向こうから差す午後の光は弱く、コンクリートの地面に淡い影だけを落としていた。庁舎の自動扉が開くたび、外気が短く流れ込み、廊下の床を歩く靴音が少しだけ硬く響いた。
神代玲奈は、作戦室の前で足を止めた。
扉の横には、いつものような騒がしさがなかった。
隊員たちの声も低い。誰も大きく笑わず、資料を抱えた職員が足早に通り過ぎていく。その背中には、何か見えない重りを背負っているような緊張があった。
玲奈は短く息を吸い、扉を開けた。
中には、すでに犬飼陸斗がいた。
椅子に座ってはいるが、落ち着いているとは言いがたい。膝の上で拳を握ったり開いたりしながら、壁の時計を何度も見ている。いつもなら軽口の一つでも飛ばす男が、今日は黙っていた。
その隣には、藤原響子が座っていた。
右腕をかばうような仕草は、もうほとんどない。けれど、袖口から覗く傷跡に指先が触れたままになっている。表情は明るく保っているが、目は真剣だった。
「玲奈さん」
犬飼が顔を上げた。
「来たんすね」
「ええ」
玲奈は短く答え、二人の向かいに座った。
机の上には、数枚の資料が置かれている。黒瀬環がまとめたらしい表があり、その横に榊原の手書きのメモがあった。紙の端が少しめくれ、空調の風でかすかに揺れている。
扉が開いた。
榊原剛が入ってくる。
その後ろに黒瀬環が続いた。黒瀬はいつも通り無表情に近かったが、資料を抱える手に余計な力が入っているように見えた。
榊原は全員を見渡した。
声を出す前の沈黙が、作戦室に落ちる。
その静けさは、ただ黙っているだけのものではなかった。これから何かが告げられると全員が分かっていて、それでもまだ聞きたくないものを待っている。そんな重さがあった。
「三日後、政府で公聴会が開かれる」
榊原の声は低かった。
犬飼が顔をしかめる。
「公聴会って……何を話すんですか」
「表向きの議題は、国家級ダンジョンの管理体制についてだ」
榊原は資料を机に置いた。
紙が乾いた音を立てる。
「実際には、人間の管理者を続けるか、オービットゲート社のAIシステムに移行するか。その判断に近い」
室内の空気が、一段冷えた。
玲奈は反射的に背筋を伸ばした。
「ミラージュ、ですか」
「ああ」
榊原の目が細くなる。
「白瀬総一郎が推している。後ろには三神官房副長官がいる」
犬飼が椅子を鳴らして立ち上がりかけた。
「ちょっと待ってくださいよ。あれって、D-7区画で人を見捨てかけたやつですよね」
「そうだ」
「そんなものに任せるんですか」
「だから、任せないために動く」
榊原の声には、怒鳴らずとも人を止める力があった。
犬飼は唇を噛み、椅子に座り直した。床を踏む靴音が、短く鳴る。
藤原が静かに口を開いた。
「佐藤さんは、どうなるんですか」
その問いに、作戦室の全員が榊原を見た。
榊原は一瞬だけ目を伏せた。
そのわずかな間が、答えそのものだった。
「結果次第では、管理者から外される可能性がある」
藤原の指が、袖口を握った。
玲奈は机の下で拳を握った。
あの人が、外される。
画面の向こうで、何度も自分たちを帰してくれた人が。
赤いランプの奥にいる誰かを、ただの数字として見なかった人が。
効率ではなく、安全を選んだ人が。
玲奈の胸の奥で、静かに熱が生まれた。
「理由は」
玲奈は言った。
自分でも驚くほど、声が冷静だった。
「佐藤さんを外す理由は何ですか」
黒瀬が資料を開いた。
「AI移行派の主張は、管理体制の安定化です。一人の民間人に依存することの危険性。身体負荷。意思決定のばらつき。買収や脅迫の可能性」
「脅迫……」
藤原が小さく呟く。
榊原の表情がわずかに険しくなった。
玲奈はその変化を見逃さなかった。
「何かあったんですか」
榊原はすぐには答えなかった。
作戦室の時計の秒針が、妙に大きく聞こえる。
「佐藤さんの家族に、接触ではないが、圧力があった」
犬飼の顔色が変わった。
「家族って……奥さんとか、子どもさんですか」
「ああ。自宅周辺を撮影された」
藤原が息を呑んだ。
玲奈の背中に、冷たいものが走った。
ダンジョンの中ではない。
崩落する通路でも、毒の霧が流れる区画でもない。
佐藤誠司の家。
味噌汁の匂いがして、子どもたちが靴を脱ぎ散らかすような、当たり前の場所。
そこにまで手が伸びた。
「誰が」
玲奈の声は低かった。
「オービットゲート社の関連会社の車両が確認されている」
犬飼が机を叩いた。
乾いた音が作戦室に響き、藤原の肩がびくりと揺れた。
「ふざけんなよ」
犬飼の声は震えていた。
「佐藤さん本人を責めるならまだしも、家族って……子どもまでって……」
「現在、佐藤家の周囲には保護をつけている」
榊原は言った。
「通学路も確認している。奥さんと子どもたちには近づけさせない」
「それでも、やったことは消えません」
玲奈は静かに言った。
怒りで声を荒げたくなかった。
荒げれば、感情だけだと思われる。
でも、胸の奥は熱かった。
指先が冷たくなるほどに。
「白瀬は、佐藤さんの一番守りたい場所を使って、佐藤さんを折ろうとしている」
「その通りだ」
榊原は頷いた。
「だからこそ、公聴会が重要になる」
黒瀬が資料を机の中央に広げた。
「オービットゲート社は、ミラージュの処理速度と運用安定性を強調してきます。人間の管理者は不安定だと主張するはずです」
「でも、人を見捨てた」
藤原が言った。
声は小さかったが、はっきりしていた。
「D-7区画で、二人を後回しにしたんですよね」
「はい」
黒瀬が頷く。
「記録は残っています。ただし、相手はそれを一例として処理しようとするでしょう」
「一例じゃない」
玲奈は立ち上がった。
椅子の脚が床を擦り、鋭い音が鳴る。
全員の視線が集まった。
玲奈はゆっくり息を吸った。
B-14区画の空気を、まだ覚えている。
湿った壁。
足元に溜まる水。
遠くで崩れる音。
仲間たちの荒い呼吸。
あの時、最短ルートはあった。
でも、その先には崩落の危険があった。
佐藤誠司は、速さではなく生きて帰る道を選んだ。
「私は、佐藤さんに救われました」
玲奈は言った。
「B-14区画で、私のチームは閉じ込められました。早く抜けられる道はありました。でも、そこは危険だった」
黒瀬が静かに玲奈を見ている。
犬飼も、藤原も、息を潜めていた。
「佐藤さんは、最短ではなく、安全な道を選んでくれました。時間がかかっても、全員が帰れる道を」
玲奈の声が、少しだけ熱を帯びた。
「効率だけを見るものなら、きっと違う判断をしたと思います」
作戦室は静まり返っていた。
その静けさの中で、玲奈は続けた。
「でも、私たちは帰れました」
犬飼が立ち上がった。
「俺もです」
いつもの軽さはなかった。
「俺は二回、佐藤さんに助けられました。最初は、正直、誰が助けてくれてるかも分かってなかった。でも、あの声が来ると、生きて帰れる気がしたんです」
犬飼は拳を握った。
「俺、佐藤さんに会った時、普通のおっさんだなって思いました」
榊原が少し眉を上げた。
犬飼は慌てて言い足す。
「いや、いい意味でです。偉そうじゃなくて、強そうでもなくて。でも、あの人は画面の向こうで、ずっと俺たちを見てくれてた」
犬飼の声が少し詰まった。
「俺は、あの人がいなかったら、今ここにいません」
藤原も立ち上がった。
右腕の袖口に触れていた指を離す。
「私もです」
彼女は静かに言った。
「私は、あの人に怪我を負わされたと思っていません。あの人は、私を帰してくれました」
玲奈は藤原を見た。
藤原の表情には、もう迷いがなかった。
「佐藤さんは、そのことをずっと気に病んでいました。私に会って、頭を下げてくれました」
藤原は一度、息を吸った。
「機械なら、結果だけを出すかもしれません。軽傷で済んだ、救助成功、そう記録するだけかもしれない。でも、あの人は違います」
作戦室の空調が低く鳴っている。
紙の端が、かすかに揺れた。
「傷つけたかもしれない相手のことを、ずっと背負っていました」
藤原の声が柔らかくなる。
「だから私は、あの人が管理者でよかったと思っています」
長い沈黙が落ちた。
その沈黙は、冷たくなかった。
ひとりひとりの中にある思いが、言葉になる前に同じ場所へ集まっていくような静けさだった。
玲奈は榊原を見た。
「私たちが証言します」
榊原は何も言わず、玲奈を見返した。
「佐藤さんが、どれだけの命を救ったか。数字ではなく、実際に帰ってきた私たちが話します」
犬飼が頷く。
「俺も出ます」
藤原も続いた。
「私も」
玲奈は拳を握った。
佐藤誠司は、ずっと守る側にいた。
見知らぬ探索者のために、眠気をこらえ、鼻血を流し、手を震わせながら端末の前に座っていた。
今度は、自分たちの番だ。
「あの人は」
玲奈は静かに言った。
「私たちが守ります」
榊原はしばらく、玲奈たちを見ていた。
その目には、隊員を見る時の鋭さとは違うものがあった。計算でも、指揮でもない。目の前の若い探索者たちが、自分の意思で立っていることを確かめるような沈黙だった。
やがて、榊原は小さく頷いた。
「分かった」
その一言で、作戦室の空気が動いた。
黒瀬がすぐに資料を分け始める。玲奈、犬飼、藤原の前に、それぞれ一枚ずつ紙が置かれた。救出記録、危険区画の変化、管理者の判断履歴。数字と時刻が整然と並んでいる。
「証言では、感情だけで押し切ろうとしないでください」
黒瀬は淡々と言った。
「相手は必ず、感情論だと切り捨てようとします。だから、あなたたちの体験と記録を結びつけます」
犬飼が紙を覗き込む。
「えっと……俺、こういうの苦手なんすけど」
「知っています」
「即答しないでくださいよ」
いつもなら笑いが起きたかもしれない。
けれど、今日は誰も大きく笑わなかった。ただ、藤原の口元が少しだけ緩み、玲奈もわずかに息を抜いた。
重い空気の中で、その小さな緩みが必要だった。
「犬飼さんは、難しいことを言わなくていいです」
黒瀬は資料の一箇所を指で示した。
「あなたは、管理者の判断で自分が生還したことを、自分の言葉で話してください」
「自分の言葉……」
「はい。余計な誇張は不要です」
「誇張なんてしませんよ」
「前回の報告書に『神の手が降りた』と書いていました」
「比喩っすよ、比喩」
「公聴会では使用禁止です」
「分かりました……」
犬飼は少し肩を落とした。
玲奈はその横顔を見て、ほんの少しだけ落ち着いた。
自分たちは、怖がっている。
当然だ。
政府の公聴会など、探索者が気軽に出る場所ではない。相手は白瀬だけではない。権力を持つ人間たちが、机の向こうからこちらを見る。
言葉を一つ間違えれば、佐藤誠司の立場が悪くなるかもしれない。
それでも、黙ってはいられなかった。
藤原が資料を両手で持った。
「佐藤さんには、このことを?」
「これから伝える」
榊原が答えた。
「公聴会には、佐藤さん本人も呼ばれる」
犬飼が顔を上げた。
「え、親父も出るんすか」
「遮蔽されたブースからの証言になる。身元保護のため、顔は出さない。声も処理をかける予定だ」
玲奈は胸の奥が少し痛んだ。
あの人は、きっと怖がる。
政府の人間の前で話すなど、佐藤誠司が一番苦手にしそうなことだ。彼は人前で胸を張る人ではない。誰かの後ろに静かに立ち、必要な時だけ手を伸ばす人だった。
「佐藤さん、大丈夫でしょうか」
藤原が呟いた。
榊原は窓のない作戦室の壁を見た。
「分からん」
正直な答えだった。
「だが、あの人は逃げない」
黒瀬が静かに言った。
全員の視線が黒瀬に向く。
「怖がっても、迷っても、端末の前には座ります。今回も同じです」
玲奈は頷いた。
「はい」
佐藤誠司は強い人ではない。
少なくとも、自分を強いと思っている人ではない。
だからこそ、信じられる。
怖いものを怖いと言いながら、それでも手を伸ばす人だから。
◇
その日の夜、佐藤家の台所には味噌汁の湯気が立っていた。
鍋の中で豆腐がゆっくり揺れ、刻んだネギの香りがふわりと広がる。換気扇の低い音に混じって、陽菜がリビングで教科書をめくる音が聞こえた。湊は床に広げたブロックで、何か背の高いものを作っている。
誠司は食卓の椅子に座ったまま、スマホの画面を見つめていた。
榊原からの連絡を受けた後だった。
三日後、政府の公聴会。
管理者を続けるかどうか。
その場で、自分も話す。
文字で読んでも、現実感がなかった。
政府。
公聴会。
証言。
どれも、誠司の生活とは離れすぎている言葉だった。
会社で資料を作り、上司に頭を下げ、給料が減っても「分かりました」と言ってきた男が、国の偉い人たちの前で話す。
想像するだけで、胃のあたりが重くなった。
「誠司さん」
美咲が茶碗を置きながら声をかけた。
誠司は顔を上げた。
「榊原さんから?」
「ああ」
「何か、あった?」
誠司はスマホを伏せた。
隠しても仕方がない。
美咲には、もう隠さないと約束した。
「三日後、政府の公聴会に呼ばれた」
美咲の手が止まった。
味噌汁の湯気が、二人の間を細く昇っていく。
「公聴会?」
「うん。俺が管理者を続けるかどうか、話し合われるらしい。顔は隠すけど、俺も証言しなきゃいけない」
美咲はしばらく黙っていた。
その沈黙の中で、湊のブロックが崩れる音がした。
「あー! 倒れた!」
「もう一回作ればいいじゃん」
陽菜が宿題から顔も上げずに言う。
いつもの会話。
いつもの家。
そのすぐそばで、誠司の現実だけが大きく揺れていた。
美咲は向かいの椅子に座った。
「怖い?」
誠司は苦笑しようとして、うまくできなかった。
「正直、怖い」
素直に言うと、少しだけ胸が楽になった。
「政府の偉い人たちの前で話すなんて、俺には向いてないよ。うまく説明できる自信もない。白瀬みたいな人間に言い返せるとも思えない」
「言い返さなくていいんじゃない?」
美咲は静かに言った。
誠司は顔を上げる。
「上手く話そうとしなくていいと思う。偉い人を言い負かそうとしなくてもいい」
美咲は誠司の手に、自分の手を重ねた。
台所の明かりの下で、その手は温かかった。
「あなたが本当に思っていることを言えばいい」
「本当に思ってること……」
「うん」
美咲は少しだけ笑った。
「前に言ったよね。全部助けようとしなくていい。でも、諦めないでって」
誠司の胸に、その言葉が戻ってきた。
深夜の端末の前で、何度も支えになった言葉だった。
「公聴会でも同じだと思う。全部を背負おうとしなくていい。立派な言葉を探さなくていい。ただ、あなたがどうして続けているのか、それを話せばいい」
誠司は視線を落とした。
自分がどうして続けているのか。
最初は金のためだった。
減給され、生活が苦しくなり、深夜バイトの求人に手を伸ばした。
けれど今は違う。
画面の光点の向こうに、人がいると知ってしまった。
帰りを待つ家族がいると、知ってしまった。
「俺は……」
誠司が言いかけた時、リビングから陽菜が顔を出した。
「パパ、なんか大事な話?」
湊もブロックを持ったまま振り返る。
「パパ、怒られるの?」
「怒られるわけじゃない」
誠司は慌てて言った。
湊は目を丸くする。
「じゃあ、戦うの?」
「戦うっていうか……話すだけだよ」
「偉い人と?」
陽菜が聞いた。
「うん。まあ、そうだな」
陽菜はじっと誠司を見た。
最近、その目に少し大人びたものが混じるようになったと、誠司は思う。まだ小学生なのに、家の空気が変わったことを敏感に感じ取る。
「パパ、大丈夫だよ」
陽菜は言った。
「最近、ちょっとカッコいいから」
誠司は思わず目を瞬いた。
「ちょっとか」
「すごくって言うと、調子に乗りそうだから」
美咲が小さく笑った。
湊はブロックを高く掲げた。
「パパは朝ごはんの王様だもん!」
「それは関係あるのか?」
「ある!」
湊は真剣だった。
「朝ごはん作れる人は強い!」
誠司はこらえきれず、少し笑った。
笑ったら、胸の奥にあった硬いものがほんの少し緩んだ。
陽菜が椅子から降りて近づいてくる。
湊もその後ろから走ってきた。
二人が左右から誠司に抱きつく。
小さな体温が、両腕に触れた。
「パパ、がんばって」
湊が言う。
「無理はしないでね」
陽菜が続けた。
誠司は二人の背中に手を回した。
柔らかい服の感触。
湊の髪からするシャンプーの匂い。
陽菜の肩越しに見える、食卓の湯気。
守りたいものは、ここにある。
この家に帰りたいと思う自分がいるから、画面の向こうの誰かにも帰ってほしいと思える。
「ありがとうな」
誠司は小さく言った。
「二人とも」
美咲がその光景を、黙って見ていた。
目元が少しだけ柔らかい。
けれど、その奥には不安もある。公園の写真のことも、公聴会のことも、何一つ消えたわけではない。
それでも、今この瞬間だけは、家族の手が誠司を支えていた。
◇
公聴会の前夜。
玲奈は自室の机に向かい、証言の紙を見直していた。
窓の外では、夜風が細い枝を揺らしている。街灯の光を受けた葉が、暗闇の中でちらちらと光った。遠くの道路を走る車の音が、時折低く響いては消える。
紙の上には、黒瀬が整理した記録と、自分の言葉で書き足した短い文章が並んでいる。
B-14区画。
四人全員生還。
管理者は最短ではなく、安全な経路を選択。
玲奈はペンを置いた。
文字では、あの時の空気までは伝わらない。
崩れそうな天井を見上げた時の息苦しさ。
仲間の声が少しずつ弱くなっていく怖さ。
そして、誘導が現れた瞬間に胸の奥へ灯った希望。
それを、明日、言葉にしなければならない。
スマホが震えた。
犬飼からだった。
『緊張して眠れないっす』
続けて、藤原からも届く。
『同じく』
玲奈は少し考え、短く返した。
『明日は、私たちが見たことを話しましょう』
すぐに犬飼から返事が来た。
『あの人は俺たちが守る、ですね』
藤原からも。
『はい』
玲奈は画面を見つめた。
胸の奥に、静かな熱が戻る。
『はい。守りましょう』
送信して、スマホを伏せた。
その頃、佐藤家では、誠司が一人、台所に立っていた。
家族はもう眠っている。
部屋の明かりは落とされ、台所の小さな照明だけがついていた。流しの金属に淡い光が映り、冷蔵庫の低い音が静かな家に響いている。
誠司は水を一杯飲んだ。
冷たさが喉を通り、胃に落ちる。
それでも緊張は消えない。
明日、何を言えばいいのか。
何度考えても、立派な言葉は浮かばなかった。
誠司は食卓に置かれた弁当箱を見た。
美咲が明日のために準備してくれたものだった。横には、陽菜が書いた小さなメモが置かれている。
『パパ、ふつうに話せば大丈夫』
その隣に、湊の字らしい丸い文字で続いていた。
『おうさまがんばれ』
誠司は声を出さずに笑った。
目の奥が熱くなる。
ふつうに話せば大丈夫。
それが一番難しい。
でも、たぶん一番正しい。
誠司はメモをそっと畳まず、そのまま食卓に置いた。
窓の外では、私服の警護が静かに立っている。
遠くで、風が電線を鳴らした。
玲奈、犬飼、藤原。
美咲、陽菜、湊。
榊原、黒瀬、柴田。
そしてコトリ。
一人で赤いランプを消していると思っていた。
誰にも知られず、誰にも分かってもらえず、ただ深夜に端末へ向かっているだけだと思っていた。
けれど、そうではなかった。
救った人たちは、帰った先で生きている。
そして今、その人たちが自分のために立とうとしている。
誠司は深く息を吸った。
「帰りたい場所がある人を、帰す」
小さく呟く。
難しい言葉ではない。
ただ、それだけだった。
明日、その言葉がどこまで届くかは分からない。
白瀬が何を言うのかも分からない。
政府の人間たちが、自分をどう見るのかも分からない。
それでも、逃げない。
誠司は台所の明かりを消した。
家の中が、静かな暗がりに包まれる。
寝室へ向かう廊下で、ふと立ち止まった。
子ども部屋の扉の隙間から、薄い寝息が聞こえる。
その音を確かめてから、誠司はゆっくり歩き出した。
公聴会の朝は、もうすぐそこまで来ていた。




