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減給された40代社畜、深夜バイトで国家級ダンジョンの管理者になる  作者: Gaku
第1部:深夜バイト編

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43/75

第43話 キョウ


 夜の地下施設は、地上よりも時間の流れが遅く感じられた。


 長い通路には白い照明が等間隔に並び、床に細い光の帯を落としている。壁の奥からは、機械が低く唸る音が絶えず響いていた。外の風も、車の音も、家々の窓明かりもここまでは届かない。


 誠司の靴音だけが、廊下に小さく返ってくる。


 こつ、こつ、と。


 その音を聞くたびに、誠司は今朝の通学路を思い出した。


 陽菜のランドセルが揺れていた。


 湊が手を振っていた。


 通りの角には、榊原が手配した私服の警護が立っていた。


 守られている。


 そう分かっていても、不安は消えなかった。


 公園の外に停まっていた黒い車。運転席から向けられたカメラ。湊の肩を抱き寄せた時の、自分の手の震え。


 あの感覚が、まだ指先に残っている。


 端末室の扉の前で、誠司は一度足を止めた。


 冷たい扉に、白い光が薄く映っている。


 ここから先に入れば、またいつもの夜が始まる。


 赤いランプを消す夜。


 誰かを帰す夜。


 誠司は深く息を吸った。


 胸の奥には、藤原の言葉がまだ残っていた。


 あなたに助けられた人です。


 それから、美咲の声も。


 一人で抱えないで。


 誠司は扉を開けた。


 端末室の空気は、いつも少し乾いている。薄暗い室内に並ぶ機器の明かりが、青や緑の小さな点となって瞬いていた。中央の端末だけが、誠司を待っていたかのように静かに画面を灯している。


 椅子に座ると、クッションがわずかに沈んだ。


 机に手を置く。


 指先が、少し冷たい。


『管理者、接続を確認しました』


 画面に文字が浮かぶ。


 コトリの声は、いつも通りだった。感情の起伏は少ない。けれど誠司には、もうそれがただの機械的な声には聞こえなかった。


「こんばんは、コトリ」


『こんばんは、誠司』


 誠司は小さく息を吐いた。


 その呼び方にも、いつの間にか慣れてしまっている。


『本日は二十七度目の勤務です。登録活動者、三十七名。危険度の高い反応は現時点で二件です』


「分かった。順番に見せてくれ」


 画面に、細かな線と光点が浮かび上がる。


 誠司はいつものように処理を始めた。


 崩れかけた通路の回避。毒性のある霧が流れ込む区画の閉鎖。迷っていた二人組への誘導。ひとつひとつは小さな判断だったが、その先には必ず人がいた。


 光点が安全地帯へ抜けるたび、誠司は短く息を吐いた。


「よし、帰れ」


『対象二名、安全圏に到達』


「次」


 端末の光が誠司の顔を照らす。


 作業の間、端末室は静かだった。キーを叩く音と、機械の低い振動音だけが空気を満たしている。外の世界の不安は、ここでは少し遠くなる。


 けれど、完全には消えない。


 ひと通り危険な反応を処理した後、画面上の赤い表示は消えていた。


 誠司は背もたれに体を預け、目頭を軽く押さえた。目の奥に鈍い重さがある。まだ耐えられる程度だが、無視はできない。


『疲労反応を検出』


「いつものことだよ」


『休憩を推奨します』


「そうする」


 誠司はペットボトルの水を飲んだ。


 喉を通る冷たさで、少し頭がはっきりする。


 そのまま画面を見つめているうちに、ふと、前から聞こうと思っていたことが胸に浮かんだ。


 コトリ。


 お前は何者なんだ。


 以前も尋ねた。


 答えは出なかった。


 けれど、その問いはずっと残っていた。コトリはただの案内役ではない。何かを選び、何かを迷い、誠司の言葉に反応する。


 そして時々、人間のように沈黙する。


「コトリ」


『はい』


「前に聞いたこと、覚えてるか」


『複数該当します。内容を指定してください』


「お前が、何者なのかって話だ」


 画面の文字が、数秒止まった。


 いつもの即答がない。


 端末室の空気が、少しだけ変わった気がした。機械の唸りが遠くなり、誠司は画面の光だけを見ていた。


『正確な回答は、現在もできません』


「そうか」


『ただし』


 誠司の指が、机の上で止まった。


『最近、過去の記録を参照する頻度が増えています』


「過去の記録?」


『本システムが現在の形になる以前の、断片的な記録です。通常は閉じられていましたが、管理者との深い接続を繰り返した影響により、一部の参照が可能になっています』


 誠司は椅子に座り直した。


「お前が作られる前の記録ってことか」


『その可能性が高いです』


「そこに、何があった」


 また沈黙。


 画面に文字は出ない。


 けれど、完全な停止ではなかった。細かな光の線が、画面の隅で何度も流れては消える。迷っているように見えた。


 コトリが、迷っている。


 誠司はそう感じた。


『そこに、一つの名前があります』


 胸の奥が、なぜか冷たくなった。


「名前?」


『はい』


 短い間。


 空調の音が、やけに耳についた。


『影山恭一』


 誠司の手が止まった。


 ペットボトルの水滴が、机の上に落ちる。小さな丸い跡が、光を反射した。


「影山……恭一」


 その名前を、誠司は知っている。


 柴田に見せられた写真。


 十二年前、ここに関わっていた四人。


 黒瀬大輝。桐島鷹也。宮前千紗。


 そして、一番若く、一番優しく、一番怖がりだったと聞いた男。


 キョウ。


 柴田が、そう呼んでいた。


「どうして、その名前が出てくる」


『不明です』


 コトリの返答は短かった。


 しかし、その次の表示は少し遅れた。


『ただし、この名前を参照すると、本システムの応答に説明できない変動が生じます』


「変動?」


『処理速度の低下。不要な過去記録への接続。誠司の音声に対する応答優先度の上昇』


「それは……どういう意味だ」


『分かりません』


 画面の文字が、一瞬だけ途切れた。


『私は、この名前に何らかの関連を持っている可能性があります』


 誠司は黙った。


 端末室の中で、時間が止まったようだった。


 影山恭一。


 コトリ。


 十二年前の四人の影。


 いくつかの点が、まだ線にならないまま、誠司の胸の奥で並んでいく。


「コトリ」


『はい』


「その名前を見た時、お前は何か感じるのか」


『私は、感情を持つ存在ではありません』


 いつもの返答だった。


 だが、誠司にはそれが、少しだけ弱く聞こえた。


「じゃあ、反応するのか」


『はい』


「怖いか」


 長い沈黙が落ちた。


 画面の光が、誠司の頬を青白く照らしている。


 冷房が効いているわけでもないのに、背中に薄い汗が滲んだ。


『怖い、という言葉が適切かは分かりません』


 やがて、文字が出た。


『しかし、その名前を参照すると、処理を続けることが困難になります』


 誠司は息を呑んだ。


 それはもう、ただの異常ではない。


 何かが、そこに引っかかっている。


 名前という小さな鍵に触れるたび、コトリの奥で、閉じていた何かが震える。


「分かった」


 誠司は静かに言った。


「俺が見てくる」


『推奨できません』


 返答はすぐだった。


『深い接続は、管理者の身体負荷を増大させます。前回も鼻出血と視界異常が発生しています』


「分かってる」


『現在、管理者には家族への外部脅威も存在します。身体状態の悪化は、危険です』


 誠司は目を細めた。


「お前、そこまで心配するようになったのか」


『心配ではありません。管理継続のための合理的判断です』


「そうか」


 誠司は少しだけ笑った。


 でも、その笑いはすぐに消えた。


「コトリ。俺は、お前のことを知りたい」


 画面の文字が止まる。


「お前が何者でもいい。人間だったのか、記録なのか、何かの残りなのか、俺には難しいことは分からない」


 誠司は机に手を置いた。


 指先に力を込める。


「でも、お前は毎晩、俺と一緒に人を帰してる」


 端末室の静けさが深くなる。


「だったら、俺は知らないふりをしたくない」


『誠司』


「怖いなら、俺が見る」


 誠司は画面をまっすぐ見た。


「お前の代わりに、とは言えない。でも、一緒に見ることはできる」


 長い沈黙。


 機械の音だけが、低く響いた。


 それは、誰もいない広い部屋で、返事を待つ時間に似ていた。


 やがて、画面に短い文字が浮かんだ。


『深層接続を開始します』


 誠司は息を吸った。


 鼻の奥が、すでに少し熱い。


 それでも、手を引く気はなかった。


『異常を検出した場合、強制切断します』


「ああ。頼む」


『管理者、準備はよろしいですか』


 誠司は目を閉じた。


 湊の笑顔。


 陽菜の背中。


 美咲の手。


 藤原の言葉。


 それらを胸の奥に一度置いてから、目を開けた。


「始めてくれ」


 画面の光が、急に強くなった。


 視界が白く滲む。


 次の瞬間、足元の感覚が消えた。


 落ちる。


 いや、沈んでいく。


 音が遠ざかり、体の重さがなくなり、誠司は深い暗がりの中へ引き込まれていった。


 暗闇の底に、四つの影が待っていた。



 そこには、風も音もなかった。


 ただ、暗い。


 それなのに、不思議と足元だけは見えていた。黒い水面のような床が、誠司の靴の下に広がっている。踏みしめても波紋は立たず、靴音も返ってこない。


 自分の呼吸だけが聞こえた。


 浅く、速い。


 目の奥がじわりと熱を持ち始める。鼻の奥にも、針で触れられたような痛みがあった。


 無理はするな。


 榊原の声が頭をよぎる。


 けれど、誠司は目の前を見た。


 暗闇の中に、四つの影が立っていた。


 一つは、刃物のように鋭い輪郭をしていた。近づくだけで、こちらの間違いをすべて見抜かれそうな気配がある。


 一つは、大きかった。背筋を伸ばし、迷う者の背中を押すような強さがあった。


 一つは、小さく揺れていた。消えそうなのに、決して消えない火のようだった。


 そして、四つ目。


 誠司は、その影から目が離せなかった。


 他の三つに比べて、輪郭は薄い。強くも鋭くもない。むしろ、少し頼りなく見えた。風もないのに、肩のあたりが小さく震えているように見える。


 それでも、その影の周りだけ、暗闇の冷たさが少しやわらいでいた。


 誠司は一歩踏み出した。


 音はしない。


 けれど足の裏には、確かに進んでいる感覚があった。


「あんたが……影山恭一さんか」


 影は答えなかった。


 顔もない。目もない。口もない。


 それでも、誠司は見られている気がした。


 責められているのではない。


 問われているのでもない。


 ただ、そこにいて、こちらを待っている。


 誠司は喉を鳴らした。


「コトリが、あんたの名前に反応した」


 影は動かない。


「俺は、難しいことは分からない。あんたが何を残したのかも、コトリが何なのかも、まだ何も分かってない」


 鼻の奥に熱いものが込み上げる。


 誠司は袖で押さえようとしたが、その前に一筋、血が唇の上へ落ちた。鉄の味がした。


 それでも、言葉を続けた。


「でも、あいつは毎晩、俺と一緒に人を帰してる」


 その瞬間。


 四つ目の影が、ほんのわずかに揺れた。


 暗闇の奥で、何かがほどけるような気配がした。


 声ではない。


 映像でもない。


 ただ、胸の内側へ、誰かの感情だけが触れてくる。


 怖い。


 行きたくない。


 死にたくない。


 それでも。


 それでも、誰かを帰したい。


 誠司は息を止めた。


 その感覚を知っていた。


 端末の前で、赤いランプを見るたびに胸を締めつけるもの。


 怖いのに、手を伸ばさずにはいられない感覚。


 コトリが沈黙する時の、あのわずかな揺らぎ。


 同じだった。


「お前……」


 誠司は思わず呟いた。


「コトリと、同じ感じがする」


 影は何も答えない。


 けれど、暗闇の中に、薄い光景が浮かんだ。


 床に倒れた誰かの手。


 赤く点滅する表示。


 崩れていく通路。


 叫び声は聞こえない。


 ただ、誰かが必死に腕を伸ばしている。


 自分のためではなく、前にいる誰かの背中を押すために。


 行け。


 帰れ。


 そんな言葉が、声にならないまま、誠司の胸に流れ込んできた。


「……っ」


 目の奥が焼けるように痛んだ。


 視界の端が白く霞む。


『危険です。接続負荷、上昇』


 遠くでコトリの声が聞こえた。


 現実の声なのか、この暗闇の中の声なのか分からない。


 誠司は影へ手を伸ばした。


「影山さん。あんたは、最後に何をしようとしたんだ」


 返事はない。


 けれど、四つ目の影の輪郭が少しだけ濃くなった。


 その瞬間、誠司の頭の奥で何かが弾けた。


 強烈な痛みが走る。


 膝が崩れた。


 黒い床に手をついたはずなのに、感触はなかった。ただ冷たいものが指の間をすり抜ける。


『強制切断します』


「待て、まだ」


『強制切断します』


 視界が白く染まった。


 四つの影が遠ざかる。


 最後に見えたのは、四つ目の影が、こちらへ向かって手を伸ばすような姿だった。


     ◇


 誠司は端末室の椅子の上で、激しく息を吸い込んだ。


 肺に空気が入る。


 現実の空気だった。


 機械の低い唸り。青い表示灯。机の硬さ。椅子の背もたれ。


 戻ってきた。


 誠司は口元を押さえた。


 指に赤いものがつく。


 鼻血だった。


『管理者、身体負荷が危険域に接近しました』


「……分かってる」


『休憩を強く推奨します』


「ああ」


 誠司はティッシュで鼻を押さえ、背もたれに体を預けた。


 心臓が速い。


 汗が背中に貼りつき、シャツが冷たくなっている。手のひらも湿っていた。指を曲げると、関節がぎこちなく動いた。


 けれど、見た。


 あの影は、コトリと同じだった。


 誰かを帰したいと願っていた。


 誠司は画面を見た。


「コトリ」


『はい』


「影山恭一さんのことを、もっと知りたい」


『現時点で参照可能な記録は不完全です』


「なら、知っている人に聞く」


『柴田顧問ですか』


「ああ」


 誠司はティッシュを鼻に当てたまま、椅子から立ち上がった。


 足元が少しふらつく。


『休憩を推奨します』


「柴田さんに聞いてから休む」


『非推奨です』


「分かってる」


 誠司は苦笑した。


「でも、今聞かないと、逃げそうなんだ」


『誰がですか』


「俺が」


 コトリは少し黙った。


『記録しました』


「何を」


『誠司は、怖くても確認する』


 誠司は返事ができなかった。


 画面の文字を見ていると、また胸の奥が熱くなった。


     ◇


 柴田は休憩室にいた。


 深夜の休憩室は、昼間とは違う匂いがした。誰かが飲み残したコーヒーの苦い匂いと、古いソファの布地の匂い。蛍光灯は一本だけ落とされ、部屋の端が薄く暗い。


 自動販売機の低い振動音が、静かな部屋に続いている。


 柴田は紙コップのコーヒーを手に、古い椅子に腰を下ろしていた。誠司が入ってくると、すぐに眉を寄せた。


「佐藤さん。また鼻、やったのか」


「少しだけです」


「少しだけって顔じゃねえよ」


 柴田は立ち上がろうとした。


 誠司は手で制した。


「大丈夫です。聞きたいことがあって」


「何だ」


 誠司は一度、唇を湿らせた。


 休憩室の空気が、少し重くなる。


「影山恭一さんって、どんな人だったんですか」


 柴田の手が止まった。


 紙コップの中のコーヒーが、わずかに揺れる。


「……キョウのことを、なんで」


「コトリが、その名前に反応するんです」


 柴田はすぐには答えなかった。


 窓のない休憩室に、沈黙が落ちる。


 自動販売機の振動音だけが、低く続いていた。廊下の向こうを誰かが歩く音が遠くで鳴り、すぐに消えた。


 柴田はゆっくり椅子に座り直した。


 その動きは、急に年を取ったように見えた。


「そうか」


 短い一言だった。


 けれど、その中にいくつもの感情が沈んでいた。


 懐かしさ。


 痛み。


 後悔。


 柴田は紙コップを机に置いた。


「キョウはな、四人の中で一番若かった」


 誠司は黙って聞いた。


「一番気が弱くて、一番怖がりだった。大きな音がすると、すぐ肩を跳ねさせるようなやつでな。無理だと思ったら、無理ですってちゃんと言うやつだった」


 柴田の口元が、ほんの少しだけ緩んだ。


「でも、誰かを置いていくのだけは、誰より嫌がった」


 誠司の胸が鳴った。


「十二年前の暴走の時もそうだった」


 柴田の声が低くなる。


「端末が荒れて、区画が次々変わって、四人とも危なかった。逃げ道もまともに読めねえ。普通なら、自分の安全だけ考えても責められねえ状況だった」


 紙コップの表面に、蛍光灯の光が揺れている。


「でもキョウは、最後まで仲間を帰そうとしてた」


 誠司の指が動いた。


 あの暗闇で感じたものが、胸の中で形を持ち始める。


「自分が囮になって、他の三人を逃がそうとしたらしい」


「らしい、ですか」


「あの場にいた全員が、まともに話せる状態じゃなかった。残った記録も切れ切れだ」


 柴田は目を伏せた。


「ただ、最後に残っていた音声がある」


 誠司は息を止めた。


 柴田はしばらく黙っていた。


 言葉を口にするだけで、十二年前の何かがまた部屋に戻ってくるようだった。


「『みんな、帰れ』」


 その一言が、休憩室に落ちた。


 誠司は動けなかった。


「キョウは、最後にそう言った」


 みんな、帰れ。


 誠司の胸の奥で、その言葉が何度も響いた。


 毎晩、赤いランプを消すたびに自分が呟いてきた言葉。


 帰れよ。


 それと、同じだった。


 十二年前に帰れなかった男が、最後まで誰かを帰そうとしていた。


 その願いの形が、今も端末の奥で息をしているのだとしたら。


 コトリは。


 誠司は目頭を押さえた。


 泣くつもりはなかった。


 けれど、胸の奥が熱くて仕方がなかった。


「柴田さん」


「ああ」


「コトリは……その人なんでしょうか」


 柴田はすぐには答えなかった。


 長い沈黙だった。


 答えを知っている沈黙ではない。


 分からないものを、分からないまま受け止めようとする沈黙だった。


「断言はできねえ」


 やがて柴田は言った。


「だがな、佐藤さん」


「はい」


「あんたがコトリと馬が合うのは、たぶん偶然じゃねえ」


 柴田はまっすぐ誠司を見た。


「あんたとキョウは、少し似てる」


「俺が、影山さんと?」


「ああ」


 柴田は紙コップを手に取ったが、飲まなかった。


「怖がりで、普通で、自分を強いなんて思ってねえ。それでも、人を帰したがる」


 誠司は何も言えなかった。


「キョウもそうだった。最後まで、帰せるやつを帰そうとした」


 休憩室の時計が、小さく一つ鳴った。


 深夜の一時だった。


 誠司はゆっくり立ち上がった。


「ありがとうございます」


「無理すんなよ」


「はい」


「その返事、信用ならねえな」


 誠司は少しだけ笑った。


 笑ったつもりだったが、うまくできたかは分からなかった。


     ◇


 端末室に戻ると、コトリは待っていた。


『休憩時間が不足しています』


「そうだな」


『身体状態は安定していません』


「分かってる」


 誠司は椅子に座った。


 画面の光が、再び顔を照らす。


「コトリ」


『はい』


「影山恭一さんは、最後まで仲間を帰そうとしてたらしい」


 画面の文字が止まった。


 数秒。


 十秒。


 もっと長く感じられた。


『……そうですか』


 たったそれだけの返答だった。


 けれど、誠司には分かった。


 コトリは揺れている。


 画面には変化がない。声も平坦だ。それでも、その短い文字の奥で、何かが静かに震えている。


「お前が誰だったとしても」


 誠司は言った。


「お前は今、ちゃんと誰かを帰してる」


 機械の唸りが、低く続いている。


「それでいいんじゃないか」


 画面に、なかなか文字は出なかった。


 誠司は待った。


 急かさず、説明も重ねず、ただ待った。


 やがて、コトリの声がした。


『……ありがとうございます、誠司』


 誠司は目を細めた。


『その言葉を、記録します』


「ああ」


『重要記録として保存します』


 画面の隅に、小さな文字列が流れた。


【影山恭一──照合中】


 誠司は息を止めた。


 文字列は数秒だけ揺れるように点滅した。


【照合、保留】


 それ以上は何も出なかった。


 コトリはまだ、自分の正体を知らない。


 誠司も、答えまでは届いていない。


 けれど確かに、何かが近づいていた。


 閉じていた扉の向こうで、誰かがゆっくり目を開けようとしている。


 端末室の青い光の中で、誠司は画面を見つめ続けた。


 ふと、スピーカーから小さな音がした。


 声ではない。


 ただの揺らぎだったのかもしれない。


 それでも誠司には、一瞬だけ、誰かが遠くから呼んだように聞こえた。


 キョウ、と。


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