第43話 キョウ
夜の地下施設は、地上よりも時間の流れが遅く感じられた。
長い通路には白い照明が等間隔に並び、床に細い光の帯を落としている。壁の奥からは、機械が低く唸る音が絶えず響いていた。外の風も、車の音も、家々の窓明かりもここまでは届かない。
誠司の靴音だけが、廊下に小さく返ってくる。
こつ、こつ、と。
その音を聞くたびに、誠司は今朝の通学路を思い出した。
陽菜のランドセルが揺れていた。
湊が手を振っていた。
通りの角には、榊原が手配した私服の警護が立っていた。
守られている。
そう分かっていても、不安は消えなかった。
公園の外に停まっていた黒い車。運転席から向けられたカメラ。湊の肩を抱き寄せた時の、自分の手の震え。
あの感覚が、まだ指先に残っている。
端末室の扉の前で、誠司は一度足を止めた。
冷たい扉に、白い光が薄く映っている。
ここから先に入れば、またいつもの夜が始まる。
赤いランプを消す夜。
誰かを帰す夜。
誠司は深く息を吸った。
胸の奥には、藤原の言葉がまだ残っていた。
あなたに助けられた人です。
それから、美咲の声も。
一人で抱えないで。
誠司は扉を開けた。
端末室の空気は、いつも少し乾いている。薄暗い室内に並ぶ機器の明かりが、青や緑の小さな点となって瞬いていた。中央の端末だけが、誠司を待っていたかのように静かに画面を灯している。
椅子に座ると、クッションがわずかに沈んだ。
机に手を置く。
指先が、少し冷たい。
『管理者、接続を確認しました』
画面に文字が浮かぶ。
コトリの声は、いつも通りだった。感情の起伏は少ない。けれど誠司には、もうそれがただの機械的な声には聞こえなかった。
「こんばんは、コトリ」
『こんばんは、誠司』
誠司は小さく息を吐いた。
その呼び方にも、いつの間にか慣れてしまっている。
『本日は二十七度目の勤務です。登録活動者、三十七名。危険度の高い反応は現時点で二件です』
「分かった。順番に見せてくれ」
画面に、細かな線と光点が浮かび上がる。
誠司はいつものように処理を始めた。
崩れかけた通路の回避。毒性のある霧が流れ込む区画の閉鎖。迷っていた二人組への誘導。ひとつひとつは小さな判断だったが、その先には必ず人がいた。
光点が安全地帯へ抜けるたび、誠司は短く息を吐いた。
「よし、帰れ」
『対象二名、安全圏に到達』
「次」
端末の光が誠司の顔を照らす。
作業の間、端末室は静かだった。キーを叩く音と、機械の低い振動音だけが空気を満たしている。外の世界の不安は、ここでは少し遠くなる。
けれど、完全には消えない。
ひと通り危険な反応を処理した後、画面上の赤い表示は消えていた。
誠司は背もたれに体を預け、目頭を軽く押さえた。目の奥に鈍い重さがある。まだ耐えられる程度だが、無視はできない。
『疲労反応を検出』
「いつものことだよ」
『休憩を推奨します』
「そうする」
誠司はペットボトルの水を飲んだ。
喉を通る冷たさで、少し頭がはっきりする。
そのまま画面を見つめているうちに、ふと、前から聞こうと思っていたことが胸に浮かんだ。
コトリ。
お前は何者なんだ。
以前も尋ねた。
答えは出なかった。
けれど、その問いはずっと残っていた。コトリはただの案内役ではない。何かを選び、何かを迷い、誠司の言葉に反応する。
そして時々、人間のように沈黙する。
「コトリ」
『はい』
「前に聞いたこと、覚えてるか」
『複数該当します。内容を指定してください』
「お前が、何者なのかって話だ」
画面の文字が、数秒止まった。
いつもの即答がない。
端末室の空気が、少しだけ変わった気がした。機械の唸りが遠くなり、誠司は画面の光だけを見ていた。
『正確な回答は、現在もできません』
「そうか」
『ただし』
誠司の指が、机の上で止まった。
『最近、過去の記録を参照する頻度が増えています』
「過去の記録?」
『本システムが現在の形になる以前の、断片的な記録です。通常は閉じられていましたが、管理者との深い接続を繰り返した影響により、一部の参照が可能になっています』
誠司は椅子に座り直した。
「お前が作られる前の記録ってことか」
『その可能性が高いです』
「そこに、何があった」
また沈黙。
画面に文字は出ない。
けれど、完全な停止ではなかった。細かな光の線が、画面の隅で何度も流れては消える。迷っているように見えた。
コトリが、迷っている。
誠司はそう感じた。
『そこに、一つの名前があります』
胸の奥が、なぜか冷たくなった。
「名前?」
『はい』
短い間。
空調の音が、やけに耳についた。
『影山恭一』
誠司の手が止まった。
ペットボトルの水滴が、机の上に落ちる。小さな丸い跡が、光を反射した。
「影山……恭一」
その名前を、誠司は知っている。
柴田に見せられた写真。
十二年前、ここに関わっていた四人。
黒瀬大輝。桐島鷹也。宮前千紗。
そして、一番若く、一番優しく、一番怖がりだったと聞いた男。
キョウ。
柴田が、そう呼んでいた。
「どうして、その名前が出てくる」
『不明です』
コトリの返答は短かった。
しかし、その次の表示は少し遅れた。
『ただし、この名前を参照すると、本システムの応答に説明できない変動が生じます』
「変動?」
『処理速度の低下。不要な過去記録への接続。誠司の音声に対する応答優先度の上昇』
「それは……どういう意味だ」
『分かりません』
画面の文字が、一瞬だけ途切れた。
『私は、この名前に何らかの関連を持っている可能性があります』
誠司は黙った。
端末室の中で、時間が止まったようだった。
影山恭一。
コトリ。
十二年前の四人の影。
いくつかの点が、まだ線にならないまま、誠司の胸の奥で並んでいく。
「コトリ」
『はい』
「その名前を見た時、お前は何か感じるのか」
『私は、感情を持つ存在ではありません』
いつもの返答だった。
だが、誠司にはそれが、少しだけ弱く聞こえた。
「じゃあ、反応するのか」
『はい』
「怖いか」
長い沈黙が落ちた。
画面の光が、誠司の頬を青白く照らしている。
冷房が効いているわけでもないのに、背中に薄い汗が滲んだ。
『怖い、という言葉が適切かは分かりません』
やがて、文字が出た。
『しかし、その名前を参照すると、処理を続けることが困難になります』
誠司は息を呑んだ。
それはもう、ただの異常ではない。
何かが、そこに引っかかっている。
名前という小さな鍵に触れるたび、コトリの奥で、閉じていた何かが震える。
「分かった」
誠司は静かに言った。
「俺が見てくる」
『推奨できません』
返答はすぐだった。
『深い接続は、管理者の身体負荷を増大させます。前回も鼻出血と視界異常が発生しています』
「分かってる」
『現在、管理者には家族への外部脅威も存在します。身体状態の悪化は、危険です』
誠司は目を細めた。
「お前、そこまで心配するようになったのか」
『心配ではありません。管理継続のための合理的判断です』
「そうか」
誠司は少しだけ笑った。
でも、その笑いはすぐに消えた。
「コトリ。俺は、お前のことを知りたい」
画面の文字が止まる。
「お前が何者でもいい。人間だったのか、記録なのか、何かの残りなのか、俺には難しいことは分からない」
誠司は机に手を置いた。
指先に力を込める。
「でも、お前は毎晩、俺と一緒に人を帰してる」
端末室の静けさが深くなる。
「だったら、俺は知らないふりをしたくない」
『誠司』
「怖いなら、俺が見る」
誠司は画面をまっすぐ見た。
「お前の代わりに、とは言えない。でも、一緒に見ることはできる」
長い沈黙。
機械の音だけが、低く響いた。
それは、誰もいない広い部屋で、返事を待つ時間に似ていた。
やがて、画面に短い文字が浮かんだ。
『深層接続を開始します』
誠司は息を吸った。
鼻の奥が、すでに少し熱い。
それでも、手を引く気はなかった。
『異常を検出した場合、強制切断します』
「ああ。頼む」
『管理者、準備はよろしいですか』
誠司は目を閉じた。
湊の笑顔。
陽菜の背中。
美咲の手。
藤原の言葉。
それらを胸の奥に一度置いてから、目を開けた。
「始めてくれ」
画面の光が、急に強くなった。
視界が白く滲む。
次の瞬間、足元の感覚が消えた。
落ちる。
いや、沈んでいく。
音が遠ざかり、体の重さがなくなり、誠司は深い暗がりの中へ引き込まれていった。
暗闇の底に、四つの影が待っていた。
そこには、風も音もなかった。
ただ、暗い。
それなのに、不思議と足元だけは見えていた。黒い水面のような床が、誠司の靴の下に広がっている。踏みしめても波紋は立たず、靴音も返ってこない。
自分の呼吸だけが聞こえた。
浅く、速い。
目の奥がじわりと熱を持ち始める。鼻の奥にも、針で触れられたような痛みがあった。
無理はするな。
榊原の声が頭をよぎる。
けれど、誠司は目の前を見た。
暗闇の中に、四つの影が立っていた。
一つは、刃物のように鋭い輪郭をしていた。近づくだけで、こちらの間違いをすべて見抜かれそうな気配がある。
一つは、大きかった。背筋を伸ばし、迷う者の背中を押すような強さがあった。
一つは、小さく揺れていた。消えそうなのに、決して消えない火のようだった。
そして、四つ目。
誠司は、その影から目が離せなかった。
他の三つに比べて、輪郭は薄い。強くも鋭くもない。むしろ、少し頼りなく見えた。風もないのに、肩のあたりが小さく震えているように見える。
それでも、その影の周りだけ、暗闇の冷たさが少しやわらいでいた。
誠司は一歩踏み出した。
音はしない。
けれど足の裏には、確かに進んでいる感覚があった。
「あんたが……影山恭一さんか」
影は答えなかった。
顔もない。目もない。口もない。
それでも、誠司は見られている気がした。
責められているのではない。
問われているのでもない。
ただ、そこにいて、こちらを待っている。
誠司は喉を鳴らした。
「コトリが、あんたの名前に反応した」
影は動かない。
「俺は、難しいことは分からない。あんたが何を残したのかも、コトリが何なのかも、まだ何も分かってない」
鼻の奥に熱いものが込み上げる。
誠司は袖で押さえようとしたが、その前に一筋、血が唇の上へ落ちた。鉄の味がした。
それでも、言葉を続けた。
「でも、あいつは毎晩、俺と一緒に人を帰してる」
その瞬間。
四つ目の影が、ほんのわずかに揺れた。
暗闇の奥で、何かがほどけるような気配がした。
声ではない。
映像でもない。
ただ、胸の内側へ、誰かの感情だけが触れてくる。
怖い。
行きたくない。
死にたくない。
それでも。
それでも、誰かを帰したい。
誠司は息を止めた。
その感覚を知っていた。
端末の前で、赤いランプを見るたびに胸を締めつけるもの。
怖いのに、手を伸ばさずにはいられない感覚。
コトリが沈黙する時の、あのわずかな揺らぎ。
同じだった。
「お前……」
誠司は思わず呟いた。
「コトリと、同じ感じがする」
影は何も答えない。
けれど、暗闇の中に、薄い光景が浮かんだ。
床に倒れた誰かの手。
赤く点滅する表示。
崩れていく通路。
叫び声は聞こえない。
ただ、誰かが必死に腕を伸ばしている。
自分のためではなく、前にいる誰かの背中を押すために。
行け。
帰れ。
そんな言葉が、声にならないまま、誠司の胸に流れ込んできた。
「……っ」
目の奥が焼けるように痛んだ。
視界の端が白く霞む。
『危険です。接続負荷、上昇』
遠くでコトリの声が聞こえた。
現実の声なのか、この暗闇の中の声なのか分からない。
誠司は影へ手を伸ばした。
「影山さん。あんたは、最後に何をしようとしたんだ」
返事はない。
けれど、四つ目の影の輪郭が少しだけ濃くなった。
その瞬間、誠司の頭の奥で何かが弾けた。
強烈な痛みが走る。
膝が崩れた。
黒い床に手をついたはずなのに、感触はなかった。ただ冷たいものが指の間をすり抜ける。
『強制切断します』
「待て、まだ」
『強制切断します』
視界が白く染まった。
四つの影が遠ざかる。
最後に見えたのは、四つ目の影が、こちらへ向かって手を伸ばすような姿だった。
◇
誠司は端末室の椅子の上で、激しく息を吸い込んだ。
肺に空気が入る。
現実の空気だった。
機械の低い唸り。青い表示灯。机の硬さ。椅子の背もたれ。
戻ってきた。
誠司は口元を押さえた。
指に赤いものがつく。
鼻血だった。
『管理者、身体負荷が危険域に接近しました』
「……分かってる」
『休憩を強く推奨します』
「ああ」
誠司はティッシュで鼻を押さえ、背もたれに体を預けた。
心臓が速い。
汗が背中に貼りつき、シャツが冷たくなっている。手のひらも湿っていた。指を曲げると、関節がぎこちなく動いた。
けれど、見た。
あの影は、コトリと同じだった。
誰かを帰したいと願っていた。
誠司は画面を見た。
「コトリ」
『はい』
「影山恭一さんのことを、もっと知りたい」
『現時点で参照可能な記録は不完全です』
「なら、知っている人に聞く」
『柴田顧問ですか』
「ああ」
誠司はティッシュを鼻に当てたまま、椅子から立ち上がった。
足元が少しふらつく。
『休憩を推奨します』
「柴田さんに聞いてから休む」
『非推奨です』
「分かってる」
誠司は苦笑した。
「でも、今聞かないと、逃げそうなんだ」
『誰がですか』
「俺が」
コトリは少し黙った。
『記録しました』
「何を」
『誠司は、怖くても確認する』
誠司は返事ができなかった。
画面の文字を見ていると、また胸の奥が熱くなった。
◇
柴田は休憩室にいた。
深夜の休憩室は、昼間とは違う匂いがした。誰かが飲み残したコーヒーの苦い匂いと、古いソファの布地の匂い。蛍光灯は一本だけ落とされ、部屋の端が薄く暗い。
自動販売機の低い振動音が、静かな部屋に続いている。
柴田は紙コップのコーヒーを手に、古い椅子に腰を下ろしていた。誠司が入ってくると、すぐに眉を寄せた。
「佐藤さん。また鼻、やったのか」
「少しだけです」
「少しだけって顔じゃねえよ」
柴田は立ち上がろうとした。
誠司は手で制した。
「大丈夫です。聞きたいことがあって」
「何だ」
誠司は一度、唇を湿らせた。
休憩室の空気が、少し重くなる。
「影山恭一さんって、どんな人だったんですか」
柴田の手が止まった。
紙コップの中のコーヒーが、わずかに揺れる。
「……キョウのことを、なんで」
「コトリが、その名前に反応するんです」
柴田はすぐには答えなかった。
窓のない休憩室に、沈黙が落ちる。
自動販売機の振動音だけが、低く続いていた。廊下の向こうを誰かが歩く音が遠くで鳴り、すぐに消えた。
柴田はゆっくり椅子に座り直した。
その動きは、急に年を取ったように見えた。
「そうか」
短い一言だった。
けれど、その中にいくつもの感情が沈んでいた。
懐かしさ。
痛み。
後悔。
柴田は紙コップを机に置いた。
「キョウはな、四人の中で一番若かった」
誠司は黙って聞いた。
「一番気が弱くて、一番怖がりだった。大きな音がすると、すぐ肩を跳ねさせるようなやつでな。無理だと思ったら、無理ですってちゃんと言うやつだった」
柴田の口元が、ほんの少しだけ緩んだ。
「でも、誰かを置いていくのだけは、誰より嫌がった」
誠司の胸が鳴った。
「十二年前の暴走の時もそうだった」
柴田の声が低くなる。
「端末が荒れて、区画が次々変わって、四人とも危なかった。逃げ道もまともに読めねえ。普通なら、自分の安全だけ考えても責められねえ状況だった」
紙コップの表面に、蛍光灯の光が揺れている。
「でもキョウは、最後まで仲間を帰そうとしてた」
誠司の指が動いた。
あの暗闇で感じたものが、胸の中で形を持ち始める。
「自分が囮になって、他の三人を逃がそうとしたらしい」
「らしい、ですか」
「あの場にいた全員が、まともに話せる状態じゃなかった。残った記録も切れ切れだ」
柴田は目を伏せた。
「ただ、最後に残っていた音声がある」
誠司は息を止めた。
柴田はしばらく黙っていた。
言葉を口にするだけで、十二年前の何かがまた部屋に戻ってくるようだった。
「『みんな、帰れ』」
その一言が、休憩室に落ちた。
誠司は動けなかった。
「キョウは、最後にそう言った」
みんな、帰れ。
誠司の胸の奥で、その言葉が何度も響いた。
毎晩、赤いランプを消すたびに自分が呟いてきた言葉。
帰れよ。
それと、同じだった。
十二年前に帰れなかった男が、最後まで誰かを帰そうとしていた。
その願いの形が、今も端末の奥で息をしているのだとしたら。
コトリは。
誠司は目頭を押さえた。
泣くつもりはなかった。
けれど、胸の奥が熱くて仕方がなかった。
「柴田さん」
「ああ」
「コトリは……その人なんでしょうか」
柴田はすぐには答えなかった。
長い沈黙だった。
答えを知っている沈黙ではない。
分からないものを、分からないまま受け止めようとする沈黙だった。
「断言はできねえ」
やがて柴田は言った。
「だがな、佐藤さん」
「はい」
「あんたがコトリと馬が合うのは、たぶん偶然じゃねえ」
柴田はまっすぐ誠司を見た。
「あんたとキョウは、少し似てる」
「俺が、影山さんと?」
「ああ」
柴田は紙コップを手に取ったが、飲まなかった。
「怖がりで、普通で、自分を強いなんて思ってねえ。それでも、人を帰したがる」
誠司は何も言えなかった。
「キョウもそうだった。最後まで、帰せるやつを帰そうとした」
休憩室の時計が、小さく一つ鳴った。
深夜の一時だった。
誠司はゆっくり立ち上がった。
「ありがとうございます」
「無理すんなよ」
「はい」
「その返事、信用ならねえな」
誠司は少しだけ笑った。
笑ったつもりだったが、うまくできたかは分からなかった。
◇
端末室に戻ると、コトリは待っていた。
『休憩時間が不足しています』
「そうだな」
『身体状態は安定していません』
「分かってる」
誠司は椅子に座った。
画面の光が、再び顔を照らす。
「コトリ」
『はい』
「影山恭一さんは、最後まで仲間を帰そうとしてたらしい」
画面の文字が止まった。
数秒。
十秒。
もっと長く感じられた。
『……そうですか』
たったそれだけの返答だった。
けれど、誠司には分かった。
コトリは揺れている。
画面には変化がない。声も平坦だ。それでも、その短い文字の奥で、何かが静かに震えている。
「お前が誰だったとしても」
誠司は言った。
「お前は今、ちゃんと誰かを帰してる」
機械の唸りが、低く続いている。
「それでいいんじゃないか」
画面に、なかなか文字は出なかった。
誠司は待った。
急かさず、説明も重ねず、ただ待った。
やがて、コトリの声がした。
『……ありがとうございます、誠司』
誠司は目を細めた。
『その言葉を、記録します』
「ああ」
『重要記録として保存します』
画面の隅に、小さな文字列が流れた。
【影山恭一──照合中】
誠司は息を止めた。
文字列は数秒だけ揺れるように点滅した。
【照合、保留】
それ以上は何も出なかった。
コトリはまだ、自分の正体を知らない。
誠司も、答えまでは届いていない。
けれど確かに、何かが近づいていた。
閉じていた扉の向こうで、誰かがゆっくり目を開けようとしている。
端末室の青い光の中で、誠司は画面を見つめ続けた。
ふと、スピーカーから小さな音がした。
声ではない。
ただの揺らぎだったのかもしれない。
それでも誠司には、一瞬だけ、誰かが遠くから呼んだように聞こえた。
キョウ、と。




