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減給された40代社畜、深夜バイトで国家級ダンジョンの管理者になる  作者: Gaku
第1部:深夜バイト編

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第42話 越えてはいけない線


 オービットゲート社の役員フロアは、夜になっても明るかった。


 磨き上げられた床に、天井の照明が白く映り込んでいる。窓の向こうには、東京の夜景が広がっていた。無数のビルの窓明かりが、黒い空に浮かぶ小さな穴のように並び、遠くを走る車のライトが細い川のように流れている。


 その美しい景色を背に、白瀬総一郎は革張りの椅子に深く座っていた。


 机の上には、数枚の資料が並んでいる。


 佐藤誠司。


 四十二歳。


 会社員。


 妻、子ども二人。


 白瀬は資料の一枚を指先で軽く弾いた。


 紙が乾いた音を立てる。


「人間には、必ず弱点がある」


 向かいに立つ男は、返事をしなかった。


 桐谷という名のその男は、細身で、表情の薄い男だった。濃紺のスーツに身を包み、背筋を伸ばして立っている。目立つ顔ではない。街ですれ違っても、数秒後には忘れてしまうような顔だった。


 だからこそ、白瀬は彼を使っていた。


「佐藤誠司の生活圏は?」


「葛飾区の住宅街です。最寄り駅から徒歩圏内。妻は在宅中心の仕事と、外での勤務が不定期にあります。長女は小学四年生。長男は小学一年生」


 桐谷の声は淡々としていた。


 人の家庭を語っているのに、そこに温度はなかった。


 白瀬は窓の外に目を向けた。


「家族か」


「はい」


「直接どうこうする必要はない」


 白瀬は椅子の肘掛けに指を置き、ゆっくり叩いた。


 こつ、こつ、と小さな音が部屋に落ちる。


「ただ、知らせればいい。こちらが把握していると。あの男が帰る家も、待っている人間も、いつでも見えていると」


 桐谷の目が、わずかに動いた。


「自宅周辺の写真を?」


「そうだ」


 白瀬は静かに笑った。


「民間人は、自分の身に降りかかる圧力には案外耐える。だが、家族となると判断が鈍る。あの男は、そういう種類の人間だ」


 机の上の資料には、誠司の顔写真があった。


 どこにでもいる中年男。


 疲れた目元。


 少し丸まった背中。


 白瀬には、それがひどく不快だった。


 あんな男が、国家級ダンジョンの中枢にいる。


 自社が長い時間と資金を投じて築いてきた計画の前に、ただの会社員が立ちはだかっている。


「辞めさせろとは言わなくていい」


 白瀬は資料を閉じた。


「考えさせればいい。自分が続けることで、家族に何が起きるかをな」


「承知しました」


 桐谷は短く頭を下げた。


 部屋を出ていく足音は、絨毯に吸われてほとんど聞こえなかった。


 扉が閉まる。


 白瀬は一人、夜景を見下ろした。


 東京の光は、どこまでも平然と輝いている。


 その下で誰が怯えようと、誰が迷おうと、街は何も変わらない。


 白瀬は薄く息を吐いた。


「佐藤誠司。お前は、どこまで耐えられる」


 窓ガラスに映った自分の顔が、静かに笑っていた。


     ◇


 翌日の午後、公園には穏やかな光が差していた。


 冬の気配を残した風が、遊歩道沿いの草を揺らしている。細い葉が一斉に傾き、また戻るたびに、さらさらと乾いた音を立てた。雲の切れ間から落ちる日差しは薄く、ベンチの背もたれや滑り台の手すりに白い反射を作っていた。


 誠司はベンチに座り、湊が滑り台に登るのを見ていた。


「パパ、見てて!」


「見てるよ。気をつけろよ」


 湊は両手で手すりをつかみ、得意げに階段を上っていく。青い上着の背中が、陽の光を受けて少しだけ明るく見えた。


 滑り台の上に着くと、湊は大きく手を振った。


「いくよー!」


「ああ」


 湊の体が銀色の滑り面を滑り降りる。


 すとん、と砂場の前に着地して、両足で踏ん張った。靴底が砂を擦り、小さな粒がぱらぱらと飛ぶ。


「速かった?」


「速かった速かった」


「もう一回!」


 湊は笑いながらまた階段へ走っていった。


 誠司はその背中を見ながら、缶コーヒーを手の中で転がした。まだ少し温かい。指先に伝わる熱が、妙に現実感をくれた。


 昨夜、藤原響子と会った。


 あなたに助けられた人です。


 その言葉は、今も胸の奥に残っている。


 すべてが軽くなったわけではない。端末の前に座れば、また怖くなるのだと思う。赤いランプを見れば、指先は震えるかもしれない。


 それでも、藤原はまた現場に戻ると言った。


 なら、自分も逃げるわけにはいかない。


「パパ!」


 湊の声で、誠司は顔を上げた。


 湊は今度、滑り台の途中で体を止めていた。足を踏ん張り、得意そうに笑っている。


「止まれた!」


「おお、すごいな。でも危ないから、ちゃんと下まで滑れ」


「はーい」


 湊が再び滑り降りる。


 その瞬間だった。


 誠司は、ふと視線を感じた。


 首の後ろに、薄い糸のような違和感が触れた。


 最初は気のせいだと思った。


 公園には親子連れが何組かいる。ベビーカーを押す母親。犬の散歩をする老人。ベンチでスマホを見ている若い男。誰かの視線が偶然こちらに向いても、おかしくはない。


 誠司はゆっくり周囲を見た。


 遊具の向こう、低いフェンスの外。


 路肩に、一台の黒い車が停まっていた。


 見覚えはない。


 フロントガラスは光を反射していて、中の顔までは見えない。ただ、運転席の窓が少しだけ下がっている。


 そこから、黒い筒のようなものがこちらへ向いていた。


 誠司の手が止まった。


 缶コーヒーの温かさが、急に遠くなる。


 カメラ。


 そう思った瞬間、背中に冷たいものが走った。


「湊」


 声が少し低くなった。


 湊は砂場の縁でしゃがみ、落ち葉を拾っていた。


「んー?」


「こっちおいで」


「これ見て、変な葉っぱ」


「いいから、こっち」


 自分でも驚くほど、声に余裕がなかった。


 湊が顔を上げる。


 誠司は無理に笑おうとしたが、頬が固まってうまく動かなかった。


「パパ?」


「こっちだ」


 湊は首をかしげながらも、落ち葉を持ったまま走ってきた。靴音が砂から舗装路に変わり、軽い音を立てる。


 誠司は湊の肩に手を置き、自分の体の陰に入れた。


 もう一度、車を見る。


 カメラの向きは、こちらを追っていた。


 湊を。


 誠司の息が、浅くなった。


 頭の中で、いくつもの考えが同時に浮かんでは消える。


 近所の人か。


 偶然か。


 いや、違う。


 偶然なら、なぜ子どもを追う。


 なぜ車の中から撮る。


 なぜ、こちらが気づいた今も逃げない。


 誠司は湊の肩を抱いたまま、ゆっくり立ち上がった。


 膝の裏に力が入りにくい。


 けれど、目だけは車から離さなかった。


 運転席の男も、それに気づいたらしい。


 黒い筒が引っ込む。


 数秒の沈黙。


 公園の中では、子どもたちの笑い声が変わらず響いていた。滑り台を滑る音。砂場のスコップがバケツに当たる音。風に揺れる草の音。


 その当たり前の音の中で、誠司の耳には、自分の鼓動だけが大きく聞こえていた。


 車のエンジンが低く唸る。


 黒い車は、ゆっくりと路肩を離れた。


 誠司は反射的にナンバーを見た。


 数字を、頭の中で繰り返す。


 一度。


 二度。


 三度。


 忘れるな。


 絶対に忘れるな。


 車は角を曲がり、住宅街の奥へ消えた。


 誠司はしばらく動けなかった。


 湊が、肩越しに見上げてくる。


「パパ、どうしたの?」


 誠司は息を整えた。


 湊に怖がらせてはいけない。


 けれど、手のひらには汗が滲んでいた。湊の小さな肩をつかむ指が、少しだけ震えている。


「なんでもない」


 誠司は湊の頭を撫でた。


「今日は、もう帰ろう」


「えー、まだ遊びたい」


「帰ったら、一緒に風呂入ろう。昨日言ってただろ」


 湊の表情が少し明るくなる。


「入る!」


「じゃあ帰ろう」


 誠司は湊と手をつないだ。


 小さな手は温かかった。


 その温かさを感じた瞬間、誠司の胸の奥で、何かが静かに軋んだ。


 公園を出るまで、何度も振り返った。


 黒い車は、もう見えない。


 それでも視線の感覚だけが、首の後ろに残っていた。


     ◇


 帰宅すると、玄関には陽菜の靴がきちんと揃えて置かれていた。


 台所の方から、味噌汁の匂いが漂ってくる。鍋の蓋が小さく鳴り、美咲が包丁を置く音がした。テレビの音は低く、陽菜がリビングで宿題をしている気配がある。


 いつもの家だった。


 それなのに、誠司には玄関の鍵を閉める音が、いつもより重く響いた。


「おかえり」


 美咲が台所から顔を出した。


「公園、寒くなかった?」


「ああ。少し風があった」


 誠司はできるだけ普通に答えた。


 湊は靴を脱ぎながら、明るい声を上げる。


「ママ、パパとお風呂入る!」


「はいはい。その前に手を洗ってね」


 湊が洗面所へ走っていく。


 陽菜がリビングから顔を上げた。


「パパ、おかえり」


「ただいま」


 誠司は笑おうとした。


 陽菜も美咲も、湊も、何も知らない。


 さっき、公園の外からカメラを向けられていたことを。


 誰かが、この家を見ているかもしれないことを。


 誠司はコートを脱ぎ、スマホを握った。


 手の中に、さっき覚えたナンバーがまだ残っている。


 忘れる前に、打ち込んだ。


 メモアプリに数字を残す。


 それから、榊原の番号を開いた。


 通話ボタンを押す前に、一度だけリビングを見た。


 湊は洗面所で水を出しすぎて、美咲に注意されている。陽菜は鉛筆をくわえそうになって、美咲に横目で見られ、慌てて机に戻した。


 ありふれた夕方。


 守りたいものが、すぐそこにあった。


 誠司は廊下に出て、静かに通話ボタンを押した。


 数回の呼び出し音。


 それが、やけに長く感じられた。


『榊原だ』


 低い声が出た瞬間、誠司は喉の奥に溜まっていた息を吐いた。


「榊原さん。佐藤です」


『どうした』


「今日、公園で」


 そこで言葉が詰まった。


 口に出せば、現実になる気がした。


 だが、もう現実だった。


 誠司は目を閉じた。


「うちの息子を、知らない男がカメラで撮っていました」


 電話の向こうで、沈黙が落ちた。


 短い沈黙だった。


 けれど、その間に空気が変わったのが分かった。


『車か』


「はい。黒い車です。ナンバーは覚えています」


『言ってくれ』


 誠司はメモを見ながら、数字を読み上げた。


 一つずつ。


 間違えないように。


 電話の向こうで、榊原が何かを打ち込む音がした。


『分かった。すぐ調べる』


「お願いします」


『佐藤さん』


「はい」


『家から出るな。家族にも、しばらく一人で外に出ないように伝えろ。ただし、詳しいことはまだ言わなくていい。不安を煽るだけになる』


 誠司はリビングの方を見た。


 湊の笑い声が聞こえる。


 美咲が「走らない」と言う声。


 陽菜が「ママ、ここ分からない」と呼ぶ声。


 その全部が、扉一枚向こうにある。


「……分かりました」


『調べがついたら、すぐ折り返す』


 通話が切れた。


 廊下に、静けさが戻る。


 誠司はスマホを握ったまま、しばらく動けなかった。


 指先が冷たい。


 背中には、まだ汗が残っている。


 家の中は温かいはずなのに、廊下だけが冷えているように感じた。


 その時、リビングの扉が少し開いた。


 美咲が顔を出す。


「誠司さん?」


 誠司は振り向いた。


 美咲の表情が、すぐに変わった。


「何かあったの?」


 誠司は答えようとして、言葉を探した。


 大丈夫だと言いたかった。


 けれど、軽く言えば嘘になる。


 何も起きていないと言えば、この家を守れなくなる。


 誠司はスマホを握る手に力を込めた。


「美咲」


 自分の声が、思ったより低く聞こえた。


「少しだけ、気をつけてほしいことがある」


「気をつけてほしいこと?」


 美咲は扉を少し大きく開けた。


 リビングから漏れる明かりが、廊下の床に四角く落ちている。その向こうで、湊が手を拭きながら歌のような声を出していた。陽菜は消しゴムを探しているらしく、机の上を小さく叩く音が聞こえる。


 誠司は一度、二人の気配を確かめてから、声を落とした。


「最近、家の周りで知らない人を見たり、同じ車が何度も停まってたりしたら、すぐに俺に連絡してほしい」


 美咲の目が細くなった。


 ごまかせない、と誠司は思った。


 美咲は昔から、誠司が何かを隠そうとすると、言葉より先に顔を見る。眉の動き、息の浅さ、手の置き場。そういうものから、黙っていても拾ってしまう人だった。


「公園で、何かあったの?」


 誠司は唇を結んだ。


 廊下の空気が重くなる。


 リビングでは湊が「パパ、お風呂まだ?」と呼んでいる。その声は明るくて、何も知らない。


「湊を撮ってる人がいた」


 美咲の表情が止まった。


 ほんの一瞬、家の中の音がすべて遠ざかったように感じた。


「撮ってるって……写真?」


「たぶん。車の中から、カメラを向けてた」


「誰が」


「分からない。今、榊原さんに調べてもらってる」


 美咲は扉の縁を握った。


 指先に力が入り、爪の色が少し白くなる。


 誠司はその手を見て、胸の奥が痛んだ。怖がらせたくなかった。けれど、知らせないまま外へ出す方がもっと怖かった。


「美咲」


 誠司は一歩近づいた。


「ごめん。俺のせいかもしれない」


「まだ、そう決まったわけじゃないでしょ」


「でも」


「でもじゃない」


 美咲は小さく首を振った。


 声は震えていなかった。


 けれど、目の奥にははっきりと不安があった。湊と陽菜には見せないよう、必死に留めている不安だった。


「まず、何をすればいいの」


 その言葉に、誠司は息を吸った。


 美咲は責めなかった。


 泣かなかった。


 ただ、家族を守るために、次に必要なことを聞いた。


「しばらく、子どもたちだけで外に出さない。学校の行き帰りも、できれば誰かと一緒に。知らない人に話しかけられたら、すぐ離れるように言っておきたい」


「分かった」


「あと、家の周りに知らない車が停まってたら、写真は撮らなくていい。無理しないで、すぐ連絡して」


「誠司さんは?」


 美咲が見上げてきた。


「あなたは、大丈夫なの?」


 誠司はすぐには答えられなかった。


 大丈夫と言えば嘘になる。


 自分のことなら、まだ耐えられた。


 会社で無能扱いされても、給料を下げられても、深夜に体を削っても、誠司は怒りより先に諦めを覚える人間だった。


 けれど、家族は違う。


 湊の小さな肩を、車の中からカメラが追っていた。


 その光景を思い出した瞬間、腹の底が冷えていく。


「俺は」


 誠司は拳を握った。


「大丈夫じゃなくても、守る」


 美咲はその言葉を聞いて、静かに目を伏せた。


 リビングから湊の足音が近づいてくる。


「パパー?」


 美咲はすぐに表情を戻した。


 誠司も深く息を吸い、顔を整える。


 扉が開き、湊が顔を出した。


「お風呂!」


「分かった。今行く」


「ママも来る?」


「ママはご飯作ってるから、あとでね」


 湊は何も知らない顔で笑った。


 その笑顔が、誠司の胸に突き刺さった。


 誠司は湊の頭に手を置いた。


 髪は少し汗ばんでいて、公園の砂の匂いがした。


「湊」


「なに?」


「知らない人についていくなよ」


「行かないよ。学校でも言われてる」


「車から声をかけられても?」


「行かない」


「写真撮らせてって言われても?」


 湊は少し不思議そうな顔をした。


「やだって言う」


「そうだな。すぐ逃げて、先生かママかパパに言うんだ」


「うん」


 湊は素直に頷いた。


 誠司は笑おうとしたが、うまくできなかった。


 湊はそれに気づかず、誠司の手を引っ張る。


「早く。お風呂冷めちゃう」


「ああ」


 誠司は美咲を見た。


 美咲は小さく頷いた。


 信じている。


 そう言われた気がした。


     ◇


 榊原から折り返しがあったのは、湊を寝かしつけた後だった。


 家の中は、ようやく静かになっていた。


 陽菜は自分の部屋で明日の準備をしている。湊は布団に入って三分で眠った。美咲は台所で食器を洗っているが、水の音はいつもより控えめだった。


 誠司はスマホを持って、ベランダに出た。


 夜の空気が頬に触れる。


 冬に近い風は冷たく、洗濯竿にかかったハンガーが小さく揺れた。遠くの道路を車が走り、タイヤの音が薄く伸びて消えていく。近所の家の窓明かりが、ぽつぽつと並んでいた。


 こんな何でもない住宅街にまで、あの男たちは手を伸ばしてきた。


 通話を取る。


「佐藤です」


『分かった』


 榊原の声は低かった。


 その時点で、誠司は嫌な予感がした。


『車の所有者は、オービットゲート社の関連会社だ。名義は迂回されているが、辿れる範囲では間違いない』


 誠司は手すりを握った。


 金属が冷たい。


「……やっぱり」


『おそらく、あんたへの圧力だ。家族の情報を握っている。そう知らせるためのな』


 風が吹いた。


 ベランダの端に置かれた小さな植木鉢の葉が揺れる。乾いた葉先が擦れ、かすかな音を立てた。


 誠司は何も言わなかった。


 言葉が出なかったのではない。


 出したら、怒鳴ってしまいそうだった。


『佐藤さん』


 榊原の声が、少し慎重になる。


『落ち着いて聞け』


「落ち着いてます」


 自分でも驚くほど、声が低かった。


 冷たい声だった。


『そうは聞こえない』


「……榊原さん」


 誠司は夜の住宅街を見下ろした。


 誰かが犬を散歩させている。自転車のライトがゆっくり曲がり角を曲がる。どこかの家から、笑い声が微かに漏れている。


 その平和な風景が、今は少し違って見えた。


 いつ誰かに踏み荒らされてもおかしくない、薄い紙の上に乗っているように。


「俺のことは、いいんです」


 手すりを握る指に力がこもる。


「会社に何を言われても、白瀬に何をされても、俺は我慢できます」


 声が震えた。


 恐怖ではなかった。


「でも」


 誠司は奥歯を噛んだ。


「家族に手を出すのは、許さない」


 電話の向こうで、榊原が黙った。


 誠司の胸の奥で、熱いものが広がっていく。


 普段なら飲み込んでしまう感情だった。


 怒り。


 理不尽に対して、いつもなら「仕方ない」と片づけていたもの。


 だが、湊に向けられたカメラを思い出すと、飲み込むことなどできなかった。


「湊を撮るな」


 声がさらに低くなった。


「陽菜を撮るな。美咲を見るな。俺の家の前に、勝手に立つな」


 ベランダの外で、風が一段強く吹いた。


 ハンガーが触れ合い、細い音を立てる。


「俺を脅したいなら、俺に来ればいい」


 誠司は言った。


「でも、家族を使うな」


『……分かった』


 榊原の声も、低くなった。


『その怒りは正しい。ただし、一人で動くな』


「分かっています」


『あんたの自宅周辺に、保護をつける』


 誠司は息を止めた。


『対策部隊から人を出す。私服で、目立たないように配置する。通学路も確認する。奥さんと子どもたちの生活をなるべく変えずに、距離を取って見守る』


「そんなことまで」


『当然だ』


 榊原は即答した。


『あんたは国家級ダンジョンの管理者だ。重要人物の家族を守るのは、こちらの責任だ』


 誠司は何も言えなかった。


 手すりを握る指から、少しずつ力が抜ける。


『それと』


 榊原は少し間を置いた。


『個人的にも、約束する』


「個人的に?」


『俺は、家族を守れなかった男だ』


 誠司は黙った。


 電話の向こうで、榊原が小さく息を吐く音がした。


『仕事を優先した。守っているつもりで、家にいなかった。気づいた時には、娘とは離れて暮らすことになっていた』


 その声には、後悔があった。


 普段の榊原からは想像しにくい、乾いた傷のような響きだった。


『だから、あんたの家族は守りたい』


「榊原さん……」


『礼はいらない。これは俺の仕事で、俺の意地だ』


 誠司は夜空を見上げた。


 星はほとんど見えない。街の明かりが強すぎて、空は暗い灰色に沈んでいる。


 それでも、風は確かに吹いていた。


「ありがとうございます」


『今夜から人を出す。何か変わったことがあれば、すぐ連絡しろ。どんな小さなことでもだ』


「はい」


『奥さんには、必要な範囲で説明していい。子どもたちには怖がらせすぎるな』


「分かりました」


『佐藤さん』


「はい」


『家族を守りたいなら、あんた自身も倒れるな』


 誠司はゆっくり息を吐いた。


「はい」


 通話が切れた。


 ベランダに、夜の音が戻る。


 誠司はしばらく外を見ていた。


 向かいの道路に、一人の男が立っていることに気づいたのは、その少し後だった。


 黒い車の男ではない。


 ごく普通の会社員のような格好をして、スマホを見ている。だが、視線が時折、周囲を静かに流れていた。


 もう一人。


 角の自販機の近くにも、コート姿の女性が立っている。缶飲料を手にしているが、飲む気配はない。


 榊原の言った保護。


 それがもう始まっているのだと分かった。


 誠司は胸に手を当てた。


 守られている。


 同時に、巻き込んでいる。


 その重さを、逃げずに背負わなければならなかった。


 部屋に戻ると、美咲が台所から出てきた。


「榊原さん?」


「ああ」


「何て?」


 誠司は少し迷った。


 けれど、美咲には話すと決めた。


「やっぱり、俺への圧力だった。相手は、オービットゲート社に関係してる」


 美咲の顔が強張る。


「家の周りに、警護をつけてくれるって。目立たないように」


「警護……」


「美咲たちには、誰も近づけさせないって」


 美咲はしばらく黙っていた。


 台所の時計の秒針が、ち、ち、と小さく鳴っている。


 それだけが、やけに大きく聞こえた。


「誠司さん」


 美咲は静かに言った。


「怖い」


 誠司の胸が痛んだ。


「うん」


「でも、隠される方がもっと怖い」


「うん」


「だから、ちゃんと話して」


 美咲は誠司を見た。


「一人で抱えないで」


 誠司は頷いた。


「分かった」


 美咲は一歩近づき、誠司の手を握った。


 その手は温かかった。


 誠司の冷えた指を、包むように握ってくる。


「私も、子どもたちを守る」


「ああ」


「でも、あなたも無茶しないで」


「……努力する」


「そこは、約束して」


 誠司は少しだけ困ったように笑った。


 こんな時でも、美咲は逃がしてくれない。


「約束する」


 美咲はようやく小さく頷いた。


 その夜、誠司はいつもより長く、子どもたちの寝顔を見ていた。


 陽菜は布団を少し蹴って眠っていた。枕元には、途中まで読んでいた本が開いたまま置かれている。湊は口を少し開け、両手を万歳の形にして寝ていた。


 窓の外では、風がカーテンをかすかに揺らしている。


 薄い布が揺れるたび、街灯の光が床の上で静かに形を変えた。


 誠司はカーテンを少しだけ開け、外を確認した。


 道路の向こうに、私服の警護らしき男がまだ立っている。


 そのさらに奥の暗がりに、見知らぬ影はない。


 誠司はカーテンを閉めた。


 明日も学校がある。


 朝になれば、陽菜は眠そうにパンをかじり、湊は味噌汁に顔を近づけすぎて美咲に注意される。誠司は弁当を受け取り、いつものように会社へ行く。


 その当たり前を、守らなければならない。


 深夜。


 オービットゲート社の会議室に、桐谷が戻った。


 白瀬はまだ残っていた。机の上には、公園と住宅街で撮られた写真が並んでいる。


「撮れたか」


「はい。ただ、対象に気づかれました」


 白瀬は写真を一枚手に取った。


 滑り台のそばで、湊の肩を抱き寄せる誠司の写真だった。


 誠司の顔は、普段の疲れた中年男のものではなかった。


 目だけが、まっすぐに車を見ている。


 白瀬は薄く笑った。


「気づかれて結構」


 写真の上で、誠司の指が湊の肩を強く抱いている。


「それが圧力になる」


 桐谷は何も言わなかった。


 白瀬は写真を机に戻した。


「家族を守りたければ、管理者を降りる。普通の男なら、そう考える」


 窓の外では、夜の東京が変わらず輝いていた。


 白瀬はまだ知らない。


 家族を脅された佐藤誠司が、これまでとは違う顔で端末の前に座ることを。


 そして、守るものを奪われそうになった男が、どれほど静かに強くなるかを。


 翌朝。


 佐藤家の前の細い道に、朝日が差し込んだ。


 電線に止まった鳥が短く鳴き、通学路へ向かう子どもたちの足音が少しずつ増えていく。


 陽菜が玄関を出ると、誠司はいつもより少し長く、その背中を見送った。


 湊が手を振る。


「パパ、行ってきます!」


「ああ。行ってらっしゃい」


 誠司は笑った。


 笑って、手を振った。


 その視線の先、通りの角に立つ私服の男が、ほんのわずかに頷いた。


 誠司も小さく頷き返した。


 玄関の扉が閉まる。


 家の中に戻った誠司は、スマホを握った。


 画面には、榊原から短いメッセージが届いていた。


『警護配置完了。通常通り生活を続けろ。異変があれば即連絡』


 誠司はそれを見つめ、深く息を吸った。


 怒りは、まだ消えていない。


 けれど、ただ燃え上がるだけでは家族を守れない。


 見落とさないこと。


 記録すること。


 誰かに頼ること。


 そして、自分の場所から逃げないこと。


 誠司はスマホをしまった。


 台所から、美咲が呼ぶ。


「誠司さん、お弁当」


「ああ」


 誠司は振り返った。


 いつもの朝だった。


 けれど、その朝はもう、昨日までとは同じではなかった。


 家族を守るために。


 そして、帰りたい場所がある人を帰すために。


 佐藤誠司は、静かに一歩を踏み出した。



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