第42話 越えてはいけない線
オービットゲート社の役員フロアは、夜になっても明るかった。
磨き上げられた床に、天井の照明が白く映り込んでいる。窓の向こうには、東京の夜景が広がっていた。無数のビルの窓明かりが、黒い空に浮かぶ小さな穴のように並び、遠くを走る車のライトが細い川のように流れている。
その美しい景色を背に、白瀬総一郎は革張りの椅子に深く座っていた。
机の上には、数枚の資料が並んでいる。
佐藤誠司。
四十二歳。
会社員。
妻、子ども二人。
白瀬は資料の一枚を指先で軽く弾いた。
紙が乾いた音を立てる。
「人間には、必ず弱点がある」
向かいに立つ男は、返事をしなかった。
桐谷という名のその男は、細身で、表情の薄い男だった。濃紺のスーツに身を包み、背筋を伸ばして立っている。目立つ顔ではない。街ですれ違っても、数秒後には忘れてしまうような顔だった。
だからこそ、白瀬は彼を使っていた。
「佐藤誠司の生活圏は?」
「葛飾区の住宅街です。最寄り駅から徒歩圏内。妻は在宅中心の仕事と、外での勤務が不定期にあります。長女は小学四年生。長男は小学一年生」
桐谷の声は淡々としていた。
人の家庭を語っているのに、そこに温度はなかった。
白瀬は窓の外に目を向けた。
「家族か」
「はい」
「直接どうこうする必要はない」
白瀬は椅子の肘掛けに指を置き、ゆっくり叩いた。
こつ、こつ、と小さな音が部屋に落ちる。
「ただ、知らせればいい。こちらが把握していると。あの男が帰る家も、待っている人間も、いつでも見えていると」
桐谷の目が、わずかに動いた。
「自宅周辺の写真を?」
「そうだ」
白瀬は静かに笑った。
「民間人は、自分の身に降りかかる圧力には案外耐える。だが、家族となると判断が鈍る。あの男は、そういう種類の人間だ」
机の上の資料には、誠司の顔写真があった。
どこにでもいる中年男。
疲れた目元。
少し丸まった背中。
白瀬には、それがひどく不快だった。
あんな男が、国家級ダンジョンの中枢にいる。
自社が長い時間と資金を投じて築いてきた計画の前に、ただの会社員が立ちはだかっている。
「辞めさせろとは言わなくていい」
白瀬は資料を閉じた。
「考えさせればいい。自分が続けることで、家族に何が起きるかをな」
「承知しました」
桐谷は短く頭を下げた。
部屋を出ていく足音は、絨毯に吸われてほとんど聞こえなかった。
扉が閉まる。
白瀬は一人、夜景を見下ろした。
東京の光は、どこまでも平然と輝いている。
その下で誰が怯えようと、誰が迷おうと、街は何も変わらない。
白瀬は薄く息を吐いた。
「佐藤誠司。お前は、どこまで耐えられる」
窓ガラスに映った自分の顔が、静かに笑っていた。
◇
翌日の午後、公園には穏やかな光が差していた。
冬の気配を残した風が、遊歩道沿いの草を揺らしている。細い葉が一斉に傾き、また戻るたびに、さらさらと乾いた音を立てた。雲の切れ間から落ちる日差しは薄く、ベンチの背もたれや滑り台の手すりに白い反射を作っていた。
誠司はベンチに座り、湊が滑り台に登るのを見ていた。
「パパ、見てて!」
「見てるよ。気をつけろよ」
湊は両手で手すりをつかみ、得意げに階段を上っていく。青い上着の背中が、陽の光を受けて少しだけ明るく見えた。
滑り台の上に着くと、湊は大きく手を振った。
「いくよー!」
「ああ」
湊の体が銀色の滑り面を滑り降りる。
すとん、と砂場の前に着地して、両足で踏ん張った。靴底が砂を擦り、小さな粒がぱらぱらと飛ぶ。
「速かった?」
「速かった速かった」
「もう一回!」
湊は笑いながらまた階段へ走っていった。
誠司はその背中を見ながら、缶コーヒーを手の中で転がした。まだ少し温かい。指先に伝わる熱が、妙に現実感をくれた。
昨夜、藤原響子と会った。
あなたに助けられた人です。
その言葉は、今も胸の奥に残っている。
すべてが軽くなったわけではない。端末の前に座れば、また怖くなるのだと思う。赤いランプを見れば、指先は震えるかもしれない。
それでも、藤原はまた現場に戻ると言った。
なら、自分も逃げるわけにはいかない。
「パパ!」
湊の声で、誠司は顔を上げた。
湊は今度、滑り台の途中で体を止めていた。足を踏ん張り、得意そうに笑っている。
「止まれた!」
「おお、すごいな。でも危ないから、ちゃんと下まで滑れ」
「はーい」
湊が再び滑り降りる。
その瞬間だった。
誠司は、ふと視線を感じた。
首の後ろに、薄い糸のような違和感が触れた。
最初は気のせいだと思った。
公園には親子連れが何組かいる。ベビーカーを押す母親。犬の散歩をする老人。ベンチでスマホを見ている若い男。誰かの視線が偶然こちらに向いても、おかしくはない。
誠司はゆっくり周囲を見た。
遊具の向こう、低いフェンスの外。
路肩に、一台の黒い車が停まっていた。
見覚えはない。
フロントガラスは光を反射していて、中の顔までは見えない。ただ、運転席の窓が少しだけ下がっている。
そこから、黒い筒のようなものがこちらへ向いていた。
誠司の手が止まった。
缶コーヒーの温かさが、急に遠くなる。
カメラ。
そう思った瞬間、背中に冷たいものが走った。
「湊」
声が少し低くなった。
湊は砂場の縁でしゃがみ、落ち葉を拾っていた。
「んー?」
「こっちおいで」
「これ見て、変な葉っぱ」
「いいから、こっち」
自分でも驚くほど、声に余裕がなかった。
湊が顔を上げる。
誠司は無理に笑おうとしたが、頬が固まってうまく動かなかった。
「パパ?」
「こっちだ」
湊は首をかしげながらも、落ち葉を持ったまま走ってきた。靴音が砂から舗装路に変わり、軽い音を立てる。
誠司は湊の肩に手を置き、自分の体の陰に入れた。
もう一度、車を見る。
カメラの向きは、こちらを追っていた。
湊を。
誠司の息が、浅くなった。
頭の中で、いくつもの考えが同時に浮かんでは消える。
近所の人か。
偶然か。
いや、違う。
偶然なら、なぜ子どもを追う。
なぜ車の中から撮る。
なぜ、こちらが気づいた今も逃げない。
誠司は湊の肩を抱いたまま、ゆっくり立ち上がった。
膝の裏に力が入りにくい。
けれど、目だけは車から離さなかった。
運転席の男も、それに気づいたらしい。
黒い筒が引っ込む。
数秒の沈黙。
公園の中では、子どもたちの笑い声が変わらず響いていた。滑り台を滑る音。砂場のスコップがバケツに当たる音。風に揺れる草の音。
その当たり前の音の中で、誠司の耳には、自分の鼓動だけが大きく聞こえていた。
車のエンジンが低く唸る。
黒い車は、ゆっくりと路肩を離れた。
誠司は反射的にナンバーを見た。
数字を、頭の中で繰り返す。
一度。
二度。
三度。
忘れるな。
絶対に忘れるな。
車は角を曲がり、住宅街の奥へ消えた。
誠司はしばらく動けなかった。
湊が、肩越しに見上げてくる。
「パパ、どうしたの?」
誠司は息を整えた。
湊に怖がらせてはいけない。
けれど、手のひらには汗が滲んでいた。湊の小さな肩をつかむ指が、少しだけ震えている。
「なんでもない」
誠司は湊の頭を撫でた。
「今日は、もう帰ろう」
「えー、まだ遊びたい」
「帰ったら、一緒に風呂入ろう。昨日言ってただろ」
湊の表情が少し明るくなる。
「入る!」
「じゃあ帰ろう」
誠司は湊と手をつないだ。
小さな手は温かかった。
その温かさを感じた瞬間、誠司の胸の奥で、何かが静かに軋んだ。
公園を出るまで、何度も振り返った。
黒い車は、もう見えない。
それでも視線の感覚だけが、首の後ろに残っていた。
◇
帰宅すると、玄関には陽菜の靴がきちんと揃えて置かれていた。
台所の方から、味噌汁の匂いが漂ってくる。鍋の蓋が小さく鳴り、美咲が包丁を置く音がした。テレビの音は低く、陽菜がリビングで宿題をしている気配がある。
いつもの家だった。
それなのに、誠司には玄関の鍵を閉める音が、いつもより重く響いた。
「おかえり」
美咲が台所から顔を出した。
「公園、寒くなかった?」
「ああ。少し風があった」
誠司はできるだけ普通に答えた。
湊は靴を脱ぎながら、明るい声を上げる。
「ママ、パパとお風呂入る!」
「はいはい。その前に手を洗ってね」
湊が洗面所へ走っていく。
陽菜がリビングから顔を上げた。
「パパ、おかえり」
「ただいま」
誠司は笑おうとした。
陽菜も美咲も、湊も、何も知らない。
さっき、公園の外からカメラを向けられていたことを。
誰かが、この家を見ているかもしれないことを。
誠司はコートを脱ぎ、スマホを握った。
手の中に、さっき覚えたナンバーがまだ残っている。
忘れる前に、打ち込んだ。
メモアプリに数字を残す。
それから、榊原の番号を開いた。
通話ボタンを押す前に、一度だけリビングを見た。
湊は洗面所で水を出しすぎて、美咲に注意されている。陽菜は鉛筆をくわえそうになって、美咲に横目で見られ、慌てて机に戻した。
ありふれた夕方。
守りたいものが、すぐそこにあった。
誠司は廊下に出て、静かに通話ボタンを押した。
数回の呼び出し音。
それが、やけに長く感じられた。
『榊原だ』
低い声が出た瞬間、誠司は喉の奥に溜まっていた息を吐いた。
「榊原さん。佐藤です」
『どうした』
「今日、公園で」
そこで言葉が詰まった。
口に出せば、現実になる気がした。
だが、もう現実だった。
誠司は目を閉じた。
「うちの息子を、知らない男がカメラで撮っていました」
電話の向こうで、沈黙が落ちた。
短い沈黙だった。
けれど、その間に空気が変わったのが分かった。
『車か』
「はい。黒い車です。ナンバーは覚えています」
『言ってくれ』
誠司はメモを見ながら、数字を読み上げた。
一つずつ。
間違えないように。
電話の向こうで、榊原が何かを打ち込む音がした。
『分かった。すぐ調べる』
「お願いします」
『佐藤さん』
「はい」
『家から出るな。家族にも、しばらく一人で外に出ないように伝えろ。ただし、詳しいことはまだ言わなくていい。不安を煽るだけになる』
誠司はリビングの方を見た。
湊の笑い声が聞こえる。
美咲が「走らない」と言う声。
陽菜が「ママ、ここ分からない」と呼ぶ声。
その全部が、扉一枚向こうにある。
「……分かりました」
『調べがついたら、すぐ折り返す』
通話が切れた。
廊下に、静けさが戻る。
誠司はスマホを握ったまま、しばらく動けなかった。
指先が冷たい。
背中には、まだ汗が残っている。
家の中は温かいはずなのに、廊下だけが冷えているように感じた。
その時、リビングの扉が少し開いた。
美咲が顔を出す。
「誠司さん?」
誠司は振り向いた。
美咲の表情が、すぐに変わった。
「何かあったの?」
誠司は答えようとして、言葉を探した。
大丈夫だと言いたかった。
けれど、軽く言えば嘘になる。
何も起きていないと言えば、この家を守れなくなる。
誠司はスマホを握る手に力を込めた。
「美咲」
自分の声が、思ったより低く聞こえた。
「少しだけ、気をつけてほしいことがある」
「気をつけてほしいこと?」
美咲は扉を少し大きく開けた。
リビングから漏れる明かりが、廊下の床に四角く落ちている。その向こうで、湊が手を拭きながら歌のような声を出していた。陽菜は消しゴムを探しているらしく、机の上を小さく叩く音が聞こえる。
誠司は一度、二人の気配を確かめてから、声を落とした。
「最近、家の周りで知らない人を見たり、同じ車が何度も停まってたりしたら、すぐに俺に連絡してほしい」
美咲の目が細くなった。
ごまかせない、と誠司は思った。
美咲は昔から、誠司が何かを隠そうとすると、言葉より先に顔を見る。眉の動き、息の浅さ、手の置き場。そういうものから、黙っていても拾ってしまう人だった。
「公園で、何かあったの?」
誠司は唇を結んだ。
廊下の空気が重くなる。
リビングでは湊が「パパ、お風呂まだ?」と呼んでいる。その声は明るくて、何も知らない。
「湊を撮ってる人がいた」
美咲の表情が止まった。
ほんの一瞬、家の中の音がすべて遠ざかったように感じた。
「撮ってるって……写真?」
「たぶん。車の中から、カメラを向けてた」
「誰が」
「分からない。今、榊原さんに調べてもらってる」
美咲は扉の縁を握った。
指先に力が入り、爪の色が少し白くなる。
誠司はその手を見て、胸の奥が痛んだ。怖がらせたくなかった。けれど、知らせないまま外へ出す方がもっと怖かった。
「美咲」
誠司は一歩近づいた。
「ごめん。俺のせいかもしれない」
「まだ、そう決まったわけじゃないでしょ」
「でも」
「でもじゃない」
美咲は小さく首を振った。
声は震えていなかった。
けれど、目の奥にははっきりと不安があった。湊と陽菜には見せないよう、必死に留めている不安だった。
「まず、何をすればいいの」
その言葉に、誠司は息を吸った。
美咲は責めなかった。
泣かなかった。
ただ、家族を守るために、次に必要なことを聞いた。
「しばらく、子どもたちだけで外に出さない。学校の行き帰りも、できれば誰かと一緒に。知らない人に話しかけられたら、すぐ離れるように言っておきたい」
「分かった」
「あと、家の周りに知らない車が停まってたら、写真は撮らなくていい。無理しないで、すぐ連絡して」
「誠司さんは?」
美咲が見上げてきた。
「あなたは、大丈夫なの?」
誠司はすぐには答えられなかった。
大丈夫と言えば嘘になる。
自分のことなら、まだ耐えられた。
会社で無能扱いされても、給料を下げられても、深夜に体を削っても、誠司は怒りより先に諦めを覚える人間だった。
けれど、家族は違う。
湊の小さな肩を、車の中からカメラが追っていた。
その光景を思い出した瞬間、腹の底が冷えていく。
「俺は」
誠司は拳を握った。
「大丈夫じゃなくても、守る」
美咲はその言葉を聞いて、静かに目を伏せた。
リビングから湊の足音が近づいてくる。
「パパー?」
美咲はすぐに表情を戻した。
誠司も深く息を吸い、顔を整える。
扉が開き、湊が顔を出した。
「お風呂!」
「分かった。今行く」
「ママも来る?」
「ママはご飯作ってるから、あとでね」
湊は何も知らない顔で笑った。
その笑顔が、誠司の胸に突き刺さった。
誠司は湊の頭に手を置いた。
髪は少し汗ばんでいて、公園の砂の匂いがした。
「湊」
「なに?」
「知らない人についていくなよ」
「行かないよ。学校でも言われてる」
「車から声をかけられても?」
「行かない」
「写真撮らせてって言われても?」
湊は少し不思議そうな顔をした。
「やだって言う」
「そうだな。すぐ逃げて、先生かママかパパに言うんだ」
「うん」
湊は素直に頷いた。
誠司は笑おうとしたが、うまくできなかった。
湊はそれに気づかず、誠司の手を引っ張る。
「早く。お風呂冷めちゃう」
「ああ」
誠司は美咲を見た。
美咲は小さく頷いた。
信じている。
そう言われた気がした。
◇
榊原から折り返しがあったのは、湊を寝かしつけた後だった。
家の中は、ようやく静かになっていた。
陽菜は自分の部屋で明日の準備をしている。湊は布団に入って三分で眠った。美咲は台所で食器を洗っているが、水の音はいつもより控えめだった。
誠司はスマホを持って、ベランダに出た。
夜の空気が頬に触れる。
冬に近い風は冷たく、洗濯竿にかかったハンガーが小さく揺れた。遠くの道路を車が走り、タイヤの音が薄く伸びて消えていく。近所の家の窓明かりが、ぽつぽつと並んでいた。
こんな何でもない住宅街にまで、あの男たちは手を伸ばしてきた。
通話を取る。
「佐藤です」
『分かった』
榊原の声は低かった。
その時点で、誠司は嫌な予感がした。
『車の所有者は、オービットゲート社の関連会社だ。名義は迂回されているが、辿れる範囲では間違いない』
誠司は手すりを握った。
金属が冷たい。
「……やっぱり」
『おそらく、あんたへの圧力だ。家族の情報を握っている。そう知らせるためのな』
風が吹いた。
ベランダの端に置かれた小さな植木鉢の葉が揺れる。乾いた葉先が擦れ、かすかな音を立てた。
誠司は何も言わなかった。
言葉が出なかったのではない。
出したら、怒鳴ってしまいそうだった。
『佐藤さん』
榊原の声が、少し慎重になる。
『落ち着いて聞け』
「落ち着いてます」
自分でも驚くほど、声が低かった。
冷たい声だった。
『そうは聞こえない』
「……榊原さん」
誠司は夜の住宅街を見下ろした。
誰かが犬を散歩させている。自転車のライトがゆっくり曲がり角を曲がる。どこかの家から、笑い声が微かに漏れている。
その平和な風景が、今は少し違って見えた。
いつ誰かに踏み荒らされてもおかしくない、薄い紙の上に乗っているように。
「俺のことは、いいんです」
手すりを握る指に力がこもる。
「会社に何を言われても、白瀬に何をされても、俺は我慢できます」
声が震えた。
恐怖ではなかった。
「でも」
誠司は奥歯を噛んだ。
「家族に手を出すのは、許さない」
電話の向こうで、榊原が黙った。
誠司の胸の奥で、熱いものが広がっていく。
普段なら飲み込んでしまう感情だった。
怒り。
理不尽に対して、いつもなら「仕方ない」と片づけていたもの。
だが、湊に向けられたカメラを思い出すと、飲み込むことなどできなかった。
「湊を撮るな」
声がさらに低くなった。
「陽菜を撮るな。美咲を見るな。俺の家の前に、勝手に立つな」
ベランダの外で、風が一段強く吹いた。
ハンガーが触れ合い、細い音を立てる。
「俺を脅したいなら、俺に来ればいい」
誠司は言った。
「でも、家族を使うな」
『……分かった』
榊原の声も、低くなった。
『その怒りは正しい。ただし、一人で動くな』
「分かっています」
『あんたの自宅周辺に、保護をつける』
誠司は息を止めた。
『対策部隊から人を出す。私服で、目立たないように配置する。通学路も確認する。奥さんと子どもたちの生活をなるべく変えずに、距離を取って見守る』
「そんなことまで」
『当然だ』
榊原は即答した。
『あんたは国家級ダンジョンの管理者だ。重要人物の家族を守るのは、こちらの責任だ』
誠司は何も言えなかった。
手すりを握る指から、少しずつ力が抜ける。
『それと』
榊原は少し間を置いた。
『個人的にも、約束する』
「個人的に?」
『俺は、家族を守れなかった男だ』
誠司は黙った。
電話の向こうで、榊原が小さく息を吐く音がした。
『仕事を優先した。守っているつもりで、家にいなかった。気づいた時には、娘とは離れて暮らすことになっていた』
その声には、後悔があった。
普段の榊原からは想像しにくい、乾いた傷のような響きだった。
『だから、あんたの家族は守りたい』
「榊原さん……」
『礼はいらない。これは俺の仕事で、俺の意地だ』
誠司は夜空を見上げた。
星はほとんど見えない。街の明かりが強すぎて、空は暗い灰色に沈んでいる。
それでも、風は確かに吹いていた。
「ありがとうございます」
『今夜から人を出す。何か変わったことがあれば、すぐ連絡しろ。どんな小さなことでもだ』
「はい」
『奥さんには、必要な範囲で説明していい。子どもたちには怖がらせすぎるな』
「分かりました」
『佐藤さん』
「はい」
『家族を守りたいなら、あんた自身も倒れるな』
誠司はゆっくり息を吐いた。
「はい」
通話が切れた。
ベランダに、夜の音が戻る。
誠司はしばらく外を見ていた。
向かいの道路に、一人の男が立っていることに気づいたのは、その少し後だった。
黒い車の男ではない。
ごく普通の会社員のような格好をして、スマホを見ている。だが、視線が時折、周囲を静かに流れていた。
もう一人。
角の自販機の近くにも、コート姿の女性が立っている。缶飲料を手にしているが、飲む気配はない。
榊原の言った保護。
それがもう始まっているのだと分かった。
誠司は胸に手を当てた。
守られている。
同時に、巻き込んでいる。
その重さを、逃げずに背負わなければならなかった。
部屋に戻ると、美咲が台所から出てきた。
「榊原さん?」
「ああ」
「何て?」
誠司は少し迷った。
けれど、美咲には話すと決めた。
「やっぱり、俺への圧力だった。相手は、オービットゲート社に関係してる」
美咲の顔が強張る。
「家の周りに、警護をつけてくれるって。目立たないように」
「警護……」
「美咲たちには、誰も近づけさせないって」
美咲はしばらく黙っていた。
台所の時計の秒針が、ち、ち、と小さく鳴っている。
それだけが、やけに大きく聞こえた。
「誠司さん」
美咲は静かに言った。
「怖い」
誠司の胸が痛んだ。
「うん」
「でも、隠される方がもっと怖い」
「うん」
「だから、ちゃんと話して」
美咲は誠司を見た。
「一人で抱えないで」
誠司は頷いた。
「分かった」
美咲は一歩近づき、誠司の手を握った。
その手は温かかった。
誠司の冷えた指を、包むように握ってくる。
「私も、子どもたちを守る」
「ああ」
「でも、あなたも無茶しないで」
「……努力する」
「そこは、約束して」
誠司は少しだけ困ったように笑った。
こんな時でも、美咲は逃がしてくれない。
「約束する」
美咲はようやく小さく頷いた。
その夜、誠司はいつもより長く、子どもたちの寝顔を見ていた。
陽菜は布団を少し蹴って眠っていた。枕元には、途中まで読んでいた本が開いたまま置かれている。湊は口を少し開け、両手を万歳の形にして寝ていた。
窓の外では、風がカーテンをかすかに揺らしている。
薄い布が揺れるたび、街灯の光が床の上で静かに形を変えた。
誠司はカーテンを少しだけ開け、外を確認した。
道路の向こうに、私服の警護らしき男がまだ立っている。
そのさらに奥の暗がりに、見知らぬ影はない。
誠司はカーテンを閉めた。
明日も学校がある。
朝になれば、陽菜は眠そうにパンをかじり、湊は味噌汁に顔を近づけすぎて美咲に注意される。誠司は弁当を受け取り、いつものように会社へ行く。
その当たり前を、守らなければならない。
深夜。
オービットゲート社の会議室に、桐谷が戻った。
白瀬はまだ残っていた。机の上には、公園と住宅街で撮られた写真が並んでいる。
「撮れたか」
「はい。ただ、対象に気づかれました」
白瀬は写真を一枚手に取った。
滑り台のそばで、湊の肩を抱き寄せる誠司の写真だった。
誠司の顔は、普段の疲れた中年男のものではなかった。
目だけが、まっすぐに車を見ている。
白瀬は薄く笑った。
「気づかれて結構」
写真の上で、誠司の指が湊の肩を強く抱いている。
「それが圧力になる」
桐谷は何も言わなかった。
白瀬は写真を机に戻した。
「家族を守りたければ、管理者を降りる。普通の男なら、そう考える」
窓の外では、夜の東京が変わらず輝いていた。
白瀬はまだ知らない。
家族を脅された佐藤誠司が、これまでとは違う顔で端末の前に座ることを。
そして、守るものを奪われそうになった男が、どれほど静かに強くなるかを。
翌朝。
佐藤家の前の細い道に、朝日が差し込んだ。
電線に止まった鳥が短く鳴き、通学路へ向かう子どもたちの足音が少しずつ増えていく。
陽菜が玄関を出ると、誠司はいつもより少し長く、その背中を見送った。
湊が手を振る。
「パパ、行ってきます!」
「ああ。行ってらっしゃい」
誠司は笑った。
笑って、手を振った。
その視線の先、通りの角に立つ私服の男が、ほんのわずかに頷いた。
誠司も小さく頷き返した。
玄関の扉が閉まる。
家の中に戻った誠司は、スマホを握った。
画面には、榊原から短いメッセージが届いていた。
『警護配置完了。通常通り生活を続けろ。異変があれば即連絡』
誠司はそれを見つめ、深く息を吸った。
怒りは、まだ消えていない。
けれど、ただ燃え上がるだけでは家族を守れない。
見落とさないこと。
記録すること。
誰かに頼ること。
そして、自分の場所から逃げないこと。
誠司はスマホをしまった。
台所から、美咲が呼ぶ。
「誠司さん、お弁当」
「ああ」
誠司は振り返った。
いつもの朝だった。
けれど、その朝はもう、昨日までとは同じではなかった。
家族を守るために。
そして、帰りたい場所がある人を帰すために。
佐藤誠司は、静かに一歩を踏み出した。




