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減給された40代社畜、深夜バイトで国家級ダンジョンの管理者になる  作者: Gaku
第1部:深夜バイト編

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第41話 あなたのおかげで

 地下施設の面会室は、思っていたよりも静かだった。


 壁も床も白に近い灰色で、余計なものは何もない。中央に置かれた机と、向かい合わせの椅子。天井の隅で空調が低く鳴っているだけで、人の気配は薄かった。


 誠司は椅子に腰を下ろしていたが、背中を預けることができなかった。


 膝の上で組んだ指が、じっとしていられずに何度も擦れた。爪の先が乾いた音を立てる。その小さな音が、やけに大きく聞こえた。


 玲奈と会った時とも、犬飼と会った時とも違う。


 二人は、助けた人だった。


 画面の向こうで赤いランプになりかけ、必死に手を伸ばして、どうにか帰した人たちだった。もちろん緊張はした。けれど、そこにはまだ、顔を上げる理由があった。


 今日会う人は違う。


 藤原響子。


 誠司が、傷つけた人だった。


 あの夜のことは、今でも目を閉じるだけで浮かんでくる。


 鼻の奥が熱くなり、視界が滲んだ。ほんのわずか、反応が遅れた。たったそれだけの遅れで、退避経路の壁が崩れた。


 画面の中で点滅する警告。


 折り重なる赤い表示。


 自分の指が震え、キーを叩く音だけが異様に速かった。


 助けようとした。


 それは本当だ。


 けれど、最初に崩したのも自分だった。


 誠司は喉の奥を飲み込んだ。唾がうまく落ちず、胸の真ん中で引っかかるような感覚が残った。


 扉の外で、足音が止まった。


 革靴ではない。軽い靴底が床を踏む、柔らかい音だった。二歩分の間を空けて、扉の前に立つ気配がする。


 誠司の指が止まった。


 空調の音が、急に遠くなる。


 面会室の空気が、少しだけ重くなった。


 ノックが三回。


「佐藤さん、入ります」


 榊原の声だった。


 誠司は立ち上がった。椅子の脚が床を擦り、乾いた音を立てる。その音にさえ、胸が跳ねた。


 扉が開く。


 先に榊原が入り、その横から一人の女性が姿を見せた。


 二十代の後半くらいだろうか。髪は後ろでまとめられ、表情は思ったより明るかった。肩幅がしっかりしていて、立ち姿に芯がある。右の前腕には薄い色の傷跡が残っていたが、長袖の袖口から見えるそれは、もう痛々しいというより、過ぎた時間を示す跡のようだった。


 彼女が、藤原響子。


 誠司は顔を見た瞬間、息が浅くなった。


 画面の向こうでしか知らなかった名前が、今、目の前に立っている。


 藤原は一瞬だけ誠司を見て、それから軽く会釈した。


「藤原響子です」


 声は、落ち着いていた。


 責める色はなかった。


 そのことが、かえって苦しかった。


 榊原は二人を見比べ、短く言った。


「俺は外にいる。何かあったら呼んでくれ」


 扉が閉まる。


 面会室に、二人だけが残された。


 誠司は立ったまま、藤原を見ていた。何を言うべきかは、何度も考えてきた。通勤電車の中でも、深夜の端末の前でも、朝の味噌汁をよそいながらでも、何度も心の中で繰り返した。


 けれど、本人を前にすると、用意した言葉は薄い紙のように崩れた。


 誠司はゆっくりと頭を下げた。


 腰から折るように、深く。


「藤原さん」


 声が掠れた。


「あなたを傷つけたのは、俺です」


 藤原が息を止める気配がした。


 誠司は顔を上げなかった。上げられなかった。


「あの夜、俺が操作を間違えて……退避経路の壁が崩れました。あなたが怪我をしたのは、俺のせいです」


 床の模様が視界の端で滲む。


「本当に……申し訳ありませんでした」


 言い終えた途端、面会室が静まり返った。


 誰かが廊下を歩く音もない。空調の低い唸りだけが、天井から薄く落ちてくる。誠司は頭を下げたまま、藤原の返事を待った。


 数秒だったのか、もっと長かったのか分からない。


 その沈黙の中で、誠司の背中に汗が滲んだ。シャツが肌に貼りつき、首筋を冷たいものが一筋だけ滑った。


「えっと……」


 藤原の声がした。


「佐藤さん、顔を上げてください」


 誠司はすぐには動けなかった。


 藤原の声は柔らかかった。だからこそ、その先を聞くのが怖かった。


「お願いします。ちゃんと話したいので」


 誠司はゆっくり顔を上げた。


 藤原は困ったように眉を下げていた。怒っている顔ではなかった。責める顔でもなかった。ただ、本当に困っているような、少し驚いたような表情だった。


「もしかして、ずっと気にしてたんですか? あの時のこと」


 誠司は唇を結び、うなずいた。


「はい。ずっと」


 藤原は椅子を引いて座った。脚が床を擦る音が、静かな部屋に短く響いた。


「佐藤さんも座ってください」


「でも」


「立ったままだと、私が話しにくいです」


 その言い方があまりにも自然で、誠司は逆らえなかった。


 向かいの椅子に腰を下ろす。膝の上に置いた手が、まだ少し震えていた。


 藤原はその手を一度だけ見てから、視線を誠司の顔に戻した。


「逆ですよ」


 誠司は、意味が分からず瞬きをした。


「逆、ですか」


「はい」


 藤原は小さく息を吐いた。思い出すように、右前腕の傷跡を左手でそっと撫でる。


「あの時、私、本当にもう駄目だと思ったんです」


 その声から、少しだけ明るさが引いた。


 誠司は動けなかった。


「壁が崩れて、音がすごくて。頭の上から、石と土が落ちてきて。視界が一瞬、灰色になりました。口の中が砂っぽくなって、息を吸うたびに喉が痛くて」


 藤原の指が、傷跡の上で止まった。


「右腕が挟まれた時、あ、終わったなって思いました」


 面会室の静けさが深くなった。


 誠司の耳の奥で、自分の鼓動だけが鳴っていた。


「でも、すぐに止まったんです」


 藤原は顔を上げた。


「崩れた場所が、それ以上広がらなかった。退避経路も完全には塞がらなかった。少し待ったら、別の通路が開いて、誘導が出ました」


「それは……俺が、慌てて直しただけで」


「直してくれたんですよね」


 藤原はすぐに返した。


 誠司は言葉を失った。


「私は中にいたから分かります。あのまま崩れ続けていたら、私は助かってません。たぶん、一人じゃ動けなかった。声も、そんなに出せなかったと思います」


「でも、最初に崩したのは」


「佐藤さん」


 藤原の声が、少しだけ強くなった。


 誠司は口を閉じた。


 彼女は責めていない。けれど、逃がさない声だった。自分を責めることで話を終わらせようとする誠司を、静かに引き止める声だった。


「私たちは、あそこに入る時点で覚悟しています」


 藤原はまっすぐに誠司を見た。


「怪我をしない場所じゃない。何が起きてもおかしくない。もちろん、怖くないわけじゃないです。死にたくないし、痛いのも嫌です。でも、それでも入るって決めてる」


 誠司の喉が詰まった。


「だから、全部を佐藤さん一人のせいにしないでください」


 その言葉は、優しかった。


 優しいのに、胸の奥深くまで届いた。


 誠司は視線を落とした。膝の上の手が、また小さく震えていた。


「俺は……あの時からずっと、思ってました」


 声が、細くなる。


「助けるつもりで端末の前にいたのに、結局、人を傷つけたんだって。俺みたいな普通のおっさんが、あんなものを触っていいのかって」


 藤原は黙って聞いていた。


 空調の音が、二人の間を埋める。


「犬飼さんにも、玲奈さんにも、ありがとうって言われました。でも、藤原さんのことを思い出すと……俺は、本当に助けてるのか分からなくなるんです」


 口にした瞬間、胸の奥に押し込めていたものが崩れた。


 誠司は奥歯を噛みしめた。ここで泣く資格などないと思った。泣きたいのは藤原の方だ。痛かったのも、怖かったのも、彼女の方だ。


 それでも目の奥が熱くなった。


 藤原はしばらく黙っていた。


 責めるでも、慰めるでもなく、ただ誠司の言葉が落ち着くのを待っていた。


 やがて、彼女は静かに言った。


「佐藤さん。私、あの日のことを何度も思い出しました」


 誠司は顔を上げた。


 藤原は笑っていなかった。


 けれど、その目は逃げていなかった。


「怖かったです。痛かったです。今でも、大きな崩落音を聞くと体が固まります」


 誠司の胸が締めつけられる。


「でも、それと同じくらい、覚えてることがあります」


 藤原は右手を机の上に置いた。


 傷跡の残る腕。


 その手の指が、ゆっくりと握られる。


「あの時、私を帰そうとしてくれた誰かがいたことです」


 誠司は息を止めた。


 藤原の声は、震えていなかった。


「画面の向こうにいたんですよね。佐藤さんが」


 小さな机を挟んで、二人の間に長い沈黙が落ちた。


 誠司の目から、一滴だけ涙が落ちた。


 机の上に、小さな丸い跡ができた。


 藤原はそれを見て、ほんの少しだけ表情を緩めた。


「やっぱり、ずっと背負ってたんですね」


 誠司は答えられなかった。


 喉が熱くて、声が出なかった。


 藤原はゆっくりと息を吸った。


 そして、まるで崩れかけた壁の向こうから手を伸ばすように、静かに言葉を続けた。


「佐藤さん。私は、あなたに傷つけられた人じゃありません」


 誠司は、ゆっくり瞬きをした。


 藤原の言葉が、すぐには胸に入ってこなかった。


「私は、あなたに助けられた人です」


 その声は、静かな部屋の中でまっすぐに届いた。


 空調の低い音も、廊下の向こうの微かな気配も、すべてが一歩遠ざかったようだった。誠司の視界には、机越しに座る藤原だけがいた。


「でも……」


 誠司は何か言おうとした。


 けれど、藤原は首を横に振った。


「もちろん、あの時のことが何もなかったとは言いません。怖かったし、痛かったし、しばらく眠れなかった夜もありました」


 藤原は自分の右腕を見た。


「でも、私は生きています。こうして話せています。ちゃんとご飯も食べられるし、また現場に戻りたいって思える」


 彼女は顔を上げた。


「それは、あの時、諦めないでくれた人がいたからです」


 誠司の唇が震えた。


 胸の奥に、長いあいだ刺さったままだったものがある。


 誰にも見えない、小さな棘だった。


 仕事に行く朝も、深夜の端末の前でも、家族と食卓を囲んでいる時でさえ、その棘はふとした瞬間に疼いた。


 自分は人を傷つけた。


 その思いだけが、ずっと消えなかった。


 だが今、傷つけたと思っていた本人が、目の前で言っている。


 生きている、と。


 助けられた、と。


 誠司は息を吸った。けれど、胸が震えてうまく入らない。喉の奥が熱くなり、視界が滲んだ。


「俺……ずっと……」


 言葉が途切れた。


 藤原は急かさなかった。


 沈黙は重くなかった。むしろ、静かな手のひらで背中を支えられているような沈黙だった。


「ずっと、怖かったんです」


 誠司はかすれた声で言った。


「また、誰かを傷つけるんじゃないかって。助けようとして、間違えて、取り返しのつかないことになるんじゃないかって」


 涙が頬を伝った。


 拭こうとしたが、手がうまく動かなかった。


「それでも、赤いランプを見ると……放っておけなくて」


「はい」


「怖いのに、やめられなくて」


「はい」


「でも、本当は……許されたいなんて、思っちゃいけないと思ってました」


 藤原の表情が、少しだけ歪んだ。


 その顔を見て、誠司は初めて気づいた。


 藤原もまた、何も感じていないわけではないのだ。


 痛みも恐怖も、確かに彼女の中に残っている。それでも彼女は、それだけで誠司を見ようとはしていない。


「佐藤さん」


 藤原は静かに呼んだ。


「完璧じゃなくていいと思います」


 誠司は顔を上げた。


「私たちは、完璧な人に助けてほしいわけじゃありません。失敗しない人なんて、たぶんどこにもいないです」


 藤原は少し笑った。


「でも、失敗した時に逃げない人は、そんなに多くないと思います」


 誠司の胸が詰まった。


「あの時、佐藤さんは逃げなかった。直そうとしてくれた。私を帰そうとしてくれた」


 彼女の声が、ほんの少し柔らかくなった。


「だから、自分を責めないでください」


 誠司は、もう耐えられなかった。


 両手で顔を覆う。


 声は出さないつもりだった。けれど、喉の奥から短く息が漏れた。胸の深いところに溜まっていたものが、涙と一緒に押し出されていく。


 面会室は静かだった。


 その静けさの中で、誠司の乱れた呼吸だけが小さく響いた。


 藤原は何も言わなかった。


 ただ、待っていた。


 それがありがたかった。


 慰めの言葉を重ねられるより、その沈黙の方がずっと優しかった。


 やがて、誠司はゆっくり顔を上げた。


「すみません」


「謝らないでください」


 藤原は即座に言った。


 その早さに、誠司は少しだけ目を丸くした。


 藤原は肩をすくめる。


「今日は、それを言いに来たんですから」


「それを?」


「はい」


 藤原は改めて、誠司を見た。


「あなたのおかげで、私は今、ここで笑えています」


 その言葉が、胸の奥に届いた。


 棘が抜ける瞬間というものが本当にあるなら、きっとこういう感覚なのだろうと、誠司は思った。


 痛みが消えるわけではない。


 起きたことが、なかったことになるわけでもない。


 ただ、これ以上その痛みで自分を刺し続けなくてもいいのだと、初めて思えた。


「ありがとうございます」


 誠司は深く頭を下げた。


 今度の礼は、謝罪ではなかった。


 藤原は明るく笑った。


「こちらこそ。ちゃんと会えてよかったです」


 面会の時間は、あっという間に過ぎた。


 重かった空気は、帰る頃には少しだけ柔らかくなっていた。藤原は椅子から立ち上がり、扉の前で振り返った。


「佐藤さん」


「はい」


「私、明日からまた現場に戻ります」


 誠司の胸が、一瞬だけ強く鳴った。


 右腕の傷跡が目に入る。


「怖くないんですか」


 思わず聞いてしまった。


 藤原は少し考えてから、苦笑した。


「怖いですよ」


 その答えは正直だった。


「でも、怖いからって、ずっと止まっていたくはないんです。仲間もいますし、やらなきゃいけないこともあります」


 藤原は右手を軽く握った。


「それに、今度は前より慎重に動けます。無理もしません」


「……気をつけてください」


「はい」


 藤原は扉に手をかけた。


 それから、ふと思い出したように振り向いた。


「だから」


 誠司を見る目が、まっすぐだった。


「また助けてくださいね」


 誠司は息を止めた。


「ピンチになったら、退避経路、よろしくお願いします」


 その言い方は軽かった。


 けれど、軽いだけの言葉ではなかった。


 藤原は誠司を、過去の失敗だけで見ていない。


 これから先も、自分を帰してくれる人として見ている。


 その信頼が、誠司の胸を静かに熱くした。


 誠司は涙の跡を手の甲で拭い、背筋を伸ばした。


「はい」


 声はまだ少し掠れていた。


 それでも、迷いはなかった。


「必ず」


 藤原は満足そうに笑って、面会室を出ていった。


 扉が閉まる音が、静かに響いた。


 誠司はしばらく、その場に立ち尽くしていた。


 白い壁。灰色の床。中央の机。藤原が座っていた椅子。


 何も変わっていないはずなのに、部屋の空気だけが少し違って感じられた。


 誠司は椅子に戻らず、窓のない壁に向かって深く息を吸った。


 胸の奥が、まだ痛い。


 けれど、その痛みはさっきまでとは違っていた。


 自分を責めるための痛みではなく、忘れないための痛みだった。


「完璧じゃなくていい」


 小さく呟く。


 藤原の声が、耳の奥に残っている。


 誠司は拳を握った。


「でも、必ず助ける」


 その言葉は、誰かに聞かせるためのものではなかった。


 端末の前に座る自分へ。


 赤いランプを見るたびに怯える自分へ。


 それでも手を伸ばそうとする自分へ。


 誠司はもう一度、深く息を吐いた。


 面会室の扉を開けると、廊下の光が目に入った。地下施設の照明は白く、影が薄い。床は磨かれていて、歩くたびに靴底が小さく鳴った。


 廊下の先で、榊原が壁にもたれて待っていた。


 腕を組んでいたが、誠司を見ると体を起こした。


「終わったか」


「はい」


「どうだった」


 誠司は少し考えた。


 うまい言葉は見つからなかった。


 ただ、胸の奥にあった重さが、ほんの少し軽くなっている。


「会えて、よかったです」


 榊原は短く息を吐いた。


「そうか」


 それ以上は聞かなかった。


 誠司には、その距離感がありがたかった。


 二人で廊下を歩く。


 靴音が、一定の間隔で並んだ。壁の向こうから機械の低い唸りが聞こえる。地下深くにあるこの場所では、外の風も、太陽の光も届かない。


 それでも誠司の胸には、どこか朝の空気に似たものがあった。


 地上へ向かう通路の途中で、端末がある区画の扉が見えた。


 いつもの深夜バイトの部屋。


 赤いランプが灯る場所。


 罪の始まりのように感じていた場所。


 誠司は足を止め、扉を見た。


 榊原が少し先で振り返る。


「どうした」


「いえ」


 誠司は首を横に振った。


「また、ここに戻ります」


「ああ」


「怖いですけど」


 榊原は黙っていた。


 誠司は扉から目を離さなかった。


「でも、戻ります」


 榊原の口元が、わずかに緩んだ。


「それでいい」


 地上へ出る頃には、夕方になっていた。


 施設の外の空は淡い橙色に染まり、低い雲の縁だけが白く光っていた。建物の隙間を抜ける風が、植え込みの細い葉を揺らす。葉の先が触れ合い、ささやくような音を立てた。


 誠司はその音を聞きながら、スマホを取り出した。


 美咲からメッセージが届いていた。


『今日は帰り、遅くなる? 湊がパパとお風呂入りたいって』


 誠司は画面を見て、少し笑った。


 指先で返信を打つ。


『できるだけ早く帰る。今日は湊と入るよ』


 送信すると、すぐに既読がついた。


『じゃあ、急がなくていいから気をつけて帰ってきてね』


 その一文を見た時、誠司の胸がまた静かに熱くなった。


 帰る場所がある。


 待っている人がいる。


 だからこそ、帰れないかもしれない誰かを、放っておけない。


 誠司はスマホをしまい、駅へ向かって歩き出した。


 夕方の歩道には、帰宅する人たちの足音が重なっていた。革靴、スニーカー、子どもの軽い靴音。車道を走る車の音。遠くで鳴る踏切の警告音。


 その全部が、当たり前の生活の音だった。


 誠司はその中を、ゆっくり歩いた。


 胸の奥にあった棘は、もう同じ形では残っていない。


 消えたわけではない。


 けれど、それは誠司を止めるものではなくなっていた。


 藤原響子は、また現場に戻る。


 玲奈も、犬飼も、他の探索者たちも、それぞれの場所へ戻っていく。


 ならば自分も、戻らなければならない。


 端末の前へ。


 赤いランプの前へ。


 誰かが帰るための道を作る場所へ。


 誠司は夕暮れの風の中で、小さく息を吐いた。


「帰すんだ」


 声は人混みに紛れて消えた。


 けれど、誠司の中には残った。


 その頃。


 誠司が歩く駅前から遠く離れた住宅街で、一台の黒い車がゆっくりと路肩に停まった。


 夕日の光を受けたフロントガラスは暗く、運転席の男の顔は外から見えない。


 男は窓を少しだけ下げた。


 風が入り込み、助手席に置かれた封筒の端を小さく揺らす。


 封筒の中には、数枚の写真が入っていた。


 古い二階建ての家。


 洗濯物の揺れるベランダ。


 ランドセルを背負って歩く少女の横顔。


 公園の滑り台へ走っていく小さな男の子。


 そして、玄関先で子どもを迎える一人の女性。


 男はカメラを手に取った。


 夕方の住宅街には、夕飯の匂いが薄く流れていた。どこかの家で鍋の蓋が鳴り、遠くから子どもの笑い声が聞こえる。


 車の中だけが、ひどく冷たかった。


 男はレンズを向ける。


 誠司の家の窓に、明かりが灯った。



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