第40話 替えが利く男
朝の光は、まだ少し冷たかった。
カーテンの隙間から差し込む白い線が、リビングの床を斜めに切っている。空気中の埃が、その光の中でゆっくり漂っていた。昨夜の雨を残したベランダの手すりには水滴が並び、風が吹くたびに一つ、また一つと落ちて、床に小さな音を立てる。
台所からは味噌汁の匂いがした。
陽菜が寝癖のついた髪を片手で押さえながら、食卓の椅子に座っている。湊は半分眠った顔で箸を持ち、卵焼きをじっと見つめていた。美咲はエプロンの紐を結び直しながら、誠司の弁当箱を鞄の横に置いた。
いつもの朝だった。
だが、誠司にとっては少し違っていた。
美咲が、玄関まで見送りに来た。
子どもたちの声がリビングの方から聞こえている。湊が「行ってらっしゃい」を言う前に牛乳をこぼし、陽菜が「もう」と言いながらティッシュを取りに走る。そんな生活の音が、廊下の奥でやわらかく重なっていた。
誠司は靴を履き、鞄を持った。
美咲は、まっすぐに彼を見ていた。
「行ってらっしゃい」
昨日までと同じ言葉だった。
けれど、その奥にある重さを、誠司はもう知っている。
「ああ」
誠司は小さく頷いた。
「行ってきます」
美咲は一呼吸置いて、続けた。
「帰ってきてね」
誠司は、逃げずにその目を見返した。
「必ず」
ドアを開けると、朝の風がスーツの裾を揺らした。濡れた道路から、雨上がりの匂いが上がってくる。近所の植え込みの葉が風に揺れ、乾ききらない水滴が朝日に小さく光った。
誠司は一歩、外へ出た。
玄関の扉が背後で静かに閉まる。
その音が、約束に蓋をするように胸へ残った。
東都精機システムズの事務フロアは、朝から空気が重かった。
天井の蛍光灯は白く、どこか乾いた光を落としている。窓際のブラインドは半分だけ下ろされ、曇り気味の空から入る光を細い縞模様に変えていた。その光が机の上の書類や古いキーボード、安いボールペンの軸を淡く照らしている。
コピー機が紙を吐き出す音。
電話の呼び出し音。
誰かが椅子を引く音。
マウスを何度もクリックする乾いた音。
そこに、朝の挨拶が薄く混ざる。
「おはようございます」
「おはよう」
どの声も小さい。
皆、月曜日の朝の重さを背中に乗せているようだった。
誠司は自分の席につき、古い椅子に腰を下ろした。座面が小さく軋む。机の上には昨日のうちに積まれた伝票が残っていた。右上の角が少し曲がっている。隣には、付箋だらけのファイルが置かれていた。
いつも通りだった。
ここでは、誰も誠司を管理者とは呼ばない。
誰も、玲奈や犬飼のことを知らない。
D-7区画で二人を帰したことも、美咲にすべてを話した夜のことも、誰も知らない。
誠司は伝票を一枚取り、日付と品番を確認した。
その指先は、昨日より少しだけ落ち着いていた。
「佐藤くん」
背後から声がした。
誠司は振り返らなくても、誰かわかった。
矢沢浩二が、片手にコーヒーの紙カップを持って立っていた。ネクタイは少し緩み、髪には整髪料の匂いが強く残っている。口元にはいつもの薄い笑みが浮かんでいた。
相手を見下す時だけ、妙に滑らかになる笑みだった。
「今日も朝から伝票か」
「はい」
「まあ、君にはそれくらいが丁度いいか」
矢沢は軽く言った。
近くの席の若い社員が、一瞬だけこちらを見て、すぐ画面へ視線を戻した。聞こえていないふりをする仕草は、もうこの部署に染みついたものだった。
誠司は小さく頭を下げた。
「確認して進めます」
以前なら、胸の中に重たい泥のようなものが沈んだはずだった。
自分はその程度の人間なのだと、言われるたびに少しずつ削られていた。
だが今日は、違った。
痛くないわけではない。
むしろ、まだ痛い。
けれど、その言葉が自分の全部を決めるものではないと、今は知っていた。
玲奈がいた。
犬飼がいた。
美咲が、帰ってきてねと言った。
矢沢の言葉が、胸の中心までは届かない。
それが、矢沢には気に入らなかった。
「何か、最近落ち着いてるね」
矢沢が目を細めた。
「前はもう少し、申し訳なさそうな顔してたけど」
誠司は伝票へ視線を戻した。
「そうですか」
「そうだよ。何かいい副業でも見つかった?」
紙カップの底が、誠司の机の端に軽く当たった。
「夜、忙しいみたいじゃないか」
誠司の指が、一瞬だけ止まった。
矢沢はそれを見逃さなかった。
だが、誠司はすぐに伝票を揃えた。
「家庭の事情もありますので」
「ふうん」
矢沢の声に、納得していない響きが混じる。
「まあ、本業に支障が出ないようにね。君の場合、ここでまで使えなくなったら困るから」
その言葉を置いて、矢沢は自分の席へ戻っていった。
誠司は背中を見送らなかった。
ただ、目の前の伝票に印をつけた。
赤いボールペンの先が紙に触れ、かすかな音を立てる。
会社の照明は、相変わらず白く乾いていた。
その光の下で、誠司は黙々と作業を続けた。
矢沢浩二は、自分の席に戻りながら、胸の奥に残った小さな引っかかりを無理やり押し込めた。
佐藤が変わった。
それは、認めたくない事実だった。
以前の佐藤は、もっとわかりやすかった。少し強く言えば肩を丸め、面倒な仕事を渡せば「はい」とだけ答えた。言い返すこともない。怒ることもない。厄介な仕事を流し込むには、都合のいい相手だった。
それなのに、最近は違う。
表情は相変わらず冴えない。
スーツも安っぽい。
髪も白いものが増えている。
だが、目の奥に何かがある。
卑屈さではない。
反抗でもない。
こちらを無視しているわけでもない。
ただ、矢沢の言葉だけでは崩れない何かが、そこに残っている。
それが腹立たしかった。
矢沢は自席の椅子に乱暴に座った。
背もたれがぎしりと鳴る。
机の上には、上層部から戻された資料が置かれていた。赤字の修正指示。数字の再確認。納期の前倒し。メールボックスには未読が二十件以上たまっている。
家のことも頭をよぎった。
住宅ローン。
妻の冷たい顔。
子どもが最近、自分の帰宅時間に合わせて部屋へ逃げること。
上からは詰められ、下からは尊敬されない。
誰かを下に置かなければ、自分の立つ場所がなくなる。
矢沢はコーヒーを飲んだ。
ぬるく、苦かった。
「替えが利くんだよ、結局」
誰にも聞こえないほど小さく呟いた。
佐藤のような男はいくらでもいる。
伝票を処理するだけ。
言われたことをこなすだけ。
会社の歯車にもなりきれない、古びた部品。
そう思わなければ、自分の中の苛立ちを片づけられなかった。
電話が鳴った。
矢沢は反射的に顔を上げたが、鳴っているのは総務部側の内線だった。総務の女性社員が受話器を取り、いつもの調子で名乗る。
その声が、途中で少し変わった。
「……はい。内閣府、ですか?」
フロアの空気が、わずかに揺れた。
キーボードを叩く音が一つ、止まる。
コピー機だけが、何も知らないように紙を吐き出し続けていた。
矢沢は顔を上げた。
総務の女性社員は、受話器を持ったまま背筋を伸ばしている。隣の総務部長が、何事かという顔で近づいた。
「はい。はい、少々お待ちください」
女性社員が受話器を押さえ、総務部長へ小声で何かを伝える。
総務部長の顔色が変わった。
普段は部下の休暇申請にも面倒そうな顔をする男が、急に背筋を伸ばし、ネクタイの位置を直した。
「来客?」
誰かが小さく呟いた。
数分後、エレベーターホール側の扉が開いた。
スーツ姿の男女二名が入ってきた。
男は四十代半ばほど。髪は短く整えられ、黒いスーツには余計な皺がない。女はそれより少し若く、手に薄いファイルを持っている。二人とも物腰は丁寧だったが、社外の営業とは空気が違っていた。
足音が静かだった。
こつ、こつ、と床を踏む音だけが、フロアのざわめきを切って近づいてくる。
窓際のブラインドが空調の風でかすかに揺れた。
細い光の縞が、二人のスーツの肩に流れていく。
総務部長が慌てて立ち上がり、応接スペースへ案内しようとする。
「お、お待ちしておりました」
男は丁寧に頭を下げた。
「突然のご連絡となり、申し訳ありません」
声は穏やかだった。
だが、そこには妙な重さがあった。
「内閣府ダンジョン対策室の者です」
その言葉に、フロア全体の音が一瞬だけ薄くなった。
誰かがキーボードに置いた指を止める。
電話中の社員が声を落とす。
コピー機の排紙音だけが、乾いたまま続く。
矢沢は椅子に座ったまま、動けなかった。
内閣府。
ダンジョン対策室。
その二つの言葉が、自分の会社の事務フロアに落ちてきた意味を、すぐには理解できなかった。
総務部長がぎこちなく笑う。
「ええと、本日はどのようなご用件で……」
男はフロアを一度だけ見渡した。
その視線は冷たくはない。
けれど、曖昧な逃げ道を許さない硬さがあった。
「御社の従業員について、少々お伺いしたいことがあります」
総務部長の喉が鳴った。
「従業員、ですか」
「はい」
女がファイルを開く。
紙の擦れる音が、やけに鮮明に聞こえた。
男は、はっきりと言った。
「佐藤誠司さんについてです」
矢沢の手から、紙カップが滑りかけた。
中に残っていたぬるいコーヒーが揺れ、黒い液体が縁まで上がる。
佐藤。
今、佐藤と言ったのか。
あの佐藤を。
フロアの数人が、反射的に誠司の席を見た。
誠司は、ちょうど伝票を確認していた。
顔を上げるのが、少し遅れた。
そのわずかな遅れさえ、矢沢には妙に不気味に見えた。
総務部長は困惑した声を出した。
「さ、佐藤が……何か?」
男は落ち着いたまま答えた。
「佐藤さんに問題があるわけではありません」
そこで一拍置く。
フロアの蛍光灯が、低く唸っているように感じた。
「むしろ、国家の重要事項に関わる方ですので、御社のご協力をお願いしたく参りました」
矢沢の背筋に、冷たいものが走った。
国家の重要事項。
佐藤が。
伝票を処理している、あの佐藤が。
替えが利くと、ついさっき自分が心の中で切り捨てた男が。
誠司は席で静かに固まっていた。
彼の前に積まれた伝票の白い紙が、窓から差す細い光を受けて淡く光っている。
その光の中で、矢沢は初めて、佐藤誠司という名前が自分の知っている大きさでは収まらないものに変わっていくのを感じた。
応接スペースのガラス扉が閉まると、事務フロアに奇妙な静けさが残った。
完全な沈黙ではない。
電話の呼び出し音は鳴っている。コピー機は相変わらず紙を吐き出している。誰かがキーボードを叩く音もある。だが、それらの音がどこか薄く、遠くから聞こえるようだった。
全員が、聞いていないふりをしていた。
けれど、視線だけは隠せていなかった。
机の端から、モニターの隙間から、書類をめくる手の向こうから、何人もの目が誠司の席へ向いている。
佐藤誠司。
内閣府ダンジョン対策室。
国家の重要事項。
その三つの言葉が、乾いた蛍光灯の下で、妙に場違いな重さを持って浮いていた。
誠司は伝票を持ったまま、しばらく動けなかった。
心臓が、遅れて強く打つ。
どくん。
どくん。
背中に汗が滲む。会社の空調はいつも通り弱く、フロアには紙と古い機械とインスタントコーヒーの匂いが混じっていた。それなのに、地下施設の冷たい廊下の匂いが一瞬だけ鼻の奥に蘇った。
会社と、あの場所がつながった。
そう思った。
ポケットの中で、スマホが短く震えた。
誠司は周囲に気づかれないよう、ゆっくりと取り出す。画面には榊原からのメッセージが表示されていた。
会社の方に対策室から接触が入る。あんたの身分と勤務環境を保護するためだ。心配するな。
誠司は画面を見つめた。
心配するな。
その文字を読んでも、心配が消えるわけではなかった。むしろ、何かがもう自分の手の届かないところで動き始めていることだけが、はっきりした。
美咲の声が胸に戻る。
帰ってきてね。
誠司は小さく息を吐き、返信を打った。
わかりました。
送信ボタンを押す指は、少しだけ冷たかった。
応接スペースの中では、総務部長が何度も頷いていた。
ガラス越しに見えるその背中は、いつもより小さく見えた。普段は部下に強い口調で指示を出す男が、今は背筋を伸ばしすぎて肩を固くしている。
内閣府の男は、資料を机に置いた。
「佐藤さんの勤務実態について確認させてください」
「勤務、実態……ですか」
「はい。過度な残業、業務上の過剰な負荷、不当な評価、または不利益な取り扱いがないかを確認する必要があります」
総務部長の顔が、さらに強張った。
「い、いえ、弊社ではそのような……」
女の方が、静かにペンを走らせた。
かり、という小さな音が、ガラス越しにも聞こえた気がした。
「佐藤さんは、国家の重要な業務に関わる可能性がある方です」
男の声は低く、穏やかだった。
「御社での扱いが、その業務に影響を及ぼすことは避けなければなりません」
総務部長は、乾いた唇を舐めた。
「その、佐藤が何を……」
「詳細は申し上げられません」
男はすぐに言った。
切り捨てる言い方ではない。
だが、それ以上踏み込むことを許さない硬さがあった。
「ただし、佐藤さんの健康状態と勤務環境は、国としても把握しておく必要があります」
総務部長は、返事に詰まった。
ガラス扉の外で、矢沢はその様子を見ていた。
喉が渇く。
紙カップのコーヒーを飲もうとしたが、手がうまく動かなかった。カップの縁が唇に触れた時、ぬるい苦味が舌に広がる。まずい。いつもよりずっとまずく感じた。
不当な評価。
不利益な取り扱い。
過剰な負荷。
その言葉が、矢沢の耳の奥で何度も反響した。
佐藤に雑務を押しつけたこと。
皆の前で「替えが利く」と言ったこと。
残業を当然のように振ったこと。
減給の後も、あえて見下すような言葉を選んだこと。
どれも、これまでは部署の中だけで済む話だった。
誰も本気で問題にしない。佐藤も言い返さない。周囲も見て見ぬふりをする。そうやって、曖昧な空気の中に沈んでいた。
それが今、国家機関の男の口から、別の名前を与えられようとしている。
矢沢は唾を飲み込んだ。
喉の奥がひりついた。
「矢沢さん」
突然、総務部長がガラス扉の向こうから顔を出した。
矢沢の肩が跳ねた。
「ちょっと来てください」
「え、私ですか」
「佐藤さんの直属の上長でしょう」
その言葉に、周囲の視線が集まった。
矢沢は立ち上がった。
椅子の脚が床を擦り、嫌に大きな音を立てた。足元が少しふらつく。ネクタイの結び目が急に苦しくなり、指で直そうとして、逆にうまくいかなくなった。
応接スペースへ向かう数歩が、やけに長かった。
ガラス扉を開けると、室内の空気がフロアより少し冷たかった。空調の風が直接当たる位置に立ってしまい、首筋の汗が一気に冷える。
「矢沢浩二です」
声が少し裏返った。
内閣府の男は、丁寧に名刺を差し出した。矢沢も慌てて名刺入れを探る。指が滑り、名刺が一枚ずれて床に落ちそうになった。
「佐藤誠司さんの勤務状況について、確認させていただきます」
「は、はい」
「佐藤さんは、現在どのような業務を担当されていますか」
「主に、伝票処理やデータ入力、資料整理などを……」
言ってから、矢沢は自分の言葉の軽さに気づいた。
国家の重要事項に関わる方。
その人物に、自分は今、伝票処理や資料整理と説明している。
男は表情を変えなかった。
「業務量は適正ですか」
「ええ、もちろん」
「本人の能力や健康状態に照らし、不相応な負荷をかけていることはありませんか」
「ありません」
即答した。
早すぎる返事だった。
女がまた何かを書き込む。
矢沢の背中に、冷たい汗が流れた。
「佐藤さんの評価についても、後ほど人事資料を確認させていただきます」
総務部長が隣で固まった。
「人事資料、ですか」
「必要な範囲で結構です」
男は穏やかに言った。
「佐藤さんが不当に不利益を受けていないか、確認するだけです」
矢沢の視界の端が、少し白くなった。
不当に。
その言葉が、胸の中を細い針で刺した。
自分は何をした。
大したことではない。
どこの会社にもあることだ。
佐藤だって文句を言わなかった。
そう言い訳が頭の中に並ぶ。
だが、その一つ一つが、内閣府という言葉の前で、急に薄っぺらく見えた。
応接スペースのガラス越しに、誠司が見えた。
相変わらず席に座り、伝票を確認している。
背中は少し丸い。
スーツも安っぽい。
何も変わっていないはずだった。
それなのに、矢沢にはもう同じ男には見えなかった。
佐藤誠司。
国家の重要事項。
内閣府。
その言葉が、矢沢の知っていた「使えない部下」という箱を内側から押し広げていた。
会話は三十分ほどで終わった。
内閣府の二人は、最後まで礼儀正しかった。
必要以上に声を荒げることもない。脅すようなことも言わない。だが、去った後の応接スペースには、誰かが重い石を置いていったような圧が残っていた。
総務部長はしばらく椅子に座ったまま、黙っていた。
矢沢も立てなかった。
ガラスの向こうで、フロアの社員たちが仕事を再開している。だが、普段より明らかに音が少ない。誰もが、何かを考えないようにしながら、考えている。
「矢沢さん」
総務部長が低い声で言った。
「佐藤くんへの対応、今後は慎重にお願いします」
「……はい」
「念のため、これまでの業務指示の記録も確認します」
矢沢の腹の奥が、冷たく沈んだ。
「記録、ですか」
「ええ」
総務部長は額の汗を拭った。
「国が絡むとなると、会社としても不用意なことはできません」
会社としても。
その言い方に、矢沢は自分が急に切り離される感覚を覚えた。
今までは、同じ会社の中で、同じ部署の空気に守られていた。だが、何かあれば、会社は自分一人を差し出すかもしれない。
そう思った瞬間、胃のあたりが重くなった。
矢沢は応接スペースを出た。
フロアへ戻ると、何人かがすぐに視線を逸らした。いつものように咳払いをして威圧しようとしたが、うまくいかなかった。喉が乾いて、声が出ない。
佐藤の席の前を通る。
誠司が顔を上げた。
二人の目が合った。
誠司の目に、勝ち誇った色はなかった。
責める色もなかった。
ただ、静かだった。
その静けさが、矢沢にはかえって耐え難かった。
「佐藤くん」
矢沢は何か言おうとした。
いつものように軽く刺す言葉を探した。
だが、何も出てこなかった。
誠司は小さく首を傾げた。
「はい」
「……いや」
矢沢は視線を逸らした。
「何でもない」
それだけ言って、自分の席へ戻った。
背中に、フロア中の視線が刺さっている気がした。
その日の午後、仕事はほとんど手につかなかった。
メールの文面を読んでも、内容が頭に入らない。資料の数字を見ても、すぐに佐藤誠司という名前が浮かぶ。電話に出ても、相手の話を何度も聞き返してしまう。
佐藤が、何をしている。
なぜ国が来る。
なぜあの男が。
夕方、窓の外が暗くなり始めた頃、矢沢はようやくパソコンを閉じた。蛍光灯の白い光が、疲れた目に刺さる。肩は重く、首の後ろには汗が乾いた不快な感触が残っていた。
帰り際、誠司の席を見る。
誠司は鞄を持ち、静かに立ち上がるところだった。
定時だった。
以前なら、矢沢は何かしら仕事を押しつけたかもしれない。
だが今日は、言えなかった。
誠司は軽く頭を下げた。
「お先に失礼します」
いつもの言葉だった。
だが、矢沢にはそれが、別の場所へ向かう合図のように聞こえた。
夜の用事。
深夜。
管理者。
矢沢の胸の奥で、嫌なものが静かに形を持ち始めた。
その夜、矢沢の家はいつも通り冷えていた。
玄関の灯りはついていたが、リビングから聞こえる家族の声は小さかった。妻は顔を上げずに「おかえり」とだけ言い、子どもはスマホを持って自室へ戻っていった。
食卓には冷めた惣菜と味噌汁が置かれていた。
矢沢は一人で箸を持った。
テレビでは、どこかのニュース番組が流れている。司会者の声が明るく、やけに遠い。窓の外では風が強くなっていた。ベランダに置かれた古い鉢植えの葉が揺れ、乾いた音を立てている。
食事の味は、ほとんどしなかった。
風呂にも入らず、自室へ入る。
机の上には、住宅ローンの明細と、未開封の封筒が置かれていた。蛍光灯をつけると、白い光が紙の上に落ちる。部屋の隅に埃が溜まっているのが見えた。
矢沢は椅子に座り、スマホを手に取った。
しばらく画面を見つめる。
指が動かない。
検索すれば、何かが見えてしまう気がした。
だが、見なければもっと気持ち悪い。
矢沢は検索欄を開いた。
ダンジョン 管理者
入力した文字が、白い画面に並ぶ。
検索結果が表示された。
国家級ダンジョンに謎の管理者は実在するのか。
深夜に活動者を救う見えない支援者。
安定値を操作する人物の噂。
矢沢の指が止まった。
喉が乾く。
記事を開く。
そこには、深夜帯にダンジョン内の異常が急速に収束した事例や、退避経路が突然開いたという証言が並んでいた。匿名の活動者が、光の筋が見えたと語っている。別の記事では、誰かが端末を通じて状況を見ているのではないかと書かれていた。
矢沢は画面をスクロールした。
文字が目に入ってくる。
深夜。
端末。
安定値。
救助。
最近の佐藤。
定時で帰る。
夜の用事。
顔色は悪いのに、目だけが落ち着いている。
内閣府ダンジョン対策室。
国家の重要事項。
矢沢の背筋に、冷たいものが走った。
「まさか」
声が漏れた。
部屋の中に、テレビの音は届かない。家族の声もしない。窓の外の風だけが、硝子をかすかに震わせていた。
「佐藤が……管理者?」
自分で言って、馬鹿馬鹿しいと思った。
ありえない。
あの佐藤だ。
会議でろくに発言もできず、伝票を処理しているだけの男。自分が何度も見下してきた男。替えが利くと言い続けてきた男。
だが、内閣府の男の声が耳から離れない。
国家の重要事項に関わる方ですので。
矢沢はスマホを机に置いた。
手が震えている。
指先が冷たい。
目の前の明細の数字がぼやけた。蛍光灯の光が白すぎて、部屋の隅の影が濃く見える。
「もし、本当だったら」
喉の奥がひりついた。
「俺は……」
言葉が続かなかった。
世界を支えているかもしれない人間に。
替えが利くと。
何度も。
言い続けていたのか。
矢沢浩二は、その夜眠れなかった。
布団に入っても、天井の暗がりを見つめるだけだった。窓の外で風が吹き、ベランダの葉が乾いた音を立てる。遠くで救急車のサイレンが小さく伸び、やがて消えた。
目を閉じるたび、佐藤誠司の背中が浮かぶ。
少し丸まった背中。
安いスーツ。
静かな目。
自分の言葉で崩れなくなった男。
「ありえない」
矢沢は暗闇の中で呟いた。
「ありえないだろ」
だが、その否定は夜の中に薄く溶けていくだけだった。
同じ頃。
佐藤家の玄関では、美咲が誠司を見送っていた。
外は冷えていた。街灯の光が濡れた道路に伸び、植え込みの草が夜風に揺れている。葉が擦れる乾いた音が、静かな住宅街に小さく響いた。
「行ってらっしゃい」
美咲が言った。
誠司は靴紐を確かめ、鞄を持ち直した。
「ああ」
美咲は、少しだけ息を吸う。
「帰ってきてね」
誠司は振り返った。
廊下の明かりが、美咲の頬を柔らかく照らしていた。その目にはまだ不安があった。けれど、それだけではなかった。
「必ず」
誠司は答えた。
「行ってきます」
玄関の扉が開く。
夜風が入り込み、家の中の温かい空気を少し揺らした。
誠司は外へ出た。
扉が閉まる直前、美咲の小さな声が聞こえた。
「待ってるから」
誠司は夜道を歩き出した。
革靴が濡れたアスファルトを叩く。こつ、こつ、と音が住宅街の静けさに伸びていく。遠くの駅へ向かう道の先で、赤い信号が小さく灯っていた。
世界を支える男は、今夜も誰にも知られず、赤いランプを消しに行く。
けれど、その「誰にも知られず」は、もう薄くひび割れ始めていた。
夜風が吹いた。
草が一斉に揺れ、湿った葉の先から水滴が落ちた。
その小さな音を背に、誠司は地下へ向かって歩き続けた。




