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減給された40代社畜、深夜バイトで国家級ダンジョンの管理者になる  作者: Gaku
第1部:深夜バイト編

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39/79

第39話 わたし、調べたの

日曜日の夜は、いつもより少しだけ静かだった。


 昼間に降った雨は夕方には上がっていたが、ベランダの手すりにはまだ細かな水滴が残っている。街灯の光を受けたそれらは、黒い夜の中で小さく白く光っていた。窓の外では、濡れたアスファルトを車が通り過ぎるたび、しゃあ、と薄い水を裂く音がする。


 カーテンの隙間から入る風は冷たく、レースの布をほんの少しだけ揺らしていた。


 リビングには、湊が昼間に出しっぱなしにしたブロックが一つ、ソファの下に転がっていた。陽菜のヘアゴムがテーブルの端に置かれている。ランドセルから抜き忘れたプリントが、棚の上で少し丸まっていた。


 いつもの家だった。


 だからこそ、誠司はそこに座っているだけで胸が苦しかった。


 深夜の勤務がない夜。


 本来なら、久しぶりに家族とゆっくり過ごせるはずだった。夕飯の時、湊は学校で飼っているメダカの話をしていた。陽菜は図工で作った箱がうまく閉まらないと文句を言いながら、結局自分で笑っていた。美咲はそれを聞きながら、味噌汁をよそっていた。


 何でもない時間。


 壊したくない時間。


 それなのに、誠司の胸の奥にはずっと、赤い警告の光が残っていた。


 D-7区画の二つの光点。


 効率のために後回しにされかけた命。


 最後の一人が出口へ触れた瞬間、全身の力が抜けた感覚。


 そして、画面の向こうにいる誰かの顔。


 玲奈。


 犬飼。


 まだ会ったことのない二人。


 自分の中で、もうそれらはただの点ではなくなっていた。


 誠司は湯呑みを両手で包んだ。中のお茶はもうぬるい。指先に伝わる熱は弱く、かえって手の冷たさがはっきりした。


 リビングの時計が、静かに秒を刻んでいる。


 かち、かち、かち。


 子ども部屋の方から、湊が寝返りを打つ小さな音がした。少し遅れて、陽菜の寝息が廊下の暗がりに溶けるように聞こえた。


 その音を確かめるように、美咲が廊下から戻ってきた。


 髪をゆるく後ろでまとめ、部屋着の袖を手首まで下ろしている。いつもなら、子どもたちが寝た後に少しだけテレビをつける。洗濯物を畳みながら、明日の朝食の話をして、買い足すものをスマホにメモする。


 だが今夜、美咲はテレビのリモコンに手を伸ばさなかった。


 静かに、テーブルの向かいに座った。


 誠司はその動きだけで、胸の奥が固くなるのを感じた。


「誠司さん」


 美咲の声は落ち着いていた。


 落ち着きすぎていて、かえって怖かった。


「うん」


「少し、話したいことがあるの」


 誠司の喉が鳴った。


 湯呑みを持つ手に、じわりと汗が滲む。ぬるくなった陶器の表面が、急に滑りやすく感じた。


「……何?」


 美咲はすぐには答えなかった。


 テーブルの上に、スマホを置いた。


 かたり、という小さな音が、リビングにやけに大きく響いた。


 画面はすでに開かれていた。


 そこには検索結果が並んでいた。


 ダンジョン。


 管理者。


 安定値。


 深夜。


 救助。


 誠司の視線が、その文字列に縫い止められた。


 胸の奥が一瞬で冷える。


 空調の風も、窓の隙間から入る夜気も関係なく、背中に細い汗が流れた。


「わたし、調べたの」


 美咲は言った。


 その声は震えていなかった。


「あなたのこと」


 誠司は息を吸おうとした。


 だが、肺がうまく広がらなかった。


 言葉が出てこない。


 美咲はスマホの画面を見ず、誠司だけを見ていた。


「最初は、まさかって思った」


 窓の外で車が一台通り過ぎた。


 濡れた路面をタイヤが叩き、遠ざかっていく音が、二人の間の静けさに細く尾を引いた。


「うちの旦那が、そんなことに関わってるわけないって」


 美咲の口元が、ほんの少しだけ歪んだ。


 笑おうとしたのかもしれない。


 でも、笑顔にはならなかった。


「だって、あなたは普通の会社員でしょ。朝、眠そうな顔で出ていって、夜には疲れて帰ってきて、湊の宿題を見ながら一緒に眠くなって、陽菜に『パパ、ちゃんと聞いてる?』って怒られる人でしょ」


 誠司は目を伏せた。


 その通りだった。


 そのはずだった。


「でも」


 美咲の声が少し低くなった。


「繋がっちゃったの」


 時計の秒針がまた一つ進む。


 かち。


「寝言で言ってた『安定値』」


 誠司の指が微かに動いた。


「深夜のバイトから帰ってきた時の、地下みたいな匂い」


 美咲は一つずつ、逃げ道を塞ぐように言葉を置いていった。


「手の荒れ方。目の充血。鼻血。何かを隠してる顔。わたしが聞くと、言いたそうにするのに、最後は飲み込むところ」


 誠司の胸が、痛いほど締めつけられた。


 見られていた。


 ちゃんと。


 自分が隠せていると思っていたものは、美咲の目の前にずっと落ちていた。


「ニュースや掲示板で、深夜に誰かがダンジョンの中の人たちを助けてるって話が出てた」


 美咲はスマホへ視線を落とした。


「管理者って呼ばれてた」


 その言葉が、リビングの空気を変えた。


 家の中にあるはずのない、地下施設の冷たい光が差し込んだようだった。


「最初は、ただの噂だと思った。でも、記事を読むほど、あなたのことが浮かんだ。あなたが深夜に出ていくようになった時期。帰ってきた時の顔。会社で減給された後、ずっと消えかけてた目が、最近少しだけ違って見えたこと」


 誠司は顔を上げた。


 美咲の目は赤くなっていた。


 でも、涙はまだこぼれていない。


 こぼさないように、必死に堪えている目だった。


「誠司さん」


 美咲はゆっくり言った。


「あなた、その管理者なんでしょう」


 部屋の音が消えた。


 時計の秒針も、外の車の音も、冷蔵庫の低い唸りも、一瞬すべて遠のいた。


 誠司の耳に残ったのは、自分の浅い呼吸だけだった。


 胸が上下する。


 けれど空気が足りない。


 美咲は黙って待っていた。


 急かさない。


 責めない。


 ただ、逃げない目で誠司を見ていた。


 誠司は湯呑みから手を離した。


 指先に汗が残っている。膝の上で拳を握る。爪が手のひらに食い込んだ。


 言えない。


 そう思ってきた。


 守らなければいけない。家族を巻き込みたくない。美咲を不安にさせたくない。そう言い聞かせてきた。


 でも、本当は怖かった。


 全部話した時、美咲の目が変わることが。


 自分を責めること。


 危ないからやめてと言われること。


 そして、それでもやめられない自分を見せること。


 沈黙が長く伸びた。


 重い沈黙だった。


 テーブルの上のスマホが、黒い画面のまま光を失っている。窓の外で、風がベランダの物干し竿をかすかに鳴らした。細い金属音が一度だけ響き、また消えた。


 誠司は唇を開いた。


 声はすぐには出なかった。


 一度、息を吐く。


 もう一度、美咲を見る。


 そして、逃げることをやめた。


「……ああ」


 掠れた声だった。


 それでも、はっきりと言った。


「そうだ」


 美咲の目が、わずかに揺れた。


 誠司は拳を緩めた。


「俺が、管理者だ」


 言った瞬間、胸の奥で何かが崩れた。


 楽になったわけではない。


 むしろ、隠していたものがすべて床にこぼれ落ちたようで、息が詰まった。


 美咲は何も言わない。


 誠司は続けた。


「黙ってて、ごめん」


 声が震えた。


「守秘義務があって、本当に言えなかった。誰にも言うなって言われてた。君にも、子どもたちにも」


 美咲の指が、テーブルの上で小さく動いた。


「でも……それだけじゃない」


 誠司は目を伏せた。


「俺も、怖かった」


 リビングの空気が、少しだけ深くなった。


「君に知られるのが怖かった。危ないことをしてるって思われるのが怖かった。止められた時、自分がどうするのかも怖かった」


 美咲の唇が震えた。


「やめられないの?」


 静かな問いだった。


 誠司はすぐに答えられなかった。


 玲奈が頭を下げた姿。


 犬飼が泣きながら礼を言った顔。


 D-7区画から出た二つの光点。


 全部が胸の中で重なった。


「……今は」


 誠司はゆっくりと言った。


「やめられない」


 美咲の目から、涙が一粒こぼれた。


 頬を伝って、顎の先で止まる。


 それでも彼女は、目を逸らさなかった。


 誠司はその涙を見て、胸が裂けるようだった。


「ごめん」


「謝らないで」


 美咲の声が、少しだけ強くなった。


 誠司は言葉を止めた。


 美咲は涙を拭かなかった。


「謝られると、余計に怖くなる」


 その言葉に、誠司は何も返せなかった。


 美咲は深く息を吸った。


 肩が小さく上下する。


「全部、話して」


 誠司の心臓が強く打った。


「美咲」


「わたし、自分で調べた。でも、わからないことだらけなの」


 美咲はスマホを伏せた。


 画面がテーブルに隠れ、リビングに少しだけ暗さが戻る。


「だから、あなたの口から聞きたい」


 誠司は美咲を見た。


 その目は、不安で揺れていた。


 怖がっていた。


 それでも、逃げていなかった。


「嘘じゃなくて」


 美咲の声が震えた。


「全部」


 誠司の喉の奥が熱くなった。


 あの日、自分は言った。


 全部は言えない。でも嘘はつきたくない。


 その言葉が、今ここへ戻ってきていた。


 誠司はゆっくり頷いた。


「わかった」


 リビングの時計が、また一つ秒を刻む。


 かち。


 美咲は両手を膝の上で握りしめた。


 誠司は深く息を吸った。


 地下施設の匂いが、記憶の中で蘇る。


 冷たい廊下。


 青白い端末の光。


 コトリの声。


 赤い警告。


 見えない場所で助けを待つ人たち。


 そして、自分の手で開けた道。


「最初は」


 誠司は、ゆっくり話し始めた。


「本当に、ただの深夜バイトだと思ってたんだ」


 美咲は黙って聞いていた。


 風が窓を撫でる。


 カーテンの裾が、わずかに揺れる。


 佐藤家のリビングに、長く隠されてきた夜の話が、初めて流れ込み始めた。


誠司は、少しずつ話した。


 地下施設に初めて連れていかれた日のこと。


 何もわからないまま端末の前に座らされ、画面に並ぶ数字を直していったこと。


 最初は本当に、ただのデータ入力だと思っていたこと。


 赤い警告が消えるたび、誰かの命がつながっていたと、後から知ったこと。


 美咲は一度も遮らなかった。


 リビングの時計だけが、規則正しく秒を刻んでいる。子ども部屋の方から、小さな寝息が聞こえる。窓の外では、濡れた道路を車が通るたび、夜の水音が薄く流れていった。


 誠司の声は何度も詰まった。


 コトリのことを話す時、うまく説明できず、何度も言い直した。端末に宿る声のようなもの。自分を管理者と呼ぶ存在。数字だけでは見えない場所を、こちらへ伝えてくれる相手。


 美咲は眉を寄せたが、笑わなかった。


 馬鹿にもしなかった。


 ただ、わからないものをわからないまま飲み込もうとするように、両手を強く握って聞いていた。


 誠司は、玲奈のことも話した。


 黒髪を束ねた女性が、深く頭を下げたこと。かつて自分が開いた退避経路で帰れた一人だったこと。三年前に仲間を失い、その痛みを抱えたまま、それでも「ありがとう」と言ってくれたこと。


 話しているうちに、あの会議室の白い光がまぶたの裏に戻ってきた。


 玲奈の震えた声。


 観葉植物の葉が空調に揺れる小さな音。


 ただの数字だと思っていた光点が、人の顔を持った瞬間。


 美咲は黙って聞いていた。


 その目から、また涙がこぼれた。


 誠司は続けた。


 犬飼陸斗のこと。


 暗闇の中で光を見つけた若者。端末越しに届いた「ありがとうございます」という声。直接会った時、彼が泣き崩れたこと。自分のことを、思わず親父と呼んだこと。


 そこまで話した時、美咲の指が小さく震えた。


「その子、まだ若いんだよね」


「十九歳だって」


 美咲は唇を噛んだ。


「陽菜や湊も、いつかそれくらいになるんだね」


 誠司は何も言えなかった。


 そうだった。


 犬飼は、誰かの子どもだった。


 玲奈も、誰かの大切な人だった。


 D-7区画で救った二人も、きっとそうだ。


 画面に映る光点は、どこかの家の食卓へ帰るはずの人たちだった。


 誠司は、ミラージュのことも話した。


 外部から入ってきた新しい制御システム。


 自分より速く、滑らかに数値を処理したこと。


 けれど、D-7区画に二人が取り残された時、その二人を後回しにしたこと。


 話しているうちに、誠司の声が低くなった。


「効率が悪いって判断されたんだ」


 美咲の表情が変わった。


「人がいたのに?」


「ああ」


「二人も?」


「ああ」


 美咲は、ゆっくり息を吸った。


 その息が、少し震えていた。


「それで、あなたが助けたの」


「助けた、というか……制御を取り返して、道を作った」


「同じことだよ」


 美咲の声は静かだった。


「助けたんだよ」


 誠司は目を伏せた。


 湯呑みの中のお茶は、もう完全に冷めていた。表面にリビングの照明がぼんやり映っている。その揺れない光を見ていると、端末の青白い画面が重なって見えた。


「怖かった」


 誠司は言った。


「本当に怖かった。間に合わなかったらどうしようって。自分の判断で余計に悪くしたらどうしようって。でも、置き去りにはできなかった」


 美咲は、そこでようやく涙を拭いた。


 指先で頬を拭い、少し赤くなった目で誠司を見た。


「鼻血のことも、話して」


 誠司の肩がわずかに揺れた。


 そこは、できれば避けたかった。


 だが美咲の目は逃がしてくれなかった。


 誠司は、ゆっくり頷いた。


「何度か、無理をした。頭が痛くなったり、目が赤くなったり、鼻血が出たりした」


 美咲の顔から血の気が引いた。


「病院は?」


「一応、施設側では見てもらってる」


「一応じゃなくて」


 美咲の声が強くなった。


 子どもたちが起きないように、すぐに抑えた声だった。それでも、その奥にある怒りと恐怖は隠せなかった。


「一応じゃ、だめでしょ」


「……ごめん」


「だから、謝らないでって言った」


 美咲は両手で自分の口元を覆った。


 肩が震える。


 さっきまで必死に保っていたものが、そこで崩れかけていた。


「怖い」


 その声は、小さかった。


「すごく怖い」


 誠司は何も言えなかった。


 美咲は涙をこぼしながら、言葉を絞り出した。


「あなたが知らないところで危ない目に遭ってるのも怖い。誰かを助けてるのに、あなた自身が壊れていくかもしれないのも怖い。ある日、朝になっても帰ってこなかったらどうしようって考えたら、息ができなくなる」


 リビングの空気が重く沈んだ。


 冷蔵庫の低い音が、やけに遠く聞こえる。窓の外で風が吹き、ベランダの物干し竿がかすかに鳴った。その細い金属音が、胸の奥に引っかかった。


 誠司は、美咲の手に触れた。


 彼女の手は冷たかった。


「ごめ……」


 言いかけて、誠司は言葉を止めた。


 美咲が目を伏せる。


 誠司は言い直した。


「怖がらせてるんだな」


 美咲は小さく頷いた。


「うん」


 それだけだった。


 責める言葉ではなかった。


 だからこそ、痛かった。


 誠司は美咲の手を両手で包んだ。


 冷たい指先に、自分の体温が少しずつ移っていく。その間も、美咲の涙は静かに落ち続けた。


「でも」


 美咲は、濡れた目で誠司を見た。


「あなた、その仕事をしてる時、目が生きてるの」


 誠司は息を止めた。


「会社で減給されて、ため息ばっかりついてた頃のあなたとは違う」


 その言葉は、柔らかいのに逃げ場がなかった。


「あの頃のあなた、家にいても、どこか遠くにいた。笑ってても、半分くらい消えてるみたいだった」


 美咲は涙を拭った。


「でも最近、疲れてるのに、ぼろぼろなのに、目だけは前よりちゃんとここにある」


「美咲……」


「誰かを助けられるあなたは」


 美咲の声が震えた。


「たぶん、本当のあなたなんだと思う」


 誠司の視界が滲んだ。


 自分では、そんなふうに思ったことはなかった。


 会社で無能扱いされて、減給されて、家族に申し訳なくて、ただ流されるように生きてきた。自分には特別な力などない。誰かに誇れるものもない。そう思っていた。


 だが美咲は、ずっと見ていた。


 消えかけていた自分も。


 少しずつ戻ってきた自分も。


 全部。


「だから」


 美咲は、誠司の手を握り返した。


 その力は強かった。


「全部、助けようとしなくていい」


 誠司の胸が、強く鳴った。


「あなたが倒れたら意味がないから。あなたが帰ってこなかったら、わたしも、陽菜も、湊も困るから」


 美咲の目から、また涙がこぼれた。


 それでも彼女は、まっすぐに誠司を見ていた。


「でも」


 声が、少しだけ深くなる。


「あなたが助けたいと思ったものまで、諦めないで」


 誠司は、言葉を失った。


 その一言が、胸の奥に深く沈んだ。


 許されたわけではない。


 無茶をしていいと言われたわけでもない。


 けれど、美咲は誠司の中にあるものを、壊さずに支えようとしていた。


 怖いと言いながら。


 泣きながら。


 それでも、止めるのではなく、帰ってくることを条件に送り出そうとしていた。


「わたしは」


 美咲は、涙を流したまま微笑んだ。


「そういうあなたと結婚したんだから」


 誠司の中で、何かがほどけた。


 堪えていたものが、目の奥からあふれた。


「美咲」


 声が震えた。


「ありがとう」


 それ以上は続かなかった。


 誠司は両手で美咲の手を握ったまま、頭を下げた。涙が膝の上に落ちる。情けないと思う余裕もなかった。ただ、胸の奥に溜まっていた重さが、少しずつ涙になって外へ出ていくようだった。


 美咲も泣いていた。


 二人とも、しばらく動けなかった。


 リビングには、静かな時間が流れていた。


 時計の秒針。


 子どもたちの寝息。


 窓の外で風に揺れる雨上がりの葉の音。


 そのすべてが、二人の沈黙を包んでいた。


 やがて誠司は、ゆっくり顔を上げた。


「一つ、約束する」


 美咲は涙を拭きながら、誠司を見た。


「何?」


「無理はしない」


 美咲の眉が少し動いた。


 誠司は逃げずに続けた。


「いや、無理をまったくしないって言ったら、たぶん嘘になる。危ない時は、無理をしなきゃいけないかもしれない」


 美咲は黙っていた。


「でも、倒れる前に、ちゃんと休む。体がおかしい時は隠さない。鼻血も、頭痛も、目のことも、ちゃんと話す」


 美咲の唇が震えた。


「本当に?」


「本当に」


「勝手に抱え込まない?」


「抱え込まない」


「わたしに、ちゃんと言う?」


「言う」


 美咲は、そこで初めて小さく息を吐いた。


 それは安心ではなかった。


 不安が少しだけ形を変えた息だった。


 誠司は続けた。


「君と、陽菜と、湊のところに、必ず帰る」


 美咲は目を閉じた。


 頬に残った涙が、リビングの明かりに小さく光る。


「うん」


 彼女は頷いた。


「待ってる」


 その声は、静かだった。


「いつもみたいに、朝ごはん作って待ってる」


 誠司はまた泣きそうになった。


 朝ごはん。


 味噌汁の匂い。


 卵を焼く音。


 陽菜が髪を結びながら文句を言う声。


 湊が半分寝たまま椅子に座る姿。


 それは、誠司が帰る場所そのものだった。


「行ってらっしゃいって言うから」


 美咲は言った。


「帰ってきてねって、毎回言うから」


「ああ」


「それを、ただの挨拶だと思わないで」


 誠司は強く頷いた。


「わかった」


 美咲はようやく、少しだけ笑った。


 泣き疲れた顔の中に浮かんだ、小さな笑みだった。


「じゃあ、約束」


 彼女が小指を差し出した。


 誠司は一瞬、驚いた。


 それから、少しだけ笑って自分の小指を絡めた。


 子どもじみた仕草だった。


 だが、その約束は、どんな書類より重かった。


 窓の外で風が止んだ。


 雨粒を残した葉が、しばらく揺れずにいた。


 リビングの中には、夫婦二人の静かな呼吸だけがあった。


 秘密は、もう二人の間に横たわってはいなかった。


 消えたわけではない。


 危険も、不安も、これから来る夜も、何一つなくなってはいない。


 それでも、美咲は知った。


 誠司がどこへ行っているのか。


 何を背負っているのか。


 どんな顔で、人を帰そうとしているのか。


 そして誠司も知った。


 一人で抱え込まなくていいことを。


 家に帰れば、待っている人がいることを。


 翌朝。


 台所から、味噌汁の匂いがした。


 カーテンの隙間から差し込む朝の光が、床に細長く伸びている。空気中の埃がその光を受けて、ゆっくり漂っていた。窓の外では、雨に洗われた葉が朝日に濡れて光っている。風が通るたび、葉先の水滴が一つ落ち、ベランダの床に小さな音を立てた。


 誠司がリビングへ入ると、美咲が振り返った。


 目元は少し赤い。


 それでも、いつものようにエプロンをつけ、湊の茶碗にご飯をよそっていた。


 陽菜が眠そうに髪を直し、湊が椅子の上であくびをしている。


「おはよう」


 美咲が言った。


「おはよう」


 誠司は答えた。


 その声を聞いて、美咲はほんの少しだけ頷いた。


 朝食の湯気が、柔らかく立ち上る。


 何もかもが元通りではない。


 けれど、崩れてもいなかった。


 誠司は席に着き、味噌汁の椀を両手で包んだ。


 温かかった。


 その温度を、胸の奥へゆっくり沈める。


 夜が来れば、また地下へ行く。


 赤い警告が灯るかもしれない。


 白瀬という男の視線が、知らないところでこちらへ向いていることを、誠司はまだ知らない。


 それでも、今は朝だった。


 家族の声があった。


 帰る場所があった。


 美咲が、台所から静かに言った。


「今日も、行ってらっしゃい」


 誠司は顔を上げた。


 その言葉の重さを、もう昨日までのようには聞けなかった。


「ああ」


 誠司は頷いた。


「行ってきます」


 美咲は、まっすぐに誠司を見た。


「帰ってきてね」


 誠司は、もう一度頷いた。


「必ず」

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