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減給された40代社畜、深夜バイトで国家級ダンジョンの管理者になる  作者: Gaku
第1部:深夜バイト編

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第38話 ミラージュ

高層ビルの窓には、夜の東京が無数の光となって映っていた。


 地上を走る車の列は、細い川のように流れている。赤い尾灯と白い前照灯が交互に揺れ、交差点で一度止まり、また音もなく動き出す。遠くのビル群は黒い影になり、その輪郭だけが窓ガラスの向こうで静かに浮かんでいた。


 部屋の中は暖かかった。


 厚い絨毯が足音を吸い、壁際の照明が琥珀色の光を落としている。磨かれた長いテーブルの上には、白い皿と銀のナイフが整然と並び、冷えた水の入ったグラスが小さく光っていた。空調はほとんど音を立てず、花瓶に生けられた白い花の香りだけが、乾いた空気の中に薄く漂っている。


 その静けさの中央で、白瀬総一郎は微笑んでいた。


 無駄のない仕立てのスーツ。整えられた髪。指先の動きまで計算されたような落ち着き。向かいに座る男へ視線を向ける時も、笑みの深さは変わらない。


「三神先生。現在の管理体制について、率直に申し上げます」


 白瀬の声は低く、穏やかだった。


「危うい状態です」


 向かいの男――三神は、グラスを持ったまま目だけを動かした。年齢を重ねた顔には、簡単には感情を読ませない厚みがある。けれど、その目の奥には、利益の匂いを嗅ぎ分ける獣のような鋭さがあった。


「危うい、か」


「はい」


 白瀬は薄い端末をテーブルに置いた。


 画面には、国家級ダンジョンの管理に関する資料が表示されている。細かな数字と図が並んでいるが、白瀬はそこへ深く触れなかった。必要なのは説明ではない。相手に不安を抱かせることだった。


「一人の民間人に、国家の安全が左右されている」


 静かな声だった。


 だが、その言葉が置かれた瞬間、部屋の温度がわずかに下がったように感じられた。


「その人物が倒れたらどうするのです。買収されたら。家族を人質に取られたら。あるいは、本人が明日突然、もうやめると言い出したら」


 三神はグラスを置いた。


 氷が一つ、内側で小さく鳴った。


「管理者と呼ばれている人物だな」


「ええ」


「身元は伏せられていると聞いている」


「国家としては当然でしょう。ですが、伏せられているからこそ問題でもあります。誰なのかもわからない人間に、あまりにも大きなものを預けている」


 白瀬はそこで一拍置いた。


 窓の外で、航空灯が赤く点滅している。暗い空に一度浮かび、また消える。その小さな赤い光が、白瀬の横顔を一瞬だけ縁取った。


「我々には、ミラージュがあります」


 三神の目がわずかに動いた。


「例の自動制御システムか」


「はい。疲れません。迷いません。二十四時間、同じ精度で動き続けます」


「人間より確実だと?」


「少なくとも、人間の体調や感情に左右されることはありません」


 白瀬は微笑んだ。


 その笑みは、柔らかい光の中にあっても少し冷たかった。


「国家に必要なのは、英雄ではありません。止まらない仕組みです」


 沈黙が落ちた。


 給仕の姿もない。遠くの都市の音も、厚いガラスに遮られてここまでは届かない。花の香りと、グラスの中で溶けていく氷の微かな音だけが、二人の間に残った。


 三神は椅子の背にもたれた。


「実際に動くところを見たい」


 白瀬は、待っていた言葉を聞いた時のように、わずかに顎を引いた。


「もちろんです」


「本当にその管理者の代わりになるのか。そこを見せてもらわなければ、こちらも動きにくい」


「明日の深夜、一部区画で試験運用を行えるよう、許可をいただきたい」


 三神は窓の外を見た。


 黒いガラスに、自分の顔と白瀬の顔が並んで映っている。


「被害は出ないな」


「出しません」


 白瀬は即答した。


 あまりにも滑らかな返答だった。


 三神はその顔を横目で見た。


「ならば、準備しろ」


「ありがとうございます」


 白瀬は深く頭を下げた。


 その姿勢は礼儀正しく、完璧だった。


 だが、頭を上げた時、その目には別の光が宿っていた。


 窓の外で、また赤い航空灯が瞬いた。


 夜の街は、何も知らずに輝いていた。


 翌日の深夜。


 誠司はいつもの端末室にいた。


 地下へ続く通路を歩く時、壁の照明がいつもより冷たく感じられた。足元から響く革靴の音が、細い廊下に伸びていく。こつ、こつ、と一定の間隔で鳴るその音に、自分の心拍が少しずつ重なっていった。


 玲奈の声。


 犬飼の涙。


 親父、とこぼれた小さな声。


 ここへ来る途中、誠司は何度もそれらを思い出していた。会社ではいつも通り伝票を処理し、矢沢から細かい雑務を押しつけられ、昼にはコンビニのおにぎりを食べた。何も変わらない一日だった。


 それでも、胸の中は昨日までと違っていた。


 光点の向こうには、人がいる。


 その当たり前のことが、今は指先にまで染み込んでいる気がした。


 端末室の扉を開けると、薄暗い部屋の中で複数の画面が待っていた。


 青白い光が机を照らしている。椅子の背もたれ。キーボードの角。壁際に置かれた機材の輪郭。空調の風が低く唸り、紙の資料の端をかすかに揺らしていた。


 誠司は椅子に座り、息を整える。


「コトリ、入るよ」


 画面が明るくなった。


『お待ちしていました、誠司』


 いつもの声だった。


 無機質で、けれどどこか自分の呼吸を知っているような声。


 誠司は少しだけ安心した。


「今日も頼む」


『はい』


 その直後だった。


 画面の上部に、見慣れない通知が浮かび上がった。


【本日、D区画の制御を外部システムが一時的に担当します】


 誠司は眉を寄せた。


「外部システム?」


 さらに文字が続く。


【管理者は待機してください】


 待機。


 その二文字が、妙に冷たく見えた。


 誠司は背筋を伸ばした。


「コトリ、これは何だ?」


 返答まで、ほんのわずかな間があった。


 その間の短さが、逆に誠司の不安を強めた。


『D区画の制御権が、外部システムへ移されました』


「誰がそんなことを」


『上位承認による試験運用です。外部システム名は、ミラージュ』


 画面の隅に、新しい表示が現れた。


【MIRAGE:接続中】


 白い文字が、黒い背景の上で静かに点滅している。


 誠司はその文字を見つめた。


 背中に冷たいものが流れた。


「ミラージュ……」


『応答の一部が、私と酷似しています』


 コトリの声はいつも通りだった。


 だが誠司には、その奥にごく薄い警戒のようなものがあるように聞こえた。


「似てるって、どういうことだ」


『言葉の選び方、優先順位の組み方、反応速度に共通点があります。ただし、判断の方向が異なります』


「判断の方向?」


『ミラージュは効率を最優先するようです』


 効率。


 誠司はその言葉に、わずかに目を細めた。


 会社でも、よく聞く言葉だった。時間の効率。人員の効率。費用の効率。どれも大事なのだろう。だが、その言葉の陰で誰かの負担が見えなくなる瞬間を、誠司は何度も見てきた。


 画面にはD区画の地図が表示されていた。


 ミラージュの動きは速かった。


 複数の数値が同時に補正され、細かな警告が次々と消えていく。誠司が一つずつ確認しながら進める場所を、ミラージュは迷いなく処理していった。通路の安定値、壁面の状態、圧力の揺れ。どれも滑らかに整えられていく。


「……すごいな」


 誠司は思わず呟いた。


 自分より速い。


 それは認めるしかなかった。


 画面の中では、D区画全体の状態が安定しているように見えた。警告は少ない。数値の上では順調だった。


 だが、コトリは黙っていた。


 その沈黙が、誠司を落ち着かなくさせた。


「コトリ?」


『監視を継続してください』


 短い言葉だった。


 誠司は画面へ視線を戻した。


 その時、D-7区画の端に黄色い点滅が現れた。


 小さな警告。


 最初は、本当に小さなものだった。


【D-7区画 安定値低下】


 誠司は身を乗り出した。


 D-7区画内に、二つの光点があった。


 登録活動者、二名。


 その表示を見た瞬間、玲奈と犬飼の顔が頭に浮かんだ。


 光点ではない。


 人だ。


「ミラージュは?」


 画面に、冷たい文字が流れた。


【D-7区画:対応優先度低】


 誠司の喉が乾いた。


「低い?」


 安定値が、また一つ下がった。


【D-7区画 安定値:89%】


 黄色だった警告が、赤みを帯び始める。


 誠司の指先に汗が滲んだ。


「コトリ、なんで対応しない」


『ミラージュは、他区画の安定維持を優先しています』


「でも、ここに人がいる」


『はい』


「二人いるんだぞ」


『はい』


 画面に、ミラージュの判断が短く表示された。


【救出効果:限定的】


【他区画維持:優先】


 誠司の呼吸が止まった。


 椅子の下で、足先が冷たくなる。


 耳の奥で、自分の心臓の音が大きくなっていく。


 どくん。


 どくん。


 画面の中で、二つの光点が赤い警告の中に取り残されていた。


 誠司の脳裏に、犬飼の声が響いた。


 あの光、俺には道だったんです。


 玲奈の声が続く。


 あなたは、安全な道を選んでくれました。


 誠司は、キーボードに手を置いた。


 指が震えていた。


 怒りなのか、恐怖なのか、自分でもわからなかった。


「人がいるのに」


 声が低くなった。


「後回しにするのか」


 画面には、何の感情もない文字だけが並んでいた。


【D-7区画 安定値:87%】


【区画内人員:2名】


【対応保留】


 誠司の額に、冷たい汗が浮いた。


 空調の風が、その汗を一瞬で冷やす。


 背筋がぞくりとした。


 ミラージュは速い。


 正確なのかもしれない。


 けれど、今この瞬間。


 あの二人を、見ていない。


 誠司は椅子を引いた。


 脚が床を擦り、硬い音が端末室に響いた。


「コトリ」


『はい』


「D区画の制御権、俺に戻せるか」


 画面の青白い光が、誠司の顔を照らしていた。


 そこに映る目は、さっきまでの迷う中年男のものではなかった。


『管理者権限による強制奪還が可能です。ただし、外部システムとの競合が発生します』


 競合。


 難しいことはわからない。


 ただ一つだけ、誠司にもわかることがあった。


 このままでは、二人が取り残される。


 誠司は、震える指を強く握った。


「やる」


 赤い警告が、さらに濃くなった。


【D-7区画 安定値:85%】


 端末室の空気が、急に重くなった。


 外の世界の音は届かない。


 聞こえるのは、空調の唸りと、自分の浅い呼吸だけだった。


 誠司は画面を睨みつけた。


「人の命を、後回しにするな」


 その声は低く、狭い部屋の中で静かに響いた。


「人の命を、後回しにするな」


 誠司の声が、端末室の壁に低く沈んだ。


 返事はない。


 ただ、画面の中で赤い警告が点滅していた。一定の間隔で光り、消え、また光る。そのたびに、端末室の薄暗い壁が赤く染まった。机の端に置かれた紙の角まで、血のような色を帯びて見える。


【D-7区画 安定値:84%】


【区画内人員:2名】


【外部制御:対応保留】


 誠司は奥歯を噛んだ。


「コトリ、強制で戻す」


『管理者権限を確認します』


 画面の文字が走る。


 誠司の指がキーの上を動いた。いつもなら一つ一つ確認してから押す。けれど今は、遅すぎる確認は命を削る。雑に押してはいけない。焦ってもいけない。だが、止まるわけにはいかなかった。


 額から汗が落ちた。


 頬を伝い、顎の先で止まり、ぽたりと机に落ちる。


 その小さな音さえ、やけに大きく聞こえた。


『外部制御と競合します』


「わかってる」


『負荷が上昇します』


「わかってる!」


 誠司は声を荒げた。


 その瞬間、自分でも驚いた。


 端末室に、自分の声が跳ね返る。息が荒い。喉が乾いている。背中は汗で濡れているのに、指先だけが冷たい。


 だが、迷いはなかった。


 玲奈が見た星空。


 犬飼が見た光の筋。


 その先に帰った人たちの顔が、今ははっきりと浮かぶ。


 画面の中の二つの光点にも、きっと名前がある。


 家に帰れば、誰かが待っているかもしれない。明日の朝、何気なく交わすはずの言葉があるかもしれない。まだ食べていない夕飯があるかもしれない。洗濯物を畳みながら文句を言う家族がいるかもしれない。


 それを、効率の一言で閉じ込めていいはずがない。


『管理者権限、受理』


 画面の中央に、白い文字が浮かんだ。


【D区画制御権:強制奪還】


 次の瞬間、端末全体が低く唸った。


 床の下から振動が伝わる。机の上のペンがかすかに転がり、モニターの光が一瞬乱れた。D区画の地図に、細い線が何本も走る。ミラージュの白い表示と、誠司側の青い表示が重なり、ぶつかり、弾けるように点滅した。


『外部制御が抵抗しています』


「押し戻せるか」


『可能です。ただし、操作は誠司が行う必要があります』


「やる」


 誠司はD-7区画を拡大した。


 通路の一部が不安定になっている。壁面の圧力が上がり、退避経路の一つが塞がりかけていた。二つの光点は、奥の袋小路に近い場所で止まっている。


 誠司は息を吸った。


 短く、深く。


 まず、D-7中央部の安定値を上げる。


 一気に上げない。


 急に押し上げれば、隣接する壁が歪む。焦りで指が滑りそうになるのを、誠司は必死に押さえた。


「八十六……八十八……九十……」


 数値が少しずつ上がる。


 だが、同時に別の場所が揺れる。


【側道B 閉塞率上昇】


「そこじゃない」


 誠司は歯を食いしばった。


 閉じかけている側道ではなく、まだ息をしている通路を使う。遠回りでもいい。時間がかかってもいい。安全に通れる道を作る。


 犬飼の声が胸の奥で響く。


 あの光、俺には道だったんです。


「道を作る」


 誠司は呟いた。


「帰れる道を」


 キーを叩く音が速くなる。


 かた、かた、かた。


 乾いた音が端末室に重なっていく。外の世界から切り離されたような部屋の中で、その音だけが誠司の呼吸と一緒に生きていた。


『退避経路候補を表示します』


 画面に三本の線が現れた。


 一番短い道は、途中の安定値が低い。


 二番目の道は、出口付近に揺れがある。


 三番目は遠い。だが、最も崩れにくい。


 誠司は迷わなかった。


「三番だ」


『最短ではありません』


「最短じゃなくていい」


 誠司は画面を睨んだ。


「生きて帰れれば、それでいい」


『了解しました』


 青い線が、D-7区画の奥から出口へ向かって伸びていく。


 細い光の道のようだった。


 誠司はその道に沿って、安定値を少しずつ整えた。途中の壁を固定し、床の沈み込みを抑え、出口側の圧力を逃がす。ミラージュの白い表示が何度も別の補正をかけようとする。そのたびにコトリが遮り、誠司が手で上書きした。


【D-7区画 安定値:91%】


 まだ足りない。


「もっとだ」


【93%】


 もう少し。


【95%】


 光点が動いた。


 二つの光が、ゆっくりと青い線に沿って進み始める。


 誠司の呼吸が止まった。


 動いている。


 生きている。


 その動きは、画面上では小さな点の移動でしかなかった。だが誠司には、暗い通路を必死に走る二人の足音が聞こえる気がした。硬い床を叩く靴音。荒い息。壁に手をつきながら進む音。背後で何かが崩れる鈍い響き。


 届け。


 あと少し。


『出口側、開放可能』


「開けてくれ」


『開放します』


 画面の出口表示が青に変わった。


 二つの光点が、最後の角を曲がる。


【区画内人員:1名】


 もう一人。


 誠司の手が震える。


 光点が出口へ近づく。


 だが、そのすぐ背後で赤い警告が膨らんだ。


【壁面圧力上昇】


「閉じるな」


 誠司は叫ぶように言った。


「まだ閉じるな!」


 指がキーを叩く。


 圧力を逃がす。側道へ流す。床面の固定を一段階上げる。胃の奥がきりきりと痛んだ。視界の端が少し白くなる。けれど、目を逸らせない。


 二つ目の光点が、出口に触れた。


【区画内人員:0名】


【退避完了】


 その表示が出た瞬間、誠司は椅子の背にもたれた。


 全身から力が抜ける。


 息をしていなかったことに気づき、喉を鳴らすように空気を吸った。胸が痛い。背中が汗で張りついている。額から流れた汗が目に入り、視界が少し滲んだ。


【D-7区画 安定値:98%】


【退避経路:閉鎖】


【救出完了】


 赤い警告が、ゆっくり消えていく。


 端末室に残ったのは、青白い画面の光と、空調の低い音だけだった。


 誠司は両手で顔を覆った。


 手のひらが熱い。


 指先はまだ震えている。


「……よかった」


 声は掠れていた。


「間に合った」


 コトリはしばらく黙っていた。


 その沈黙は、機械の無音ではなかった。まるで、誠司が呼吸を取り戻すのを待っているようだった。


『二名の退避を確認しました』


「ああ」


『誠司』


「何だ」


『あなたの判断により、二名が帰還しました』


 誠司は顔を上げた。


 画面の中で、D-7区画は静かに青く表示されている。


 さっきまで赤く染まっていた場所が、嘘のように落ち着いていた。


「効率なんて」


 誠司は低く言った。


「人を置き去りにしていい理由にならない」


 その声は、誰かに聞かせるためのものではなかった。


 自分自身に刻むための言葉だった。


 黒瀬は、その報告を最後まで黙って聞いた。


 対策室の分析室は、夜明け前の冷たさを含んでいた。窓の外はまだ暗い。ブラインドの隙間から、遠くのビルの灯りが細い線になって差し込んでいる。机の上には複数の資料が重なり、端末の画面にはD-7区画の記録が時系列で表示されていた。


 部下が緊張した声で続ける。


「ミラージュは、D-7区画の二名を後回しと判断しました」


 黒瀬は画面を見たまま動かない。


「理由は」


「他区画全体の安定維持を優先したためです。数値上は、全体への影響を抑える判断でした」


「二名は」


「佐藤さんが制御権を奪還し、退避経路を開放。二名とも無事です」


 黒瀬の目が、そこでわずかに動いた。


 部屋の隅で、空調が低く唸っている。誰も大きな声を出さない。資料をめくる音すらない。そこにあるのは、見えない重さだけだった。


「処理速度は」


「ミラージュが上です」


「補正精度は」


「数値上は高いです」


 黒瀬は、ゆっくりと椅子の背から身を起こした。


「だが、人を置き去りにした」


 部下は答えられなかった。


 黒瀬は画面を指した。


「ここだ。救える可能性があった。道を作れた。にもかかわらず、ミラージュは後回しにした」


「はい」


「佐藤さんは違った」


 黒瀬の声は静かだった。


 だが、そこには揺るがない硬さがあった。


「救えるかわからなくても、まず助けようとした」


 画面には、誠司が選んだ遠回りの退避経路が青く残っていた。


 短くない。


 美しくもない。


 だが、二人を出口まで運んだ線だった。


「この差は、速さでは埋まらない」


 黒瀬は資料に目を落とした。


 ペンを取り、報告書の空白に短く書き込む。


 外部自動制御は、人命が関わる場面で重大な危険を持つ。


 人間の管理者は、現時点で代えられない。


 書き終えた後、黒瀬はペンを置いた。


 その音が、静かな分析室に小さく響いた。


「この記録を保全しろ」


「はい」


「一切、消すな」


 黒瀬は画面の向こうに残る青い線を見つめた。


「これは、佐藤さんを守る材料になる」


 同じ頃、白瀬総一郎は別の画面を見ていた。


 役員室の窓の外には、夜明け前の街が沈んでいる。高層ビルの影は黒く、空の端だけがわずかに白み始めていた。机の上には冷めたコーヒーが置かれている。カップの表面に浮かぶ黒い液体は、もう湯気を立てていない。


 画面には、ミラージュの試験結果が表示されていた。


 D-7区画。


 外部制御からの強制奪還。


 二名救出。


 白瀬は指を組んだまま、しばらく動かなかった。


 部下が恐る恐る口を開く。


「ミラージュの判断は、全体の数値維持という点では合理的でした」


「わかっている」


 白瀬の声は冷たかった。


「D-7区画を後回しにすれば、他区画への影響は最小限に抑えられた。計算は間違っていない」


「はい」


「だが、見た目が悪い」


 部下は唇を閉じた。


 白瀬は画面の下部に表示された名前を見た。


 佐藤誠司。


 その名前は、これまで資料の片隅にある邪魔な注釈のようなものだった。


 匿名の管理者。


 一人の民間人。


 代わりを用意すべき古い仕組み。


 だが今、その名前が画面の中央に浮かび上がって見えた。


「佐藤誠司」


 白瀬はゆっくりと口にした。


 ありふれた名前だった。


 どこにでもいそうな名前。


 だからこそ、気に入らなかった。


「民間企業に勤める四十二歳の男。妻子あり。特別な経歴はない」


 部下が資料を確認する。


「はい。表向きは、一般企業の事務職です」


「その男が、ミラージュの前に立ち塞がった」


 白瀬は椅子から立ち上がった。


 窓際へ歩く。足音は厚い絨毯に吸われ、ほとんど響かなかった。窓の外では、街が少しずつ夜を手放し始めている。東の空が青白く滲み、ビルの輪郭が冷たい光の中に浮かび上がる。


 白瀬はその光を見ながら、静かに言った。


「邪魔だな」


 その声には、怒りすらなかった。


 ただ、障害物を見つけた時のような冷たさだけがあった。


 部下の喉が小さく鳴る。


「佐藤誠司について、さらに調べますか」


 白瀬は振り返らなかった。


「家族、勤務先、生活動線、人間関係」


 窓ガラスに映る白瀬の目が、細くなった。


「全部だ」


 外では朝の光が、ビルの谷間に差し込み始めていた。


 しかし、その部屋の空気だけは冷えたままだった。


 白瀬総一郎の視線は、もうダンジョンではなく、一人の男へ向けられていた。

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