表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
減給された40代社畜、深夜バイトで国家級ダンジョンの管理者になる  作者: Gaku
第1部:深夜バイト編

この作品ページにはなろうチアーズプログラム参加に伴う広告が設置されています。詳細はこちら

PR
37/75

第37話 あの光は、あなたが

犬飼陸斗は、その日の朝から落ち着かなかった。


 窓の外では、薄い朝日が隊舎の敷地を斜めに照らしていた。訓練場の端に伸びた草が、早い時間の風に揺れている。まだ湿り気を含んだ葉先が光を受け、細かな水滴が一瞬だけ白くきらめいた。遠くで誰かが走る靴音がする。砂利を蹴る音が、規則正しく近づき、また遠ざかっていく。


 いつもなら、その音を聞けば自然に身体が動く。


 だが今日の犬飼は、着替えの途中でベルトを握ったまま固まっていた。


「……やばい」


 自分の声が、妙に乾いて聞こえた。


 鏡の中に映る顔は、ひどく硬い。寝不足ではないはずなのに、目だけが冴えすぎている。頬のあたりに力が入り、口元がうまく緩まない。


 今日、会う。


 ずっと会いたかった人に。


 暗闇の中で、道を開けてくれた人に。


 届くかどうかもわからない声を、受け取ってくれていたかもしれない人に。


 犬飼は深く息を吸った。


 肺に入った空気が冷たい。喉の奥に引っかかるようで、うまく下まで落ちていかなかった。


「まず、名乗る。犬飼陸斗です。B級探索者です。いや、元C級って言った方がいいのか? 違う、そこじゃない。まずは礼だ。いや、でもいきなり礼は重いか? でも礼言わなきゃ始まらないだろ」


 独り言が止まらない。


 自分でも馬鹿みたいだと思った。


 けれど、止められなかった。


 支給された上着に袖を通す。肩のあたりが妙に窮屈だった。昨日まで普通に着ていたはずなのに、今日は布地まで緊張しているように感じる。手袋をつけようとして、一度落とした。床に当たった革の音が、小さく部屋に跳ねる。


「落ち着け、俺」


 拾い上げた手袋を握りしめる。


 手のひらが汗で湿っていた。


 面会は夕方だと聞かされていた。


 それなのに、朝からずっと胸の奥が騒いでいる。


 訓練中も同じだった。足を出すタイミングが半拍ずれる。木剣を構える腕に余計な力が入る。教官の声は耳に入っているのに、頭の奥では別の光景が何度も繰り返されていた。


 足場が崩れた瞬間。


 底の見えない暗がり。


 体が宙に浮いた感覚。


 骨まで響く衝撃。


 肺の空気が全部抜け、声が出なくなったこと。


 あの時、死ぬと思った。


 誰にも見つけてもらえず、暗い穴の底で、ただ体温だけが奪われていくのだと思った。


 その時だった。


 壁が開いた。


 暗闇の中に、一本の光が走った。


 白く、細く、震えるような光だった。けれど犬飼には、それがどんな照明よりも眩しく見えた。まるで地上から差し込んだ朝のように、あの光は足元を照らした。


 行ける。


 まだ帰れる。


 そう思えた瞬間のことを、犬飼は忘れられなかった。


「犬飼」


 訓練場の端で、玲奈に声をかけられた。


 犬飼は反射的に背筋を伸ばした。


「はいっ!」


「声が大きい」


「あ、すみません」


 玲奈は黒髪を後ろで束ね、いつものように静かに立っていた。風が彼女の髪の端を少しだけ揺らしている。朝日を受けた横顔には、昨夜よりもわずかに柔らかい影があった。


 犬飼はそれを見て、思わず身を乗り出した。


「あの、玲奈さん」


「何」


「昨日、会ったんですよね」


 玲奈は一拍置いて頷いた。


「ええ」


「どんな人でした?」


 質問した瞬間、喉が鳴った。


 玲奈はすぐには答えなかった。


 訓練場の向こうから、風が流れてくる。草が低く波打ち、乾いた葉が擦れる音がした。遠くで金属製の扉が閉まる音が一度だけ響き、その後に少し長い静けさが落ちた。


 玲奈は、その静けさの中で言った。


「普通の人だった」


 犬飼は目を瞬かせた。


「普通、ですか」


「ええ」


 玲奈の声は静かだった。


「疲れていて、不器用で、自分のしたことの重さをまだ受け止めきれていない人」


 犬飼は黙った。


「でも」


 玲奈は、遠くの空を見た。


「数字の向こうに、人がいると思える人だった」


 その言葉は、犬飼の胸にまっすぐ落ちた。


 光の筋が、また瞼の裏に浮かぶ。


 あれは機械的な処理ではなかった。


 誰かが、自分たちの方を見てくれた結果だった。


「俺」


 犬飼は拳を握った。


「ちゃんと言えますかね」


「何を」


「ありがとうございますって」


 玲奈は犬飼を見た。


 その目に、少しだけ昨夜の名残のようなものがあった。痛みと安堵が、まだ静かに沈んでいる目だった。


「言えるわ」


「本当ですか」


「言えなくても、伝わる」


 犬飼は喉の奥を押さえたくなった。


 その時点で、もう泣きそうだった。


 情けない。


 そう思うのに、胸の奥から熱がこみ上げてくる。


 犬飼は顔をそらし、訓練場の端に伸びた影を見た。朝日を背にした建物の影が、地面に長く伸びている。その境目で、草の先だけが風に揺れ、光ったり暗くなったりしていた。


「俺、あの時」


 口からこぼれた声は、小さかった。


「本当に、父さんがいたらって思ったんです」


 玲奈は何も言わなかった。


 犬飼は慌てて笑おうとしたが、うまくいかなかった。


「いや、変な意味じゃなくて。なんか、こう……誰でもいいから、俺を見つけてくれって。大丈夫だって言ってくれって。そんなこと考えて」


 胸の奥が詰まる。


「でも、実際に道を作ってくれた人がいた」


 犬飼は自分の靴先を見た。


 訓練用の靴には、砂が薄くついている。その砂粒が朝日に光り、小さな星のように見えた。


「だから、言わないと」


 声が震えた。


「ちゃんと」


 玲奈は、ただ頷いた。


 夕方が近づくにつれて、空気は少しずつ冷えていった。


 施設内の面会室は、窓のない小さな部屋だった。白い壁、灰色の床、机と椅子が二つずつ。天井の照明は柔らかいが、外の色が入ってこないせいで、時間の感覚が薄くなる。


 犬飼は椅子に座っていられなかった。


 立つ。


 歩く。


 また戻る。


 机の角に手を置く。


 すぐに離す。


 手のひらには汗が滲んでいた。冷たい空調の風が当たると、その汗がすっと冷えて、皮膚の表面だけがぞわりとした。


「犬飼」


 壁際に立つ玲奈が、低く声をかけた。


「落ち着きなさい」


「無理です」


 即答だった。


「だって、玲奈さんはもう会ったんですよね。俺は今日なんですよ。今日なんです」


「二回言わなくていい」


「言いますよ。二回どころじゃ足りないですよ」


 いつもなら少しは軽口になったかもしれない。


 でも今日は笑えなかった。


 玲奈も笑わなかった。


 その沈黙が、かえって犬飼の胸を締めつけた。


 時計の秒針が進む音は聞こえない。だが、時間が少しずつ近づいてくるのだけはわかった。廊下の向こうから時折聞こえる靴音に、そのたび犬飼の肩が跳ねた。誰かの話し声が近づいては遠ざかり、扉の前を通り過ぎる気配が消える。


 そのたびに、肺の奥に溜めた息が抜けた。


 そしてまた、すぐに苦しくなる。


「何て言えばいいんだろ」


 犬飼は小さく呟いた。


「まず、俺の名前。犬飼陸斗です。あなたに二回助けられました。いや、二回って言うと軽いか? 命を救われました。いや、重すぎるか? でも命だしな。間違ってないしな」


「そのまま言えばいい」


 玲奈の声は穏やかだった。


「あなたの言葉で」


「俺の言葉……」


 犬飼は唇を噛んだ。


 あの暗闇で叫んだ言葉。


 ありがとうございます。


 それだけだった。


 格好つけた言葉なんて、何もなかった。


 ただ、光が見えて、生きて帰れるかもしれないと思って、胸の奥から勝手に出た声だった。


 あの声が届いていたのか。


 届いていなかったのか。


 犬飼は今日、それを知る。


 その時、廊下の向こうから靴音が聞こえた。


 こつ、こつ。


 昨日、玲奈から聞いた通りの音だった。


 軽くはない。


 速くもない。


 少し疲れた大人の歩幅で、けれど逃げずにこちらへ近づいてくる音。


 犬飼の口の中が、一気に乾いた。


 舌が上顎に張りつく。手を握る。指先が震える。膝にも力が入りすぎて、足元が少し頼りなくなる。


 靴音が、扉の前で止まった。


 犬飼は息を止めた。


 軽いノックが二度。


 榊原の声がした。


「入るぞ」


 扉が開いた。


 まず榊原が入ってきた。その後ろから、一人の男が姿を見せた。


 安いスーツ。


 少し丸まった背中。


 疲れの残る顔。


 白髪交じりの髪。


 どこにでもいるような、会社帰りの中年の男。


 犬飼は、固まった。


 胸の奥で、何かが音を立てて止まった気がした。


 知っている。


 この顔を、知っている。


 雨上がりの朝。


 白く濡れた歩道。


 角を曲がった瞬間に、ぶつかりそうになった男。


 眠たそうで、疲れていて、こちらを見て軽く頭を下げた、ただの人。


 そのまま通り過ぎた。


 何も知らずに。


 あの人が。


 暗闇で光をくれた人だった。


「……あ」


 犬飼の喉から、掠れた声が漏れた。


 誠司も犬飼を見た。


 眉を寄せ、記憶を探るように目を細める。


「君……」


 その声を聞いた瞬間、犬飼の胸の奥が熱くなった。


 知らない声ではなかった。


 あの夜、ノイズの向こうにいた誰かと、今、目の前にいる男が重なる。


「あの朝」


 誠司が小さく言った。


「すれ違った、子……かな」


 犬飼は頷こうとした。


 けれど、うまく動けなかった。


 目の奥が熱い。


 視界が滲む。


 泣くな。


 まだ早い。


 まだ何も言っていない。


 そう思えば思うほど、涙が喉までせり上がってくる。


 犬飼は一歩、前に出た。


 靴音が床に小さく響いた。


「犬飼陸斗です」


 声が震えた。


「B級探索者です。前はC級でした。でも、そんなことはどうでもよくて」


 息がうまく吸えない。


 胸が痛い。


 誠司は何も言わずに聞いていた。


 困ったような、けれど逃げない顔だった。


「俺、C-8区画で空洞に落ちた時」


 犬飼は拳を握った。


「あの時、本当に死ぬと思いました」


 壁の白さが滲む。


 照明の輪郭がぼやける。


「でも、壁が開いて」


 声が詰まった。


「光の筋が、道を作ってくれて」


 犬飼は誠司を見た。


 涙で歪んだ視界の中でも、その顔だけは見失わなかった。


「あれ、あなたがやってくれたんですよね」


 面会室に、息が止まるような静けさが落ちた。


 空調の風が天井から降りてくる。


 壁際で玲奈が黙っている。


 榊原も何も言わない。


 誠司は、ゆっくりと目を伏せた。


 その表情に、犬飼は答えを見るより先に、胸が締めつけられた。


 誠司は自分の手元を一度見た。


 まるで、そこに端末のキーがまだあるかのように。


 それから、小さく頷いた。


「……たぶん」


 声は低かった。


「それは、俺だと思う」


 犬飼の中で、堰が音を立てて崩れかけた。


 でも、まだ言わなければならないことがある。


 ずっと、ずっと確かめたかったこと。


「それと」


 犬飼は袖で乱暴に目元を拭った。


「B-16区画の時」


 誠司の肩がわずかに動いた。


「俺、光の方に向かって叫んだんです」


 犬飼は、あの日の自分の声を思い出した。


 喉が裂けそうなくらい叫んだ。


 届く保証なんてなかった。


 誰が聞いているかもわからなかった。


 それでも、言わずにはいられなかった。


「ありがとうございますって」


 声が震える。


「俺たち、大丈夫ですって」


 犬飼は、ほとんど祈るような気持ちで誠司を見た。


「聞こえてましたか」


 誠司は、すぐには答えなかった。


 その沈黙は、犬飼の心臓を強く握った。


 廊下の遠くで、誰かの靴音が通り過ぎる。面会室の扉の向こうを、音だけが横切っていく。空調の風が、机の上に置かれた書類の端をわずかに揺らした。


 犬飼は息を止めていた。


 苦しい。


 でも、目を逸らせない。


 誠司が顔を上げた。


 疲れた目だった。


 けれど、その奥に確かなものがあった。


「ああ」


 誠司は言った。


「聞こえてたよ」


 犬飼の視界が、大きく揺れた。


「ノイズ越しだったけど」


 誠司の声も、少しだけ震えていた。


「ちゃんと、聞こえてた」


 犬飼の唇が、震えた。


 胸の奥から熱いものが一気に込み上げる。


 誠司は、はっきりと言った。


「ありがとうございます、俺たち大丈夫です――って」


 その瞬間、犬飼の足から力が抜けた。


 膝が崩れそうになり、慌てて机の端を掴む。指先に硬い木の感触が食い込む。涙が一粒、頬を伝って落ちた。止めようとしても、止まらなかった。


「届いてた……」


 声が、子どものように震えた。


「俺の声、届いてたんだ……」


 誰にも届かないかもしれないと思いながら叫んだ声。


 暗闇の中で、光に向かって投げた声。


 それが、ちゃんと届いていた。


 犬飼は顔を伏せた。


 肩が震える。


 喉の奥から、押し殺しきれない音が漏れた。


「よかった……」


 床に涙が落ちた。


 小さな丸い染みが、灰色の床に広がる。


「本当に、よかった……」


 誠司は目の前で泣く若者を見つめていた。


 その顔には、戸惑いと痛みと、どうしていいかわからない優しさが混ざっていた。


 犬飼は、涙でぐちゃぐちゃになった顔を上げた。


 言葉はもう、整っていなかった。


 それでも、今度こそ、真正面から言えた。


「佐藤さん」


 誠司が、わずかに息を呑む。


 犬飼は両手を握りしめた。


「ありがとうございます」


 声が震えた。


 でも、逃げなかった。


「俺を、助けてくれて」


 犬飼は深く頭を下げた。


「俺たちを、帰してくれて」


 白い部屋の中で、誰も動かなかった。


 外の景色は見えない。


 風に揺れる草も、朝日に光る水滴も、夜空の星も、ここにはない。


 けれど犬飼の瞼の裏には、あの光がはっきりと浮かんでいた。


 暗闇の中で見た、一本の道。


 その先に、今、この人がいる。


 犬飼は頭を下げたまま、涙を止めることができなかった。



犬飼が頭を下げたまま動けずにいる間、誠司もまた、動けなかった。


 目の前で泣いている若者の肩が、小刻みに震えている。支給された上着の背中に、照明の白い光が落ちていた。その布地の皺が、呼吸に合わせてかすかに揺れる。


 ありがとうございます。


 その言葉は、何度聞いても慣れなかった。


 玲奈の時もそうだった。今もそうだった。


 誠司は自分の手を見た。


 何の変哲もない手だった。会社で伝票をめくり、コピー用紙を補充し、家では茶碗を洗い、湊の頭を撫でる手。指先は少し荒れていて、爪の脇にはささくれがある。


 この手が、誰かの命に触れていた。


 そう思った瞬間、胸の奥が押し潰されそうになった。


「犬飼くん」


 誠司は、ようやく声を出した。


 犬飼の肩がびくりと揺れる。


「顔、上げて」


 犬飼は袖で乱暴に目元を拭った。けれど、涙はすぐにまた溢れてきた。十九歳の青年が、子どものように顔を歪めている。恥ずかしさを隠そうとしているのに、感情がそれを許していなかった。


「す、すみません……俺、こんなつもりじゃ」


「いいよ」


 誠司は小さく首を振った。


「泣いていいよ」


 その言葉に、犬飼の顔がさらに歪んだ。


 面会室の空気が、静かに震えた気がした。


 誠司は一歩近づいた。靴音が床に短く響く。その音さえ、今は遠慮がちに聞こえた。


「無事でよかった」


 犬飼が息を呑んだ。


 誠司は、もう一度言った。


「君が無事で、本当によかった」


 それは、飾った言葉ではなかった。


 立派なことを言おうとしたわけでもない。


 ただ、胸の奥にあったものが、そのまま出た。


 あの時、光点が消えなかったこと。


 ノイズ越しに声が届いたこと。


 画面の向こうで誰かが生きているとわかっていたのに、その顔を知らなかったこと。


 今、その若者が目の前に立っていること。


 すべてが重なって、誠司の口からその言葉になって出てきた。


 犬飼は唇を噛んだ。


 それでも涙は止まらなかった。


「俺……怖かったんです」


 震える声だった。


「穴の底で、動けなくなって、上も下もわからなくて。通信もまともに通じなくて。声出しても、誰にも届いてない気がして」


 犬飼は胸元を握った。


 その手が震えている。


「その時、思ったんです。俺、ここで終わるのかなって。誰にも見つけてもらえないまま、暗いところで終わるのかなって」


 誠司は黙って聞いていた。


 部屋の中には、犬飼の声と空調の低い音だけがあった。


「でも、光が見えたんです」


 犬飼は顔を上げた。


 涙で赤くなった目が、まっすぐ誠司を見ていた。


「本当に、細い光でした。でも、それが見えた瞬間、帰れるって思えた。まだ帰っていいんだって思えた」


 誠司の喉が熱くなった。


 犬飼の言葉が、画面の中の出来事を人の体温に変えていく。


「佐藤さん」


 犬飼の声は、まだ震えていた。


「あの光、俺には道だったんです」


 誠司は、何も言えなかった。


 言えば、何かが崩れてしまいそうだった。


 代わりに、ゆっくりと手を伸ばした。


 犬飼の頭に、その手を置く。


 ぎこちない動作だった。


 湊にする時のように、自然にはできなかった。十九歳の青年にそんなことをしていいのか、一瞬迷いもした。けれど、目の前の犬飼はあまりにも必死に立っていて、誠司にはその肩の震えを放っておけなかった。


 犬飼の髪は、少し硬かった。


 訓練で汗をかいた後の、乾いた髪の感触が手のひらに伝わる。


「よく頑張ったな」


 誠司は言った。


「怖かったよな」


 犬飼の顔が、くしゃりと歪んだ。


 そして、次の瞬間。


「……親父」


 小さな声が、こぼれた。


 誠司の手が止まった。


 犬飼自身も、自分の口から出た言葉に気づいたらしく、目を見開いた。


「あっ」


 彼は慌てて一歩下がろうとした。


「す、すみません! 違うんです、今のは、その、勝手に口が……失礼ですよね、いきなりそんな」


 犬飼の顔が真っ赤になっていく。


 涙で濡れた頬に、さらに別の熱が差していた。


 誠司は驚いたまま、しばらく犬飼を見ていた。


 それから、ゆっくりと息を吐いた。


「いいよ」


 犬飼が固まる。


「え……」


「いいよ」


 誠司は少しだけ目を細めた。


 笑おうとしたわけではない。けれど、胸の奥に不思議な温かさが広がっていた。


「俺にも息子がいるんだ。君ほど大きくはないけど」


 犬飼は目を瞬かせた。


「息子さん……」


「まだ小学生だけどね」


 誠司は自分の手を下ろした。


 手のひらに、犬飼の髪の感触が残っている。


「だから、君を見てると少し重なるのかもしれない」


 犬飼は何度も瞬きをした。


 涙がまた一粒落ちる。


「佐藤さんって」


 声が掠れた。


「なんか……親父みたいっす」


 その言葉に、誠司は胸の奥を静かに押されたような気がした。


 父親みたい。


 会社では、替えが利くと言われた。


 家庭では、頼りない夫で、疲れた父親だと思う時もある。


 けれど、この若者は、自分にそんな言葉を向けている。


 誠司は、何と返せばいいのかわからなかった。


 ただ、頷いた。


「心配はするよ」


「え?」


「親父みたいなら、心配くらいはする」


 犬飼の唇が震えた。


「だから、無茶はしないでくれ」


 犬飼は強く頷いた。


「はい」


 それだけでは足りないと思ったのか、もう一度、今度はもっと深く頷く。


「はい。俺、強くなります。でも、無茶して死ぬみたいなことはしません」


 玲奈が壁際で静かに目を伏せた。


 榊原も、扉の横で何も言わない。


 この部屋の中で交わされた言葉は、記録には残らないかもしれない。報告書に書かれることもないかもしれない。だが、犬飼にとっても誠司にとっても、二度と消えないものになっていた。


 犬飼は深く息を吸った。


 まだ涙の跡は残っている。目も赤い。それでも、さっきより少しだけ背筋が伸びていた。


「佐藤さん」


「うん」


「俺、もっと強くなります」


 犬飼の声は震えていたが、芯があった。


「助けられっぱなしじゃなくて、いつか誰かをちゃんと帰せるように」


 誠司は、犬飼の目を見た。


 そこに、あの暗闇で見たという光の名残があるように思えた。


「うん」


 誠司は頷いた。


「でも、帰ってくるのが一番大事だ」


 犬飼は息を呑んだ。


「……はい」


 沈黙が落ちた。


 重い沈黙ではなかった。


 言葉が胸の中に沈み、そこで根を張るのを待つような静けさだった。


 やがて榊原が、低く言った。


「時間だ」


 犬飼は慌てて姿勢を正した。


 涙の跡をまた袖で拭い、深く頭を下げる。


「本当に、ありがとうございました」


 誠司も小さく頭を下げた。


「こちらこそ」


「え?」


「会ってくれて、ありがとう」


 犬飼はその言葉を聞いて、また泣きそうな顔になった。


 けれど今度は、必死に堪えた。


「はい」


 その返事は、先ほどよりも少し大人びていた。


 面会室を出た犬飼は、廊下を歩きながら何度も目元を拭った。


 廊下の照明が床に細長く伸びている。外の空は見えないのに、犬飼にはあの夜の光がずっと見えていた。壁を伝って走った細い光。暗闇の中で、自分の足元を照らしてくれた道。


 玲奈が隣を歩いている。


 しばらく二人は何も言わなかった。


 靴音だけが続く。


 こつ、こつ。


 音が壁に当たり、少し遅れて戻ってくる。


「泣いたわね」


 玲奈が言った。


 犬飼は鼻をすすった。


「泣きました」


「かなり」


「はい。かなり」


 そこで犬飼は、悔しそうに笑う代わりに、少しだけ空を見上げるように顔を上げた。天井しか見えない。それでも、その向こうにあるはずの空を思った。


「でも、言えました」


 玲奈は頷いた。


「ええ」


「届いてたんですね」


「ええ」


 犬飼は唇を噛んだ。


 また涙が出そうだった。


「俺、もう暗くないです」


 玲奈は横目で犬飼を見た。


「そう」


「はい」


 犬飼は胸の前で拳を握った。


「俺、もっと強くなります」


 廊下の先の扉が開き、外から夕方の光が差し込んできた。


 薄い橙色の光だった。地下施設へ続く通路の白い壁に、その光が斜めに伸びる。空気中に漂う細かな埃が、光の中でゆっくり動いていた。外へ出ると、風が頬を撫でた。敷地の端の草が一斉に揺れ、さわさわと乾いた音を立てる。


 犬飼は空を見上げた。


 雲の端が夕日に染まっている。


 あの夜の光の筋とは違う。


 けれど、もう暗闇の記憶だけではなかった。


「俺、もっと強くなります」


 犬飼はもう一度、誰に聞かせるでもなく言った。


「あの人に――親父に、心配かけないように」


 風が吹いた。


 草が波のように倒れ、また起き上がる。


 玲奈は何も言わなかった。


 ただ、少しだけ目を細め、同じ空を見上げていた。


 その頃、誠司は帰りの電車に乗っていた。


 車内は混んでいた。仕事帰りの人々が無言で吊り革につかまり、スマホの画面だけがあちこちで白く光っている。電車が揺れるたび、靴底が床を擦る音が重なった。誰かの鞄が誠司の脇に当たり、誠司は体を少しずらす。


 窓の外には、夕方から夜へ沈んでいく街が流れていた。


 ビルの窓が一つずつ灯り、川沿いの道には車のライトが細く連なっている。空の端に残った赤みが、ガラスに映る誠司の顔と重なっていた。


「親父、か」


 小さく呟く。


 自分の声は、車輪の音にすぐに溶けた。


 悪い気はしなかった。


 むしろ、胸の奥が少しだけ痛いくらい温かかった。


 湊に呼ばれる「パパ」とは違う。


 陽菜に頼られる時の感覚とも違う。


 犬飼の口からこぼれたその言葉には、暗闇の底で誰かを求めた時間が混ざっていた。誠司はそれを、軽く受け取ることができなかった。


 窓に映る自分の顔は、相変わらず疲れていた。


 けれど、昨日よりも少しだけ、まっすぐ前を見ている気がした。


 電車が鉄橋を渡る。


 足元から硬い振動が伝わり、窓の外に黒い川面が見えた。川は街の光を細かく砕きながら流れている。風に揺れる水面の反射が、いくつもの小さな光になって消えていく。


 その光を見ながら、誠司は思った。


 もう、光点はただの光点ではない。


 玲奈がいる。


 犬飼がいる。


 まだ会っていない誰かもいる。


 自分が守ったものは、画面の中では終わらない。


 人は帰ってからも生きていく。


 笑い、泣き、誰かに礼を言いたくて、暗闇を何度も思い出す。


 その重さを、誠司はようやく少しだけ知り始めていた。


 同じ頃。


 都心の高層ビルの一室では、白いテーブルの上に薄型端末が置かれていた。


 壁一面の窓の向こうで、街の灯りが宝石のように広がっている。だが、その部屋にいる男たちは誰一人、その夜景を見ていなかった。


 画面には、国家級ダンジョンの管理権限に関する資料が映し出されている。


 その端に、小さく一つの名前があった。


 佐藤誠司。


 男の指が、その名前の上で止まった。


「一人の民間人に依存している現状は、危うい」


 低い声が部屋に落ちた。


「ならば、代わりを用意すればいい」


 窓の外で、赤い航空灯がゆっくり瞬いた。


 その光は、誰にも気づかれないまま、黒いガラスに小さく滲んだ。

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

↑ページトップへ