第37話 あの光は、あなたが
犬飼陸斗は、その日の朝から落ち着かなかった。
窓の外では、薄い朝日が隊舎の敷地を斜めに照らしていた。訓練場の端に伸びた草が、早い時間の風に揺れている。まだ湿り気を含んだ葉先が光を受け、細かな水滴が一瞬だけ白くきらめいた。遠くで誰かが走る靴音がする。砂利を蹴る音が、規則正しく近づき、また遠ざかっていく。
いつもなら、その音を聞けば自然に身体が動く。
だが今日の犬飼は、着替えの途中でベルトを握ったまま固まっていた。
「……やばい」
自分の声が、妙に乾いて聞こえた。
鏡の中に映る顔は、ひどく硬い。寝不足ではないはずなのに、目だけが冴えすぎている。頬のあたりに力が入り、口元がうまく緩まない。
今日、会う。
ずっと会いたかった人に。
暗闇の中で、道を開けてくれた人に。
届くかどうかもわからない声を、受け取ってくれていたかもしれない人に。
犬飼は深く息を吸った。
肺に入った空気が冷たい。喉の奥に引っかかるようで、うまく下まで落ちていかなかった。
「まず、名乗る。犬飼陸斗です。B級探索者です。いや、元C級って言った方がいいのか? 違う、そこじゃない。まずは礼だ。いや、でもいきなり礼は重いか? でも礼言わなきゃ始まらないだろ」
独り言が止まらない。
自分でも馬鹿みたいだと思った。
けれど、止められなかった。
支給された上着に袖を通す。肩のあたりが妙に窮屈だった。昨日まで普通に着ていたはずなのに、今日は布地まで緊張しているように感じる。手袋をつけようとして、一度落とした。床に当たった革の音が、小さく部屋に跳ねる。
「落ち着け、俺」
拾い上げた手袋を握りしめる。
手のひらが汗で湿っていた。
面会は夕方だと聞かされていた。
それなのに、朝からずっと胸の奥が騒いでいる。
訓練中も同じだった。足を出すタイミングが半拍ずれる。木剣を構える腕に余計な力が入る。教官の声は耳に入っているのに、頭の奥では別の光景が何度も繰り返されていた。
足場が崩れた瞬間。
底の見えない暗がり。
体が宙に浮いた感覚。
骨まで響く衝撃。
肺の空気が全部抜け、声が出なくなったこと。
あの時、死ぬと思った。
誰にも見つけてもらえず、暗い穴の底で、ただ体温だけが奪われていくのだと思った。
その時だった。
壁が開いた。
暗闇の中に、一本の光が走った。
白く、細く、震えるような光だった。けれど犬飼には、それがどんな照明よりも眩しく見えた。まるで地上から差し込んだ朝のように、あの光は足元を照らした。
行ける。
まだ帰れる。
そう思えた瞬間のことを、犬飼は忘れられなかった。
「犬飼」
訓練場の端で、玲奈に声をかけられた。
犬飼は反射的に背筋を伸ばした。
「はいっ!」
「声が大きい」
「あ、すみません」
玲奈は黒髪を後ろで束ね、いつものように静かに立っていた。風が彼女の髪の端を少しだけ揺らしている。朝日を受けた横顔には、昨夜よりもわずかに柔らかい影があった。
犬飼はそれを見て、思わず身を乗り出した。
「あの、玲奈さん」
「何」
「昨日、会ったんですよね」
玲奈は一拍置いて頷いた。
「ええ」
「どんな人でした?」
質問した瞬間、喉が鳴った。
玲奈はすぐには答えなかった。
訓練場の向こうから、風が流れてくる。草が低く波打ち、乾いた葉が擦れる音がした。遠くで金属製の扉が閉まる音が一度だけ響き、その後に少し長い静けさが落ちた。
玲奈は、その静けさの中で言った。
「普通の人だった」
犬飼は目を瞬かせた。
「普通、ですか」
「ええ」
玲奈の声は静かだった。
「疲れていて、不器用で、自分のしたことの重さをまだ受け止めきれていない人」
犬飼は黙った。
「でも」
玲奈は、遠くの空を見た。
「数字の向こうに、人がいると思える人だった」
その言葉は、犬飼の胸にまっすぐ落ちた。
光の筋が、また瞼の裏に浮かぶ。
あれは機械的な処理ではなかった。
誰かが、自分たちの方を見てくれた結果だった。
「俺」
犬飼は拳を握った。
「ちゃんと言えますかね」
「何を」
「ありがとうございますって」
玲奈は犬飼を見た。
その目に、少しだけ昨夜の名残のようなものがあった。痛みと安堵が、まだ静かに沈んでいる目だった。
「言えるわ」
「本当ですか」
「言えなくても、伝わる」
犬飼は喉の奥を押さえたくなった。
その時点で、もう泣きそうだった。
情けない。
そう思うのに、胸の奥から熱がこみ上げてくる。
犬飼は顔をそらし、訓練場の端に伸びた影を見た。朝日を背にした建物の影が、地面に長く伸びている。その境目で、草の先だけが風に揺れ、光ったり暗くなったりしていた。
「俺、あの時」
口からこぼれた声は、小さかった。
「本当に、父さんがいたらって思ったんです」
玲奈は何も言わなかった。
犬飼は慌てて笑おうとしたが、うまくいかなかった。
「いや、変な意味じゃなくて。なんか、こう……誰でもいいから、俺を見つけてくれって。大丈夫だって言ってくれって。そんなこと考えて」
胸の奥が詰まる。
「でも、実際に道を作ってくれた人がいた」
犬飼は自分の靴先を見た。
訓練用の靴には、砂が薄くついている。その砂粒が朝日に光り、小さな星のように見えた。
「だから、言わないと」
声が震えた。
「ちゃんと」
玲奈は、ただ頷いた。
夕方が近づくにつれて、空気は少しずつ冷えていった。
施設内の面会室は、窓のない小さな部屋だった。白い壁、灰色の床、机と椅子が二つずつ。天井の照明は柔らかいが、外の色が入ってこないせいで、時間の感覚が薄くなる。
犬飼は椅子に座っていられなかった。
立つ。
歩く。
また戻る。
机の角に手を置く。
すぐに離す。
手のひらには汗が滲んでいた。冷たい空調の風が当たると、その汗がすっと冷えて、皮膚の表面だけがぞわりとした。
「犬飼」
壁際に立つ玲奈が、低く声をかけた。
「落ち着きなさい」
「無理です」
即答だった。
「だって、玲奈さんはもう会ったんですよね。俺は今日なんですよ。今日なんです」
「二回言わなくていい」
「言いますよ。二回どころじゃ足りないですよ」
いつもなら少しは軽口になったかもしれない。
でも今日は笑えなかった。
玲奈も笑わなかった。
その沈黙が、かえって犬飼の胸を締めつけた。
時計の秒針が進む音は聞こえない。だが、時間が少しずつ近づいてくるのだけはわかった。廊下の向こうから時折聞こえる靴音に、そのたび犬飼の肩が跳ねた。誰かの話し声が近づいては遠ざかり、扉の前を通り過ぎる気配が消える。
そのたびに、肺の奥に溜めた息が抜けた。
そしてまた、すぐに苦しくなる。
「何て言えばいいんだろ」
犬飼は小さく呟いた。
「まず、俺の名前。犬飼陸斗です。あなたに二回助けられました。いや、二回って言うと軽いか? 命を救われました。いや、重すぎるか? でも命だしな。間違ってないしな」
「そのまま言えばいい」
玲奈の声は穏やかだった。
「あなたの言葉で」
「俺の言葉……」
犬飼は唇を噛んだ。
あの暗闇で叫んだ言葉。
ありがとうございます。
それだけだった。
格好つけた言葉なんて、何もなかった。
ただ、光が見えて、生きて帰れるかもしれないと思って、胸の奥から勝手に出た声だった。
あの声が届いていたのか。
届いていなかったのか。
犬飼は今日、それを知る。
その時、廊下の向こうから靴音が聞こえた。
こつ、こつ。
昨日、玲奈から聞いた通りの音だった。
軽くはない。
速くもない。
少し疲れた大人の歩幅で、けれど逃げずにこちらへ近づいてくる音。
犬飼の口の中が、一気に乾いた。
舌が上顎に張りつく。手を握る。指先が震える。膝にも力が入りすぎて、足元が少し頼りなくなる。
靴音が、扉の前で止まった。
犬飼は息を止めた。
軽いノックが二度。
榊原の声がした。
「入るぞ」
扉が開いた。
まず榊原が入ってきた。その後ろから、一人の男が姿を見せた。
安いスーツ。
少し丸まった背中。
疲れの残る顔。
白髪交じりの髪。
どこにでもいるような、会社帰りの中年の男。
犬飼は、固まった。
胸の奥で、何かが音を立てて止まった気がした。
知っている。
この顔を、知っている。
雨上がりの朝。
白く濡れた歩道。
角を曲がった瞬間に、ぶつかりそうになった男。
眠たそうで、疲れていて、こちらを見て軽く頭を下げた、ただの人。
そのまま通り過ぎた。
何も知らずに。
あの人が。
暗闇で光をくれた人だった。
「……あ」
犬飼の喉から、掠れた声が漏れた。
誠司も犬飼を見た。
眉を寄せ、記憶を探るように目を細める。
「君……」
その声を聞いた瞬間、犬飼の胸の奥が熱くなった。
知らない声ではなかった。
あの夜、ノイズの向こうにいた誰かと、今、目の前にいる男が重なる。
「あの朝」
誠司が小さく言った。
「すれ違った、子……かな」
犬飼は頷こうとした。
けれど、うまく動けなかった。
目の奥が熱い。
視界が滲む。
泣くな。
まだ早い。
まだ何も言っていない。
そう思えば思うほど、涙が喉までせり上がってくる。
犬飼は一歩、前に出た。
靴音が床に小さく響いた。
「犬飼陸斗です」
声が震えた。
「B級探索者です。前はC級でした。でも、そんなことはどうでもよくて」
息がうまく吸えない。
胸が痛い。
誠司は何も言わずに聞いていた。
困ったような、けれど逃げない顔だった。
「俺、C-8区画で空洞に落ちた時」
犬飼は拳を握った。
「あの時、本当に死ぬと思いました」
壁の白さが滲む。
照明の輪郭がぼやける。
「でも、壁が開いて」
声が詰まった。
「光の筋が、道を作ってくれて」
犬飼は誠司を見た。
涙で歪んだ視界の中でも、その顔だけは見失わなかった。
「あれ、あなたがやってくれたんですよね」
面会室に、息が止まるような静けさが落ちた。
空調の風が天井から降りてくる。
壁際で玲奈が黙っている。
榊原も何も言わない。
誠司は、ゆっくりと目を伏せた。
その表情に、犬飼は答えを見るより先に、胸が締めつけられた。
誠司は自分の手元を一度見た。
まるで、そこに端末のキーがまだあるかのように。
それから、小さく頷いた。
「……たぶん」
声は低かった。
「それは、俺だと思う」
犬飼の中で、堰が音を立てて崩れかけた。
でも、まだ言わなければならないことがある。
ずっと、ずっと確かめたかったこと。
「それと」
犬飼は袖で乱暴に目元を拭った。
「B-16区画の時」
誠司の肩がわずかに動いた。
「俺、光の方に向かって叫んだんです」
犬飼は、あの日の自分の声を思い出した。
喉が裂けそうなくらい叫んだ。
届く保証なんてなかった。
誰が聞いているかもわからなかった。
それでも、言わずにはいられなかった。
「ありがとうございますって」
声が震える。
「俺たち、大丈夫ですって」
犬飼は、ほとんど祈るような気持ちで誠司を見た。
「聞こえてましたか」
誠司は、すぐには答えなかった。
その沈黙は、犬飼の心臓を強く握った。
廊下の遠くで、誰かの靴音が通り過ぎる。面会室の扉の向こうを、音だけが横切っていく。空調の風が、机の上に置かれた書類の端をわずかに揺らした。
犬飼は息を止めていた。
苦しい。
でも、目を逸らせない。
誠司が顔を上げた。
疲れた目だった。
けれど、その奥に確かなものがあった。
「ああ」
誠司は言った。
「聞こえてたよ」
犬飼の視界が、大きく揺れた。
「ノイズ越しだったけど」
誠司の声も、少しだけ震えていた。
「ちゃんと、聞こえてた」
犬飼の唇が、震えた。
胸の奥から熱いものが一気に込み上げる。
誠司は、はっきりと言った。
「ありがとうございます、俺たち大丈夫です――って」
その瞬間、犬飼の足から力が抜けた。
膝が崩れそうになり、慌てて机の端を掴む。指先に硬い木の感触が食い込む。涙が一粒、頬を伝って落ちた。止めようとしても、止まらなかった。
「届いてた……」
声が、子どものように震えた。
「俺の声、届いてたんだ……」
誰にも届かないかもしれないと思いながら叫んだ声。
暗闇の中で、光に向かって投げた声。
それが、ちゃんと届いていた。
犬飼は顔を伏せた。
肩が震える。
喉の奥から、押し殺しきれない音が漏れた。
「よかった……」
床に涙が落ちた。
小さな丸い染みが、灰色の床に広がる。
「本当に、よかった……」
誠司は目の前で泣く若者を見つめていた。
その顔には、戸惑いと痛みと、どうしていいかわからない優しさが混ざっていた。
犬飼は、涙でぐちゃぐちゃになった顔を上げた。
言葉はもう、整っていなかった。
それでも、今度こそ、真正面から言えた。
「佐藤さん」
誠司が、わずかに息を呑む。
犬飼は両手を握りしめた。
「ありがとうございます」
声が震えた。
でも、逃げなかった。
「俺を、助けてくれて」
犬飼は深く頭を下げた。
「俺たちを、帰してくれて」
白い部屋の中で、誰も動かなかった。
外の景色は見えない。
風に揺れる草も、朝日に光る水滴も、夜空の星も、ここにはない。
けれど犬飼の瞼の裏には、あの光がはっきりと浮かんでいた。
暗闇の中で見た、一本の道。
その先に、今、この人がいる。
犬飼は頭を下げたまま、涙を止めることができなかった。
犬飼が頭を下げたまま動けずにいる間、誠司もまた、動けなかった。
目の前で泣いている若者の肩が、小刻みに震えている。支給された上着の背中に、照明の白い光が落ちていた。その布地の皺が、呼吸に合わせてかすかに揺れる。
ありがとうございます。
その言葉は、何度聞いても慣れなかった。
玲奈の時もそうだった。今もそうだった。
誠司は自分の手を見た。
何の変哲もない手だった。会社で伝票をめくり、コピー用紙を補充し、家では茶碗を洗い、湊の頭を撫でる手。指先は少し荒れていて、爪の脇にはささくれがある。
この手が、誰かの命に触れていた。
そう思った瞬間、胸の奥が押し潰されそうになった。
「犬飼くん」
誠司は、ようやく声を出した。
犬飼の肩がびくりと揺れる。
「顔、上げて」
犬飼は袖で乱暴に目元を拭った。けれど、涙はすぐにまた溢れてきた。十九歳の青年が、子どものように顔を歪めている。恥ずかしさを隠そうとしているのに、感情がそれを許していなかった。
「す、すみません……俺、こんなつもりじゃ」
「いいよ」
誠司は小さく首を振った。
「泣いていいよ」
その言葉に、犬飼の顔がさらに歪んだ。
面会室の空気が、静かに震えた気がした。
誠司は一歩近づいた。靴音が床に短く響く。その音さえ、今は遠慮がちに聞こえた。
「無事でよかった」
犬飼が息を呑んだ。
誠司は、もう一度言った。
「君が無事で、本当によかった」
それは、飾った言葉ではなかった。
立派なことを言おうとしたわけでもない。
ただ、胸の奥にあったものが、そのまま出た。
あの時、光点が消えなかったこと。
ノイズ越しに声が届いたこと。
画面の向こうで誰かが生きているとわかっていたのに、その顔を知らなかったこと。
今、その若者が目の前に立っていること。
すべてが重なって、誠司の口からその言葉になって出てきた。
犬飼は唇を噛んだ。
それでも涙は止まらなかった。
「俺……怖かったんです」
震える声だった。
「穴の底で、動けなくなって、上も下もわからなくて。通信もまともに通じなくて。声出しても、誰にも届いてない気がして」
犬飼は胸元を握った。
その手が震えている。
「その時、思ったんです。俺、ここで終わるのかなって。誰にも見つけてもらえないまま、暗いところで終わるのかなって」
誠司は黙って聞いていた。
部屋の中には、犬飼の声と空調の低い音だけがあった。
「でも、光が見えたんです」
犬飼は顔を上げた。
涙で赤くなった目が、まっすぐ誠司を見ていた。
「本当に、細い光でした。でも、それが見えた瞬間、帰れるって思えた。まだ帰っていいんだって思えた」
誠司の喉が熱くなった。
犬飼の言葉が、画面の中の出来事を人の体温に変えていく。
「佐藤さん」
犬飼の声は、まだ震えていた。
「あの光、俺には道だったんです」
誠司は、何も言えなかった。
言えば、何かが崩れてしまいそうだった。
代わりに、ゆっくりと手を伸ばした。
犬飼の頭に、その手を置く。
ぎこちない動作だった。
湊にする時のように、自然にはできなかった。十九歳の青年にそんなことをしていいのか、一瞬迷いもした。けれど、目の前の犬飼はあまりにも必死に立っていて、誠司にはその肩の震えを放っておけなかった。
犬飼の髪は、少し硬かった。
訓練で汗をかいた後の、乾いた髪の感触が手のひらに伝わる。
「よく頑張ったな」
誠司は言った。
「怖かったよな」
犬飼の顔が、くしゃりと歪んだ。
そして、次の瞬間。
「……親父」
小さな声が、こぼれた。
誠司の手が止まった。
犬飼自身も、自分の口から出た言葉に気づいたらしく、目を見開いた。
「あっ」
彼は慌てて一歩下がろうとした。
「す、すみません! 違うんです、今のは、その、勝手に口が……失礼ですよね、いきなりそんな」
犬飼の顔が真っ赤になっていく。
涙で濡れた頬に、さらに別の熱が差していた。
誠司は驚いたまま、しばらく犬飼を見ていた。
それから、ゆっくりと息を吐いた。
「いいよ」
犬飼が固まる。
「え……」
「いいよ」
誠司は少しだけ目を細めた。
笑おうとしたわけではない。けれど、胸の奥に不思議な温かさが広がっていた。
「俺にも息子がいるんだ。君ほど大きくはないけど」
犬飼は目を瞬かせた。
「息子さん……」
「まだ小学生だけどね」
誠司は自分の手を下ろした。
手のひらに、犬飼の髪の感触が残っている。
「だから、君を見てると少し重なるのかもしれない」
犬飼は何度も瞬きをした。
涙がまた一粒落ちる。
「佐藤さんって」
声が掠れた。
「なんか……親父みたいっす」
その言葉に、誠司は胸の奥を静かに押されたような気がした。
父親みたい。
会社では、替えが利くと言われた。
家庭では、頼りない夫で、疲れた父親だと思う時もある。
けれど、この若者は、自分にそんな言葉を向けている。
誠司は、何と返せばいいのかわからなかった。
ただ、頷いた。
「心配はするよ」
「え?」
「親父みたいなら、心配くらいはする」
犬飼の唇が震えた。
「だから、無茶はしないでくれ」
犬飼は強く頷いた。
「はい」
それだけでは足りないと思ったのか、もう一度、今度はもっと深く頷く。
「はい。俺、強くなります。でも、無茶して死ぬみたいなことはしません」
玲奈が壁際で静かに目を伏せた。
榊原も、扉の横で何も言わない。
この部屋の中で交わされた言葉は、記録には残らないかもしれない。報告書に書かれることもないかもしれない。だが、犬飼にとっても誠司にとっても、二度と消えないものになっていた。
犬飼は深く息を吸った。
まだ涙の跡は残っている。目も赤い。それでも、さっきより少しだけ背筋が伸びていた。
「佐藤さん」
「うん」
「俺、もっと強くなります」
犬飼の声は震えていたが、芯があった。
「助けられっぱなしじゃなくて、いつか誰かをちゃんと帰せるように」
誠司は、犬飼の目を見た。
そこに、あの暗闇で見たという光の名残があるように思えた。
「うん」
誠司は頷いた。
「でも、帰ってくるのが一番大事だ」
犬飼は息を呑んだ。
「……はい」
沈黙が落ちた。
重い沈黙ではなかった。
言葉が胸の中に沈み、そこで根を張るのを待つような静けさだった。
やがて榊原が、低く言った。
「時間だ」
犬飼は慌てて姿勢を正した。
涙の跡をまた袖で拭い、深く頭を下げる。
「本当に、ありがとうございました」
誠司も小さく頭を下げた。
「こちらこそ」
「え?」
「会ってくれて、ありがとう」
犬飼はその言葉を聞いて、また泣きそうな顔になった。
けれど今度は、必死に堪えた。
「はい」
その返事は、先ほどよりも少し大人びていた。
面会室を出た犬飼は、廊下を歩きながら何度も目元を拭った。
廊下の照明が床に細長く伸びている。外の空は見えないのに、犬飼にはあの夜の光がずっと見えていた。壁を伝って走った細い光。暗闇の中で、自分の足元を照らしてくれた道。
玲奈が隣を歩いている。
しばらく二人は何も言わなかった。
靴音だけが続く。
こつ、こつ。
音が壁に当たり、少し遅れて戻ってくる。
「泣いたわね」
玲奈が言った。
犬飼は鼻をすすった。
「泣きました」
「かなり」
「はい。かなり」
そこで犬飼は、悔しそうに笑う代わりに、少しだけ空を見上げるように顔を上げた。天井しか見えない。それでも、その向こうにあるはずの空を思った。
「でも、言えました」
玲奈は頷いた。
「ええ」
「届いてたんですね」
「ええ」
犬飼は唇を噛んだ。
また涙が出そうだった。
「俺、もう暗くないです」
玲奈は横目で犬飼を見た。
「そう」
「はい」
犬飼は胸の前で拳を握った。
「俺、もっと強くなります」
廊下の先の扉が開き、外から夕方の光が差し込んできた。
薄い橙色の光だった。地下施設へ続く通路の白い壁に、その光が斜めに伸びる。空気中に漂う細かな埃が、光の中でゆっくり動いていた。外へ出ると、風が頬を撫でた。敷地の端の草が一斉に揺れ、さわさわと乾いた音を立てる。
犬飼は空を見上げた。
雲の端が夕日に染まっている。
あの夜の光の筋とは違う。
けれど、もう暗闇の記憶だけではなかった。
「俺、もっと強くなります」
犬飼はもう一度、誰に聞かせるでもなく言った。
「あの人に――親父に、心配かけないように」
風が吹いた。
草が波のように倒れ、また起き上がる。
玲奈は何も言わなかった。
ただ、少しだけ目を細め、同じ空を見上げていた。
その頃、誠司は帰りの電車に乗っていた。
車内は混んでいた。仕事帰りの人々が無言で吊り革につかまり、スマホの画面だけがあちこちで白く光っている。電車が揺れるたび、靴底が床を擦る音が重なった。誰かの鞄が誠司の脇に当たり、誠司は体を少しずらす。
窓の外には、夕方から夜へ沈んでいく街が流れていた。
ビルの窓が一つずつ灯り、川沿いの道には車のライトが細く連なっている。空の端に残った赤みが、ガラスに映る誠司の顔と重なっていた。
「親父、か」
小さく呟く。
自分の声は、車輪の音にすぐに溶けた。
悪い気はしなかった。
むしろ、胸の奥が少しだけ痛いくらい温かかった。
湊に呼ばれる「パパ」とは違う。
陽菜に頼られる時の感覚とも違う。
犬飼の口からこぼれたその言葉には、暗闇の底で誰かを求めた時間が混ざっていた。誠司はそれを、軽く受け取ることができなかった。
窓に映る自分の顔は、相変わらず疲れていた。
けれど、昨日よりも少しだけ、まっすぐ前を見ている気がした。
電車が鉄橋を渡る。
足元から硬い振動が伝わり、窓の外に黒い川面が見えた。川は街の光を細かく砕きながら流れている。風に揺れる水面の反射が、いくつもの小さな光になって消えていく。
その光を見ながら、誠司は思った。
もう、光点はただの光点ではない。
玲奈がいる。
犬飼がいる。
まだ会っていない誰かもいる。
自分が守ったものは、画面の中では終わらない。
人は帰ってからも生きていく。
笑い、泣き、誰かに礼を言いたくて、暗闇を何度も思い出す。
その重さを、誠司はようやく少しだけ知り始めていた。
同じ頃。
都心の高層ビルの一室では、白いテーブルの上に薄型端末が置かれていた。
壁一面の窓の向こうで、街の灯りが宝石のように広がっている。だが、その部屋にいる男たちは誰一人、その夜景を見ていなかった。
画面には、国家級ダンジョンの管理権限に関する資料が映し出されている。
その端に、小さく一つの名前があった。
佐藤誠司。
男の指が、その名前の上で止まった。
「一人の民間人に依存している現状は、危うい」
低い声が部屋に落ちた。
「ならば、代わりを用意すればいい」
窓の外で、赤い航空灯がゆっくり瞬いた。
その光は、誰にも気づかれないまま、黒いガラスに小さく滲んだ。




