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減給された40代社畜、深夜バイトで国家級ダンジョンの管理者になる  作者: Gaku
第1部:深夜バイト編

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第36話 あなたが、佐藤さん

地下施設の廊下は、外の夜よりも静かだった。


 壁に埋め込まれた細い照明が、白い床の上に薄い光の帯を落としている。蛍光灯のようにぎらつく明るさではなく、冷たい水の底から差し込むような、青みを帯びた光だった。誠司が一歩進むたび、革靴の底が床を叩き、硬い音が廊下の奥へ伸びていく。


 こつ、こつ。


 その音だけが、自分の居場所を確かめるように響いた。


 空調の低い唸りが天井の奥で続いている。乾いた風が頬を撫で、スーツの袖口をわずかに震わせた。地下にいるはずなのに、どこか遠い場所の空気を混ぜたような匂いがした。消毒液と金属と、機械の熱が薄く混じった匂い。何度来ても慣れない。


 誠司は無意識に、ネクタイの結び目に指をかけた。


 少しきつい。


 いや、きついのはネクタイではなかった。


 胸の奥が、息をするたびに狭くなる。


「佐藤さん」


 前を歩いていた榊原が、振り返らずに声をかけた。


「この先だ」


「あ、はい」


 返事をした声が、自分でも驚くほど頼りなかった。


 勤務を終えて、いつもなら家に帰る時間だった。美咲が作ってくれた夕飯の匂い。陽菜と湊の声。洗面所の水音。そういうものへ戻るはずの足が、今夜はまた別の場所へ向かっている。


 しかも、端末の前ではない。


 人に会う。


 その事実が、誠司の喉を乾かしていた。


 榊原が廊下の突き当たりで止まった。扉は小さな会議室のものだった。銀色の取っ手が、照明を受けて細く光っている。その光が、誠司の目に一瞬焼きついた。


「無理に話そうとしなくていい」


 榊原はそこで初めて振り返った。


 いつものように表情は硬い。けれど声は少しだけ低く、どこか慎重だった。


「向こうが、あんたに会いたがっていた」


「……俺に、ですか」


「ああ」


 榊原は短く頷いた。


「ずっとな」


 その言葉の重さが、扉の向こう側に置かれているようだった。


 誠司の手のひらに汗が滲んだ。ハンカチで拭こうとして、やめた。そんなことをしている自分が、余計に情けなく見える気がした。


 ただの中年男だ。


 くたびれたスーツを着て、会社では大した成果も出せず、減給され、副業にしがみついて、毎日どうにか家族を養っているだけの男。


 そんな自分に、誰かが会いたがる理由などあるのだろうか。


 榊原が扉を叩いた。


 二度。


 硬い音が、静かな廊下に短く響いた。


「入るぞ」


 返事を待たず、榊原が扉を開けた。


 会議室の中は、廊下よりもさらに静かだった。


 窓はない。白い壁。長方形の机。整然と並べられた椅子。天井の照明が机の表面に淡く反射し、そこだけ薄い水面のように見えた。部屋の隅に置かれた観葉植物の葉が、空調の風にかすかに揺れている。擦れ合う葉の音は小さすぎて、耳を澄まさなければ聞こえないほどだった。


 その部屋の中央に、一人の女性が立っていた。


 黒い髪を後ろで束ねている。白と黒を基調にした実戦服は無駄がなく、身体の線に沿って整っていた。背筋は真っ直ぐで、わずかに顎を引いている。立っているだけなのに、そこに一本の刃が置かれているような緊張感があった。


 だが、その目だけは違った。


 鋭いのに、冷たくない。


 深い夜の底に、小さな火を隠しているような目だった。


「佐藤さん。紹介する」


 榊原の声が、部屋の空気を静かに裂いた。


「S級探索者、神代玲奈」


 玲奈が誠司を見た。


 その瞬間、彼女の瞳がほんのわずかに揺れた。


 誠司には、その意味がわからなかった。ただ、視線を受けただけで足の裏が床に張りついたように動かなくなった。額の生え際に汗が浮く。指先が少し震えたので、誠司は鞄の持ち手を握りしめた。


 玲奈は一歩、前に出た。


 靴音はほとんどしなかった。


 それから、深く頭を下げた。


「神代玲奈です」


 声は静かだった。


 だが、その静けさの奥に、長い時間をかけて削られた感情があった。軽い挨拶ではない。形式的な礼でもない。胸の奥に抱え続けてきたものを、こぼさないように両手で支えながら差し出すような声だった。


「あなたに――ずっと、お会いしたかった」


 誠司は言葉を失った。


 会議室の空調が、薄く唸っている。


 観葉植物の葉が、また一度だけ擦れた。


 それ以外の音が消えた。


 榊原も何も言わない。誠司も玲奈も動かない。白い机の表面に落ちた照明だけが、静かに揺れているように見えた。


「あ、あの……」


 ようやく出た声は、かすれていた。


「俺は、その……ただのデータ入力で」


 玲奈が顔を上げた。


 その表情に、わずかな驚きが浮かんだ。けれどすぐに消えた。代わりに、痛みに似た優しさが滲んだ。


「本当に、そう思っているんですね」


「え……」


「自分が何をしたのか、まだわかっていない」


 責める言い方ではなかった。


 むしろ、その事実を確かめて、どこか納得したような声だった。


 誠司は黙るしかなかった。


 玲奈は机の横に立ったまま、ゆっくり息を吸った。胸元がわずかに上下する。その間だけ、部屋の空気がさらに重くなった気がした。


「B-14区画で、私のチームが閉じ込められた夜がありました」


 誠司の指が、鞄の持ち手を握る力を強めた。


 B-14。


 その記号を聞いた瞬間、頭の奥で端末の画面が灯った。


 暗い画面。細かい数値。赤く滲む警告。四つの光点。塞がった経路。安定値の微妙な揺れ。焦りで乾いた喉。震える指で押したキー。


 あの夜の記憶が、冷たい水の底から浮かび上がるように戻ってきた。


「退避経路が、すべて塞がっていました。通信も不安定で、外への連絡はほとんど届かない。私たちは、そこで終わると思っていました」


 玲奈の声は揺れなかった。


 だが、机の端に置かれた彼女の指先が、ほんの少しだけ白くなっていた。


「その時、経路が開いたんです」


 誠司の呼吸が浅くなった。


 あの時、自分は最短の道を選ばなかった。


 数値だけ見れば、早く出られる道はあった。けれどそこは不安定だった。もし途中で崩れたら、四つの光点はすべて消えるかもしれない。だから遠回りを選んだ。安定値を一気に上げず、少しずつ、少しずつ、段階を刻んだ。


 あれは、画面の中の作業だった。


 少なくとも誠司には、そう見えていた。


「あなたは、最短の道ではなく、安全な道を選んでくれました」


 玲奈が、まっすぐ誠司を見た。


「だから、私たちは全員帰れました」


 全員。


 その二文字が、誠司の胸に落ちた。


 ただの結果表示ではない。


 そこには顔があった。息があった。恐怖に震えながら、それでも帰ろうとした人たちがいた。


 その一人が、今、目の前に立っている。


「……俺は」


 誠司は口を開いたが、続きが出てこなかった。


 喉がひりついた。唾を飲み込んでも、乾きは消えない。


「俺は、ただ……数値を見て、危なそうなところを避けただけで」


「それが、私たちには道でした」


 玲奈の声が、少しだけ深くなった。


「暗闇の中で、帰れるかもしれないと思えた道でした」


 その言葉に、誠司は目を伏せた。


 会議室の床は磨かれていて、照明の光をぼんやり映していた。自分の靴の先が、そこに頼りなく映っている。くたびれた革靴。何度も修理に出そうと思いながら、まだ履き続けている靴。


 こんな靴を履いた男が、誰かの道を作った。


 信じられなかった。


 玲奈は静かに続けた。


「三年前、D-4区画で、私は仲間を二人失いました」


 部屋の空気が変わった。


 さっきまでの静けさとは違う。


 冷たい刃を、皮膚のすぐ近くに当てられたような静けさだった。


 榊原の表情がわずかに硬くなる。誠司は息を止めた。


 玲奈の目は、誠司を見ているようで、別の場所を見ていた。


 遠い場所。


 もう戻れない夜。


「退避経路が塞がって、通信も途切れて、外に声が届かなくなりました。判断を待つ時間だけが過ぎていって、空気が薄くなって、足元の振動が大きくなっていった」


 玲奈の指が、机の端から離れた。


 握って、開く。


 その動作は小さかったが、誠司には痛いほど見えた。


「最後まで、二人は私を先に行けと言いました」


 声が、初めてかすれた。


「私は、行きたくなかった」


 空調の音が急に大きく聞こえた。


 壁の奥で機械が唸る。どこか遠くで、水滴が一つ落ちたような音がした。ぽつん、と小さな響きが沈み、また静けさが戻る。


「でも、行くしかなかった」


 玲奈は目を伏せなかった。


 涙も流さなかった。


 ただ、まっすぐ立っていた。


 それがかえって、誠司の胸を締めつけた。泣いてくれた方が、まだ受け止めやすかった。壊れないように、崩れないように、三年間ずっと立ち続けてきた人の姿がそこにあった。


「あの時、あなたみたいな人がいてくれたら」


 玲奈の唇がわずかに震えた。


「あの二人も、星を見られたかもしれない」


 誠司の背中に、冷たい汗が流れた。


 自分にそんなことを言われても困る。


 そう思う一方で、否定してはいけないとも思った。


 これは褒め言葉ではなかった。


 彼女が抱えてきた喪失そのものだった。


 軽く受け流していいものではない。


 玲奈はもう一度、深く頭を下げた。


 先ほどよりも深く。


 まるで、ここにはいない誰かの分まで、その頭を下げているようだった。


「あなたが救った四人の中に、私がいました」


 誠司は動けなかった。


「今、こうして生きているのは――あなたのおかげです」


 玲奈の声が、静かに震えた。


「ありがとうございます」


 その言葉は、まっすぐ誠司に届いた。


 端末越しではない。


 ノイズ混じりでもない。


 警告音にかき消されることもない。


 同じ部屋で、同じ空気を吸っている人間の声として、誠司の胸に届いた。


 誠司の目の奥が熱くなった。


 視界が少し滲む。天井の照明がぼやけ、白い光の輪郭が溶けた。慌てて瞬きをすると、こぼれそうになったものが辛うじて戻る。


「……やめてください」


 やっと出た声は、ひどく小さかった。


 玲奈が顔を上げる。


「俺は、そんな……礼を言われるような人間じゃないです」


 誠司は首を振った。


「あなたが生きてるのは、あなたが頑張ったからで。俺は本当に、画面を見て、数字を直していただけで」


「佐藤さん」


 玲奈の声が、誠司の言葉を静かに止めた。


 強くはない。


 けれど、逃げ道を塞ぐ声だった。


「数字の向こうに、人がいると思ってくれた」


 誠司の胸が詰まった。


「それだけで、十分です」


 会議室に、長い沈黙が落ちた。


 それは気まずさではなかった。


 誰も次の言葉を急がない沈黙だった。


 天井の空調が風を送り、観葉植物の葉がかすかに擦れる。廊下の向こうで、誰かの靴音が一度だけ通り過ぎ、すぐに遠ざかった。部屋の中には、三人分の呼吸だけが残った。


 誠司は、ようやく玲奈を見た。


 目の前にいるのは、救われた人だった。


 同時に、失った人でもあった。


 そして、まだ立っている人だった。


「……すみません」


 誠司は、思わずそう言った。


 玲奈がわずかに眉を動かした。


「謝らないでください」


「でも」


「謝る必要はありません」


 玲奈は静かに首を振った。


「そういうところが」


 そこで言葉を切り、少しだけ迷ったように目を伏せた。


 会議室の照明が、彼女の睫毛の影を頬に落とす。ほんの短い影だったが、その一瞬に、彼女の強さの裏側にある疲れが見えた気がした。


「そういうところが、あなたがあの場所にいる理由なんだと思います」


 誠司は返事ができなかった。


 ただ胸の奥で、何かが静かに形を変えていくのを感じていた。


 光点。


 警告。


 安定値。


 退避経路。


 それらはもう、画面の中だけのものではなかった。


 玲奈がいた。


 彼女の仲間がいた。


 帰れた人がいて、帰れなかった人がいた。


 自分の指先が触れていたものの重さが、初めて生々しい温度を持って、誠司の手の中に落ちてきた。


 重い。


 けれど、手放してはいけない重さだった。


 榊原が、ゆっくり息を吐いた。


「今日はここまでにしてもいい」


 その声で、時間が再び動き出した。


 玲奈は一度だけ頷いた。


「はい」


 誠司も遅れて頷く。


「……はい」


 椅子には誰も座らなかった。


 用意された会議室で、三人はただ立ったまま、必要な言葉だけを交わした。それで十分だった。座って資料を広げるような話ではなかった。


 玲奈が扉の方へ歩き出す。


 その背中は真っ直ぐだった。けれど、最初に見た時よりもほんの少しだけ、人の体温があるように見えた。


 扉の前で、彼女は足を止めた。


「佐藤さん」


 呼ばれて、誠司は顔を上げた。


 玲奈は振り返っていた。


 白い照明を背にしているせいで、その輪郭が淡く縁取られている。黒髪の結び目が、空調の風でかすかに揺れた。


「一つ、お願いがあります」


「お願い、ですか」


「はい」


 玲奈は、まっすぐに誠司を見た。


「私はあなたを、管理者として尊敬しています」


 誠司は小さく息を呑んだ。


「でも」


 玲奈の声が、少しだけ柔らかくなった。


「これからは、佐藤さんとして接したいです」


 誠司の胸が、また詰まった。


「肩書きではなく、あなた個人として」


 その言葉は、さっきの感謝とは違う重さを持っていた。


 救った者と救われた者。


 管理する者と探索する者。


 そういう線の向こうから、彼女は手を伸ばしてきた。


 誠司は何度か瞬きをした。


 うまく答えられる自信はなかった。立派なことも言えない。胸を張ることもできない。


 それでも、逃げるような返事だけはしたくなかった。


「……はい」


 誠司は、ゆっくり頷いた。


「こちらこそ」


 玲奈の表情が、ほんの少しだけ緩んだ。


 それは笑顔と呼ぶには小さすぎた。けれど、凍った湖面に細い陽射しが差したような変化だった。


「ありがとうございます」


 そう言って、玲奈は扉を開けた。


 廊下の光が室内に流れ込む。


 その光の中で、彼女はもう一度だけ振り返った。


「あの夜の星、綺麗でした」


 誠司の呼吸が止まった。


「あなたが帰してくれた夜の、星空です」


 扉が静かに閉まった。


 音は小さかった。


 けれど、誠司の中ではいつまでも響いていた。


 榊原は何も言わず、少し離れた場所で立っている。


 誠司は会議室の中央に残されたまま、白い机を見つめた。照明が机の上に落ちている。さっきまでそこにあった玲奈の影はもうない。


「神代玲奈……」


 名前を口にすると、不思議なほど重かった。


 あの夜、画面の中で点滅していた四つの光の一つ。


 その光には、黒髪を束ねた女性の顔があった。


 背筋を伸ばし、涙をこらえ、失った人の分まで「ありがとう」と言う声があった。


 もう、ただの点には戻れない。


 誠司は鞄の持ち手を握りしめた。


 指先の震えは、まだ止まっていなかった。


 けれどそれは、さっきまでの緊張とは少し違っていた。


 怖い。


 重い。


 でも、逃げたくない。


 会議室の静けさの中で、誠司は初めて、端末の向こうにいる人たちの顔を本当に見た気がした。


 その時、机の上に置かれていた施設用端末が、短く震えた。


 榊原が画面を見る。


 彼の眉が、わずかに動いた。


「佐藤さん」


 誠司は顔を上げた。


 榊原は端末を伏せ、低い声で言った。


「明日、もう一人会わせたい奴がいる」


 地下の空調が、静かに風を吐き出していた。


 誠司の胸の奥で、玲奈の言葉がまだ消えずに残っている。


 あなたが帰してくれた夜の、星空。


 その星空を見上げた誰かが、まだいる。


 誠司は知らなかった。


 暗闇の中で光の筋を見つけ、声が届いたかどうかもわからないまま、ずっと礼を言いたがっていた若者がいることを。


施設を出た時、夜の風は思っていたより冷たかった。


 地下から地上へ上がる扉が背後で閉まると、空気の匂いが変わった。金属と消毒液の匂いが薄れ、代わりに湿った土と、遠くの車道から流れてくる排気の匂いが鼻先をかすめた。外灯の光が歩道の端を白く照らし、その向こうで植え込みの草が風に揺れている。


 細い葉が何本も重なり、さわ、さわ、と擦れ合う。


 誠司はしばらく、その音を聞いていた。


 ただの草の音だった。


 けれど、不思議と胸の奥まで届いた。


 あの夜の星、綺麗でした。


 玲奈の声が、まだ耳の中に残っている。


 端末の画面越しに見た四つの光点。そのうちの一つが、黒髪を束ねた女性で、三年前に失った仲間のことを今も抱えていて、それでも真っ直ぐ立っていた。


 誠司は歩き出した。


 革靴がアスファルトを叩く。地下施設の床とは違う、少しざらついた硬い音だった。小さな砂粒を踏むたび、靴底の下でかすかに音が砕ける。夜の街は完全には眠っていない。遠くで救急車のサイレンが薄く伸び、どこかの交差点で信号待ちの車が低く唸っている。


 そのすべての音が、今夜は妙に遠かった。


 駅へ向かう道の途中、誠司は足を止めた。


 ビルとビルの間に、細く空が見えた。


 雲は少ない。街の明かりに滲んで、星はほんの数えるほどしか見えなかった。それでも、ひとつだけ強く瞬いている星があった。冷たい夜気の中で、針の先ほどの光が動かずに浮かんでいる。


 玲奈も、あの日こうして見上げたのだろうか。


 命からがら外に出て、土と汗と血の匂いの中で、膝が崩れそうになりながら、それでも空を見たのだろうか。


 帰れなかった二人のことを思いながら。


 自分だけが見てしまった星を、胸の奥に焼きつけながら。


 誠司は拳を握った。


 指先が冷えている。手のひらにはまだ会議室で滲んだ汗の感触が残っていた。夜風がそこを撫でると、皮膚の表面だけが冷たくなり、奥の方にある熱は消えなかった。


「……数字じゃ、なかったんだな」


 誰に聞かせるでもなく呟いた声は、すぐに風にほどけた。


 これまで何度も見てきた赤い警告。


 安定値。


 退避経路。


 登録された光点。


 そこに人がいることは、頭ではわかっていた。わかっていたつもりだった。けれど、違った。今夜ようやく、その向こうにある息づかいを知った。震える手、乾いた喉、帰りたいと願う声。救われた後も、消えない痛み。


 自分が操作していたのは画面ではなかった。


 誰かの夜だった。


 駅の改札を抜けると、現実の音が一気に戻ってきた。


 改札機の電子音。足早に通り過ぎる人々の靴音。ホームへ続く階段から流れてくる熱気。会社帰りの人たちの疲れた会話。コンビニの袋が擦れる音。濡れた傘を持つ人の肩がぶつかり、誠司は小さく頭を下げた。


 いつもの世界だった。


 誰も誠司を見ていない。


 誰も知らない。


 このくたびれた中年男が、たった今、命を救われた人から頭を下げられてきたことなど。


 満員に近い電車の中で、誠司はドアの横に立った。吊り革につかまる余裕もなく、肩と肩の間に押し込まれる。車内は暖房の名残で少し蒸していて、スーツの布地と雨に湿った髪の匂いが混ざっていた。


 窓ガラスに、自分の顔が映る。


 疲れた顔だった。


 目の下には薄い影があり、髪には白いものが増えている。頬も少しこけた気がする。どう見ても、誰かの憧れになるような顔ではない。


 それなのに。


 あなたに、ずっとお会いしたかった。


 玲奈の声が胸に戻るたび、誠司は息の仕方を少し忘れた。


 電車が揺れた。


 誰かの鞄が腕に当たり、誠司は反射的に体を引いた。吊り広告の紙が揺れ、窓に映る顔も歪む。車輪が線路の継ぎ目を踏むたび、がたん、がたん、と硬い音が足元から伝わってきた。


 その振動の中で、誠司はぼんやりと陽菜と湊の顔を思い浮かべた。


 湊が寝る前に布団から足を出してしまうこと。陽菜が学校であったことを一気に話す時、途中で何を言いたかったのかわからなくなって笑うこと。美咲が朝、台所で味噌汁を温めながら、まだ眠そうな顔で「おはよう」と言うこと。


 帰る場所がある。


 玲奈には、帰れなかった仲間がいた。


 その差が、あまりにも重かった。


 電車を降り、夜道を歩く。


 住宅街は静かだった。家々の窓から漏れる明かりが、濡れた道路に柔らかく反射している。どこかの庭で植えられた木の葉が風に揺れ、乾いた音を立てた。街路樹の影が外灯に伸び、歩道の上で長く歪んでいる。


 自宅の玄関前で、誠司は一度だけ足を止めた。


 ドアの向こうから、かすかに生活の音がする。


 食器を片づける音。水道の水が流れる音。誰かが小さく咳をする音。


 それだけで、胸の奥が少しだけ緩んだ。


 鍵を差し込む手が、思ったより震えていた。


 がちゃり、と音がして、玄関の明かりが誠司を迎えた。


「おかえり」


 廊下の奥から、美咲の声がした。


 誠司は靴を脱ぎながら、少し遅れて答えた。


「ただいま」


 声が、思っていたより柔らかくなった。


 リビングに入ると、美咲が振り返った。髪を後ろで軽くまとめ、部屋着の袖を肘まで上げている。テーブルの上には湊が描いたらしい絵が置かれ、クレヨンの青が少しはみ出していた。ソファには陽菜の脱ぎっぱなしの上着が丸まっている。


 散らかった、いつもの家。


 その当たり前の景色が、今夜は眩しかった。


「遅かったね」


「ああ……ちょっと、話があって」


 美咲は誠司の顔を見た。


 その目が、すぐに何かを感じ取ったように細くなる。


「大丈夫?」


 誠司は一瞬、答えに詰まった。


 大丈夫かと聞かれれば、大丈夫ではない気もした。胸の奥に、重い石のようなものが沈んでいる。けれど、それは悪いだけの重さではなかった。


「うん」


 誠司はゆっくり頷いた。


「大丈夫」


 美咲はそれ以上、すぐには聞かなかった。


 ただ、湯呑みに温かいお茶を注いで、テーブルに置いた。湯気が細く立ち上り、部屋の明かりに白く滲む。誠司は両手でそれを包んだ。冷えた指先に、じんわりと熱が移ってくる。


 その温度で、ようやく自分が冷えていたことに気づいた。


「今日さ」


 誠司は湯呑みを見つめたまま言った。


「前に助けた人に、会ったんだ」


 美咲の手が止まった。


 けれど彼女は、黙って聞いていた。


「その人が……ありがとうって」


 言いながら、喉の奥が熱くなった。


「ちゃんと、目の前で言ってくれて」


 そこで言葉が途切れた。


 美咲は向かいの椅子に座った。椅子の脚が床を軽く擦る音がする。リビングの時計の秒針が、やけにはっきり聞こえた。


 かち、かち、かち。


 沈黙は重かった。


 でも、苦しくはなかった。


 美咲は、誠司が言葉を探す時間をそのまま置いてくれていた。急かさず、遮らず、ただそこに座っていた。


「俺、わかってなかった」


 誠司は小さく息を吐いた。


「人を助けたって言われても、正直、実感がなかった。画面見て、数字直して、警告が消えて。それだけだったから」


 湯気が揺れる。


 その向こうで、美咲の顔が少しぼやけた。


「でも、違った。その人は、ちゃんと生きてて……ずっと、覚えててくれて」


 誠司の声が震えた。


「俺がやったことを、俺よりずっと重く受け止めてた」


 美咲は静かに目を伏せた。


 それから、テーブルの上に置かれた誠司の手に、自分の手を重ねた。


 その手は温かかった。


「そっか」


 短い言葉だった。


 それだけだった。


 けれど、誠司には十分だった。


 リビングの外で、風が窓を撫でた。カーテンの裾がかすかに揺れ、薄い影が床を動く。子ども部屋の方から、湊が寝返りを打つ小さな音がした。


 この家も、あの地下も、もう別々ではいられない。


 誠司はそんなことを思った。


 だが、まだ美咲にすべてを話すことはできなかった。


 言えないことがある。


 その事実が、胸の奥をまた少し重くした。


 美咲は何も聞かず、ただ手を重ねたままだった。


 その夜、誠司はなかなか眠れなかった。


 寝室の天井は暗く、街灯の光がカーテンの隙間から細く入り込んでいる。隣で美咲が静かに寝息を立てている。家の中は深い夜の音に包まれていた。冷蔵庫の低い音。遠くを走る車の響き。壁の中で木材が小さく鳴る音。


 誠司は目を閉じた。


 すると、暗闇の中に四つの光点が浮かんだ。


 そのうちの一つが、玲奈の顔になる。


 星空の下で息を吸う彼女。


 帰れなかった二人の分まで立っている彼女。


 ありがとうございます、と頭を下げる彼女。


 誠司は胸の上で手を握った。


 逃げたくない。


 怖くても、もう知らなかった頃には戻れない。


 翌朝、目覚ましが鳴る前に目が覚めた。


 窓の外は薄い青色だった。夜と朝の境目の空に、まだ弱い月が残っている。カーテンを開けると、冷たい光が部屋の床に伸びた。埃がその光の中で細かく漂い、ゆっくりと沈んでいく。


 台所では、美咲が朝食の準備をしていた。


 味噌汁の匂い。焼いた卵の匂い。湊が眠そうな顔で椅子に座り、陽菜が髪を結びながら学校の支度をしている。


「パパ、今日眠そう」


 陽菜が言った。


 誠司は苦笑した。


「ちょっとな」


「また変な夢?」


「うーん……変ではないかな」


 湊が箸を持ったまま首を傾げる。


「じゃあ、いい夢?」


 誠司は少し考えた。


「……忘れちゃいけない夢、かな」


 陽菜も湊も、その意味まではわからなかったらしい。二人はすぐに別の話を始めた。給食のこと、体育のこと、隣の席の子が消しゴムをなくしたこと。


 いつもの朝だった。


 そのいつもの朝に、誠司は救われていた。


 会社へ向かう途中、スマホが震えた。


 榊原からだった。


 短い文面。


 今日の夕方、昨日と同じ施設へ来てほしい。会わせたい人物がいる。


 誠司は駅のホームで立ち止まった。


 朝の光がホームの屋根の隙間から差し込み、線路の上に鋭く反射している。電車を待つ人々の足音が、コンクリートの床に重なって響く。新聞を畳む音、スマホの通知音、誰かの小さなため息。


 その中で、誠司は画面を見つめた。


 会わせたい人物。


 昨夜の榊原の声が蘇る。


 明日、もう一人会わせたい奴がいる。


 胸の奥が、静かに強く鳴った。


 次は誰だ。


 自分はまた、誰かの顔を見るのか。


 画面の中の光点だった誰かが、今度はどんな声で自分の前に立つのか。


 誠司はスマホを握りしめた。


 返信を打つ指は、まだ少し震えていた。


 わかりました。


 送信ボタンを押す。


 電車がホームに滑り込んできた。風が巻き起こり、誠司のスーツの裾を揺らした。朝の冷たい空気と、電車の熱を帯びた風が混ざり合う。


 扉が開く。


 人の波が動く。


 誠司はその中へ足を踏み出した。


 昨日までと同じ会社へ向かう朝。


 けれど、胸の中にはもう、ただの数字ではないものがあった。


 その日の夕方。


 地下施設の小さな面会室で、一人の若者が落ち着きなく歩き回っていた。


 短く切った髪。まだ少年の名残を残す顔。強がるように背筋を伸ばしているが、指先は隠しきれないほど震えている。窓のない部屋の白い壁を、彼は何度も何度も見た。椅子に座っては立ち、また座ろうとして、結局立ったまま足踏みする。


「どうしよう……まず名乗るよな。いや、先に礼だよな。でも、いきなり泣いたら終わりだろ。いや、泣かない。泣かないぞ」


 隣に立つ玲奈が、静かに息を吐いた。


「落ち着きなさい」


「無理です」


 若者は即答した。


「だって、玲奈さんは昨日会ったんですよね。俺、今日なんですよ。ずっと、ずっと会いたかったんですよ」


 玲奈は何も言わなかった。


 ただ、その目にわずかな柔らかさがあった。


 若者は両手を握りしめ、扉を見た。


「俺、ちゃんと言います」


 声が震えていた。


「今度は、ちゃんと目を見て言います」


 廊下の向こうから、靴音が近づいてくる。


 こつ、こつ。


 若者の喉が動いた。


 扉の前で、その音が止まる。


 小さなノックが二度響いた。


 若者は息を止めた。


 扉が、ゆっくりと開く。


 榊原に続いて入ってきた男を見た瞬間、若者の目が大きく見開かれた。


 くたびれたスーツ。


 少し丸まった背中。


 疲れた顔。


 どこにでもいるような中年の男。


 けれど、その顔を、若者は知っていた。


 雨上がりの朝、角を曲がった時にすれ違った、ただの疲れた男。


 あの時は、何も知らずに通り過ぎた。


 若者の唇が震えた。


「……あ」


 誠司も、若者を見た。


 どこかで見た顔だと思った。


 記憶の奥で、朝の白い光と濡れた路面が重なる。すれ違いざまの若い顔。急いでいた足音。ぶつかりそうになって、互いに軽く頭を下げた一瞬。


 若者の目に、涙が盛り上がっていく。


「あなたが……」


 声が、掠れた。


「あなたが、あの光を」


 誠司の胸が、また強く鳴った。


 若者は一歩前に出た。


 今にも崩れそうな顔で、それでも必死に立っていた。


「俺、犬飼陸斗です」


 空調の風が、部屋の隅で小さく唸った。


 玲奈が静かに目を伏せる。


 榊原は扉の横で黙っている。


 若者――犬飼陸斗は、涙をこらえきれない目で、誠司をまっすぐ見た。


「ずっと、あなたに言いたかったんです」


 その声は、暗闇の奥からようやく出口を見つけたように震えていた。


「ありがとうございますって」

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