第35話「カッコいい」
日曜日の朝は、平日の朝よりも音が柔らかかった。
窓の外では、マンション脇の植え込みがゆっくり風に揺れている。細い葉が朝の光を受け、白く光っては、また緑の陰に戻った。空は薄い水色で、遠くの建物の屋上に残った夜の湿り気が、太陽に温められて淡くほどけていくようだった。
リビングのカーテンは半分だけ開いていた。
差し込んだ光が床に長く伸び、テーブルの脚の影を斜めに落としている。埃がその光の中でゆっくり舞い、キッチンから立ち上る湯気と混じって、朝の空気に白い揺らぎを作っていた。
誠司は、キッチンに立っていた。
フライパンの上で卵焼きがふくらんでいる。箸で端を持ち上げると、黄色い表面がやわらかく揺れた。小さな気泡が弾け、甘い匂いがふわりと立つ。隣のコンロでは味噌汁が静かに煮えていた。豆腐が鍋の中でゆっくり動き、わかめが湯の流れに合わせて揺れている。
焼き網の上では鮭が焼けていた。
皮の端が少し焦げ、脂が落ちるたびに、じゅ、と小さな音がする。香ばしい匂いがキッチンからリビングへ広がっていった。
いつもの朝より、一品多い。
それだけのことだった。
けれど誠司にとっては、少しだけ特別だった。
深夜の仕事で入る金が、家の食卓に形を持って現れている。卵焼きと味噌汁だけで済ませていた朝に、焼き鮭を足せる。スーパーの売り場で、値引きシールだけを探さずに済む。
大きな変化ではない。
世界を変えたわけでもない。
ただ、湊と陽菜の皿に、いつもより少しだけ多くおかずを乗せられる。
それが、胸に静かに染みた。
誠司は味噌汁の火を弱め、鍋のふたを少しずらした。湯気が白く立ち上り、頬に触れる。温かい。地下施設の作業室の乾いた空気とはまるで違う、家の匂いだった。
廊下の奥から、小さな足音が聞こえてきた。
ぱたぱた、と軽い音。
次の瞬間、湊が眠そうな顔でリビングに入ってきた。髪は跳ね、パジャマの上着は少しめくれている。片手で目をこすりながらも、鼻だけは朝食の匂いに反応していた。
「パパ……今日、お仕事ない?」
寝起きの声だった。
誠司は振り向いて、少し笑った。
「ないよ。今日は一日いる」
湊の目が、一瞬で覚めた。
「ほんと?」
「ほんと」
「やった!」
湊は両手を上げたあと、すぐにテーブルの方へ走ろうとして、美咲に叱られる前に自分で止まった。
「あ、走らない」
「えらいな」
「湊、成長したから」
胸を張る湊の後ろから、陽菜が静かに入ってきた。
陽菜は湊ほど大きな声を出さない。寝癖もほとんどなく、パジャマの襟もきちんとしていた。けれど、まだ眠気は残っているのか、目だけが少し細い。
「おはよう、パパ」
「おはよう、陽菜」
陽菜は食卓の上を見た。
卵焼き、味噌汁、ごはん。
そして、焼き鮭。
その視線が、そこで少し止まった。
「パパ、今日お魚あるんだ」
「たまにはな」
誠司は皿に鮭を乗せながら答えた。
「ちゃんと骨に気をつけて食べろよ」
「うん」
陽菜は返事をしたあと、すぐには椅子に座らなかった。
誠司の顔を見ていた。
じっと。
何かを測るように。
誠司はその視線に気づいて、少し首を傾げた。
「どうした?」
「ううん」
陽菜はそう言って椅子に座った。
美咲はキッチンの入り口に立ち、その様子を見ていた。
湊がはしゃぎ、陽菜が静かに観察し、誠司が朝食を並べている。いつもの日曜日の朝に見える。けれど、美咲の胸の奥には、昨夜から消えない言葉があった。
管理者。
安定値。
深夜。
端末。
誠司が焼き鮭を皿に置く手を、美咲は見ていた。
その手が、夜のどこかで何をしているのか。
画面の向こうで、誰を帰しているのか。
まだ本人の口から聞いていない。問い詰めてもいない。けれど、もう何も知らなかった頃には戻れなかった。
食卓に四人がそろった。
朝の光がテーブルの上に落ちている。湯気の立つ味噌汁の表面に、窓からの明るさが淡く映っていた。箸が茶碗に触れる音。鮭の皮を箸で割る音。湊が熱い味噌汁に息を吹きかける音。
「いただきます」
四人の声が重なった。
湊はさっそく鮭の身をほぐし、ご飯の上に乗せた。
「しゃけ丼!」
「こぼさないでよ」
陽菜が冷静に言う。
「こぼさない。湊、成長したから」
そう言った直後、湊の茶碗から鮭の欠片が一つ落ちた。
美咲が布巾を取ろうとするより早く、誠司が手を伸ばした。
「ほら、成長途中だな」
「途中!」
湊はなぜか誇らしげに言った。
美咲は少し笑った。
その笑いが自分でも思ったより柔らかく出て、少しだけ胸が緩んだ。
誠司は味噌汁をすすった。
出汁の味が、いつもより少し濃く感じる。寝不足の体に、温かさがゆっくり落ちていく。昨夜の作業室の青白い光が、まだ目の奥に残っていた。赤い表示。緑に変わる文字。コトリの声。
百二十七名。
その数字は、食卓に座っていても消えなかった。
でも、今ここにある味噌汁の湯気も、湊の声も、陽菜の静かな視線も、本物だった。
どちらかだけが自分の世界なのではない。
どちらも、もう手放せない。
「パパ」
陽菜がふいに言った。
誠司は箸を止めた。
「ん?」
陽菜は味噌汁のお椀を両手で持ったまま、少し考えるように誠司を見ていた。
リビングの空気が、ほんの少し静かになる。
湊が鮭を口に入れたまま、姉を見る。
美咲も、箸を置きかけた手を止めた。
陽菜はまっすぐ言った。
「パパ、最近カッコいい」
誠司の箸が止まった。
焼き鮭の小さな欠片が、箸の先で揺れる。
「……カッコいい?」
自分のことだとは思えないような声だった。
「パパが?」
「うん」
陽菜は当然のようにうなずいた。
「なんか、前と違う」
「前と?」
「前は、ずっとため息ついてた」
その言葉に、誠司は何も返せなかった。
美咲も黙った。
陽菜の声は責めているわけではなかった。ただ、見たままを言っているだけだった。だからこそ、誠司の胸に深く入った。
「ごはん食べてる時も、テレビ見てる時も、なんか遠く見てた。でも最近は……」
陽菜は言葉を探すように視線を少し上げた。
「ちゃんとここにいる感じがする」
誠司の喉が、かすかに動いた。
窓の外で風が吹き、植え込みの葉が一斉に揺れた。葉と葉が擦れる音はガラス越しに小さくしか届かない。それでも、朝の静けさの中では、そのわずかなざわめきがやけにはっきり聞こえた。
「背中も、前よりまっすぐ」
陽菜は続けた。
「あと、朝ごはんもおいしくなった」
「それは大事!」
湊が勢いよく言った。
「パパのたまご、今日ふわふわ!」
誠司は困ったように笑おうとした。
でも、うまく笑えなかった。
胸の奥が熱くなっていた。
会社で評価されなかったこと。
何をやっても地味だと思っていたこと。
毎日ため息をついて、家族の前でも疲れを隠しきれなかったこと。
それを、陽菜は見ていた。
そして今、理由も知らないまま、変化だけを見てくれている。
「……そんなことまで気づくのか」
ようやく出た声は、少し掠れていた。
陽菜は首を傾げた。
「家族だから気づくよ」
その一言で、誠司は顔を伏せそうになった。
美咲は誠司を見ていた。
夫の目が、ほんのわずかに潤んでいるのがわかった。湊は気づかず、卵焼きを頬張っている。陽菜は静かに味噌汁をすすっている。
何も知らない子どもたちが、誠司の一番奥にある変化だけを見つけている。
美咲はその光景を、胸の奥にしまい込むように見つめた。
怖い。
それは消えない。
夫が夜ごと何を背負っているのか、考えるだけで指先が冷える。
それでも、目の前の誠司は確かに変わっていた。
追い詰められた顔で遠くを見ていた人が、今は食卓に座り、子どもたちの声を受け止めている。疲れているのに、ここにいる。逃げずに、ここに戻ってきている。
美咲は味噌汁のお椀を持ち上げた。
湯気が目元に触れ、視界が少し滲んだ。
「よかったね、パパ」
美咲が言うと、誠司は小さくうなずいた。
「ああ」
それだけだった。
けれど、その短い返事の中に、言えないものがたくさん詰まっていた。
朝食が終わるころには、陽射しが少し強くなっていた。
窓から入る光がテーブルの上の皿を明るく照らし、鮭の皮に残った焦げ目までくっきり見せている。湊は食後すぐに立ち上がり、リビングの隅から青いスニーカーを持ってきた。
「パパ、公園!」
「まだ歯磨きしてないだろ」
「してから行く!」
「顔も洗う」
「洗う!」
「宿題は?」
その一言で、湊の動きが止まった。
陽菜が横から静かに言う。
「昨日、半分しかやってないよね」
「……公園のあと、ものすごい速さでやる」
「先にやりなさい」
美咲の声に、湊は肩を落とした。
誠司は笑った。
「じゃあ、宿題が終わったら行こう。今日は一日いるから」
湊の顔が明るくなる。
「ほんとに?」
「ほんとに」
誠司はそう言って、食器を重ねた。
その手元を、陽菜がもう一度だけ見ていた。
何も言わなかった。
ただ、少しだけ嬉しそうに見えた。
美咲は窓の外へ視線を向けた。
風が吹き、植え込みの草が明るい朝の中で波のように揺れている。太陽の光が葉先に散り、何度も小さく瞬いた。
この平穏が、ずっと続けばいい。
そう思った。
けれど、その願いの奥で、昨夜スマホに残った検索履歴が静かに光っていた。
ダンジョン 管理者 安定値。
美咲は目を閉じる。
すぐに開ける。
リビングでは、湊が宿題のプリントを広げ、誠司が食器を洗い始めていた。水が皿に当たり、明るい音を立てる。陽菜は椅子に座ったまま、父の背中を見ている。
その背中は、朝の光の中で、ほんの少しだけ大きく見えた。
昼前には、空の青が少し濃くなっていた。
近所の公園には、日曜日らしい明るさが広がっている。砂場の縁には小さな靴の跡がいくつも重なり、ブランコの鎖が風に揺れて、かすかにきい、と鳴った。芝生の端では、伸び始めた草が風に押されて波のように倒れ、またゆっくり起き上がる。陽射しはまだ真夏ほど強くないのに、白い遊具の表面には眩しい光が跳ねていた。
湊は青いスニーカーで芝生の上を駆けていた。
つい最近買ったばかりの靴だ。鮮やかな青が、緑の上で跳ねるたびに光る。靴底が地面を蹴る音は軽く、弾むようだった。
「パパ、こっち!」
「速いな、湊」
誠司は少し遅れて追いかける。
体は重い。昨夜の疲れは抜けきっていない。足の裏には、地下施設の硬い床を歩いた感覚がまだ残っている。けれど、湊が振り返って笑うたび、不思議と足は前に出た。
この靴を買えたのは、あの仕事のおかげだ。
この公園で、こうして走れるのも。
誠司は息を切らしながら、そう思った。
大きなことをした実感は、まだない。国家級ダンジョンの管理者だと言われても、自分の中ではうまく形にならない。けれど、湊の足元にある青い靴は、はっきりと目に見える。
家計が少し楽になった。
朝食に焼き鮭を出せた。
日曜日に、公園で子どもと走れている。
それが、誠司には十分すぎるほど重かった。
「パパ、遅い!」
「四十二歳に無茶言うな」
「でもパパ、最近ちょっと速いよ!」
「ちょっとだけか」
「ちょっとだけ!」
湊は笑いながら走った。
その足が、芝生の少し盛り上がったところに引っかかった。
「あっ」
小さな声。
次の瞬間、湊の体が前へ倒れた。
芝生を擦る音がして、青いスニーカーが空を蹴る。乾いた土の匂いがふわりと立ち、湊の膝が地面に当たった。
「いたーい!」
泣き声が、公園の明るい空気を裂いた。
誠司の胸が、強く跳ねた。
考えるより先に体が動いた。靴音が芝生を叩く。息が喉で詰まり、冷たい汗が背中に滲む。
「湊!」
駆け寄ると、湊は膝を押さえて座り込んでいた。擦りむいた膝に、細い赤い線ができている。血は少しだけだった。大した怪我ではない。だが、湊の目には大きな涙が溜まっていた。
「大丈夫か」
「いたい……」
「見せてみろ」
誠司は膝をつき、湊の足をそっと支えた。
掌の下で、湊の小さな足が震えている。さっきまで元気に芝生を蹴っていた足だ。青いスニーカーの側面には、少し土がついていた。
誠司は鞄から小さなポーチを取り出した。
美咲がいつも入れてくれている絆創膏と消毒用のシート。以前なら、こういうものの場所をすぐには思い出せなかったかもしれない。けれど今は、迷わず取り出せた。
「しみるぞ」
「やだ」
「ちょっとだけだ」
「ちょっとって言うと、だいたいちょっとじゃない」
「今日は本当にちょっとだ」
湊は唇を尖らせながらも、じっとしていた。
誠司は消毒シートで膝の砂をそっと拭いた。湊が小さく肩を震わせる。誠司の指先にも、わずかな震えがあった。傷は浅い。わかっている。それでも、赤い線を見るだけで、胸の奥がざわついた。
昨夜の赤い表示が重なる。
消さなければならない赤。
放っておけば広がるかもしれない赤。
誠司は息を整え、絆創膏を貼った。
端を押さえ、ずれないようにする。
「よし」
湊は涙をためたまま、自分の膝を見た。
「パパ、絆創膏うまいね」
「まあな」
誠司は少しだけ笑った。
「パパは、こういうの得意だから」
壊れたものを直す。
乱れたものを整える。
傷をふさぎ、帰れるようにする。
それがどんな場所であっても、自分にできることは結局、そういうことなのかもしれなかった。
湊は誠司の首にしがみついた。
「もう走らない」
「いいよ。少し休もう」
「でもブランコは乗る」
「切り替えが早いな」
湊は鼻をすすりながらも、少しだけ笑った。
ベンチの方で、美咲がこちらを見ていた。
陽菜はその隣に座り、持ってきた本を膝の上で閉じている。二人とも、誠司と湊のやり取りを黙って見ていた。
美咲の手にはスマホがあった。
画面は消えている。
けれど、美咲はさっきまでそれを見ていた。検索結果はいくつも並んでいた。管理者の記事、誰かの考察、真偽のわからない書き込み。どれも断片にすぎない。それでも、いくつかの言葉だけは何度も出てくる。
深夜。
端末。
安定値。
退避経路。
探索者の生還率。
美咲はスマホを伏せ、誠司を見つめた。
夫は、息子の膝に絆創膏を貼っている。
その手つきは不器用で、けれど驚くほど丁寧だった。絆創膏の端を何度も押さえ、湊が痛がらないように膝を支えている。世界のどこかで何をしているのだとしても、今ここにいる誠司は、ただ息子の擦り傷を本気で心配する父親だった。
美咲の胸が、ぎゅっと痛んだ。
あなたなのかな。
声には出さなかった。
出せば、今の穏やかな光景が壊れてしまいそうだった。
陽菜がぽつりと言った。
「パパ、前よりちゃんと見てる」
美咲は娘を見た。
「何を?」
「湊のことも、ママのことも」
陽菜は芝生の方を見たまま言った。
「前は、見てるけど見てない時があった。でも最近は、ちゃんと見てる」
美咲は返事ができなかった。
子どもは、何も知らないようでいて、時々いちばん深いところを見ている。
風が吹いた。
公園の木々が揺れ、乾いた葉の音が重なった。陽射しは穏やかで、空気には草と土の匂いが混じっている。遠くで別の子どもが笑い、ボールが地面を弾む音がした。
この穏やかさが、ひどく危うく思えた。
夜。
子どもたちが眠ったあと、家の中は静かになった。
リビングの照明は少し落としてある。テーブルの上には、湊が公園から持ち帰った小さな石が一つ置かれていた。陽菜の本はきちんと棚に戻され、ソファの上には美咲が畳んだタオルが重ねられている。
誠司は玄関で靴を履いていた。
深夜バイトへ向かう準備は、もう習慣になっていた。鞄の中には水筒、タオル、替えのシャツ。美咲がそっと入れておいた小さな菓子もある。誠司はまだ気づいていない。
美咲は玄関の明かりの下に立っていた。
白い照明が二人の影を廊下に落としている。夜の家は静かで、寝室の方から湊の寝息がかすかに聞こえた。陽菜の寝息はもっと静かで、耳を澄まさなければわからない。
「行ってきます」
誠司が言った。
いつもの言葉。
けれど、今夜も美咲には軽く聞こえなかった。
「行ってらっしゃい」
美咲は答えた。
誠司がドアノブに手をかける。
その背中を見て、美咲は言葉を重ねた。
「帰ってきてね」
誠司の手が止まる。
一瞬だけ、玄関の空気が深く沈んだ。
冷蔵庫の低い音も、外を走る車の音も、遠くなったように感じる。白い照明の下で、誠司の肩がわずかに上下した。
振り返った誠司は、静かにうなずいた。
「帰ってくるよ」
その声は、前よりも低く、はっきりしていた。
美咲は小さく笑った。
「うん」
本当は、聞きたいことがいくつもあった。
あなたは何をしているの。
記事に書かれている人は、あなたなの。
安定値って何。
どうしてそんなに疲れているの。
どうして、怖いのに行くの。
けれど、美咲は聞かなかった。
夫が話すと言った。
もう少しだけ待ってくれと言った。
だから、待つ。
ただし、何も知らないままではいない。
誠司がドアを開けると、夜風が玄関へ入り込んだ。少し湿った冷たい風だった。廊下の先で、外灯の光が鈍く光っている。
ドアが閉まる。
鍵の音がする。
誠司の靴音が廊下を遠ざかっていく。
こつ。
こつ。
こつ。
その音が消えるまで、美咲は玄関に立っていた。
誠司は夜の住宅街を歩いていた。
公園で走ったせいか、足に少し疲れが残っている。だが、湊を抱き上げた感触も、陽菜に言われた言葉も、胸の中にまだ温かく残っていた。
パパ、最近カッコいい。
思い出すだけで、喉の奥が詰まりそうになる。
自分が格好いいわけではない。
怖くて、迷って、手が震えて、何度も逃げたくなる。
それでも、陽菜の目には何かが変わって見えた。
なら、その変化を裏切りたくなかった。
誠司は夜空を見上げた。
雲の隙間から、細い月が見える。街灯の光に負けそうなほど頼りない光だった。けれど、確かにそこにあった。
靴音がアスファルトに落ちる。
こつ。
こつ。
こつ。
今夜も赤いランプを消しに行く。
今夜も、誰かに帰れよと言うために。
同じ頃、別の場所で、まったく違う光が夜を照らしていた。
オービットゲート社の高層階。
窓の外には、都市の灯りが幾層にも広がっている。赤い航空灯が遠くで点滅し、ビルのガラスには室内の冷たい光が反射していた。空調の音はほとんど聞こえないほど静かで、床には靴音すら吸い込む厚い絨毯が敷かれている。
白瀬は、壁一面のモニターを見ていた。
画面には、記事のアクセス数を示す折れ線が表示されている。線は数日前から急に角度を変え、鋭く上へ伸びていた。関連する検索語も、並んでいる。
国家級ダンジョン。
管理者。
正体不明。
政府関係者。
白瀬は無表情で、その上昇を眺めていた。
「広がり始めたな」
背後に控えていた技術者が、わずかに姿勢を正した。
「はい。主要なニュースサイトだけでなく、個人の投稿にも波及しています」
「政府側の反応は」
「表向きは沈黙しています。ただ、内部では問い合わせが増えているようです」
白瀬は薄く笑った。
その笑みには、温度がなかった。
「人は、見えないものを怖がる。そして、怖がったものを管理したがる」
モニターの光が、白瀬の眼鏡に青白く映る。
「ミラージュは?」
「試作機は安定稼働中です。まだ人間の判断を完全に置き換える段階ではありませんが、提案資料としては十分です」
「十分では困る」
白瀬の声は静かだった。
だが、その場の空気がわずかに硬くなる。
「政府が欲しがっているのは、安心できる言葉だ。不確実な人間より、管理された仕組みの方が安全だと信じられる材料を用意しろ」
「はい」
「提案書を送れ」
白瀬はモニターから目を離さない。
「題は、自動管理への移行計画案でいい」
技術者が端末を操作する音が、静かな部屋に小さく響いた。
白瀬は窓の外を見た。
都市の灯りは美しかった。遠くの道路を走る車の光が、川のように流れている。その一つ一つに人がいる。暮らしがある。だが、この高さから見れば、それらはただの点の連なりにしか見えなかった。
「管理者などという不確かな人間に、国の安全を任せる時代は終わりだ」
白瀬の声は、ガラスに反射して戻ってきた。
その頃、誠司はまだ夜道を歩いていた。
鞄の中には、美咲が入れた小さな菓子がある。
膝に絆創膏を貼った湊は、寝息を立てている。
陽菜は、父の背中が少し大きく見えた理由をまだ知らない。
美咲は、暗いリビングでスマホの画面を見つめている。
佐藤誠司は帰ってくる。
毎晩、帰ってくる。
約束だから。
けれど、その帰る場所を壊そうとしている者がいる。
まだ誠司の名前は知らない。
しかし、「管理者」を消すための準備は、静かに進んでいた。
夜風が吹き、街路樹の葉が乾いた音を立てた。
誠司の靴音は、その音に紛れながら地下施設へ向かっていく。
世界を支えるおっさんは、息子の膝に絆創膏を貼り、娘にカッコいいと言われ、妻に帰ってきてねと言われて、今夜も赤いランプの前へ向かう。
遠くのビルの窓で、冷たい光がひとつ消えた。




