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減給された40代社畜、深夜バイトで国家級ダンジョンの管理者になる  作者: Gaku
第1部:深夜バイト編

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35/75

第35話「カッコいい」

 日曜日の朝は、平日の朝よりも音が柔らかかった。


 窓の外では、マンション脇の植え込みがゆっくり風に揺れている。細い葉が朝の光を受け、白く光っては、また緑の陰に戻った。空は薄い水色で、遠くの建物の屋上に残った夜の湿り気が、太陽に温められて淡くほどけていくようだった。


 リビングのカーテンは半分だけ開いていた。


 差し込んだ光が床に長く伸び、テーブルの脚の影を斜めに落としている。埃がその光の中でゆっくり舞い、キッチンから立ち上る湯気と混じって、朝の空気に白い揺らぎを作っていた。


 誠司は、キッチンに立っていた。


 フライパンの上で卵焼きがふくらんでいる。箸で端を持ち上げると、黄色い表面がやわらかく揺れた。小さな気泡が弾け、甘い匂いがふわりと立つ。隣のコンロでは味噌汁が静かに煮えていた。豆腐が鍋の中でゆっくり動き、わかめが湯の流れに合わせて揺れている。


 焼き網の上では鮭が焼けていた。


 皮の端が少し焦げ、脂が落ちるたびに、じゅ、と小さな音がする。香ばしい匂いがキッチンからリビングへ広がっていった。


 いつもの朝より、一品多い。


 それだけのことだった。


 けれど誠司にとっては、少しだけ特別だった。


 深夜の仕事で入る金が、家の食卓に形を持って現れている。卵焼きと味噌汁だけで済ませていた朝に、焼き鮭を足せる。スーパーの売り場で、値引きシールだけを探さずに済む。


 大きな変化ではない。


 世界を変えたわけでもない。


 ただ、湊と陽菜の皿に、いつもより少しだけ多くおかずを乗せられる。


 それが、胸に静かに染みた。


 誠司は味噌汁の火を弱め、鍋のふたを少しずらした。湯気が白く立ち上り、頬に触れる。温かい。地下施設の作業室の乾いた空気とはまるで違う、家の匂いだった。


 廊下の奥から、小さな足音が聞こえてきた。


 ぱたぱた、と軽い音。


 次の瞬間、湊が眠そうな顔でリビングに入ってきた。髪は跳ね、パジャマの上着は少しめくれている。片手で目をこすりながらも、鼻だけは朝食の匂いに反応していた。


「パパ……今日、お仕事ない?」


 寝起きの声だった。


 誠司は振り向いて、少し笑った。


「ないよ。今日は一日いる」


 湊の目が、一瞬で覚めた。


「ほんと?」


「ほんと」


「やった!」


 湊は両手を上げたあと、すぐにテーブルの方へ走ろうとして、美咲に叱られる前に自分で止まった。


「あ、走らない」


「えらいな」


「湊、成長したから」


 胸を張る湊の後ろから、陽菜が静かに入ってきた。


 陽菜は湊ほど大きな声を出さない。寝癖もほとんどなく、パジャマの襟もきちんとしていた。けれど、まだ眠気は残っているのか、目だけが少し細い。


「おはよう、パパ」


「おはよう、陽菜」


 陽菜は食卓の上を見た。


 卵焼き、味噌汁、ごはん。


 そして、焼き鮭。


 その視線が、そこで少し止まった。


「パパ、今日お魚あるんだ」


「たまにはな」


 誠司は皿に鮭を乗せながら答えた。


「ちゃんと骨に気をつけて食べろよ」


「うん」


 陽菜は返事をしたあと、すぐには椅子に座らなかった。


 誠司の顔を見ていた。


 じっと。


 何かを測るように。


 誠司はその視線に気づいて、少し首を傾げた。


「どうした?」


「ううん」


 陽菜はそう言って椅子に座った。


 美咲はキッチンの入り口に立ち、その様子を見ていた。


 湊がはしゃぎ、陽菜が静かに観察し、誠司が朝食を並べている。いつもの日曜日の朝に見える。けれど、美咲の胸の奥には、昨夜から消えない言葉があった。


 管理者。


 安定値。


 深夜。


 端末。


 誠司が焼き鮭を皿に置く手を、美咲は見ていた。


 その手が、夜のどこかで何をしているのか。


 画面の向こうで、誰を帰しているのか。


 まだ本人の口から聞いていない。問い詰めてもいない。けれど、もう何も知らなかった頃には戻れなかった。


 食卓に四人がそろった。


 朝の光がテーブルの上に落ちている。湯気の立つ味噌汁の表面に、窓からの明るさが淡く映っていた。箸が茶碗に触れる音。鮭の皮を箸で割る音。湊が熱い味噌汁に息を吹きかける音。


「いただきます」


 四人の声が重なった。


 湊はさっそく鮭の身をほぐし、ご飯の上に乗せた。


「しゃけ丼!」


「こぼさないでよ」


 陽菜が冷静に言う。


「こぼさない。湊、成長したから」


 そう言った直後、湊の茶碗から鮭の欠片が一つ落ちた。


 美咲が布巾を取ろうとするより早く、誠司が手を伸ばした。


「ほら、成長途中だな」


「途中!」


 湊はなぜか誇らしげに言った。


 美咲は少し笑った。


 その笑いが自分でも思ったより柔らかく出て、少しだけ胸が緩んだ。


 誠司は味噌汁をすすった。


 出汁の味が、いつもより少し濃く感じる。寝不足の体に、温かさがゆっくり落ちていく。昨夜の作業室の青白い光が、まだ目の奥に残っていた。赤い表示。緑に変わる文字。コトリの声。


 百二十七名。


 その数字は、食卓に座っていても消えなかった。


 でも、今ここにある味噌汁の湯気も、湊の声も、陽菜の静かな視線も、本物だった。


 どちらかだけが自分の世界なのではない。


 どちらも、もう手放せない。


「パパ」


 陽菜がふいに言った。


 誠司は箸を止めた。


「ん?」


 陽菜は味噌汁のお椀を両手で持ったまま、少し考えるように誠司を見ていた。


 リビングの空気が、ほんの少し静かになる。


 湊が鮭を口に入れたまま、姉を見る。


 美咲も、箸を置きかけた手を止めた。


 陽菜はまっすぐ言った。


「パパ、最近カッコいい」


 誠司の箸が止まった。


 焼き鮭の小さな欠片が、箸の先で揺れる。


「……カッコいい?」


 自分のことだとは思えないような声だった。


「パパが?」


「うん」


 陽菜は当然のようにうなずいた。


「なんか、前と違う」


「前と?」


「前は、ずっとため息ついてた」


 その言葉に、誠司は何も返せなかった。


 美咲も黙った。


 陽菜の声は責めているわけではなかった。ただ、見たままを言っているだけだった。だからこそ、誠司の胸に深く入った。


「ごはん食べてる時も、テレビ見てる時も、なんか遠く見てた。でも最近は……」


 陽菜は言葉を探すように視線を少し上げた。


「ちゃんとここにいる感じがする」


 誠司の喉が、かすかに動いた。


 窓の外で風が吹き、植え込みの葉が一斉に揺れた。葉と葉が擦れる音はガラス越しに小さくしか届かない。それでも、朝の静けさの中では、そのわずかなざわめきがやけにはっきり聞こえた。


「背中も、前よりまっすぐ」


 陽菜は続けた。


「あと、朝ごはんもおいしくなった」


「それは大事!」


 湊が勢いよく言った。


「パパのたまご、今日ふわふわ!」


 誠司は困ったように笑おうとした。


 でも、うまく笑えなかった。


 胸の奥が熱くなっていた。


 会社で評価されなかったこと。


 何をやっても地味だと思っていたこと。


 毎日ため息をついて、家族の前でも疲れを隠しきれなかったこと。


 それを、陽菜は見ていた。


 そして今、理由も知らないまま、変化だけを見てくれている。


「……そんなことまで気づくのか」


 ようやく出た声は、少し掠れていた。


 陽菜は首を傾げた。


「家族だから気づくよ」


 その一言で、誠司は顔を伏せそうになった。


 美咲は誠司を見ていた。


 夫の目が、ほんのわずかに潤んでいるのがわかった。湊は気づかず、卵焼きを頬張っている。陽菜は静かに味噌汁をすすっている。


 何も知らない子どもたちが、誠司の一番奥にある変化だけを見つけている。


 美咲はその光景を、胸の奥にしまい込むように見つめた。


 怖い。


 それは消えない。


 夫が夜ごと何を背負っているのか、考えるだけで指先が冷える。


 それでも、目の前の誠司は確かに変わっていた。


 追い詰められた顔で遠くを見ていた人が、今は食卓に座り、子どもたちの声を受け止めている。疲れているのに、ここにいる。逃げずに、ここに戻ってきている。


 美咲は味噌汁のお椀を持ち上げた。


 湯気が目元に触れ、視界が少し滲んだ。


「よかったね、パパ」


 美咲が言うと、誠司は小さくうなずいた。


「ああ」


 それだけだった。


 けれど、その短い返事の中に、言えないものがたくさん詰まっていた。


 朝食が終わるころには、陽射しが少し強くなっていた。


 窓から入る光がテーブルの上の皿を明るく照らし、鮭の皮に残った焦げ目までくっきり見せている。湊は食後すぐに立ち上がり、リビングの隅から青いスニーカーを持ってきた。


「パパ、公園!」


「まだ歯磨きしてないだろ」


「してから行く!」


「顔も洗う」


「洗う!」


「宿題は?」


 その一言で、湊の動きが止まった。


 陽菜が横から静かに言う。


「昨日、半分しかやってないよね」


「……公園のあと、ものすごい速さでやる」


「先にやりなさい」


 美咲の声に、湊は肩を落とした。


 誠司は笑った。


「じゃあ、宿題が終わったら行こう。今日は一日いるから」


 湊の顔が明るくなる。


「ほんとに?」


「ほんとに」


 誠司はそう言って、食器を重ねた。


 その手元を、陽菜がもう一度だけ見ていた。


 何も言わなかった。


 ただ、少しだけ嬉しそうに見えた。


 美咲は窓の外へ視線を向けた。


 風が吹き、植え込みの草が明るい朝の中で波のように揺れている。太陽の光が葉先に散り、何度も小さく瞬いた。


 この平穏が、ずっと続けばいい。


 そう思った。


 けれど、その願いの奥で、昨夜スマホに残った検索履歴が静かに光っていた。


 ダンジョン 管理者 安定値。


 美咲は目を閉じる。


 すぐに開ける。


 リビングでは、湊が宿題のプリントを広げ、誠司が食器を洗い始めていた。水が皿に当たり、明るい音を立てる。陽菜は椅子に座ったまま、父の背中を見ている。


 その背中は、朝の光の中で、ほんの少しだけ大きく見えた。



昼前には、空の青が少し濃くなっていた。


 近所の公園には、日曜日らしい明るさが広がっている。砂場の縁には小さな靴の跡がいくつも重なり、ブランコの鎖が風に揺れて、かすかにきい、と鳴った。芝生の端では、伸び始めた草が風に押されて波のように倒れ、またゆっくり起き上がる。陽射しはまだ真夏ほど強くないのに、白い遊具の表面には眩しい光が跳ねていた。


 湊は青いスニーカーで芝生の上を駆けていた。


 つい最近買ったばかりの靴だ。鮮やかな青が、緑の上で跳ねるたびに光る。靴底が地面を蹴る音は軽く、弾むようだった。


「パパ、こっち!」


「速いな、湊」


 誠司は少し遅れて追いかける。


 体は重い。昨夜の疲れは抜けきっていない。足の裏には、地下施設の硬い床を歩いた感覚がまだ残っている。けれど、湊が振り返って笑うたび、不思議と足は前に出た。


 この靴を買えたのは、あの仕事のおかげだ。


 この公園で、こうして走れるのも。


 誠司は息を切らしながら、そう思った。


 大きなことをした実感は、まだない。国家級ダンジョンの管理者だと言われても、自分の中ではうまく形にならない。けれど、湊の足元にある青い靴は、はっきりと目に見える。


 家計が少し楽になった。


 朝食に焼き鮭を出せた。


 日曜日に、公園で子どもと走れている。


 それが、誠司には十分すぎるほど重かった。


「パパ、遅い!」


「四十二歳に無茶言うな」


「でもパパ、最近ちょっと速いよ!」


「ちょっとだけか」


「ちょっとだけ!」


 湊は笑いながら走った。


 その足が、芝生の少し盛り上がったところに引っかかった。


「あっ」


 小さな声。


 次の瞬間、湊の体が前へ倒れた。


 芝生を擦る音がして、青いスニーカーが空を蹴る。乾いた土の匂いがふわりと立ち、湊の膝が地面に当たった。


「いたーい!」


 泣き声が、公園の明るい空気を裂いた。


 誠司の胸が、強く跳ねた。


 考えるより先に体が動いた。靴音が芝生を叩く。息が喉で詰まり、冷たい汗が背中に滲む。


「湊!」


 駆け寄ると、湊は膝を押さえて座り込んでいた。擦りむいた膝に、細い赤い線ができている。血は少しだけだった。大した怪我ではない。だが、湊の目には大きな涙が溜まっていた。


「大丈夫か」


「いたい……」


「見せてみろ」


 誠司は膝をつき、湊の足をそっと支えた。


 掌の下で、湊の小さな足が震えている。さっきまで元気に芝生を蹴っていた足だ。青いスニーカーの側面には、少し土がついていた。


 誠司は鞄から小さなポーチを取り出した。


 美咲がいつも入れてくれている絆創膏と消毒用のシート。以前なら、こういうものの場所をすぐには思い出せなかったかもしれない。けれど今は、迷わず取り出せた。


「しみるぞ」


「やだ」


「ちょっとだけだ」


「ちょっとって言うと、だいたいちょっとじゃない」


「今日は本当にちょっとだ」


 湊は唇を尖らせながらも、じっとしていた。


 誠司は消毒シートで膝の砂をそっと拭いた。湊が小さく肩を震わせる。誠司の指先にも、わずかな震えがあった。傷は浅い。わかっている。それでも、赤い線を見るだけで、胸の奥がざわついた。


 昨夜の赤い表示が重なる。


 消さなければならない赤。


 放っておけば広がるかもしれない赤。


 誠司は息を整え、絆創膏を貼った。


 端を押さえ、ずれないようにする。


「よし」


 湊は涙をためたまま、自分の膝を見た。


「パパ、絆創膏うまいね」


「まあな」


 誠司は少しだけ笑った。


「パパは、こういうの得意だから」


 壊れたものを直す。


 乱れたものを整える。


 傷をふさぎ、帰れるようにする。


 それがどんな場所であっても、自分にできることは結局、そういうことなのかもしれなかった。


 湊は誠司の首にしがみついた。


「もう走らない」


「いいよ。少し休もう」


「でもブランコは乗る」


「切り替えが早いな」


 湊は鼻をすすりながらも、少しだけ笑った。


 ベンチの方で、美咲がこちらを見ていた。


 陽菜はその隣に座り、持ってきた本を膝の上で閉じている。二人とも、誠司と湊のやり取りを黙って見ていた。


 美咲の手にはスマホがあった。


 画面は消えている。


 けれど、美咲はさっきまでそれを見ていた。検索結果はいくつも並んでいた。管理者の記事、誰かの考察、真偽のわからない書き込み。どれも断片にすぎない。それでも、いくつかの言葉だけは何度も出てくる。


 深夜。


 端末。


 安定値。


 退避経路。


 探索者の生還率。


 美咲はスマホを伏せ、誠司を見つめた。


 夫は、息子の膝に絆創膏を貼っている。


 その手つきは不器用で、けれど驚くほど丁寧だった。絆創膏の端を何度も押さえ、湊が痛がらないように膝を支えている。世界のどこかで何をしているのだとしても、今ここにいる誠司は、ただ息子の擦り傷を本気で心配する父親だった。


 美咲の胸が、ぎゅっと痛んだ。


 あなたなのかな。


 声には出さなかった。


 出せば、今の穏やかな光景が壊れてしまいそうだった。


 陽菜がぽつりと言った。


「パパ、前よりちゃんと見てる」


 美咲は娘を見た。


「何を?」


「湊のことも、ママのことも」


 陽菜は芝生の方を見たまま言った。


「前は、見てるけど見てない時があった。でも最近は、ちゃんと見てる」


 美咲は返事ができなかった。


 子どもは、何も知らないようでいて、時々いちばん深いところを見ている。


 風が吹いた。


 公園の木々が揺れ、乾いた葉の音が重なった。陽射しは穏やかで、空気には草と土の匂いが混じっている。遠くで別の子どもが笑い、ボールが地面を弾む音がした。


 この穏やかさが、ひどく危うく思えた。


 夜。


 子どもたちが眠ったあと、家の中は静かになった。


 リビングの照明は少し落としてある。テーブルの上には、湊が公園から持ち帰った小さな石が一つ置かれていた。陽菜の本はきちんと棚に戻され、ソファの上には美咲が畳んだタオルが重ねられている。


 誠司は玄関で靴を履いていた。


 深夜バイトへ向かう準備は、もう習慣になっていた。鞄の中には水筒、タオル、替えのシャツ。美咲がそっと入れておいた小さな菓子もある。誠司はまだ気づいていない。


 美咲は玄関の明かりの下に立っていた。


 白い照明が二人の影を廊下に落としている。夜の家は静かで、寝室の方から湊の寝息がかすかに聞こえた。陽菜の寝息はもっと静かで、耳を澄まさなければわからない。


「行ってきます」


 誠司が言った。


 いつもの言葉。


 けれど、今夜も美咲には軽く聞こえなかった。


「行ってらっしゃい」


 美咲は答えた。


 誠司がドアノブに手をかける。


 その背中を見て、美咲は言葉を重ねた。


「帰ってきてね」


 誠司の手が止まる。


 一瞬だけ、玄関の空気が深く沈んだ。


 冷蔵庫の低い音も、外を走る車の音も、遠くなったように感じる。白い照明の下で、誠司の肩がわずかに上下した。


 振り返った誠司は、静かにうなずいた。


「帰ってくるよ」


 その声は、前よりも低く、はっきりしていた。


 美咲は小さく笑った。


「うん」


 本当は、聞きたいことがいくつもあった。


 あなたは何をしているの。


 記事に書かれている人は、あなたなの。


 安定値って何。


 どうしてそんなに疲れているの。


 どうして、怖いのに行くの。


 けれど、美咲は聞かなかった。


 夫が話すと言った。


 もう少しだけ待ってくれと言った。


 だから、待つ。


 ただし、何も知らないままではいない。


 誠司がドアを開けると、夜風が玄関へ入り込んだ。少し湿った冷たい風だった。廊下の先で、外灯の光が鈍く光っている。


 ドアが閉まる。


 鍵の音がする。


 誠司の靴音が廊下を遠ざかっていく。


 こつ。


 こつ。


 こつ。


 その音が消えるまで、美咲は玄関に立っていた。


 誠司は夜の住宅街を歩いていた。


 公園で走ったせいか、足に少し疲れが残っている。だが、湊を抱き上げた感触も、陽菜に言われた言葉も、胸の中にまだ温かく残っていた。


 パパ、最近カッコいい。


 思い出すだけで、喉の奥が詰まりそうになる。


 自分が格好いいわけではない。


 怖くて、迷って、手が震えて、何度も逃げたくなる。


 それでも、陽菜の目には何かが変わって見えた。


 なら、その変化を裏切りたくなかった。


 誠司は夜空を見上げた。


 雲の隙間から、細い月が見える。街灯の光に負けそうなほど頼りない光だった。けれど、確かにそこにあった。


 靴音がアスファルトに落ちる。


 こつ。


 こつ。


 こつ。


 今夜も赤いランプを消しに行く。


 今夜も、誰かに帰れよと言うために。


 同じ頃、別の場所で、まったく違う光が夜を照らしていた。


 オービットゲート社の高層階。


 窓の外には、都市の灯りが幾層にも広がっている。赤い航空灯が遠くで点滅し、ビルのガラスには室内の冷たい光が反射していた。空調の音はほとんど聞こえないほど静かで、床には靴音すら吸い込む厚い絨毯が敷かれている。


 白瀬は、壁一面のモニターを見ていた。


 画面には、記事のアクセス数を示す折れ線が表示されている。線は数日前から急に角度を変え、鋭く上へ伸びていた。関連する検索語も、並んでいる。


 国家級ダンジョン。


 管理者。


 正体不明。


 政府関係者。


 白瀬は無表情で、その上昇を眺めていた。


「広がり始めたな」


 背後に控えていた技術者が、わずかに姿勢を正した。


「はい。主要なニュースサイトだけでなく、個人の投稿にも波及しています」


「政府側の反応は」


「表向きは沈黙しています。ただ、内部では問い合わせが増えているようです」


 白瀬は薄く笑った。


 その笑みには、温度がなかった。


「人は、見えないものを怖がる。そして、怖がったものを管理したがる」


 モニターの光が、白瀬の眼鏡に青白く映る。


「ミラージュは?」


「試作機は安定稼働中です。まだ人間の判断を完全に置き換える段階ではありませんが、提案資料としては十分です」


「十分では困る」


 白瀬の声は静かだった。


 だが、その場の空気がわずかに硬くなる。


「政府が欲しがっているのは、安心できる言葉だ。不確実な人間より、管理された仕組みの方が安全だと信じられる材料を用意しろ」


「はい」


「提案書を送れ」


 白瀬はモニターから目を離さない。


「題は、自動管理への移行計画案でいい」


 技術者が端末を操作する音が、静かな部屋に小さく響いた。


 白瀬は窓の外を見た。


 都市の灯りは美しかった。遠くの道路を走る車の光が、川のように流れている。その一つ一つに人がいる。暮らしがある。だが、この高さから見れば、それらはただの点の連なりにしか見えなかった。


「管理者などという不確かな人間に、国の安全を任せる時代は終わりだ」


 白瀬の声は、ガラスに反射して戻ってきた。


 その頃、誠司はまだ夜道を歩いていた。


 鞄の中には、美咲が入れた小さな菓子がある。


 膝に絆創膏を貼った湊は、寝息を立てている。


 陽菜は、父の背中が少し大きく見えた理由をまだ知らない。


 美咲は、暗いリビングでスマホの画面を見つめている。


 佐藤誠司は帰ってくる。


 毎晩、帰ってくる。


 約束だから。


 けれど、その帰る場所を壊そうとしている者がいる。


 まだ誠司の名前は知らない。


 しかし、「管理者」を消すための準備は、静かに進んでいた。


 夜風が吹き、街路樹の葉が乾いた音を立てた。


 誠司の靴音は、その音に紛れながら地下施設へ向かっていく。


 世界を支えるおっさんは、息子の膝に絆創膏を貼り、娘にカッコいいと言われ、妻に帰ってきてねと言われて、今夜も赤いランプの前へ向かう。


 遠くのビルの窓で、冷たい光がひとつ消えた。

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