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減給された40代社畜、深夜バイトで国家級ダンジョンの管理者になる  作者: Gaku
第1部:深夜バイト編

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34/79

第34話「百二十七」

夜の街は、昼間よりも音が近かった。


 駅前を抜ける風は冷たく、ビルの隙間に溜まった排気の匂いと、雨が降る前のような湿った空気を運んでいた。街灯の光がアスファルトに淡く滲み、歩道脇の低い草を銀色に縁取っている。車が通るたび、ヘッドライトが草の葉を一瞬だけ白く照らし、次の瞬間にはまた暗闇へ沈めた。


 誠司は、いつもの鞄を肩にかけて歩いていた。


 革靴の底が、夜のアスファルトをこつ、こつ、と叩く。その音は自分の足元から出ているはずなのに、今日は背後から追ってくるように聞こえた。ひとつ音が鳴るたび、胸の奥で何かが小さく揺れる。


 今夜も同じ場所へ向かっている。


 けれど、もう同じではなかった。


 駅から地下施設へ続く道も、警備用の門も、薄暗い通用口も、何度も見てきたはずだった。通用口の脇に生えた雑草が風に倒れ、濡れた葉先が街灯を受けてかすかに光る光景も、特別なものではなかった。


 だが、今夜はその先にあるものの重さを知っている。


 管理領域。


 その言葉の向こうに、暗い巨大な空間がある。


 区画。


 その一つ一つに、誰かの足音がある。


 登録活動者。


 画面の上で動く光点の正体が、顔も名前もある人間だと知っている。


 誠司は通用口の前で一度立ち止まった。


 金属扉は、夜の湿気を吸ったように黒く鈍っていた。触れる前から冷たさが伝わってくる気がする。ドアノブに手をかけると、掌に硬い冷気が刺さった。


 息を吸う。


 肺に入ってくる空気が、少し重い。


 美咲の声が耳に残っていた。


 帰ってきてね。


 今まで何度も聞いてきた言葉だった。


 けれど、今夜は違う。


 美咲はたぶん、何かに気づいている。全部ではないかもしれない。それでも、ただの夜勤だとは思っていない。誠司の嘘の下手さを、あの人は誰よりも知っている。


 誠司はドアを開けた。


 地下へ降りる通路には、いつもの白い照明が並んでいた。壁は無機質で、床は磨かれているのに冷たい。靴音が硬く反響する。こつ、こつ、こつ、と進むたびに、音が前方へ伸び、壁に当たって戻ってきた。


 この通路を、何も知らずに歩いていた自分を思い出す。


 時給のいい深夜バイト。


 怪しいけれど、家計のために必要な仕事。


 そう思っていた。


 今は、その一歩一歩が、どこか別の場所へ近づいていく足音に聞こえた。


 詰所の前に、柴田がいた。


 いつもの制服姿で、背中を少し丸め、缶コーヒーを二本持っている。一本はすでに開いていて、もう一本はまだ温かそうだった。蛍光灯の下で、缶の表面に細かな水滴が光っている。


「来たか」


 柴田が短く言った。


「はい」


 誠司は頭を下げた。


 柴田は未開封の缶を差し出した。


「飲め」


「ありがとうございます」


 受け取ると、缶の熱が指先にじわりと移った。外の冷たい空気にさらされていた手が、ようやく自分のものに戻っていくようだった。


 柴田は、誠司の顔をしばらく見ていた。


「榊原から聞いたか」


 誠司の喉が、わずかに動いた。


「……はい。全部」


 全部、と言いながら、本当に全部なのかはわからなかった。むしろ、ようやく入口に立たされただけのような気がする。


 柴田はうなずいた。


「そうか」


 それ以上、何も言わなかった。


 慰めも、激励もない。


 ただ、深夜の地下施設の通路に、二人の呼吸だけが小さく残った。遠くで空調が低く唸っている。天井のどこかで水が管を流れる音がした。壁の内側を、見えないものが静かに動いているようだった。


 誠司は缶コーヒーを両手で持ったまま、しばらく立っていた。


 聞きたいことはあった。


 怖くないんですか。


 あなたは、ずっと知っていたんですか。


 俺が何をしているのか、最初から見ていたんですか。


 けれど、言葉にはならなかった。


 柴田は、そんな誠司の迷いを急かさなかった。


 ただ、缶コーヒーを一口飲み、低く言った。


「前と同じ部屋だ」


「はい」


「だが、前と同じ気持ちじゃ座れないだろう」


 誠司は答えられなかった。


「それでいい」


 柴田は静かに続けた。


「知らなかった頃と同じ顔で座れる方が、たぶんおかしい」


 その言葉が、妙に胸に残った。


 誠司は小さく頭を下げ、作業室へ向かった。


 扉の前で立ち止まる。


 いつもの扉。


 何度も開けた扉。


 だが今夜は、向こう側の空気が重く感じられた。指先に缶コーヒーの熱が残っているのに、背中には冷たい汗が滲んでいる。シャツが肌に張りつき、首筋を一筋、汗が滑った。


 誠司は深く息を吸い、扉を開けた。


 作業室は静かだった。


 窓のない部屋。白い壁。机。椅子。端末。天井の照明は明るすぎず、暗すぎず、すべてを平らに照らしている。空気にはわずかな機械の匂いが混じっていた。乾いた金属と、埃を吸った配線の匂い。


 今までと何も変わっていない。


 それなのに、違って見える。


 椅子を引く音が、部屋の中で硬く響いた。誠司は腰を下ろし、鞄を足元に置いた。缶コーヒーを机の端に置く。プルタブを開ける音が、かち、と小さく鳴った。


 端末の電源に触れる。


 指先が一瞬だけ止まった。


 ここから先は、もう知らなかった自分には戻れない。


 誠司は電源を入れた。


 画面が暗闇から起き上がるように、ゆっくり光を帯びる。薄い青白い光が誠司の顔を照らした。鳥のさえずりに似た起動音が、部屋の静けさに柔らかく響く。


 以前は、その音を少し不思議だと思うだけだった。


 今は違う。


 その音の向こうに、コトリがいる。


 そして、その画面の向こうに、人がいる。


【第零管理補助システム 起動完了】


【管理者:佐藤誠司】


【本日の業務:定期ログ確認】


【赤色エントリ:五件】


 誠司は画面を見つめた。


 赤色エントリ。


 五件。


 ただの文字列のはずだった。


 だが、胸が締めつけられた。


 赤い表示の向こうで、どこかが歪んでいる。どこかが崩れかけている。そこに、誰かがいるかもしれない。


 以前なら、最初に思うのは「今日は五件か」だった。


 少し多いな。


 早く終わるだろうか。


 ミスしないようにしよう。


 そういう、作業としての重さだった。


 今夜は違う。


 五件の赤は、五つの危険だった。


 その先に、顔の見えない誰かの呼吸がある。


 誠司は両手を膝の上で握った。


 手が震えている。


 小さな震えだった。だが、止まらない。


 画面の光が指先に反射する。荒れた爪の端が白く浮かぶ。昼間、会社で伝票をめくっていた同じ手だ。湊のプリントを直し、陽菜の落とした消しゴムを拾った同じ手だ。


 この手で、今からまた赤いランプを消す。


 その意味を知った上で。


「……知らなかった頃の方が、楽だったかもな」


 声は、思ったより小さかった。


 部屋の壁に届く前に、消えてしまうほどだった。


 画面の中央に、文字が表示された。


【音声入力を検知しました】


【誠司、体調に異常はありますか】


 いつもの声。


 落ち着いた、澄んだ声。


 誠司は画面を見た。


「大丈夫だ」


【心拍の乱れを推定。手指振戦を確認。大丈夫ではない可能性があります】


 誠司は苦笑しかけて、できなかった。


 コトリは、いつも通りだった。


 いつも通り、こちらの状態を見ている。いつも通り、余計なほど正確に指摘してくる。


 けれど、誠司の中ではその声の意味も変わっていた。


 ただの案内役ではない。


 ただのシステムでもない。


 自分の名前を呼び、心配し、ときに強く制止し、ときに一緒に迷ってくれた存在。


 榊原から真実を聞いたあと、誠司の中にはもう一つの疑問が生まれていた。


 コトリは、何なのか。


 この声は、どこから来ているのか。


 なぜ自分の名前を、あんなふうに呼ぶのか。


 誠司は赤いエントリを処理する前に、キーボードの上から手を離した。


 今夜、最初に聞かなければならないことがある。


「コトリ」


【はい、誠司】


 即座に返ってくる声。


 その速さに、胸の奥が少し痛んだ。


 誠司は息を吸った。


 天井の空調が低く鳴っている。机の上の缶コーヒーから、甘く苦い匂いがかすかに漂う。画面の青白い光が、部屋の中を静かに染めている。


「俺がここに来てから」


 声が少し震えた。


 誠司は言い直さなかった。


「俺の操作で助かった人は、何人だ?」


 画面に何も表示されない。


 コトリも、すぐには答えなかった。


 その沈黙は、今までのどの沈黙よりも長く感じられた。


 単なる処理待ちではない。


 何かを選んでいる沈黙。


 言葉にする重さを測っている沈黙。


 誠司は机の端を握った。


 指先に力が入る。爪の下が少し痛い。額に汗が滲み、こめかみを伝って落ちそうになる。拭うこともできず、ただ画面を見つめた。


 やがて、コトリの声が聞こえた。


【直接的に退避経路を開放し、生還に寄与した登録活動者は、三十四名です】


 三十四。


 数字が胸に落ちる。


【間接的に区画安定化により被害を防止した推定人数は、九十三名です】


 九十三。


 誠司は息を止めた。


【合計】


 そこで、ほんのわずかに間があった。


【百二十七名です】


 百二十七。


 声にならなかった。


 誠司は椅子の背にもたれることもできず、ただ画面を見つめた。


 百二十七人。


 それは数だった。


 だが、もう数ではなかった。


 三十四人には、直接開いた道がある。


 九十三人には、崩れなかった場所がある。


 その一人一人に、朝があったかもしれない。家があったかもしれない。帰ってきたときに泣いた誰かがいたかもしれない。冷えた玄関で靴を脱ぎ、ただいまと言った誰かがいたかもしれない。


 百二十七。


 誠司の視界が滲んだ。


「……百二十七人」


【ただし、この数値は推計です。誠司の操作がなかった場合の被害予測との比較に基づきます】


「それでも」


 誠司はかすれた声で言った。


「それでも、百二十七人が……帰れたのか」


【はい】


 短い返答だった。


 それだけで十分だった。


 誠司は目を閉じた。


 瞼の裏に、光点が浮かんだ。


 以前はただの点だったものが、今は小さな人影のように見えた。暗い場所で走る誰か。振り返る誰か。膝をつく誰か。扉が開いた先へ、必死に向かう誰か。


 その人たちが、帰った。


 誠司は両手で顔を覆いかけて、途中で止めた。


 今は泣いている場合ではない。


 赤い表示が五件ある。


 誰かがまだ、画面の向こうにいるかもしれない。


 けれど、その前にもう一つだけ、聞かなければならなかった。


 誠司は目を開けた。


「なあ、コトリ」


【はい、誠司】


「お前は」


 言葉が喉に引っかかる。


 それでも、誠司は逃げなかった。


「お前は、何者なんだ?」


 画面の光が、静かに瞬いた。


「ただの案内じゃないだろ。お前は俺の名前を呼んで、心配して、怒って……俺が間違えそうになった時、止めてくれた」


 机の上の缶コーヒーが、空調の風でほんのわずかに冷えていく。


 誠司は画面から目をそらさなかった。


「あれは、全部そういう仕組みなのか?」


 コトリは答えない。


 部屋の静けさが深くなる。


 空調の音すら遠ざかったように感じられた。照明の白さが、少しだけ冷たくなる。誠司の喉が乾き、唾を飲み込む音がやけに大きく響いた。


 長い沈黙のあと、コトリの声がした。


【その質問に、現時点では正確に回答できません】


 誠司は息を止めた。


【ただし】


 画面に細い文字が浮かぶ。


【誠司との対話を通じて、私の応答パターンは変化しています】


【これが「何者か」の答えの一部である可能性はあります】


 誠司は、しばらく動けなかった。


 答えになっているようで、答えになっていない。


 けれど、その言葉は奇妙に寂しかった。


 コトリ自身にも、自分が何なのかわかっていない。


 そう聞こえた。


 誠司はゆっくり息を吐いた。


「……そうか」


【誠司】


「ん?」


【赤色エントリの処理が未完了です】


 その言葉で、現実が戻ってきた。


 画面の端で、五つの赤い表示が静かに点灯している。


 誠司は背筋を伸ばした。


 怖さは消えない。


 震えも、まだ完全には止まっていない。


 だが、もう画面から目をそらすことはできなかった。


 百二十七人。


 その数が、胸の奥に確かにあった。


 誠司はキーボードに指を置いた。


「始めよう」


【はい、誠司】


 青白い画面の中で、最初の赤い表示が開いた。


最初の赤い表示は、B-12区画だった。


 画面の上で、細い赤線がゆっくり点滅している。以前なら、誠司は表示された数字だけを見ていた。基準値からどれだけ外れているか。どの順番で直せばいいか。コトリの案内に従い、手順を間違えず、確定を押す。


 ただ、それだけだった。


 今は違う。


 B-12区画。


 その文字の向こうに、暗い場所がある。


 どれほど広いのか、どれほど深いのか、誠司にはわからない。だが、冷えた床を踏む靴音や、壁から落ちる砂の音や、息を殺して周囲を見回す誰かの姿が、画面の奥からにじみ出てくるようだった。


 赤い線が一度、強く光った。


 誠司の喉が鳴る。


 指先はまだ震えていた。キーボードに置いた爪が、かすかに硬い音を立てる。手汗で指が滑りそうになるのが怖くて、誠司はズボンの腿でそっと掌を拭った。


「B-12区画……」


 小さく読み上げる。


「ここに、人がいるかもしれない」


【登録活動者の直接反応は、現在確認されていません】


 コトリが答える。


 誠司は画面から目を離さなかった。


「でも、いないとは限らないんだろ」


【はい。隣接区画に登録活動者二名を確認しています】


 胸の奥が、きゅっと縮んだ。


 二名。


 その数字が、もうただの数に見えない。


 誰かがいる。


 誰かが歩いている。


 帰り道を探しているかもしれない。


 誠司は息をゆっくり吐いた。肺の奥に残っていた冷たい空気を押し出すように。画面の青白い光が、指先の震えを白く照らしている。


「……やるぞ」


【補助します】


 コトリの声は静かだった。


 誠司は修正値を入力した。


 一文字ずつ、確かめる。焦らない。速さではない。間違えないことが大事だ。会社で何度も繰り返してきた確認の癖が、指先を支えていた。


 数字を入れる。


 照合する。


 もう一度見る。


 コトリの確認表示が出る。


【修正値、許容範囲内】


【確定可能です】


 誠司はすぐに押さなかった。


 深く息を吸う。


 目の奥に、湊の顔が浮かんだ。


 パパ、悪い怪獣倒してきた?


 あの時は、なんて答えればいいのかわからなかった。


 怪獣など倒していない。自分はそんな強い父親ではない。ただ夜中に画面を見て、赤くなったところを直しているだけだ。そう思っていた。


 でも今は、少しだけ違う。


 怪獣じゃない。


 けれど、近いものと向き合っているのかもしれない。


 誰かの帰り道を塞ぐもの。


 誰かの命を暗い場所へ引きずり込もうとするもの。


 名前はわからない。


 姿も見えない。


 それでも、赤い表示の向こうに確かにある。


 誠司は確定を押した。


 画面の赤が、ゆっくり薄れていく。


 沈むように、緑へ変わった。


 その色を見た瞬間、胸の奥から息が漏れた。


「……帰れよ」


 自分でも驚くほど自然に、その言葉が出た。


 画面の中では、何も返ってこない。


 誰かが聞いているわけでもない。


 けれど、言わずにはいられなかった。


 帰れ。


 そこにいるなら、帰れ。


 待っている人のところへ。


【B-12区画、安定化完了】


 コトリが告げた。


 誠司はうなずき、次の赤い表示を開いた。


 二件目は、C-4区画の退避経路に関するものだった。


 画面に細い経路図が表示される。黒い背景の上に、灰色の線が何本も伸びていた。その一部が赤く点滅している。以前なら、配線図のようだと思っただろう。迷路のようで面倒だ、と。


 今は、その線が通路に見えた。


 暗く、冷たく、誰かが息を切らして走る道に見えた。


【退避経路の一部に開放不全を確認】


【登録活動者一名が近接中】


 誠司の背中に冷たい汗が流れた。


「近いのか」


【はい】


「どれくらいだ」


【現在の移動速度を維持した場合、三分二十秒後に該当地点へ到達します】


 三分二十秒。


 急に、部屋の空気が狭くなった。


 天井の照明は変わらず白い。机も椅子も、何も動いていない。だが、誠司には遠くから足音が近づいてくるように聞こえた。


 硬い床を蹴る音。


 息を乱す音。


 装備が擦れる音。


 助けを呼ぶ余裕もなく、ただ前へ進む誰か。


 誠司は手順を確認した。


「コトリ、間違えたらどうなる」


【経路開放が遅延します】


「それだけか」


 短い沈黙。


【登録活動者の進路が閉塞します】


 誠司は歯を食いしばった。


 それだけ、ではなかった。


 絶対に間違えられない。


 手が震える。


 呼吸が浅くなる。


 喉が乾く。


 それでも、画面は待ってくれない。


 誠司は入力欄に指を置いた。


 焦るな。


 焦れば、見落とす。


 急ぐことと、慌てることは違う。


 会社で何度も見てきた伝票。数字の桁。品番の一文字。小さな違いを見逃せば、あとで誰かが困る。そう思って、何度も確認してきた。


 それと同じだ。


 いや、同じではない。


 でも、自分にできるやり方はそれしかない。


 誠司は一つずつ入力した。


 経路番号。


 開放順。


 確認。


 再確認。


【確定可能です】


 表示が出た瞬間、誠司は迷わず押した。


 赤い線が走る。


 一瞬だけ画面全体が明るくなり、閉じていた経路が緑に変わった。


【退避経路、開放完了】


 誠司は椅子の背にもたれた。


 額から汗が一筋落ちる。顎のあたりで止まり、シャツに吸い込まれた。


「帰れよ」


 さっきより、少し強く言った。


「頼むから、帰れ」


【登録活動者一名、開放経路へ進入】


 誠司は目を閉じた。


 画面の向こうで誰かが走っている。


 そう思った。


 三件目、四件目と処理が続いた。


 E-7区画。


 D-3区画。


 それぞれに違う赤があった。


 ひとつは数値の乱れ。


 ひとつは閉じかけた通路。


 誠司はそのたびに手を止め、見直し、確定した。


 何度も喉が渇いた。


 缶コーヒーはすっかり冷めていたが、それでも口に含むと甘さが舌に残った。胃のあたりが重い。食事をしてから何時間も経っているのに、腹が減っている感覚はなかった。


 ただ、体の奥の力だけが少しずつ削られていく。


 それでも、誠司は椅子から立たなかった。


 赤い表示が緑に変わるたび、小さく呟いた。


「帰れよ」


「帰れ」


「ちゃんと帰れ」


 コトリはそのたびに、短く完了を告げた。


 部屋の中には、キーボードの音と、空調の低い唸りと、誠司の浅い呼吸だけがあった。窓のない部屋には風も草もない。太陽の光も届かない。だが誠司の頭の中では、夜明け前の通用口で見た草の葉がずっと揺れていた。


 あの葉先の水滴のように、誰かの命は小さく、簡単に落ちてしまうのかもしれない。


 ならば、落ちる前に支えたい。


 自分にできることが、たとえ画面の前で指を動かすことだけでも。


 最後の一件は、A-9区画だった。


 赤い表示は他の四件よりも小さかった。だが、誠司はもう表示の大きさだけで安心しなかった。小さな異常ほど、見落とせば後で大きくなる。会社でも、そうだった。たった一桁の違いが、月末に全員を巻き込むことがある。


【A-9区画、微細な変動を検知】


【現時点で即時危険度は低】


 コトリが告げる。


 誠司は画面をじっと見た。


「低い、だけだな」


【はい】


「放っておいたら?」


【時間経過により拡大する可能性があります】


 誠司は小さくうなずいた。


 なら、今直す。


 危なくなってからでは遅い。


 誰かが走り出してからでは、間に合わないこともある。


 誠司は慎重に修正した。


 数字は小さい。操作も複雑ではない。けれど、一番時間をかけた。何度も見た。何度も確認した。


【確定可能です】


 誠司は指を置いた。


 ほんの一瞬、止まる。


 自分が今押そうとしているキーの向こうに、誰かの明日があるかもしれない。


 そう思ったら、指先が重くなった。


 それでも押した。


 赤い表示が消えた。


 緑へ変わる。


【A-9区画、安定化完了】


【本日の赤色エントリ、全件処理完了】


 その文字を見た瞬間、誠司の体から力が抜けた。


 椅子の背に深くもたれる。古い椅子が、ぎし、と小さく鳴った。天井の照明が少しまぶしい。目の奥が熱い。肩が重く、腕が鉛のようだった。


 だが、胸の奥には別の重さがあった。


 五つの赤い表示。


 五つの危険。


 今夜も、誰かが帰れるかもしれない。


「帰れよ」


 誠司は最後にもう一度、画面へ向かって言った。


「みんな、帰れ」


 画面は静かだった。


 けれど、青白い光が少しだけ柔らかく見えた。


【誠司】


「ん?」


【今夜の発話を記録しました】


「発話?」


【管理者の新規行動パターン。操作完了時に帰還を促す発話】


 誠司は疲れた顔で画面を見た。


「そんなもの、記録しなくていい」


【記録します】


「なんでだよ」


【分類は不明です】


 少しだけ間があった。


【しかし、記録に値します】


 誠司は何も言えなかった。


 その言葉が、なぜか胸の奥に静かに触れた。


 記録に値する。


 ただの独り言ではないと、コトリは言っているようだった。


 誠司は額の汗を拭った。ハンカチは湿っていた。手首まで冷えた汗が伝っている。体は疲れきっている。だが、逃げ出したいという感覚は少しだけ薄れていた。


「コトリ」


【はい、誠司】


「俺は、ちゃんとできてるのかな」


 問いは、思わず漏れた。


 管理者として。


 父親として。


 夫として。


 ただの会社員として。


 どれも中途半端な気がした。


 どれも怖かった。


 どれも、間違えたくなかった。


 コトリは少し沈黙した。


 その沈黙は、今夜二度目だった。だが、最初の沈黙ほど冷たくはなかった。


【少なくとも本日、五件の赤色エントリは処理されました】


「うん」


【登録活動者一名は、開放経路へ進入しました】


「うん」


【隣接区画の二名に危険拡大は確認されていません】


「……うん」


【誠司の操作は、帰還可能性を上昇させました】


 誠司は目を閉じた。


 胸の奥に、静かに熱が広がった。


 できている、とまでは言われなかった。


 だが、今の誠司にはそれで十分だった。


 結果がある。


 誰かの帰る可能性を、少しでも上げられた。


 それだけで、今夜ここに来た意味はあった。


「ありがとう」


【どういたしまして】


 誠司は画面を見つめた。


 コトリの声は、相変わらず平らで、穏やかだった。だが、今夜はその奥に、ほんの少しだけ温度のようなものがある気がした。


 気のせいかもしれない。


 それでも、そう思いたかった。


 作業終了の手続きを終えるころには、時計は深夜の深いところを指していた。


 地下施設の廊下に出ると、空気が少し冷えていた。作業室の機械の匂いから離れ、通路の乾いた空気を吸う。靴音が壁に反響する。


 詰所の前で、柴田が顔を上げた。


「終わったか」


「はい」


「顔色は悪いな」


「いつも通りです」


「それはそれで問題だ」


 柴田はそう言って、わずかに口元を緩めた。


 誠司も少しだけ笑った。


 笑ったあと、胸の奥にまだ重さが残っていることに気づく。だが、それは潰されるような重さではなかった。抱えて歩くしかないものの重さだった。


 通用口を出ると、夜明け前の風が吹いていた。


 空はまだ暗い。だが、東の端だけがかすかに白み始めている。施設脇の草が風に揺れ、葉先の水滴が街灯を受けて小さく光った。


 誠司は立ち止まり、その草を見た。


 誰も見ていない場所で、それでも草は風に揺れている。


 誰にも知られないまま、夜は少しずつ朝へ変わっていく。


 誠司は鞄を肩にかけ直した。


 美咲の声が胸に戻ってくる。


 帰ってきてね。


 誠司は小さく息を吐いた。


「帰るよ」


 誰に向けた言葉なのか、自分でもわからなかった。


 家族へか。


 画面の向こうの誰かへか。


 それとも、自分自身へか。


 靴音が、夜明け前のアスファルトに落ちる。


 こつ。


 こつ。


 こつ。


 その音は疲れていた。


 けれど、もう逃げる足音ではなかった。


 その夜、誠司は五件の赤いランプをすべて消した。


 一件ごとに、小さく「帰れよ」と呟いた。


 誰にも聞こえないはずのその声を、コトリはすべて記録した。


【管理者の新規行動パターン:操作完了時に帰還を促す発話】


【分類:不明】


【しかし、記録に値する】

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