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減給された40代社畜、深夜バイトで国家級ダンジョンの管理者になる  作者: Gaku
第1部:深夜バイト編

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第33話「安定値」

朝のリビングには、子どもたちが出ていったあとの気配だけが残っていた。


 テーブルの端には、湊が慌てて飲み残した牛乳の白い跡が薄く伸びている。陽菜が畳み忘れたハンカチが椅子の背にかかり、窓から差し込む午前の光を受けて、布の端だけが淡く明るくなっていた。


 カーテンは半分だけ開いている。


 外では、マンション脇の植え込みが風に揺れていた。細い葉が右へ倒れ、戻り、また倒れる。そのたびに、葉先についた朝露が小さく光を跳ね返した。遠くの道路からは、通勤の車が途切れ途切れに流れる音が聞こえる。子どもたちの登校時間が過ぎたあとの住宅街は、さっきまでの足音や声を急に失って、少し広くなったように静かだった。


 美咲はキッチンのシンクに置かれた茶碗を洗い終え、濡れた手をタオルで拭いた。


 指先が少し冷えている。


 蛇口の水を止めたあとも、耳の奥にはまだ水音が残っていた。ぽた、と最後の一滴が落ちる。その小さな音が消えると、時計の針の動く音がやけに大きく聞こえた。


 誠司はもう会社へ出ている。


 いつも通り、少し疲れた顔で家を出た。


 けれど、昨日の朝から、どこか違っていた。


 背筋がほんの少し伸びている。目の奥に、眠気だけではない硬さがある。何かを知ってしまった人の顔。何かを言おうとして、飲み込んだ人の顔。


 美咲には、そう見えた。


 あの人は隠し事が下手だ。


 嘘をつくとき、必ず少しだけ返事が遅れる。無理に笑うとき、口元だけが動いて目がついてこない。子どもたちにはたぶんわからない。でも、何年も同じ食卓で向かい合ってきた美咲にはわかる。


 誠司は、何かを抱えている。


 そして、それを自分に話せないでいる。


 美咲は小さく息を吐き、リビングの椅子に腰を下ろした。


 パートへ行くまで、少しだけ時間がある。


 スマホを手に取ると、ママ友のグループに未読がいくつか溜まっていた。画面を開くと、朝の挨拶に混じって、ひとつのリンクが貼られている。


『ねえ、この記事見た? ダンジョンに管理者がいるって話』


 その下に、別の誰かが返していた。


『怖いね。政府が隠してるって本当なのかな』


『でも、その人がいるから助かってる探索者もいるんでしょ? それなら悪い話じゃないよね』


 美咲は指を止めた。


 ダンジョン。


 管理者。


 その言葉自体は、最近よく目にする。ニュースでも、ネットでも、子どもたちの会話でも出てくる。湊などは、テレビに探索者が映るたびに「かっこいい」と言っていた。


 美咲にとっても、遠い世界の話だった。


 危ない場所へ行く人たち。


 国が管理する場所。


 特別な力や技術を持つ人たちの世界。


 自分たちのような、住宅街の一室で朝食の皿を洗い、給食袋を確認し、パートの時間を気にする家族とは、つながらないはずの話だった。


 けれど、美咲の親指はリンクの上で止まったまま動かなかった。


 深夜バイト。


 地下のような匂いをまとって帰ってくる夫。


 赤く充血した目。


 こめかみに浮いた汗。


 寝言で漏れた、聞き慣れない言葉。


 安定値。


 区画。


 美咲は唇を結んだ。


 それから、リンクを開いた。


 画面が白く切り替わる。


 午前の光の中で、スマホの白い画面だけが妙に冷たく見えた。美咲は少し目を細める。記事の見出しが表示された。


 国家級ダンジョンに「管理者」は実在するか──政府関係者の証言


 胸の奥が、ほんのわずかに沈んだ。


 なぜか、最初から嫌な予感があった。


 美咲はゆっくり読み進めた。


 匿名の証言。


 国家級ダンジョンを離れた場所から支える存在。


 探索者の生還を陰で支えている人物。


 管理者の正体は不明。


 文章はどこか大げさで、週刊誌の記事のようにも見えた。普通なら途中で閉じていたかもしれない。けれど、美咲の指は止まらなかった。


 次の一文に差しかかった瞬間、呼吸が浅くなった。


 国家級ダンジョンには、各区画の安定値を遠隔で調整する「管理者」と呼ばれる存在がいるとされる。


 安定値。


 その三文字だけが、画面から浮き上がったように見えた。


 美咲の指が止まる。


 スマホを持つ手に、じわりと汗が滲んだ。さっき洗い物をしたばかりで冷えていた指先が、今度は内側から熱を帯びる。心臓が一度、強く鳴った。


 安定値。


 誠司が寝言で言っていた言葉だ。


 あの夜、彼は眠りながらうなされていた。額には汗が浮かび、眉間に深いしわが寄っていた。美咲が肩に触れると、誠司は小さく息を詰めるようにして、知らない言葉をこぼした。


 安定値。


 区画。


 戻さないと。


 その声は、仕事の夢を見ている人の声ではなかった。


 もっと切羽詰まっていた。何かを間違えたら取り返しがつかないと、眠りの中でも怯えているような声だった。


 美咲は、あとでその言葉をメモに書き出した。


 忘れないためではない。


 忘れてしまうのが、怖かったからだ。


 画面の文字が、少し揺れた。


 自分の手が震えているのだと気づくまで、数秒かかった。


「……まさか」


 声に出したつもりはなかった。


 けれど、静かなリビングに、その小さな声ははっきり落ちた。


 時計の針が、こつ、と進む。


 美咲はスマホをテーブルに置きかけて、できなかった。


 続きを読まずにはいられなかった。


 管理者は深夜に専用端末を操作し、ダンジョン内部の異常を修正している。


 退避経路の開放や危険区画の安定化など、探索者の命に直結する作業を担っている可能性がある。


 深夜に。


 端末を操作。


 退避経路。


 命に直結。


 ひとつずつ、誠司の姿に重なっていく。


 夜中に家を出る背中。


 帰ってきたときの青白い顔。


 玄関で靴を脱ぐとき、壁に手をついていたこと。


 美咲に気づかれないように洗面所へ向かい、鼻血の跡を流していたこと。


 「少しだけ危ない時もある」と言った声。


 「全部は言えない。でも、嘘はつきたくない」と言った目。


 美咲は、胸の前に片手を当てた。


 息がうまく入らない。


 リビングの空気が急に薄くなったようだった。窓の外で風が強くなり、植え込みの葉が一斉に揺れる。葉と葉が擦れ合う音は、閉めた窓越しには聞こえない。それなのに、美咲にはそのざわめきが胸の内側で広がっているように感じられた。


 うちの旦那が。


 佐藤誠司が。


 国家級ダンジョンの管理者。


 そんなこと、あるはずがない。


 あの人は普通の会社員だ。


 朝、少し寝癖を残したまま味噌汁をすすり、会社へ行き、帰ってきたら湊の宿題を見て、陽菜に「疲れてる?」と見抜かれて苦笑する。休日にスーパーで卵の値段を見比べ、安い方を選んで少し得した顔をする。靴下の片方をよく洗濯機の横に落とす。


 そんな人だ。


 特別な人ではない。


 そう思いたかった。


 けれど、記事の中の言葉は消えない。


 安定値。


 区画。


 深夜。


 端末。


 それは偶然と言うには、あまりにも近すぎた。


 美咲はスマホを伏せた。


 画面の光が消え、テーブルの上にリビングの光だけが戻る。だが、目の奥にはまだ記事の文字が残っていた。白い背景と黒い文字。安定値という三文字だけが、まぶたの裏に焼き付いている。


 キッチンの方で、冷蔵庫が低く唸った。


 その音が、ひどく現実的だった。


 美咲はゆっくり立ち上がった。パートに行く準備をしなければならない。洗濯物も干さなければならない。湊のプリントに印鑑を押すのも忘れてはいけない。


 日常は、待ってくれない。


 どれほど胸の中が冷えていても、時計は進む。洗濯物は乾く時間を必要とするし、パートの開始時刻は変わらない。


 美咲は窓を開けた。


 冷たい風が流れ込んできた。カーテンがふわりと膨らみ、テーブルの上に置いた学校のプリントが一枚、かさりと音を立てる。外の草の匂いと、朝の湿った土の匂いが部屋に入ってきた。


 深く息を吸う。


 それでも、胸の奥のざわめきは消えなかった。


「……聞かない」


 美咲は小さく呟いた。


 自分に言い聞かせるように。


 あの人が話すと言った。


 もう少しだけ待ってくれと言った。


 なら、待つ。


 問い詰めて、無理に言わせることはできるかもしれない。けれど、それで誠司が壊れてしまうなら意味がない。あの人はきっと、自分が思っている以上に重いものを抱えている。


 美咲はスマホをバッグに入れた。


 その手つきは、いつもより少しだけ遅かった。


 玄関へ向かう途中、寝室の扉の前を通る。朝、誠司が使った枕がまだ少しへこんでいる。布団には、夫の体温の名残がもうほとんど残っていないはずなのに、美咲はそこを見つめてしまった。


 あなたは、何を守っているの。


 声には出さなかった。


 出せば、部屋の静けさが壊れてしまう気がした。


 美咲は玄関で靴を履いた。


 ドアを開けると、外の光が足元に流れ込んできた。朝の陽射しは少し強くなっている。アスファルトの上を歩く人の靴音が、乾いて響いていた。


 美咲は鍵を閉め、仕事へ向かった。


 バッグの中のスマホは、もう光っていない。


 けれど、その中に残った記事の文字は、美咲の胸の奥でまだ消えていなかった。


夕方の空は、薄い茜色に染まり始めていた。


 マンションのベランダから見える電線の向こうで、雲の端だけが淡く光っている。昼間の熱を残した風が、洗濯物の裾をゆっくり揺らした。陽菜の白いシャツがふくらみ、湊の小さな靴下がぱたぱたと頼りなく踊る。物干し竿が風に押されて、かすかに鳴った。


 美咲は夕飯の支度をしていた。


 まな板の上で、包丁が玉ねぎを切る。とん、とん、と一定の音がキッチンに響く。鍋の中では味噌汁が小さく煮立ち、豆腐の角が湯の中で揺れていた。換気扇の低い音。炊飯器から漏れる米の甘い匂い。リビングでは湊がランドセルを開けたまま、宿題のプリントを床に広げている。


「湊、プリント踏むよ」


「踏んでないよ!」


「今、足の下にある」


「あっ」


 湊が慌てて足を上げる。くしゃりと丸まったプリントを見て、陽菜がため息をついた。


「もう、先生に出すやつでしょ」


「大丈夫、味がある」


「味はいらない」


 いつもの会話だった。


 美咲はその声を聞きながら、味噌を溶いた。湯気が白く立ちのぼり、頬に湿った温かさが触れる。


 日常は、いつも通りに流れている。


 けれど、胸の奥だけが朝からずっと冷えていた。


 バッグの中のスマホ。


 そこに残っている検索履歴。


 ダンジョン。


 管理者。


 安定値。


 何度も考えないようにした。仕事中も、レジで商品を通しながら、客に笑顔で袋の有無を尋ねながら、頭の隅にはあの三文字があった。


 安定値。


 誠司の寝言と、記事の言葉。


 偶然かもしれない。


 そう思いたい。


 けれど、偶然という言葉は、今日はひどく薄い紙のように頼りなかった。触れればすぐ破れて、その下からもっと怖いものが見えてしまいそうだった。


 玄関の鍵が回る音がした。


 かちゃ、と金属が鳴る。


 湊が顔を上げた。


「パパだ!」


 廊下を走っていく足音が、ぱたぱたと軽く響く。


 美咲は火を弱め、手を拭いた。


 玄関から誠司の声が聞こえる。


「ただいま」


「おかえり! パパ、今日ね、プリントがね、ちょっと強くなった!」


「強くなった?」


「踏んだけど破れなかった!」


「それは……強いな」


 困ったような、でも少し笑っている声。


 いつもの誠司だった。


 いつものはずだった。


 誠司がリビングに入ってくる。


 スーツの肩には夕方の光が斜めに当たり、布地の細かな織り目が一瞬だけ浮かんで見えた。髪は少し乱れている。目の下には疲れが残っている。けれど、美咲はすぐに気づいた。


 昨日までと違う。


 顔色が特別いいわけではない。むしろ疲れている。だが、視線が逃げていない。何かを決めた人の目だった。怖さを消した目ではない。怖さを抱えたまま、それでも前を見ることにした人の目。


 美咲は味噌汁の火を止めた。


「おかえり」


「ただいま」


 誠司はいつものように答えた。


 だが、その声の奥に、朝にはなかった固さがあった。


 美咲は、ほんの少しだけ間を置いた。


「今日、調子いい?」


 誠司が靴下のまま、リビングの入り口で止まる。


「ん? まあ、普通だよ」


「普通?」


「ああ。普通」


 返事は早かった。


 だからこそ、美咲にはそれが本当ではないとわかった。


 陽菜が食卓に箸を並べながら、誠司を見る。


「パパ、目が赤い」


「ああ、ちょっと寝不足かな」


「また夜のお仕事?」


 美咲の手が、鍋のふたの上で止まった。


 湊は宿題プリントを広げながら、何気なく聞いただけだった。けれど、その言葉はリビングの空気をほんの少し変えた。


 誠司は一瞬だけ黙った。


 ほんの一瞬。


 湊にも陽菜にも気づかれないくらい短い間。


 けれど、美咲にはわかった。


「ああ」


 誠司は静かに言った。


「今日も少し行ってくる」


「えー、パパいないの?」


「ごめんな。でも、朝には帰るから」


 湊は不満そうに頬を膨らませたが、すぐにプリントへ視線を戻した。


「じゃあ、明日、紙飛行機勝負ね」


「いいぞ」


「パパ、負けたらおやつ一個ちょうだい」


「賭け事みたいにするな」


 湊が笑う。


 陽菜も少し笑った。


 美咲だけが、笑うのに少し遅れた。


 夕飯の食卓は、いつも通り進んだ。


 味噌汁。焼いた鶏肉。きゅうりの浅漬け。炊きたてのご飯。


 湊は鶏肉を一口で頬張りすぎて、美咲に注意された。陽菜は学校で友達と図書室へ行った話をした。誠司は相槌を打ち、ときどき湊の茶碗にご飯をよそい足した。


 いつもの父親。


 いつもの夫。


 けれど、美咲は何度も誠司の横顔を見てしまった。


 箸を持つ手。


 茶碗を支える指。


 その手が、深夜に何かの端末を操作している。


 記事の言葉が蘇る。


 探索者の命に直結する作業。


 美咲は味噌汁を口に運んだ。


 温かいはずなのに、喉を通る途中で少し冷たく感じた。


 夕飯が終わり、子どもたちが風呂へ入ったあと、リビングには二人だけが残った。


 テレビはついていない。


 窓の外では、夜風がベランダの洗濯ばさみを小さく鳴らしている。カーテンの隙間から、隣の建物の灯りが細く差し込んでいた。テーブルの上には湯呑みが二つ。緑茶の湯気はもう薄くなっている。


 美咲は、誠司の向かいに座った。


 誠司は湯呑みを両手で包んでいる。指先が少し荒れていた。爪の横に小さなささくれがある。仕事で紙を扱う人の手。子どもの絆創膏を貼る手。夜のどこかで、赤い表示を消しているかもしれない手。


「ねえ」


 美咲は静かに言った。


 誠司が顔を上げる。


「うん?」


「なんか、目が前と違う」


 誠司の表情が固まった。


「目?」


「うん」


 美咲は湯呑みの中を見つめた。揺れた水面に、天井の灯りがぼんやり映っている。


「前は、いつも追い詰められてるみたいだった。疲れてるのに、何をしたらいいかわからないって顔してた」


 誠司は黙っていた。


「でも今日は……疲れてるのは同じなのに、少し違う」


 美咲は言葉を探した。


 重すぎず、軽すぎず、誠司を追い詰めない言葉。


「覚悟を決めた人の目、みたい」


 その言葉を聞いた瞬間、誠司の指がわずかに動いた。


 湯呑みの中の茶が、小さく揺れる。


 長い沈黙が落ちた。


 ただ黙っただけではなかった。


 部屋の音が、ひとつずつ大きくなっていく沈黙だった。冷蔵庫の低い唸り。壁時計の針。風が窓を撫でる音。風呂場から遠く聞こえる湊の笑い声。水が床に跳ねる音。


 そのすべての間に、言えない言葉が積もっていく。


 誠司は目を伏せた。


「美咲」


「うん」


 美咲は静かに返事をした。


 心臓が速くなっていた。


 聞けるかもしれない。


 聞いてしまうかもしれない。


 けれど、誠司はすぐには続けなかった。喉の奥で言葉を何度も選んでいるようだった。


「……もう少しだけ、待ってくれ」


 ようやく出た声は、低く、かすれていた。


「全部、話すから」


 美咲は誠司を見た。


 その顔には、嘘をついている人の軽さはなかった。


 むしろ、嘘をつきたくないから苦しんでいる顔だった。


 美咲の胸の奥で、朝から冷えていたものが少しだけ形を変えた。怖さが消えたわけではない。むしろ、近づいた分だけ濃くなった。


 でも、同時にわかった。


 この人は逃げようとしていない。


 自分に話す日を、ちゃんと持とうとしている。


 美咲はゆっくり微笑んだ。


「待つよ」


 誠司が顔を上げる。


「わたし、待つの得意だから」


 冗談のように聞こえるよう、少しだけ柔らかく言った。


 けれど、その奥にある不安は隠しきれなかったかもしれない。


 誠司の目が揺れた。


「ごめん」


「謝らなくていい」


 美咲はすぐに言った。


「ただ、ひとつだけ約束して」


「うん」


「帰ってきて」


 誠司は、息を止めたように見えた。


 風呂場から湊の声が聞こえる。


「ママー! シャンプーなくなりそう!」


 日常の声だった。


 その明るさが、胸に痛いほど刺さった。


 誠司は小さくうなずいた。


「帰ってくる」


「絶対?」


「ああ」


 美咲はその返事を聞いて、ようやく湯呑みに手を伸ばした。


 お茶はもうぬるかった。


 夜が深くなった。


 子どもたちを寝かしつけたあと、誠司は深夜バイトへ向かう準備をした。鞄に水筒を入れ、タオルを入れ、替えのシャツを入れる。その動作は手慣れている。何度も繰り返してきた夜の支度。


 美咲は玄関で見送った。


「行ってらっしゃい」


「行ってきます」


「帰ってきてね」


「帰ってくるよ」


 同じ言葉。


 けれど、今夜は意味が違った。


 ドアが閉まる。


 鍵の音がする。


 誠司の靴音が廊下を遠ざかっていく。


 こつ。


 こつ。


 こつ。


 その音が聞こえなくなるまで、美咲は玄関に立っていた。


 戻ったリビングは、さっきより広く感じられた。


 テーブルの上には、子どもたちが使ったコップが二つ残っている。ソファには湊が置き忘れた紙飛行機。床には陽菜のヘアゴムが落ちていた。


 美咲はそれを拾い、テーブルに置いた。


 それから、スマホを手に取った。


 朝の記事をもう一度開く。


 画面の白い光が、暗いリビングに浮かび上がる。窓の外では夜風が吹き、ベランダの物干し竿がかん、と小さく鳴った。


 美咲は検索欄に指を置いた。


 迷いはあった。


 誠司は調べてはいけないのかもしれない。


 あの仕事には、そういう約束があるのかもしれない。


 けれど、美咲はその約束に署名していない。


 夫が守らなければならない線の外側で、自分にできることがあるなら、知りたかった。


 夫が何を抱えているのか。


 何を怖がっているのか。


 何を守ろうとしているのか。


 美咲は文字を打った。


 ダンジョン 管理者 安定値


 検索結果が並ぶ。


 記事。


 まとめ。


 誰かの考察。


 匿名掲示板の断片。


 どれが本当で、どれが嘘なのかはわからない。けれど、いくつかの文章に同じ言葉があった。


 深夜。


 端末。


 区画。


 安定値。


 遠隔操作。


 美咲はひとつずつ読んだ。


 読み進めるたび、胸の奥で何かが静かに固まっていく。


 もう、ただの偶然とは思えなかった。


 夫が何者なのか、まだ言葉にはできない。


 けれど、少なくとも彼が「ただのデータ入力」をしているだけではないことは、もうわかってしまった。


 画面の光に照らされた指先が、わずかに震えている。


 美咲はスマホを胸に当て、目を閉じた。


 耳を澄ませても、玄関の外に誠司の靴音はもうない。


 時計の針だけが、静かに進んでいる。


 その夜、美咲は寝室で目を閉じた。


 だが、眠りはなかなか来なかった。


 誠司が出ていったあとの暗い天井を見つめながら、何度も同じ言葉が胸に浮かんだ。


 安定値。


 管理者。


 帰ってきて。


 スマホの検索履歴には、一件だけ残っていた。


 ダンジョン 管理者 安定値


 夫には禁じられているかもしれない検索を、美咲は自分の手で行った。


 知らないまま待つだけでは、もういられなかった。

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