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減給された40代社畜、深夜バイトで国家級ダンジョンの管理者になる  作者: Gaku
第1部:深夜バイト編

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第32話「管理領域の正体」

 朝は、まだ夜の名残を抱えていた。


 地下施設の通用口を出ると、冷えた空気が誠司の頬に触れた。薄い湿り気を含んだ風だった。夜のあいだ地面に沈んでいた冷たさが、まだアスファルトの上に残っている。空は黒から群青へ、群青から灰色へと少しずつ色を変え始めていた。


 東のビルの隙間に、細い光が滲んでいる。


 それはまだ太陽と呼べるほど強くはなかった。けれど、暗い街の端を静かに押し上げるように、空の底を白くしていた。通用口の横に生えた雑草の葉先には、細かな水滴がついている。風が通るたびに草は小さく震え、その水滴がわずかに光を拾って、すぐにまた暗く沈んだ。


 誠司は肩にかけた鞄を握り直した。


 二十四度目の勤務が終わったばかりだった。


 いつものように、赤くなった項目を直した。いつものように、画面の案内に従った。いつものように、コトリの声を聞いた。最後に表示された完了の文字を見て、いつものように息を吐いた。


 けれど今日は、胸の奥の重さが消えていなかった。


 昼休みに見た記事の見出しが、まだ残っている。


 国家級ダンジョンに「管理者」は実在するか。


 自分とは関係ない。


 そう思った。そう思うことにした。


 けれど、榊原の顔がその文字の向こうに重なる。


 俺の部下を何度も助けてくれた。


 あの言葉が、耳の奥から離れない。


 通用口の金属扉が、背後で重く閉まった。がしゃん、という音が朝の空気に硬く響き、すぐに建物の壁へ吸い込まれた。


 その音が消えたあと、誠司は気づいた。


 門のそばに、男が立っている。


 大柄な体。厚い肩。短く刈った髪。夜明け前の薄明かりの中でも、そこだけ空気が重く見える。


 榊原だった。


 前に会った時と同じように、まっすぐこちらを見ている。だが今日は一人ではなかった。少し離れた場所に、柴田も立っていた。いつもの警備員の制服姿で、缶コーヒーを片手にしている。普段なら眠たげに見える目が、今朝は妙に静かだった。


 誠司の足が止まる。


 靴底がアスファルトを擦った音だけが、やけに大きく聞こえた。


「佐藤さん」


 榊原が言った。


 声は低かった。怒鳴っているわけでも、急かしているわけでもない。ただ、その一言だけで、逃げ道をふさがれたような重みがあった。


「約束通り、話をしに来た」


 誠司は喉の奥が渇くのを感じた。


「……はい」


 声が少しかすれた。


 榊原は通用口の脇にある古いベンチを顎で示した。灰色の金属製で、雨に濡れて乾いた跡が白く残っている。朝露を吸ったのか、座面は冷たそうだった。


「座ってくれ。長くなる」


 誠司はうなずいた。


 足を動かすと、体が少し遅れてついてくるような感覚があった。勤務明けの疲れだけではない。胸の内側で、知らない扉の前に立たされているような圧迫感がある。


 三人はベンチに座った。


 誠司が中央、少し右に榊原、左に柴田。妙な並びだった。誠司は両膝の上に鞄を置き、取っ手を両手で握った。手のひらに汗が滲んでいる。朝の風は冷たいのに、指の間だけがじっとり湿っていた。


 遠くで始発に近い電車の音がした。


 低く、長く、街の底を這うような音だった。


 その音が遠ざかるまで、榊原は口を開かなかった。柴田も何も言わない。ただ缶コーヒーの表面についた水滴が、朝の光を受けてわずかに光っていた。


「まず」


 榊原が静かに言った。


「あんたが署名した契約のことだ」


 誠司は息を止めた。


「仕事内容を自分で調べるな、誰にも話すな。そういう約束があったはずだ」


「……はい」


「昨日も、一昨日も、調べなかったな」


 誠司は驚いて榊原を見た。


 榊原の表情は変わらない。


 監視されていたのか。


 その疑問が一瞬浮かんだが、声には出せなかった。出せる空気ではなかった。


「責めているわけじゃない」


 榊原は、誠司の胸の内を読んだように続けた。


「むしろ、それでいい。あんたは約束を守った。だから今から、こちらの権限で話す。聞いたあとも、外では言えない。家族にも、会社にも、友人にもだ。そこは変わらない」


 家族にも。


 その言葉で、美咲の顔が浮かんだ。


 夜、出かける前に言う「帰ってきてね」。


 あの声を思い出した瞬間、誠司の胸が少し痛んだ。


「……わかりました」


 誠司は言った。


 わかっているのかどうか、自分でもわからなかった。ただ、そう答えるしかなかった。


 榊原は一度だけうなずいた。


 朝の光が、男の横顔を薄く照らしている。頬の線に深い影が落ちていた。


「あんたが毎晩操作している端末」


 榊原の声が、少し低くなった。


「あれは、国家級ダンジョンの管理端末だ」


 誠司は、何を言われたのかわからなかった。


 言葉は聞こえた。


 国家級。


 ダンジョン。


 管理端末。


 ひとつひとつの単語は理解できる。けれど、それらが自分の毎晩の仕事と同じ場所に置かれた瞬間、頭の中でうまく組み合わさらなかった。


 風が草を撫でる。


 さわ、と小さな音がした。


 車道を一台のトラックが通り過ぎ、タイヤが濡れた路面を踏む音が遠く伸びていく。


 誠司は口を開いた。


「……ダンジョン?」


 自分の声なのに、ひどく遠く聞こえた。


 榊原は目をそらさなかった。


「ああ」


「テレビでやってる、あの……」


「あのダンジョンだ」


 誠司の背中に、冷たいものが走った。


 朝の風ではない。


 もっと内側から来る冷たさだった。


「でも、俺が見ている画面には……管理領域って」


「内部での呼び名だ」


 榊原はゆっくり言った。


「外で言われている言葉に置き換えれば、ダンジョンと同じものだ。東京湾の地下にある国家級ダンジョン、アマテラス。あんたは、その中枢を動かしている」


 アマテラス。


 その名は聞いたことがあった。


 テレビのニュースで。駅の広告で。ネットの見出しで。


 日本最大級の危険区域。


 有名な探索者たちが挑む場所。


 政府が厳重に管理している場所。


 誠司は、その名前を知っていた。知っていたが、自分の人生とは何の接点もない言葉だと思っていた。


 それが今、朝露のついたベンチの上で、真正面から差し出されている。


「……俺が?」


 かすれた声が出た。


「俺が、あの、ダンジョンを?」


「そうだ」


「いや、待ってください」


 誠司は反射的に首を振った。


 鞄の取っ手を握る手に力が入る。爪が手のひらに食い込んだ。


「俺は、画面の数字を直してるだけです。赤くなったところを、言われた通りに。コトリが案内してくれて、それで……」


「その赤くなったところが、内部で起きている危険の表示だ」


 榊原の声は変わらない。


「あんたが戻していた数字は、崩れかけた場所を持ちこたえさせるためのものだ。あんたが開けた通路は、閉じ込められた人間を外へ逃がすためのものだ」


 誠司の耳の奥で、何かが鳴った。


 高い音ではない。


 水の底に沈むような、低く鈍い音。


 頭の中で、画面の文字がひとつずつ浮かぶ。


 B区画。


 C区画。


 E-7。


 登録活動者。


 退避経路。


 安定値。


 異常表示。


 赤いランプ。


 それらが、いままでとは違う色を帯びていく。


 ただの表示ではなかった。


 ただの項目ではなかった。


「区画って……」


 誠司は唇を動かした。


「ダンジョンの中の、場所……ですか」


「そうだ」


「安定値っていうのは……」


「内部がどれだけ持ちこたえているかを見る数字だ」


「登録活動者は……」


 そこまで言って、誠司は言葉を止めた。


 喉が詰まった。


 榊原が答える前に、わかってしまった。


 登録活動者。


 画面の上で、小さな光点として表示されていたもの。


 ときどき数が減り、ときどき移動し、ときどき赤い区域の近くで点滅していたもの。


 あれは。


 誠司の指先が震えた。


 ベンチの冷たさが、ズボン越しにじわじわ伝わってくる。だが、背中には汗が滲んでいた。冷や汗だった。首筋を細く流れ、シャツの襟に吸い込まれる。


「……人、なんですか」


 榊原は、すぐには答えなかった。


 その短い間が、誠司にはひどく長かった。


 遠くで鳥が鳴いた。


 朝が近づいているのに、その声は妙に寂しく聞こえた。


「ああ」


 榊原は言った。


「あれは、中にいる探索者だ」


 誠司は瞬きを忘れた。


 画面の光点が、頭の中で動き出す。


 赤い表示の近くで揺れていた点。


 退避経路が開いたあと、出口へ向かって移動していった点。


 消えずに残った点。


 あれは、数字ではなかった。


 ただの光ではなかった。


 誰かだった。


 名前があって、顔があって、帰る場所がある人間だった。


 その瞬間、胸の奥から何かがこみ上げた。


 言葉にはならない。


 恐怖とも、驚きとも、後悔とも違う。ただ、今まで何も知らずに触れていた画面が、急に重さを持った。あの薄いガラスの向こうに、暗い場所を走る人たちの息遣いがあるような気がした。


 足音。


 荒い呼吸。


 擦れる装備。


 崩れかけた壁から落ちる砂の音。


 知らないはずの音が、耳の奥に押し寄せる。


「俺は……」


 誠司は声を絞り出した。


「俺は、ただのデータ入力だと……」


「ただの、ではない」


 榊原が遮った。


 強い言葉だった。


 だが、責める響きはなかった。


「あんたがそう思って続けてきたことは知っている。だからこそ動かせたのかもしれない。余計な欲も、名誉も、見返りもなかった。ただ目の前の異常を見つけて、直して、帰す。その積み重ねで、人が生きて戻った」


 誠司は下を向いた。


 自分の手が見える。


 荒れた指先。


 少し曲がった爪。


 紙で切った跡。


 キーボードを叩き、伝票をめくり、子どもの靴ひもを結ぶ手。


 この手で。


 この手で、何をしていたのか。


 わからなくなった。


 いや、今ようやく、わかり始めてしまった。


「佐藤さん」


 今度は柴田が口を開いた。


 低く、静かな声だった。


 誠司はゆっくり顔を向ける。


 柴田は缶コーヒーを差し出していた。


「飲め。手、冷えてる」


 誠司は反射的に受け取った。


 缶は温かかった。指に熱が移る。その熱で、自分の手がどれほど冷えていたのか初めて気づいた。


 けれど、飲めなかった。


 缶の口を開けることもできない。


 ただ両手で包み込むように持った。


 薄い缶の中で、液体がかすかに揺れる音がした。


 榊原が続けた。


「それから、あんたの会社のことだ」


 誠司は顔を上げた。


「会社……?」


「東都精機システムズ。あそこが扱っている一部の部品は、アマテラスの維持にも使われている」


 昼休みの休憩室が、脳裏に蘇った。


 後輩の笑い声。


 スマホの画面。


 うちの会社もダンジョン関連の部品、作ってるのに。


 そして、在庫表の文字。


 階層安定センサー。


 退避経路制御ユニット。


 誠司は、缶コーヒーを握る指に力を込めた。


「あの在庫表の部品……」


 声が震えた。


「俺が操作してる端末に、使われてるんですか」


「端末そのものだけじゃない。内部の維持にも関わっている。全部ではないが、無関係ではない」


 誠司の中で、ばらばらだったものがつながっていく。


 会社の在庫表。


 深夜の端末。


 赤いランプ。


 登録活動者。


 榊原の部下。


 昼休みに隣の席で読まれていた記事。


 そして、自分。


 つながってほしくなかったものまで、一本の線になっていく。


 誠司は息を吸おうとした。


 だが、胸がうまく広がらない。


 朝の空気は冷たく澄んでいるはずなのに、喉の奥だけが狭くなっていた。


「佐藤さん」


 榊原が言った。


「あんたが消してきた赤いランプは、誰かの危険だった」


 誠司は動けなかった。


「あんたが開けた退避経路は、誰かの帰り道だった」


 草が風に揺れる。


 葉先の水滴が一つ落ちた。


 小さな音など聞こえるはずがないのに、誠司にはそれが胸の奥で鳴ったように感じられた。


 榊原の声が、朝の空気の中で静かに落ちる。


「光点は、ダンジョンの中にいる人間の命だ」


光点は、ダンジョンの中にいる人間の命だ。


 その言葉が、誠司の胸の奥へ沈んだ。


 沈んだまま、動かなくなった。


 朝の風が頬を撫でている。薄く湿った空気が、首筋の汗を冷やしていく。遠くの道路で信号が変わったのか、止まっていた車が一斉に動き出す音がした。タイヤが路面を擦る低い響き。どこかの建物の換気扇が回る鈍い音。街は少しずつ目を覚まし始めている。


 けれど、誠司の周りだけは時間が止まっていた。


 画面の上を動いていた小さな光。


 赤い区画から逃げるように移動していた点。


 経路を開いたあと、ゆっくり出口へ向かっていった点。


 あれは、誰かの足だった。


 誰かの息だった。


 誰かの震える手だった。


 誰かが「帰りたい」と願いながら、暗い場所を走っていた、その証だった。


 誠司は、缶コーヒーを握ったまま固まっていた。指先が缶の熱に触れているのに、手の奥までは温まらない。胸の内側が、ひどく冷えていた。


「……俺が」


 声が、喉の奥で引っかかった。


「俺が、ダンジョンの管理者……」


 口にした瞬間、自分の言葉ではないように聞こえた。


 管理者。


 昼休みに後輩たちが軽く話していた言葉。


 相当な実力者。


 S級より上。


 そんなふうに語られていた誰か。


 それが今、朝露に濡れた古いベンチの上で、温い缶コーヒーすら開けられずにいる。


 誠司は思わず首を振った。


「いやいやいやいや……」


 言葉がこぼれた。


「俺は、ただの事務職ですよ。四十二歳の。会社でも、別に大した役職があるわけじゃない。エクセルと伝票整理くらいしかできないんです」


 情けない声だった。


 けれど、それが誠司の本心だった。


 榊原は笑わなかった。


 柴田も笑わなかった。


 二人の沈黙が、誠司の言葉を否定しなかった代わりに、逃げ道も作らなかった。


「その二十年近い積み重ねが、あんたの力だったんだ」


 榊原が言った。


「大きく派手に壊す力じゃない。目の前の異常を見つける。数字の違和感に気づく。順番を間違えず、一つずつ直す。誰かが見落とした小さなズレを、あんたは見落とさなかった」


 誠司は唇を噛んだ。


 会社では、そんなものは評価されなかった。


 遅い。


 地味だ。


 融通が利かない。


 そう言われてきた。


 若い社員のように勢いよく話せない。上司の機嫌を読んでうまく立ち回ることもできない。目立つ成果を出せるわけでもない。ただ、間違いがないように、同じ確認を何度も繰り返すだけだった。


 そのやり方が、必要だったと言われている。


 信じたいのに、信じるのが怖かった。


「……この手で」


 誠司は自分の手を見た。


 缶コーヒーを持つ指は、まだかすかに震えていた。


「この手で、百人以上を……」


「正確な数は、いま追跡班が出している」


 榊原が言った。


「だが、少なくとも何十人という単位ではない。もっと多い」


 誠司は息を呑んだ。


 頭の奥がじんと痺れる。


「名前を出せる範囲で言う」


 榊原の声が、少しだけ柔らかくなった。


「神代玲奈。S級探索者だ。あんたが六回目の勤務で救った四人のうちの一人だ」


「神代……」


 誠司はその名を繰り返した。


 聞いたことがある。


 テレビで見たことがあるのかもしれない。ネットの見出しで目にしたのかもしれない。けれど今は、有名人としての輪郭よりも、画面の上で揺れていた光の方が先に浮かんだ。


「あの時、彼女たちは退避経路を失っていた。あんたが開いた」


 榊原は続けた。


「犬飼陸斗。十九歳。C-8区画で閉じ込められていた若い探索者だ。あいつは、あんたに会いたがっている」


「会い……」


 誠司の声が途切れた。


 犬飼陸斗。


 十九歳。


 名前を聞いた途端、光点が人の形を持った。


 十九歳なら、まだ湊や陽菜よりはずっと大人だ。けれど誠司から見れば、子どもと言っていい年齢だった。誰かの息子で、誰かの友人で、誰かに帰りを待たれている若者だった。


 画面の中で動いていた点が、靴音を持つ。


 荒い息を持つ。


 恐怖に濡れた目を持つ。


 ありがとう、という声を持つ。


 誠司の視界が滲んだ。


 朝の光がぼやけて、榊原の輪郭が少し揺れた。


「あの……光の中を走って逃げた人たちが……」


 声が震えた。


「名前を持った、一人一人の人間で……」


 言い切れなかった。


 喉が詰まった。


 缶コーヒーを握る手の甲に、一粒だけ涙が落ちた。温かい缶とは違う熱が、皮膚の上に広がり、すぐに朝の空気で冷えた。


 柴田が何も言わず、視線を少し外した。


 榊原も黙っていた。


 その沈黙は、慰めではなかった。


 急かしでもなかった。


 ただ、誠司が今まで知らずに背負っていた重さを、ようやく自分の両手で受け止めるまで待っている沈黙だった。


 通用口脇の草が、風に押されていっせいに揺れた。


 葉と葉が擦れ合う乾いた音が、今度ははっきり聞こえた。


 やがて、榊原が静かに口を開いた。


「佐藤さん。ここからは選択肢がある」


 誠司は顔を上げた。


「一つ目。このまま管理者を続ける。ただし、今後は俺たちと連携する形になる。あんたが見ている画面の向こうに、こちらの部隊がいる。必要な情報は、段階的に開示する」


 榊原の言葉は重かった。


 だが、誠司は目をそらさなかった。


「二つ目」


 榊原が続ける。


「辞める。契約はそのままだ。今日聞いたことも、これまでのことも外には言えない。だが、端末からは離れられる」


 辞める。


 その言葉は、不思議なほど現実味を持っていた。


 夜に家を出なくていい。


 冷たい地下施設へ行かなくていい。


 赤いランプに怯えなくていい。


 何かを間違えたら誰かが死ぬかもしれない、そんな重さを知らずに済む。


 誠司の胸が、ほんの少し楽になりかけた。


 しかし、榊原の次の言葉で、その逃げ道は凍りついた。


「ただし、現時点で代わりはいない」


 誠司は瞬きをした。


「代わりが……いない?」


「ああ」


「いや、そんなはず……だって、国家が管理してるんですよね。もっと優秀な人がいるはずじゃ」


「十二年間、端末をまともに動かせた人間はいなかった」


 榊原は短く言った。


「柴田が知っている」


 誠司は柴田を見た。


 柴田は、缶コーヒーを片手にしたまま、静かにうなずいた。


「何人も来た」


 柴田が言った。


「偉い人も、頭のいい人も、専門の教育を受けた人もな。みんなだめだった。端末が受け付けなかったり、数回で壊れたり、本人がもたなかったりした」


 誠司は言葉を失った。


「お前さんは、自分を普通だと思ってる」


 柴田は朝焼けの方を見た。


「でも、あの部屋で普通に座って、普通に迷って、普通に困りながら、それでも毎回戻ってきた。それができる奴は、普通じゃなかったんだろうな」


 普通じゃない。


 それは褒め言葉なのか、呪いなのか、誠司にはわからなかった。


 空が少し明るくなる。


 ビルの隙間から差し始めた朝日が、通用口の金属扉に当たり、鈍い光を返した。まぶしいほどではない。けれど、夜の色を少しずつ剥がしていく光だった。


 誠司は、その光を見た。


 美咲の声が浮かぶ。


 帰ってきてね。


 湊の声が浮かぶ。


 悪い怪獣倒してきた?


 陽菜の目が浮かぶ。


 疲れてる?


 コトリの声が浮かぶ。


 重要度、最高。


 それから、名前を知らなかった光点たち。


 神代玲奈。


 犬飼陸斗。


 ほかにも、名前を持つ誰かがいた。


 帰りたい場所がある人たちがいた。


 誠司は缶コーヒーのプルタブに指をかけた。かち、と小さな音がして、缶が開く。湯気は出ない。けれど、甘く苦い香りが朝の空気に混じった。


 一口飲む。


 熱は少し落ちていた。それでも喉を通ると、体の奥へゆっくり広がった。


「……榊原さん」


 誠司は言った。


「はい」


「俺は、怖いです」


 情けないほど正直な言葉だった。


「自分がダンジョンの管理者だなんて、今でも全然わかりません。俺は、強くもないし、頭もよくないし、会社ではいつも同じような書類を見てるだけの人間です」


 榊原は黙って聞いていた。


「でも」


 誠司は息を吸った。


 朝の冷たい空気が肺に入る。


「帰りたい場所がある人を帰すって、前にコトリに言ったことがあります」


 言いながら、その時の自分の声を思い出した。


 何も知らなかった。


 光点が誰なのかも知らなかった。


 ただ、あの画面の向こうに誰かがいるかもしれないと思った。それだけで、手が動いた。


「それは、今も変わりません」


 誠司は榊原を見た。


 手は震えている。


 怖さは消えていない。


 けれど、言葉だけははっきり出た。


「続けます」


 榊原の目が、わずかに細くなった。


 柴田が、深く息を吐いた。


 風が通用口の前を抜け、草を低くなびかせる。朝露を受けた葉が揺れ、細かな光が一瞬だけ散った。


「わかった」


 榊原は言った。


「あんたの選択を、俺たちは支える」


 誠司はうなずいた。


 その瞬間、何かが軽くなったわけではなかった。


 むしろ、重さは増した。


 赤いランプの意味を知ってしまった。光点の正体を知ってしまった。自分の手が何に触れていたのか、もう知らないふりはできない。


 それでも、立ち上がらなければならなかった。


 ベンチから腰を上げると、膝が少し震えた。勤務明けの疲労と、今聞いた話の重さが、体の芯に沈んでいる。鞄を肩にかけると、いつもよりずっと重く感じた。


 榊原は誠司の前に立った。


「詳しい連絡手段は、次の勤務までに整える。今日は帰って休め」


「……はい」


「家では、いつも通りにしてろ」


 その言葉に、誠司は苦く笑いかけた。


「いつも通り、ですか」


「ああ」


 榊原の顔は真剣だった。


「それができるのも、あんたの強さだ」


 誠司は答えられなかった。


 強さ。


 その言葉はまだ、自分には大きすぎた。


 ただ、家に帰らなければと思った。


 美咲にただいまと言う。湊と陽菜の寝顔を見る。会社へ行く。伝票を見る。昼飯を食べる。夜になったらまた地下へ向かう。


 その全部が、急に細い糸の上にあるように感じられた。


 それでも、その糸を手放したくなかった。


 誠司は二人に頭を下げた。


「ありがとうございました」


 榊原は短くうなずいた。


 柴田は缶コーヒーを軽く掲げた。


「帰れ。顔色がひどい」


「……はい」


 誠司は苦笑し、歩き出した。


 通用口を離れる。アスファルトの上に、自分の靴音が落ちる。こつ、こつ、と朝の静けさに響くその音は、昨日までと同じはずだった。


 けれど、誠司には違って聞こえた。


 ただの帰り道ではなかった。


 知ってしまった男の足音だった。


 駅へ向かう道で、朝日がビルの角から顔を出した。強い光が一瞬、目を射る。誠司はまぶしさに目を細めた。視界の端に、白い残像が焼き付く。


 その残像の中に、光点が見えた気がした。


 小さく、頼りなく、それでも確かに動いている。


 満員電車の中で、誠司は吊り革につかまった。


 周囲には、眠そうな会社員、学生、スマホを見つめる人たちがいる。誰も誠司を見ていない。誰も、彼が何を聞いてきたのか知らない。


 それでよかった。


 誠司は片手でスマホを取り出した。


 昨日、開かなかったニュースアプリを開く。


 検索欄に、昼休みに見た言葉を打ち込んだ。


 国家級ダンジョン 管理者


 すぐに記事が出てきた。


 国家級ダンジョンに「管理者」は実在するか──政府関係者の証言


 誠司はゆっくり記事を読んだ。


 政府が隠す謎の管理者。


 探索者の生還率を支える存在。


 正体不明の実力者。


 記事の中で語られている人物は、まるで別人のようだった。強く、冷静で、すべてを見通しているかのように書かれている。


 誠司は、スマホの黒い画面に映る自分の顔を見た。


 目の下に疲れがある。


 髪は少し乱れている。


 スーツの肩には、ベンチでついた小さな埃が残っていた。


 どう見ても、記事の中の誰かとは違う。


 誠司は小さく息を吐き、記事を閉じた。


 窓の外には、朝の街が流れている。ビルのガラスに光が反射し、線路脇の雑草が風に押されて細く揺れていた。


「……大げさだな」


 誰にも聞こえないほど小さく、誠司は呟いた。


 けれど、その声の奥には、もう昨日までの知らなさは残っていなかった。


 佐藤誠司は知った。


 自分が毎晩直していた数字の意味を。


 赤いランプが何を示していたのかを。


 光点の一つ一つが誰だったのかを。


 知った上で、続けることを選んだ。


 電車は朝の光の中を走っていく。


 その窓に映る誠司の背中は、疲れていて、少し頼りなくて、それでも昨日よりほんの少しだけ、まっすぐに見えた。

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