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減給された40代社畜、深夜バイトで国家級ダンジョンの管理者になる  作者: Gaku
第1部:深夜バイト編

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第31話「隣の席の記事」

昼休みの休憩室には、弁当の醤油とインスタント味噌汁の湯気が混じった匂いが薄く漂っていた。


 天井の蛍光灯は白く、少しだけ冷たい光を落としている。窓際のブラインドは半分ほど上げられ、五月の陽射しが斜めに差し込んで、床に細長い縞模様を作っていた。その光の中で、小さな埃がゆっくり浮かんでは沈み、誰かが通るたびにかすかに乱れた。


 窓の外では、社屋脇の植え込みの草が風に押されて、右へ左へと細く波打っている。コンクリートの隙間から伸びた名も知らない草まで、昼の風に小さく揺れていた。遠くの道路をトラックが通り過ぎるたび、低い振動がガラス越しに伝わってくる。


 佐藤誠司は、端の席でコンビニのおにぎりを開けていた。


 海苔の包装を引く音が、かさ、と乾いて鳴る。


 具は鮭だった。税込みで二百円を少し超える。以前なら棚の前で数秒迷って、一番安い昆布か塩むすびを選んでいた。けれど今日は、手が自然に鮭を取っていた。


 そのことに気づいて、誠司は小さく息を吐いた。


 大した贅沢ではない。


 ただ、昼飯に二十円、三十円の差を考えずに済む日が来るとは、少し前の自分には思えなかった。


 パリ、と海苔が歯に当たる。


 米は少し冷たかった。けれど塩気が舌に広がると、空っぽだった胃がゆっくり目を覚ますような気がした。


 向かいの席では、営業の若い社員たちがカップ麺に湯を注いでいる。ポットの湯が紙容器に注がれる音。箸の袋を破る音。椅子の脚が床を擦る硬い音。笑い声はあるのに、誠司の周りだけは一枚薄い膜が張ったように遠かった。


 あの朝の声が、まだ耳の奥に残っていた。


「あんたが佐藤さんか」


 榊原という男の目。


 大きな手。


 まっすぐにこちらを見た、あの重たい視線。


 そして、妙に場違いだった一言。


「あんたの朝飯、美味そうだな」


 思い出すたび、誠司の胸のあたりに小さな違和感が残る。


 怖い男だった。


 ただの通行人ではなかった。会社の上司でも、取引先の人間でもない。けれど誠司のことを知っていた。誠司が深夜にどこへ行き、何をしているのか、その一部を知っているような口ぶりだった。


 俺の部下を助けてくれた。


 何度も。


 そう言われた。


 誠司は、握っていたおにぎりを少し強く押してしまい、白い米が指先にくっついた。


 助けた。


 その言葉だけが、どうしても実感を持たなかった。


 自分は毎晩、薄暗い部屋で画面に向かっているだけだ。赤くなった項目を探して、数字を直して、案内に従って確定する。ときどき頭が痛くなるほど神経を使うし、体の奥から力を抜かれるような夜もある。それでも、やっていることはデータ入力の延長にしか思えなかった。


 誰かを助けたと言われても、手の中に残るのは冷えたおにぎりの感触だけだった。


「ねえ、これ見た?」


 隣のテーブルから、明るい声が飛んできた。


 誠司は顔を上げなかった。昼休みの休憩室では、誰かのスマホを覗き込んで騒ぐことなど珍しくない。新商品のニュース、芸能人の結婚、炎上した動画、週末のイベント。若い社員たちの話題はいつも回転が速く、誠司が一つ理解するころには、もう次の話へ移っている。


 後輩の一人が、スマホの画面を隣に向けていた。


「これ。『国家級ダンジョンに管理者は実在するか』って記事」


 誠司の手が、ほんのわずかに止まった。


 ダンジョン。


 その単語自体は、別に珍しくもない。テレビでもネットでも毎日のように流れている。新しい探索者の特集。危険区域の警戒情報。どこかの有名人が装備メーカーと契約した話。誠司もまったく知らないわけではなかった。


 だが、自分とは遠い世界の話だった。


 画面の向こうの、強い人間たちの話。


 自分のような四十二歳の事務職が関わるものではない。


「あー、なんかバズってるやつね」


 別の後輩が、割り箸を割りながら答えた。ぱき、と乾いた音が休憩室に響く。


「政府が隠してるとかいうやつでしょ?」


「そうそう。匿名の政府関係者が証言したって」


「匿名って時点で怪しくない?」


「でもさ、これ、けっこう具体的なんだよ。ほら」


 スマホを持った後輩が、画面を指でなぞる。青白い光がその顔を下から照らし、昼の陽射しとは違う冷たさを頬に浮かび上がらせた。


「管理者がいなかったら、探索者が何百人も死んでたって書いてある」


 誠司は、噛みかけのおにぎりを飲み込んだ。


 喉に米粒が引っかかったような感覚が残った。


「へえ、すごいね」


 もう一人が、軽く笑った。


「どんな人なんだろ」


「わかんない。正体不明だって。でも管理者ってことは、相当な実力者だよね。S級より上とか?」


「漫画みたいだな」


「いやでも、国家級ダンジョンだよ? 普通の人じゃ無理でしょ」


 普通の人。


 その言葉が、妙に耳に残った。


 誠司は湯呑みに入ったぬるいお茶を持ち上げる。口元まで運んだが、飲むまでに少し間が空いた。紙コップではなく、会社に置きっぱなしの安い湯呑みだった。縁に細い欠けがある。もう何年も同じ場所に置いている。


 相当な実力者。


 S級より上。


 そんな言葉の隣で、誠司は少し潰れた鮭おにぎりを食べている。


 椅子の背にもたれると、古いパイプ椅子がきい、と短く鳴った。


 後輩のスマホ画面が、ふとこちら側に傾いた。


 誠司は見るつもりなどなかった。


 けれど、目に入ってしまった。


 白い背景に太い黒文字で、見出しが表示されている。


 国家級ダンジョンに「管理者」は実在するか──政府関係者の証言


 文字ははっきりしていた。


 昼の光よりも、蛍光灯よりも、妙に強く網膜に焼き付いた。


 誠司は数秒だけ見て、それから視線を落とした。


 胸の奥に、小さなざらつきが生まれる。だが、それが何なのかはわからない。榊原の顔が一瞬浮かび、すぐに消えた。


 管理者。


 そういう人もいるんだな。


 誠司は、本当にその程度にしか思わなかった。


 自分が毎晩向かっている画面には、「管理」という言葉が何度も出てくる。管理領域。管理補助。管理者。だが会社の書類にも、勤怠管理や在庫管理という言葉はいくらでもある。


 管理という言葉は、世の中にありふれている。


 だから結びつかなかった。


 結びつけてはいけないような気もした。


「佐藤さん」


 急に声をかけられ、誠司は肩をわずかに揺らした。


 スマホを持った後輩が、こちらを見ている。まだ二十代半ばの、いつも声の大きい男だった。悪気はない。むしろ人懐っこい方だ。ただ、その明るさが今の誠司には少し眩しかった。


「ダンジョン関連の記事とか見ます?」


 誠司はお茶を一口飲んだ。


 ぬるかった。舌に残った塩気が薄まる。


「いや、あんまり」


「えー、見ないんですか? うちの会社もダンジョン関連の部品、作ってるのに」


 その場にいた若い社員の一人が、冗談めかして笑った。


「佐藤さん、在庫表とか見てるんじゃないですか?」


「ああ……まあ、書類上はな」


 誠司は苦笑した。


 脳裏に、見慣れた表の文字がぼんやり浮かぶ。


 階層安定センサー。


 退避経路制御ユニット。


 聞き慣れない部品名が並ぶ在庫表を、何度も確認したことがある。数字が合わず、ため息をつきながら修正依頼を出したこともあった。


 その時も、特に深く考えなかった。


 大きな会社の下請けなら、いろいろな部品を扱う。医療機器の部品もあれば、工場設備の部品もある。ダンジョン関連と言われても、誠司にとっては伝票の行が一つ増えるだけだった。


「俺は事務だからな」


 そう言うと、後輩たちは軽く笑った。


「佐藤さんらしいですね」


「でも、こういうのロマンありますよね。誰にも知られずに探索者を助けてる管理者とか」


「絶対、めちゃくちゃ強いおじさんとかだよ」


「いや、美女かもしれないじゃん」


「それはそれで記事になるだろ」


 笑い声が休憩室の壁に跳ねた。


 誠司も、口元だけで少し笑った。


 けれど胸の奥のざらつきは消えなかった。


 窓の外で風が強くなったのか、植え込みの草が一斉に横へなびいた。葉と葉が擦れ合う乾いた音はガラスに遮られ、ここまでは届かない。ただ、揺れだけが見える。


 見えているのに、音は聞こえない。


 そのことが、なぜかひどく落ち着かなかった。


 休憩室の時計の秒針が、かち、かち、と壁の上で刻まれている。普段なら気にも留めない音が、その時だけ妙に大きく聞こえた。


 スマホの中の記事。


 榊原の声。


 自分が扱っていた在庫表。


 赤いランプ。


 朝方の通用口で言われた、助けてくれた、という言葉。


 ばらばらのものが、誠司の頭の中でゆっくり浮かび上がっては、また離れていく。


 まだ形にはならない。


 形にするには、ひとつ足りなかった。


 いや、本当は足りていたのかもしれない。


 ただ、誠司はそれを自分の方へ引き寄せることをしなかった。


 昼休みの終わりを告げるチャイムが鳴った。


 社員たちが一斉に立ち上がる。椅子の脚が床を擦り、弁当殻を捨てる音が重なり、誰かの革靴が廊下のタイルを硬く叩いた。


 誠司もおにぎりの包みを丸め、ゴミ箱へ入れた。


 スマホはポケットに入れたままだった。


 記事の見出しは、まだ目の裏に残っている。


 国家級ダンジョンに「管理者」は実在するか。


 その文字を振り払うように、誠司は廊下へ出た。


 蛍光灯の続く通路を、いつもの速度で歩く。革靴の底が床を叩く音は、疲れた会社員のそれだった。世界を支える誰かの足音などではない。


 少なくとも、誠司自身はそう思っていた。



午後の仕事は、いつもと同じように積み上がっていた。


 机の上には、処理待ちの伝票が三つの山になっている。右端の山は確認済み。真ん中は差し戻し候補。左端は、まだ目を通していない分だった。誠司はそれを一枚ずつ取り、数字を追い、品番を確認し、画面の表と突き合わせていく。


 窓の外では、昼の明るさが少しずつ傾いていた。ビルの谷間に差し込んだ光が、隣の建物の壁を鈍い金色に染めている。空調の風が天井から静かに落ちてきて、書類の端をほんのわずかに震わせた。紙が擦れる音。キーボードを叩く音。誰かが電話口で頭を下げる声。プリンターが紙を吐き出す短い機械音。


 そのどれもが普段通りだった。


 だからこそ、昼休みに見た記事の見出しだけが、異物のように頭に残っていた。


 国家級ダンジョンに「管理者」は実在するか。


 誠司は入力欄に品番を打ち込む。


 TKS-47A。


 数量、三十六。


 納期、翌月十日。


 手は動いている。数字も間違えていない。だが、視線の奥に白い記事画面がちらついた。黒い文字が、消えかけた残像のように浮かぶ。


 管理者。


 相当な実力者。


 S級より上。


 昼休みの若い声が、今さら耳の奥で繰り返された。


 馬鹿馬鹿しい、と誠司は思った。


 自分とは関係ない。


 関係あるはずがない。


 それでも、胸の奥には小さな棘が刺さったままだった。痛いわけではない。ただ、呼吸するたびにそこにあるとわかる。


「佐藤さん、この在庫表、確認お願いできます?」


 横から書類を差し出され、誠司は顔を上げた。


「ああ、はい」


 受け取った紙には、見慣れた部品名が並んでいた。


 階層安定センサー。


 退避経路制御ユニット。


 その文字を見た瞬間、指先がほんの少し冷えた。


 昼休みの話が、脳裏でまた近づいてくる。


 ダンジョン関連の部品。


 うちの会社も作ってるのに。


 後輩は笑っていた。冗談半分で言っただけだ。誠司だって、いつもなら苦笑して終わる。それなのに今日は、紙の上の文字が妙にはっきり見えた。黒いインクが、白い紙に深く沈み込んでいるようだった。


 誠司は目を細め、数字を追った。


 在庫数。


 出荷予定。


 保守交換。


 どれもただの事務処理だ。今まで何度も見てきた。何かが特別になったわけではない。


 それでも、胸の奥の棘は少しだけ深くなった。


 夕方になると、事務所の空気は重くなる。


 午前中にはまだ乾いていた紙の匂いが、夕方には人の疲れと混じって、少し湿ったような匂いに変わる。誰かが飲み残したコーヒーの苦い香り。コピー機の熱。空調に吸われた埃っぽい風。窓ガラスの外には、西日を浴びた電線が黒い線になって伸びていた。


 誠司は最後の伝票を処理し、保存を押した。


 画面の右下に小さく完了の表示が出る。


 その一言を見るだけで、少しだけ肩の力が抜けた。


 夜の仕事でも、完了の表示が出る。


 赤かった項目が、緑に変わる。


 それを見るたび、なぜか息がしやすくなる。


 ただ、それが何を意味しているのかは、まだわからない。


 わからないまま、誠司は今日も会社を出た。


 外へ出ると、風が少し冷たかった。


 昼間に揺れていた植え込みの草は、夕暮れの光の中で色を失いかけていた。葉の先に残った光だけが細く光り、風が抜けるたびに、銀色の筋のようにちらちら動く。歩道を行き交う革靴の音が、アスファルトの上で乾いて響いた。駅へ向かう人の流れは、誰もが前だけを見ている。


 誠司も、その流れの中に入った。


 駅の階段を下りると、空気が一段重くなる。地下の匂い。湿ったコンクリート。人の体温。金属の手すりに触れると、昼の熱がまだかすかに残っていた。


 電車の中では、吊り革につかまったまま目を閉じた。


 揺れに合わせて、肩が誰かと触れる。車輪が線路の継ぎ目を越えるたび、床から硬い振動が足の裏へ伝わった。スマホを見る人々の顔が、青白い光に照らされている。


 その一人一人が、何かを読んでいる。


 ニュース。


 動画。


 連絡。


 昼休みに後輩が読んでいた記事も、今この車両のどこかで誰かが開いているのかもしれない。


 そう思った瞬間、誠司は胸の奥が少しだけ詰まった。


 自分も見ればいい。


 ただ検索すればいい。


 国家級ダンジョン。管理者。政府関係者の証言。


 昼に目に入った見出しを、そのまま打ち込めば、記事はすぐに出てくるはずだった。


 だが、誠司はスマホを取り出さなかった。


 ポケットの中で、指先だけがスマホの角に触れた。硬く、冷たい感触がある。


 そのまま握りしめる。


 契約書の文字が頭に浮かんだ。


 業務内容に関する自発的な調査・検索を禁ずる。


 あの時は、変な条項だと思った。


 データ入力のバイトなのに、なぜそこまで細かく縛るのか。仕事内容を調べるなというのは、普通ではない。けれど時給はよかったし、生活は苦しかった。美咲にこれ以上心配をかけたくなかった。子どもたちの靴や給食費や、少し先の旅行のことまで考えれば、断る余裕はなかった。


 だから、署名した。


 署名した以上、守る。


 誠司はそういう男だった。


 電車の窓には、疲れた自分の顔がぼんやり映っている。頬は少しこけ、目の下には薄い影がある。けれど、以前よりも背中は丸まっていないように見えた。


 気のせいかもしれない。


 そう思いながら、誠司は窓の中の自分から目をそらした。


 家に帰るころには、空はすっかり藍色に沈んでいた。


 住宅街の道には、夕飯の匂いが流れている。焼き魚の煙。カレーの甘い香り。どこかの家から聞こえる子どもの笑い声。自転車のブレーキが、きい、と細く鳴った。


 誠司が玄関を開けると、奥から湊の声が飛んできた。


「パパ、おかえり!」


「ただいま」


 小さな足音が廊下を駆けてくる。ぱたぱたと軽い音が近づき、湊が勢いよく抱きついてきた。誠司は鞄を持っていない方の腕で受け止める。


「うわ、元気だな」


「今日ね、学校でね、紙飛行機作った!」


「そうか。よく飛んだか?」


「ちょっとだけ!」


 湊は胸を張った。ちょっとだけなのに、誇らしそうだった。


 その後ろから、陽菜が顔を出す。


「おかえり、パパ」


「ただいま、陽菜」


 陽菜は湊ほど大きく動かない。ただ、誠司の顔をじっと見る癖がある。今日もそうだった。何かを確かめるように、誠司の目元と口元を見ている。


「疲れてる?」


「少しな。でも大丈夫だよ」


「ほんと?」


「ああ」


 陽菜は少しだけ考えるように瞬きをしてから、うなずいた。


 リビングでは、美咲が夕飯の支度をしていた。鍋のふたから白い湯気が細く立ち上っている。味噌汁の匂いが部屋に広がり、誠司の体の奥に溜まっていた冷えをゆっくりほどいた。


「おかえり」


「ただいま」


 美咲の声はいつも通りだった。けれど、ほんのわずかに目が長く誠司を見ていた。


 榊原と会った朝から、美咲は何かを察している。


 誠司にもそれはわかっていた。


 けれど、今はまだ話せない。


 話したくないのではない。話せない。自分でもわからないことを、どう説明すればいいのかわからない。


 美咲はそれ以上聞かなかった。


 ただ、味噌汁をよそいながら言った。


「手、洗ってきて。今日は冷えるから、温かいうちに食べよう」


「ああ」


 洗面所で蛇口をひねると、水が白く跳ねた。


 指先に冷たさが刺さる。手の甲を伝って、細い水滴が落ちていく。誠司は石鹸を泡立てながら、自分の手を見た。


 荒れた指。


 爪の横のささくれ。


 何の変哲もない、四十二歳の事務職の手。


 誰かを助けたと言われた手。


 蛇口から落ちる水音だけが、狭い洗面所に響いていた。ぽた、ぽた、と最後の滴が排水口に落ちるまで、誠司はしばらく動けなかった。


 夕飯の席は、いつも通り騒がしかった。


 湊が紙飛行機の飛距離を身振り手振りで説明し、陽菜がそれは廊下で飛ばしたから風がなかっただけだと冷静に指摘する。美咲が湊の口元についたご飯粒を取る。誠司は味噌汁をすすりながら、その声を聞いていた。


 この家の音。


 箸が茶碗に触れる音。


 湯気の上がる音。


 子どもの笑い声。


 美咲が小さく注意する声。


 それらが胸の中に積もっていく。


 あの仕事を始めた理由は、金だった。


 減った給料を埋めるため。家計を少しでも楽にするため。子どもたちに我慢ばかりさせないため。


 それは今も変わらない。


 だが、榊原は言った。


 助けてくれた、と。


 自分の部下を。


 何度も。


 誠司は、湊が笑っている顔を見た。


 もし、どこかにこの子のように帰りを待たれている人がいるのなら。


 もし、画面の中の光点が、ただの点ではないのなら。


 そこまで考えて、誠司は息を止めた。


 まだ、わからない。


 勝手に考えてはいけない。


 だが一度浮かんだ考えは、湯気のように消えてはくれなかった。


 夜が深くなり、子どもたちが寝室へ行ったあと、家の中は急に静かになった。


 さっきまで湊が走っていた廊下には、もう足音がない。リビングの時計だけが、こつ、こつ、と壁で時間を刻んでいる。冷蔵庫が低く唸り、外を通る車の音が窓越しに遠く流れていった。


 美咲は先に寝室へ入った。


「無理しないでね」


 扉を閉める前、そう言った。


 誠司はうなずいた。


「ああ」


 短い返事だった。


 けれど、その一言を出すまでに、喉の奥が少し渇いた。


 リビングに一人残ると、静けさが急に重くなった。


 昼間の休憩室のざわめきも、電車の揺れも、夕飯の声も、全部遠くへ引いていく。残ったのは、テーブルの上のスマホと、自分の呼吸だけだった。


 誠司はソファに座った。


 クッションが沈む音が、やけに大きく聞こえた。


 スマホを手に取る。


 画面が光る。暗いリビングに、その光だけが白く浮かんだ。指紋のついたガラス面に、自分の目が小さく映っている。


 ニュースアプリのアイコンが、そこにあった。


 親指が近づく。


 昼休みの見出しが蘇る。


 国家級ダンジョンに「管理者」は実在するか。


 政府関係者の証言。


 調べればいい。


 そうすれば、榊原が何を言っていたのか、少しはわかるかもしれない。自分が毎晩触れている画面のことも、赤いランプの意味も、あの光点の正体も、何か見えるかもしれない。


 親指が、画面の上で止まった。


 契約書の文字が浮かぶ。


 業務内容に関する自発的な調査・検索を禁ずる。


 榊原の声も重なった。


 詳しい話は後日改めてする。


 誠司は目を閉じた。


 深く息を吸う。リビングの空気は少し乾いていた。昼間より冷えた床の匂いと、食器を洗ったあとの洗剤の匂いが混じっている。カーテンの向こうで、風がベランダの物干し竿をかすかに鳴らした。


 かん、と小さな音がした。


 その音が消えたあと、家の中はさらに静かになった。


「……調べちゃダメなんだよな」


 声に出すと、自分の中で何かが決まった。


 誠司はニュースアプリを開かなかった。


 スマホの画面を消す。白い光がふっと消え、リビングは薄暗さを取り戻した。目が慣れるまで、テーブルの輪郭も、壁の時計も、少しぼやけて見えた。


 誠司はスマホを置き、両手を膝の上に乗せた。


 指先が、かすかに震えていた。


 怖いのかもしれない。


 知ることが。


 知らないままでいることが。


 どちらも怖い。


 だが、約束は守る。


 契約に署名した。榊原は後日話すと言った。ならば、待つ。それが正しいかどうかはわからない。けれど、少なくとも誠司が自分で折れていい理由にはならない。


 時計の針が進む。


 深夜バイトへ向かう時間が近づいていた。


 誠司は立ち上がり、いつもの鞄を手に取った。中には水筒とタオル、替えのシャツ。それから、美咲がいつも入れてくれる小さな菓子が一つ。


 玄関へ向かう途中、寝室の扉の前で足を止めた。


 中からは、子どもたちの寝息がかすかに聞こえる。湊の寝息は少し大きく、陽菜のそれは静かだった。美咲は起きているのか眠っているのか、わからない。


 誠司は扉に触れなかった。


 ただ、少しだけ頭を下げるようにして、その前を通り過ぎた。


 玄関で靴を履く。


 革靴の底が床に触れる音が、狭い空間に硬く響いた。ドアを開けると、夜の風が入ってくる。昼間の風とは違う、冷えて湿った風だった。遠くで車が走り、どこかの家の室外機が低く唸っている。


 空には雲が薄く広がっていた。街灯の光がその下をぼんやり照らし、アスファルトに誠司の影を長く伸ばしている。


 誠司は一歩踏み出した。


 靴音が、夜の住宅街に小さく落ちる。


 こつ。


 こつ。


 その音は、誰にも注目されない中年男の足音だった。


 昼休みに隣の席で語られていた「管理者」の足音には、とても聞こえなかった。


 その夜、佐藤誠司は調べなかった。


 調べていれば、昼休みに隣の席で読まれていた記事が、自分のことだとわかったはずだった。


 だが、榊原は言った。


 詳しい話は後日改めてする、と。


 だから誠司は待つことにした。


 約束を守る男だから。


 そして今夜もまた、彼は赤いランプのある場所へ向かっていく。

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