第30話 あんたが佐藤さんか 〜帰る場所は、恐れをほどく灯である〜
夜の雨は、降りそうで降らなかった。
雲は低く、街の上に重たく垂れ込めている。駅前の街灯は湿った空気に滲み、アスファルトにはまだ落ちていない雨の匂いだけが薄く漂っていた。風が吹くたび、歩道脇の植え込みがざわめく。細い草の葉が同じ方向へ倒れ、戻りきらないうちにまた次の風に押された。
佐藤誠司は、鞄を持つ手を一度だけ握り直した。
革の取っ手が掌に食い込む。
昨日から、体の芯に重い疲れが残っていた。眠ったはずなのに、眠りの底まで沈めていない。目の奥には鈍い熱があり、首の後ろは硬く張っている。鼻の奥には、まだかすかに鉄の味の記憶があった。
けれど、家を出る時、美咲は何も聞かなかった。
ただ玄関で、いつもより少し長くこちらを見ていた。
『無理しないでね』
その声が、地下へ向かう道の途中で何度も蘇った。
無理しない。
そう言われても、どこまでが無理なのか、自分でもよくわからなくなっている。
深夜の仕事は、もうただの副業とは呼べないところまで来ていた。赤い表示の向こうに人がいる。数字を一つ間違えれば、誰かが帰れなくなるかもしれない。そう知ってしまった以上、画面に向かった時の手は、以前と同じではいられなかった。
それでも、誠司はいつもの道を歩いた。
地下施設へ続く入口は、夜の街の端に沈んでいた。金属扉の前に立つと、湿った外気が背中から剥がれ、代わりに地下から上がってくる冷たい空気が顔に触れた。扉を開けると、白い照明が奥へ奥へと続いている。
靴音が響いた。
こつ。
こつ。
こつ。
長い通路に、自分の足音だけが重なる。壁に反射して戻ってくる音は少し遅れ、誰かが後ろからついてくるように聞こえた。誠司は振り返らなかった。振り返っても、そこには誰もいないとわかっていた。
通用口の横には、柴田源蔵がいた。
いつもの折りたたみ椅子。膝の上の新聞。缶コーヒー。変わらない光景のはずなのに、今日は柴田の顔が少し硬く見えた。
「こんばんは」
誠司が言うと、柴田は新聞から目を上げた。
「来たか、佐藤さん」
「はい」
「顔色が悪いな」
「昨日、一昨日の疲れが残ってるだけです」
柴田は新聞を畳んだ。
紙が擦れる音が、通路に乾いて響いた。
「残ってるだけ、って顔じゃないがな」
誠司は曖昧に笑った。
笑ったつもりだったが、頬がうまく動かなかった。
「今日は早く終わるといいんですけど」
「そう願っとけ」
柴田はそう言って、いつものように缶コーヒーを差し出した。
誠司は受け取った。金属の缶は冷えていて、掌に当たると一瞬だけ眠気が遠のいた。プルタブを開ける音が、地下の空気を小さく裂く。甘く苦い匂いが立った。
「ありがとうございます」
「飲んでから行け」
「はい」
誠司は一口だけ飲んだ。
冷たい液体が喉を通る。胃のあたりに落ちると、空腹だったことに気づいた。夕飯は食べてきたはずなのに、体がまだ何かを欲しがっているようだった。
柴田は何も言わずに、通路の奥を見ていた。
誠司もその視線の先を見た。
白い照明が、どこまでもまっすぐ続いている。その奥に端末室がある。毎晩座る椅子がある。赤い表示と、コトリの声がある。
「行ってきます」
「ああ」
柴田の返事は短かった。
誠司は歩き出した。
端末室の扉の前で、少しだけ足を止める。金属製の扉は冷えていた。指先で触れると、皮膚の熱が吸い取られる。中からは低い機械音が聞こえていた。昨日のような軋みはない。だが、静かすぎる音も、それはそれで不安を誘った。
誠司は息を吸い、扉を開けた。
青白い光が顔に当たる。
机。椅子。端末。壁の無数の配線。
変わらない部屋。
それでも、椅子に座る時、誠司の肩にはわずかに力が入った。
電源を入れる。
起動音が鳴る。
画面が立ち上がる。
赤い表示は、六件だった。
誠司は無意識に息を吐いた。
「六件……」
『はい。現在の赤いエントリは六件です。昨日の広域異常後、管理領域は比較的安定しています』
「比較的、か」
『はい。完全な安定ではありませんが、緊急度は高くありません』
「わかった。順番にやろう」
指がキーに乗る。
昨日ほど震えてはいない。だが、爪の先に力が入りすぎているのがわかった。誠司は一度手を開き、閉じ、もう一度キーボードへ置いた。
一件目。
B区画の小さな数値ずれ。
二件目。
C区画の通路圧の偏り。
三件目。
D区画の退避経路確認。
コトリが必要な情報を示し、誠司が確認し、入力する。赤が橙へ変わり、緑に落ちる。そのたびに、部屋の空気がほんの少し軽くなった気がした。
四件目を終える頃には、額に薄く汗が滲んでいた。
冷房の風がそれを冷やす。
机の上に置いた缶コーヒーは、もう汗をかいていた。水滴が缶の側面を滑り、机に小さな丸い跡を作っている。誠司はそれを横目で見ながら、五件目を処理した。
『残り一件です』
「よし」
最後の一件は、E区画の警告だった。
登録活動者はいない。隣接区画への影響も小さい。誠司は慎重に数値を確認し、入力した。
赤が消える。
画面が緑で揃った。
『全件処理完了です』
誠司は椅子の背にもたれた。
深く息を吐く。
「今日は……穏やかだったな」
『はい。処理負荷は低めでした』
「昨日みたいなのが続いたら、さすがに体が持たないよ」
『同意します。誠司には休息が必要です』
「コトリに言われると、ちょっと本気に聞こえるな」
『本気で言っています』
誠司は苦笑しようとした。
その時だった。
画面の端に、見慣れない小さな表示が浮かんだ。
赤ではない。
黄色でもない。
白い通知。
誠司は眉を寄せた。
「ん?」
『誠司』
コトリの声が、少しだけ変わった。
いつもの平坦さは残っている。だが、そこに硬いものが混じっていた。
『施設の上階に、通常登録されていない人物の生体反応があります』
誠司の背筋が冷えた。
「え?」
椅子の背から体を起こす。
「不審者か?」
『登録されていない人物ですが、施設のセキュリティを正規手続きで通過しています。敵対的ではないと推定されます』
「正規手続き……つまり、ここに入る権限を持った人間ってことか」
『はい』
「でも、登録されてないんだろ?」
『通常勤務者リストには存在しません』
誠司は喉の奥が乾いていくのを感じた。
昨日の二十七件とは違う怖さだった。
画面の中の異常なら、まだ向き合い方がわかる。数字を直す。道を開ける。赤を消す。だが、人間は違う。何を言われるかわからない。何を知られているのかわからない。
背中に冷たい汗が滲んだ。
「その人、どこにいる?」
『柴田源蔵と同じフロアにいます』
柴田さんと同じ場所。
通用口。
誠司は画面を見つめた。
ふと、美咲の言葉が胸をよぎる。
無理しないでね。
帰ってきてね。
帰る。
帰るつもりだった。
いつも通り、端末を閉じて、通用口で柴田に挨拶して、駅へ向かい、始発の電車に乗るつもりだった。
なのに、いつもの出口に、知らない誰かがいる。
「コトリ」
『はい』
「俺、帰って大丈夫なのか」
一瞬、機械音だけが聞こえた。
端末室の照明が、白く机を照らしている。缶コーヒーの水滴がまた一つ滑り落ち、机の上で小さく弾けた。その音が聞こえるほど、部屋は静かだった。
『現時点で、身体的危険は低いと推定します』
「精神的には?」
『不明です』
「そこ、不明なんだ」
『はい。人間の反応は、状況により大きく変化します』
誠司は小さく息を吐いた。
笑えなかった。
「だよな」
鞄を持つ。
椅子から立ち上がると、膝が少し重かった。昨日の疲れがまだ残っている。床に伸びた自分の影が、照明の下でわずかに揺れた。
『誠司』
「何?」
『必要であれば、私が状況を監視します』
誠司は端末を見た。
画面には、緑の表示が並んでいる。
静かだった。
「ありがとう」
『はい』
「行ってくる」
『お気をつけて』
端末室を出た。
通路の冷気が、首筋に触れた。
靴音が響く。
こつ。
こつ。
こつ。
いつもの通路なのに、出口までの距離がやけに長い。壁の白い光が目に刺さる。遠くの角を曲がるたび、胸の中の鼓動が一つ強くなる。
誰がいる。
何のために。
自分に何を言うつもりなのか。
まさか、昨日のことか。
それとも、もっと前からのことか。
この仕事は本当はまずいものだったのか。
家族に迷惑がかかるのか。
考えが、次々に浮かんでは絡まり、ほどけなくなる。
誠司は足を止めそうになった。
だが、その時、通路の奥から新聞紙の擦れる音が聞こえた。
柴田のいる場所だ。
いつもの音。
その音に、ほんの少しだけ呼吸が戻った。
角を曲がる。
通用口の明かりが見えた。
柴田が、いつもの椅子に座っている。
そして、その横に――見知らぬ男が立っていた。
がっしりした体格。
白髪交じりの短い髪。
背筋はまっすぐで、立っているだけで周囲の空気が少し重くなるような男だった。だが、威圧する目ではない。深い皺の刻まれた目元に、疲労と、何かを抑えたような静けさがあった。
男の手には、缶コーヒーが二本あった。
柴田が誠司を見た。
小さく頷く。
「佐藤さん」
その声は、いつもより低かった。
「客だ」
誠司の足が止まった。
指先が冷たくなる。
鞄の取っ手を握る手に、じわりと汗が滲んだ。
見知らぬ男が、一歩前へ出た。
靴音が、通用口の床に短く響く。
「初めまして」
男は、誠司をまっすぐ見た。
「榊原です」
少し間を置いて、男は缶コーヒーを一本差し出した。
「――まあ、肩書きは後でいい」
誠司は、その缶を見た。
柴田がいつもくれるものと同じ銘柄だった。
冷たい缶の表面に、細かな水滴がついている。通用口の白い照明を受けて、その一粒一粒が小さく光っていた。
榊原は、声を低くした。
「飲まないか」
誠司は、差し出された缶コーヒーをすぐには受け取れなかった。
通用口の白い照明が、榊原の肩越しにまっすぐ落ちている。そのせいで男の顔には深い影ができ、目元の皺だけが妙にはっきり見えた。柴田は椅子に座ったまま、何も言わない。新聞も開かず、ただ黙ってこちらを見ている。
地下の空気が冷たかった。
それなのに、誠司の背中には汗が滲んでいた。
逃げるべきなのか。
話を聞くべきなのか。
自分が何をしたのか、何を知られているのか、頭の中で答えのない問いばかりが膨らんでいく。鞄を握る指が強張り、取っ手の革が掌に食い込んだ。
榊原は、缶コーヒーを差し出したまま待っていた。
急かさない。
近づきすぎない。
その間合いが、かえって誠司の胸の震えを少しだけ抑えた。
「……いただきます」
誠司はようやく手を伸ばした。
缶は冷たかった。
その冷たさが掌に触れた瞬間、自分がひどく緊張していることを改めて思い知らされた。指先がかすかに震えている。榊原はそれに気づいているはずだったが、何も言わなかった。
「少し外に出よう」
榊原が言った。
「ここより、息がしやすい」
柴田が小さく頷いた。
「行ってこい、佐藤さん」
「柴田さん……」
「大丈夫だ」
その一言は短かった。
けれど、誠司の足を前に出させるには十分だった。
通用口を抜けると、夜明け前の空気が肌に触れた。
雨は結局、降らなかったらしい。けれど地面は湿っていて、アスファルトの黒が街灯の光を鈍く返している。遠くの空はまだ暗い。ビルの輪郭だけが、薄い灰色の中に沈んでいた。
風が吹いた。
施設脇の植え込みの草が、ざわりと揺れる。細い葉が互いに擦れ、乾いた音を立てた。水滴がひとつ、葉先から落ちる。小さな音だったが、静かな早朝の中では妙にはっきり響いた。
通用口の外には、古いベンチがあった。
金属の脚は少し錆び、座面には夜露が薄く残っている。榊原は袖で軽く拭ってから、端に腰を下ろした。誠司も、少し距離を空けて座る。
缶コーヒーのプルタブを開ける音が、二つ重なった。
しばらく、誰も話さなかった。
遠くでトラックが走る音がする。まだ眠っている街の底を、低い振動が這うように過ぎていった。駅の方角からは、始発前の構内放送らしき音が風に薄く混じって届く。言葉までは聞き取れない。ただ、人が動き始める気配だけがある。
榊原が缶に口をつけた。
「あんたが、佐藤さんか」
誠司の肩がわずかに跳ねた。
「……はい」
「佐藤誠司さん。四十二歳。東都精機システムズ勤務。妻と子どもが二人」
誠司の手が止まった。
缶コーヒーの冷たさが、急に指の骨まで入り込んできたようだった。
「俺のことを……知ってるんですか」
「ああ」
榊原は正面を向いたまま答えた。
「知ってる」
沈黙が落ちた。
それは、何もない時間ではなかった。
胸の内側を、冷たい手で押さえられているような沈黙だった。風が草を揺らす音。水滴が地面に落ちる音。遠くで信号が変わる小さな電子音。そのすべてが、誠司の不安を一つずつ数えているように聞こえた。
「俺は……何か、まずいことをしたんでしょうか」
声が掠れた。
榊原はすぐには答えなかった。
缶コーヒーを膝の上に置き、両手で包むように持つ。その大きな手にも、わずかな傷跡があった。古い傷だ。火傷のような跡も、指の関節近くに残っている。
「怖がらなくていい」
榊原は静かに言った。
「拘束しに来たんじゃない。責めに来たわけでもない」
誠司は息を吸った。
けれど、肺の奥まで入らなかった。
「ただ」
榊原がこちらを向いた。
その目は、強かった。
だが、誠司を押さえつける強さではなかった。何かを失って、それでも立ってきた人間の目だった。
「あんたに、礼を言いに来た」
「礼……?」
「ああ」
榊原は、深く頭を下げた。
誠司は息を止めた。
目の前の男は、誠司より明らかに場慣れしていた。肩書きは知らない。だが、普通の会社員が簡単に頭を下げさせられる相手ではないことくらい、誠司にもわかった。
その男が、早朝の湿った空気の中で、誠司に頭を下げている。
「俺の部下を、何度も助けてくれた」
榊原の声は低かった。
「あんたが画面の向こうで数字を直すたびに、俺の部下が帰ってこられた」
誠司は、何も言えなかった。
「名前は出せない。細かい場所も話せない。だが、あんたの操作で帰れた人間がいる。何人もいる」
風が吹いた。
榊原の短い髪が少し揺れる。
「ありがとう」
その言葉は、静かだった。
けれど、誠司の胸の奥へまっすぐ入ってきた。
端末越しの声ではない。
画面の中の文字でもない。
目の前にいる人間が、誠司へ向けて言っている。
ありがとう。
その五文字が、今までの夜を少しずつ照らしていく。
赤い表示。
震える指。
鼻血。
眠れない朝。
家族に言えない仕事。
自分でも何をしているかわからないまま、ただ間違えないように必死で押してきたキー。
その先に、帰れた人間がいた。
誠司は缶コーヒーを握ったまま、目を伏せた。
「俺は……」
喉が詰まる。
「そんな、大したことは」
「している」
榊原が遮った。
強い声ではなかった。
だが、その言葉は揺れなかった。
「少なくとも、俺たちにはそうだ」
誠司の視界が滲みかけた。
疲れているせいだと思いたかった。
昨日からの無理が残っているだけだと。
けれど、それだけではなかった。
ずっと、自分の仕事は誰にも見られていないと思っていた。会社では替えが利く人間で、家では疲れた父親で、深夜にはよくわからない端末の前に座るだけの男。
でも、見ている人がいた。
知っている人がいた。
礼を言いに来る人がいた。
榊原は少し間を置いてから尋ねた。
「あんた、自分がどんな仕事をしているか、わかっているか」
誠司はゆっくり首を振った。
「正直、よくわかりません」
声は小さかった。
「端末に出る数字を直して、赤い表示を消して。時々、退避経路を開けて。最近は……管理領域全体の感覚みたいなものも、少しだけわかるようになりました」
言葉にしながら、自分でも不思議だった。
会社の誰かに言えば、何を言っているのかわからないと笑われるだろう。美咲に話しても、きっと不安にさせるだけだ。だからずっと、胸の内側にしまってきた。
「でも」
誠司は缶コーヒーを見つめた。
缶の表面についた水滴が、指に触れて冷たい。
「俺は……ただのデータ入力です」
言った瞬間、胸の奥が少し痛んだ。
その言葉は、自分を守るためのものだった。
大げさに考えないため。
怖くならないため。
自分の手が誰かの命に届いているなんて、考えすぎないため。
榊原はしばらく黙っていた。
やがて、缶コーヒーを一口飲み、ふっと息を吐いた。
「あんたの朝飯、美味そうだな」
誠司は顔を上げた。
「え?」
「柴田さんから聞いた。毎朝、子どもに卵焼きを作ってるそうだな」
「いや……毎朝ってほどじゃ」
「卵焼き、得意なのか」
「普通です。子どもが甘いやつ好きで」
そう答えてから、誠司は戸惑った。
何の話をしているのか。
だが、榊原の目は真剣だった。
「世界を支えるような仕事をしている男が、朝は台所で卵焼きを焼いている」
榊原は空を見た。
雲の端が少しだけ明るくなっていた。
「いいじゃないか」
誠司は言葉を失った。
管理端末のことでも、赤い表示のことでもない。
榊原は、誠司の朝の話をしていた。
陽菜が好きな甘い卵焼き。
湊が寝ぼけながら食卓につく朝。
美咲が湯気の立つ味噌汁を置く音。
自分が台所に立ち、まだ眠い手で卵を溶く時間。
それを、この男は軽んじていない。
むしろ、そこを見ている。
誠司の胸の奥で、固くなっていたものが少しずつほどけた。
榊原は立ち上がった。
「詳しい話は、日を改めてする」
誠司も立ち上がろうとしたが、膝に力が入りきらなかった。
榊原はそれを見ても、手を貸そうとはしなかった。急がせもしなかった。
「今日は顔を見に来ただけだ」
「顔を……」
「ああ」
榊原は誠司を見た。
「一つだけ伝えておく」
風が止んだ。
草の擦れる音が消えた。
遠くの道路の音まで薄くなり、早朝の空気が一瞬、息を潜めたようだった。
「あんたの家族には、誰も手を出させない」
榊原の声は、低く、はっきりしていた。
「俺が保証する」
誠司は動けなかった。
その言葉の重さを、すぐには受け止めきれなかった。
なぜ家族の話が出るのか。
誰かが手を出す可能性があるのか。
自分は何に巻き込まれているのか。
怖さは消えなかった。
むしろ、新しい怖さが胸の奥で生まれた。
それでも、その怖さの真ん中に、一本だけ支えのようなものが立った。
この人は、敵ではない。
誠司はようやく声を出した。
「……ありがとうございます」
榊原は振り返らなかった。
片手を軽く上げ、そのまま通用口の方へ歩いていく。背中は大きく、まっすぐだった。靴音が湿ったアスファルトを叩き、少しずつ遠ざかっていく。
誠司はベンチに座ったまま、その背中を見送った。
やがて、柴田が横に立った。
「帰れるか」
「……はい」
「缶コーヒー、まだ残ってるぞ」
「あ」
誠司は手の中の缶を見た。
中身は半分以上残っていた。
口をつけると、もうぬるくなっていた。甘さと苦さが混ざった味が、喉をゆっくり通っていく。
「柴田さん」
「なんだ」
「あの人、何者ですか」
柴田は少しだけ目を細めた。
「あんたの仕事を知ってる人だ」
「俺の……」
「それと」
柴田は空を見た。
東の空が、わずかに白み始めていた。
「あんたを家に帰そうとしてる人だ」
誠司は缶を握った。
金属の感触が、指に残る。
「……そうですか」
「ああ」
柴田はそれ以上、何も言わなかった。
誠司は立ち上がった。
体は重い。頭もまだぼんやりしている。けれど、足は動いた。
「帰ります」
「気をつけてな」
「はい」
駅へ向かう道に出ると、朝が少しずつ街をほどき始めていた。
低い雲の下から、淡い光が滲んでいる。歩道脇の草には水滴が残り、風が吹くたびに小さく揺れた。革靴がアスファルトを叩く音が、まだ人の少ない道に硬く響く。
こつ。
こつ。
こつ。
誠司はスマートフォンを取り出した。
美咲からメッセージが届いていた。
『おつかれさま。卵焼き焼いておいたよ』
誠司は立ち止まった。
画面の文字が、朝の光の中で少し滲んで見えた。
卵焼き。
家の台所。
子どもたちの声。
湯気の立つ食卓。
帰る場所。
榊原の声が、胸の奥で重なる。
あんたの家族には、誰も手を出させない。
誠司は短く返信した。
『ありがとう。今から帰る』
送信して、スマートフォンをしまう。
駅へ向かって歩き出す。
自分の仕事を知っている人間がいる。
自分に礼を言う人間がいる。
自分の家族を守ると言った人間がいる。
でも、まだ何もわかっていない。
どうして自分なのか。
管理領域とは何なのか。
誰が何を狙っているのか。
あの画面の向こうにいる人たちが、本当はどこにいるのか。
何もわからない。
ただ、一つだけわかった。
自分の仕事は、ただのデータ入力ではなかった。
誰かを帰す仕事だった。
そして、自分にも帰る場所がある。
始発の電車が、遠くの高架をゆっくり走っていく音がした。
朝の光が、線路の上で細く反射する。
誠司はその音を聞きながら、駅へ向かった。
背中の疲れはまだ消えない。
怖さも消えない。
それでも、足は止まらなかった。
家に帰るために。
今日も、誰かを帰すために。




