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減給された40代社畜、深夜バイトで国家級ダンジョンの管理者になる  作者: Gaku
第1部:深夜バイト編

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第29話 過去最大の夜 〜正しさは、人を見失う刃である〜

オービットゲート社の本社ビルは、夕暮れの街を見下ろしていた。


 高層階の窓には、西へ沈む太陽が赤く反射している。雲の底は錆びた鉄のような色に染まり、ビルとビルの隙間を抜ける風が、地上の街路樹を大きく揺らしていた。細い枝がしなり、葉が裏返り、乾いた音を立てて擦れ合う。その音はここまでは届かない。ただ、ガラス越しに見える葉の揺れだけが、外の風の強さを伝えていた。


 白瀬は、その窓を背にして立っていた。


 室内は冷えきっている。


 床も、壁も、机も、余計な温度を持たない。照明は白く、影を許さないほど均一だった。整然と並んだ端末の画面には、青い線と数字が走っている。人間が仕事をしている部屋というより、何かを選別するための箱に見えた。


 大きな会議机の上には、二種類の資料が置かれていた。


 一つは、匿名で送信される情報の原稿。


 もう一つは、自動管理システム「ミラージュ」の起動手順。


 白瀬は細い指で、原稿の一行をなぞった。


 国家級ダンジョンに、政府が隠している「管理者」と呼ばれる存在がいる。


 探索者の生還率に不自然な向上が見られ、人為的介入の可能性がある。


 実在するならば、それは誰なのか。


 文章は煽りすぎず、断定しすぎず、しかし読む者の不安と好奇心を確実に刺すように整えられていた。証拠は全部出さない。名前も出さない。少しだけ匂わせ、あとは勝手に探させる。人は、隠されていると思ったものほど覗きたがる。


「送信準備は」


 白瀬が言った。


 声は低く、よく磨かれた金属のように冷たかった。


 端末の前にいた社員が背筋を伸ばす。


「指定媒体への投函準備、完了しています。公開時刻は今夜二十三時四十分。初動は小さいですが、翌朝までには一部の掲示板とまとめ系のアカウントが拾う見込みです」


「十分です」


 白瀬は窓の外を見た。


 地上を歩く人々は小さかった。信号の前で固まり、青になると流れ、また別の赤で止まる。誰も、自分がどの情報に動かされているかなど気にしない。画面に流れてきた言葉を拾い、怒り、笑い、疑い、拡散する。


 人間は、自分で考えているつもりで、流された方向へ歩く。


 白瀬はそう考えていた。


「管理者の存在を、世間に知らせるのです」


 隣に立っていた技術者が、わずかに眉を動かした。


「政府側が警戒を強めます」


「構いません」


「本人の保護が早まる可能性も」


「それも構いません」


 白瀬は資料から視線を上げた。


「重要なのは、隠されていた存在を、隠せないものに変えることです。隠せなくなれば、評価される。評価されれば、比較される。比較されれば、不要なものは切り捨てられる」


 技術者は答えなかった。


 空調の風が、机の上の紙をわずかに震わせた。端が持ち上がり、また落ちる。ぱさり、という乾いた音が、静かな部屋に妙に大きく響いた。


 白瀬はもう一つの資料へ指を移した。


 ミラージュ。


 コトリから盗み取ったわずかな応答の断片をもとに作られた、自動管理のためのシステム。完全ではない。むしろ、完成にはほど遠い。けれど白瀬にとって、それは欠点ではなかった。


 最初から完璧である必要はない。


 存在を示せばいい。


 人間の管理者に、替わりがあると。


「起動準備は」


 技術者は一瞬だけ口を閉じた。


 その沈黙は、迷いを含んでいた。


 機械の音が、室内の奥で小さく唸っている。遠くのサーバールームから、冷却装置の低い振動が床を伝ってきた。人間の耳にはほとんど届かないほどの音なのに、胸の骨の内側を薄く震わせる。


「接続は可能です。ただし、まだ試作段階です。取得できている応答の断片は、全体から見ればごく一部にすぎません。管理領域への影響を完全には予測できません」


「予測できないものを、いつまでも恐れていては何も進みません」


「ですが――」


 白瀬の視線が、技術者を止めた。


 鋭くはない。


 怒りもない。


 ただ、そこには相手の迷いを価値として見ない冷たさがあった。


「人間の管理者は非効率です」


 白瀬は静かに言った。


「疲労する。迷う。感情に引きずられる。誰を優先するかで悩み、最適な判断を遅らせる。そんなものに国家級の領域を任せている方が異常です」


 技術者の喉が小さく鳴った。


「ミラージュは疲れません。迷いません。与えられた条件の中で、常に最も合理的な答えを選びます」


「それが人命に関わる場面でも、ですか」


 技術者の声は小さかった。


 白瀬は薄く笑った。


「だからこそです」


 その笑みは、温度を持たなかった。


「感情で選ぶから、間違える。恐怖で手が止まるから、遅れる。責任を背負うから、壊れる。機械にはそれがない」


 窓の外で、夕陽がビルの縁に沈みかけていた。赤い光が室内のガラス机に反射し、白瀬の手元だけを血のように染めた。


「まずは存在を示します。政府に。世間に。そして、あの人間の管理者にも」


 白瀬は起動承認の画面へ歩いた。


 靴音が、磨かれた床に硬く響く。


 かつ。


 かつ。


 かつ。


 その音が止まると、室内の空気がさらに冷えたように感じられた。


 白瀬は指を伸ばした。


 端末の表面に触れる直前、技術者がもう一度だけ言った。


「影響が広がれば、現場にいる登録活動者にも揺れが出ます」


「その揺れを抑えるために、管理者がいるのでしょう」


 白瀬は振り返らなかった。


「人間の管理者が、本当に必要ならば、耐えてみせるはずです」


 指先が、画面に触れた。


 短い電子音。


 ミラージュ起動。


 青い画面に、銀色の線が走った。


 最初は細い糸のようだった。それが一つ、二つ、三つと枝分かれし、暗い網の中へ沈んでいく。端末の明かりがわずかに揺れた。サーバールームの低い振動が大きくなる。室内の紙が、風もないのに一枚だけめくれた。


 技術者の額に、冷や汗が浮かんだ。


 白瀬は、その汗を見ていなかった。


 ただ、画面の中で広がっていく銀色の線を見ていた。


「始まりましたね」


 彼は静かに言った。


「管理者という名の、古い仕組みを終わらせる夜が」


     *


 同じ夜。


 佐藤誠司は、地下施設へ向かう階段を下りていた。


 地上では風が強かった。駅から施設までの道で、街路樹の葉が何度もざわめき、コンビニ袋が歩道の端を滑るように転がっていった。夜の空気には雨の匂いが混じっている。降り出す前の湿った重さが、スーツの肩にまとわりついていた。


 地下へ入ると、空気は一変した。


 冷たい。


 乾いている。


 壁に沿って並ぶ照明が、白い光を床に落としている。誠司の靴音が、長い通路に硬く響いた。


 こつ、こつ、こつ。


 いつもと同じ道。


 いつもと同じ光。


 いつもと同じ、少し息苦しい空気。


 それなのに、今日は何かが違った。


 胸の奥が、落ち着かない。


 誠司は首元に指を入れ、ネクタイを少し緩めた。額に汗はない。だが、背中の内側に薄い冷たさが張りついている。理由はわからなかった。


 通用口の横では、柴田がいつもの折りたたみ椅子に座っていた。


 古い新聞を広げている。だが、紙面を読んでいるというより、紙の向こうで何かを聞いているように見えた。


「こんばんは」


 誠司が声をかけると、柴田は新聞を少し下げた。


「来たか、佐藤さん」


「はい」


「風、強かったろ」


「けっこう。雨、降りそうですね」


 柴田は窓のない天井を見上げるように、目だけを上げた。


「降る前の空気は重い」


 それだけ言って、缶コーヒーを一本差し出した。


 誠司は受け取った。


 缶は冷たかった。


 手の中にあるその冷たさだけが、妙にはっきりしていた。


「今日は、何かあるんですか」


 自分でも、なぜそんなことを聞いたのかわからなかった。


 柴田は誠司を見た。


 しわの深い目元が、いつもより少しだけ細くなる。


「あるかないかは、中に入ればわかる」


「……そうですね」


「ただな」


 柴田は新聞を畳んだ。


 紙が擦れる音が、通路に乾いて響く。


「変だと思ったら、無理に急ぐな。だが、人がいるなら、迷うな」


 誠司は息を呑んだ。


 その言葉の意味は、半分もわからなかった。


 けれど、胸のどこかに重く落ちた。


「はい」


 そう答えて、誠司は端末室へ向かった。


 扉の前で、一度だけ立ち止まる。


 中からは、いつもの低い機械音が聞こえている。


 だが今日は、その音の奥に、細い軋みのようなものが混じっている気がした。金属が遠くで歪むような、耳ではなく骨で聞くような音。


 誠司は唾を飲み込んだ。


 喉が乾いていた。


 扉を開ける。


 青白い光が、顔に当たった。


 端末の前に座り、電源を入れる。


 起動音。


 画面が立ち上がる。


 そして――


 誠司は、息を止めた。


 画面が、真っ赤だった。



赤かった。


 ひとつの警告ではない。


 画面の端から端まで、赤い表示が折り重なるように並んでいた。いつもなら数件ずつ浮かぶはずの赤いエントリが、まるで血の膜のように画面を覆っている。誠司は一瞬、端末の故障かと思った。


 けれど違う。


 警告音が鳴った。


 短く、鋭く、胸の奥に刺さる音だった。


【警告:管理領域内 広域異常検出】


【B区画:異常三件】


【C区画:異常八件】


【D区画:異常十一件】


【E区画:異常五件】


【複数区画の連動崩壊リスク:中程度】


 誠司の喉が鳴った。


「二十七件……?」


 数字を数え直す必要はなかった。


 画面の上部に、冷たい文字で処理対象数が表示されている。


 二十七。


 今まで見たことのない数だった。


 椅子に座っているのに、足元が沈むような感覚があった。床が遠くなる。機械音が膨らみ、壁の内側から迫ってくる。背中に汗が滲み、シャツが肌に張りついた。冷房は効いているはずなのに、額の奥が熱い。


「コトリ」


 声が少し上ずった。


「これ、何が起きてる」


『誠司。異常ログが集中しています。原因は外部からの干渉パターンです』


「外部からの……前にもあったやつか?」


『類似しています。ただし、今回は規模が異なります。複数区画へ同時に影響が出ています』


 画面の赤が、目の奥でちらつく。


 誠司は椅子の肘掛けを握った。指先が冷たい。掌だけが汗ばんでいる。呼吸が浅くなっていることに気づき、無理やり息を吸った。


 吸っても、肺の奥まで空気が入らない。


 胸の真ん中に、固い石が置かれたようだった。


「二十七件を、今から全部か」


『はい。放置した場合、複数区画で連動した不安定化が進行します』


「人は」


『登録活動者が複数名、該当区画内に存在します』


 その言葉で、誠司の背筋が伸びた。


 赤い数字の向こうに、人がいる。


 それだけは、もうわかっている。


 光点ではない。声ではない。けれど確かに誰かがいる。息をして、怖がって、帰りたいと思っている誰かがいる。


 誠司は唇を噛んだ。


 あの時の感触が戻る。


 ほんのわずかな遅れ。


 たった一度の判断の揺れ。


 画面の向こうで誰かを傷つけてしまった、あの重さ。


 忘れた日はなかった。


 忘れられるはずがなかった。


 誠司は目を閉じた。


 美咲の声が浮かぶ。


 ちゃんと帰ってきてね。


 陽菜の笑顔が浮かぶ。


 湊の、朝食の話で弾む声が浮かぶ。


 帰る。


 自分も帰る。


 だから、向こうにいる誰かも帰す。


 誠司は目を開けた。


「コトリ。やる」


『推奨:第三段階、深層対話を併用してください。管理領域全体の状態を感覚的に把握しながら処理する必要があります』


「負担は」


『高いです』


「倒れる?」


『可能性はあります』


 誠司は小さく笑おうとして、失敗した。


 唇が震えただけだった。


「倒れるのは、終わってからにする」


『了解しました。深層対話を開始します』


 次の瞬間、世界が広がった。


 目の前の画面だけではなく、もっと奥。もっと遠く。暗い空間がいくつも重なって、誠司の内側へ流れ込んでくる。


 冷たい風。


 石の湿り気。


 金属が軋むような低い音。


 遠くで水が落ちる音。


 ぽつん。


 ぽつん。


 その一滴ごとの響きが、広い空洞の壁に当たり、何度も薄く跳ね返る。


 誠司は息を呑んだ。


 あちこちが揺れている。


 床ではない。


 空気でもない。


 もっと深いところで、何かがずれている。細い糸が乱暴に引っ張られ、結び目がいくつも震えているようだった。赤いエントリが単なる表示ではなく、痛みの場所として感じられる。


 鼻の奥が熱くなった。


 ぽたり、と何かが落ちた。


 白い机の上に、赤い点がひとつ広がる。


 鼻血だった。


 誠司は袖で乱暴に拭った。


「集中しろ」


 自分に言い聞かせる。


「順番にやれ」


『B-2区画、安定値低下。登録活動者一名。退避経路が閉塞しかけています』


「そこから」


 指が動いた。


 数字を確認する。経路を開く。圧を逃がす。赤がひとつ、橙へ変わる。さらに調整。緑へ。


『B-2、安定』


「次」


『C-5とC-7が連動しています。C-5を先に処理した場合、C-7の安定まで推定四分の猶予があります』


「C-5を先にやる。C-7は四分あれば間に合う」


『了解。C-5のパラメータを表示します』


 そこから先は、時間の感覚が崩れた。


 午後十一時三十分。


 画面の隅に表示された時刻は、すぐに意味を失った。


 誠司は赤い表示を追い続けた。


 ひとつ消すと、別の区画が揺れる。


 そこを押さえると、奥の数値が跳ねる。


 コトリが情報を整理する。


 誠司が選ぶ。


 コトリが最も効率のいい手順を示す。


 誠司は、その中から人が帰れる道を選ぶ。


『D-9区画に登録活動者が二名います。安定値が九十二パーセントまで低下しています』


「先にD-9の退避経路を開ける」


『E-3を後回しにした場合、処理負荷が増大します』


「人がいるところが先だ」


『了解。D-9を優先します』


 手が震える。


 キーを叩く音が、端末室に響く。


 たん、たん、たん。


 呼吸が荒くなる。


 鼻血がまた滲む。


 額から汗が落ち、顎を伝った。冷房の風が汗を冷やし、背中に寒気が走る。それでも指を止めなかった。


 途中で一度、視界が白く飛んだ。


 画面の赤も、緑も、数字も、すべて光の塊になった。誠司は机に片手をつき、奥歯を噛みしめた。舌の端に血の味が広がる。痛みで意識が戻った。


『誠司。休止を推奨します』


「無理だ」


『身体負荷が上昇しています』


「わかってる」


『誠司』


「まだ人がいる」


 その言葉を出した瞬間、端末室の空気が変わった気がした。


 機械音は変わらない。


 画面も赤いままだ。


 けれど、誠司の中で何かが定まった。


 怖い。


 怖くないはずがない。


 自分が何をしているのか、まだ全部わかっているわけではない。どうして自分がここにいるのかも、誰がこの端末を用意したのかも、本当のところは知らない。


 でも、目の前に赤い表示がある。


 その向こうに人がいる。


 それなら、今やることは一つしかなかった。


「次」


『C-7、残り猶予三十六秒』


「間に合わせる」


 指が走った。


 数字を入れる。


 違う。


 戻す。


 もう一度。


 画面の端で警告が点滅する。


 心臓が痛いほど鳴る。


 十秒。


 七秒。


 四秒。


 最後の入力を押した瞬間、赤い表示が橙へ変わり、すぐに緑へ落ちた。


 誠司は息を吐いた。


 吐いた息が震えていた。


『C-7、安定』


「次」


 時間が過ぎていく。


 十二件。


 十五件。


 十九件。


 二十二件。


 赤い表示は減っているはずなのに、画面はまだ赤い。終わりが見えない。肩は鉛のように重く、指の感覚は薄くなっていた。マウスを握っているのか、机に触れているのか、時々わからなくなる。


 それでも、コトリの声だけは聞こえた。


『誠司。残り五件です』


「まだ五件あるのか」


『はい』


「……大丈夫だ」


 自分に言った。


 美咲に言った。


 子どもたちに言った。


 そして、画面の向こうの誰かに言った。


「帰す」


 午前二時二十七分。


 最後の一件が表示された。


 E-5区画。


 登録活動者なし。


 ただし、ここを放置すると隣接区画へ揺れが戻る。


 誠司は深く息を吸った。


 肺が痛い。


 目の奥が熱い。


 鼻の下は血で固まり、喉の奥には鉄の味が張りついている。


 それでも、最後の入力をした。


 画面が一瞬、暗くなる。


 誠司の心臓も止まったように感じた。


 次の瞬間。


 全画面が、緑に変わった。


【管理領域内 広域異常:全件解消】


【処理件数:二十七件】


【処理時間:二時間五十七分】


【登録活動者への影響:〇名】


 誠司は、文字を読んだ。


 読んだのに、意味が入ってこなかった。


 もう一度、読む。


 登録活動者への影響、〇名。


「ゼロ……?」


『はい。全件処理完了しました。登録活動者への被害はゼロです』


 誠司は机に突っ伏した。


 体から力が抜けた。


 額が机に触れる。冷たい。汗で濡れた肌に、その冷たさが痛いほど染みた。手はまだ震えている。止めようとしても止まらない。胸が上下し、呼吸が喉で引っかかる。


「二十七件……」


 声が机に吸い込まれる。


「一人で……」


『一人ではありません』


 コトリの声がした。


 いつもと同じ、落ち着いた声だった。


『誠司と、私で処理しました』


 誠司は目を閉じた。


 その言葉が、疲れきった体の奥へゆっくり沈んでいく。


「……そうか」


『はい』


「ゼロか」


『はい。ゼロです』


 誠司の目元が熱くなった。


 涙なのか、疲労なのか、自分でもわからなかった。


 ただ、胸の奥から絞り出されるように、一言だけ出た。


「よかった」


 その言葉だけで、すべてだった。


 あの時の遅れ。


 あの時の後悔。


 戻せない一瞬。


 それを背負ったまま、今夜は二十七件を越えた。


 誰も傷つけずに。


 誰も置いていかずに。


 帰せた。


 誠司はしばらく動けなかった。


 端末室には、機械の低い音だけが流れている。壁の奥で、冷却装置が静かに唸っていた。天井の照明は白く、机の上の血の跡を淡く照らしている。その赤は、もう画面の警告ではなかった。ただ、自分がここにいた証のように、小さく残っていた。


 やがて誠司は、ゆっくり顔を上げた。


 画面は緑のまま。


 静かだった。


「帰るか」


『はい。帰宅を推奨します』


 誠司は立ち上がった。


 足元が少し揺れた。椅子に手をつき、数秒待つ。視界の端に白い光が散ったが、すぐに収まった。袖で鼻の下を拭い、鞄を持つ。


 通路に出ると、地下の空気がいつもより冷たく感じた。


 靴音が響く。


 こつ。


 こつ。


 こつ。


 さっきまで何時間も座っていたはずなのに、足は鉛のように重かった。壁に手をつきたくなるのをこらえながら歩く。照明の白が、網膜に残像を焼きつける。まばたきをしても、緑の文字がまだ目の裏に残っていた。


 通用口に柴田がいた。


 新聞は閉じられている。


 柴田は誠司の顔を見て、何も言わなかった。


 ただ、缶コーヒーを一本差し出した。


 誠司は受け取った。


 冷たい缶を握った瞬間、少しだけ現実に戻った気がした。


「ひどい顔だ」


 柴田が言った。


「そうですか」


「ああ」


「でも、終わりました」


 柴田は誠司を見た。


 深い皺の奥の目が、わずかに細くなる。


「なら、帰れ」


「はい」


「今日は、まっすぐ帰れ」


 誠司は小さく頷いた。


 施設の外へ出ると、空はまだ暗かった。


 雨は降っていなかった。


 ただ、湿った風が街の底を流れていた。遠くの東の空だけが、ほんの少し灰色にほどけ始めている。歩道脇の草が、夜風に押されて揺れていた。葉についた水滴が街灯を受け、小さく光っては消える。


 誠司は鞄を持ち直した。


 スマートフォンを出す。


 画面には、美咲からの短いメッセージが残っていた。


『ちゃんと帰ってきてね』


 誠司はそれを見て、目を細めた。


 指が少し震えていた。


 返事を打つ。


『今から帰る』


 送信して、ポケットにしまう。


 駅へ向かう道は、まだ人が少なかった。始発前の街は、昼間とは別の顔をしている。シャッターの閉じた店。濡れたアスファルト。遠くで鳴るトラックの低い音。新聞配達のバイクが角を曲がり、排気音を残して消えていく。


 誠司はゆっくり歩いた。


 今夜、自分が何をしたのか、完全にはわからない。


 それでも、ひとつだけわかる。


 ゼロだった。


 誰も失わなかった。


 それだけで、足を前に出せた。


 同じ夜。


 まだ人の少ないネットの片隅で、一つの記事が公開された。


 国家級ダンジョンに「管理者」は実在するか。


 政府関係者の証言。


 その見出しは、最初は誰にも気づかれなかった。


 ただ、夜明け前の暗い画面の中で、小さな火種のように置かれていた。


 誠司が駅へ向かって歩くころ、その記事を一人が開いた。


 次に、もう一人が開いた。


 そして朝が来る前に、見えない風が吹き始めた。

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