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減給された40代社畜、深夜バイトで国家級ダンジョンの管理者になる  作者: Gaku
第1部:深夜バイト編

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第45話 俺は、ただ帰したいだけです


 政府庁舎の朝は、冷たかった。


 高い建物の壁面には、薄い冬の光が斜めに当たり、窓ガラスが白く反射している。正面玄関へ続く広い石畳には、出勤する職員たちの靴音が途切れなく重なっていた。


 こつ、こつ。


 かつ、かつ。


 硬い音が、庁舎の壁に跳ね返っては吸い込まれていく。


 誠司は、その流れの端を歩いていた。


 榊原の後ろに半歩遅れて、黒瀬の横に並ぶようにして。


 スーツは、いつもより少し窮屈だった。美咲が昨夜、何度も襟元を整えてくれたものだ。ネクタイも曲がっていないはずなのに、首のあたりだけが妙に苦しい。


 庁舎の前に立つ警備員が、榊原の身分証を確認する。


 風が吹いた。


 石畳の端に溜まっていた枯れ葉が、かさかさと音を立てて転がる。誠司の靴先に触れ、すぐ横へ流れていった。


「佐藤さん」


 榊原が低く声をかけた。


「ここから先、顔を見られないよう別導線だ。会議室には遮蔽ブースから入る」


「はい」


 返事はしたが、声が少し上ずった。


 黒瀬が横から見た。


「呼吸が浅いです」


「すみません」


「謝る必要はありません。深く吸ってください。吐く方を長く」


 誠司は言われた通り、息を吸って、ゆっくり吐いた。


 それでも胸の中の固まりは消えない。


 今朝、家を出る時、美咲は玄関まで見送ってくれた。


 陽菜は「普通に話せば大丈夫」と言い、湊は「王様、いってらっしゃい」と小さな拳を突き出した。


 その拳に自分の拳を軽く当てた時、誠司は笑った。


 笑ったはずだった。


 けれど今、その笑顔は遠い場所の出来事のように感じる。


 政府の庁舎。


 公聴会。


 管理者としての証言。


 どれも、ただの会社員だった誠司の人生には存在しなかった言葉だ。


 案内された通路は、表のロビーよりも静かだった。窓は少なく、照明は白い。床は磨かれていて、歩くたびに革靴の音が細く伸びた。


 廊下の奥に、黒い扉があった。


 その向こうから、人の声が微かに漏れてくる。


 榊原が足を止めた。


「佐藤さん。あんたはブースの中で待機だ。顔は見えない。名前も、表向きには佐藤とだけ呼ばれる」


「声は」


「少し処理をかける。だが、話す内容はそのまま届く」


 そのまま届く。


 誠司は喉を鳴らした。


 美咲の言葉が胸に戻る。


 上手く話そうとしなくていい。


 本当に思っていることを言えばいい。


 誠司は小さく頷いた。


「分かりました」


 扉が開いた。


 中は、細長い控室のような場所だった。さらに奥に、黒い仕切りで囲われた小さなブースがある。椅子と机、マイク、そして小型のモニターだけが置かれていた。


 会議室の様子は、モニター越しに見えるらしい。


 誠司はブースに入り、椅子に座った。


 外の光は届かない。


 目の前のモニターに、特別会議室の様子が映っていた。


 広い部屋だった。


 長い机が四角く組まれ、その周りに政府高官らしき人々が座っている。壁際には記録係と警備担当者。正面奥の席には、三神官房副長官がいた。


 灰色の髪をきれいに撫でつけ、表情は穏やかに見える。


 だが、その目は笑っていなかった。


 その隣に、白瀬総一郎。


 整ったスーツに、落ち着いた姿勢。手元の資料をゆっくりめくる仕草には、余裕さえあった。


 誠司は画面越しにその顔を見た瞬間、公園の黒い車を思い出した。


 湊の肩を抱き寄せた感触。


 カメラの黒い筒。


 腹の底に、冷たい怒りが戻る。


 けれど、握った拳を膝の上でそっと開いた。


 怒鳴るために来たのではない。


 守るために来た。


 画面の別の席には、榊原と黒瀬が座っていた。


 少し離れて、玲奈、犬飼、藤原の姿もある。


 玲奈は背筋を伸ばし、真正面を見ている。犬飼は緊張しているのか、膝の上で拳を固めていた。藤原は静かに手を重ね、右腕の袖口には触れていなかった。


 誠司はその三人を見て、胸が少し熱くなった。


 自分が帰した人たち。


 今、自分のためにそこにいる人たち。


 マイクの向こうで、司会役の職員が開会を告げた。


 室内のざわめきが収まっていく。


 誠司のいるブースの中も静かだった。機械の微かな作動音だけが、耳元で低く鳴っている。手のひらには汗が滲み、膝の上で置き場所を失った指が、何度も布地を擦った。


 白瀬が立ち上がった。


 その動きは落ち着いていた。


「国家の安全を、一人の民間人に依存することは、極めて危険です」


 声はよく通った。


 会議室の誰もが聞き取りやすい、整えられた声だった。


「現在、国家級ダンジョンの管理中枢には、正規の訓練を受けていない民間人が関与していると聞いております。その人物が倒れたらどうするのか。判断を誤ったらどうするのか。買収、脅迫、精神的疲労、すべてが国家的な危険につながる」


 誠司の喉が、ひゅっと細くなった。


 脅迫。


 その言葉を、白瀬が平然と口にした。


 自分の会社が何をしたか、分かっているくせに。


 誠司は歯を食いしばった。


 ブースの中は狭い。けれど、その狭さが今はありがたかった。誰にも顔を見られない。怒りも、不安も、汗ばんだ手も、ここに隠せる。


 白瀬は続けた。


「弊社の自動管理システム、ミラージュは二十四時間稼働します。疲労しません。感情に左右されません。処理速度でも、人間を上回ります」


 三神が資料に目を落とした。


「効率面では、明確な優位があるということか」


「はい」


 白瀬は頷く。


「国家資産の管理に求められるのは、安定と効率です。一個人の善意に頼る体制は、早急に改めるべきです」


 会議室に、低いざわめきが広がった。


 誠司は画面を見つめていた。


 善意。


 その言葉が、妙に遠く聞こえた。


 自分は善意で始めたわけではない。


 最初は金だった。


 生活のためだった。


 それでも、画面の中に人がいると知ってしまったから、やめられなくなった。


 黒瀬が立ち上がる。


「資料を提出します」


 彼女の声は静かだった。


 けれど、その静けさには揺らぎがなかった。


「先日の試験運用時、D-7区画で登録活動者二名が孤立しました。ミラージュは救助を保留しています」


 資料が配られる音が、モニター越しにも伝わってくる。


 紙が机の上を滑る音。


 誰かが小さく咳払いをする音。


「理由は、救助に必要な経路変更の負荷が高く、他区画への影響が大きいと判断したためです」


 白瀬の眉がわずかに動いた。


「一時的な保留です。全体の安全を見た合理的判断だった」


「その一時的な保留の間に、二名は死亡していた可能性があります」


 黒瀬は即座に返した。


 会議室の空気が締まった。


「人間の管理者が制御を奪還し、二名を帰還させました。記録は残っています」


 三神が目を細めた。


「一例で全体を判断するのは早計ではないか」


「一例ではありません」


 玲奈が立ち上がった。


 誠司は思わず画面に身を乗り出した。


 玲奈の声は、よく通った。


「私は、管理者に救われた一人です」


 会議室の視線が、玲奈に集まる。


 それでも玲奈は怯まなかった。


「B-14区画で、私のチーム四名は閉じ込められました。最短で抜ける経路はありましたが、崩落の危険が高かった。管理者は時間がかかる別経路を選びました」


 玲奈は一度、息を吸った。


「その判断のおかげで、私たちは全員帰還できました」


 白瀬は静かに言った。


「それは結果論でしょう。ミラージュであっても同様の判断を」


「しませんでした」


 黒瀬が資料を見ずに言った。


「ミラージュの過去検証では、当該場面で最短経路を優先しています」


 会議室に、再びざわめきが起きた。


 犬飼が立ち上がった。


「俺も救われました」


 声は少し硬かった。


 だが、逃げていなかった。


「二回です。どっちも、あの人がいなかったら帰れてません。俺、難しいことは分かんないですけど」


 犬飼は白瀬の方を見た。


「助けるかどうかを後回しにするやつに、自分の命は預けたくないです」


「証言は感情的に過ぎる」


 三神が静かに言った。


 その言葉に、犬飼の肩が少し動いた。


 けれど、藤原が立ち上がった。


「感情ではありません」


 彼女の声は落ち着いていた。


「私は、実際に負傷しました。退避経路で崩落に巻き込まれました」


 誠司の胸が締めつけられる。


 藤原は続けた。


「でも、管理者はすぐに経路を安定させ、別の道を開きました。私は生きてここにいます」


 藤原は、まっすぐ前を見た。


「そして、その管理者は私に会って、頭を下げました。自分の判断が私を傷つけたかもしれないと、ずっと背負っていました」


 会議室が静まり返る。


「機械なら、救助成功と記録するだけかもしれません。でも、あの人は違います」


 藤原の声が、少しだけ柔らかくなる。


「人の痛みを、自分の痛みとして覚えている人です」


 誠司は画面の前で、唇を噛んだ。


 目の奥が熱い。


 ブースの中の空気が薄く感じる。


 白瀬は表情を崩さなかった。


「個々の体験は尊重します。しかし政策は、感情ではなく広い視点で判断されるべきです」


 三神が頷く。


「その通りだ。重要なのは、国家として安定運用できるかどうかだ」


 そして、司会役の職員が資料を確認した。


「では、管理者本人に証言を求めます」


 誠司の心臓が、強く跳ねた。


 モニターの向こうの会議室が、急に遠くなる。


 同時に、全員の視線がこちらへ向いたような気がした。


 実際には、彼らが見ているのは遮蔽されたブースの外壁だ。


 誠司の顔は見えていない。


 それでも、息が詰まった。


 手のひらが汗で濡れている。


 膝の上で、指が震えた。


 ブース内の小さなランプが赤く灯る。


 マイクが入った合図だった。


「ブース内の方、お願いします」


 誠司は唇を開いた。


 声が出なかった。


 一瞬、頭の中が真っ白になる。


 白瀬の整った声。


 三神の冷たい視線。


 政府高官たちの並ぶ机。


 自分はただの会社員だ。


 何を言えばいい。


 どう話せばいい。


 その時、机の端に置いたスマホが震えた。


 証言前に見るなと言われていた。


 だが、画面だけが目に入った。


 美咲からだった。


『大丈夫。ふつうに話して』


 続けて、陽菜からの短い文。


『パパ、がんばれ』


 そして湊の、ひらがなだらけの文。


『おうさま、まけるな』


 誠司は目を閉じた。


 深く息を吸う。


 味噌汁の湯気。


 朝の弁当。


 玄関で手を振る子どもたち。


 端末の中の小さな光点。


 帰りたい場所がある人たち。


 それらが胸の奥で、静かにつながった。


 誠司はマイクに向かって、ゆっくり口を開いた。


「……あの、佐藤と申します」



「……一応、管理者をやっています」


 自分の声が、ブースの中で少し遅れて響いた。


 処理された声は、自分のものなのに少し違って聞こえる。けれど、震えていることまでは隠せていなかった。


 会議室の空気が、モニター越しにも変わったのが分かった。


 ただの会社員の男。


 そう聞かされていても、実際に声を聞いた者たちには、別の重さがあったのかもしれない。


 誠司は膝の上で拳を握った。


「俺は、偉い人みたいに、難しいことは話せません」


 喉が乾いていた。


 一言ごとに、声が引っかかる。


「効率とか、運用とか、国家の判断とか、そういうのも……正直、よく分かっていません」


 白瀬がわずかに目を細めた。


 そこを突けば崩せる。


 そんな目だった。


 誠司は画面から視線を外し、机の端を見た。スマホの画面はもう消えている。それでも、そこにあった文字は胸に残っていた。


 ふつうに話して。


「俺は、ただの事務職のおっさんです」


 会議室のどこかで、小さなざわめきが起きた。


「会社で給料を下げられて、生活が苦しくなって、深夜のバイトを始めました。最初は、本当にそれだけでした」


 恥ずかしい話だと思った。


 国の偉い人たちの前で、自分の情けなさを話している。


 けれど、それを隠したところで、佐藤誠司ではなくなる。


「最初は、端末に出る光点が何なのかも分かっていませんでした。赤くなったら消す。危なそうなら誘導する。ただ、そういう作業だと思っていました」


 誠司は息を吸った。


 胸の奥に、これまで見てきた光景が浮かぶ。


 B-14区画で閉じ込められた玲奈たち。


 叫ぶ犬飼。


 右腕を負傷した藤原。


 深層の暗闇に立っていた四つの影。


 そして、端末の奥でいつも待っているコトリの声。


「でも、その光点が人間だって知りました」


 会議室のざわめきが消えた。


「あの小さな点の一つ一つに、名前がある。家に帰れば、待っている人がいる。怪我をすれば痛いし、怖ければ足も止まる。俺と同じなんだって、分かってしまいました」


 誠司は言葉を切った。


 モニターの中で、玲奈が静かにこちらを見ている。


 犬飼は唇を噛みしめていた。


 藤原は、少しだけ目を伏せている。


「俺にも、家族がいます」


 声がわずかに震えた。


「朝、弁当を作ってくれる人がいます。学校に行く子どもがいます。帰ったら、一緒に風呂に入りたいって言う息子がいます。ちょっと生意気だけど、ちゃんと見てくれている娘がいます」


 白瀬の顔から、わずかに余裕が消えた。


 家族。


 その言葉を、誠司が自分の口で出したからだろう。


 公園の黒い車。


 あの冷たいレンズ。


 湊の肩に触れた自分の手。


 怒りが胸に戻る。


 だが、誠司は怒鳴らなかった。


「だから、分かるんです」


 静かに言った。


「ダンジョンの中にいる人にも、帰りたい場所があるんだって」


 会議室は静まり返っていた。


 誰かが資料をめくる音さえしない。


「効率が悪いのかもしれません。最短じゃないのかもしれません。数字で見たら、間違っていることもあるのかもしれません」


 誠司は一度、唇を閉じた。


 藤原の言葉がよみがえる。


 完璧じゃなくていい。


 でも、失敗した時に逃げない人は、そんなに多くない。


「俺は、失敗もします」


 その言葉を口にすると、胸が痛んだ。


「実際に、怪我をさせてしまったかもしれない人もいます。何度も怖くなりました。俺がやっていいのか、何度も分からなくなりました」


 藤原が、まっすぐ顔を上げた。


 誠司は画面越しに、彼女へ頭を下げたい気持ちになった。


「でも、それでも、赤いランプを見ると放っておけないんです」


 ブースの中の空気が、少し熱く感じた。


「誰かが帰れなくなりそうな時に、見捨てるなんてできない」


 三神の表情が、わずかに動いた。


 それは同情ではなかった。


 だが、少なくとも、退屈そうな顔ではなくなっていた。


「機械の方が速いのかもしれません。疲れないのかもしれません。間違わないように見えるのかもしれません」


 誠司は白瀬を見た。


 画面越しでも、その目を正面から捉えた。


「でも、効率が悪いから後回しにすると言われたら、俺は納得できません」


 白瀬の口元が、わずかに固まった。


「人がいるんです」


 誠司は言った。


「数字じゃなくて、人がいるんです」


 喉の奥が熱くなる。


 涙はこらえた。


 今は泣くところではない。


 今は、伝えるところだった。


「俺は、特別な人間じゃありません。強くもありません。偉くもありません。会社では、ずっと目立たないように生きてきました」


 自分で言いながら、少しだけ情けなくなる。


 けれど、それも自分だった。


「でも、目の前で誰かが帰れなくなりそうなら」


 誠司は息を吸った。


 美咲の顔が浮かぶ。


 陽菜と湊の手。


 玲奈、犬飼、藤原の声。


 コトリの静かな返答。


「俺は、ただ帰したいだけです」


 会議室が、完全に静かになった。


 空気が止まったようだった。


 誠司の声だけが、まだブースの中に残っている。


「帰りたい場所がある人を、帰したい。それだけです」


 言い終えた瞬間、体から力が抜けた。


 膝の上の手が汗で濡れている。背中にも冷たい汗が伝っていた。心臓はまだ激しく鳴っている。


 けれど、もう言葉は残っていなかった。


 伝えられることは、すべて伝えた。


 モニターの中で、誰もすぐには口を開かなかった。


 白瀬も。


 三神も。


 榊原も。


 黒瀬は目元を軽く押さえていた。


 玲奈は深く頷いていた。


 犬飼は、俯いたまま肩を震わせている。


 藤原は、静かに微笑んでいた。


 その沈黙は、白瀬の計算で作られたものではなかった。


 資料の厚みでも、処理速度の数字でもない。


 一人の男の、不器用な言葉が落ちた後の沈黙だった。


 やがて、三神がゆっくりと資料を閉じた。


「……本日は、ここまでとする」


 その声は、先ほどより少し低かった。


「結論は後日、関係各所の意見を踏まえたうえで判断する」


 木槌のような音はなかった。


 ただ、司会役が閉会を告げ、人々が椅子を引く音が重なった。


 会議室の空気は、始まる前とは明らかに違っていた。


 白瀬は立ち上がったが、すぐには歩き出さなかった。


 資料を揃える指先に、わずかな硬さがある。表情は整えている。だが、その目の奥には、隠しきれない苛立ちが浮かんでいた。


 誠司はブースの中で、静かに息を吐いた。


 勝ったのかどうかは分からない。


 何かが決まったわけでもない。


 ただ、逃げずに話した。


 それだけだった。


     ◇


 会議室の外へ出ると、廊下の空気はひんやりしていた。


 白瀬は誰とも話さず、足早に歩いていた。窓の外から差し込む午後の光が、磨かれた床に長く伸びている。その上を踏む靴音が、硬く響いた。


「白瀬社長」


 桐谷が壁際から近づいた。


 白瀬は足を止めない。


「聞いたか」


「はい」


「ただの会社員のくせに」


 声は低かった。


 廊下を行き交う職員には聞こえない程度の声量だったが、そこにははっきりとした怒りがあった。


「感情に訴えただけだ。何の論理もない。何の権限もない。あんな男に、場の空気を持っていかれるとは」


 桐谷は黙っていた。


 白瀬は窓の外を一瞬だけ見た。


 庁舎の庭に植えられた木々が、風に揺れている。冬の薄い葉が、光を受けて小さく震えていた。


「三神が迷った」


 その一言に、白瀬の苛立ちが滲んだ。


「このままでは、ミラージュへの移行が遅れる」


「次の手を」


「ああ」


 白瀬は歩き出した。


「実績を作る。誰にも反対できない形でな」


 桐谷は視線を上げた。


「大規模運用ですか」


 白瀬は答えなかった。


 だが、口元だけがわずかに動いた。


「佐藤誠司」


 その名前を、初めて明確な敵の名として口にした。


「あの男を、端末から引きずり下ろす」


     ◇


 公聴会が終わった後、誠司は榊原たちと別れ、いつもの電車に乗った。


 政府庁舎から出た時、外の光は少し傾いていた。ビルの谷間を抜ける風が冷たく、植え込みの草を低く揺らしていた。靴音、人の声、車の走る音。すべてが、さっきまでの会議室とは違う現実へ誠司を戻していく。


 電車は混んでいた。


 吊り革につかまる手。スマホを見る人。目を閉じて眠る会社員。学生のかばんが足元に当たり、誰かが小さく謝る。


 誠司はドアの近くに立ち、流れる景色を見ていた。


 ガラスには、少し疲れた中年男の顔が映っている。


 いつもの自分だった。


 政府の公聴会で話した管理者には見えない。


 ただの、くたびれた会社員。


 けれど、胸の奥には、まだあの一言が残っていた。


 俺は、ただ帰したいだけです。


 言えた。


 うまくはなかったかもしれない。


 白瀬を論破したわけでもない。


 それでも、自分の言葉で言えた。


 スマホが震えた。


 玲奈からだった。


『佐藤さん。あなたの言葉、届いていました。私たちも、誇らしかったです』


 誠司は目を細めた。


 続けて犬飼から。


『親父、カッコよかったっす! ちょっと泣きました!』


 藤原からも届く。


『また助けてくださいね。今日の言葉、忘れません』


 誠司は返事を打とうとして、指を止めた。


 言葉がまとまらない。


 すると、美咲からメッセージが来た。


『おつかれさま。今夜は好きなおかず作るね』


 その下に、陽菜からの短い文。


『普通に話せた?』


 湊からは、音声メッセージだった。


 イヤホンを片耳に入れて再生すると、小さな声が聞こえた。


『パパ、おうさま、おつかれさま』


 誠司は電車の中で、少しだけ笑った。


 泣きそうにもなった。


 窓の外で、夕方の街が流れていく。マンションの窓に明かりが灯り始め、遠くの高架下には人の列が見えた。それぞれが、それぞれの帰る場所へ向かっている。


 誠司も、その一人だった。


 ただ帰るだけの道が、こんなにも大切なものだと、今なら分かる。


 電車がトンネルに入った。


 窓の外が一瞬、暗くなる。


 その暗がりの向こうで、東京湾の地下深くに広がる巨大な空間が、静かに脈打っていた。


 誰にも聞こえないほど低い音が、岩盤の奥を伝う。


 黒い壁面に埋もれた古い光が、一つ、また一つと灯る。


 まるで長い眠りから覚めるように。


 国家級ダンジョン、アマテラス。


 その最深部で、閉じていたはずの扉が、内側から一度だけ震えた。



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