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減給された40代社畜、深夜バイトで国家級ダンジョンの管理者になる  作者: Gaku
第1部:深夜バイト編

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第4話 名も知らぬ恩人 〜届かぬ声も、誰かの命を押し戻す〜

国家ダンジョン対策室の地上指揮所には、朝の光がほとんど入らなかった。


 建物の外では、もう太陽が高くなり始めているはずだった。だが厚い壁と細長い防護ガラスに遮られ、室内に届く光は青白く薄い。天井に並ぶ照明が、夜の続きのように白く床を照らしていた。


 空調の風が、一定の強さで吹いている。


 書類の端がかすかに震え、壁際の観葉植物の葉が、音もなく小さく揺れた。葉の表面には薄く埃が積もっていて、照明を受けるたびに鈍く光る。外の風も、街の匂いも、ここまでは届かない。


 ここにあるのは、端末の作動音と、キーボードを叩く乾いた音と、誰かが押し殺した息の気配だけだった。


 神代玲奈は、会議卓の端に座っていた。


 二十五歳。


 黒い髪を後ろでまとめ、細い指で報告書の端を押さえている。姿勢は崩れていない。背筋はまっすぐで、視線は冷たく澄んでいる。けれど、紙をめくる指先だけは、ほんのわずかに強張っていた。


 机の上に置かれているのは、B-11調査班の生還報告だった。


 六名全員生還。


 負傷一名。


 死亡者なし。


 その短い結果だけを見れば、幸運な記録で終わる。


 だが、玲奈はその一文を見ていなかった。


 彼女の目は、報告書の中ほどで止まっていた。


【崩壊予測四十七分前、区画安定値が急回復】


【南側通路崩落、北側隔壁閉鎖】


【退避経路、原因不明の再開放】


【開放時刻は隊員六名の退避可能限界と一致】


 玲奈は静かに息を吸った。


 紙の匂いがした。新しく印刷された報告書の、熱が引いたインクの匂い。そこに、指揮所特有の乾いた空気が混ざっている。


 報告書の文字は冷たい。


 だが、その奥にある現場は違う。


 濡れた岩壁。


 崩れる通路。


 閉じた隔壁。


 赤く点滅する警告灯。


 粉塵を吸って震える喉。


 誰かを抱えて走る隊員の足音。


 死を覚悟した一瞬の沈黙。


 玲奈には、そのすべてが見えていた。


 見えてしまう。


 何度も似た場所を歩いてきたからだ。


 彼女は次のページをめくった。


 現場隊長の証言がある。


【区画全体の揺れが突如減衰】


【安定値は九十一・三から九十八・一へ段階的に回復】


【回復過程に不自然な乱れなし】


【外部からの操作があった可能性を否定できない】


 玲奈の指が止まった。


 九十一・三から九十八・一。


 一気に跳ね上げたのではない。


 段階的に戻している。


 周辺の値も、同時に整えられている。


 ただの強制上書きではない。壊れかけたものを、壊さないように順番に支え直している。乱暴な力ではなく、かすかな歪みを見つけて、そこへ正確に指を入れたような操作だった。


 玲奈は、報告書から視線を上げた。


 正面の大型画面には、B-11区画の立体図が映っている。黒い線で描かれた通路と、赤く表示された崩落箇所。北側隔壁の位置。六名の移動経路。最後に開いた退避路。


 光る点が、ゆっくり動いていく。


 もし隔壁が三十秒遅く開いていたら、一人は戻れなかった。


 一分遅れていたら、全員が呑まれていた。


 早すぎても駄目だった。通路の揺れが収まる前に開けば、崩落が退避路まで広がっていた可能性がある。


 遅すぎても、早すぎても、死んでいた。


 そのぎりぎりの一点に、誰かが手を差し込んだ。


「玲奈さん」


 若い分析官が、遠慮がちに声をかけた。


 玲奈は視線だけを向ける。


「B-11の復旧ログです。管理端末からの操作記録が残っています。ただ、作業者の詳細は制限がかかっていて、こちらからは見られません」


「操作時刻は」


「現場の安定値回復と一致しています」


「周辺区画は」


「B-10の圧力値、B-12の連動値にも修正が入っています。B-11単体ではありません」


 玲奈は、目を細めた。


 室内の空調音が少しだけ大きく聞こえた。


「順番は」


「B-10、B-11、B-12です。B-11については一度に戻していません。数値を段階的に入れています」


 分析官は画面を操作した。


 大型画面に、操作の時系列が表示される。


 小さな白い文字が、暗い画面に並ぶ。


 玲奈はそれを黙って見つめた。


 その沈黙に、周囲の職員たちが自然と声を落とした。誰も咳払いをしない。椅子の軋む音さえ遠慮がちになる。地上にいるはずなのに、まるで全員が暗い地下の奥で息を潜めているようだった。


 やがて玲奈は、低く言った。


「この支援は、人間の判断じゃない」


 分析官が瞬きをした。


 玲奈は、すぐに言い直した。


「いや、訂正する。人間の判断だとしたら、私の知る限り、こんなことができる人間は存在しない」


 その声は、冷静だった。


 驚きも、興奮も、恐れも、表には出ていない。


 けれど、室内の空気は確かに変わった。


 誰もが、その言葉の意味を理解していた。


 できるはずのない操作が、実際に行われた。


 しかも、その操作で六人が生きて戻った。


 玲奈は報告書を閉じず、別のページを開いた。


 生還者名簿。


 隊長以下、六名。


 その中ほどで、ひとつの名前が目に留まる。


 犬飼陸斗。


 十九歳。


 C級探索者。


 補助要員。


 無事帰還。


 玲奈の眉が、ほんの少しだけ動いた。


「この子は……二度目ね」


 分析官が隣の端末で確認する。


「犬飼陸斗。前回は、自己判断で危険区域に接近。救助班が回収しています」


「接近じゃない。突入よ」


 玲奈の声は静かだったが、わずかに硬くなった。


 紙の上の名前を、指先で押さえる。


「助けたい気持ちだけで走る子は、いつか自分も誰かも失う」


 その言葉の後、玲奈は少しだけ口を閉ざした。


 指揮所の照明が、彼女の横顔に淡い影を落とす。長い睫毛の下で、瞳だけが報告書の文字を追っていた。


 十二年前の記憶は、彼女自身のものではない。


 それでも、資料で何度も見た。


 壊れた通路の写真。


 帰ってこなかった候補者たちの名簿。


 最後に残された通信記録。


 そこに記された短い言葉。


 助けてくれ、ではなかった。


 戻れ、でもなかった。


 ただ、誰かを先へ行かせようとする声だった。


 玲奈はその記録を読むたび、胸の奥に冷たいものが沈んでいくのを感じていた。自分がそこにいなかったことを悔やむには、当時の彼女は幼すぎた。けれど、今は違う。


 同じことを繰り返す場所に、自分は立っている。


「今回の操作をした者は、B-11の中に人がいたことを知っていたの?」


 玲奈が尋ねる。


 分析官は首を横に振った。


「管理端末側の表示内容までは不明です。ただ、端末側の内部表示は一般用語とは違うはずです。現場の情報も、かなり制限された形でしか出ていない可能性があります」


「それでも、退避路を開けた」


「はい」


「救助と理解していたかどうか分からないまま、正しい手順を選んだ」


「その可能性があります」


 玲奈は目を伏せた。


 外の光が、防護ガラスの向こうで淡く揺れている。風に煽られた街路樹の影が、細長い窓の端に一瞬だけ映り、すぐ消えた。


 誰かが、名も出さず、顔も見せず、六人を帰した。


 本人がそれを知っているかどうかも分からない。


 だが、その手は確かに届いた。


 玲奈は報告書をそっと閉じた。


 紙の端が机に触れる音が、やけに大きく響いた。


「この作業者を探して」


 分析官が姿勢を正す。


「正式な照会をかけますか」


「いいえ。強引に掘れば、向こうの警戒に触れる。まずはログの範囲でいい」


「分かりました」


「それと、犬飼陸斗の次回出動予定を確認して。無茶をする子を、同じ危険に近づけたくない」


「了解しました」


 玲奈は立ち上がった。


 椅子が床を擦る音が、静かな指揮所に細く伸びる。彼女は報告書を胸の高さで持ち、壁の大型画面に映るB-11区画を見た。


 赤い崩落表示の隣に、白い退避経路が一本だけ光っている。


 細く、頼りなく、それでも確かに出口へ繋がる線。


 玲奈はその線を見つめ、誰にも聞こえないほど小さく呟いた。


「今度は、失わせない」


 指揮所の奥で、端末が新しい通知音を鳴らした。


 B-11生還報告書。


 添付資料、転送準備完了。


 宛先には、玲奈の知らない部署名が一つ増えていた。



 昼過ぎの会社は、外の明るさとは裏腹に、乾いた空気で満ちていた。


 東都精機システムズの事務フロアでは、キーボードを叩く音が絶え間なく続いている。窓の外では春の風が街路樹を揺らし、若い葉が光を受けてちらちらと反射していた。だが、その柔らかな色は、ブラインドの細い隙間に切り刻まれて、床に薄い縞模様を落とすだけだった。


 佐藤誠司は、自分の席で資料を修正していた。


 昨夜の眠りは浅かった。目を閉じるたび、古い端末の赤い表示がまぶたの裏に浮かんだ。緑へ変わった文字。止まった警告音。手のひらに残った冷たい汗の感触。


 けれど、朝になれば会社へ来るしかない。


 誠司の前には、いつもの仕事が積まれていた。


「佐藤くん」


 背後から矢沢の声がした。


 誠司は手を止め、椅子ごと振り返る。


「はい」


 矢沢浩二は、片手に紙束を持って立っていた。ネクタイはきちんと締めているが、目元だけが苛立っている。


「これ、今日中に直しておいて」


 机の上に紙束が置かれた。


 どさり、という音が、思ったより重かった。


「今日中、ですか」


「そう。急ぎ」


「ですが、こちらの集計も今日中で――」


「優先順位くらい自分で考えてよ」


 矢沢は軽く笑った。


 その笑い方を、誠司はよく知っていた。


 人を見下している時の笑い方だ。怒鳴るわけではない。大きな声を出すわけでもない。ただ、相手に反論する気力がないことを分かっていて、静かに逃げ道を塞ぐ。


「君、こういう地味な修正は得意でしょ」


「……分かりました」


「助かるよ」


 矢沢はそう言って、もう誠司を見ていなかった。


 去っていく靴音が、床の上を軽く叩く。


 かつ、かつ、かつ。


 その音を聞きながら、誠司は紙束の一枚目をめくった。赤字で修正指示がびっしり入っている。誰かが雑に作った資料を、整える仕事だった。


 いつもと同じだ。


 誰かがずらしたものを、目立たないように戻す。


 誰かが見落とした数字を、何もなかったように直す。


 会社では、それができても、何かをしたことにはならない。


 誠司は目をこすった。


 指先に、昨夜の端末の感触がまだ残っている気がした。


   *


 夕方、帰宅すると、リビングからテレビの音が聞こえていた。


 玄関を開けた瞬間、味噌汁の匂いと、炊きたての米の甘い匂いが流れてくる。台所では美咲が鍋を見ていた。リビングのテーブルでは陽菜が宿題を広げ、鉛筆を持ったままテレビに目を向けている。


 窓の外は夕焼けだった。


 赤く染まった光がカーテン越しに差し込み、床の上に淡い色を広げている。ベランダの洗濯物が風に揺れ、影が壁の上をゆっくり行き来していた。


「おかえり」


 美咲が振り向く。


「ただいま」


 誠司は鞄を置いた。


 テレビでは、ニュース番組の女性アナウンサーが真剣な表情で原稿を読んでいた。


『本日未明、神奈川県の第六ダンジョンで探索者チームが一時、退避困難な状況に陥りました。原因不明の安定化により、六名全員が無事生還したとのことです』


 誠司はキッチンへ向かいながら、何となく画面を見た。


 画面には、装備を身につけた人々が施設の入口から出てくる映像が映っている。顔には疲労が滲み、肩や膝には泥がついていた。担架に乗せられた一人を、周囲が慎重に運んでいる。


「大変だな、探索者って」


 誠司はそう言って、味噌汁の椀を手に取った。


 陽菜がテレビから目を離さずに言う。


「怖くないのかな」


「怖いだろうな」


「でも行くんだね」


「仕事だからな」


 口にしてから、誠司は少し黙った。


 仕事だから。


 その言葉は便利だった。


 嫌なことも、不安なことも、苦しいことも、そう言えば大抵は飲み込める。けれど、テレビの中の人たちは、自分よりずっと深い場所で、命をかけて帰ってきたのだろう。


 誠司は味噌汁を食卓へ運んだ。


 湯気が白く立ち、夕方の光の中でゆらゆらとほどける。


 食器を並べていると、洗面所の方から湊が走ってきた。風呂上がりなのか、髪がまた濡れている。パジャマの袖を片方だけまくり上げ、誇らしげに胸を張っていた。


「パパー! お皿手伝うー!」


「いいよ。濡れるぞ」


「いいもん!」


 湊は流し台に手を伸ばそうとして、届かなかった。


 つま先立ちになり、腕をいっぱいに伸ばす。その必死な背中を見て、誠司は小さく息を吐いた。


「ほら」


 湊を抱き上げる。


 軽い。


 けれど、確かな重さが腕に乗る。濡れた髪から、シャンプーの匂いがした。湊は誠司の腕の中で身を乗り出し、大きな皿を両手で持った。


「落とすなよ」


「分かってる!」


「パパ重い」


「それはこっちの台詞だ」


 湊は笑った。


 美咲も、台所から少しだけ笑った。


 その笑い声は小さく、すぐに鍋の音に紛れた。それでも、誠司の胸の奥に柔らかく残った。


 テレビの中では、探索者の無事を伝えるニュースが続いている。


 誠司は湊を抱えたまま、ちらりと画面を見た。


 帰れないこともあるんだろうな、探索者って。


 そう思った。


 そして、自分は帰れる場所があるだけ、まだましなのだと思った。


 腕の中で、湊が皿を誇らしげに持っている。陽菜は宿題のノートに視線を戻したふりをしながら、時々こちらを見ている。美咲は鍋の火を弱め、味見をしてから少しだけ頷いた。


 この場所に帰ってくるためなら、夜の仕事くらい何とかなる。


 誠司はそう思おうとした。


 テレビの画面で、救助された若い探索者が、誰かに支えられながら頭を下げている。


 その顔に、見覚えはなかった。


 あるはずもなかった。


   *


 夕食後、誠司は流し台の前に立っていた。


 湊はまだ近くにいて、濡れた手を振りながら得意げにしている。食器用洗剤の泡が、シンクの中で白く膨らんでいた。水道から流れる水の音が、家の静けさに重なっている。


「パパ、今日もお仕事行くの?」


 湊が聞いた。


「ああ。夜だけな」


「また数字?」


「そうだな」


 湊は少し考え込むように首を傾げた。


 その顔があまりに真剣で、誠司は思わず手を止めた。


「パパ、悪い怪獣倒してきた?」


 誠司は目を瞬いた。


 泡のついた皿が、手の中で少し滑る。


「いや、パパはデータ入力だよ」


「でーたって強い?」


 誠司は答えに詰まった。


 水が皿の上を流れ、泡を細く削っていく。窓の外では、暗くなったベランダで洗濯ばさみが風に揺れ、からからと乾いた音を立てた。


「……たぶん、強いときもある」


 そう言うと、湊は満足したように頷いた。


「じゃあ、がんばってね」


「ああ」


 誠司は濡れた手をタオルで拭き、湊の頭を軽く撫でた。


 湊は嬉しそうに笑って、リビングへ戻っていった。


 その後ろ姿を見送りながら、誠司は胸の奥に小さな痛みを感じた。


 悪い怪獣。


 そんな分かりやすいものなら、どれほどよかっただろう。


 誠司が相手にしているのは、赤く光る数字だった。意味の分からない区画名。冷たい端末。何を救ったのかも、何を壊しかけたのかも、分からないまま押す確定ボタン。


 それでも、昨夜の緑色の表示を思い出す。


 臨界回避。


 あの文字が出た瞬間、確かに胸の奥で何かがほどけた。


 何かを間違えずに済んだ。


 それだけは、分かった。


   *


 夜、三度目の勤務に向かう頃には、風が少し強くなっていた。


 駅へ向かう道で、街路樹の葉がざわざわと擦れ合っている。街灯の下を通るたび、誠司の影は足元で短くなり、また長く伸びた。電車の窓に映る自分の顔は、少し青白い。


 地下施設は、今夜も変わらず冷たかった。


 柴田は通用口の前で待っていた。


「こんばんは」


「来たか」


 それだけの会話で、誠司は地下へ降りた。


 作業室に入る。


 端末が起動する。


 鳥に似た短い電子音。


【作業者認証:佐藤誠司】


【本日の業務:監視ログ確認・異常値修正】


【対象区画:C-1~C-6】


『業務を開始してください』


 今夜の赤い項目は四件だけだった。


 前の勤務に比べれば少ない。


 誠司は少しだけ肩の力を抜いた。


「今日は、平和だな」


 小さく呟き、作業を始める。


 C-2区画の温度値。


 C-4区画の圧力値。


 C-5区画の安定値。


 どれも、指定範囲からわずかに外れているだけだった。誠司は履歴を確認し、前後の数値を見て、ゆっくり修正していく。


 赤が緑に変わる。


 一件。


 二件。


 三件。


 作業室には、機械の低い唸りと、マウスを押す小さな音だけがある。天井の蛍光灯は相変わらず白く、窓のない壁は何も語らない。


 四件目を処理している時だった。


 画面の右下に、一瞬だけ文字が流れた。


【……応答確認……】


 誠司は目を細めた。


「ん?」


 だが、その文字はすぐに消えた。


 画面には通常の一覧だけが残っている。


 誠司は疲れ目かと思い、まぶたを押さえた。昨夜から睡眠が足りていない。会社でも資料修正に追われた。画面の端で文字が見えた気がしても、不思議ではない。


 作業を再開する。


 四件目を確定。


 緑に変わる。


 その直後、また画面の隅がかすかに揺らいだ。


【適性値:測定中……】


 誠司は今度こそ手を止めた。


 背中に冷たいものが走る。


 しかし、瞬きをした時にはもう消えていた。


 残っているのは、黒い画面と、緑に変わった四つの項目だけ。


「……ノイズか?」


 誠司は呟いた。


 端末は古い。


 表示が乱れることもあるのだろう。


 そう考えることにした。


 けれど、部屋の空気は先ほどより少し冷たく感じた。誰もいない作業室で、何かに見られているような感覚がある。天井のスピーカーは黙っている。壁際の機器も沈黙している。


 それでも、端末の黒い画面の奥に、何かが目を覚ましかけているような気がした。


 誠司は首を振った。


「疲れてるな……」


 自分に言い聞かせるように言い、残りの確認作業を終えた。


   *


 午前五時過ぎ。


 地下から外へ出ると、朝の空気が冷たく頬に触れた。


 東の空は薄く白み、ビルの輪郭が黒い影になっている。通路の隅の草が風に揺れ、葉の先についた水滴がかすかに光った。街はまだ目を覚ましきっていない。遠くで始発電車の音が、低く長く響いた。


 柴田は通用口の内側に立っていた。


「今日はどうだった」


「赤いのは四件だけでした」


「そうか」


「今日は、平和だったなって」


 誠司は軽く笑おうとした。


 けれど、柴田は笑わなかった。


 皺の深い目元が、朝の薄明かりの中で暗く沈んでいる。


「平和なら、それでいい」


 短い言葉だった。


 それだけなのに、なぜか重かった。


 誠司は何も言えず、頭を下げた。


「お疲れさまでした」


「ああ。気をつけて帰れ」


 金属の扉が閉まる。


 がこん、と鍵の落ちる音が背中に響いた。


 誠司は駅へ向かって歩き出した。


 美咲はきっと、またおにぎりを置いてくれている。


 湊は朝になれば、昨日の怪獣の話を続けるかもしれない。


 陽菜は何も言わずに、父の顔色をそっと見るだろう。


 その日常へ戻れることに、誠司は小さく息を吐いた。


 同じ頃、別の場所で、神代玲奈は薄暗い個室にいた。


 机の上には、十二年前の記録が開かれている。


 失われた候補者たちの名簿。


 途切れた通信。


 最後に閉じた退避路。


 玲奈はその紙面を見つめたまま、指先をわずかに握った。


「もし本当に現れたのなら」


 声は、部屋の壁に吸い込まれるほど小さかった。


「今度は、必ず守る」


 その直後、彼女の端末に通知が入った。


 件名は、たった一行。


【第零領域に、管理者適性を持つ操作者が出現した可能性】


 その報告書は、三つの部署へ送られた。


 一つは、国家ダンジョン対策部隊。


 一つは、内閣府ダンジョン対策室。


 そしてもう一つは、名のない深い場所へ。


 朝の光が届かない画面の奥で、誰かがその報告を開いた。

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