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減給された40代社畜、深夜バイトで国家級ダンジョンの管理者になる  作者: Gaku


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第3話 異常値と、知らない奇跡 〜知らぬ手は、誰かの朝をつなぐ〜

三日後の夜、佐藤誠司はまた、あの金属の扉の前に立っていた。


 古いオフィスビルの裏手は、前と同じように暗かった。大通りの車の音は壁に遮られ、低く濁って聞こえる。通路の隅には乾いた落ち葉が溜まり、夜風が吹くたびに、かさり、かさりと小さく擦れ合った。


 空には雲が薄く広がっていた。


 街灯の光はぼんやり滲み、濡れてもいないコンクリートを湿った灰色に見せている。足元を踏む革靴の音が、前より少しだけ馴染んで聞こえたことに、誠司は自分で驚いた。


 慣れてはいけない場所だ。


 そう思うのに、身体はもう道順を覚えている。


 スマホを見る必要もなく裏手に回り、監視カメラの赤い点を見上げ、冷たい取っ手の前で足を止める。胸の奥に残る不安は消えていない。けれど、家計簿の赤い数字と、湊のすり減った靴を思い出すたび、その不安は押し込めるしかなかった。


 扉が内側から開いた。


 柴田源蔵が、そこにいた。


 灰色の作業着。古い水筒。深く刻まれた皺。前と同じ姿なのに、誠司には少しだけ違って見えた。気のせいか、柴田の目が、誠司の顔ではなく、手元を先に見た気がした。


「こんばんは」


 誠司が頭を下げる。


「来たか」


 柴田はそれだけ言い、扉を開けたまま横へ退いた。


 中へ入ると、地下へ続く冷たい空気が肌に触れた。外の湿った夜風とは違う。乾いていて、少し埃っぽく、金属の匂いが混じっている。喉の奥がわずかにざらついた。


 狭い通路を歩く。


 蛍光灯が天井で白く鳴っているように光っていた。誠司の足音が壁に跳ね返り、半拍遅れて戻ってくる。柴田は前を歩き、何も言わない。


 エレベーターの前まで来た時、柴田がふと口を開いた。


「前の備考、見たぞ」


 誠司は手を止めた。


「備考……ですか」


「B-9のやつだ」


「ああ……すみません。赤くはなかったんですけど、少し気になって」


 言い訳のように声が小さくなった。


 会社でなら、余計なことをするなと言われるところだった。


 だが、柴田は叱らなかった。


「気になったなら、書いとけ」


「いいんですか」


「書かずに見なかったことにするよりはな」


 柴田は下向きのボタンを押した。


 地面の底から、重い機械が動き出すような振動が響く。誠司はそれを足裏で感じながら、少しだけ息を吐いた。


 怒られなかった。


 ただそれだけのことなのに、胸の奥の固いものがわずかに緩んだ。


 エレベーターが開く。


 二人は無言で乗り込んだ。


 箱の中は相変わらず狭く、空気は冷えていた。階数表示はない。扉が閉まると、外の音がすべて消えた。耳の奥に、低い振動だけが残る。


 地下へ降りていく間、誠司は自分の手を見た。


 柴田に「いい手だ」と言われた手。


 何がいいのか、今でも分からない。紙で切った細い傷はもう塞がりかけている。爪の周りは乾いている。どこにでもある、四十代の会社員の手だ。


 けれど、その手が今日は少し重かった。


   *


 作業室に入ると、古い端末はすでに黒い画面のまま待っていた。


 窓のない部屋。


 白い蛍光灯。


 壁際で沈黙する見慣れない機器。


 机に向かう椅子を引くと、脚が床を擦り、きい、と細い音を立てた。その音が部屋の冷たい空気に吸い込まれていく。


 誠司は座った。


 柴田が端末の電源を入れる。


 画面が青白く浮かび上がり、短い電子音が鳴った。


 小さな鳥が暗い枝の上で一声だけ鳴いたような、あの音。


【第零管理補助システム 起動中】


【作業者認証:佐藤誠司】


【本日の業務:監視ログ確認・異常値修正】


【対象区画:B-7~B-12】


『作業者を確認しました』


 天井のどこかから、感情のない声が落ちてきた。


『業務を開始してください』


 誠司は画面に目を向けた。


 前回より赤い行が多かった。


 十二件。


 一覧の左端に並んだ赤い印が、暗い水の中で灯る小さな警告灯のように見える。誠司は喉を鳴らした。マウスに置いた指先が少し冷たい。


「今日は多いな……」


 誰に言うでもなく呟き、最初の行を開いた。


【B-7区画 圧力値:指定範囲外】


 数値を確認する。


 履歴を見る。


 指定範囲に戻す。


 確定。


 赤が緑へ変わる。


 二件目。


 三件目。


 四件目。


 作業自体は難しくない。けれど、端末の画面には、会社の書類にはない重さがあった。数字の背後に何があるのか分からない。その分からなさが、黒い水のように足元へ溜まっていく。


 七件目を開いた瞬間だった。


 部屋の照明が、一度だけ揺れた。


 蛍光灯が、ちか、と瞬く。


 次の瞬間、端末の右上に赤い灯が点いた。


 短い警告音。


 ぴ、ぴ、ぴ。


 誠司の背筋が固まった。


 画面の中央に、新しい表示が重なる。


【緊急】


【B-11区画 安定値:91.3%】


【臨界閾値:90.0%】


【推定崩壊まで:47分】


 誠司は息を止めた。


 それまで見ていた赤い行とは違う。


 文字の色が濃い。音も違う。画面全体が、こちらを押し返してくるようだった。


「……なんだよ、これ」


 声が掠れた。


 マニュアルを開く。


 目で追う。


 通常修正。


 範囲外数値。


 備考入力。


 警告表示。


 だが、今出ているものと同じ項目はない。


 緊急。


 推定崩壊。


 四十七分。


 言葉の意味が、完全には分からない。


 それでも、よくないことだけは分かった。


 誠司の額に汗がにじんだ。


 部屋は冷えている。手元も冷たい。なのに、背中だけがじっとり濡れていく。シャツが肌に貼りつき、呼吸が浅くなる。


「落ち着け……数字を見ろ」


 自分に言い聞かせた。


 意味が分からなくても、数字なら見られる。


 誠司はB-11の履歴を開いた。


 細かな数値が時系列で並ぶ。


 前回。


 その前。


 さらに前。


 目が滑りそうになるのを、必死に止める。


 安定値は、三日前から少しずつ下がっていた。


 0.3%。


 また0.3%。


 また0.3%。


 ほんのわずかな低下。


 普通なら見落とす。


 けれど、その下がり方には妙な規則性があった。まるで、どこかで小さな栓が抜け、少しずつ水位が下がっていくような動きだった。


 誠司の頭の中で、前回の備考が浮かんだ。


 B-9。


 変動パターン要注意。


 誠司は隣接する項目を開いた。


 B-10。


 圧力値が、わずかにずれていた。


 赤くなるほどではない。マニュアル上は、修正対象ではない。だが、B-11の低下と並べると、そのずれが妙に噛み合って見えた。


 B-9の妙な上昇。


 B-10の圧力のずれ。


 B-11の0.3%ずつの低下。


 さらにB-12の連動値も、小さく引っ張られている。


 誠司は唇を噛んだ。


「これ……B-11だけ直しても、戻らないんじゃないか」


 誰も答えない。


 天井の声も、沈黙している。


 ただ、警告音だけが鳴り続けている。


 ぴ、ぴ、ぴ。


 その音が心臓の鼓動と重なった。


 胸が苦しい。


 指先が震える。


 会社で矢沢に詰められた時の震えとは違う。もっと細く、もっと冷たい震えだった。自分の判断で何かを壊してしまうかもしれない。そう思うと、マウスを握る手に力が入らない。


 けれど、画面の数字は止まらない。


【推定崩壊まで:46分】


 時間が減った。


 誠司の喉がからからに乾いた。


「やるしかないだろ……」


 誠司は、まずB-10を開いた。


 圧力値を指定範囲の中央へ近づける。極端に動かさない。履歴の流れを見ながら、少しだけ戻す。


 確定。


 画面の赤い灯は消えない。


 次にB-11。


 安定値を一気に98へ戻そうとして、手が止まった。


 急に動かしすぎるのは、たぶん違う。


 根拠はない。


 ただ、会社で長年、数字の不自然な揺れを見続けてきた感覚が、そう言っていた。


 誠司は数値を段階的に入力した。


 93.0。


 95.2。


 97.0。


 端末がそれぞれを受け付けるたび、画面の下に短い文字が走る。


【連動確認中】


【周辺区画値を参照中】


【再計算中】


 最後にB-12の連動値を修正する。


 指が震えて、入力を一度間違えた。


「くそ……」


 消す。


 打ち直す。


 もう一度確認する。


 確定。


 警告音が止まった。


 部屋の中に、急に静けさが落ちた。


 さっきまで鳴り続けていた音が消えただけで、空気の重さが変わったようだった。壁の奥の機械音。自分の荒い呼吸。蛍光灯の微かな唸り。それらが、一斉に耳へ戻ってくる。


 誠司は画面を見た。


【B-11区画 安定値:98.1%】


【臨界回避】


 赤かった表示が、緑へ変わっていた。


 誠司は椅子の背にもたれた。


 手のひらが汗で濡れている。指先が冷たい。心臓がまだ速い。背中に貼りついたシャツが気持ち悪かった。


「……なんだったんだ、今の」


 声は小さく、部屋の冷たい空気にすぐ消えた。


 画面には、ただ緑の文字が残っている。


 直った。


 たぶん、直った。


 誠司はそう思うことにした。


 けれど、その時、端末の画面の端で、誰かが息を潜めるように、別の小さな表示が一瞬だけ明滅した。


【退避経路状態:再接続中】


 誠司は瞬きをした。


 文字はすぐに消えた。


 作業室にはまた、機械の低い唸りだけが残った。



同じ頃、B-11区画の奥で、六つの足音が止まっていた。


 そこは、地上のどんな建物にも似ていなかった。


 岩の壁は黒く濡れ、ところどころに青白い光の筋が走っている。天井は高いのか低いのか分からないほど闇に沈み、見上げると、細かな砂が音もなく落ちてきた。空気は湿っていた。古い水たまりの匂いと、熱を持った石の匂いが混ざり、呼吸をするたびに喉の奥が重くなる。


 国家ダンジョン対策部隊の探索チーム六名は、崩れかけた通路の中央で身を低くしていた。


「隊長、安定値が下がってます!」


 若い隊員の声が震えた。


 その声をかき消すように、床が低く唸った。


 地面の下で、巨大な獣が寝返りを打ったような揺れだった。足元の石が跳ね、壁の亀裂が一気に広がる。頭上から落ちてきた砂粒がライトの光に照らされ、金色の粉のように舞った。


 だが、その美しさに見とれる者はいなかった。


「退避だ!」


 隊長の声が鋭く飛ぶ。


「出口はどこだ!」


「南側通路、塞がってます!」


「北側は!」


「隔壁が下りています! 開きません!」


 通信機から、がりがりと嫌な雑音が鳴る。


 誰かが咳き込んだ。粉塵を吸ったのか、肩を震わせている。別の隊員がその腕を支えた。


 足元の水たまりに、細かな波紋が走る。


 一度。


 二度。


 次の瞬間、壁の一部が崩れ落ちた。


 耳を打つ轟音。


 濡れた石が砕け、床に叩きつけられる。ライトの光が乱れ、影が大きく揺れた。誰かが短く息を呑む。叫び声にはならなかった。叫んでも、何も変わらないと分かっていた。


「隊長、臨界まで一分を切ります!」


 若い隊員の声は、もうほとんど悲鳴だった。


 隊長は歯を食いしばった。


 ヘルメットの下、こめかみを汗が流れる。熱い汗ではない。身体の芯が冷えたまま、皮膚だけがじっとり濡れていく。手袋の中の指が、通信機を握りしめていた。


「全員、北側隔壁へ寄れ! 動けない者を置いていくな!」


「でも、開きません!」


「押せ!」


 三人が隔壁に肩を当てた。


 びくともしない。


 厚い金属の扉は、岩の壁に食い込むように閉じていた。表面には警告灯が赤く点滅している。その光が、隊員たちの顔を不規則に照らした。


 赤。


 闇。


 赤。


 闇。


「くそっ……!」


 誰かが拳で隔壁を叩いた。


 硬い音が、虚しく跳ね返る。


 その時だった。


 揺れが、止まった。


 完全に、ではない。


 だが、床の奥から突き上げていた不気味な振動が、急に細くなった。壁の亀裂も、それ以上広がらない。天井から落ちていた砂が少しずつ減り、最後には、ぽつ、ぽつ、とまばらな音だけになった。


 誰も動かなかった。


 沈黙が、濡れた岩壁の間に落ちた。


 水滴が一つ、天井から落ちる。


 ぴちゃん。


 その小さな音が、信じられないほど大きく響いた。


「……安定値」


 若い隊員が端末を見た。


 声が震えていた。


「上がってます」


「何?」


「九十五……九十七……九十八……九十八・一。回復しています」


 隊長は一瞬、何を言われたのか理解できなかった。


 そんなことがあるはずがない。


 一度落ち始めた区画は、外部からの支援がなければ止まらない。しかも、今の揺れ方は、単なる自然回復ではない。何かが、どこかで正しい順番で噛み合ったように、危険な傾きだけを静かに戻していた。


 低い駆動音が鳴った。


 全員が、隔壁を見た。


 赤い警告灯が消える。


 代わりに、白い線が扉の縁を走った。


 重い金属音とともに、隔壁がゆっくり上がり始める。


 向こう側から、冷たい風が流れ込んできた。


 土と水と、まだ崩れていない通路の匂い。


「退避経路が……」


 若い隊員は、途中で声を詰まらせた。


 涙なのか、汗なのか分からないものが頬を伝っている。


「退避経路が、開いた……!」


「走れ!」


 隊長の声で、全員が動いた。


 負傷した隊員を二人で支え、開き切らない隔壁の下をくぐる。装備が金属に擦れ、火花が小さく散った。背後で、また石が崩れる音がした。だがもう、誰も振り返らなかった。


 生きて外へ出る。


 その一点だけが、全員の足を前へ押した。


   *


 地上指揮所へ戻った時、若い隊員は床に座り込んだ。


 膝が笑っていた。


 手袋を外そうとしても、指がうまく動かない。何度も引っかかり、ようやく外れた手は、泥と汗で汚れていた。爪の間に黒い砂が入り込んでいる。


 照明の白さが眩しかった。


 壁も床もまっすぐで、空気に湿った岩の匂いがしない。それだけで、胸が苦しくなった。生きて戻ったのだと、身体が遅れて理解し始めていた。


 隊長は通信記録を提出しながら、低い声で報告した。


「崩壊寸前の区画が突然安定しました。原因は不明。退避経路の開放タイミングが正確すぎます」


 指揮所の職員たちが、顔を見合わせる。


 誰かが資料をめくる音。


 端末を叩く音。


 それらの音が、妙に遠く聞こえた。


 隊長は続けた。


「誰かが操作したとしか思えません」


 その言葉の後、指揮所に短い沈黙が落ちた。


 騒がしい場所の中にできた、小さな穴のような沈黙だった。誰もそこに足を踏み入れられない。今起きたことを、誰もまだ言葉にできなかった。


 床に座り込んでいた若い隊員は、両手で顔を覆った。


 泥の匂いがした。


 冷えた汗の匂いがした。


 その奥に、さっき流れ込んできた退避路の風を思い出した。


「……ありがとう」


 声は、手のひらの中で震えた。


 誰に向けた言葉なのか、自分でも分からなかった。


 けれど、言わずにはいられなかった。


   *


 朝の台所で、味噌汁の湯気が上がっていた。


 誠司は帰宅すると、できるだけ音を立てないように靴を脱いだ。家の中はまだ薄暗い。カーテンの隙間から、朝の光が細く差し込み、廊下の床に白い線を作っている。


 リビングでは、美咲がソファで浅く眠っていた。


 テーブルの上には、ラップに包まれたおにぎりが二つ置かれている。湯呑みの横に、小さな紙があった。


「おつかれさま」


 丸い字で、それだけ書かれていた。


 誠司はしばらく、その紙を見ていた。


 地下の冷たい部屋で見た赤い警告が、まだ目の奥に残っている。瞬きをすると、緑に変わった文字がまぶたの裏にちらついた。


 けれど、ここには味噌汁の匂いがある。


 家族の寝息がある。


 カーテンの向こうから、近所の鳥の声が聞こえる。


 誠司はおにぎりを一つ手に取り、台所の椅子に腰を下ろした。


 海苔が少し湿っている。


 ひと口かじると、具は梅干しだった。酸っぱさが舌に広がり、空っぽの胃に落ちていく。


 その時、廊下の方で小さな足音がした。


 ぱた、ぱた、と裸足が床を踏む音。


 湊が眠そうな顔で現れた。髪は跳ね、パジャマの裾が片方だけめくれている。


「パパ……帰ってたの」


「ああ。ただいま」


「今日も夜のお仕事だった?」


「ああ」


 湊は目をこすりながら、誠司の隣に立った。


「データって何?」


 誠司は少し考えた。


 正直に言えば、自分にもよく分からない。


「数字を直す仕事だよ」


「つまんないね」


「まあな」


 湊は納得したような、していないような顔で頷いた。


 それから、テーブルの上のおにぎりを見つける。


「あ、いいな」


「半分食べるか?」


「食べる」


 誠司はおにぎりを半分に割った。


 梅干しの赤が、白い米の中から少しだけ見えた。湊はそれを受け取って、小さな口でかじる。


「すっぱ」


「梅だからな」


 湊は顔をしかめながらも、もう一口食べた。


 その横顔を見て、誠司はふっと息を吐いた。


 夜の作業室。


 赤い警告。


 推定崩壊までの数字。


 退避経路という一瞬の文字。


 それらは、湊の寝癖だらけの頭と、梅干しに顔をしかめる表情の前では、どこか遠い出来事のように思えた。


 美咲がソファで小さく身じろぎする。


 起こさないように、誠司は声を落とした。


「やけにエラー多かったな、今日……」


「えらー?」


 湊が聞き返す。


「仕事の間違いみたいなもんだ」


「パパ、間違えたの?」


「いや、直した」


「じゃあ、えらいね」


 湊は眠そうな顔のまま、当たり前のように言った。


 誠司は言葉を失った。


 会社では、直しても誰にも見られない。


 地下でも、何を直したのか分からない。


 けれど、七歳の息子は、何も知らないまま、ただ「えらい」と言った。


 朝の光が、少しずつ部屋の中へ入ってくる。


 カーテンの隙間から伸びた光が、テーブルの上の紙片を照らした。そこに書かれた「おつかれさま」の文字が、白い光の中で柔らかく浮かぶ。


 誠司は湊の頭に手を置いた。


 寝癖で跳ねた髪が、手のひらをくすぐった。


「……ありがとな」


「うん」


 湊は何の礼かも分からないまま頷いた。


 その朝、誠司は知らなかった。


 自分が修正した三つの数値によって、六人の人間が朝を迎えられたことを。


 泥にまみれた若い隊員が、誰とも知らない相手に礼を言ったことを。


 そして、その生還報告書が、ある女性の手元へ届けられようとしていることを。


 台所の窓の外で、朝の風が小さく木の葉を揺らした。


 光を受けた葉の影が、白い壁の上で、かすかに震えていた。

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