表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
減給された40代社畜、深夜バイトで国家級ダンジョンの管理者になる  作者: Gaku


この作品ページにはなろうチアーズプログラム参加に伴う広告が設置されています。詳細はこちら

PR
2/26

第2話 地下施設と、古い端末 〜守りたいものがある者ほど、暗い扉を開ける〜

夜十時の家は、昼間よりも音が近かった。


 冷蔵庫の低い唸り。壁掛け時計の秒針。洗面所の蛇口から、きちんと閉めたはずなのに一滴だけ落ちる水の音。ぽたり、と小さく響いて、しばらく間が空き、また、ぽたり、と落ちる。


 佐藤誠司は玄関の前で、安い黒い鞄の持ち手を握っていた。


 鞄の中には、財布とスマホ、古い折りたたみ傘、会社で使っているボールペンが一本だけ入っている。初めて行く場所に何を持っていけばいいのか分からず、結局、いつもの通勤鞄から余計な書類を抜いただけだった。


 リビングの灯りは少し落としてある。


 美咲は台所で、明日の朝食の下ごしらえをしていた。包丁がまな板を叩く音が、静かな部屋に細く刻まれる。とん、とん、とん。小さな音なのに、今夜はやけに胸に響いた。


「本当に、今日からなの?」


 美咲が振り返らずに言った。


 誠司は靴べらを手にしたまま、一瞬だけ息を止めた。


「ああ。知り合いの会社で、データ入力を少し手伝うだけだから」


 言葉は、思っていたより滑らかに出た。


 そのことが、かえって嫌だった。


 減給のことも、求人が不自然だったことも、面接すらなかったことも、何も言えていない。守るためだと言い聞かせても、嘘は嘘だった。


 美咲は包丁を置いた。


 水道の音が短く鳴り、すぐ止まる。濡れた手を布巾で拭きながら、ゆっくりこちらを向いた。


 台所の蛍光灯が、美咲の横顔を白く照らしていた。目元にうっすら疲れがある。それでも、誠司を責める色はない。ただ、見逃してはいけない何かを探すように、静かに誠司の顔を見ていた。


「無理しないでね」


「ああ。大丈夫」


「朝、帰ってくるんだよね」


「うん。始発くらいには」


 美咲は小さく頷いた。


 それ以上、聞かなかった。


 聞かれないことがありがたくて、痛かった。


 誠司は革靴に足を入れた。かかとが少し潰れている。指で直そうとした時、玄関の端に並んだ湊のスニーカーが目に入った。


 青い靴。


 小さな怪獣の絵が描いてある。春先に買ったばかりのはずなのに、つま先にはもう細かな傷があり、底の外側が少し斜めにすり減っていた。毎日、走っているのだろう。学校までの道。校庭。帰り道。虫を探してしゃがみ込む公園。


 誠司は、その靴を見つめた。


「……新しいの、買ってやらないとな」


 声に出したつもりはなかった。


 けれど、美咲には聞こえたらしい。


 彼女は何も言わず、ただ少しだけ目を伏せた。


 その沈黙は、責めるものではなかった。


 だからこそ、重かった。


 誠司は玄関のドアを開けた。


 夜の空気が流れ込んでくる。昼間の熱を少し残した、湿った風だった。廊下の明かりに照らされた埃が、ふわりと揺れ、すぐに暗がりへ消える。


「行ってくる」


「行ってらっしゃい」


 ドアが閉まる直前、美咲の声が背中に届いた。


「帰ってきたら、おにぎり作っておくね」


 誠司は振り返らなかった。


 振り返れば、顔に出る気がした。


「ああ。ありがとう」


 それだけ返して、ドアを閉めた。


 鍵がかかる音が、廊下に硬く響いた。


   *


 指定された住所は、駅から少し離れた場所にあった。


 昼間なら会社員が行き交う大通りも、夜十一時前になると人影は少なかった。コンビニの看板だけが、濡れたような光を歩道に落としている。自動ドアが開くたび、店内の明るさと温かい揚げ物の匂いが外へこぼれ、すぐに夜風に薄まった。


 誠司はスマホの地図を何度も見た。


 画面の青い点は、確かに目的地の近くにある。けれど、目の前にあるのは古いオフィスビルだった。十階建てほどの灰色の建物。正面玄関にはすでにシャッターが下り、会社名のプレートも暗く沈んでいる。


 看板はない。


 求人に書かれていた会社名も、建物のどこにも見当たらなかった。


「……ここで合ってるのか?」


 呟いた声は、車道を走るトラックの音にかき消された。


 風がビルの隙間を抜ける。植え込みの細い草がざわざわと揺れ、乾いた葉が歩道の上を転がった。街灯の光を受けて、葉の影が足元で小さく跳ねる。


 スマホに通知が届いた。


【裏手通用口より入館してください】


 短い文字だった。


 差出人の名前はない。


 誠司は背中に汗が滲むのを感じた。


 五月の夜はまだそこまで暑くない。むしろ、ビル風は少し冷たい。それなのに、シャツの背中が肌に貼りつく。


 普通ではない。


 何度もそう思った。


 それでも、足は止まらなかった。


 裏手に回ると、そこはさらに暗かった。


 隣のビルとの間にある細い通路。空調設備の低い振動音が、壁の奥から腹に響く。足元のコンクリートには古い雨染みがあり、隅には乾いた落ち葉が溜まっていた。誰も通らない場所の匂いがした。湿気と埃と、錆びた金属の匂い。


 奥に、扉があった。


 重そうな金属製の扉。


 取っ手は黒く変色し、上部には小さな監視カメラが一つ取り付けられていた。赤い点が、こちらを見ている。


 誠司は喉を鳴らした。


 指先が冷えている。


 手を伸ばす直前、扉の向こうで何かが動く音がした。


 ぎい、と金属が軋み、扉が内側から開いた。


 薄暗い光の中に、老人がいた。


 灰色の作業着を着た男だった。年齢は六十代後半くらいだろうか。背は少し曲がっているが、目だけはやけに鋭い。白髪混じりの短い髪。深く刻まれた皺。片手には古い水筒を持っている。


 足元には、折りたたみ椅子が置かれていた。


 老人はそこに座って待っていたらしい。


「あんたが新しい作業員か」


 声は低く、掠れていた。


 誠司は慌てて頭を下げた。


「佐藤です。佐藤誠司です。今日からお世話になります」


「柴田だ」


 老人はそれだけ言うと、水筒の蓋に注いでいたお茶をひと口飲んだ。


 湯気は立っていない。冷めきった茶の匂いが、わずかに漂った。


 柴田は誠司の顔を見た。


 それから、鞄を見た。


 最後に、誠司の手を見た。


 長い沈黙が落ちた。


 通路の奥で、どこかの室外機が震えている。上の方から、水滴が落ちた。ぽつ、とコンクリートに小さく弾ける。街の喧騒はビルの壁に遮られ、遠くで濁った音になっていた。


 柴田の視線は、誠司の手から動かなかった。


 仕事で荒れた手ではない。


 何かを作る職人の手でもない。


 会社で書類をめくり、キーボードを打ち、電車の吊り革を握ってきただけの平凡な手だった。爪の周りが少し乾燥している。指先に紙で切った細い傷がある。特別なものなど、何もない。


 そう思っていた。


 柴田が、ぽつりと言った。


「いい手だ」


 誠司は返事に困った。


「……そう、ですか?」


「ああ」


 柴田は、それ以上説明しなかった。


 その代わり、椅子を畳み、扉を大きく開けた。


「入れ。時間ぴったりだな」


「はい」


 誠司が足を踏み入れると、扉の内側の空気は外より冷たかった。


 狭い通路が奥へ続いている。壁は灰色で、余計な飾りは何もない。蛍光灯が等間隔に並び、少し古いものは端の方がちらちらと瞬いていた。靴音が、硬い床に反響する。


 かつん。


 かつん。


 自分の足音が、思ったより大きい。


 逃げ場のない音だった。


 柴田は前を歩きながら、振り返らずに言った。


「無理すんなよ、佐藤さん」


 その声は、さっきより少し低かった。


「ここはな、長くいる場所じゃねえ」


 誠司は足を止めかけた。


 蛍光灯の白い光が、柴田の背中に細い影を落としている。作業着の肩のあたりが少し擦れていた。長い時間、ここにいる人間の背中だった。


「……どういう意味ですか」


 柴田は振り返らなかった。


「そのうち分かる」


 通路の奥に、古いエレベーターがあった。


 扉は銀色だが、端の塗装がわずかに剥げている。階数表示の小さなランプは、赤くぼんやり光っていた。


 柴田がボタンを押す。


 押されたボタンには、下向きの矢印だけがあった。


 エレベーターが上がってくる音はしなかった。


 代わりに、地面の下から、重いものが動き出すような低い振動が響いた。腹の底を撫でるような音だった。


 誠司は無意識に鞄の持ち手を握りしめた。


 柴田が横目でそれを見る。


 そして、ほんのわずかに、声を柔らかくした。


「……でも、あんたみたいなのが来るのを、ずっと待ってたのかもしれんな」


 その言葉の意味を聞き返す前に、扉が開いた。


 中は狭く、古い金属の匂いがした。


 二人が乗り込むと、エレベーターの扉は静かに閉まった。


 外の夜が、細い隙間になり、やがて完全に消えた。


   *


 地下へ降りていく時間は、妙に長かった。


 階数表示はない。


 ただ、壁の奥を流れる機械音と、足元から伝わる微かな振動だけがある。耳の奥が少し詰まる。唾を飲み込むと、小さく音がした。


 誠司は天井の隅を見上げた。


 防犯カメラが一つある。


 その黒い丸い目が、動かずこちらを見ている。


 柴田は何も言わなかった。


 沈黙が、箱の中に満ちていた。


 会社の会議室の沈黙とは違う。家の食卓に落ちた沈黙とも違う。ここにあるのは、地下の土と金属に押し固められたような沈黙だった。声を出せば、それだけで何かを起こしてしまいそうな重さがあった。


 やがて、エレベーターが止まった。


 扉が開く。


 冷たい空気が流れ込んだ。


 地下三階。


 そこは、誠司が想像していた事務所とはまったく違っていた。


 白い廊下がまっすぐ伸びている。天井は低く、壁には細い配管が何本も走っていた。床は磨かれているのに、どこか古い。消毒液に似た匂いと、湿ったコンクリートの匂いが混ざっている。


 遠くで、水が流れるような音がした。


 何かの機械が規則正しく唸っている。


 蛍光灯の光は明るいのに、奥へ行くほど影が濃く見えた。


「こっちだ」


 柴田に促され、誠司は廊下を歩いた。


 靴音が壁に当たり、少し遅れて戻ってくる。自分の足音なのに、後ろから誰かがついてくるように聞こえた。


 小さな受付のような部屋で、無表情な事務員が待っていた。


 年齢もよく分からない。きちんと結ばれた髪。薄い色のスーツ。机の上には書類が三枚、整然と置かれている。


「佐藤誠司様ですね」


「はい」


「こちらに署名をお願いします」


 差し出された書類は、どれも守秘義務に関するものだった。


 一枚目。


 業務中に見聞きした内容を、外部に漏らしてはならない。


 二枚目。


 記録、撮影、録音をしてはならない。


 三枚目。


 業務内容について、私的な調査、検索、照会をしてはならない。


 誠司の目は、そこで止まった。


「調べてもいけないんですか?」


 事務員は表情を変えなかった。


「施設の性質上、必要です」


「データ入力のバイトで、こんなに書類いるんですか?」


「施設の性質上、必要です」


 同じ言葉だった。


 それ以上は何も説明しないという、硬い壁のような声。


 誠司は書類に視線を落とした。


 時給二千八百円。


 翌月末払い。


 家計簿の赤い数字。


 湊のすり減った靴。


 陽菜の、父の顔色を読む目。


 美咲の「無理しないでね」という声。


 誠司はペンを取った。


 紙に名前を書く音が、静かな受付に細く響いた。


 佐藤誠司。


 一枚。


 また一枚。


 さらに一枚。


 書き終えると、今度は小さな機械の上に指を置くよう促された。


「右手人差し指をお願いします」


 誠司は言われた通りにした。


 透明な板の上に指を置く。機械の中で、青白い光が走った。ほんの一瞬、指先の血の色まで見透かされたような気がして、背筋がぞくりとした。


「確認しました」


 事務員は書類を揃え、横の棚へしまった。


 柴田が無言で顎をしゃくる。


 受付の奥に、さらに細い廊下が続いていた。


 そこを抜けると、一枚の扉があった。


 他の扉より古かった。


 金属製で、表面には細かな傷がいくつも走っている。扉の横には、古いカード読み取り機と、指を置くための黒い板があった。


 柴田がカードをかざす。


 短い電子音。


 次に、誠司が指を置く。


 一拍、間があった。


 その間に、誠司の首筋を汗が伝った。


 冷たい汗だった。


 やがて、扉の奥で鍵が外れる音がした。


 重い音。


 がこん、と腹に響くような音だった。


 柴田が扉を押し開ける。


 中は、小さな作業室だった。


 部屋の中央に、古い机が一つ。


 その上に、古い端末が一台。


 壁際には、見たことのない機器がいくつか並んでいるが、どれも明かりを落として沈黙していた。部屋の空気は冷えきっている。長く閉ざされていた場所のように、乾いた埃の匂いがした。


 天井の蛍光灯が一つ、白く光っている。


 その光の中で、端末の黒い画面だけが、深い水面のように沈んで見えた。


「今日から、ここがあんたの作業場だ」


 柴田が言った。


 誠司はゆっくり息を吸った。


 喉が乾いている。


「……これで、データ入力を?」


「ああ」


「ずいぶん古いですね」


「古いが、まだ動く」


 柴田は端末の横に置かれた椅子を引いた。


 椅子の脚が床を擦り、きい、と細い音を立てた。


「座れ」


 誠司は椅子に腰を下ろした。


 硬い椅子だった。


 背筋が自然と伸びる。


 柴田が端末の電源を入れた。


 一瞬、画面が青白く光った。


 次の瞬間、短い電子音が鳴った。


 ぴ、とも、ち、ともつかない、小さな音。


 けれどそれは、ただの機械音には聞こえなかった。


 夜明け前の木の枝で、小さな鳥が一声だけ鳴いたような音だった。


 誠司は思わず画面を見つめた。


 黒い画面に、白い文字が浮かび上がる。


【第零管理補助システム 起動中】


【作業者認証:佐藤誠司】


【本日の業務:監視ログ確認・異常値修正】


【対象区画:B-7~B-12】


 続いて、天井のどこかから、無機質な声が流れた。


『作業者を確認しました』


 感情のない声だった。


 それなのに、誠司の背中に、細い冷たさが走った。


『業務を開始してください』


 画面の赤い光が、誠司の指先を静かに照らしていた。


『画面左の一覧から、赤色表示のある項目を選択し、数値を指定範囲内に修正してください』


 声は淡々としていた。


 人が喋っているというより、冷えた壁の奥から言葉だけが滑り出してくるようだった。抑揚はなく、急かす響きもない。ただ、決められた音が、決められた順番で並んでいる。


 誠司は椅子に座ったまま、しばらく画面を見つめていた。


 黒い背景に、細かな文字と数字が並んでいる。会社で見慣れた表計算の画面とは違う。線も色も少なく、余計な装飾もない。けれど、赤く点灯している行だけが、薄暗い部屋の中で傷口のように浮かび上がっていた。


【B-7区画 安定値:97.2%】


【指定範囲:98.0%~100.0%】


 誠司は眉を寄せた。


「……安定値?」


 聞き慣れない言葉だった。


 だが、調べてはいけない。


 さっき署名した紙の文面が、頭の中に残っていた。仕事で知った内容を外で話してはいけない。写真も録音も記録もだめ。さらに、それについて自分で調べてもいけない。


 ここが何の施設なのか。


 この数字が何を意味しているのか。


 考えれば考えるほど、不安は増える。


 けれど、誠司に任された作業は、目の前の赤い数字を決められた範囲に直すことだった。


 それなら、できる。


 会社で十七年、誰かがずらした表を直し、抜けた数字を拾い、違和感のある入力を探してきた。誰にも褒められない、形にも残らない仕事ばかりだったが、数字の並びを見続けることだけは、身体に染みついている。


 誠司はマウスに手を置いた。


 指先に、冷たい汗がにじんでいた。


 赤い行を選ぶ。


 入力欄に、97.2という数字が表示される。


 その横に、修正後の数値を入れる枠がある。


 98.0。


 誠司はゆっくり打ち込んだ。


 確定。


 ほんの一瞬、画面右上の小さな赤い灯が点滅した。


 ぴ。


 短い音。


 次に、赤かった行が緑へ変わった。


【B-7区画 安定値:98.0%】


【状態:範囲内】


 誠司は息を吐いた。


 自分でも気づかないうちに、呼吸を止めていたらしい。肺の奥に溜まっていた空気が、喉を擦りながら出ていく。


「……こんなもんか」


 声に出してみると、少しだけ肩の力が抜けた。


 ただの数字だ。


 ただの修正だ。


 そう思おうとした。


 けれど、部屋の冷たさは変わらなかった。


 天井の蛍光灯は白く光っている。机の上には端末だけ。窓はない。外の風も、街の音も、家の匂いも、ここには届かない。空気は乾いていて、埃っぽく、喉の奥に細かな粉が貼りつくようだった。


 画面には、まだ赤い行がいくつも残っていた。


【B-8区画 安定値:97.9%】


【B-10区画 圧力値:指定範囲外】


【B-12区画 温度値:指定範囲外】


 誠司は一つずつ開いた。


 表示された範囲を確認し、外れている数字を直す。間違えないように、二度見する。確定する前に、もう一度見る。指先でマウスを押すたび、机の下で膝が小さく震えた。


 緑に変わる。


 また一つ、緑に変わる。


 部屋のどこかで、低い機械音が鳴り続けている。一定の速さで、深い眠りの呼吸のように続く音だった。時折、壁の向こうを水が流れるような音がする。地下の奥を、見えない何かが巡っている。


 誠司は画面に集中した。


 集中していないと、怖くなる。


 数値だけを見ていれば、ここがどこなのかを考えずに済む。


 五つ目の赤い行を直したところで、ふと手が止まった。


【B-9区画 安定値:98.5%】


 赤くはない。


 指定範囲内に収まっている。


 それなのに、誠司の目はその行から離れなかった。


 前日の数値。


 その前の数値。


 変化の履歴が小さく表示されている。


 98.1。


 98.2。


 98.6。


 98.5。


 数字そのものは正常に見える。


 けれど、動き方が変だった。


 他の区画は、少し下がって少し戻る。その繰り返しだ。だが、B-9だけは前の日から妙に上がり、またわずかに下がっている。乱れているというほどではない。異常と呼べるほどでもない。


 それでも、気持ちが悪かった。


「この区画だけ……動き方が違うな」


 誠司は画面の端にある備考欄を見た。


 マニュアルには、赤い行だけ修正しろと書かれている。緑の行に触れろとは書いていない。


 余計なことをするべきではない。


 そう思った。


 会社でも、余計なことをして怒られたことがある。問題が起きる前に直したのに、「頼んでいない」と言われた。ミスを防いだはずなのに、「勝手な判断」と片づけられた。


 それ以来、誠司はなるべく目立たないように働いてきた。


 けれど。


 この数字は、気になる。


 誠司は迷った。


 壁の奥の機械音が、少しだけ大きくなった気がした。額に汗がにじむ。冷たいのに、肌だけが熱い。喉が渇いている。唾を飲み込む音が、自分の耳に大きく響いた。


 やがて、誠司は備考欄に短く入力した。


【変動パターン要注意】


 確定する。


 画面は変わらない。


 警告も出ない。


 ただ、備考欄にその文字だけが残った。


「……怒られたら、謝ろう」


 誠司は小さく呟き、次の赤い行へ進んだ。


   *


 午前五時。


 作業室の扉を出た時、誠司は自分の肩が強張っていたことに気づいた。


 首を回すと、筋が鈍く痛む。目の奥も重い。何時間も画面を見続けたせいで、白い蛍光灯の残像が網膜に焼きついたように残っている。瞬きをしても、赤い行と緑の行がまぶたの裏にちらついた。


 廊下はまだ冷たかった。


 地下に朝は来ない。


 時間だけが進んでも、空の色は変わらない。白い廊下は白いまま。配管は黙ったまま。靴音だけが、行きより少し疲れた響きで戻ってくる。


 エレベーターの前に、柴田がいた。


 折りたたみ椅子に腰掛け、古い水筒の蓋を閉めている。まるで、誠司が部屋へ入った時から一歩も動いていないようだった。


「どうだった」


 柴田が聞いた。


 誠司は少し考えてから答えた。


「正直、よくわかりません。ただの数字を直しただけです」


「そうか」


 柴田は短く言った。


 その横顔は、何かを知っている人間のものだった。


 誠司は気になっていたことを口にしかけた。


 ここは何の施設なのか。


 あの数字は何なのか。


 B-7やB-9とは何なのか。


 だが、署名した紙のことを思い出して、言葉を飲み込んだ。聞くことさえ、どこまで許されているのか分からない。


 柴田は水筒を鞄にしまい、ゆっくり立ち上がった。


「ここに来る人間はな」


 低い声が、廊下に落ちた。


「みんな、何かを守ろうとしてる」


 誠司は顔を上げた。


 柴田はまっすぐ前を見ていた。白い廊下の奥に、誰もいない。蛍光灯の光だけが、長く伸びている。


「俺もそうだった」


 その一言のあと、長い間があった。


 配管の奥を、水が流れる音がする。


 遠くの機械が低く唸る。


 それ以外、何も聞こえなかった。


 柴田の沈黙は、空っぽではなかった。言わなかった言葉がいくつも沈んでいるような、重い沈黙だった。踏み込めば、足を取られる。そんな気配があった。


「あんたも、たぶんそうだろう」


 誠司は返事ができなかった。


 美咲の顔が浮かんだ。


 寝る前に水を飲みに来た陽菜の目。


 湊のすり減った青い靴。


 食卓で飲み込まれた言葉。


 守ろうとしている。


 たしかに、そうだった。


 けれど、自分に守れるのかは分からなかった。


「……大したことは、できませんよ」


 誠司はようやく言った。


 柴田は、ほんの少しだけ口元を動かした。


 笑ったのかどうか、分からないほど小さな変化だった。


「大したことかどうかは、あとで決まる」


 エレベーターの扉が開いた。


 上へ戻る箱の中は、行きより少し明るく感じた。けれど、誠司の身体は重かった。壁に映った自分の顔は青白く、目だけが乾いていた。


   *


 外へ出ると、空は白み始めていた。


 ビルの裏手の通路には、夜の湿り気がまだ残っている。コンクリートの端に溜まった落ち葉が、朝の風にかすかに揺れた。冷たい空気が頬を撫で、地下でこもった匂いを少しずつ洗い流していく。


 誠司は思わず深く息を吸った。


 肺に入った朝の空気は、薄く、冷たく、少しだけ甘かった。


 大通りに出ると、街がゆっくり目を覚まし始めていた。始発へ向かう人たちが、駅の方へ歩いている。新聞配達のバイクが角を曲がり、乾いたエンジン音を残して消えた。遠くの空は淡い青に変わり、ビルの窓に朝日が細く反射している。


 誠司はコンビニに寄った。


 缶コーヒーを一本買う。


 百三十円。


 レジで小銭を出す時、一瞬だけ迷った。たった百三十円。それでも、今の誠司には重かった。けれど、今飲まなければ、家まで歩く途中で足が止まりそうだった。


 店の外で缶を開ける。


 ぷしゅ、と小さな音が朝の空気に溶けた。


 口をつけると、苦味が舌に広がる。冷たい液体が喉を通り、空っぽの胃に落ちた。少し気持ち悪い。それでも、頭の奥に残っていた白い光が、わずかに薄まった。


 スマホが震えた。


 美咲からだった。


【おつかれさま。朝ごはん、おにぎり作っておくね】


 誠司は画面を見つめた。


 短い文字なのに、胸の奥に温かいものが広がった。


 同時に、少し痛かった。


 嘘をついている。


 心配をかけている。


 それでも、待ってくれている。


 誠司は親指を動かした。


【ありがとう。もうすぐ帰る】


 送信する。


 朝日が、ビルの向こうから少しずつ顔を出していた。


 光は鋭くなく、まだ柔らかい。歩道の小さな水たまりに反射し、揺れる白い線を作っている。風が吹くと、植え込みの草が一斉に傾いた。葉の先についた小さな水滴が光を弾き、すぐに落ちた。


 ぽたり。


 足元のアスファルトに、透明な点が広がる。


 誠司は歩き出した。


 革靴の底が、朝の道を叩く。


 かつ。


 かつ。


 かつ。


 疲れているのに、家へ向かう足だけは止まらなかった。


 帰れば、美咲のおにぎりがある。


 湊はまだ寝ているかもしれない。


 陽菜は起きてきて、眠そうな顔で「おはよう」と言うだろう。


 その当たり前の朝を思うと、地下で見た赤い数字も、冷たい廊下も、鳥の声のような起動音も、少し遠い夢のように感じられた。


 ただの数字を直しただけ。


 誠司はそう思った。


 そう思うことにした。


 その頃、東京湾のはるか下、誰の目にも触れない暗がりで、一つの区画が静かに安定を取り戻していた。


 崩れるはずだった時刻を、すでに十四時間過ぎていた。


 古い端末の記録には、短い文字だけが残っていた。


【B-7区画 安定値:修正済】


【作業者:S.S】

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

↑ページトップへ