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減給された40代社畜、深夜バイトで国家級ダンジョンの管理者になる  作者: Gaku


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第1話 減給通知と、深夜バイト 〜削られた今日も、守りたい明日のためにある〜

午後三時半の会社は、妙に静かだった。


 東都精機システムズの七階。窓際に置かれた観葉植物の葉が、空調の風にかすかに揺れている。葉先が乾いた音を立てるたび、佐藤誠司は自分の名前が呼ばれるのを待っていた。


 会議室の曇りガラス越しに、廊下の白い光がぼんやり滲んでいる。


 蛍光灯の明かりは均一で、冷たく、誰の顔にも同じように疲れた影を落としていた。机の上には何もない。湯呑みも、資料も、ペン一本さえ置かれていない。ただ、向かいに座る課長の矢沢浩二だけが、革張りの椅子に深く腰を沈め、薄い紙を一枚、指先で軽く叩いていた。


 その音が、やけに大きく聞こえた。


 とん、とん、とん。


 紙が机を叩くたび、誠司の喉の奥が乾いていく。


「来月から、基本給を二割下げる」


 矢沢は、天気の話でもするような声で言った。


 誠司は一瞬、言葉を聞き損ねたのかと思った。


 けれど、矢沢の口元に浮かんだ薄い笑みが、それを許してくれなかった。


「……二割、ですか」


「業績が厳しいんだ。君だけじゃない。……まあ、君の場合は成果も見えにくいからね」


 窓の外を、細い雲が流れていた。


 春の終わりの光は明るいはずなのに、会議室の中には届かない。ブラインドの隙間から斜めに差し込んだ白い線だけが、机の端を切り取るように照らしている。その光の中で、細かな埃がゆっくり浮かんでいた。


 誠司は、その埃を見ていた。


 何か言わなければならない。


 そう思うのに、胸の奥に重たい石を詰め込まれたようで、声が出なかった。


 住宅ローン。


 陽菜の習い事。


 湊の給食費。


 保険料。


 電気代。


 冷蔵庫の中身。


 言葉にならない数字ばかりが、頭の中で勝手に並び替わっていく。


「佐藤くん、何か言いたいことある?」


 矢沢は優しい声を作った。


 その優しさが、紙やすりのように耳の奥を削った。


「いえ……」


「そう。助かるよ。こういう時に騒がれると、こっちも困るからさ」


 矢沢は紙を机に置き、両手の指を組んだ。


「家庭があるのは君の事情でしょ? 会社に甘えられても困るんだよ」


 誠司の膝の上で、握りしめた手が少し震えた。


 爪が手のひらに食い込む。痛い。けれど、その痛みだけが、今ここで自分がまだ座っていることを教えてくれた。


 反論しても、何も変わらない。


 この会社で十七年働いて、それだけはよく知っていた。誰がどれだけ残業しても、誰が誰の尻拭いをしても、数字に見えないものは評価されない。面倒な調整も、ミスの火消しも、誰かが崩した予定表を黙って組み直すことも、できて当たり前の空気に溶けて消える。


 だから誠司は、いつものように息を飲み込んだ。


 腹の底まで落ちた息は、戻ってこなかった。


「佐藤くんさあ」


 矢沢の声が、一段低くなった。


「君みたいな人間は替えが利くんだよ。自覚してる?」


 会議室の外で、誰かの靴音が通り過ぎた。


 硬い床を叩く、規則正しい音。


 かつ、かつ、かつ。


 その音が遠ざかるまで、誠司は返事ができなかった。


 舌が口の中で乾いていた。喉の奥に貼りついたものを無理に動かし、ようやく声を出す。


「……はい」


 矢沢は満足したように頷いた。


「じゃあ、そういうことで。来月からね」


 会議室を出た瞬間、廊下の空気が肌に冷たく触れた。


 誠司は立ち止まらず、自分の席へ戻った。誰かがこちらを見た気がしたが、顔は上げなかった。椅子に座り、パソコンの画面を見る。開きっぱなしの表計算ソフトに、細かな数字が並んでいる。


 数字はいい。


 少なくとも、黙っていれば責めてこない。


 誠司はマウスを握った。


 指先が、まだ少し震えていた。


   *


 夕方六時半。


 最寄り駅の改札を出ると、空は薄い橙色に染まっていた。


 駅前のロータリーをバスが曲がっていく。排気の匂いが、春の湿った空気に混ざる。歩道脇の植え込みでは、伸びすぎた草が風に撫でられ、波のように片側へ倒れては戻っていた。


 誠司は鞄の持ち手を握り直した。


 肩が重い。


 鞄の中身は朝と変わらないはずなのに、帰り道だけはいつも少し重くなる。特に今日は、革靴の底がアスファルトを叩く音まで、自分を責めているように聞こえた。


 かつ、かつ。


 信号待ちの間、スマホを出しかけて、やめた。


 美咲に何と伝えるか、まだ決められていない。


 基本給が二割下がる。


 その一文だけなら簡単だ。


 けれど、その後に続くものを考えると、喉の奥が詰まった。


 ごめん。


 どうしよう。


 少し我慢してくれ。


 どれも言いたくなかった。


 家族の前では、せめて普通の顔でいたかった。


 スーパーの自動ドアが開くと、冷えた空気が頬を撫でた。惣菜売り場の揚げ物の匂い。魚売り場の氷の匂い。遠くで流れる特売案内の声。蛍光灯の白い光に照らされて、床が濡れたように光っている。


 誠司は財布を開いた。


 一万円札が一枚。


 小銭が少し。


 給料日まで、あと九日。


 頭の中で、冷蔵庫に残っているものを思い出す。玉ねぎが二つ。人参が一本。味噌はまだある。米も、ぎりぎり足りる。


 肉売り場の前で足が止まった。


 鶏もも肉のパックが、透明なフィルム越しに赤く光っていた。値引きシールは貼られていない。誠司は一度、手を伸ばした。指先がパックの冷たさに触れる。


 湊は肉が好きだ。


 陽菜も、唐揚げの日だけはご飯をおかわりする。


 美咲はいつも、自分の分を少し減らして、子どもたちの皿に寄せる。


 誠司は値札を見た。


 数秒、そのまま動けなかった。


 店内放送の明るい声が、遠くから水の中の音みたいに聞こえてくる。


 やがて誠司は、鶏もも肉をそっと元の場所へ戻した。


 代わりに、豆腐を二丁取る。卵も一パック、棚から取る。指先に伝わる豆腐の容器の冷たさが、妙に現実的だった。


 会計を済ませ、袋を提げて外へ出る。


 夕日はビルの隙間に沈みかけていた。逆光の中で、歩道を行き交う人たちの影が長く伸びている。誠司の影も、その中に混ざって、薄く、頼りなく揺れていた。


   *


 玄関の鍵を開けると、味噌の匂いがした。


「おかえり」


 台所から美咲の声が届いた。


 佐藤美咲は、鍋の前に立っていた。髪を後ろで軽く結び、袖をまくっている。振り返った顔には、いつもの柔らかい笑みがあった。


 けれど、その目だけが、一瞬だけ誠司の顔色を確かめた。


 責めるでもなく、問い詰めるでもなく、ただ小さな傷を見逃さないような目だった。


「ただいま」


 誠司は靴を脱いだ。


 革靴の中にこもった湿気が、足元からふっと上がる。朝から履きっぱなしの靴下が、少し冷えていた。


「今日、豆腐安かったの。麻婆豆腐にしようと思って」


 美咲はそう言って笑った。


 台所の隅には、スーパーの袋が置かれていた。そこから、豆腐の白い容器が見えている。


 誠司の手に提げた袋の中にも、同じ豆腐が二丁入っていた。


 ほんの一瞬、二人の間に言葉のない時間が落ちた。


 換気扇の低い音。


 鍋の中で、味噌汁が小さく泡立つ音。


 リビングで鉛筆が紙をこする音。


 その全部が、やけにはっきり聞こえた。


「……俺も買ってきた」


 誠司が袋を少し持ち上げると、美咲は目を丸くして、それから困ったように笑った。


「じゃあ、明日も豆腐ね」


「ああ。健康的だな」


 美咲は笑ったまま、少しだけ目を伏せた。


 その笑顔が無理をしていることに、誠司は気づいていた。


 でも、気づいたと言えなかった。


 リビングでは、陽菜がテーブルにノートを広げていた。小学四年生になった娘は、少し前より背が伸びて、表情も大人びてきた。鉛筆を持つ指が細い。消しゴムのカスを丁寧に集めながら、ちらりと誠司を見る。


「パパ、おかえり」


「ただいま。宿題か?」


「うん。分数」


「分数か。パパはもう忘れたな」


 陽菜は笑わなかった。


 その代わり、じっと誠司の顔を見て、ぽつりと言った。


「パパ、最近ため息多いね」


 胸の奥を、細い針で突かれたようだった。


 誠司は鞄を置く手を止めた。


 窓の外では、夕方の風がベランダの物干し竿を小さく鳴らしている。からん、と乾いた金属音が一度だけ響き、すぐに消えた。


「そうか?」


「うん」


「花粉かな」


「もう、あんまり飛んでないよ」


 陽菜の声は静かだった。


 子どもらしい無邪気さの中に、見てはいけないものを見てしまったような慎重さが混じっている。


 誠司は笑おうとした。


 頬の筋肉が、うまく動かなかった。


「じゃあ、年かな」


 陽菜は少しだけ眉を寄せた。


 その時、廊下の奥から、ばたばたと軽い足音が走ってきた。


「パパー!」


 風呂上がりの湊が、濡れた髪のまま飛び出してくる。七歳の息子の頬は赤く、首筋にはまだ水滴が残っていた。パジャマのボタンは一つずれている。


「今日ね、カブトムシの幼虫触った!」


「おお、すごいな」


「ぷにってした! でもね、ちょっと強かった!」


「強かった?」


「うん! 土の中で、こう、ぐいって!」


 湊は両手を丸めて、よくわからない動きをした。


 その無邪気さだけが、家の空気に小さな灯りをともす。


 誠司はしゃがみ、湊の濡れた髪をタオルで拭いた。髪から石鹸の匂いがした。柔らかい頭の重みが、手のひらに乗る。


 守らなければならないものは、こんなに温かい。


 そう思った瞬間、会議室で聞いた声が耳の奥に戻ってきた。


 君みたいな人間は替えが利くんだよ。


 誠司は湊の髪を拭く手に、少しだけ力を込めた。


 湊がくすぐったそうに笑う。


「パパ、痛いー」


「悪い悪い」


 誠司は手を緩めた。


 胸の奥に溜まったものは、まだ吐き出せないままだった。


夕食の湯気が、食卓の上でゆっくり揺れていた。


 麻婆豆腐は少し薄味だった。豆腐の白い角が赤茶色のあんの中で崩れ、湯気と一緒に味噌汁の匂いが混ざっている。茶碗に盛られたご飯は、いつもより少しだけ少ない。誰もそれを口にしなかった。


 窓の外では、夜になりかけた空に電線が黒く伸びていた。近所の犬が一度だけ吠え、その声が細く遠ざかる。マンションの廊下を誰かが歩く足音がして、すぐに静かになった。


「いただきます」


 四人の声が重なった。


 湊は勢いよくスプーンを持ち、麻婆豆腐をご飯にかけた。まだ熱かったのか、口に入れた瞬間に目を丸くする。


「あつっ」


「ゆっくり食べなさい」


 美咲が笑いながら言う。


 陽菜は小さく息を吹きかけてから、豆腐を一口食べた。誠司も箸を動かす。食べ物の味はする。けれど、喉を通るたびに、胸の奥へ重たいものが沈んでいく。


「今日ね、学校でね」


 湊が話し始めた。


 給食の牛乳をこぼした友達の話。休み時間にドッジボールで最後まで残った話。カブトムシの幼虫が思ったより大きくて、女子が悲鳴を上げた話。


 湊の声は明るかった。


 その明るさが、誠司にはありがたくて、少し苦しかった。


「でね、今度、みんなで虫かご持ってくるんだって」


「虫かご、うちにあったかな」


 美咲が考えるように首を傾げる。


「前の、割れてなかった?」


 陽菜が言った。


「割れてるけど、テープ貼れば使える!」


 湊は胸を張った。


 誠司は「そうだな」と言いかけて、ふと黙った。


 新しい虫かごくらい、買ってやればいい。


 そんな小さなことさえ、今は頭の中で値段に変わってしまう。


 湊が皿の中を見て、何気なく口を開いた。


「今日もお肉――」


 言葉の途中で、陽菜の足がテーブルの下で小さく動いた。


「いたっ」


 湊が顔をしかめる。


 陽菜は湊を見なかった。ただ、自分の茶碗を持ったまま、まっすぐ前を向いている。小さな唇がきゅっと結ばれていた。


 湊は姉の顔を見て、それから父と母を見た。


 何かを察したのか、途中で飲み込んだ言葉を、味噌汁と一緒に喉の奥へ押し込んだ。


「……豆腐、うまい」


 湊はそう言って、わざと大きく頷いた。


 美咲の箸が、一瞬だけ止まった。


 誠司は茶碗を持つ手に力が入った。白い米粒の熱が、指先にじんわり伝わる。


 十歳の娘が、七歳の弟の言葉を止めた。


 親を傷つけないために。


 部屋の中から、音が消えたようだった。


 換気扇の低い唸り。湊が味噌汁をすする小さな音。陽菜の箸が皿に触れる、かすかな硬い音。外を走る車のタイヤが、遠くの道路を濡れたように擦っていく音。


 そのどれもが、沈黙の底に沈んでいく。


 誠司は、何か言いたかった。


 大丈夫だ。


 心配するな。


 今だけだ。


 けれど、どの言葉も嘘に近かった。


 だから、せめて笑おうとした。


「豆腐、うまいな」


 声が少し掠れた。


 美咲がすぐに頷く。


「うん。明日は卵も入れようか」


「やった。卵好き」


 湊が笑った。


 陽菜も、ほんの少しだけ表情を緩めた。


 誠司はその顔を見て、箸を動かした。


 麻婆豆腐の熱さが舌に広がる。喉の奥に、別の熱が上がってきた。飲み込むふりをして、それも一緒に押し込んだ。


   *


 夜十時を過ぎると、家の中は急に広くなった。


 子ども部屋の扉は閉まっている。湊は寝る直前まで明日の虫の話をしていたが、布団に入るとすぐ眠った。陽菜は少し長く起きていた。水を飲みに出てきた時、リビングの入口で誠司を見て、「おやすみ」とだけ言った。


 その目は、まだ何かを聞きたそうだった。


 誠司は「おやすみ」と返した。


 聞かれなくて助かったと思う自分が、情けなかった。


 美咲は風呂に入っている。浴室の方から、かすかに水の音が聞こえる。リビングには、壁掛け時計の秒針の音だけが残っていた。


 かち、かち、かち。


 誠司はスマホを開いた。


 家計簿アプリの数字が、白い画面の上に並ぶ。


 住宅ローン。


 電気代。


 水道代。


 スマホ代。


 保険料。


 学校関係の引き落とし。


 陽菜の習い事。


 湊の給食費。


 来月から基本給が二割下がると、毎月の収支は赤くなる。小さな赤字ではない。見ないふりをしても、翌月にはもっと大きくなり、その次の月には確実に家計を押し潰す。


 誠司は画面を閉じた。


 部屋の明かりが、スマホの黒い画面に反射する。そこに映った自分の顔は、ひどく疲れていた。目の下に薄い影があり、口元は下がっている。


 四十代。


 特別な資格もない。


 人より抜きん出た何かもない。


 会社では、替えが利くと言われた。


 けれど、家ではそうではないと信じたかった。


 誠司は求人アプリを開いた。


 検索欄に「夜勤」と打つ。


 続けて「未経験」と入れる。


 画面に求人が並んだ。


 コンビニ夜勤。


 警備員。


 倉庫仕分け。


 清掃。


 どれも時給は千円台だった。もちろん、ありがたい仕事だ。けれど、会社を終えた後に夜通し働き、翌朝また会社へ行くことを考えると、体がもつかどうか分からない。


 それでも、選んでいる余裕などなかった。


 誠司はひとつひとつ開いては閉じた。


 勤務地が遠い。


 勤務時間が合わない。


 週五必須。


 車通勤のみ。


 画面をスクロールする指が、次第に重くなっていく。


 その時、一件だけ、妙な求人が目に入った。


 文字の並びが、周囲から浮いていた。


【急募】深夜データ入力スタッフ

時給:2,800円

勤務時間:23:00~翌5:00

勤務地:都内地下施設

仕事内容:監視ログの確認・異常値修正

必要スキル:基本的なPC操作、数値の正確な読み取り

未経験可

厳格な守秘義務あり

業務内容の調査・検索を禁ず

身元確認あり

支払い:月末締め・翌月末払い


 誠司は、画面を見つめたまま動きを止めた。


 時給二千八百円。


 未経験可。


 都内地下施設。


 監視ログ。


 異常値修正。


 普通ではなかった。


 どう見ても、普通ではない。


 リビングの空気が急に冷えたように感じた。窓は閉まっているのに、背中のあたりを細い風が通り抜けた気がする。指先に、うっすら汗が滲んだ。


 怪しい。


 そう思った。


 けれど、数字は容赦なく頭の中で動き出した。


 週に三回。


 一日六時間。


 時給二千八百円。


 単純に計算して、月に二十万円前後。


 税金や引かれるものを考えても、赤字は埋まる。少なくとも、食卓で湊が言葉を飲み込む回数は減らせる。陽菜が親の顔色を見る時間も、少しは減らせるかもしれない。


 ただ、支払いは翌月末。


 最初の振込まで、二か月近くある。


 そこまでは、今の給料だけで回さなければならない。


 厳しい。


 相当、厳しい。


 でも、先が見えるなら耐えられる。


 誠司は、そう自分に言い聞かせた。


 浴室の水音が止まった。


 美咲が出てくる前に、画面を閉じようとして、指が止まる。


 応募フォーム。


 名前。


 住所。


 年齢。


 職歴。


 身分確認の同意。


 守秘義務への同意。


 業務内容に関する自発的な調査・検索をしないことへの同意。


 文字を読むたび、胃の奥が少し冷たくなった。


 それでも、誠司は入力した。


 最後に、送信ボタンが表示された。


 青い四角いボタン。


 押せば戻れないような気がした。


 壁掛け時計の秒針が進む。


 かち。


 かち。


 かち。


 美咲のドライヤーの音が、洗面所で低く鳴り始めた。


 誠司は、子ども部屋の方を見た。


 扉の隙間から、小さな常夜灯の明かりが漏れている。湊の寝息は聞こえない。陽菜も、たぶんもう眠っている。


 今日の食卓が、まぶたの裏に浮かんだ。


 肉、と言いかけて黙った湊。


 弟の足をそっと蹴った陽菜。


 笑顔を作った美咲。


 誠司は息を吸った。


 肺の奥まで入った空気が、少しだけ痛かった。


「……やるしかないだろ」


 声は、自分でも驚くほど小さかった。


 送信ボタンを押す。


 画面が白く切り替わった。


 三秒ほど、何も起きなかった。


 その短い時間が、妙に長く感じた。耳の奥で自分の鼓動が聞こえる。指先の汗が、スマホの縁を湿らせていた。


 やがて、新しい画面が表示された。


【応募を受け付けました】


 誠司は息を吐いた。


 それだけなら、まだ普通だった。


 次の表示が出るまでは。


【採用面接は不要です】

【明後日より勤務可能です】

【初回勤務案内は、勤務開始二十四時間前に通知されます】


 誠司は、画面を見たまま固まった。


 面接なし。


 即採用。


 普通ではない。


 胸の奥で、警告のようなものが小さく鳴った。


 それでも、スマホを握る手を離せなかった。


 来月の生活費。


 給食費。


 陽菜の習い事。


 湊の虫かご。


 美咲が戻したかもしれない肉のパック。


 普通ではないことの怖さより、明日の暮らしの重さの方が、ずっと近くにあった。


   *


 寝室へ向かう廊下は暗かった。


 リビングの明かりを消すと、窓の外から街灯の光だけが薄く差し込んだ。廊下の壁に、洗濯物の影がぼんやり揺れている。ベランダの向こうで風が吹き、物干し竿が小さく鳴った。


 誠司は寝室のドアの前で立ち止まった。


 中から、美咲の静かな寝息が聞こえる。


 隣の部屋からは、湊が寝返りを打つ小さな音。布団が擦れる音。陽菜の部屋は、完全に静かだった。


 この家は狭い。


 壁も薄い。


 古い家電はときどき変な音を立てるし、床も少しきしむ。


 それでも、誠司にとっては、帰る場所だった。


 誰かが待っている場所。


 守りたいと思える場所。


 会社で替えが利くと言われても、ここだけは、自分がいなくなれば同じ形では残らない場所だった。


 誠司はドアノブに手をかけた。


 金属がひんやりしていた。


「もう少しだけ、頑張るから」


 誰に聞かせるでもなく、そう呟いた。


 声は夜の廊下に落ちて、すぐに消えた。


 スマホが、手の中で一度だけ震えた。


 画面には、見覚えのない差出人からの通知が浮かんでいた。


【深夜データ入力スタッフ 初回勤務予定】

【二日後 23:00】

【指定地点:勤務開始六時間前に開示】


 誠司は、しばらくその文字を見つめていた。


 遠くで、救急車のサイレンが鳴った。


 赤い音が夜の街を細く裂いて、やがて遠ざかっていく。


 家の中はまた静かになった。


 その静けさの底で、誠司の知らない扉が、ゆっくりと開き始めていた。


 世界でたった一人しか採用されない仕事が、佐藤誠司の名前を待っていた。

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