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減給された40代社畜、深夜バイトで国家級ダンジョンの管理者になる  作者: Gaku


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第5話 目覚めたのか  〜失わせないと決めた者は、沈黙の中で動き出す〜

国家ダンジョン対策部隊の地下作戦室は、夜でも昼でも同じ明るさをしていた。


 天井の白い照明が、壁一面の大型画面を冷たく照らしている。外の光は届かない。雨が降っているのか、晴れているのか、ここにいる者には分からない。ただ空調の乾いた風が、資料の端をかすかに震わせ、モニターの作動音が低く重なっている。


 部屋の中央に、榊原剛は立っていた。


 四十八歳。短く刈った髪には白いものが混じり、背筋は軍人のように伸びている。左眉の上には古い傷跡があり、表情を動かさなくても、それだけで厳しさが顔に刻まれていた。


 大型画面には、B-11区画の復旧ログが表示されている。


 赤い線。


 緑の線。


 時間ごとに変化する数値。


 そして、途中から不自然なほど滑らかに戻っていく安定値。


 榊原は腕を組んだまま、その線を見ていた。


「もう一度、説明しろ」


 低い声が作戦室に落ちた。


 若い隊員が背筋を伸ばす。


「B-11区画の崩壊回避は、管理端末からの遠隔操作によるものです。操作者は、B-10の圧力値を先に調整。その後、B-11の安定値を段階的に引き上げ、最後にB-12の連動値を修正しています」


「所要時間は」


「六分四十二秒です」


 作戦室の空気が、わずかに硬くなった。


 誰も声を出さない。


 六分四十二秒。


 その数字の短さを、ここにいる者は理解していた。崩壊しかけた区画を前に、焦らず、壊さず、周辺まで見ながら修正する。訓練された人間でも困難な操作だった。


 それを、誰かがやった。


 顔も分からない。


 所属も分からない。


 ただ、記録だけが残っている。


「操作者の身元は」


 榊原が聞いた。


 隊員は端末を操作し、画面の端に小さな記録を出した。


【作業者ID:S.S】


「作業者IDはS.S。詳細情報には、管理端末側の制限がかかっています。こちらからは閲覧できません」


「民間委託か」


「可能性はあります。ただし、通常の監視補助員に許可される操作範囲を超えています」


 榊原は目を細めた。


 大型画面に、別のログが重なる。


 C系統の軽微な修正。


 B-7区画の安定値回復。


 B-9区画への備考記録。


 B-11区画の連動修正。


 すべて同じ作業者ID。


 S.S。


 たった二文字。


 だが、その二文字が、長く閉じていた扉を内側から叩いているように見えた。


「管理者が目覚めたのか?」


 誰に向けた言葉でもなかった。


 だが、その声が部屋に落ちた瞬間、周囲の隊員たちは一斉に息を止めた。


 管理者。


 その言葉は、この作戦室では軽々しく口にされない。


 榊原自身も、長い間、その言葉を避けていた。


 避けていたのではない。


 口にすれば、思い出さなければならないからだ。


 十二年前。


 暗い通路。


 赤い警告灯。


 耳を裂くような通信の雑音。


 帰還予定時刻を過ぎても戻らなかった若者たちの名前。


 最後に聞こえた声。


 助けを求める声ではなかった。


 残された者を先へ進ませようとする、掠れた声だった。


 榊原の右手が、わずかに握られた。


 革手袋の奥で、指の関節が硬く軋む。


「あの時、初代管理者候補がいた」


 榊原はゆっくり言った。


 若い隊員たちは黙って聞いている。


「全員、失われた。それ以来、管理端末をまともに扱える人間は現れなかった。触れられても、読めない。読めても、判断できない。判断できても、端末が受け付けない」


 榊原は画面を指した。


「だが、このログを見ろ」


 緑の線が、静かに上向いている。


「これは、端末に選ばれた人間の操作だ」


 作戦室の奥で、誰かが小さく息を飲んだ。


 その音さえ、榊原には聞こえた。


「身元を洗いますか」


 副官が言った。


 榊原は首を横に振った。


「乱暴に掘るな。相手が本当に管理者なら、こちらが不用意に触れた瞬間、別の部署が動く」


「別の部署、ですか」


「この国には、守るために動く者だけがいるわけじゃない」


 その言葉の後、作戦室に重い沈黙が降りた。


 照明は明るい。


 モニターは動いている。


 通信の声も遠くで聞こえている。


 それでも、その一角だけ、古い地下の暗闇が染み出したように静まり返っていた。


 榊原は、画面に映るS.Sの文字を見つめた。


「もし本当に管理者なら、守らなきゃならん」


 声は低かった。


 だが、そこには揺るぎのない硬さがあった。


「十二年前の二の舞は、俺が許さん」


   *


 数日後の夜。


 佐藤誠司は四度目の勤務に向かっていた。


 駅前の通りには、雨上がりの匂いが残っていた。アスファルトは黒く湿り、街灯の光をぼんやり反射している。車が通るたび、タイヤが水を薄く弾き、しゅ、と細い音を残していった。


 風は冷たかった。


 歩道脇の植え込みでは、雨を含んだ草が重たそうに揺れている。葉の先についた水滴が、誠司の足音に合わせるように震え、時々、ぽたりと落ちた。


 革靴の底が濡れた道を叩く。


 かつ。


 かつ。


 かつ。


 会社の仕事は今日も終わらなかった。


 矢沢に押しつけられた修正資料は、結局、定時後までかかった。家に帰る時間はあったが、夕食をゆっくり食べる余裕はなかった。美咲には「少し忙しくなる」とだけ伝えた。減給のことも、夜の仕事の詳しいことも、まだ言えていない。


 嘘を重ねるたび、胸の奥に小さな石が増えていく。


 それでも、足は地下施設へ向かっていた。


 通用口の前で、柴田が待っていた。


 灰色の作業着はいつもと同じだったが、今夜は扉の赤いランプをじっと見ていた。誠司が近づくと、柴田はゆっくり顔を向ける。


「こんばんは」


「ああ」


 柴田は短く返した。


 そして、扉を開ける前に言った。


「赤い灯が、さっきから点いたり消えたりしてる」


 誠司は扉の上部を見た。


 小さな表示灯が、確かに淡く明滅している。完全な警告ではない。だが、落ち着きのない光だった。呼吸の乱れた生き物の目のように、点き、消え、また点く。


「多いんですか、今日は」


「さあな」


 柴田は扉を開けた。


「中で見れば分かる」


 冷たい空気が流れてくる。


 誠司は鞄の持ち手を握り直した。


 地下へ降りるエレベーターの中で、誠司は何度も手のひらをズボンで拭いた。汗をかいている。寒いのに、指の間だけが湿っている。


 前の勤務で見た、あの赤い警告。


 推定崩壊までの数字。


 臨界回避。


 退避経路。


 意味の分からない言葉が、頭の奥に残っている。


 ただのデータ入力ではない。


 そう思いかけるたび、署名した書類の文面が浮かんだ。


 調べてはいけない。


 話してはいけない。


 深く知ろうとしてはいけない。


 だから誠司は、いつものように自分に言い聞かせた。


 数字を直す。


 それだけだ。


 作業室に入ると、空気はいつもより冷えているように感じた。


 蛍光灯は白く、壁際の機器は沈黙している。古い端末だけが、黒い画面のまま机の上に置かれていた。窓のない部屋に、雨の匂いは届かない。ただ、乾いた埃と金属の匂いがある。


 誠司は椅子に座った。


 柴田が電源を入れる。


 鳥の声に似た短い電子音。


【第零管理補助システム 起動中】


【作業者認証:佐藤誠司】


【本日の業務:監視ログ確認・異常値修正】


【対象区画:C-1~C-5】


『作業者を確認しました』


『業務を開始してください』


 画面に一覧が表示される。


 赤い項目は九件。


 誠司は小さく息を吐いた。


「今日は多いな……」


 最初の行を開く。


 C-1区画。


 温度値。


 指定範囲からわずかに外れている。


 修正。


 確定。


 緑に変わる。


 二件目。


 三件目。


 四件目。


 作業に慣れてきていることを、誠司は自分で感じていた。赤い表示を見ても、初日のようには固まらない。履歴を見て、周辺の数値を見て、急に動かしすぎないように調整する。


 怖さが消えたわけではない。


 ただ、怖がったまま手を動かすことに、少しだけ慣れてしまった。


 五件目を開いた瞬間、画面が切り替わった。


 警告音が鳴る。


 ぴ、ぴ、ぴ。


 前回より短く、鋭い音だった。


 誠司の呼吸が止まる。


【緊急】


【C-3区画 退避経路封鎖】


【区画内人員:2名】


【退避経路再開放には管理者権限が必要です】


【仮管理者にて対応可能】


【対応しますか? Y/N】


 誠司は画面を見つめた。


 文字が頭に入ってこない。


 退避経路。


 封鎖。


 区画内人員、二名。


 管理者権限。


 仮管理者。


 対応しますか。


 Yか、N。


 画面の端に、さらに小さな情報が表示される。


【C-3区画内人員ステータス:負傷1名、動ける1名】


【推定残存酸素:43分】


 誠司の手が、マウスの上で止まった。


 背中を汗が伝う。


 冷たい汗だった。


 首筋からシャツの内側へ滑り落ちていく感触が、はっきり分かった。


「人員……」


 声が震えた。


 二人いる。


 負傷している人が、一人いる。


 もう一人は動ける。


 酸素が、四十三分。


 意味を知らなくても、これだけは分かった。


 誰かが閉じ込められている。


 誠司の視界の端が、少し暗くなった。


 自分が押していいのか。


 ただのデータ入力のアルバイトが。


 会社では替えが利くと言われた男が。


 家でも本当のことを言えず、嘘を重ねているだけの父親が。


 こんな画面の前で、誰かの逃げ道を開くかどうかを選んでいいのか。


 警告音が鳴り続ける。


 ぴ、ぴ、ぴ。


 天井の蛍光灯が白く光っている。


 壁の奥で機械が低く唸っている。


 誠司の呼吸だけが、浅く、乱れていた。


 画面の中央で、カーソルが静かに点滅している。


【Y/N】


 待っている。


 誠司の指を。



誠司は、動けなかった。


 画面の前で固まったまま、指だけが微かに震えている。マウスに触れている手のひらは汗で湿り、指先は氷のように冷たかった。喉の奥が乾ききって、唾を飲み込もうとしても、うまく動かない。


【対応しますか? Y/N】


 たった一文字を選ぶだけだった。


 だが、その一文字が、これまでのどんな仕事より重かった。


 会社で資料を直す時、間違えても誰かに叱られるだけだった。数字がずれても、会議で嫌味を言われるだけだった。腹は立つ。悔しい。けれど、それで誰かの息が止まるわけではない。


 今は違う。


 画面の向こうに、二人いる。


 負傷して動けない人がいる。


 もう一人は、その人を置いていけないのかもしれない。


 酸素が減っている。


 退避経路は塞がっている。


 誠司は、震える息を吐いた。


「俺が押していいのか、これ……」


 声は、作業室の冷たい空気に落ちて、すぐ消えた。


「俺はただの、データ入力だぞ」


 誰も答えない。


 天井の声も黙っている。


 柴田もいない。


 古い端末だけが、黒い画面の奥で静かに誠司を見つめているようだった。


 警告音が鳴る。


 ぴ、ぴ、ぴ。


 その音が、心臓の鼓動とずれて重なる。


 胸が痛い。


 逃げたい。


 誠司は椅子から立ち上がりかけた。


 自分では判断できない。誰かを呼べばいい。柴田に聞けばいい。外へ出て、受付の誰かに聞けばいい。そう思った。


 けれど、その間にも時間は減っていく。


【推定残存酸素:42分】


 一分減った。


 ただ画面を見ていただけで、一分減った。


 誠司の背中を、もう一筋、冷たい汗が伝った。


 その時、美咲の顔が浮かんだ。


 台所の蛍光灯の下で、疲れているのに笑っていた顔。


 陽菜の顔が浮かんだ。


 食卓で弟の足をそっと蹴った、あの小さな横顔。


 湊の顔が浮かんだ。


 「パパ、悪い怪獣倒してきた?」と真剣に聞いた、あの寝癖だらけの顔。


 帰れなくなる。


 その言葉が、胸の中に落ちた。


 画面の向こうの二人にも、誰かがいるのだろう。


 待っている人がいるのだろう。


 帰ってきたら温かいものを食べさせようとしている人。玄関の音に耳を澄ませている人。眠らずに、ただ朝を待っている人。


 誠司は、ゆっくり椅子に座り直した。


 膝が震えている。


 肩にも力が入らない。


 それでも、手をキーボードへ近づけた。


「……間違ってたら、すみません」


 誰に謝ったのか、自分でも分からなかった。


 誠司は、Yのキーを押した。


 小さな打鍵音が、作業室に響いた。


 かち。


 それだけだった。


 けれど、その音の後、画面が一斉に動き出した。


【仮管理者権限 確認中】


【作業者:佐藤誠司】


【退避経路C-3-α 開放準備】


【封鎖圧解除】


【周辺値確認中】


 誠司は息を止めた。


 画面の端に、細かな数値が流れていく。C-3、C-4、C-2。見たことのある項目と、見たことのない項目が混ざっている。赤く点滅していた表示が、ゆっくり黄色に変わり、次に白い線が一本、画面の図の中に現れた。


【退避経路C-3-α 開放中……】


 時間が長かった。


 実際には数秒だったのかもしれない。


 だが、誠司には、その数秒がひどく長く感じられた。


 空調の音。


 壁の奥の機械音。


 自分の荒い呼吸。


 額から落ちた汗が、頬を通り、顎の下で止まる感触。


 何もかもが、異様なほどはっきりしていた。


【開放完了】


 次の表示が出る。


【区画内人員 移動開始】


 誠司の手が机の縁を掴んだ。


 画面の図の中で、小さな二つの点がゆっくり動いていた。一つの点は、もう一つの点に寄り添うように進んでいる。速くはない。ひどく遅い。


 それでも、動いていた。


「行け……」


 誠司は思わず呟いた。


「頼むから、行ってくれ……」


 二つの点が、白い線の上を少しずつ進む。


 警告音は止まらない。


 ぴ、ぴ、ぴ。


 点が一瞬止まる。


 誠司の心臓も止まりかけた。


「なんで止まるんだよ……」


 画面の端に文字が出る。


【負傷者移送遅延】


 もう一つの点が、戻るように少し動いた。


 置いていかない。


 そういう動きに見えた。


 誠司は歯を食いしばった。


 何もできない。


 自分はここに座って、画面を見ることしかできない。


 あの白い線を開いた後は、祈ることさえ許されないような気がした。手を伸ばして支えることも、背中を押すことも、名前を呼ぶこともできない。


 ただ、二つの点を見る。


 それだけだった。


 やがて、点がまた動き出した。


 少しずつ。


 少しずつ。


 白い線の終端へ近づいていく。


 そして――。


【区画内人員の退避を確認】


 警告音が止まった。


 作業室に、深い静けさが降りた。


 それまで音に押しつぶされていた空気が、急に軽くなったようだった。蛍光灯の低い唸りが戻る。壁の奥の機械音が戻る。誠司の呼吸が戻る。


 誠司は、椅子の背にもたれた。


 全身の力が抜けた。


 手のひらは汗で濡れ、指先はまだ震えている。膝の震えも止まらない。喉の奥が痛い。自分がどれだけ息を詰めていたのか、今になって分かった。


「……よかった」


 声が漏れた。


 それは、誰にも届かないほど小さな声だった。


 画面に、新しい表示が出る。


【操作記録を更新しました】


【仮管理者:佐藤誠司】


【累積操作回数:14】


【適性評価:――再計測中】


 誠司は目を見開いた。


 自分の名前。


 そこに、はっきりと表示されている。


 佐藤誠司。


 仮管理者。


 累積操作回数。


 適性評価。


 どれも意味が分からない。


 ただ、普通ではないことだけは分かった。


「……俺、何の仕事してるんだ?」


 問いかけは、冷たい作業室に吸い込まれて消えた。


   *


 薄暗い分析棟で、一人の分析官がモニターの前に座っていた。


 窓のない部屋だった。


 壁には複数の画面が並び、青白い光が机の上に散っている。冷めたコーヒーの紙コップ。開いたままの資料。数本の赤いペン。空調の風が、紙の端を小さく震わせていた。


 分析官は、眼鏡の奥で目を細める。


 画面には、S.Sの操作ログが流れていた。


【操作回数:14】


【緊急対応:3】


【成功率:100%】


【三区画連動修正】


【退避経路能動開放】


【仮管理者権限 一時承認】


 分析官は黙っていた。


 指先だけが、机の上を軽く叩いている。


 とん。


 とん。


 とん。


 一定の間隔で鳴るその音が、部屋の静けさを測っているようだった。


 やがて、分析官は眼鏡を外した。


 こめかみを押さえる。


「十二年ぶりか」


 その声には、驚きよりも疲労が滲んでいた。


 画面の下部に、自動分類が表示される。


【監視対象:S.S】


【分類:要保護/要警戒】


【優先度:最上位】


 分析官は、しばらくその文字を見つめていた。


 守るべき相手。


 警戒すべき相手。


 その二つは、同じ人物を指していた。


 部屋の奥で、別の端末が短く鳴る。


 新しい通知。


 国家ダンジョン対策部隊からの照会。


 神代玲奈の報告書。


 榊原剛の閲覧記録。


 そして、古い管理端末から上がってきた作業者ID。


 分析官は眼鏡をかけ直し、静かにキーを叩いた。


 画面の青白い光が、その顔の輪郭だけを浮かび上がらせている。


「早すぎる」


 小さな呟きだった。


「まだ、本人は何も知らないはずなのに」


   *


 朝、誠司が家に帰ると、リビングの明かりがついたままだった。


 カーテンの隙間から、薄い朝日が差し込んでいる。テーブルの上には家計簿と電卓が置かれ、レシートが何枚か重なっていた。テレビは音量を絞ったままつけっぱなしで、早朝のニュースが流れている。


 美咲はソファで寝落ちしていた。


 膝の上にブランケットもかけず、片手にペンを持ったまま眠っている。眉間には、うっすら皺が寄っていた。眠っていても、何かを考え続けているような顔だった。


 誠司は足音を殺して近づき、テレビを消した。


 画面が黒くなる。


 部屋が少し静かになった。


 家計簿の数字が目に入る。


 赤い線。


 丸で囲まれた支払い日。


 小さく書かれた食費の残り。


 バイト代は、まだ一円も入っていない。


 誠司は唇を噛んだ。


 自分は夜の地下で、よく分からない画面に向かって汗をかいている。けれど、この家の苦しさは、まだ何も変わっていない。美咲は美咲で、削れるものを探しながら、朝を待っていたのだ。


 ソファの横に置いてあったブランケットを取り、美咲の肩にそっとかけた。


 その時、美咲が薄く目を開けた。


「……おかえり」


「ただいま。起こしたか」


「ううん」


 美咲は寝ぼけた目で誠司を見た。


 次の瞬間、その視線が、誠司の袖口で止まった。


 白い粉がついていた。


 地下施設の壁に触れた時についたのかもしれない。乾いた、細かな粉だった。黒いスーツの袖口に、薄く擦れた跡が残っている。


 誠司は気づいて、慌てて手で払おうとした。


「ああ、これは……」


 言葉が続かなかった。


 美咲は何も聞かなかった。


 ただ、ほんの少しだけ目を細めた。


 その沈黙は、前よりも深かった。


 水の底に落ちた石のように、言葉にならない不安がゆっくり沈んでいく。


「朝ごはん、作るね」


 美咲はそう言って起き上がろうとした。


「いいよ。もう少し寝てて」


「でも」


「俺がやる。味噌汁、温めるだけだろ」


 美咲は誠司を見た。


 何かを言いたそうだった。


 けれど、結局、小さく頷いた。


「……無理しないでね」


 同じ言葉だった。


 初勤務の夜にも聞いた言葉。


 けれど、今朝のそれは、少し違って聞こえた。


 誠司は頷いた。


「ああ」


 スマホが震えた。


 ポケットから取り出すと、見覚えのない通知が表示されていた。


【次回勤務予定:三日後】


【勤務継続の意志を確認してください】


【Y/N】


 誠司は画面を見つめた。


 怖かった。


 あの二つの点が止まった瞬間の冷たさが、まだ胸の奥に残っている。自分の指一本で、何かが決まってしまうかもしれない怖さ。知らないうちに、とんでもないものへ関わっているかもしれない不安。


 けれど。


【区画内人員の退避を確認】


 あの文字を見た時の安堵も、確かに残っていた。


 画面の向こうの誰かが帰れた。


 それだけは、たぶん間違いではなかった。


 誠司は、美咲の眠そうな顔を見た。


 家計簿を見た。


 子ども部屋の閉じた扉を見た。


 そして、震える親指で、Yを押した。


 二度目のYだった。


 送信完了の文字が出る。


 朝の光が、少しずつ部屋へ広がっていく。カーテンの隙間から差し込んだ細い光が、家計簿の上を照らし、電卓の数字を白く浮かび上がらせた。


 佐藤誠司は、まだ知らなかった。


 自分がYを押すたびに、世界のどこかで閉じかけた道が開いていることを。


 国家が動いていることを。


 S級探索者が、その名も知らない手を探し始めていることを。


 そして、十二年間ずっと入口を守っていた老人が、閉ざされた扉の内側で、今夜初めて少しだけ笑っていたことを。

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