第26話 S.S=佐藤誠司 〜普通は、誰かを帰す力である〜
分析棟の窓には、夜明け前の灰色が薄く張りついていた。
外はまだ暗い。けれど、完全な夜ではなかった。遠くのビルの輪郭だけが、墨を水で溶いたような空の中に沈み、低い雲の端がかすかに白み始めている。窓ガラスの内側には冷房の乾いた空気が当たり、指でなぞれば跡が残りそうなほど、うっすらと曇っていた。
内閣府ダンジョン対策室、分析棟。
その一角だけが、眠ることを忘れたように青白く光っていた。
並んだモニターの光が、黒瀬環の横顔を下から照らしている。画面の明るさに瞳孔が細くなり、長いまつ毛の影が頬へ落ちていた。机の上には冷めきった紙コップのコーヒーが置かれている。表面には油膜のような薄い輪が浮かび、蛍光灯の白を鈍く反射していた。
空調の音が、天井の奥で低く鳴り続けている。
その音の隙間に、キーボードを叩く乾いた音が混ざった。
たん、たん、たん。
一定の間隔ではない。迷いがある時は遅くなり、何かを見つけた瞬間だけ速くなる。黒瀬の指先は、冷たくなったキーの上を滑り、時折、止まった。止まるたびに、室内の静けさが重くなる。遠くで誰かが咳をした音がしたが、それすらすぐに吸い込まれた。
画面の左側には、保存済みの監視映像が表示されていた。
午前五時二十二分。
施設の通用口から出てくる、ひとりの男の背中。
映像は粗い。朝靄に濡れた防犯カメラのレンズは、輪郭をわずかに滲ませている。男は安い色のスーツを着て、肩を少し落として歩いていた。鞄は右手。背中は丸く、足取りは重い。急いでいるようで、急ぐ力すら残っていないようにも見えた。
何度も見た背中だった。
黒瀬は、その背中の傾きまで覚えてしまっていた。
通用口の外に出た男は、一度だけ立ち止まる。そこでスマートフォンを取り出した。画面の光が、まだ暗い朝の中で小さく浮かび、男の顎の辺りをぼんやり照らした。何かを確認している。数秒。ほんの数秒だけ、男の肩から力が抜けたように見えた。
そしてまた歩き出す。
黒瀬は再生を止めた。
画面の中で、男の背中が半端な姿勢のまま固まる。
「五時二十二分」
声は小さかった。だが、誰に聞かせるためでもないその声は、冷えた部屋の中で妙にはっきり響いた。
黒瀬は別の画面を開いた。施設周辺の交通記録。最寄り駅の改札通過時刻。利用区間。定期利用の有無。深夜帯の入場履歴。早朝帯の出場履歴。
数字が並ぶ。
数字は冷たい。感情を持たない。誰かが疲れていたことも、誰かが眠れていなかったことも、誰かが家族に短い返事を送ったことも、数字だけでは語らない。
それでも、数字は嘘をつかない。
午前五時二十二分に施設を出た人物が、最寄り駅へ向かう。徒歩。信号。早朝の交通量。歩行速度。疲労を考慮しても、改札通過は五時三十五分から五時四十五分の間。
黒瀬は条件を入力した。
五時三十五分から五時四十五分。
同駅通過。
月十回以上。
深夜二十三時前後にも同駅を利用。
検索結果が走る。
青白いバーが画面の端まで伸びる間、黒瀬は息を止めていた。胸の奥が狭くなる。空気は冷たいのに、背中の内側だけが熱い。指先が乾いて、キーボードに触れている感覚が少し遠のいた。
結果が表示された。
三件。
黒瀬は目を細めた。
一件目。定期券利用者。深夜帯利用なし。除外。
二件目。早朝帯のみ該当。月二回。除外。
三件目。
黒瀬の指が止まった。
空調の低い音が、急に遠くなった。
三件目の行だけが、画面の中で沈まずに残っているように見えた。文字の白が、網膜に焼きつく。黒瀬はまばたきをした。けれど、消えない。むしろ、まぶたの裏にまで浮かび上がる。
「……三件」
口にしてから、黒瀬はゆっくり首を振った。
「いえ」
喉が乾いていた。
「一件です」
クリック。
画面が切り替わる。
利用者情報が開いた瞬間、黒瀬は背筋を伸ばした。椅子の背もたれから体が離れる。長時間座り続けていたせいで腰が鈍く痛んだが、その感覚すら遠い。
そこに、名前があった。
氏名、佐藤誠司。
年齢、四十二歳。
住所、東京都葛飾区。
勤務先、東都精機システムズ株式会社。
職種、事務職。
黒瀬は画面を見つめたまま、しばらく動かなかった。
室内のどこかで、古い機材のファンが小さく唸っている。カタカタ、と誰かの机で書類がずれる音がした。窓の外では、風がビルの隙間を抜け、低い音を立てている。地上の植え込みにある細い草が、その風に押されて一斉に倒れ、また戻るのが見えた。まだ弱い朝の光が、濡れた葉の先で細かく砕けていた。
黒瀬はその景色を見ていなかった。
見ているのは、画面の中の名前だけだった。
「佐藤……誠司」
声にした途端、その名前はただの文字列ではなくなった。
誰かの呼び名になった。
誰かが家で呼ぶ名前になった。
誰かが会社で呼び捨てにするかもしれない名前になった。
誰かの子どもが、「パパ」と呼んでいるかもしれない人間になった。
黒瀬は別ウィンドウを開き、これまで積み上げてきた人物像と照らし合わせた。
男性。
年齢は三十代後半から五十代前半。
一般企業勤務の可能性。
居住地は東側の生活圏内。
家庭あり。
深夜入場、早朝退場の移動履歴。
ひとつ、またひとつ、条件が重なっていく。
チェック欄が白から青へ変わるたび、胸の奥で何かが締まった。追い続けてきた影が、輪郭を持ちはじめている。映像の中で肩を落としていた男が、交通記録の中の足跡と重なり、住所と勤務先と年齢を持つ。
最後の確認欄が点灯した。
判定、一致。
その二文字が画面に出た瞬間、黒瀬は息を吐いた。
長く、細い息だった。
肺の奥に溜まっていた冷たい空気が抜けていく。肩がわずかに落ちた。けれど、安堵ではなかった。達成感とも違う。もっと重いものが、静かに膝の上へ置かれたようだった。
黒瀬は、監視映像の画面へ視線を戻した。
午前五時二十二分。
通用口を出る背中。
あれは、佐藤誠司という男の背中だった。
国家が探していた人物。
何人もの命を、画面の向こうで帰してきた人物。
そして、おそらく本人はまだ、自分のしていることの重さを知らない。
黒瀬の喉が小さく鳴った。
画面の中の男は、相変わらず半端な姿勢で止まっていた。片足を前に出し、鞄を下げ、朝の薄暗がりへ出ていこうとしている。カメラの粗い粒のせいで顔は見えない。見えないからこそ、黒瀬はずっと、その背中に何かを重ねていた。
誰なのか。
なぜそこにいるのか。
何を背負っているのか。
何を守っているのか。
黒瀬は指先で机の端を握った。爪が白くなる。冷えた天板の感触が、皮膚に刺さるようだった。
「見つけました」
誰にも向けていない声が、また落ちた。
「あなたを、見つけました」
その言葉の後、すぐには何も起きなかった。
ただ、分析棟の朝が少しだけ明るくなった。
窓の外で、風が強くなった。植え込みの草が波のように揺れ、濡れた葉同士が擦れて、かさかさと乾いた音を立てる。遠くの道路を、始発へ向かう車が一台通った。アスファルトを踏むタイヤの音が硬く伸び、すぐにビルの谷間へ消えた。
黒瀬は次の画面を開いた。
本人確認用の顔写真。
カーソルが小さく震えていた。自分の指が震えているのだと気づくまでに、少し時間がかかった。
黒瀬は唇を結んだ。
クリックした。
画面が白く切り替わる。
その一瞬、部屋の光が強くなったように見えた。
そして、佐藤誠司の顔が表示された。
画面の中にいたのは、英雄の顔ではなかった。
鋭い目をした指揮官でも、白衣を着た研究者でも、国家の奥深くに名を隠す特別な人間でもない。
四十二歳の男。
少し猫背で、頬の肉はわずかに落ち、目の下には濃い隈がある。短く整えた髪には白いものが混じっていた。無理に笑えば人のよさそうな顔になるのだろうが、写真の中では口元が固く、どこか疲れている。長い時間、自分のことを後回しにしてきた人間の顔だった。
黒瀬は画面から目を離せなかった。
蛍光灯の白い光が、写真の上に薄く乗っている。モニターの端に反射した自分の顔が、幽霊のように重なった。黒瀬はわずかに身を引いた。胸の奥で、何かが静かに崩れた気がした。
「……普通の、お父さんだ」
声は掠れていた。
言ってから、もう一度その顔を見た。
「普通の……お父さんじゃないか」
その言葉が部屋の中に落ちた途端、分析棟の静けさが重さを増した。空調の音も、機材の低い唸りも、遠くで紙をめくる音も、すべてが遠ざかる。世界が一枚の厚いガラスの向こう側へ沈んでいくようだった。
黒瀬の目の奥が熱くなった。
午前五時二十二分の背中が、目の前の顔と重なる。
深夜に施設へ入り、朝になる前に出てくる。誰にも見送られず、誰にも称えられず、安い鞄を下げて駅へ向かう。おそらく満員電車に乗り、眠気に耐えながら会社へ行く。机に座り、書類を処理し、上司か同僚に何かを押しつけられることもあるのかもしれない。
それでも夜になれば、またあの場所へ戻る。
画面の向こうで数字を直し、赤い表示を消し、誰かが帰れる道を開ける。
そして朝になれば、スマートフォンを見る。
家から届いた短い連絡を確認する。
子どものことかもしれない。妻のことかもしれない。今日の朝食のことかもしれない。洗濯物のことかもしれない。そんな、どこにでもある生活の小さな言葉が、午前五時過ぎの冷たい空気の中で、この男の肩からほんの少し力を抜かせていた。
黒瀬は唇を噛んだ。
兄の顔が浮かんだ。
特別な顔ではなかった。人混みに紛れれば、すぐに見失ってしまうような顔だった。寝癖を直さずに出かけて、母に怒られて、笑って誤魔化すような人だった。安い店の唐揚げが好きで、傘を持たずに出て雨に降られ、ずぶ濡れで帰ってきて玄関で笑っていた。
あの日も、きっと普通の顔で出ていった。
帰るつもりで。
夕飯を食べるつもりで。
何でもない顔で、また家のドアを開けるつもりで。
けれど、帰ってこなかった。
黒瀬の視界が滲んだ。
涙が落ちる前に、彼女は強くまばたきをした。目の縁に溜まった熱が、痛みに変わる。鼻の奥がつんとした。握った手の中で爪が掌に食い込んでいる。痛みがなければ、椅子から崩れてしまいそうだった。
佐藤誠司。
この男は帰っている。
毎晩、危うい場所に手を伸ばしながら、それでも帰っている。
家族のもとへ。
それがどれほど難しいことなのか、黒瀬にはわかった。命を救うことだけがすごいのではない。救った後、自分も帰ること。家族の前で、ただ疲れた父親の顔に戻ること。その繰り返しを続けていること。
画面の中の男は、何も知らないような顔をしていた。
自分が誰に探されているのかも。
誰に感謝されているのかも。
誰の喪失の先に立っているのかも。
知らないまま、ただ働いている。
黒瀬は袖口で目元を押さえた。白い布にほんの少し湿り気が移る。すぐに姿勢を正し、机の端に置いていた資料をまとめた。
もう、止まってはいられない。
椅子が床を擦る音がした。硬い音だった。分析棟の床は冷えていて、靴底が触れるたびに小さな反響が返ってくる。黒瀬は端末から必要な記録を出力し、薄いファイルに挟んだ。紙はまだ温かい。機械から吐き出されたばかりの熱が、指先に残った。
通路へ出ると、朝の光が少し増えていた。
長い廊下の窓から、低い太陽が斜めに差し込んでいる。磨かれた床に、窓枠の影が細長く伸びていた。人の気配は少ない。夜勤明けの職員が一人、紙コップを持って向こうから歩いてきた。靴音が、こつ、こつ、と乾いて響き、黒瀬の前を通り過ぎる時だけわずかに弱くなった。
誰も声をかけなかった。
黒瀬の顔に、何かを読み取ったのかもしれない。
会議室の前で、黒瀬は一度足を止めた。
扉の金属製の取っ手が、朝の冷気を吸って冷たくなっている。触れた瞬間、指先から体の芯へ細い寒さが走った。彼女は短く息を吸い、扉を開けた。
上司はすでに席についていた。
机の上には開いた資料が置かれ、カップの中のコーヒーから薄い湯気が立っている。窓際の観葉植物の葉が、空調の風を受けてわずかに揺れていた。葉と葉が触れ合い、乾いた小さな音を立てる。その音が、会議室の静けさをより深くしていた。
「報告を」
上司の声は短かった。
黒瀬はファイルを置いた。
「S.Sの身元を特定しました」
紙の端が机に触れる音が、やけに大きく響いた。
「佐藤誠司。四十二歳。東都精機システムズ株式会社勤務。職種は事務。東京都葛飾区在住。妻と、小学生の子どもが二人います」
上司の表情は変わらなかった。
ただ、資料へ落とした視線が少しだけ鋭くなった。
黒瀬は続けた。
「早朝の施設退出映像と、最寄り駅の交通記録を照合しました。深夜帯と早朝帯の利用履歴、利用回数、移動時間、生活圏、推定年齢、すべて一致しています」
「本人の認識は」
「低いと思われます」
黒瀬の声は、そこで少しだけ沈んだ。
「深夜バイトとして管理端末の操作に従事している可能性が高いです。業務の本質を、正確には知らされていないと見ます」
上司は資料をめくった。
紙が擦れる音が、部屋の中で薄く広がる。
「接触はどうする」
黒瀬はすぐに答えなかった。
目の前に、もう一度あの顔が浮かんだ。疲れた四十二歳の男。目の下に隈を作り、それでも帰る場所を持っている人間。
彼女は静かに息を吸った。
「慎重に進めるべきです」
言葉が、胸の奥から出た。
「この人物は、一般の民間人です。拘束や強い聞き取りは逆効果になります。怯えさせれば、こちらへの不信を生むだけです」
「だが、放置もできない」
「はい」
黒瀬は頷いた。
「オービットゲート社が管理者の存在に近づいています。民間側に先に特定された場合、利用される恐れがあります。本人だけでなく、家族も危険に晒されます」
家族、という言葉を口にした瞬間、黒瀬の喉がわずかに詰まった。
上司はそれに気づいたようだったが、何も言わなかった。
「では、優先すべきは」
「保護です」
黒瀬はまっすぐ言った。
「拘束ではなく、保護。聞き取りではなく、信頼関係の構築。佐藤氏が自分から話せる形を作る必要があります」
「方法は」
「探索者部隊の榊原指揮官を経由することを提案します」
上司の眉がわずかに動いた。
「理由は」
「佐藤氏は毎晩、施設の老警備員と短いやり取りをしています。現場の人間への警戒は、官僚や制服組に比べて低い。榊原指揮官は現場を知っています。命を預ける側の言葉で話せます」
黒瀬は一拍置いた。
「それに、佐藤氏は家庭を持つ父親です。肩書きで迫るより、人として会うべきです」
会議室に、長い沈黙が落ちた。
ただ黙っているだけの時間ではなかった。
空調の風で、観葉植物の葉がまた擦れた。窓の外を車が通り、低い走行音が一瞬だけ近づき、すぐに遠ざかった。上司のカップから立つ湯気が細く揺れ、やがて消えた。
黒瀬は背筋を伸ばしたまま、返答を待った。
掌には汗が滲んでいた。だが、声は震えなかった。
やがて上司は資料を閉じた。
「榊原に連絡を取れ」
「はい」
「接触計画を立てる。ただし、佐藤誠司本人に圧力をかけるな。家族にも触れるな。先に守る」
黒瀬は深く頷いた。
「承知しました」
会議室を出た時、廊下には朝が来ていた。
窓から差し込む光が、さっきよりも明るい。床に伸びる影は薄くなり、空気の冷たさの中に、わずかな乾いた温度が混じり始めている。外の植え込みでは、細い草が風に揺れていた。夜明けの水滴をまとった葉先が、小さな光をいくつも跳ね返している。
黒瀬は自席へ戻った。
端末の前に座ると、モニターはまだ佐藤誠司の情報を表示していた。彼女はしばらくそれを見つめた後、顔写真をもう一度開いた。
疲れた顔。
でも、帰る場所がある顔。
黒瀬は画面に向かって、小さく頭を下げた。
「佐藤さん」
声は、誰にも届かないほど静かだった。
「あなたに会ったら、最初にお礼を言わせてください」
目の奥がまた熱くなる。
けれど今度は、涙をこらえなかった。
頬を伝った一筋が、顎の下で止まり、白いシャツの襟に落ちた。小さな染みが広がる。それでも黒瀬は画面から目を逸らさなかった。
「兄の代わりに」
朝の光が、モニターの端で淡く滲んだ。
「ありがとう」




