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減給された40代社畜、深夜バイトで国家級ダンジョンの管理者になる  作者: Gaku
第1部:深夜バイト編

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第25話 怖いの 〜帰る場所は約束である〜

日曜日の朝は、いつもより少しだけ音が薄かった。


 平日なら、台所の換気扇の音に、子どもたちの足音と誠司の慌ただしい声が重なる。陽菜がランドセルの中身を確認し、悠真が寝癖を直さないまま食卓に座り、美咲が味噌汁の火を弱めながら「ハンカチ持った?」と声をかける。


 けれど今日は、その全部がなかった。


 子どもたちは、近所の友達家族と一緒に午前中から出かけている。玄関には小さな靴が二足分だけ空いた隙間を残し、家の中には夫婦二人分の静けさが広がっていた。


 美咲は台所に立っていた。


 窓から入る午前の光が、シンクの縁に白く反射している。洗い終えた茶碗の水滴が、一つずつ光を抱いていた。外では風が吹き、ベランダに干したタオルがゆっくり揺れている。布が空気を含んで膨らみ、またしぼむたび、物干し竿が小さく鳴った。


 からん。


 その音が、妙に大きく聞こえた。


 美咲は手を止めた。


 指先には、まだ洗剤の匂いが残っている。爪の横が少し乾いて、細く白くなっていた。手荒れは自分にもある。毎日、食器を洗い、洗濯物を干し、子どもたちの服を畳み、家計簿をつけ、足りないものを買い足している。


 けれど、誠司の手の荒れ方は違った。


 指の腹がざらつき、爪の隙間に落ちにくい汚れが残っている日がある。会社の書類とパソコンだけでできる荒れ方ではなかった。夜勤明けの朝、彼が洗面所で手を洗っている時、ふと見えたその手が、ずっと胸に引っかかっている。


 美咲はテーブルへ視線を向けた。


 そこには小さなメモ帳が置いてある。


 何かを書き出したわけではない。書けば、取り調べのようになる気がした。問い詰めるために集めた証拠みたいに見えてしまう。それが嫌で、ペンは持たなかった。


 でも、頭の中には全部あった。


 袖口についた白い粉。


 洗濯物に残った、知らない土のような匂い。


 手の荒れ。


 右目の赤さ。


 鼻血。


 寝言。


 安定値。


 区画。


 夜勤を始めてから、少しずつ落ちた体重。


 前より増えたはずの収入。


 でも、外食に行けるほどの余裕が急にできたこと。


 一つ一つなら、説明はつくのかもしれない。


 疲れているから。


 空気の悪い場所で働いているから。


 夜勤だから。


 時給が上がったから。


 体調を崩しているから。


 誠司は、きっとそう言う。


 美咲にも、それを受け入れることはできた。ひとつだけなら。ふたつだけなら。


 けれど、小さな違和感が毎朝ひとつずつ増えていく。


 洗濯かごの底に残った砂粒のように。拭いても拭いても、どこからか入り込んでくる細かな埃のように。見ないふりをすればするほど、それは生活の隅で静かに積もっていった。


 美咲は冷蔵庫に目を向けた。


 陽菜が描いた家族の絵が貼ってある。


 ママは大きい。陽菜と悠真も笑っている。パパは少し小さい。けれど、絵の中にはちゃんといる。家族の端に、遠慮するように立っている。


 美咲はその絵を見て、胸の奥が細く痛んだ。


 パパが小さいことに、誠司は気づいているのだろうか。


 気づいたとして、笑って流すのだろうか。


 それとも、見ないふりをするのだろうか。


 寝室の方から、かすかな物音がした。


 布団が擦れる音。


 誠司が起きる。


 美咲の背中に、冷たいものが走った。


 怒っているわけではない。


 本当に、怒っているわけではなかった。


 夜に働きに出て、朝に帰り、昼まで眠り、また会社へ行く。そんな生活がどれだけきついか、美咲にも分かる。家計のために無理をしていることも分かっている。責めたいなら、もっと早く責めていた。


 でも、怖かった。


 帰ってくるたび、誠司の顔が少しずつ遠くなる。


 疲れているのに、目だけが前より生きている。


 痩せているのに、何かを背負うような顔になっている。


 美咲の知らない場所で、夫が別の何かになっていく。その感じが、どうしようもなく怖かった。


 寝室の扉が開いた。


 誠司が廊下に出てくる。


 髪は少し乱れていた。顔色もよくない。寝起きのせいだけではない。頬の線が前より少し細く、目の下には薄い影がある。右目の赤みは薄くなっていたが、完全には消えていなかった。


「……おはよう」


 誠司の声は掠れていた。


「おはよう」


 美咲は答えた。


 自分の声が、思ったより普通に出たことに少し驚いた。


 誠司は台所の方を見て、それからリビングを見回した。


「あれ、陽菜たちは?」


「朝から出かけたよ。お昼過ぎまで帰らない」


「そっか」


 誠司は小さく頷いた。


 何でもない会話。


 いつもの日曜日なら、ここで「少し寝すぎたかな」と言って、誠司は冷蔵庫を開ける。美咲は「ごはん温める?」と聞く。テレビの音が薄く流れて、時間がゆっくり過ぎていく。


 でも今日は、違った。


 美咲はテーブルの椅子を引いた。


 脚が床を擦る音が、静かな部屋に硬く響く。


 誠司が顔を上げた。


 その瞬間、美咲の喉が詰まった。


 言わなければ。


 今、言わなければ、また飲み込んでしまう。


 飲み込んだ言葉は消えない。胸の奥に沈み、次の日には少し重くなる。そうやって積もったものが、いつか二人の間に壁を作る。


 美咲は両手を前で組んだ。


 指先が冷たい。


 息を吸うと、台所の味噌汁の匂いと、洗い立ての布巾の匂いが混ざって胸に入ってきた。窓の外で、タオルが風に揺れている。物干し竿がまた小さく鳴った。


 からん。


 その音が止んでから、美咲は口を開いた。


「あなたのこと、ちゃんと聞きたいの」


 誠司の表情が、ほんの少し固まった。


 室内の空気が止まったように感じた。


 冷蔵庫の低い動作音。


 時計の針の小さな音。


 遠くの道路を走る車のかすかな音。


 それらが一つずつ耳に届くほど、二人の間は静かだった。


 誠司は何も言わない。


 美咲も、すぐには続けられなかった。


 けれど、ここで目を逸らしたら、もう言えなくなる。


 美咲は震えそうになる声を、両手で押さえるようにして言った。


「怒りたいんじゃないの」


 誠司の目が揺れた。


「ただ……知らないままでいるのが、もう怖いの」


誠司は、椅子に座らなかった。


 立ったまま、美咲を見ていた。


 寝起きの髪は乱れ、シャツの襟元は少しよれている。右目の赤みを隠すように、何度かまばたきをした。けれど、その動きがかえって痛々しかった。


 美咲は、テーブルの椅子に座った。


 座らなければ、膝が震えると思った。


 窓の外では、ベランダのタオルが風に揺れている。白い布が陽射しを受けてふくらみ、すぐに力を失ったように垂れる。そのたびに物干し竿が、からん、と小さく鳴った。


 美咲は、その音が止まるのを待った。


 待たなければ、声が震えすぎる気がした。


「袖に、白い粉がついてた日があった」


 誠司の肩がわずかに動いた。


「洗濯物に、知らない匂いが残ってた。土みたいな、地下みたいな……会社でも普通の事務所でもない匂い」


「美咲」


「手も」


 誠司の声を遮った。


 責めるためではなかった。止まれば、もう言えなくなると思った。


「手の荒れ方も変わった。前は、紙で切ったり、乾燥したり、そういう荒れ方だった。でも最近は違う。爪の間に落ちにくい汚れが残ってる。指の腹も硬くなってる」


 誠司は無意識に自分の手を見た。


 その仕草だけで、美咲の胸は痛んだ。


 隠していたのだ。


 気づかれないと思っていたのではない。気づかれたくなかったのだ。


「目も赤い。鼻血も増えた。体重も落ちてる。寝言で、知らない言葉を言ってる。安定値とか、区画とか……わたしには分からない言葉」


 リビングの時計が一つ鳴った。


 かちり。


 それだけの音が、二人の間に落ちた。


 誠司は、まだ立ったままだった。


 美咲は膝の上で両手を握った。指先が冷たい。手のひらには、じっとり汗が滲んでいる。


「時給が上がったって言ってたよね」


「ああ」


「それで少し楽になった。外食にも行けた。子どもたちも喜んでた」


 美咲は一度、冷蔵庫の絵を見た。


 小さなパパ。


 でも、ちゃんとそこにいるパパ。


「嬉しかったよ。ほんとに嬉しかった。生活が少し楽になって、あなたも前より何かに必要とされてるみたいで」


 誠司の喉が動いた。


 何か言おうとしているのが分かった。


 でも、美咲は首を振った。


「でもね、嬉しいのと、怖いのは、同時に来るんだよ」


 その言葉を出した瞬間、胸の奥に押し込めていたものが崩れた。


 目の奥が熱くなる。


 泣きたくなかった。泣けば、誠司を追い詰める。そう思って、ずっと我慢してきた。けれど、喉の奥が勝手に震えた。


「わたし、一回もちゃんと聞かなかったでしょ」


 誠司は何も言わなかった。


「追い詰めたくなかったから。あなたが家のために頑張ってるのは分かってたから。わたしが聞いたら、あなたはきっと困ると思ったから」


 美咲の声が細くなる。


 窓の外で、風が強く吹いた。


 タオルが大きく膨らみ、ベランダの手すりに影が揺れた。陽射しの中を細かな埃が漂っている。台所の水切りかごに残った水滴が、一つ落ちた。


 ぽたり。


 その音が、胸の内側まで響いた。


「でも、もう怖いの」


 誠司の顔が歪んだ。


 美咲は、そこで初めて涙を落とした。


 頬を伝う涙は温かいのに、指先は冷たいままだった。


「怒ってるんじゃないの」


 声が震えた。


「怖いの」


 誠司の目が、逃げずにこちらを見ていた。


 その目が赤い。


 疲れている。


 それなのに、以前よりずっと遠くを見ている。


「あなたが……どこかに行っちゃいそうで」


 言葉にした瞬間、我慢していたものが胸からこぼれた。


「帰ってくるたびに疲れてて、目が赤くて、痩せてて。でも、目だけは前より生きてて。それが余計に怖いの。わたしの知らない場所で、あなたがどんどん遠くなっていくみたいで」


 誠司は、ゆっくり椅子を引いた。


 脚が床を擦る音がした。


 その音は短いのに、やけに重かった。


 誠司は美咲の向かいに座った。


 二人の間には、何も置かれていない。


 いつもなら食器がある。子どもたちのコップがある。新聞がある。家計簿がある。生活の細々したものが、会話の逃げ道になってくれる。


 でも今は、何もなかった。


 ただ、向かい合うしかなかった。


「ごめん」


 誠司の声は低かった。


 美咲は首を振った。


「謝ってほしいんじゃない」


「それでも、ごめん」


 誠司は自分の手を見た。


 荒れた指。薄く残った傷。爪の横の赤み。


「全部は言えない」


 美咲の胸が、きゅっと縮んだ。


 誠司は顔を上げた。


「仕事の決まりがある。本当に、言えないことがある」


「……うん」


「でも、ただのデータ入力じゃないのは、その通りだ」


 美咲は息を止めた。


 分かっていた。


 分かっていたはずなのに、本人の口から聞くと、足元が少し沈むような気がした。


 台所の冷蔵庫が低く唸っている。


 外の道路を車が一台通り過ぎる。


 遠くで子どもの笑い声がした。どこかの家の子だろう。明るい声だった。その明るさが、この部屋だけ別の場所に沈んでいるように感じさせた。


「危ないことをしてるの?」


 美咲は聞いた。


 聞きたくなかった。


 でも、聞かなければいけなかった。


 誠司はすぐには答えなかった。


 その沈黙だけで、答えは半分分かった。


 美咲の背中に、冷たい汗が滲んだ。


「少しだけ」


 誠司は言った。


「危ない時もある」


 美咲は唇を噛んだ。


 責める言葉が喉まで上がった。


 どうして。


 なぜ言わなかったの。


 家族はどうするの。


 子どもたちは。


 わたしは。


 けれど、その言葉をそのまま投げれば、誠司はきっと黙る。もっと奥へ行ってしまう。


 美咲は両手を握りしめた。


 爪が手のひらに食い込む。


「やめてって言ったら、やめられる?」


 誠司の顔に、痛みが走った。


 美咲は、それで分かった。


 やめられない。


 少なくとも、今すぐには。


 誠司は、嘘をつこうとすればつけたはずだった。やめられるよ、と言えば、美咲は一度だけ安心できたかもしれない。


 でも、誠司は言わなかった。


「……すぐには、無理だと思う」


 美咲は目を閉じた。


 涙がまつげに溜まり、頬へ落ちた。


 苦しかった。


 でも、不思議なことに、完全に絶望したわけではなかった。


 誠司が嘘をつかなかったからだ。


「嘘はつきたくない」


 誠司は言った。


「全部を話せる日が来るまで、もう少しだけ待ってほしい」


 美咲は目を開けた。


 誠司の顔は、ひどく疲れていた。


 それでも、逃げてはいなかった。


 これまでずっと、何かをごまかしてきた人の顔ではない。言えないものを抱えたまま、それでも嘘だけは減らそうとしている人の顔だった。


 誠司はそっと手を伸ばした。


 テーブルの上で、美咲の手に触れる。


 荒れた手同士が重なった。


 誠司の手は温かかった。


 その温かさに触れた瞬間、美咲は声を出さずに泣いた。


 肩が震える。


 息がうまく吸えない。


 台所の匂い。午前の光。風に揺れる洗濯物。冷蔵庫に貼られた絵。全部が滲んで見えた。


「一つだけ」


 美咲は、涙の間から言った。


「一つだけ、約束して」


「何だ」


「帰ってきて」


 誠司の手が、わずかに強くなった。


「毎晩、必ず帰ってきて」


 美咲は誠司を見た。


「朝ごはん、わたしが作るから」


 誠司の目が揺れた。


 その奥に、何か深い場所から戻ってきたような影が見えた気がした。


 美咲には、その理由は分からない。


 でも、この言葉だけは届いたと分かった。


「……約束する」


 誠司は低く言った。


「必ず帰ってくる」


 美咲は頷いた。


 信じきれるわけではない。


 怖さが消えたわけでもない。


 それでも、何も知らないまま遠ざかる背中を見送るより、ずっとましだった。


 二人はしばらく手を重ねたまま黙っていた。


 沈黙は、さっきまでのように冷たくはなかった。


 冷蔵庫の音。


 風に揺れる洗濯物の音。


 外を通る自転車の軽い音。


 生活の小さな音が、少しずつ部屋へ戻ってきた。


     *


 午後になって、子どもたちが帰ってきた。


 玄関の扉が開くなり、悠真の元気な声が飛び込んできた。


「ただいまー!」


 靴を脱ぐ音がばたばたと続く。


 陽菜は少し遅れてリビングに入ってきた。手には友達の家でもらった小さな紙袋を持っている。頬が風に当たったせいで、ほんのり赤い。


「ママ、これもらった」


「ありがとう。楽しかった?」


「うん」


 陽菜はそう答えた後、美咲の顔を見た。


 それから、誠司の顔を見た。


 子どもは、思っているよりよく見ている。


 美咲の目が少し赤いことも、誠司の表情がいつもより柔らかいことも、陽菜はきっと気づいた。


 でも、何も聞かなかった。


 代わりに、冷蔵庫の前へ行った。


 そこには家族の絵が貼ってある。


 陽菜はしばらくそれを見ていた。


 美咲は台所で紙袋を受け取りながら、その小さな背中を見守った。


「ママ」


「なあに」


「パパの絵、ちょっとだけ描き直していい?」


 誠司が顔を上げた。


 陽菜は冷蔵庫から絵を外し、色鉛筆の入った箱を持ってきた。テーブルに紙を置く。小さな指で、前に描いたパパの輪郭をなぞった。


 誠司は何も言わずに見ていた。


 陽菜は、パパの絵を少しだけ大きく描き足した。


 ママほど大きくはない。


 でも、前よりは確かに大きい。


 肩の線を少し広げ、顔もほんの少し丸くした。手も、前より長くした。家族の端にいたパパが、少しだけ真ん中へ近づいた。


「できた」


 陽菜は満足そうに言った。


「パパ、ちょっとだけ大きくなったから」


 誠司は、すぐには返事をしなかった。


 目を細め、絵を見ている。


 その横顔を見て、美咲は胸の奥がまた熱くなった。


「そうか」


 誠司はようやく言った。


「ありがとう、陽菜」


「うん」


 陽菜は照れたように笑い、絵を冷蔵庫へ戻した。


 磁石で留められた紙が、少し揺れる。


 窓から入る夕方の光が、その絵を淡く照らしていた。


     *


 夜になった。


 子どもたちが眠り、家の中は静かになった。


 リビングの灯りは落とされ、台所だけに小さな明かりが残っている。鍋の中には、明日の朝の味噌汁の具が用意されていた。卵焼き用の卵も、冷蔵庫の手前に出してある。炊飯器の予約表示が、暗い台所で小さく光っていた。


 誠司は玄関で靴を履いていた。


 美咲はその背中を見ていた。


 何度も見送ってきた背中だ。


 平日の朝も、雨の日も、疲れた夜も。


 でも今夜の背中は、昨日までとは少し違って見えた。


 秘密はまだある。


 怖さも消えていない。


 それでも、背中と家の間に細い糸が結ばれたような気がした。


 誠司が立ち上がる。


「行ってきます」


 美咲は、息を吸った。


 玄関の灯りが、誠司の横顔を柔らかく照らしている。外は暗い。扉の向こうには、冷たい夜の空気がある。


「行ってらっしゃい」


 美咲は言った。


 そして、少しだけ間を置いた。


「帰ってきてね」


 誠司は扉に手をかけたまま振り返った。


 疲れた顔だった。


 でも、目は逃げていなかった。


「帰ってくるよ」


 美咲は頷いた。


 扉が開く。


 夜の風が玄関に入り込み、足元を冷たく撫でた。外ではどこかの木の葉が擦れ、乾いた音を立てている。遠くの車の音が、低く流れていた。


 誠司は夜の中へ出ていった。


 扉が閉まる。


 美咲はしばらく、その扉を見つめていた。


 すぐには動けなかった。


 廊下の空気には、誠司の靴音の余韻が残っているようだった。ひとつ、ひとつ、遠ざかっていく足音。聞こえなくなってからも、胸の中ではまだ続いていた。


 やがて美咲は台所へ戻った。


 明日の朝ごはんの支度をするために。


 卵を取り出し、箸を置き、味噌汁の鍋を確認する。炊飯器の表示をもう一度見る。


 帰ってくる人のために。


 その準備をする。


 それだけのことが、今夜は祈るように大切だった。


     *


 リビングのテレビは、音を絞ったままついていた。


 ニュース番組の画面に、スーツ姿の男が映っている。整った顔立ちで、冷静な口調の男だった。画面の下には会社名と肩書きが流れていたが、美咲は台所にいて、それをきちんとは見ていなかった。


 男は、何か大きな計画について話していた。


 社会を守る。


 新しい仕組みを作る。


 人の手に頼らない安全を目指す。


 そんな言葉が、低い音量で部屋の隅に流れていた。


 美咲はテレビを消した。


 画面が暗くなり、リビングには台所の灯りだけが残った。


 佐藤誠司は知らない。


 その夜、画面に映っていた男が、やがて自分の名前を知ることを。


 そして、自分の世界を静かに揺るがしていくことを。


 けれど今夜の誠司は、少しだけ幸せだった。


 娘が描き直してくれたパパの絵と、妻が言ってくれた「帰ってきてね」が、まだ胸の中で温かかったから。

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