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減給された40代社畜、深夜バイトで国家級ダンジョンの管理者になる  作者: Gaku
第1部:深夜バイト編

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第24話 すれ違い 〜会いたい人は、すぐ隣にいる〜

辞令の紙は、思っていたよりも軽かった。


 犬飼陸斗は、それを両手で持ったまま、しばらく動けずにいた。


 窓から差し込む午後の光が、紙の白さを眩しく浮かび上がらせている。薄い繊維の筋まで見えるほどの光だった。机の上には小さな埃が舞い、光の帯の中でゆっくり浮かんでは沈んでいく。


 部屋の外では、人の足音が忙しなく行き交っていた。


 硬い靴音。扉の開閉音。誰かが短く返事をする声。どこか遠くで機器の警告音が一度だけ鳴り、すぐに止まる。


 だが、犬飼の耳には、そのどれも少し遠かった。


 紙に印字された文字だけが、目の奥に焼き付いている。


【C級探索者・犬飼陸斗を、B級に昇格する】


 その下に、推薦者の名前があった。


【推薦者:S級探索者・神代玲奈】


 犬飼は、ゆっくり息を吐いた。


 胸の奥が熱い。嬉しいのか、怖いのか、自分でもうまく分からない。ただ、紙を持つ指先に力が入り、端がほんの少し曲がった。


「折れるわよ」


 静かな声がした。


 顔を上げると、神代玲奈が窓際に立っていた。


 午後の光を背に受けているせいで、輪郭が細く輝いて見える。髪の先がわずかに揺れていた。窓は閉まっているのに、空調の弱い風が室内を通り、紙の端をかすかに震わせている。


 犬飼は慌てて指の力を抜いた。


「す、すみません」


「謝ることじゃないわ」


 玲奈は少しだけ目を細めた。


「あなたが取ったものよ」


 その言葉に、犬飼はすぐ返せなかった。


 自分が取った。


 そう言われても、胸の奥では違う声がした。


 違う。


 あの時、引き戻してくれた人がいた。


 暗い場所で、もう駄目だと思った瞬間、自分を無駄に死なせなかった誰かがいた。


 自分一人でここに立っているわけではない。


「……管理者さんのおかげです」


 犬飼は小さく言った。


 玲奈は黙って聞いていた。


 沈黙が落ちる。


 けれど、それは冷たい沈黙ではなかった。犬飼の言葉が床に落ちて割れないよう、そっと受け止めるような静けさだった。


 外では風が強くなった。


 窓の向こうの街路樹が揺れる。葉の表と裏が交互に光り、ざわざわと波のようにうねった。ガラス越しに届く葉擦れの音は薄く、まるで遠い海の音に似ていた。


「俺、あの人に救われて、分かったんです」


 犬飼は辞令の紙を見下ろした。


「強くなるって、死にに行くことじゃないんだって。誰かに認められたいとか、馬鹿にされたくないとか、そういうので突っ込んだら駄目なんだって」


 喉が少し詰まる。


 思い出すと、まだ怖い。


 あの時の暗さ。足元が消える感覚。冷たい汗が背中を流れ、喉が乾ききって、息を吸っても肺に入らなかった感覚。


 それでも、あの光を思い出すと胸が温かくなる。


「無駄に死ぬのは、駄目なんだって」


 玲奈は、静かに頷いた。


「それが分かったなら、B級になる意味はあるわ」


「でも、俺、本当に大丈夫ですかね」


「不安?」


「はい」


 犬飼は素直に言った。


 言ってから、少しだけ恥ずかしくなった。けれど玲奈は笑わなかった。


「不安を消さなくていい」


 玲奈は窓の外へ目を向けた。


「不安がある人間は、確認する。立ち止まる。仲間を見る。怖くないふりだけで進む人間より、ずっと生き残る」


 その声は、柔らかいのに重かった。


 犬飼は辞令の紙を胸の前で持ち直した。


「俺、ちゃんと礼を言いたいです」


「管理者に?」


「はい」


 その二文字を口にするだけで、胸の奥が熱を持つ。


 管理者。


 まだ顔も知らない。声も、はっきり覚えているわけではない。そもそも人なのかどうかさえ、犬飼には分からない。


 それでも、その存在は確かに自分の中にいる。


 暗い場所から引き上げてくれた手のように。


「会ったら、まず何て言おうか、ずっと考えてるんです」


 犬飼は苦笑しようとして、失敗した。


 胸が詰まって、口元がうまく動かない。


「ありがとうございます、だけじゃ足りない気がして。でも、それ以外に何を言えばいいのか分からなくて」


 玲奈は犬飼を見た。


「言葉を用意しすぎると、会った時に言えなくなるわよ」


「え」


「本当に会えたら、その時のあなたの顔で伝わる」


 犬飼は目を瞬かせた。


 顔で伝わる。


 そんなことを考えたことはなかった。


 自分の顔は、頼りなくて、すぐ焦って、すぐ情けなくなる。けれど、もし本当に管理者の前に立てたら、その情けなさも込みで、救われた人間の顔になるのかもしれなかった。


 玲奈は机の上に畳んだ地図を置いた。


 紙が机に触れる乾いた音が、室内に小さく響いた。


「今夜、推定位置を確認しに行く」


 犬飼の背筋が伸びた。


「今夜ですか」


「ええ。昼間は人目が多い。夜の方が建物の出入りを見やすいわ」


 玲奈は地図を広げた。


 数本の線が、一点へ向かって伸びている。


 犬飼はその一点を見つめた。何度見ても、普通の街の一角にしか見えない。けれど、そこへ光が集まっている。自分を救った光が、そこから来たかもしれない。


 そう思うと、紙の上の小さな点が、心臓のように脈打って見えた。


「近づきすぎない。接触もしない。今夜は確認だけ」


「もし、本人がいたら?」


「追わない」


 玲奈の声ははっきりしていた。


「焦って近づけば、相手は逃げるかもしれない。あるいは、壊れるかもしれない」


 犬飼は唇を結んだ。


 壊れる。


 その言葉が、妙に冷たく胸に残った。


 管理者は強い人だと思っていた。遠くから何もかも見て、的確に助けてくれる、すごい人だと。


 けれど、玲奈の言い方は違った。


 守るべき相手として見ている。


 もしかすると、管理者も疲れるのかもしれない。


 傷つくのかもしれない。


 誰にも言えないまま、何かを背負っているのかもしれない。


「分かりました」


 犬飼は頷いた。


「絶対に、勝手に動きません」


「約束よ」


「はい」


 その返事は、自分で思っていたよりも強かった。


     *


 深夜十一時前。


 街は昼間の顔を脱ぎかけていた。


 大通りの店はまだ明るい。看板の光が歩道に流れ、酔った会社員たちの笑い声が夜気に滲んでいる。だが、一本裏へ入ると、空気は急に薄くなる。


 古いビルの壁は雨の跡を黒く残し、室外機の低い唸りが狭い路地にこもっていた。植え込みの草は夜露を含み、風が通るたびに先端だけが細かく震える。街灯の光を受けた葉には、小さな銀色の点がいくつも浮かんでいた。


 佐藤誠司は、いつもの鞄を肩に掛け、通用口の前に立っていた。


 二十度目の勤務だった。


 右目の赤みは少し引いた。


 だが、完全に戻ったわけではない。目の奥にまだ鈍い重さがある。昨夜の不正な接触、コトリの声、奪われた三・二%。そのすべてが、頭の片隅に残っていた。


 通用口の横で、柴田が煙草も吸わずに立っている。


「今夜は静かだといいな」


「本当にそう思います」


 誠司はそう答えた。


 柴田は少しだけ目を細めたが、何も言わなかった。


 金属の扉が開く。


 地下へ降りる冷たい空気が、誠司の頬を撫でた。


 誠司は一歩、中へ入った。


 その二百メートルほど離れたビルの屋上で、犬飼は息を潜めていた。


 夜風が強い。


 足元のコンクリートは昼の熱を失い、靴底から冷えが上がってくる。手すりの向こうには、古い建物の並ぶ一角が見えた。光の少ない通用口。その横に立つ年配の男。そして、そこへ入っていくスーツ姿の男。


 遠すぎて、顔は分からない。


 犬飼は双眼鏡を握る手に力を込めた。


「玲奈さん」


 声が、思わず小さく震えた。


「あそこ……誰か入りました」


 玲奈は隣で、静かに頷いた。


 風が二人の間を抜け、屋上の端に溜まった枯れ葉をかさりと鳴らした。


 その音だけが、妙にはっきり聞こえた。


犬飼は、双眼鏡の向こうに見えた男の背中を追った。


 スーツ姿だった。


 肩に鞄を掛けている。遠目には、どこにでもいる会社員に見えた。夜の街に疲れを落としながら、もう一つの仕事へ向かう中年の男。背中は少し丸まり、扉の前で一度だけ足を止めた。


 その仕草に、犬飼はかすかな違和感を覚えた。


 警戒しているようにも見えた。


 ただ疲れているだけにも見えた。


 通用口の横に立つ年配の男が、何か短く声をかけた。距離がありすぎて内容は聞こえない。だが、スーツの男は軽く頷き、金属の扉の奥へ消えた。


 扉が閉まる。


 夜の一角が、また何もなかったように静かになった。


 犬飼は双眼鏡を下ろした。


 屋上の風が頬を打つ。冷たい風だった。街の湿った匂いと、古いビルのコンクリートの乾いた匂いが混ざっている。足元には、どこから飛んできたのか、枯れ葉が数枚溜まっていた。風が吹くたび、かさ、かさ、と軽い音を立てて壁際を滑っていく。


「管理者さん……でしょうか」


 犬飼の声は、風に紛れそうなほど小さかった。


 玲奈はすぐには答えなかった。


 彼女は双眼鏡を目から離し、通用口の周囲を見ていた。街灯の位置。監視カメラの角度。人通りの少なさ。隣接する建物の窓。屋上から確認できるすべてを、静かに頭へ刻み込んでいるようだった。


「断定はできない」


 玲奈は低く言った。


「でも、あの通用口は普通じゃないわ。人の出入りが少なすぎる。警備の配置も、外から見える部分だけなら不自然に薄い」


「薄いんですか」


「薄く見せているのかもしれない」


 犬飼はもう一度、通用口を見た。


 暗い扉。


 年配の警備員。


 古びた建物。


 どれも特別には見えない。


 だが、特別なものほど、そう見えない場所に隠れているのかもしれなかった。


「今、追わなくていいんですか」


 そう言ってから、犬飼は自分で息を呑んだ。


 約束したばかりだ。


 勝手に動かない。


 焦って近づかない。


 分かっている。それでも、胸の奥がじりじりした。


 あの扉の向こうに、救ってくれた人がいるかもしれない。


 そう思っただけで、足が前へ出そうになる。


 玲奈は犬飼を見た。


 叱る目ではなかった。


 けれど、甘くもなかった。


「今夜は確認だけ」


「……はい」


「会いたい気持ちは分かる。でも、相手がこちらを味方だと判断する材料はまだない」


 玲奈は視線を通用口へ戻した。


「あの場所に本当に管理者がいるなら、彼はもう十分に追い詰められている可能性がある。こちらが善意で近づいても、向こうには脅威に見えるかもしれない」


 犬飼は唇を結んだ。


 夜風が首元から入り、背中を冷やした。汗をかいていたことに、その時初めて気づいた。手のひらが湿っている。双眼鏡の表面に指の跡がついていた。


 屋上から見下ろす街は、静かだった。


 大通りの方ではまだ車が流れている。赤い尾灯が列を作り、雨上がりの道に細く反射していた。けれど、この一角だけは音が沈んでいる。遠くの喧騒が、厚い布を一枚かけられたようにくぐもって聞こえた。


 犬飼は通用口を見つめ続けた。


 扉は開かない。


 当然だ。


 入ったばかりなのだから。


 それでも、犬飼は目を離せなかった。


 自分を助けた光が、本当にこの地下の奥から伸びていたのなら。


 その奥で、誰かが今も一人で何かと向き合っているのなら。


 礼を言いたいという気持ちだけでは足りない。


 助けたい。


 その思いが、胸の奥に小さく芽を出していた。


     *


 地下の端末室では、青白い光だけが誠司の顔を照らしていた。


 今夜は赤い警告は出ていない。


 それだけで、ずいぶん息がしやすかった。だが、安心はできない。前夜の侵入の痕跡は、まだ端末の奥に傷のように残っている。


 誠司は画面に並ぶ項目を一つずつ確認した。


 管理領域の状態。


 登録活動者の位置。


 区画ごとの変動。


 防御記録。


 コトリの応答状態。


 指がキーを叩く音が、規則正しく室内に響く。かた、かた、かた。その音の合間に、空調の低い唸りが混ざっていた。


「コトリ。今夜は落ち着いてるな」


『はい。現時点で緊急項目はありません』


「それは助かる」


『ただし、外部からの接触試行が再発する可能性は残っています』


「分かってる」


 誠司は椅子にもたれた。


 天井を見上げる。白い照明の周りに、薄い埃が浮いていた。光を受けて、細かな粒がゆっくり流れている。外の風も、街の音も、ここには届かない。


 閉じた部屋。


 守るべき場所。


 そして、どこかから見えない手が伸びてくる場所。


 そう考えると、背中に汗が滲んだ。


『誠司』


「何だ」


『右目の違和感は継続していますか』


 誠司は少しだけ眉を上げた。


「お前、そんなことまで気にしてるのか」


『管理者の肉体状態は重要です』


「大丈夫だ。今日は血も出てない」


『大丈夫という表現は、状態評価として曖昧です』


「じゃあ、今のところ動ける」


『記録しました』


 誠司は小さく笑いかけて、すぐに口元を戻した。


 笑えるほど軽い状況ではない。


 だが、コトリと話していると、端末室の冷たさが少しだけやわらぐ時がある。


 そのことが、前よりもはっきり分かるようになっていた。


 作業は静かに進んだ。


 午前三時を過ぎ、四時を回り、端末室の空気がさらに冷えた。眠気が何度か波のように押し寄せたが、そのたびに誠司は首を振った。右目の奥に鈍い重さはある。それでも、今夜は倒れるほどではない。


 最後の確認項目が白へ戻った時、画面には終了表示が出た。


【本日の勤務:終了可能】


 誠司は長く息を吐いた。


「終了する」


『本日の勤務を終了します。お疲れさまでした、誠司』


「ああ。お疲れ」


 その言葉を返してから、誠司は少しだけ目を伏せた。


 以前なら、端末に「お疲れ」と返すことなど考えもしなかった。


 けれど今は、自然に口から出る。


 それが少し不思議で、少し怖かった。


     *


 午前四時半。


 地上の空気は、夜と朝の境目にあった。


 空はまだ暗い。だが、東の端だけが薄い青にほどけ始めている。ビルの輪郭は黒く、その上にかすかな光が滲む。歩道脇の草には夜露がつき、風が吹くたびに葉先が震えた。


 誠司は通用口から出てきた。


 柴田は壁にもたれ、腕を組んでいた。眠っているようにも見えたが、誠司が出るとすぐに目を開けた。


「今日は無事か」


「はい。静かでした」


「そうか」


 柴田は短く言い、缶コーヒーを投げるように差し出した。


 誠司は慌てて受け取る。


 缶は温かかった。


 指先に熱が移る。夜通し冷えた手が、じんわりとほどけていく。


「ありがとうございます」


「礼は帰ってから言え」


「はい」


 誠司は頭を下げ、駅へ向かって歩き出した。


 靴音が朝の歩道に響く。


 かつ、かつ、かつ。


 濡れたアスファルトは、わずかに光を帯びていた。街灯の下を通るたび、誠司の影が長く伸び、足元で歪んでは消える。鞄の重みが肩に食い込む。眠気で視界の端が滲む。


 早く帰りたい。


 その思いだけが、足を前に出していた。


 同じ頃、玲奈と犬飼も屋上を離れていた。


 夜通し見張っていたせいで、犬飼の目は乾き、首の後ろが冷えていた。階段を下りるたび、膝に小さな疲労が響く。ビルの非常階段は鉄でできていて、一歩ごとに、かん、かん、と硬い音がした。


「大丈夫?」


 玲奈が前を向いたまま聞いた。


「大丈夫です」


 犬飼は答えた。


 だが、声は少し掠れていた。


 外へ出ると、朝の風が体に当たった。屋上よりも湿っている。道路の端に残った水たまりから、冷たい匂いが上がっていた。


 二人は大通りへ向かって歩いた。


 角を曲がる。


 その時だった。


 犬飼の前を、一人の男が歩いていた。


 スーツ姿。


 古い鞄。


 少し丸まった背中。


 眠そうな足取り。


 犬飼は一瞬だけ、その背中を見た。


 どこかで見たような気がした。


 だが、疲れた頭はすぐに別の答えを出した。


 この時間に歩いている会社員なんて、珍しくもない。


 犬飼は少し歩調を速めた。


 男を追い越す。


 すれ違う瞬間、男がちらりとこちらを見た。


 赤みの残る目。


 疲れ切った顔。


 けれど、どこか妙に深いものを抱えた目だった。


 犬飼は軽く会釈するほどでもなく、視線だけを外した。


 誠司も同じだった。


 若い男が通り過ぎた。


 背筋が伸びていて、疲れているのに目だけが妙に強い。どこかで見たような気がしたが、眠気でうまく考えがまとまらない。


 数歩。


 それだけの距離だった。


 二人の肩が、ほんの少しだけ近づき、離れた。


 互いの靴音が、朝の歩道に重なる。


 かつ、かつ。


 かつ、かつ。


 それから、それぞれ逆の方向へほどけていった。


「どうした?」


 少し先で、玲奈が振り返った。


 犬飼は一度、後ろを見た。


 男の背中は駅の方へ向かっている。肩が落ち、鞄が少しずれていた。


「いえ」


 犬飼は首を振った。


「疲れたおっさんが歩いてただけで」


 玲奈も一瞬だけ、その背中を見た。


 だが、すぐに視線を戻した。


「行くわよ」


「はい」


 犬飼は歩き出した。


 朝の光が少しずつ街に広がっていく。ビルの窓に淡い金色が差し、道端の草についた露が小さく光った。遠くで始発電車の音がした。


 誠司は駅の階段を下りながら、さっきの若い男の顔をぼんやり思い出していた。


 どこかで見たような。


 いや、ただの気のせいだ。


 眠気で頭が鈍っているだけだ。


 階段の下から、朝の電車の音が響いてくる。ホームには早朝の冷たい空気が流れ、通勤客の少ない足音が点々と聞こえた。


 電車に乗ると、誠司は座席の端に腰を下ろした。


 缶コーヒーの温かさは、もうほとんど消えている。鞄を膝に置き、目を閉じる。体が沈むように重かった。


 若い男の顔が、ほんの少しだけ頭に浮かんだ。


 だが、電車が動き出す揺れに合わせて、その輪郭はすぐに崩れた。


     *


 犬飼は帰りの電車で、窓に映る自分の顔を見ていた。


 朝の光が薄く差し込み、窓ガラスに重なった自分の顔は少し青白い。寝不足で目の下に影がある。それでも、胸の奥は妙に熱かった。


 管理者のいる場所に近づいた。


 まだ会えていない。


 でも、確かに近づいている。


「管理者さん……」


 犬飼は小さく呟いた。


 隣で玲奈が目を閉じている。聞こえているのかいないのか分からない。


 犬飼は窓に映る自分へ向かって、声にならない言葉を続けた。


 会ったら、まず何て言おう。


 ありがとうございます。


 助けてくれて。


 生きろって、引き戻してくれて。


 そこまで考えて、胸が詰まった。


 窓の外を、朝の街が流れていく。


 その頃、佐藤誠司は別の電車でうたた寝をしていた。


 揺れる車内で頭が一度、窓に軽く当たる。こつん、という小さな音がして、誠司は眉を寄せたが、目は開けなかった。


 若い男の顔は、もう思い出せない。


 ただ、帰ったら少し眠れるだろうかと、それだけをぼんやり考えていた。


 朝の光が、二つの電車の窓を別々に照らしていた。


 ほんの数歩の距離で重なった二人の道は、何も告げないまま、また静かに離れていった。

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