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減給された40代社畜、深夜バイトで国家級ダンジョンの管理者になる  作者: Gaku
第1部:深夜バイト編

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第27話 同じ父親として 〜痛みは、守る手を選ばせる〜

榊原剛の執務室には、朝の光が斜めに差し込んでいた。


 窓の外には、灰色のビルの壁が並んでいる。隙間から入り込む風が、地上の植え込みを細かく揺らし、細い草の葉を何度も寝かせては起こしていた。葉先に残った水滴が、低い太陽を受けて白く光る。その光は一瞬だけ鋭く跳ね、すぐに曇った空の色へ沈んだ。


 室内は静かだった。


 空調の低い唸り。壁時計の秒針。机の上で冷めていくコーヒーから、ほんのわずかに立ちのぼる苦い匂い。


 そのすべてが、妙に遠く感じられた。


 榊原は机の前に立ったまま、黒瀬が持ってきた資料を見下ろしていた。


 紙の上には、一人の男の顔写真が貼られている。


 佐藤誠司。


 四十二歳。


 事務職。


 妻と、小学生の子どもが二人。


 黒瀬は椅子に座らず、机の向こうで背筋を伸ばしていた。目元はいつもより少し赤い。だが声は落ち着いていた。夜明け前から走り続けてきた人間の疲れが残っているのに、言葉だけは慎重に整えられている。


「佐藤誠司。四十二歳。東都精機システムズ勤務。妻子あり。この人が、S.Sです」


 榊原は返事をしなかった。


 写真の男を見ていた。


 強そうな顔ではない。人を動かす側の顔でもない。肩を張ることに慣れていない、少し内側へ丸まったような男だった。目の下には隈がある。髪には白いものが混じり、口元には疲労の線がある。背広の襟元も、どこか頼りなく見えた。


 だが、悪い顔ではなかった。


 誰かに強く出られたら、少し困ったように笑って引いてしまいそうな顔。


 帰り道に子どもから頼まれたものを思い出し、疲れた足でコンビニへ寄るような顔。


 自分の分の小さな楽しみを削っても、家の中が少しでも穏やかになればそれでいいと思っていそうな顔。


 榊原の指が、資料の端に触れた。


 紙はまだ少し温かかった。印刷されたばかりの熱が指先へ移る。その小さな温度が、なぜか胸に引っかかった。


「……俺と同い年くらいか」


 低い声が、執務室に落ちた。


「四十二歳です」


「若くはないが、年寄りでもない」


 榊原は息を吐いた。


「一番、逃げ場がない年だ」


 黒瀬は何も言わなかった。


 その沈黙が、榊原にはよくわかった。


 若い頃のように、すべてを捨てて走ることはできない。かといって、諦めて座り込めるほど老いてもいない。家のローン、子どもの学校、妻の視線、会社の人間関係、親のこと、自分の体の衰え。そういう細かな重しが、目に見えないまま背中へ積もっていく。


 そしてある日、気づく。


 自分の足音が、ずっと重くなっていることに。


 廊下の向こうから、誰かの靴音が聞こえた。こつ、こつ、と硬い音が近づき、執務室の前を通り過ぎていく。音は扉の向こうで薄くなり、やがて消えた。


 消えた後の静けさが、さらに重かった。


 黒瀬が口を開いた。


「接触が必要です」


 榊原は写真から目を離さない。


「わかっている」


「ただし、驚かせてはいけません。この人物は、軍人でも、職員でもありません。深夜の仕事として管理端末に関わっているだけの、一般の方です」


「本人は、どこまで知っている」


「おそらく、ほとんど何も」


 黒瀬の声が、わずかに低くなった。


「数字を直している。赤い表示を消している。危険そうな時に道を開けている。そこまでは理解していると思います。でも、それがどれほど多くの人を帰しているのか、誰がその先にいるのかは、正確には知らないはずです」


 榊原の喉が、かすかに動いた。


 数字を直す。


 赤い表示を消す。


 道を開ける。


 それだけのつもりで、この男は何度も現場を救ってきた。


 無線の向こうで部下が息を荒げていた夜。


 崩れた通路の前で、退路を失った隊員たちが黙り込んだ夜。


 誰も口に出さなかったが、戻れないかもしれないと思った瞬間。


 そのどこかで、画面の向こうのこの男が、ひとつ数字を直した。


 赤い表示を消した。


 道を開けた。


 榊原は奥歯を噛んだ。


 窓の外で風が強くなった。ビルの谷間を抜けた風が、低く唸る。地上の草が一斉に揺れ、細い葉同士が擦れる乾いた音が、かすかに窓越しへ伝わってきた。


「榊原指揮官」


 黒瀬が言った。


「官僚が身分証を見せて接触すれば、佐藤氏は怯える可能性があります。ご家族のことを考えれば、なおさらです。自分が何か違法なことに巻き込まれたのではないかと考えるかもしれません」


「そうだろうな」


「逃げるかもしれません」


「ああ」


「最悪の場合、今後の勤務を拒否する可能性もあります」


 榊原は顔を上げた。


 黒瀬の目は真剣だった。そこに焦りもある。恐れもある。けれどそれ以上に、佐藤誠司という男を乱暴に扱ってはいけないという強い意志があった。


 榊原は、もう一度写真を見た。


 疲れた顔。


 だが、帰る場所のある顔。


「俺が行く」


 黒瀬の表情がわずかに動いた。


「指揮官が、ですか」


「ああ」


「ご自身で動かれる必要は――」


「ある」


 榊原の声は静かだった。


 怒鳴る必要はなかった。強く言い切る必要もなかった。その言葉は、最初から机の上に置かれていた石のように動かなかった。


「この男は、軍人でも官僚でもない。家庭を持つ、普通の父親だ」


 黒瀬は黙った。


「上から来た人間が、肩書きを並べて、協力しろと言う。そんなやり方では駄目だ。彼は命令を受ける立場の人間じゃない。命令される理由もない」


 榊原は資料を閉じた。


 紙の音が、短く響いた。


「驚かせれば、怯える。怯えれば、家族を守ろうとする。父親はそういうものだ」


 その言葉を口にした瞬間、榊原自身の胸に鈍い痛みが走った。


 父親はそういうものだ。


 言える資格が、自分にあるのか。


 その問いが、いつものように胸の奥で冷たく光った。


 榊原には娘がいる。


 だが、今は一緒に暮らしていない。


 最後にまともに向き合ったのは、いつだったか。背が伸びたことに気づくのが遅れた。髪型が変わったことにも気づけなかった。学校で何に悩んでいたのかも、何が好きだったのかも、あとから人づてに知ることが増えた。


 現場を優先した。


 助けなければならない命があった。


 そう言えば、誰も強く責めなかった。


 だが、その言葉で家の中の空席が埋まることはなかった。


 夜中に帰った玄関。


 消えたリビングの灯り。


 冷蔵庫に貼られていた娘の絵。


 端の折れた運動会の案内。


 行けなかった日の朝の、妻の黙った横顔。


 そういうものは、何年経っても消えない。むしろ年を取るほど、音もなく戻ってくる。


 榊原は目を伏せた。


 机の上のコーヒーは完全に冷めていた。黒い水面に、窓から入った光が細く浮かんでいる。揺れていない。その動かない光が、やけに痛かった。


「俺が行く」


 榊原はもう一度言った。


「同じ父親として会う」


 黒瀬の唇が、小さく震えた。


「……ありがとうございます」


「礼を言われることじゃない」


 榊原は椅子の背に掛けていた上着を取った。


 布が擦れる音がした。袖を通すと、肩にいつもの重みが戻った。だが今日は、その重みの意味が少し違っていた。


「接触はいつがいい」


「佐藤氏の勤務後が最も自然です。施設の通用口付近。警備員の柴田氏がいる時間帯なら、警戒を和らげられる可能性があります」


「柴田さんには」


「最低限の共有に留めます。佐藤氏を追い詰めないことを最優先にします」


「家族には触れるな」


 榊原の声が、少しだけ硬くなった。


「はい」


「保護の話は、こちらの都合で押しつけるな。彼が不安がるなら、まず聞く。説明は短く。怖がらせるな」


「承知しました」


 黒瀬は深く頷いた。


 榊原は窓の外を見た。


 朝の光は少しずつ強くなっている。ビルの影が地面へ長く伸び、植え込みの草の上で揺れていた。風が通るたび、影も草も一緒に震える。その震えは、遠目には波のように見えた。


 この都市のどこかで、佐藤誠司は今も普通の一日を始めているのだろう。


 眠気をこらえながら電車に揺られ、会社へ行く。


 誰にも知られず、誰にも褒められず、いつもの席に座る。


 そして夜になればまた、あの端末の前へ向かう。


 榊原は資料を手に取った。


 写真の男は、やはり疲れた顔をしていた。


 その疲れが、他人事には見えなかった。


「佐藤さん」


 声は、黒瀬に向けたものではなかった。


「あんたは、俺みたいになるな」


 黒瀬は何も言わなかった。


 言葉の意味を尋ねることもしなかった。


 ただ、執務室の中に、朝の光と、風に揺れる草の影と、重い沈黙だけが残った。


 榊原は資料を閉じ、静かに言った。


「準備に入る」


 その時、机の上に置かれた電話が鳴った。


 乾いた呼び出し音が、静まり返った部屋を裂いた。


 榊原と黒瀬は、同時にそちらを見た。


 まだ何も始まっていないはずの朝に、すでに何かが動き出しているような音だった。



 受話器を置いたあとも、榊原はしばらく動かなかった。


 短い連絡だった。佐藤誠司の勤務予定。通用口の警備配置。老警備員の勤務時間。接触の候補日。必要最低限の情報だけが、乾いた声で確認され、乾いた音で切れた。


 それだけのはずだった。


 けれど、電話の余韻は耳の奥に残っていた。


 執務室には、いつの間にか朝の明るさが満ちていた。窓際の床に落ちた影は薄くなり、机の角に積もった細かな埃が、光の中でゆっくり浮かんでいる。空調の風がそれを押し流し、埃は一度きらりと光ってから、見えないところへ消えた。


 榊原は資料を閉じ、椅子へ腰を下ろした。


 革張りの椅子が、重く軋む。


 机の上には、佐藤誠司の顔写真がまだ置かれている。黒瀬はすでに退出していた。扉が閉まってから、部屋の中の静けさは一段と深くなった。人がいない場所の静けさではない。言葉が置き去りにされた場所の静けさだった。


「同じ父親、か」


 自分で言った言葉なのに、胸の内側で鈍く跳ね返ってくる。


 榊原は机の引き出しを開けた。


 中には古い手帳と、少し色褪せた封筒が入っていた。封筒の端は何度も触れたせいで柔らかくなっている。榊原はそれを取り出し、中から一枚の写真を抜いた。


 運動会の日の写真だった。


 七年前。


 校庭の砂が明るく光っている。背景には白いテントが並び、赤や青の帽子をかぶった子どもたちが小さく写り込んでいる。その中央で、娘が笑っていた。まだ背は低く、頬も丸い。片手には参加賞の小さな鉛筆を握っている。もう片方の手は、写真の外へ向かって伸びていた。


 その手を、本当は誰が握るはずだったのか。


 榊原は写真の端を指で押さえた。


 あの日、彼は現場にいた。


 どうしても外せない対応だった。誰かの命がかかっていた。それは事実だ。言い訳ではない。けれど、事実だからといって、別の痛みが消えるわけではなかった。


 娘は帰ってから、何も言わなかった。


 妻も責めなかった。


 責められないことが、かえって苦しかった。


 冷えたリビング。流しに置かれた皿。テーブルの隅に置かれた運動会のしおり。赤いクレヨンで丸をつけられた種目名。その横に、小さな文字で「パパ」と書かれていた。


 見た瞬間、喉が詰まった。


 それでも翌朝、榊原はまた出ていった。


 出ていくしかなかった。


 そして、少しずつ家の中で自分の座る場所が小さくなっていった。


 写真の中の娘は、まだ笑っている。


 その笑顔だけが、時の流れから取り残されたように変わらない。


 榊原はゆっくり写真を封筒に戻した。


「佐藤さん」


 低く呟く。


「あんたは、間に合ってくれ」


 その声は、閉じた引き出しの中へ吸い込まれていった。


     *


 同じ日の昼、佐藤誠司は会社の自席で、詰め替え用のコピー用紙の束を抱えていた。


 東都精機システムズ株式会社のオフィスは、昼休み前のざわめきに包まれている。蛍光灯の白い光が天井から均一に降り、机の列を平たく照らしていた。窓の外には、乾いた青空が広がっている。春の終わりの風が街路樹を揺らし、若い葉が光を受けて裏返ったり戻ったりしていた。


 だが、その風は室内まで届かない。


 オフィスの空気は少しこもっていた。紙とインクと、誰かが飲み残した缶コーヒーの匂いが混ざっている。電話の呼び出し音、マウスを叩く音、プリンターが紙を吐き出す音。人の声は絶えずあるのに、誰の言葉も深くは残らない。


「佐藤さん、それ終わったら、こっちの入力もお願いできます?」


 矢沢の声が飛んできた。


 軽い声だった。


 軽いからこそ、断りにくい。


「今日中にまとめたいんで。俺、午後から打ち合わせ入っちゃってるんですよ」


 誠司は抱えていた紙の束を机の横に置いた。


「……わかりました」


「助かります。佐藤さん、こういうの早いですもんね」


 矢沢はそう言って、自分の席へ戻っていった。


 ありがとう、という言葉はなかった。


 誠司は少しだけ息を吐いた。


 背中に鈍い疲れが残っている。昨夜は深夜勤務がなかったはずなのに、体が十分に戻っていない。眼球の奥が重い。肩の筋が張り、首を回すと小さく音がした。


 それでも、仕事は目の前に積まれる。


 断れば、角が立つ。


 引き受ければ、自分の時間が削れる。


 いつものことだった。


 昼休みになっても、誠司は数分だけ席に残った。頼まれた入力の一部を片づけてから、コンビニで買ったおにぎりを持って非常階段へ向かった。


 階段の踊り場は、オフィスより少しだけ涼しかった。


 コンクリートの壁に、外から入った光が細長く伸びている。鉄の手すりは冷たく、触れると指先の熱を奪った。窓の隙間から風が入り、どこかで乾いた葉が擦れる音がした。遠くの道路からは、車の走行音が低く響いてくる。


 誠司は段差に腰を下ろし、包装を開けた。


 海苔の匂いが少しだけ広がる。


 その時、スマートフォンが震えた。


 美咲からだった。


『今日、陽菜が学校で賞をもらったよ。書道で』


 短い文のあとに、写真が一枚ついていた。


 陽菜が賞状を持っている。少し照れたように笑っていた。背景には教室の黒板があり、窓から差し込む光が髪の端を明るくしている。


 誠司は画面を見つめた。


 口元が、自然に緩んだ。


 疲れた体の奥に、ほんの少しだけ温かいものが入ってくる。


『すごいな。帰ったら褒めてやる』


 打ってから、少し迷った。


 いつもなら、そこで終わっていたかもしれない。


 けれど、誠司はもう一文足した。


『教えてくれてありがとう』


 送信。


 すぐに既読がついた。


 少し遅れて、美咲から返事が来る。


『ちゃんと帰ってきてね』


 誠司は画面を見たまま、しばらく動かなかった。


 非常階段の小さな窓から、風が入り込む。外の木の葉が揺れ、光がちらちらと壁に映った。誰かが下の階で扉を開けたらしく、金属の重い音が響き、すぐに静かになった。


 ちゃんと帰ってきてね。


 その言葉は、胸にまっすぐ落ちた。


 誠司は親指を動かした。


『うん。帰る』


 それだけ送った。


 画面を閉じると、急に非常階段の静けさが戻った。誠司はおにぎりを一口食べた。米は少し硬く、海苔は湿っていた。それでも、不思議とまずくはなかった。


     *


 その夜。


 二十一度目の勤務は、驚くほど静かに始まった。


 地下施設の通路は、いつもより冷えていた。壁に埋め込まれた照明が等間隔に白い光を落とし、床に誠司の影を長く伸ばしている。歩くたび、靴音が硬く反響した。こつ、こつ、こつ。自分の足音なのに、少し後ろから誰かがついてくるように聞こえる。


 通用口のそばで、柴田源蔵がいつもの折りたたみ椅子に座っていた。


 膝の上には古い新聞。傍らには湯気の消えた缶コーヒー。


「来たか、佐藤さん」


「こんばんは」


 柴田は顔を上げ、いつものように缶コーヒーを一本投げた。


 誠司は慌てて受け取る。


 缶の冷たさが掌に触れた。


「今日は穏やかだな」


「そうですね」


「そういう時ほど、足元見て歩け」


 柴田は新聞へ視線を戻した。


 何気ない言葉だった。


 けれど誠司は、なぜかその場で一瞬だけ止まった。


 足元。


 足元を見て歩け。


 床に伸びた自分の影が、照明の切れ目で一度途切れ、また繋がっている。誠司はその影を見ながら、小さく頷いた。


「はい」


 端末室に入ると、いつもの青白い光が迎えた。


 機械の低い唸り。冷えた空気。画面の奥で眠っているような無数の表示。


 椅子に座ると、背中に疲れが沈んだ。目を閉じれば、そのまま眠ってしまいそうだった。だが、端末の起動音が鳴ると、意識は自然に前へ引っ張られた。


 画面に赤い表示が並ぶ。


 六件。


 多くはない。


 誠司は息を整えた。


「コトリ、始めよう」


『はい、誠司。現在の管理領域は比較的安定しています。赤いエントリは六件。緊急度の高いものから順に表示します』


「頼む」


 指がキーに乗る。


 数字を確認する。入力する。戻る。修正する。赤が一つ消える。


 画面の色が変わるたび、誠司は胸の奥で小さく息を吐いた。


 誰がその向こうにいるのか、まだはっきりとは知らない。


 けれど、そこに誰かがいることだけは、もう知っている。


 光点。


 声。


 帰る道。


 誠司は六件目を処理し終えると、椅子の背もたれに体を預けた。


 額に薄く汗が滲んでいる。冷房の風がそこに当たり、肌がひやりとした。手の震えはない。胸の痛みもない。今日は穏やかだった。


『全件処理完了です』


「ありがとう」


『誠司こそ、お疲れさまでした』


 その言葉に、誠司は少し笑った。


「帰るか」


『はい。帰宅を推奨します』


 端末の光が落ち、部屋は静かになった。


 誠司は立ち上がった。


 まだ知らない。


 この静かな夜の外側で、自分の名前が記録され、写真が見られ、誰かが会いに来る準備をしていることを。


 まだ知らない。


 自分がただの深夜バイトとして通っているこの場所の外で、国の人間たちが息を潜めるように動き始めていることを。


 ただ、誠司は缶コーヒーの冷たさを片手に、いつものように通用口へ向かった。


     *


 榊原剛は、自宅の暗い部屋で一人、古い写真をもう一度見ていた。


 外では夜風が吹いていた。窓の向こうの街路樹が揺れ、葉が擦れる音がかすかに届く。遠くの幹線道路から車の音が低く流れ、時折、誰かの足音がアスファルトを叩いて過ぎていった。


 部屋の照明は点けていない。


 机の小さな灯りだけが、写真の中の娘の笑顔を照らしている。


 榊原は明日の接触予定を確認した。


 佐藤誠司の勤務後。


 施設通用口。


 老警備員のいる時間。


 肩書きは最初に出さない。


 脅さない。


 囲まない。


 家族の名を、不用意に使わない。


 ただ、会う。


 同じ父親として。


 榊原は写真を封筒へ戻し、引き出しにしまった。


 木製の引き出しが閉まる音が、暗い部屋に短く響く。


「佐藤さん」


 窓の外で、風が一度強く吹いた。


 街路樹の葉が一斉に鳴り、暗がりの中で小さな波のように揺れた。


「あんたは俺みたいになるな」


 榊原は上着を椅子に掛け、明日の資料を鞄へ入れた。


 その手は、少しだけ震えていた。


 命の危険がある現場へ向かう時でさえ、震えなかった手だった。


 それでも榊原は、拳を握り、ゆっくり開いた。


 明日、ひとりの父親に会いに行く。


 世界を動かすためではない。


 国のためでもない。


 まず、その男がちゃんと家へ帰れるようにするために。


 窓の外で、遠くの信号が赤から青へ変わった。


 誰もいない道路に、淡い光が落ちる。


 榊原はその光を見つめながら、静かに息を吐いた。


 朝になれば、すべてが少しだけ動き出す。

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