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減給された40代社畜、深夜バイトで国家級ダンジョンの管理者になる  作者: Gaku


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第21話 管理領域の声 〜帰りたい場所は、声にならない〜

夜の街は、昼間よりも少しだけ正直に見えた。


 駅前の大通りには、閉まりかけた居酒屋の看板がまだ赤く灯っていた。湿ったアスファルトの上に、その赤が細長く伸びている。タクシーのタイヤが浅い水たまりを踏むたび、薄い水音が足元まで転がってきた。


 佐藤誠司は、肩に古い鞄を掛けたまま歩いていた。


 革の持ち手は何年も前から少し剥げている。毎朝の通勤で握り、帰宅してからも握り、今は深夜の道でも握っている。そのせいか、手のひらの硬くなった部分にだけ、妙にその重さが馴染んでいた。


 風がビルの間を抜けた。


 街路樹の葉が、夜の底で乾いた音を立てる。さらさら、というより、紙を指先で擦るような音だった。薄く濡れた葉の縁に街灯が当たり、白い光が細かく弾ける。その光が目に入るたび、誠司は少しだけまぶたを細めた。


 右目の奥が、ずっと重い。


 眠気とは違う。疲れとも少し違う。目の奥に小さな石を詰め込まれたような、鈍い圧があった。鼻の奥にも、乾いた鉄の匂いが残っている。


 家を出る時、美咲は何も言わなかった。


 ただ、玄関の明かりの下で、誠司の顔を一度だけ見た。いつもなら「気をつけてね」と言う。今日は、その言葉の前に、少し長い間があった。


 あの間が、今も背中に残っている。


 責められたわけではない。疑われたわけでもない。けれど、何も言われないことの方が、胸の奥に深く刺さる時がある。


 地下へ続く建物の前に着くと、通用口の横に立っていた柴田が顔を上げた。


 白い蛍光灯が、彼の皺の深い頬に影を落としていた。夜風に煙草の匂いはなかった。ただ、缶コーヒーの甘い香りだけが、わずかに漂っている。


「来たか」


「はい」


 誠司が軽く頭を下げると、柴田は何かを言いかけて、やめた。


 その沈黙は短かった。けれど、エレベーターの動作音が遠くから低く響くほどには長かった。壁の中を何かが下っていくような、鈍い震えが足裏に伝わる。


「今日は、無理すんな」


 柴田はそれだけ言った。


 誠司は苦笑いを作ろうとした。うまくいかなかった。


「無理しないと、終わらない時もありますから」


「そういう顔をしたやつから、順番に壊れる」


 声は低かった。


 怒っているのではない。脅しているのでもない。古い傷の上を、乱暴に押さえないようにしている声だった。


 誠司は返事に詰まった。


 地下へ向かう通路は、いつもより冷えていた。コンクリートの壁が夜の湿り気を吸い、薄い水の匂いを吐き出している。靴音が硬く響いた。一歩ごとに、かつ、かつ、と乾いた音が先へ進み、奥の暗がりで小さく潰れて消えた。


 端末室の扉を開けると、暗い室内に三台のモニターだけが青白く浮かんでいた。


 床の隅には、空調の風が作った埃の筋がある。細い埃が、モニターの光を受けて淡く光っていた。昼間なら誰も気にしないようなものが、深夜には妙にはっきり見える。


 誠司は椅子に座り、深く息を吸った。


 冷たい空気が喉を通る。乾いているのに、どこか金属の匂いが混じっていた。


「開始する」


 指先がキーに触れる。


 画面が順に起き上がった。


【管理者認証:S.S】

【本日の未処理項目:四件】

【管理領域安定度:九十二】

【注意:一部区画に変動あり】


 コトリの起動音が鳴った。


 いつもの、小鳥のさえずりに似た音。


 けれど今日は、ほんのわずかに輪郭が違って聞こえた。これまでは電子音の中に鳥の声が混じっているようだった。今は逆だ。遠い森の奥で本当に何かが鳴き、その声だけが細い管を通って端末室まで届いたように、澄んでいた。


『お疲れさまです、誠司』


「ああ。頼む」


『本日は赤色項目四件の処理後、保留中の権限確認があります』


「保留中?」


 誠司は画面の右端を見た。


 そこに、小さな文字が浮かんでいた。


【第三段階権限:深層対話──保留中】


 椅子の背にもたれていた背中が、自然と前に出た。


 室内の空気が少し重くなる。空調の音は変わっていない。モニターの明るさも変わっていない。それなのに、目の前の文字だけが、暗い水の底からこちらを見上げているように感じた。


「コトリ。これは何だ」


『第三段階は、管理領域の構造情報を受け取る段階から、管理領域そのものと深く接する段階への移行です』


「深く接する?」


『管理領域の中枢から発せられる変化を、管理者が直接感じ取れるようになります』


 誠司は眉を寄せた。


「直接、って……画面に出るんじゃなくてか」


『はい。数値、警告、図形ではなく、感覚として受け取ります』


 端末室が静かになった。


 いや、静かなのは最初からだった。空調の低い唸りも、機械のかすかな熱音も、壁の奥で鳴る配管の震えも、ずっとあった。


 けれど、その全部が一歩引いたように感じた。


 誠司は画面を見つめたまま、喉の奥を鳴らした。唾を飲み込もうとして、うまくいかない。口の中が乾いている。


「つまり、この施設自体が……何か返してくるのか」


『近い表現です。この管理領域は、固定された構造物ではありません。常に変わり、反応し、偏り、戻ろうとしています。第三段階では、その変化の意味を読み取ります』


「意味……」


 四件の赤色項目は、処理しなければならない。


 B区画の活動者二名。C区画の進路異常。D区画の負荷上昇。E区画境界の小さな乱れ。


 どれも、以前の誠司なら文字として追うだけで精一杯だった。今は違う。どの項目の奥にも、誰かの呼吸があるように見える。画面の向こうで、知らない誰かが足を滑らせ、迷い、怯え、助けを待っている。


 誠司は一件ずつ処理した。


 キーを打つ音が、端末室に細かく跳ねる。


 かた、かた、かた。


 その音が、深夜の室内でひどく乾いて聞こえた。自分の指の動きだけが、世界のどこかと繋がっている。その事実が、以前よりもずっと重い。


 最後の赤い表示が黄色に変わり、やがて白へ戻った。


【赤色項目:処理完了】

【管理領域安定度:九十四】

【第三段階権限:深層対話──開放可能】


 誠司は手を止めた。


 目の奥がまた重くなる。


 美咲の顔が浮かんだ。玄関の明かり。言葉にならなかった間。陽菜が冷蔵庫に貼った家族の絵。少し小さく描かれた自分。


 それから、柴田の声。


 そういう顔をしたやつから、順番に壊れる。


 誠司は息を吐いた。


 逃げる理由なら、いくつもあった。


 家族がいる。会社もある。体もきつい。鼻血も増えた。自分は特別な人間ではない。管理者なんて言葉を向けられても、中身はただの疲れた中年男だ。


 けれど、逃げない理由は、一つで足りた。


 画面の向こうには、まだ誰かがいる。


「コトリ」


『はい』


「開放した場合、戻れるのか」


『接続は中断可能です。ただし、体への負担は第二段階より大きくなります』


「死ぬのか」


 自分で言ってから、喉が冷えた。


 その言葉だけが室内の空気を少し沈ませた。モニターの光が、手の甲の血管を青く浮かび上がらせる。


『現時点で、その可能性は高くありません』


「ゼロじゃないんだな」


『はい』


 コトリは嘘をつかなかった。


 そのことに、誠司は少しだけ救われた。


 曖昧な励ましより、冷たい事実の方が信じられる時がある。会社では、何度も曖昧な言葉を聞いてきた。期待している。助かっている。君ならできる。そう言われるたびに、仕事だけが増え、評価は増えなかった。


 けれど、この端末は違う。


 危ないものを危ないと言う。


 できないものをできないと言う。


 そして、必要な時には、助けを求める。


 誠司は右手をキーボードの上に置いた。


 指先が微かに震えている。疲労のせいだけではない。怖いのだと、自分でも分かった。


 怖い。


 それでも、押す。


「開放する」


 短く息を吸う。


「Yだ」


 キーが沈んだ。


 直後、三台のモニターが同時に暗転した。


 端末室から光が消えた。


 一瞬、本当に何も見えなくなった。手も、机も、壁も、自分の膝も。空調の音だけが急に近づき、耳の奥を低く撫でる。


 暗闇の中で、コトリの起動音が鳴った。


 澄んだ鳥の声。


 今までで一番、鮮明だった。


 それは電子音ではなかった。少なくとも、誠司の耳にはそう聞こえなかった。夜明け前の森で、まだ太陽が出る前に、一羽だけが目を覚まして鳴いたような声だった。


 その声が、胸の奥に落ちた。


 次の瞬間、誠司の体を何かが通り抜けた。


 風ではない。


 電気でもない。


 水でもない。


 けれど、全身の内側に波が広がった。皮膚の表面ではなく、骨の裏側、血管の奥、心臓の周りを、温かいものがゆっくり満たしていく。


 息が止まった。


 目の前に、無数の線が広がる。


 画面はまだ暗い。なのに見える。


 立体の図ではない。地図でもない。けれど、分かる。上に伸びる通路。下へ沈む広い空間。細く枝分かれした道。人が通った跡のような熱。しばらく誰も触れていない、冷たい場所。


 B区画は温かかった。


 人の体温に似ている。誰かが歩き、立ち止まり、笑ったかもしれない名残が、淡い灯りのように残っている。


 C区画は静かだった。


 眠っている獣の背中を遠くから見ているような静けさだ。動かないのではない。眠っているだけ。大きく、深く、規則正しく息をしている。


 D区画の端に触れた瞬間、誠司の指先が冷えた。


 そこだけ、水に墨を垂らしたように不安が滲んでいた。形はない。言葉もない。ただ、胸の奥を細い爪で掻くような感覚がある。


「……これが」


 声がかすれた。


「管理領域の……声なのか」


『深層対話、開始されています』


 コトリの声が遠く聞こえた。


 いや、遠いのはコトリではない。自分の方が、どこか遠くへ沈んでいる。


 端末室の椅子に座っている感覚が薄れていく。背もたれの硬さも、机の角も、靴底に触れる床の冷たさも、すべてが水面の上へ置き去りにされていく。


 代わりに、広大なものが体の中へ流れ込んできた。


 熱。


 冷たさ。


 怯え。


 安らぎ。


 痛み。


 待っている気配。


 言葉ではない。文章でもない。けれど、確かに何かが訴えていた。意味になる前の感情が、波になって押し寄せてくる。


 誠司は机の縁を掴んだ。


 指に力が入らない。


 鼻の奥がつんと痛んだ。生温かいものが、上唇に触れる。


 まただ。


 そう思った瞬間、赤い雫が一つ、机の上に落ちた。


 白い作業灯の下で、それは黒に近い赤に見えた。丸く広がり、端末の光をわずかに映す。


『肉体負荷が危険域に近づいています。接続を中断しますか』


「まだ……」


 喉が震えた。


 誠司は左手で鼻を押さえた。指の隙間がぬるくなる。


「もう少しだけ」


『推奨しません』


「分かってる」


 分かっている。


 本当は、分かっている。


 このまま続ければ体に悪い。明日の会社にも響く。美咲にも気づかれる。子どもたちの前で倒れるかもしれない。


 それでも、奥に何かがあった。


 広大な管理領域のさらに底。


 普段の画面には出てこない場所。


 光の届かない深い井戸の底のような場所から、弱い気配が滲んでいた。


 誠司はそこへ意識を向けた。


 途端に、右目の奥が焼けるように痛んだ。


「っ……」


 視界の端が赤く滲む。


 涙だと思った。


 けれど違った。


 右目の目尻から、細い血の筋が頬を伝った。温かく、ゆっくりと、皮膚の上を滑っていく。


 コトリの声が鋭くなる。


『接続を中断してください』


 誠司は答えられなかった。


 深い場所に、何かがいる。


 一つではない。


 闇の底で、消えかけた灯りのように。


 人の形を忘れかけた、人の気配が。


 四つ、並んでいた。



添付プロットの後半指定に沿って、第三段階の代償、四人の影、柴田との会話まで進めます。


 最初の一つは、冷たい光だった。


 刃物の背で薄い氷を撫でたような、鋭く、澄んだ気配。迷いが少ない。恐怖がなかったわけではない。ただ、その恐怖さえ細かく切り分け、形を確かめ、名前を付けようとしていた。


 次の一つは、強かった。


 闇の底で、倒れかけた柱を一人で支えているような気配だった。折れそうなのに折れない。崩れそうなのに崩れない。誰かを前へ進ませるために、自分の足元が沈んでいくのを受け入れているような、重く、まっすぐな力。


 三つ目は、火に似ていた。


 大きな炎ではない。雨に叩かれ、風に揺れ、それでも消え残った小さな火だ。何度も踏まれ、何度も吹き消されかけ、それでも最後の芯だけは赤く残っている。触れれば熱い。けれど、その熱は誰かを焼くためではなく、冷えきった場所で自分を失わないためのものだった。


 そして、四つ目。


 誠司は、その気配に触れた瞬間、胸の奥を掴まれた。


 優しかった。


 怖がっていた。


 怖がっているのに、誰かを置いていけない。自分の足が震えているのに、隣で泣いている者の肩に手を伸ばしてしまう。逃げたいのに、逃げることを選べない。そんな弱さと温かさが、ほとんど消えかけた灯りの中に残っていた。


 誠司は呼吸を忘れた。


 頬を伝う血が顎の先に集まり、ぽたりと落ちた。机の上に、二つ目の赤い跡ができる。鼻を押さえた左手も、もう温かい血で濡れていた。


『接続を中断します』


「待て」


 自分でも驚くほど、低い声が出た。


 四つ目の影が、こちらを向いた気がした。


 顔など見えない。目も、口も、輪郭さえない。なのに、確かに視線が合ったと分かった。暗い水の底で、遠くから誰かが振り返る。そんな頼りない感覚だった。


 誠司の胸の中に、知らない感情が流れ込んできた。


 家に帰りたい。


 ただ、それだけだった。


 大きな願いではない。誰かを救いたいとか、何かを変えたいとか、そういう立派な言葉になる前の、もっと小さく、もっと切実な思い。


 玄関の明かり。


 台所から聞こえる包丁の音。


 湯気の立つ味噌汁。


 子どもの靴が乱れている狭いたたき。


 名前を呼ばれる声。


 そんなものが、音も映像もないまま、胸の中に押し寄せてきた。


 誠司は歯を食いしばった。


 自分の記憶ではない。


 けれど、あまりに近かった。


 帰りたい場所がある者の痛みは、どこか似ているのかもしれなかった。家賃のことを考え、弁当の値段を迷い、子どもの寝顔を見て、それでも翌朝また会社へ行く。そんな小さな毎日の中で生きている人間には、その痛みが分かってしまう。


「お前は……」


 声が掠れる。


「帰れなかったのか」


 四つ目の影は答えなかった。


 代わりに、端末室の闇の奥で、コトリの起動音が小さく揺れた。


 鳥の声が、ほんの一瞬だけ、泣き声のように聞こえた。


 誠司は目を見開いた。


 画面はまだ暗い。けれど、その声だけは確かに変わった。悲しみを含んだ、細い、折れそうな音だった。


「コトリ……今の」


『起動音に変化はありません』


 即答だった。


 いつもの声。静かで、正確で、揺れの少ない声。


 だが、誠司の背筋には冷たいものが走っていた。


 認識していない。


 コトリ自身が、自分の中で何が鳴ったのか分かっていない。


 四つ目の影が、さらに薄くなった。


 誠司は手を伸ばそうとした。実際には、椅子に座った体がほんの少し前に傾いただけだった。けれど意識だけは、深い底へ向かって伸びた。


 その瞬間、右目に白い痛みが走った。


 視界が弾けた。


 頭の内側で、硬い何かが割れるような音がした。いや、音ではなかったのかもしれない。ただ、世界が一度、真っ白に飛んだ。


『接続を強制中断します』


 コトリの声が鋭く響いた。


 暗闇が裂ける。


 三台のモニターが一斉に点灯した。


 青白い光が端末室へ戻り、机、キーボード、血の跡、震える自分の手を照らし出した。


 誠司は大きく息を吸った。


 肺に空気が入らない。


 喉が狭い。胸が重い。心臓が肋骨の内側を乱暴に叩いている。背中には冷たい汗が貼り付いていた。シャツが肌に張り、動くたびに不快な冷たさが走る。


『深層対話を終了しました』


『肉体負荷、危険域手前』


『右眼周辺に出血反応』


『鼻腔出血継続』


『直ちに休息を取ってください』


 文字が次々と流れる。


 誠司はティッシュを掴もうとして、指先がうまく動かないことに気づいた。親指と人差し指が、細かく震えている。


 怖い。


 遅れて、その感情が来た。


 画面の向こうに触れる怖さではない。自分の体が、自分のものではなくなる怖さだった。ほんの少し前まで当たり前に動いていた指が、今は紙一枚掴むにも頼りない。


 誠司は鼻にティッシュを押し当て、右目の端を袖で拭った。


 白いシャツの袖口に、赤黒い筋がついた。


 それを見た瞬間、美咲の顔が浮かんだ。


 見つかったら、何と言えばいい。


 転んだ。鼻血が出た。目を擦った。


 そんな言い訳では、もう足りない。


 端末室には、また静けさが戻っていた。


 空調の音。機械の熱。遠い配管の震え。机の上で血が乾いていく、見えない時間。


 誠司はしばらく動けなかった。


 四つの影が、まだ胸の奥に残っている。


 特に、四つ目。


 怖がりで、優しかった影。


 あの人は、自分と同じように、どこかで靴を脱ぎ、ただいまと言う場所を持っていたのだろうか。帰ったら食べるはずだった朝ごはんが、台所に残っていたのだろうか。誰かが、玄関の音を待っていたのだろうか。


「……終了する」


 誠司はかすれた声で言った。


『本日の勤務を終了します。誠司、歩行に支障がある場合は、警備員に連絡してください』


「大丈夫だ」


『推奨しません』


「大丈夫じゃなくても、歩くしかないだろ」


 返事はなかった。


 けれど、モニターの端に小さく表示が出た。


【退出時、段差に注意してください】


 誠司はそれを見て、ほんの少しだけ目を伏せた。


 笑えなかった。


 けれど、その注意書きが、なぜか胸に残った。


 端末室を出ると、地下通路の空気はさらに冷たく感じた。壁に沿って歩く。靴音が乱れていた。いつもの、かつ、かつ、という硬い音ではない。片方だけがわずかに遅れ、床を擦るような音が混じる。


 通路の先の蛍光灯が、細かく瞬いていた。


 白い光が一瞬だけ暗くなり、また戻る。そのたびに、床に伸びた誠司の影がかすかに揺れた。まるで、自分の後ろにもう一人、誰かがついてきているように見えた。


 エレベーターで地上へ上がる間、誠司は鏡面の扉に映った自分を見た。


 ひどい顔だった。


 目の周りは赤い。頬には拭き残した血の跡が薄く伸びている。髪は乱れ、唇の色も悪い。会社のトイレで見る疲れた中年の顔より、さらに何かが削れていた。


 扉が開く。


 夜明け前の空気が入ってきた。


 外はまだ暗い。けれど東の空だけが、ほんの少し青にほどけ始めていた。ビルの輪郭が黒く浮かび、その隙間を冷たい風が抜けていく。植え込みの草が低く揺れ、葉先についた小さな水滴が、街灯の光を受けて瞬いた。


 通用口の横に、柴田が立っていた。


 缶コーヒーを持つ手が止まる。


 柴田の目が、誠司の右目に向いた。


 その瞬間、彼の表情から、わずかな眠気も消えた。


「第三段階、やったのか」


 誠司は足を止めた。


 風が二人の間を通り抜けた。柴田の作業着の裾が揺れる。遠くで新聞配達のバイクが走り、乾いた排気音が朝の薄闇に消えていった。


「……分かるんですか」


 柴田は答えるまで、少し時間を置いた。


 その沈黙は、端末室のものとは違っていた。機械の音に囲まれた静けさではない。外の世界が目を覚まし始める直前の、薄い膜のような静けさだった。


 遠くの信号が青に変わる。


 誰も渡らない横断歩道に、電子音だけが小さく鳴った。


「あいつらも」


 柴田の声は、朝の冷えた空気に沈んだ。


「あの四人も、開放した後は同じ目をしてた」


 誠司は息を止めた。


 四人。


 その言葉だけで、胸の奥に残っていた影が一斉に揺れた。


「柴田さんは……知ってるんですか」


 柴田は空を見上げた。


 まだ太陽は出ていない。けれどビルの縁が薄く白み、夜が少しずつ剥がれていく。彼の横顔には、深い皺が刻まれていた。その皺の一本一本に、長い年月の疲れが溜まっているように見えた。


「見送っただけだ」


 柴田は言った。


「帰ってくると思ってな」


 それ以上は言わなかった。


 言わなくても、分かった。


 朝の空気が冷たかった。誠司の濡れたシャツの背中を、風が容赦なく撫でていく。汗が冷え、体の芯まで震えた。


 誠司は何かを言おうとした。


 慰めでも、質問でも、約束でもない。けれど喉の奥で言葉は形を失い、そのまま消えた。


 柴田も何も言わなかった。


 二人の間に、長い沈黙が落ちた。


 それは空っぽの沈黙ではなかった。四人分の足音が、もう聞こえないままそこに残っているような沈黙だった。誰かが降りていった階段。誰かが触れた扉。誰かが最後に見た朝の光。それらが見えない重さになって、通用口の前に積もっていた。


 やがて柴田が、缶コーヒーを一本差し出した。


 誠司は受け取った。


 缶は温かかった。


 指先の震えが、その熱で少しだけ落ち着いた。


「佐藤」


「はい」


「帰れ」


 柴田は、短く言った。


「帰れるうちに、帰れ」


 誠司は缶を握りしめた。


 その言葉は、忠告ではなかった。


 祈りに近かった。


「……はい」


 誠司は頭を下げ、駅へ向かって歩き出した。


 朝の道は、まだ人が少なかった。アスファルトに落ちた街路樹の影が、薄い青の中で長く伸びている。靴音が一つずつ、冷えた歩道に響いた。かつ、かつ、かつ。その音が、自分がまだここにいる証のように聞こえた。


 東の空が少しずつ明るくなる。


 ビルの窓に、弱い光が差し始める。埃を含んだ朝の空気が、その光の筋の中で淡く揺れていた。


 誠司は歩きながら、四つの影を思い出していた。


 鋭い光。


 強い支え。


 消え残った火。


 そして、優しくて怖がりだった影。


 あの人は、帰りたい場所があったんだろうか。


 駅の階段を下りる前、誠司は一度だけ振り返った。


 通用口はもう遠く、小さく見えた。


 そこに誰かが立っているような気がした。


 けれど、目を凝らしても、朝の薄明かりの中には誰もいなかった。

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