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減給された40代社畜、深夜バイトで国家級ダンジョンの管理者になる  作者: Gaku


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20/21

第20話 十二年の番人 〜帰らぬ人は、残る人を歩かせる〜

 二日間、佐藤誠司は眠れなかった。


 布団には入った。電気も消した。スマートフォンも見ないようにした。けれど、目を閉じるたび、暗闇の中に赤い文字が浮かんだ。


【修正適用遅延:0.3秒】


【区画内人員への影響:1名負傷】


 その下に、藤原響子という名前が出る。


 二十七歳。


 右前腕打撲・擦過傷。


 行動可能。


 自力退避済み。


 何度も同じ文字が胸の奥で点滅し、そのたびに喉が詰まった。軽傷だと分かっている。命に関わる状態ではなかったと、コトリも言っていた。それでも、そこに痛みが生まれたことは消えない。


 誰かの腕に走った痛み。


 誰かが息を呑んだ瞬間。


 それを、自分の指が作った。


 寝返りを打つと、薄い布団がかさりと鳴った。部屋の中は静かだった。カーテンの隙間から街灯の光が細く入り、天井に淡い筋を作っている。冷蔵庫の低い音が、台所の方からかすかに聞こえた。家の中には、当たり前の夜があった。


 隣の部屋では、子どもたちが眠っている。


 小さな寝息。時々、布団を蹴る音。美咲が何度か起きて、そっと掛け直している気配。


 誠司はその音を聞きながら、天井を見続けた。


 自分には帰る場所がある。


 そのことを思うたび、胸の奥が温かくなるはずだった。けれど今は、その温かさのすぐ隣に冷たいものがあった。


 帰りたい場所がある人を帰す。


 そう言った。


 なのに、自分は人を傷つけた。


 朝になっても、体は重かった。


 会社では、いつも通りにした。いつも通り席に座り、いつも通り書類を確認し、いつも通り呼ばれれば返事をした。誰かが「佐藤さん、これお願いできます?」と言えば、「わかりました」と答えた。


 それ以外の言葉が出なかった。


 昼休み、弁当の蓋を開けても箸が進まなかった。白米の湯気はとっくに消え、卵焼きの黄色だけが妙に鮮やかに見えた。窓の外では風が吹き、街路樹の葉が揺れていた。葉と葉が擦れる乾いた音は、ガラス越しには聞こえない。ただ、光の中で緑の影が揺れるだけだった。


 二日目の夜。


 誠司は玄関で靴を履いたまま、しばらく動けなかった。


 行かなければ、終わる。


 行けば、また始まる。


 そのどちらも、怖かった。


 廊下の奥から、美咲の声がした。


「行くの?」


 誠司は振り返った。


 美咲は台所の明かりを背に立っていた。髪を後ろで軽くまとめ、手には布巾を持っている。いつも通りの姿だった。けれど、目だけはいつもより深く誠司を見ていた。


「……うん」


「顔色、悪いよ」


「大丈夫」


 口にした瞬間、自分でも嘘だと分かった。


 美咲も分かっていたのだろう。何も言わず、ただ布巾を握る指に少し力を入れた。


 沈黙が玄関に落ちた。


 外では、風が弱く吹いていた。扉の向こうで、どこかの家の植木鉢の葉が擦れる音がする。部屋の中では、子どもたちの寝息が遠くにあった。その静けさの中で、誠司は美咲に何か言わなければと思った。


 けれど、言葉は出なかった。


「遅くなる?」


「たぶん、朝には帰る」


 美咲は小さくうなずいた。


「気をつけて」


 その一言が、胸に刺さった。


 誠司は「行ってきます」と言い、扉を開けた。


 夜の空気が流れ込む。


 湿った風が頬に触れた。外の空は雲が薄く広がり、月は白くぼやけていた。街灯の下で、道端の草が低く揺れている。葉先についた水滴が光を受け、足元で小さく瞬いた。


 駅へ向かう道は、いつもより長く感じた。


 アスファルトを踏む靴音が、夜の中に沈んでいく。こつ、こつ、と鳴るたび、誠司の胸に同じ問いが戻ってくる。


 戻っていいのか。


 もう、辞めるべきなのか。


 電車の窓に映った自分の顔は、ひどく疲れていた。目の下に濃い影がある。髪も少し乱れている。窓の向こうに流れる暗い街と重なり、その顔はまるで知らない男のようだった。


 その知らない男の耳の奥で、まだ声が鳴っている。


 ありがとうございます。


 俺たち大丈夫です。


 そして、そのすぐあとに、赤い文字が浮かぶ。


 藤原響子。


 誠司は目を閉じた。


 電車の揺れが、体の芯に響く。車輪がレールを刻む音が、一定の間隔で続いている。がたん、がたん。その音は、どこか遠い場所へ連れていくものではなく、逃げられない場所へ近づけていく音に思えた。


 深夜十一時。


 誠司は通用口の前に立った。


 ビルの裏手は静かだった。表通りの車の音は遠く、ここまで来ると、街のざわめきは薄い膜の向こうにあるように聞こえた。植え込みの草が風に揺れ、細い葉が互いに触れて、ささやくような音を立てている。


 通用口の脇に、柴田源蔵がいた。


 いつもの作業着。いつもの無愛想な顔。


 けれど、今夜は少し違っていた。


 柴田の前には、折りたたみ椅子が二脚置かれていた。古い金属の椅子で、座面の端には擦れた跡がある。その間に小さな携帯テーブルが出され、銀色の水筒と紙コップが二つ並んでいた。


 誠司は足を止めた。


「柴田さん」


「座れ」


 柴田は短く言った。


 誠司は言われるまま、椅子に腰を下ろした。金属の脚がアスファルトを擦り、ぎしりと鳴る。夜の空気で冷えた座面が、スラックス越しにもはっきり分かった。


 柴田は水筒の蓋を開けた。


 湯気が、白く細く立ち上る。温かい茶の匂いが、湿った夜気の中にゆっくり広がった。紙コップに注がれる音が、静かな裏口に小さく響く。


 こぽ、こぽ。


 その音だけで、誠司の喉が少し緩んだ。


「飲め」


「……ありがとうございます」


 紙コップを受け取る。


 手のひらに温かさが移った。二日間、ずっと体の奥が冷えていたように感じていた。その冷えた場所に、ほんの少し熱が届く。誠司はコップを両手で包み、ゆっくり口をつけた。


 渋い味がした。


 缶コーヒーではなかった。


 そのことに気づいて、誠司はわずかに視線を落とした。


 柴田は向かいの椅子に座った。


 しばらく、二人とも何も言わなかった。


 通用口の灯りが、二人の足元を淡く照らしている。アスファルトの小さな砂粒が光を返し、その間を蟻が一匹、迷うように歩いていた。遠くで救急車のサイレンが鳴り、やがて街の奥へ消えていく。


 その音が完全に消えてから、柴田が口を開いた。


「十二年前の話をする」


 誠司の指が、紙コップの縁で止まった。


 柴田の声は低かった。いつものぶっきらぼうな声ではない。長い間、胸の奥に沈めていた石を、両手で持ち上げるような声だった。


「聞いておいた方がいい。あんたが辞めるにしても、続けるにしてもな」


 誠司は何も言わなかった。


 柴田は胸ポケットに手を入れた。


 取り出したのは、一枚の古い写真だった。端が少し曲がり、表面には細かな擦り傷がついている。長い時間、何度も見られ、何度も戻された写真だと分かった。


 柴田はそれを、誠司の前に置いた。


 通用口の灯りの下に、四人の若者が浮かび上がる。


 男が三人、女が一人。


 全員、若かった。


 笑っている者もいる。少し緊張した顔の者もいる。肩を寄せ合っているわけではないのに、不思議と四人の間には、同じ場所を見ている者だけが持つ近さがあった。


 誠司は息を呑んだ。


「この人たちは……」


「黒瀬大輝」


 柴田が、一人目を指した。


 写真の中の男は、少し照れたように笑っていた。白いシャツの袖を雑にまくり、どこか人懐っこい目をしている。


「桐島鷹也」


 次の男は、背が高く、真っすぐ前を見ていた。表情は硬いが、目の奥に強い光がある。


「宮前千紗」


 女性は、写真の端で小さく笑っていた。細い指で髪を押さえている。風が吹いていたのか、肩のあたりの髪が少し乱れていた。


 柴田の指が、最後の一人で止まった。


 その男は、他の三人よりも少しだけ後ろに立っていた。目立とうとしていない。笑ってはいるが、どこか不安そうでもある。けれど、写真の中で一番優しそうに見えた。


「影山恭一」


 柴田の声が、少しだけ掠れた。


「通称、キョウ」


 夜風が吹いた。


 写真の端が、かすかに震える。誠司は思わず指で押さえた。古い紙の感触が、指先にざらりと残る。


「一番優しくて、一番怖がりで、一番人を見捨てないやつだった」


 柴田は写真を見ていた。


 目を逸らさずに。


 けれど、その目は今の写真ではなく、もっと遠い場所を見ているようだった。


「四人は、あの端末に触れた」


 誠司の胸が、強く鳴った。


「触れた……?」


「ああ。適性があった。あんたと同じだ」


 冷たい風が、首筋を撫でた。


 誠司は紙コップを握る手に力を込めた。茶の温かさがまだ残っているのに、指先は冷たくなっていた。


 柴田は言った。


「だが、十二年前の大きな事故で、全員が帰ってこなかった」


 言葉が、夜の中に落ちた。


 重かった。


 あまりにも重くて、誠司はすぐに受け止められなかった。


 通用口の灯りの下で、四人の若者が笑っている。その写真の明るさと、柴田の声の暗さが、どうしても結びつかなかった。


「帰ってこなかった、って……」


 誠司の声は震えた。


 柴田は写真から目を離さない。


「俺はあの時、この入口を守ってた」


 柴田の手が、膝の上で固く握られた。


「四人が降りていくのを見送った」


 遠くで、風に押された草がざわりと揺れた。


 その音がやけに大きく聞こえた。


「それきりだ」


 柴田は、ゆっくり息を吐いた。


「二度と、上がってこなかった」


 誠司は、写真を見下ろした。


 黒瀬大輝。


 桐島鷹也。


 宮前千紗。


 影山恭一。


 名前を聞いたばかりの四人が、急に遠い過去の人ではなくなった。笑っている顔。緊張した目。風に乱れた髪。写真の中には、今にも何かを話し出しそうな生々しさがあった。


 誠司は喉の奥が乾くのを感じた。


「柴田さんは……それから、ずっとここに?」


 柴田はうなずかなかった。


 ただ、低く言った。


「十二年だ」


 その三文字の中に、数えきれない夜があった。


 雨の日も、雪の日も、真夏の熱い夜も。誰も来ない朝も。赤い表示が点いても、消せる者がいない時間も。帰ってこない者の名前が増えていくたび、同じ入口に立ち続けた男の時間があった。


「そしたら」


 柴田が、ようやく誠司を見た。


 その目は赤くなっていた。


「あんたが来た」


 誠司は、何も言えなかった。


 紙コップの中の茶が、夜風でわずかに揺れていた。


 その小さな波だけが、二人の間で音もなく震えていた。



柴田は、しばらく誠司を見ていた。


 通用口の灯りが、男の深い皺を斜めに照らしている。頬の影は濃く、目の下には長い夜を何度も越えてきた疲れが沈んでいた。けれど、その目だけは濁っていなかった。痛みを抱えたまま、ずっと何かを見張り続けてきた人間の目だった。


「あんたが来る前はな」


 柴田の声が、夜風に少し揺れた。


「赤いランプが点いても、消せる人間がいなかった」


 誠司の指が、写真の端を押さえたまま止まった。


 赤いランプ。


 その言葉だけで、胸の奥が重くなる。画面に浮かぶ赤い枠。細い警告音。そこにいる誰かの息遣い。自分は今、それを知っている。


 消せる者がいなかった夜。


 それがどれほど長く、暗いものだったのか、誠司には想像しきれなかった。


「何人も帰れなかった」


 柴田は、かすれた声で続けた。


「俺は入口にいた。ここに立ってた。降りていく背中も見た。戻ってこない朝も見た。家族が来て、名前を呼ぶのも聞いた」


 柴田の拳が、膝の上で小さく震えた。


 紙コップの茶が、冷え始めている。湯気はもう薄くなり、夜の空気に溶けていた。遠くの道路を車が一台通り過ぎる。タイヤが水気を含んだ路面を踏む音が、ざあ、と低く流れて、すぐに消えた。


「何もできなかった」


 その一言は、ひどく静かだった。


 怒鳴るよりも重かった。


「扉を開けることはできた。警備もできた。名前を確認して、時間を記録して、異常があれば上に知らせた。でもな、赤いランプは消せなかった。あの画面の前に座ることは、俺にはできなかった」


 誠司は顔を上げた。


「柴田さんも、端末のことを……」


「知ってる」


 柴田は短く答えた。


「触れたこともある」


 風が止まった。


 植え込みの草の音が消え、通用口の灯りの下だけが、切り取られたように静かになった。遠くの街の音も、急に薄くなる。誠司は、柴田の言葉を聞き逃すまいとして、息を詰めた。


「けど、俺には何も見えなかった。何も応えなかった。あの四人には見えて、俺には見えなかった」


 柴田は、自分の大きな手を見下ろした。


 節くれだった指。固い爪。長い年月、屋外と機械と夜に晒されてきた手だった。


「だから、あんたの手を見た時、分かったんだ」


 誠司は、自分の手を見た。


 荒れた手だった。爪の端には、まだわずかに赤黒い跡が残っているような気がした。洗っても、拭いても、落ちたはずなのに、目には残っている。


「あんたは、あの画面に応えられる手をしてた」


「でも」


 誠司の声が震えた。


「その手で、人を傷つけました」


 柴田は目を逸らさなかった。


「そうだな」


 責める声ではなかった。


 許す声でもなかった。


 ただ、事実を地面に置くような声だった。


「傷つけた。軽い怪我だろうが、痛みはあった。あんたの0.3秒は、消えない」


 誠司の胸が締めつけられた。


 逃げ場のない言葉だった。けれど、不思議と、叩きつけられた感じはしなかった。柴田は誠司を潰そうとしているのではない。その重さから目を逸らすな、と言っているだけだった。


「でもな」


 柴田は写真の四人に目を落とした。


「あんたがいなかったら、あの夜、もっと多くが帰れなかったかもしれない」


 誠司は唇を噛んだ。


「それを言われると、苦しいです」


「だろうな」


「俺は、助けた数で、自分のミスを帳消しにしたいわけじゃない」


「ああ」


「藤原さんは、痛かったはずです」


「ああ」


「怖かったはずです」


「ああ」


 柴田は、一つずつ受け止めた。


 夜の中で、二人の声だけが低く交わされる。通用口の向こうにある地下への階段は暗く、その先には端末の置かれた部屋がある。誠司はそこへ降りるのが怖かった。けれど、そこから目を逸らすこともできなかった。


「それでも」


 柴田の声が、わずかに震えた。


「あんたがいなくなったら、ここは暗くなる」


 誠司は息を止めた。


 柴田の目が赤く濡れていた。


「また、あの十二年が始まる。赤いランプが点いても、誰も消せない夜が来る。俺はもう一度、あれを見たくない」


 柴田の喉が動いた。


 押し殺したものが、そこに詰まっていた。


「俺は、四人を見送った。帰ってこなかった。何人も見送った。帰ってこない奴もいた。それでも、ここにいた。ここにいるしかなかった」


 写真の中で、四人の若者は笑っている。


 黒瀬大輝。


 桐島鷹也。


 宮前千紗。


 影山恭一。


 その名を聞いたばかりなのに、誠司の胸にはもう重さが残っていた。


「長くいる場所じゃねえって、前に言ったな」


 柴田が低く言った。


「あれは、あんたにだけ言ったんじゃない。俺自身にも言ってた」


 夜風が戻ってきた。


 植え込みの草が、ざわりと揺れる。細い葉が擦れ合い、乾いた音を立てる。その音が、十二年分の静けさを少しだけ動かしたように聞こえた。


「長くいると、失うものが増える」


 柴田は、目を伏せた。


「でも、離れられなかった」


 誠司は、紙コップを両手で握った。


 茶はもうぬるい。それでも、指先に残る温度だけが、現実に繋ぎ止めてくれるようだった。


「柴田さん」


「なんだ」


「俺は、怖いです」


 声は小さかった。


「また誰かを傷つけるかもしれない。今度は、軽傷じゃ済まないかもしれない。そう思うと、あの椅子に座るのが怖いです」


 柴田は何も言わなかった。


 誠司は、自分の手を見た。


 会社で書類を持つ手。子どもの水筒を洗う手。美咲に渡された買い物袋を持つ手。深夜、赤い表示を消す手。


 特別な手ではない。


 それでも。


「この手で消した赤いランプの分だけ」


 誠司は、ゆっくり言った。


「帰れた人がいるんですよね」


 柴田は、深くうなずいた。


「ああ」


 その一言が、誠司の胸に落ちた。


 軽くはならなかった。


 むしろ、もっと重くなった。


 けれど、その重さは、逃げるための重さではなかった。持って立つための重さだった。


 誠司は立ち上がった。


 椅子の脚がアスファルトを擦り、乾いた音を立てる。膝は少し震えていた。怖さは消えていない。胸の奥には、藤原響子の名前が残っている。犬飼の声も残っている。柴田の十二年も、写真の四人も、全部が重なって、簡単には息ができなかった。


 それでも、言葉は出た。


「俺は帰ります」


 柴田が顔を上げた。


 誠司は続けた。


「でも、また来ます」


 夜の空気が、二人の間を通り抜けた。


「帰りたい場所がある人を帰すって、コトリに言いました。偉そうに言ったんです」


 誠司は、少しだけ目を伏せた。


「嘘にしたくないです」


 柴田は、長い間、誠司を見ていた。


 そして、笑った。


 声を出して笑った。


 乾いていて、少し掠れていて、長い間使っていなかった扉が開くような笑いだった。大きな笑いではない。けれど、通用口の冷たい空気を少しだけ変えるには十分だった。


「佐藤さん」


 柴田は胸ポケットに手を入れた。


 取り出したのは、一本の缶コーヒーだった。


 いつもの、少し甘い缶コーヒー。


 蛍光灯の光を受けて、缶の表面に白い線が走る。


「あんた、ほんとにいい手をしてるよ」


 柴田はそれを差し出した。


「これは、帰ってきた時の分だ」


 誠司は缶を受け取った。


 金属は冷たかった。


 けれど、その冷たさが指先から胸の奥へ伝わる前に、別の温かさが広がった。誠司は缶を握りしめ、深く頭を下げた。


「行ってきます」


「ああ」


 柴田は、写真をゆっくり胸ポケットに戻した。


「行ってこい」


     ◇


 地下三階へ降りる階段は、いつもより長く感じた。


 壁は冷たく、蛍光灯の光は青白い。靴音が一段ごとに響く。こつ、こつ、こつ。その音はまだ少し震えていた。だが、止まらなかった。


 作業室の前で、誠司は一度だけ息を吸った。


 扉を開ける。


 冷たい空気。


 古い机。


 黒い画面。


 すべてが、二日前と同じだった。


 それなのに、誠司には少し違って見えた。


 椅子に座り、端末に触れる。


 画面が淡く光った。


『おかえりなさい、誠司』


 誠司は、動きを止めた。


 その一言が、胸の奥にゆっくり届く。


 おかえり。


 家で聞く言葉。


 帰る場所で聞く言葉。


 地下三階の冷たい作業室で、その言葉を聞くとは思わなかった。


「……ただいま、コトリ」


 声が、少し震えた。


 画面に文字が浮かぶ。


【管理者:佐藤誠司】


【権限:第二段階】


【ステータス:正式承認】


【累積操作回数:41】


 続いて、新しい表示が現れた。


【通知】


【第三段階権限の開放条件を満たしました】


【第三段階:深層対話】


【この権限を開放すると、管理領域の中枢応答に接触することが可能になります】


【開放には管理者本人の明示的な同意が必要です】


【現在の状態:保留中】


 誠司は、画面を見つめた。


「管理領域の……中枢応答?」


『はい』


 コトリの声は静かだった。


『開放しますか』


 誠司は、しばらく黙っていた。


 端末の光が、顔を照らしている。背中にはまだ汗がにじんでいた。怖さはある。何も分からないまま進むことへの不安もある。だが、さっきまでのように、ただ逃げ出したいだけではなかった。


 写真の四人。


 柴田の涙。


 藤原響子の名前。


 犬飼の声。


 美咲の「気をつけて」。


 全部が、誠司の中にあった。


「今は、いい」


 誠司は言った。


「まだ早い」


『承認しました。第三段階権限は保留されます』


「それでいい」


 誠司は、深く息を吸った。


 冷たい空気が肺に入る。


 胸の奥に残る痛みは消えない。消してはいけない気もした。0.3秒の遅れも、傷ついた腕も、全部抱えたまま座るしかない。


 それでも、座った。


「今夜は、赤いランプ、何件ある?」


『七件です』


 誠司はうなずいた。


 手を見る。


 荒れた手。


 震えを知っている手。


 血を落とした手。


 それでも、まだ動かせる手。


「よし」


 画面に赤い表示が開く。


 誠司は背筋を伸ばした。


 耳の奥で、遠い声がかすかに響く。


 ありがとうございます。


 そして、その奥に、まだ聞いたことのない誰かの足音がある気がした。


 帰りたい場所へ向かう足音が。


 誠司は、最初の赤い枠に指を置いた。


 夜はまだ深い。


 けれど、地下三階の作業室に、ひとつめの赤が静かに消える光が灯った。

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