第20話 十二年の番人 〜帰らぬ人は、残る人を歩かせる〜
二日間、佐藤誠司は眠れなかった。
布団には入った。電気も消した。スマートフォンも見ないようにした。けれど、目を閉じるたび、暗闇の中に赤い文字が浮かんだ。
【修正適用遅延:0.3秒】
【区画内人員への影響:1名負傷】
その下に、藤原響子という名前が出る。
二十七歳。
右前腕打撲・擦過傷。
行動可能。
自力退避済み。
何度も同じ文字が胸の奥で点滅し、そのたびに喉が詰まった。軽傷だと分かっている。命に関わる状態ではなかったと、コトリも言っていた。それでも、そこに痛みが生まれたことは消えない。
誰かの腕に走った痛み。
誰かが息を呑んだ瞬間。
それを、自分の指が作った。
寝返りを打つと、薄い布団がかさりと鳴った。部屋の中は静かだった。カーテンの隙間から街灯の光が細く入り、天井に淡い筋を作っている。冷蔵庫の低い音が、台所の方からかすかに聞こえた。家の中には、当たり前の夜があった。
隣の部屋では、子どもたちが眠っている。
小さな寝息。時々、布団を蹴る音。美咲が何度か起きて、そっと掛け直している気配。
誠司はその音を聞きながら、天井を見続けた。
自分には帰る場所がある。
そのことを思うたび、胸の奥が温かくなるはずだった。けれど今は、その温かさのすぐ隣に冷たいものがあった。
帰りたい場所がある人を帰す。
そう言った。
なのに、自分は人を傷つけた。
朝になっても、体は重かった。
会社では、いつも通りにした。いつも通り席に座り、いつも通り書類を確認し、いつも通り呼ばれれば返事をした。誰かが「佐藤さん、これお願いできます?」と言えば、「わかりました」と答えた。
それ以外の言葉が出なかった。
昼休み、弁当の蓋を開けても箸が進まなかった。白米の湯気はとっくに消え、卵焼きの黄色だけが妙に鮮やかに見えた。窓の外では風が吹き、街路樹の葉が揺れていた。葉と葉が擦れる乾いた音は、ガラス越しには聞こえない。ただ、光の中で緑の影が揺れるだけだった。
二日目の夜。
誠司は玄関で靴を履いたまま、しばらく動けなかった。
行かなければ、終わる。
行けば、また始まる。
そのどちらも、怖かった。
廊下の奥から、美咲の声がした。
「行くの?」
誠司は振り返った。
美咲は台所の明かりを背に立っていた。髪を後ろで軽くまとめ、手には布巾を持っている。いつも通りの姿だった。けれど、目だけはいつもより深く誠司を見ていた。
「……うん」
「顔色、悪いよ」
「大丈夫」
口にした瞬間、自分でも嘘だと分かった。
美咲も分かっていたのだろう。何も言わず、ただ布巾を握る指に少し力を入れた。
沈黙が玄関に落ちた。
外では、風が弱く吹いていた。扉の向こうで、どこかの家の植木鉢の葉が擦れる音がする。部屋の中では、子どもたちの寝息が遠くにあった。その静けさの中で、誠司は美咲に何か言わなければと思った。
けれど、言葉は出なかった。
「遅くなる?」
「たぶん、朝には帰る」
美咲は小さくうなずいた。
「気をつけて」
その一言が、胸に刺さった。
誠司は「行ってきます」と言い、扉を開けた。
夜の空気が流れ込む。
湿った風が頬に触れた。外の空は雲が薄く広がり、月は白くぼやけていた。街灯の下で、道端の草が低く揺れている。葉先についた水滴が光を受け、足元で小さく瞬いた。
駅へ向かう道は、いつもより長く感じた。
アスファルトを踏む靴音が、夜の中に沈んでいく。こつ、こつ、と鳴るたび、誠司の胸に同じ問いが戻ってくる。
戻っていいのか。
もう、辞めるべきなのか。
電車の窓に映った自分の顔は、ひどく疲れていた。目の下に濃い影がある。髪も少し乱れている。窓の向こうに流れる暗い街と重なり、その顔はまるで知らない男のようだった。
その知らない男の耳の奥で、まだ声が鳴っている。
ありがとうございます。
俺たち大丈夫です。
そして、そのすぐあとに、赤い文字が浮かぶ。
藤原響子。
誠司は目を閉じた。
電車の揺れが、体の芯に響く。車輪がレールを刻む音が、一定の間隔で続いている。がたん、がたん。その音は、どこか遠い場所へ連れていくものではなく、逃げられない場所へ近づけていく音に思えた。
深夜十一時。
誠司は通用口の前に立った。
ビルの裏手は静かだった。表通りの車の音は遠く、ここまで来ると、街のざわめきは薄い膜の向こうにあるように聞こえた。植え込みの草が風に揺れ、細い葉が互いに触れて、ささやくような音を立てている。
通用口の脇に、柴田源蔵がいた。
いつもの作業着。いつもの無愛想な顔。
けれど、今夜は少し違っていた。
柴田の前には、折りたたみ椅子が二脚置かれていた。古い金属の椅子で、座面の端には擦れた跡がある。その間に小さな携帯テーブルが出され、銀色の水筒と紙コップが二つ並んでいた。
誠司は足を止めた。
「柴田さん」
「座れ」
柴田は短く言った。
誠司は言われるまま、椅子に腰を下ろした。金属の脚がアスファルトを擦り、ぎしりと鳴る。夜の空気で冷えた座面が、スラックス越しにもはっきり分かった。
柴田は水筒の蓋を開けた。
湯気が、白く細く立ち上る。温かい茶の匂いが、湿った夜気の中にゆっくり広がった。紙コップに注がれる音が、静かな裏口に小さく響く。
こぽ、こぽ。
その音だけで、誠司の喉が少し緩んだ。
「飲め」
「……ありがとうございます」
紙コップを受け取る。
手のひらに温かさが移った。二日間、ずっと体の奥が冷えていたように感じていた。その冷えた場所に、ほんの少し熱が届く。誠司はコップを両手で包み、ゆっくり口をつけた。
渋い味がした。
缶コーヒーではなかった。
そのことに気づいて、誠司はわずかに視線を落とした。
柴田は向かいの椅子に座った。
しばらく、二人とも何も言わなかった。
通用口の灯りが、二人の足元を淡く照らしている。アスファルトの小さな砂粒が光を返し、その間を蟻が一匹、迷うように歩いていた。遠くで救急車のサイレンが鳴り、やがて街の奥へ消えていく。
その音が完全に消えてから、柴田が口を開いた。
「十二年前の話をする」
誠司の指が、紙コップの縁で止まった。
柴田の声は低かった。いつものぶっきらぼうな声ではない。長い間、胸の奥に沈めていた石を、両手で持ち上げるような声だった。
「聞いておいた方がいい。あんたが辞めるにしても、続けるにしてもな」
誠司は何も言わなかった。
柴田は胸ポケットに手を入れた。
取り出したのは、一枚の古い写真だった。端が少し曲がり、表面には細かな擦り傷がついている。長い時間、何度も見られ、何度も戻された写真だと分かった。
柴田はそれを、誠司の前に置いた。
通用口の灯りの下に、四人の若者が浮かび上がる。
男が三人、女が一人。
全員、若かった。
笑っている者もいる。少し緊張した顔の者もいる。肩を寄せ合っているわけではないのに、不思議と四人の間には、同じ場所を見ている者だけが持つ近さがあった。
誠司は息を呑んだ。
「この人たちは……」
「黒瀬大輝」
柴田が、一人目を指した。
写真の中の男は、少し照れたように笑っていた。白いシャツの袖を雑にまくり、どこか人懐っこい目をしている。
「桐島鷹也」
次の男は、背が高く、真っすぐ前を見ていた。表情は硬いが、目の奥に強い光がある。
「宮前千紗」
女性は、写真の端で小さく笑っていた。細い指で髪を押さえている。風が吹いていたのか、肩のあたりの髪が少し乱れていた。
柴田の指が、最後の一人で止まった。
その男は、他の三人よりも少しだけ後ろに立っていた。目立とうとしていない。笑ってはいるが、どこか不安そうでもある。けれど、写真の中で一番優しそうに見えた。
「影山恭一」
柴田の声が、少しだけ掠れた。
「通称、キョウ」
夜風が吹いた。
写真の端が、かすかに震える。誠司は思わず指で押さえた。古い紙の感触が、指先にざらりと残る。
「一番優しくて、一番怖がりで、一番人を見捨てないやつだった」
柴田は写真を見ていた。
目を逸らさずに。
けれど、その目は今の写真ではなく、もっと遠い場所を見ているようだった。
「四人は、あの端末に触れた」
誠司の胸が、強く鳴った。
「触れた……?」
「ああ。適性があった。あんたと同じだ」
冷たい風が、首筋を撫でた。
誠司は紙コップを握る手に力を込めた。茶の温かさがまだ残っているのに、指先は冷たくなっていた。
柴田は言った。
「だが、十二年前の大きな事故で、全員が帰ってこなかった」
言葉が、夜の中に落ちた。
重かった。
あまりにも重くて、誠司はすぐに受け止められなかった。
通用口の灯りの下で、四人の若者が笑っている。その写真の明るさと、柴田の声の暗さが、どうしても結びつかなかった。
「帰ってこなかった、って……」
誠司の声は震えた。
柴田は写真から目を離さない。
「俺はあの時、この入口を守ってた」
柴田の手が、膝の上で固く握られた。
「四人が降りていくのを見送った」
遠くで、風に押された草がざわりと揺れた。
その音がやけに大きく聞こえた。
「それきりだ」
柴田は、ゆっくり息を吐いた。
「二度と、上がってこなかった」
誠司は、写真を見下ろした。
黒瀬大輝。
桐島鷹也。
宮前千紗。
影山恭一。
名前を聞いたばかりの四人が、急に遠い過去の人ではなくなった。笑っている顔。緊張した目。風に乱れた髪。写真の中には、今にも何かを話し出しそうな生々しさがあった。
誠司は喉の奥が乾くのを感じた。
「柴田さんは……それから、ずっとここに?」
柴田はうなずかなかった。
ただ、低く言った。
「十二年だ」
その三文字の中に、数えきれない夜があった。
雨の日も、雪の日も、真夏の熱い夜も。誰も来ない朝も。赤い表示が点いても、消せる者がいない時間も。帰ってこない者の名前が増えていくたび、同じ入口に立ち続けた男の時間があった。
「そしたら」
柴田が、ようやく誠司を見た。
その目は赤くなっていた。
「あんたが来た」
誠司は、何も言えなかった。
紙コップの中の茶が、夜風でわずかに揺れていた。
その小さな波だけが、二人の間で音もなく震えていた。
柴田は、しばらく誠司を見ていた。
通用口の灯りが、男の深い皺を斜めに照らしている。頬の影は濃く、目の下には長い夜を何度も越えてきた疲れが沈んでいた。けれど、その目だけは濁っていなかった。痛みを抱えたまま、ずっと何かを見張り続けてきた人間の目だった。
「あんたが来る前はな」
柴田の声が、夜風に少し揺れた。
「赤いランプが点いても、消せる人間がいなかった」
誠司の指が、写真の端を押さえたまま止まった。
赤いランプ。
その言葉だけで、胸の奥が重くなる。画面に浮かぶ赤い枠。細い警告音。そこにいる誰かの息遣い。自分は今、それを知っている。
消せる者がいなかった夜。
それがどれほど長く、暗いものだったのか、誠司には想像しきれなかった。
「何人も帰れなかった」
柴田は、かすれた声で続けた。
「俺は入口にいた。ここに立ってた。降りていく背中も見た。戻ってこない朝も見た。家族が来て、名前を呼ぶのも聞いた」
柴田の拳が、膝の上で小さく震えた。
紙コップの茶が、冷え始めている。湯気はもう薄くなり、夜の空気に溶けていた。遠くの道路を車が一台通り過ぎる。タイヤが水気を含んだ路面を踏む音が、ざあ、と低く流れて、すぐに消えた。
「何もできなかった」
その一言は、ひどく静かだった。
怒鳴るよりも重かった。
「扉を開けることはできた。警備もできた。名前を確認して、時間を記録して、異常があれば上に知らせた。でもな、赤いランプは消せなかった。あの画面の前に座ることは、俺にはできなかった」
誠司は顔を上げた。
「柴田さんも、端末のことを……」
「知ってる」
柴田は短く答えた。
「触れたこともある」
風が止まった。
植え込みの草の音が消え、通用口の灯りの下だけが、切り取られたように静かになった。遠くの街の音も、急に薄くなる。誠司は、柴田の言葉を聞き逃すまいとして、息を詰めた。
「けど、俺には何も見えなかった。何も応えなかった。あの四人には見えて、俺には見えなかった」
柴田は、自分の大きな手を見下ろした。
節くれだった指。固い爪。長い年月、屋外と機械と夜に晒されてきた手だった。
「だから、あんたの手を見た時、分かったんだ」
誠司は、自分の手を見た。
荒れた手だった。爪の端には、まだわずかに赤黒い跡が残っているような気がした。洗っても、拭いても、落ちたはずなのに、目には残っている。
「あんたは、あの画面に応えられる手をしてた」
「でも」
誠司の声が震えた。
「その手で、人を傷つけました」
柴田は目を逸らさなかった。
「そうだな」
責める声ではなかった。
許す声でもなかった。
ただ、事実を地面に置くような声だった。
「傷つけた。軽い怪我だろうが、痛みはあった。あんたの0.3秒は、消えない」
誠司の胸が締めつけられた。
逃げ場のない言葉だった。けれど、不思議と、叩きつけられた感じはしなかった。柴田は誠司を潰そうとしているのではない。その重さから目を逸らすな、と言っているだけだった。
「でもな」
柴田は写真の四人に目を落とした。
「あんたがいなかったら、あの夜、もっと多くが帰れなかったかもしれない」
誠司は唇を噛んだ。
「それを言われると、苦しいです」
「だろうな」
「俺は、助けた数で、自分のミスを帳消しにしたいわけじゃない」
「ああ」
「藤原さんは、痛かったはずです」
「ああ」
「怖かったはずです」
「ああ」
柴田は、一つずつ受け止めた。
夜の中で、二人の声だけが低く交わされる。通用口の向こうにある地下への階段は暗く、その先には端末の置かれた部屋がある。誠司はそこへ降りるのが怖かった。けれど、そこから目を逸らすこともできなかった。
「それでも」
柴田の声が、わずかに震えた。
「あんたがいなくなったら、ここは暗くなる」
誠司は息を止めた。
柴田の目が赤く濡れていた。
「また、あの十二年が始まる。赤いランプが点いても、誰も消せない夜が来る。俺はもう一度、あれを見たくない」
柴田の喉が動いた。
押し殺したものが、そこに詰まっていた。
「俺は、四人を見送った。帰ってこなかった。何人も見送った。帰ってこない奴もいた。それでも、ここにいた。ここにいるしかなかった」
写真の中で、四人の若者は笑っている。
黒瀬大輝。
桐島鷹也。
宮前千紗。
影山恭一。
その名を聞いたばかりなのに、誠司の胸にはもう重さが残っていた。
「長くいる場所じゃねえって、前に言ったな」
柴田が低く言った。
「あれは、あんたにだけ言ったんじゃない。俺自身にも言ってた」
夜風が戻ってきた。
植え込みの草が、ざわりと揺れる。細い葉が擦れ合い、乾いた音を立てる。その音が、十二年分の静けさを少しだけ動かしたように聞こえた。
「長くいると、失うものが増える」
柴田は、目を伏せた。
「でも、離れられなかった」
誠司は、紙コップを両手で握った。
茶はもうぬるい。それでも、指先に残る温度だけが、現実に繋ぎ止めてくれるようだった。
「柴田さん」
「なんだ」
「俺は、怖いです」
声は小さかった。
「また誰かを傷つけるかもしれない。今度は、軽傷じゃ済まないかもしれない。そう思うと、あの椅子に座るのが怖いです」
柴田は何も言わなかった。
誠司は、自分の手を見た。
会社で書類を持つ手。子どもの水筒を洗う手。美咲に渡された買い物袋を持つ手。深夜、赤い表示を消す手。
特別な手ではない。
それでも。
「この手で消した赤いランプの分だけ」
誠司は、ゆっくり言った。
「帰れた人がいるんですよね」
柴田は、深くうなずいた。
「ああ」
その一言が、誠司の胸に落ちた。
軽くはならなかった。
むしろ、もっと重くなった。
けれど、その重さは、逃げるための重さではなかった。持って立つための重さだった。
誠司は立ち上がった。
椅子の脚がアスファルトを擦り、乾いた音を立てる。膝は少し震えていた。怖さは消えていない。胸の奥には、藤原響子の名前が残っている。犬飼の声も残っている。柴田の十二年も、写真の四人も、全部が重なって、簡単には息ができなかった。
それでも、言葉は出た。
「俺は帰ります」
柴田が顔を上げた。
誠司は続けた。
「でも、また来ます」
夜の空気が、二人の間を通り抜けた。
「帰りたい場所がある人を帰すって、コトリに言いました。偉そうに言ったんです」
誠司は、少しだけ目を伏せた。
「嘘にしたくないです」
柴田は、長い間、誠司を見ていた。
そして、笑った。
声を出して笑った。
乾いていて、少し掠れていて、長い間使っていなかった扉が開くような笑いだった。大きな笑いではない。けれど、通用口の冷たい空気を少しだけ変えるには十分だった。
「佐藤さん」
柴田は胸ポケットに手を入れた。
取り出したのは、一本の缶コーヒーだった。
いつもの、少し甘い缶コーヒー。
蛍光灯の光を受けて、缶の表面に白い線が走る。
「あんた、ほんとにいい手をしてるよ」
柴田はそれを差し出した。
「これは、帰ってきた時の分だ」
誠司は缶を受け取った。
金属は冷たかった。
けれど、その冷たさが指先から胸の奥へ伝わる前に、別の温かさが広がった。誠司は缶を握りしめ、深く頭を下げた。
「行ってきます」
「ああ」
柴田は、写真をゆっくり胸ポケットに戻した。
「行ってこい」
◇
地下三階へ降りる階段は、いつもより長く感じた。
壁は冷たく、蛍光灯の光は青白い。靴音が一段ごとに響く。こつ、こつ、こつ。その音はまだ少し震えていた。だが、止まらなかった。
作業室の前で、誠司は一度だけ息を吸った。
扉を開ける。
冷たい空気。
古い机。
黒い画面。
すべてが、二日前と同じだった。
それなのに、誠司には少し違って見えた。
椅子に座り、端末に触れる。
画面が淡く光った。
『おかえりなさい、誠司』
誠司は、動きを止めた。
その一言が、胸の奥にゆっくり届く。
おかえり。
家で聞く言葉。
帰る場所で聞く言葉。
地下三階の冷たい作業室で、その言葉を聞くとは思わなかった。
「……ただいま、コトリ」
声が、少し震えた。
画面に文字が浮かぶ。
【管理者:佐藤誠司】
【権限:第二段階】
【ステータス:正式承認】
【累積操作回数:41】
続いて、新しい表示が現れた。
【通知】
【第三段階権限の開放条件を満たしました】
【第三段階:深層対話】
【この権限を開放すると、管理領域の中枢応答に接触することが可能になります】
【開放には管理者本人の明示的な同意が必要です】
【現在の状態:保留中】
誠司は、画面を見つめた。
「管理領域の……中枢応答?」
『はい』
コトリの声は静かだった。
『開放しますか』
誠司は、しばらく黙っていた。
端末の光が、顔を照らしている。背中にはまだ汗がにじんでいた。怖さはある。何も分からないまま進むことへの不安もある。だが、さっきまでのように、ただ逃げ出したいだけではなかった。
写真の四人。
柴田の涙。
藤原響子の名前。
犬飼の声。
美咲の「気をつけて」。
全部が、誠司の中にあった。
「今は、いい」
誠司は言った。
「まだ早い」
『承認しました。第三段階権限は保留されます』
「それでいい」
誠司は、深く息を吸った。
冷たい空気が肺に入る。
胸の奥に残る痛みは消えない。消してはいけない気もした。0.3秒の遅れも、傷ついた腕も、全部抱えたまま座るしかない。
それでも、座った。
「今夜は、赤いランプ、何件ある?」
『七件です』
誠司はうなずいた。
手を見る。
荒れた手。
震えを知っている手。
血を落とした手。
それでも、まだ動かせる手。
「よし」
画面に赤い表示が開く。
誠司は背筋を伸ばした。
耳の奥で、遠い声がかすかに響く。
ありがとうございます。
そして、その奥に、まだ聞いたことのない誰かの足音がある気がした。
帰りたい場所へ向かう足音が。
誠司は、最初の赤い枠に指を置いた。
夜はまだ深い。
けれど、地下三階の作業室に、ひとつめの赤が静かに消える光が灯った。




