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減給された40代社畜、深夜バイトで国家級ダンジョンの管理者になる  作者: Gaku
第1部:深夜バイト編

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19/42

第19話 0.3秒 〜小さな遅れは、消えない重さになる〜

その夜、風はほとんどなかった。


 家を出た佐藤誠司の頬に触れた空気は、湿っていて重かった。雲が低く垂れ込め、街灯の光は白くにじんでいる。道端の草は動かず、細い葉先に溜まった夜露だけが、電柱の明かりを受けて小さく光っていた。


 誠司は鞄を持ち直した。


 手のひらに、持ち手の跡が食い込んでいる。指先に力を入れると、関節の奥が鈍く痛んだ。昨夜は二時間ほどしか眠れていない。布団に入っても、耳の奥に若い男の声が残っていた。


 ありがとうございます。


 俺たち大丈夫です。


 あの声を思い出すたび、胸の奥に温かいものが広がった。けれど同時に、その温かさは誠司を眠らせなかった。自分が押した一つで誰かが助かった。そう思うたびに、今度は押し間違えたらどうなるのかという黒い考えが、暗い天井に滲み出てきた。


 駅へ向かう道は静かだった。


 遠くでトラックが走る音がした。アスファルトを踏む靴音が、湿った夜気の中で鈍く響く。コツ、ではなく、こつ、と沈むような音だった。足が重い。まぶたの裏が熱い。頭の芯に、薄い霧がかかったような感覚がある。


 それでも、誠司は歩いた。


 帰りたい場所がある人を帰す。


 その言葉を、自分で言ってしまったからだ。


 地下三階の作業室に入った時、空気の冷たさで一瞬だけ目が覚めた。


 扉の内側には、いつもの静けさがあった。古い空調の唸り。端末の黒い画面。机の縁に溜まった薄い埃。蛍光灯の光が白く落ち、床に誠司の影を細く伸ばしている。


 椅子に座ると、腰が軋むように痛んだ。


「コトリ、始めよう」


 声は、自分でも驚くほど低かった。


 画面が淡く光る。


『こんばんは、誠司』


「こんばんは」


『十六度目の勤務を開始します』


 その直後、画面が赤く染まった。


 誠司は息を止めた。


 赤い枠が一つではなかった。二つ、三つ、四つ。次々と並び、画面の左側に縦に積み上がっていく。赤い表示が増えるたび、部屋の温度が一段ずつ下がっていくように感じた。


【緊急表示:13件】


 誠司の喉が、からりと鳴った。


「十三……」


『過去最多と同数です』


 コトリの声は落ち着いていた。


 だが、誠司の胸は落ち着かなかった。心臓が速い。息を吸うと、肺の途中で空気が引っかかる。手のひらに汗が浮かんだ。マウスに触れた指が湿っている。


「順番にやる」


『推奨順を表示します』


 赤い枠の横に番号が振られた。


 一件目。A-7区画、通路閉塞傾向。


 二件目。C-4区画、足場沈下。


 三件目。B-2区画、視界障害。


 文字が並ぶ。どれも短い。けれど、その短い文字の奥に、人の呼吸がある。足音がある。恐怖で乾いた喉がある。誠司はそれを知ってしまっていた。


「一件目から」


 椅子に深く座る余裕はなかった。


 前かがみになり、画面に近づく。目が乾いている。瞬きをすると、細かな文字が一瞬だけぼやけた。指先で目頭を押さえたい衝動をこらえ、誠司は操作に入った。


 一件目は、通路の支えを固定する処理だった。


 二件目は、沈下した床面の一部を迂回させる処理。


 三件目は、視界を塞いでいた濃い霧のような表示を、別の方向へ流す処理。


 一つ終えるたび、赤い枠が消える。


 そのたび、誠司は短く息を吐いた。だが、安堵している時間はない。消えた赤の下に、別の赤が待っている。画面の端で小さな警告が点滅し続け、誠司の目の奥を刺した。


 四件目。


 五件目。


 六件目。


 処理を重ねるほど、頭の中が熱くなっていく。冷たい作業室にいるはずなのに、背中には汗が滲んでいた。シャツが肌に貼りつく。首筋を伝った汗が空調の風で冷え、ぞくりとした寒さに変わる。


 コトリの声が、何度も確認を入れた。


『処理は適切です』


『次の表示へ移行します』


『肉体負荷が上昇しています』


「分かってる」


 誠司は短く答えた。


 声に余裕がなかった。


 七件目を終えた時、右手が小さく震えていることに気づいた。手首を机の端に押しつける。止まれ、と心の中で命じた。震えるな。今は震えるな。


 八件目。


【B-11区画 経路分岐異常】


【区画内人員:1名】


 誠司は唇を噛み、処理を進めた。


 青い線が伸びる。赤い枠が薄くなる。


【処理完了】


 息を吐いた瞬間、鼻の奥がつんと痛んだ。


 誠司は一瞬、顔をしかめた。


 嫌な感覚だった。乾いた粘膜が裂けるような、細い痛み。けれど今は止まれない。残り五件。まだ五件ある。


「次」


『九件目です』


 画面が切り替わった。


【警告】


【B-8区画 退避経路α】


【連動パラメータ修正必要】


【区画内人員:4名】


 四名。


 誠司の目が、その数字に止まった。


 四人。


 あの夜の記憶が、胸を叩いた。画面の向こうに人がいると、初めて強く感じた時の数字。逃げ道を作り、赤い光が消えた時の感触。そこから、自分はここに座り続ける理由を見つけてしまった。


「やる」


『連動パラメータを表示します』


 画面に細かな線と数値が並ぶ。


 退避経路αは、途中で二つの補助経路とつながっていた。どれかを固定すれば、別のどこかに負荷が流れる。前にも似たような処理をしたことがある。0.2%のずれ。あの時は大きな問題にはならなかった。だが、誠司は覚えている。


 小さなずれは、小さなまま終わるとは限らない。


 慎重にやれ。


 急げ。


 両方の命令が、頭の中でぶつかった。


 B-8区画の安定値が下がっていく。


 画面の端で、数字が淡々と動いた。


 98.1。


 97.6。


 97.0。


 誠司は選択肢を確認した。補助経路の一つを残し、もう一つを一時的に閉じる。圧力を逃がす方向を少し変える。退避中の四名が通る経路を確保する。


「コトリ、これで行けるか」


『適切です。ただし、確定操作は12秒以内を推奨します』


「分かった」


 誠司は確定枠に指を置いた。


 その瞬間だった。


 鼻の奥で、熱いものが弾けた。


 ぽたり。


 赤い滴が、机の上に落ちた。


 誠司は固まった。


 一瞬、何が起きたのか分からなかった。次の滴が、上唇を伝う。ぬるい。鉄の匂いがする。息を吸った途端、喉の奥に血の味が広がった。


『誠司、鼻出血を検知』


「あとでいい」


 声が荒れた。


 画面を見る。確定枠。時間。B-8区画。四名。


 押せ。


 押せ。


 今、押せ。


 だが、血がもう一滴落ちた。手の甲に当たり、赤く広がった。反射的に左手で鼻を押さえた。そのわずかな動作で、右手の指先が確定枠からほんの少しずれた。


『推奨時間を超過』


「くそっ」


 誠司は指を戻し、確定した。


 画面が白く瞬いた。


 次の瞬間、赤い警告が新しく開いた。


【B-8区画 退避経路α】


【修正適用遅延:0.3秒】


【区画内人員への影響:1名負傷】


 誠司の呼吸が止まった。


 画面の文字だけが、異様なほど鮮明に見えた。


【負傷者:登録活動者 藤原響子(27歳)】


【負傷程度:右前腕打撲・擦過傷】


【行動可能】


【自力退避済み】


 作業室から、音が消えた。


 空調の唸りも、端末の稼働音も、遠くの配管の水音も、何も聞こえなかった。


 ただ、机の上に落ちた血の滴が、端末の光を受けて黒く光っていた。


「俺が」


 誠司の声は、掠れていた。


「0.3秒、遅れた」


 鼻を押さえた左手の隙間から、血がにじむ。


 それでも誠司は、画面から目を離せなかった。


 藤原響子。


 二十七歳。


 右前腕打撲・擦過傷。


 行動可能。


 自力退避済み。


 軽いと書いてある。動けると書いてある。けれど、そんな文字は何の救いにもならなかった。


 人が傷ついた。


 自分の操作で。


 自分の遅れで。


『負傷者の状態は軽度です。生命危険は確認されていません』


「やめてくれ」


 誠司は、初めてコトリの声を遮った。


『誠司』


「やめてくれ……俺がミスしたんだ」


 言葉が、震えた。


 血の匂いが濃くなる。喉が熱い。視界の端が白くちらついた。机に置いた右手が震えている。指先が自分のものではないように、細かく揺れていた。


 画面には、まだ赤い表示が四件残っていた。


 けれど誠司は、その赤を見ても動けなかった。


 ありがとうございます。


 あの声が、耳の奥で聞こえた。


 昨日、確かに届いた声。


 その翌日に。


 自分は、人を傷つけた。


 誠司は血のついた手で口元を押さえ、椅子の上で身を折った。


 地下三階の作業室に、重すぎる沈黙が落ちた。


 その沈黙の中で、残った赤い表示だけが、まだ助けを求めるように点滅していた。


赤い表示は、消えなかった。


 画面の中で、四つの警告がまだ点滅している。一定の間隔で赤が濃くなり、薄くなり、また濃くなる。その光が誠司の顔を照らすたび、頬に流れた血の跡が黒く浮かんだ。


 動かなければならない。


 分かっていた。


 今ここで止まれば、また誰かが傷つくかもしれない。さっきの一人だけでは済まなくなるかもしれない。頭では分かっている。けれど、体が動かない。指が、机の上で固まっている。


 藤原響子。


 その名前が、画面の奥から離れなかった。


『誠司』


 コトリの声がした。


『残り四件の処理が必要です』


「……分かってる」


 声が出たことに、自分で驚いた。


 誠司は左手で鼻を押さえたまま、右手を動かした。血の匂いが強い。息を吸うたび、喉の奥に鉄の味が落ちてくる。視界はまだ少し揺れていた。赤い文字の輪郭が、滲んでは戻る。


 逃げるな。


 今は、逃げるな。


 自分に言い聞かせる。


 九件目で人を傷つけた。その事実は消えない。けれど、十件目以降の人間まで巻き込んでいい理由にはならない。


「十件目」


『表示します』


 画面が切り替わる。


【C-9区画 足場傾斜】


【区画内人員:2名】


 誠司は歯を食いしばった。


 手が震える。確定枠に指を置くたび、さっきの0.3秒が脳裏をよぎる。押すのが怖い。押さないのはもっと怖い。どちらを選んでも、画面の向こうには人がいる。


 処理を進める。


 足場の傾きを抑え、退避側の床を固定する。二名の光点がゆっくり移動する。赤い枠が消える。


 息を吐く。


 まだ、終わらない。


 十一件目。


 十二件目。


 十三件目。


 一つずつ消していくたび、誠司の中で何かが削れていった。成功しても、喜べなかった。安全表示が出ても、胸は軽くならなかった。むしろ、処理が終わるたび、さっき傷ついた一人の名前がさらに濃く浮かび上がった。


 最後の赤い表示が消えた時、作業室は静まり返っていた。


 端末は淡い青に戻っている。


 机の上には、血の跡がいくつも残っていた。ティッシュで押さえたはずなのに、指の間から落ちた滴が、白い机に赤黒く広がっている。誠司はそれを見下ろした。


 人を助けるための場所で、自分の血が落ちている。


 そのことが、妙におかしかった。


 笑えなかった。


『全件処理完了』


 コトリが告げた。


『B-8区画を除き、区画内人員への影響は確認されていません』


 B-8区画を除き。


 その言葉が、胸をえぐった。


「コトリ」


『はい』


「藤原響子さんは」


『安全区域へ到達しています。右前腕の打撲および擦過傷。行動可能。意識状態に異常はありません』


「……そうか」


『生命危険は確認されていません』


 誠司は目を閉じた。


 その情報は、きっと良い知らせなのだろう。そう思わなければならないのだろう。けれど、安堵は来なかった。軽傷でよかった、などと言えるほど、自分の心はまだ安全な場所にいなかった。


 傷は傷だ。


 痛みは痛みだ。


 自分の0.3秒で、誰かの腕に痛みが走った。


 その事実だけが、逃げ場なく残った。


     ◇


 藤原響子は、安全区域の簡易ベンチに腰かけていた。


 右前腕には白いガーゼが巻かれている。端のほうに、薄く赤が滲んでいた。処置を終えた職員が離れると、周囲の慌ただしい音が少し遠のいた。


 安全区域は、B-8区画の冷たい空気とは違っていた。


 天井の照明は明るく、床は乾いている。壁際では換気装置が規則正しく音を立て、奥の机では誰かが報告書に記入していた。靴音、話し声、布が擦れる音。人のいる場所の音が、あちこちで重なっている。


 藤原は、巻かれた腕を見下ろした。


「痛い?」


 仲間の一人が心配そうに聞いた。


「痛いよ。普通に痛い」


 藤原は苦笑した。


 強がりではなかった。痛いものは痛い。崩れた壁の破片が腕を掠めた瞬間は、息が詰まった。視界の端が白くなり、足が止まりかけた。怖くなかったと言えば嘘になる。


 けれど、あの直後だった。


 揺れていた通路が、急に落ち着いた。


 壁に走った青白い光が、まるでひび割れを縫い合わせる糸のように広がった。細い線が足元を照らし、逃げる方向だけを残してくれた。


 あれがなければ、もっと悪かった。


 藤原はそう思っていた。


「でも、助かったよ」


 彼女は、軽く息を吐いた。


「壁が崩れた直後に、すぐ安定した。たぶん、管理者さんがどうにかしてくれたんだと思う」


 仲間は小さくうなずいた。


「そうだな。あれ、完全に終わったと思った」


「私も」


 藤原は、ガーゼの上から腕をそっと押さえた。


 鈍い痛みがある。けれど、動く。指も開く。帰れる。今日はちゃんと、帰れる。


 その事実のほうが、痛みよりずっと大きかった。


 藤原は天井を見上げた。


 白い照明が、まぶしかった。目を細めると、さっき見た青白い光の残像が、まだ視界の奥に浮かんでいた。


「……ありがとうございます」


 小さく、誰にも聞こえないくらいの声で言った。


 その声は、安全区域のざわめきに紛れて消えた。


     ◇


 地下三階の作業室で、誠司はその声を知らなかった。


 知らないまま、椅子に座り続けていた。


 すべての処理は終わっている。帰っていい時間だった。けれど、立ち上がる力がなかった。鼻血はようやく止まりかけている。丸めたティッシュは赤く染まり、机の端に置かれていた。


 端末の光が静かに瞬いている。


『誠司、休息を推奨します』


「……帰るよ」


 誠司はゆっくり立ち上がった。


 膝に力が入らず、椅子の背に手をついた。指が滑りそうになる。血の跡を避けて、机の端を拭いた。完全には消えなかった。白い表面に、薄い赤茶色の染みが残った。


 その染みを見て、また胸が詰まった。


 消えないものがある。


 どれだけ拭いても。


「今日は、終わりでいいんだよな」


『はい。全件処理完了です』


「分かった」


 誠司は扉へ向かった。


 靴音が廊下に響く。


 コツ、コツ。


 いつもより遅い音だった。地下の廊下は青白く、冷たい。壁には何も飾られていない。誰かの声もない。歩くたび、自分の足音だけが戻ってくる。


 ありがとうございます。


 昨日聞いた声が、また耳の奥で鳴った。


 それはもう温かいだけのものではなかった。胸に刺さるものになっていた。


 ありがとうと言われた。


 その翌日に、人を傷つけた。


 通用口の近くで、柴田源蔵が立っていた。


 いつもの作業着。いつもの無愛想な顔。手には缶コーヒーが一本あった。缶の表面に、蛍光灯の光が細く映っている。


 柴田は誠司の顔を見るなり、眉をわずかに動かした。


「顔色が悪い」


 誠司は答えなかった。


 何かを言おうとしたが、喉が詰まった。唇が乾いている。口を開けば、さっきから胸の中で暴れているものが一気にあふれそうだった。


「どうした」


 柴田の声が低くなる。


 誠司は、ようやく言った。


「俺、ミスしました」


 柴田は黙った。


 その沈黙は短かったが、冷たくはなかった。誠司の言葉が落ちる場所を、じっと作っているような沈黙だった。


「人が怪我をしました」


 声が震える。


「俺のせいで」


 柴田の手の中で、缶コーヒーが小さく鳴った。金属が指に押されて、かすかな音を立てた。


「軽傷だって、画面には出てました。右腕の打撲と擦り傷だって。自力で退避したって」


 誠司はうつむいた。


 床の白い線がぼやける。


「でも、もし重傷だったら。もし、死んでたら」


 言葉がそこで切れた。


 地下の廊下を、冷たい空気がゆっくり流れている。通用口の向こうから、早朝のかすかな光が差し込んでいた。その光の中で、埃が細かく漂っている。一粒一粒が、ゆっくり落ちていく。


 誠司は、その埃を見ていた。


 何かを見ていなければ、崩れてしまいそうだった。


「こんな責任、背負えない」


 声は、ほとんど息だった。


 それでも、言葉は廊下に落ちた。


「辞めたい」


 口にした瞬間、胸の中が空洞になった。


 言ってはいけないことを言った気もした。けれど、同時に、初めて本当のことを言えた気もした。二十年間、会社で何を言われても「わかりました」と答えてきた。家でも、できるだけ大丈夫な顔をしてきた。


 大丈夫ではなかった。


 今、ようやくそれが口から出た。


 柴田は何も言わなかった。


 缶コーヒーを持った手が、少しだけ動いた。


 いつもなら、それを差し出してくる。無愛想に、飲め、と言う。誠司はそれを受け取って、苦い缶コーヒーを少しずつ飲む。


 だが、その夜、柴田は差し出さなかった。


 缶コーヒーを、自分の側へ引っ込めた。


 その動作が、誠司には妙にはっきり見えた。


「今夜は帰れ」


 柴田が言った。


 低い声だった。


「明後日、また来い」


 誠司は顔を上げた。


「でも」


「話がある」


 柴田の目は、いつもよりずっと暗かった。


 怒っているのではない。呆れているのでもない。長い間、見たくないものを見続けてきた人間の目だった。


「あんたに見せたいもんがある」


 誠司は、何も言えなかった。


 通用口の扉を開けると、朝の空気が流れ込んできた。


 外はまだ薄暗い。空の端だけが白く、ビルの輪郭をぼんやり浮かび上がらせている。風は弱く、植え込みの草はほとんど動いていなかった。ただ、葉先の夜露が朝の光を受けて、小さく震えていた。


 誠司は外へ出た。


 アスファルトを踏む靴音が、やけに遠く聞こえる。


 一歩。


 また一歩。


 駅へ向かう道の途中で、昨日の声がまた耳の奥に戻ってきた。


 ありがとうございます。


 俺たち大丈夫です。


 ありがとうと言われた翌日に、人を傷つけた。


 誠司は歩きながら、自分の手を見た。


 血は拭いたはずなのに、爪の端にまだ赤黒い色が残っていた。朝の弱い光の中で、それは小さな影のように見えた。


 帰るのか。


 それとも。


 答えは出なかった。


 ただ、足だけが家のある方へ進んでいた。

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