第18話 届いた声 〜見えない手にも、声は届く〜
B-16区画の空気は、息を吸うたびに喉の奥へ砂を擦りつけてくるようだった。
壁は灰色の岩肌に似ていたが、自然の石とは違う。表面には細かな線が無数に走り、薄暗い光を受けるたび、古い傷跡のように鈍く浮かび上がる。天井は低く、ところどころ水が染みたように黒ずんでいた。そこから落ちる雫が、一定ではない間隔で床を打つ。
ぴちゃん。
音は小さいのに、狭い通路ではやけに深く響いた。
そのたび、犬飼亮太は肩をわずかに震わせた。
「落ち着きなさい」
前を歩く玲奈が、振り返らずに言った。
声は静かだった。だが、その静けさの奥には、周囲の変化を一つも見逃していない硬さがあった。玲奈の手に握られたライトが、通路の先を細く照らしている。光の筋は湿った床をなぞり、ところどころに溜まった水を白く光らせた。
「は、はい」
犬飼は返事をした。
喉が渇いていた。口の中に金属のような味がする。手袋の内側では、指先に汗が滲んでいた。握っている装備の柄が、湿って滑りそうになる。何度も握り直しているせいで、掌の皮が少し痛かった。
後ろには、もう一人の隊員がいる。
無言のまま、足音だけがついてくる。硬い靴底が床を踏むたび、こつ、こつ、と乾いた音が通路に反射した。三人分の足音は重なり合い、狭い空間の奥へ吸い込まれていく。
犬飼は、知らず知らずのうちに壁へ目を向けていた。
以前も見た。
青白い光。
危ないと思った瞬間、どこからともなく現れ、道を示すように走った光。
あれが何なのか、犬飼には分からない。玲奈に聞いても、はっきりした答えは返ってこなかった。ただ、彼女は一度だけこう言った。
「誰かが、こちらを見ているのかもしれない」
その言葉が、犬飼の胸に残っている。
見ている。
助けている。
だが、姿はない。
声もない。
名前も分からない。
それでも、あの時、自分たちは確かに救われた。
通路の奥から、低い唸りのような音がした。
犬飼は足を止めた。
空気が変わった。さっきまで湿って重かった空気が、急に内側から押されるように膨らんだ。鼓膜がわずかに痛む。耳の奥で、きいん、と細い音が鳴った。
「玲奈さん」
「止まって」
玲奈の声が鋭くなった。
三人の足音が同時に途切れる。
その瞬間、通路は恐ろしいほど静かになった。
雫の音だけが残る。
ぴちゃん。
ぴちゃん。
次の一滴が落ちるまでの間に、犬飼は自分の心臓の音を聞いた。胸の内側を叩く音が、鎧の奥でこもって響いている。息を吸おうとしても、空気が喉の途中で引っかかる。
壁が震えた。
ほんのわずかな揺れだった。だが、犬飼にはそれが巨大なものの寝返りのように感じられた。灰色の壁面に走る細い線が、一斉に淡く光り、すぐに消える。
「B-17側から来てる」
玲奈がつぶやいた。
「ここまで伝わってる。早い」
犬飼には細かなことは分からない。
ただ、よくないことが起きているのは分かった。
床の感触が変わっている。足元が沈むわけではない。崩れるわけでもない。それなのに、立っている場所が信じられなくなる。さっきまで固かったはずの床が、薄い板の上のように頼りなく思えた。
「後退しますか」
後ろの隊員が低い声で言った。
玲奈は通路の先と背後を素早く確認した。ライトの光が左右に揺れ、壁の影が伸び縮みする。犬飼の影も床の上で歪み、まるで別の生き物のように震えた。
「急に走らない。姿勢を低くして、合図で戻る」
「はい」
犬飼は膝を少し曲げた。
冷や汗が背中を伝っている。服の内側に貼りつき、首筋まで冷たさが這い上がってきた。手袋の中の指が震えていることを知られたくなくて、装備の柄を強く握る。
その時だった。
通路の奥で、何かが軋んだ。
岩が割れる音に似ていた。だが、もっと深い。大きな建物の骨組みが、見えない力でねじられるような音だった。
犬飼の息が止まる。
壁の一部が、内側へわずかに膨らんだ。
玲奈が叫んだ。
「下がって!」
三人が動いた瞬間、床に細い亀裂のような光が走った。
青白い光だった。
犬飼は目を見開いた。
それは通路の床をまっすぐ走り、壁の根元へ届くと、そこから枝分かれするように左右へ広がった。まるで見えない手が、崩れかけた場所を縫い止めていくようだった。
暗い壁に、光の筋が浮かぶ。
一本ではない。
二本、三本、さらに細かく分かれ、揺れる通路の形に沿って伸びていく。湿った空気の中で、その光は冷たく、けれどどこか温かく見えた。犬飼の網膜に焼き付くほど鮮やかで、瞬きをしても残像が消えない。
「また……」
犬飼の声は、ほとんど息だった。
玲奈もその光を見ていた。
いつもの落ち着いた横顔に、ほんの一瞬だけ、張りつめたものとは違う色が浮かぶ。驚きではない。安堵でもない。その二つが混ざり、言葉になる前に消えたような表情だった。
「動けるうちに戻る。犬飼、後ろを確認」
「はい!」
犬飼は振り返った。
後方の通路にも、青白い線が走っている。まるで足元に細い道が描かれているようだった。光が届いている範囲だけ、床の揺れが少ない。
誰かが、道を残している。
その確信が、犬飼の胸の奥に火を灯した。
恐怖は消えない。足は震えている。息は浅い。けれど、さっきまで喉を塞いでいた冷たい塊が、少しだけ溶けた。
「行けます!」
犬飼は叫んだ。
三人は姿勢を低くして後退した。
靴音が硬い床を叩く。こつ、こつ、こつ、と規則が崩れた音が続く。玲奈のライトが揺れ、壁の影が激しく伸びた。天井から落ちた水滴が犬飼の頬に当たり、冷たさで目が覚める。
通路の奥で、また壁が軋む。
だが、光の筋は消えなかった。
青白い線が揺れながらも踏みとどまり、三人の背中を押すように出口側へ伸びていく。犬飼はその光から目を離せなかった。怖いのに、見ていたかった。
安全圏の手前まで来た時、揺れが急に弱まった。
空気の圧迫が抜ける。
耳の奥の痛みが消え、代わりに、全身の力が遅れて抜けそうになった。犬飼は壁に片手をつき、荒く息を吐いた。
「全員、状態確認」
玲奈の声が飛ぶ。
「犬飼」
「大丈夫です」
「後方」
「問題ありません」
三人の声が、狭い空間に返った。
犬飼はまだ壁に残る青白い光を見た。
光は役目を終えるように、ゆっくり薄れていた。線の端から淡くほどけ、湿った灰色の壁へ染み込んでいく。最後の一筋が消える直前、犬飼は衝動的に一歩前へ出た。
「犬飼?」
玲奈が呼んだ。
犬飼は止まらなかった。
名前も知らない。
姿も見えない。
返事があるとも思っていない。
それでも、言わずにはいられなかった。
胸の奥からこみ上げてきたものが、喉を押し広げる。声が震える。目の奥が熱くなる。
犬飼は、消えかけた光の筋に向かって叫んだ。
「ありがとうございます!!」
声が通路にぶつかり、何度も返ってきた。
「俺たち大丈夫です! ありがとうございます!!」
最後の光が、壁の奥へ消えた。
あとには、雫の音だけが残った。
ぴちゃん。
けれど犬飼には、その静けさがもう、怖くなかった。
同じ頃、地下三階の作業室では、佐藤誠司が画面の前で固まっていた。
十五度目の勤務。
その数字を見た時、誠司はほんの少しだけ息を吐いた。いつの間にか、ここに来ることが特別ではなくなり始めている。深夜に家を出て、誰もいない道を歩き、始発前の空気を吸いながら地下へ降りてくる。その流れを、体が覚え始めていた。
けれど、慣れたわけではなかった。
端末の前に座るたび、胸の奥は硬くなる。赤い表示が出る前の静けさほど、嫌なものはない。何も起きていないのではなく、何かが起きる寸前の暗がりに、耳を澄ませているような気がする。
作業室の空気は冷えていた。
古い空調が低く唸り、机の上の薄い紙をわずかに震わせている。端末の光は青白く、誠司の手の甲に血の気のない色を落としていた。壁際の配管から、時折、水が動くような鈍い音がする。
時計の音は聞こえない。
それなのに、時間だけが重く流れていた。
『緊急表示を確認しました』
コトリの声が響いた。
誠司の背筋が伸びる。
画面中央に赤い枠が開いた。
【注意】
【B-16区画 安定値:96.1%】
【低下傾向】
【原因:B-17区画からの影響】
【区画内人員:3名】
誠司は画面に顔を近づけた。
「三人……」
その数字が、胸の中に落ちる。
ただの数字ではない。三人分の息がある。三人分の足音がある。三人分の帰り道がある。昨日、自分で口にした言葉が、まだ胸に残っていた。
帰りたい場所がある人を、帰してやりたい。
言った以上、もう見なかったことにはできない。
「コトリ、B-17って何が起きてる」
『B-17区画で圧力変動が発生しています。隣接するB-16区画へ影響が伝わっています』
「B-16の三人を動かす時間は?」
『現状のままでは、安全退避までに安定値が低下する可能性があります』
誠司の喉が鳴った。
手のひらが湿っていく。マウスに置いた指が、わずかに滑った。慌てて握り直す。自分の呼吸が浅い。肺の上のほうだけで、細く息をしている。
落ち着け。
画面を見ろ。
順番にやれ。
誠司は唇を噛んだ。
「B-17の原因を止めればいいのか」
『完全停止は現在の権限ではできません。ただし、影響を分散させることでB-16区画の安定値を回復できます』
「分散……どこへ逃がす」
画面に周辺の地図が広がった。
B-17区画から波紋のように広がる赤い線。その端がB-16区画に触れている。周囲にはいくつかの空白区画があった。人員表示はない。だが、そのすべてが安全とは限らない。
誠司は目を細めた。
まぶたの裏が熱い。睡眠不足の目に、細かな線が刺さるようだった。焦ると、文字がにじむ。指先に汗が溜まり、背中を冷たいものが伝った。
「人がいない区画だけに分けられるか」
『可能です。ただし、三か所へ分散する必要があります』
「一か所じゃ駄目なのか」
『一か所では負荷が集中します』
「じゃあ三か所。人員表示がないところだけ選ぶ」
『候補を表示します』
青い点が三つ浮かんだ。
誠司は一つずつ確認した。
B-18。人員なし。
B-21。人員なし。
B-22。人員なし。
だが、B-22の近くには細い通路がある。そこを誰かが通る予定があるのか、誠司には分からない。画面上には何も表示されていない。けれど、何も表示されていないから絶対に安全だとは、もう思えなかった。
「B-22の近く、通路がある。そこ、後から誰か来る可能性は?」
『現在の移動予測では低いです』
「低いって、ゼロじゃないんだな」
『ゼロではありません』
誠司は息を詰めた。
部屋の静けさが、いきなり重くなる。耳の奥で、心臓の音がする。画面の向こうで三人が待っている。けれど、ここで楽な選択をすれば、別の誰かの道を塞ぐかもしれない。
何で俺が。
一瞬、その言葉が胸をよぎった。
けれど、すぐに消した。
今は、それを考える時間ではない。
「別候補」
『表示します』
もう一つ、青い点が出た。
B-24。
遠い。分散には少し時間がかかる。だが、周辺に人員表示はなく、通路も細いものしかない。
「B-22を外して、B-24に変える」
『処理時間が0.8秒延長します』
「B-16は持つ?」
『現状では可能です』
「現状では、か」
誠司は小さく息を吸った。
冷たい空気が喉を通る。指先の震えを抑えるように、机の端を一度だけ握った。爪が白くなる。額に汗がにじむ。空調の風が当たり、その汗が冷えていく。
「やる」
『確認します』
画面に三つの経路が表示された。
B-18。
B-21。
B-24。
赤い線がゆっくり細くなり、代わりに青い線が三方向へ伸びていく。誠司はその動きを目で追った。少しでも変な揺れがあれば、すぐに止めるつもりだった。
だが、止めるとは何だ。
止めて間に合うのか。
自分の指一つで、三人の足元が変わる。
その重さに、胃の奥が縮んだ。
『実行準備完了』
コトリの声がした。
誠司は画面の確定枠に指を置いた。
押せば、変わる。
押さなければ、崩れるかもしれない。
息が止まる。
作業室の中から、すべての音が消えたように思えた。空調も、端末の低い稼働音も、配管の奥の水音も、遠くへ退いた。残ったのは、指先に触れる硬い感触と、胸の内側を叩く鼓動だけだった。
「実行」
誠司は押した。
画面の赤い線が震えた。
一瞬、B-16区画の安定値が95.8へ落ちる。
誠司の喉が詰まった。
「コトリ」
『分散処理中』
青い線が広がる。
95.9。
96.3。
97.1。
98.4。
B-16区画を覆っていた赤い影が、少しずつ薄くなっていく。画面上の三つの光点は動いていた。ゆっくりと、安全側へ向かっている。
【B-16区画】
【安定値:99.2%】
【区画内人員:3名】
【退避継続可能】
誠司は、椅子の背にもたれた。
息が漏れる。
肺の奥に固まっていた空気が、一気に抜けた。右手が震えている。机の下で握りしめた左手も汗で濡れていた。
「……よかった」
声は小さく、ほとんど吐息だった。
『処理は適切でした』
「三人は?」
『退避経路上を移動中です。現時点で負傷表示はありません』
誠司は目を閉じた。
瞼の裏に、青い線の残像が残っている。細い光が、暗闇の中で三方向へ伸びていた。まるで誰かのために道を描いたように。
その時だった。
端末のスピーカーから、ざらついた音がした。
ザザッ。
誠司は目を開けた。
「何だ?」
ザザザッ――。
古いラジオの周波数が合っていないような音だった。砂を撒いたような雑音が、静かな作業室に広がる。誠司は思わず身を乗り出した。
ノイズの奥に、何かが混じっている。
声のようなもの。
途切れ途切れで、遠い。水の底から聞こえるように歪んでいる。
ザザッ――……ガトウ……ゴ……マス――
誠司の背筋が凍った。
「今の、何」
『B-16区画内の通信が管理端末に混線しました』
「通信?」
『音声の一部が復元可能です。復元しますか』
誠司はすぐには答えられなかった。
指先が止まっている。
誰かの声。
さっきまで画面の中にいた三人のうちの誰か。
名前も知らない人。
顔も知らない人。
その声が、ここに届いている。
誠司の喉がひどく乾いた。
「……復元してくれ」
『実行します』
ノイズが一度、大きくなった。
ザザザザッ、と白い砂嵐のような音が部屋を満たす。誠司は無意識に机の端を握った。背中に冷たい汗が滲む。心臓が速い。
やがて、雑音の奥から、若い男の声が浮かび上がった。
『――ありがとうございます――』
誠司は息を止めた。
『俺たち――大丈夫です――ありがとうございます――』
声はひどく乱れていた。
それでも、確かに聞こえた。
ありがとう。
その言葉が、地下三階の作業室に落ちた。
誰もいない冷たい部屋に。
青白い画面の前に座る、疲れた中年男の胸に。
誠司は、ゆっくり手を顔に当てた。
指先が目元を覆う。手のひらの内側が熱い。息を吸おうとして、喉が震えた。
「誰かも知らない人が」
声が掠れた。
「俺に、ありがとうって」
端末は何も言わなかった。
コトリも黙っていた。
その沈黙は、誠司の胸を押し潰すものではなかった。むしろ、こぼれそうになるものを受け止めるために、部屋全体が静かになってくれているようだった。
これまで会社で何度も頭を下げた。
何度も謝った。
何度も「わかりました」と言った。
けれど、誰かの命のそばで、自分のしたことに向けられた「ありがとう」を聞いたことはなかった。
顔も知らない。
名前も知らない。
それでも、その声は確かに生きていた。
誠司は目元を覆ったまま、しばらく動けなかった。
空調の風が、机の上を流れていく。スピーカーの奥では、もう何も鳴っていない。さっきまでのノイズが嘘のように消え、作業室には、深い静けさだけが残っていた。
やがて、扉の外で足音がした。
重い靴音。
ゆっくり近づいてくる。
扉が開き、柴田源蔵が顔を出した。
「どうした」
誠司は手を下ろした。
目元が少し赤い。隠そうとして、うまく隠せなかった。
「……今日、声が聞こえたんです」
柴田は黙っていた。
誠司は画面を見た。
さっきの音声は、もう残っていない。けれど耳の奥には、まだはっきり残っていた。
「誰かが、ありがとうって」
柴田の顔が、わずかに変わった。
普段なら、そこで無愛想に何か言う。気のせいだとか、浮かれるなとか、早く帰れとか。だが、その夜の柴田は違った。
長い沈黙があった。
柴田の視線が、端末へ向かう。
それから、誠司へ戻る。
「……よかったな」
たったそれだけだった。
けれど、その一言は軽くなかった。
十二年分の何かを飲み込んだような声だった。低く、掠れていて、いつもの無愛想の奥に、触れれば崩れそうなものがある。
誠司は小さくうなずいた。
「はい」
それ以上は、言えなかった。
◇
B-16区画から戻った玲奈は、報告端末の前で手を止めていた。
犬飼は隣の簡易ベンチに座っている。まだ興奮が抜けないのか、両手を膝の上で握りしめたまま、何度も息を整えていた。額には汗が残り、髪が少し張りついている。それでも、目だけははっきりしていた。
「本当に、届いたと思いますか」
犬飼が言った。
玲奈は画面から目を離さず、少しだけ沈黙した。
部屋の外では、別の班の足音が行き交っている。床を叩く靴音、遠くの呼び声、機材を置く金属音。そのどれもが、先ほどの通路の静けさとは違っていた。
ここには人がいる。
戻ってこられた人間の音がある。
「分からない」
玲奈は正直に答えた。
犬飼の肩が少し落ちる。
だが、玲奈は続けた。
「でも、記録には残す」
彼女は端末に指を置いた。
白い入力欄に、静かに文字を打ち込んでいく。
【B-16区画で安定値低下を確認】
【青白い光の筋が床面および壁面に発生】
【直後、通路の揺れが軽減】
【班員三名、負傷なし】
玲奈の指が、一度止まった。
ほんの短い間。
しかし、その沈黙の中で、彼女は暗い通路に浮かんだ光を思い出していた。
崩れかけた道を縫い止めるように走った光。
名前のない誰かの手のようだった。
玲奈は最後の欄に、ゆっくり文字を加えた。
【管理者へ】
【あなたの操作は、現場に届いています】
入力を終えたあと、彼女はしばらく画面を見ていた。
犬飼は何も言わなかった。
遠くで誰かが笑う声がした。帰還した者たちの、張りつめた気持ちがほどけた声だった。けれど玲奈の胸には、別の静けさが残っている。
見えない誰かがいる。
こちらを見ている。
こちらを帰そうとしている。
その事実は、希望であると同時に、不安でもあった。
なぜなら、見えない誰かが倒れた時、こちらからは手を伸ばせないからだ。
◇
地下三階の作業室で、誠司はまだ椅子に座っていた。
帰る時間は近い。
それでも、立ち上がるのが少し惜しかった。耳の奥に残る声を、もう少しだけ失いたくなかった。
『誠司』
「ん?」
『B-16区画の人員三名は、安全区域へ到達しました』
誠司は目を閉じた。
「そっか」
『負傷表示はありません』
「よかった」
声に出した途端、体の力が抜けた。
疲れがどっと押し寄せてくる。肩が重い。腰が痛い。目の奥は熱く、喉は乾いている。けれど、その疲れの中に、初めて少しだけ温かいものが混じっていた。
「帰るよ」
『はい。お疲れさまでした、誠司』
「お疲れ、コトリ」
廊下へ出ると、いつものように冷たい空気が流れていた。
靴音が響く。
コツ、コツ、コツ。
その音に、今夜はもう一つの声が重なっている気がした。
ありがとうございます。
俺たち大丈夫です。
ありがとうございます。
誠司は通用口の手前で立ち止まり、振り返った。
地下へ続く廊下は、蛍光灯の光に照らされて青白く伸びている。その奥にある作業室は、もう見えない。けれど、そこに端末があり、コトリがいて、画面の向こうに誰かがいる。
帰りたい場所がある誰かが。
誠司は、小さく頭を下げた。
誰に向けたものか、自分でも分からなかった。
そして、扉を開けた。
外の朝はまだ薄暗かった。
空の端だけが白くほどけ、ビルの隙間から弱い光が差し始めている。植え込みの草が朝風に揺れ、細い葉が擦れ合って、ささやくような音を立てた。夜露を含んだ葉先に、街灯の残り光が小さく宿っている。
誠司は歩き出した。
アスファルトを踏む靴音は、地下より少し柔らかかった。
その胸には、まだ若い男の声が残っていた。
昨日よりもはっきりと。
けれど、その温かさを塗り潰すように、まだ見えない赤い影が、次の夜の奥で静かに口を開けていた。




