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減給された40代社畜、深夜バイトで国家級ダンジョンの管理者になる  作者: Gaku


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17/21

第17話 なぜ、ここに来るのですか 〜帰る場所は、人を歩かせる〜

夜の風は、少しぬるかった。


 佐藤誠司が家を出た時、玄関先の植え込みに伸びた細い草が、暗がりの中でかすかに揺れていた。昼間の熱を含んだアスファルトから、まだ薄い湿気が上がっている。雨は降っていないのに、靴底が地面から離れるたび、ぺたりと重い音がした。


 深夜の住宅街は、眠っているようで眠っていない。


 どこかの家の換気扇が低く回り続けている。遠くで原付のエンジン音が細く伸び、すぐに角の向こうへ消えた。街灯の光は白く、道端の小石と落ち葉を平らに照らしている。その光の輪を一つ抜けるたび、誠司の影は足元に縮み、また後ろへ長く伸びた。


 鞄の持ち手が、手のひらに食い込んでいる。


 仕事用の鞄に、深夜用の資料はほとんど入っていない。それなのに、今夜は妙に重かった。腕を持ち替えようとして、指先に力が入らないことに気づく。誠司は立ち止まらず、親指と人差し指を握り直した。


 四十を過ぎた体は、眠らない夜を簡単には許してくれない。


 目の奥が乾いていた。こめかみの辺りには、薄い頭痛が居座っている。昼間、会社の会議室で聞いた上司の声が、まだ耳の奥に残っていた。数字の話。人員の話。誰かがやらなければならないという話。そこに自分の名前が挟まっても、誠司はいつものように「わかりました」と答えた。


 それ以外の言い方を、長い間、忘れていた。


 駅へ向かう途中、小さな公園の横を通った。


 金網の向こうで、ブランコが二つ並んでいる。風が吹くたび、古い鎖がわずかに鳴った。きぃ、と細い音がして、すぐに闇へ吸い込まれる。昼間なら子どもの声で満ちている場所が、夜にはこんなにも広く、冷たく見える。


 ふと、下の子が昼間に言った言葉を思い出した。


「パパ、明日もお仕事?」


 それだけだった。


 責めたわけではない。寂しいと泣いたわけでもない。ただ、不思議そうに聞いただけだった。


 誠司はその時、笑って答えた。


「そうだよ。すぐ帰るから」


 口にしてから、少しだけ胸が詰まった。


 すぐ帰る。


 その言葉を守るために出かけているはずなのに、帰るための時間を削っている。何をしているのだろうと、自分でも思うことがある。けれど、やめられなかった。


 駅前の明かりが近づく。


 コンビニの看板が夜の湿気ににじみ、白と赤の光が歩道に落ちていた。自動ドアが開くたび、冷えた空気と揚げ物の匂いが漏れてくる。誠司は中へは入らなかった。余計なものを買う余裕は、少しずつ戻ってきている。それでも、深夜に缶コーヒー一本を迷わず買えるほど、気持ちはまだ軽くなっていなかった。


 改札を抜ける。


 ホームに立つと、風が線路の奥から吹き上げてきた。湿った金属の匂いがする。レールの上を遠くから光が近づき、やがて電車の顔が暗闇を押し分けて現れた。ブレーキ音が夜の空気を裂き、鉄と鉄が擦れる高い音が、耳の奥にしばらく残った。


 車内は空いていた。


 誠司は端の席に座り、膝の上に鞄を置いた。窓には疲れた自分の顔が映っている。目の下の影が濃い。髪も少し乱れている。窓の向こうの景色と重なったその顔は、知らない誰かのようだった。


 電車が揺れる。


 吊り革が、かすかに左右へ振れた。車内灯の白い光が、窓に長く伸びている。トンネルに入ると、外の景色は黒一色になり、誠司の顔だけがはっきり浮かんだ。


 その顔に向かって、心の中で問いが落ちる。


 いつまで続けるんだ。


 答えは出なかった。


 地下三階の作業室に着いたのは、二十三時を少し過ぎた頃だった。


 通用口で柴田源蔵と短く挨拶を交わし、細い廊下を進む。柴田はいつも通り、余計なことは言わなかった。ただ、誠司の顔を一度だけ見て、低く言った。


「今日は静かだといいな」


「本当ですね」


 誠司はそう返した。


 廊下の床は硬く、革靴の音がまっすぐ奥へ伸びていく。コツ、コツ、と一歩ごとに響き、壁に当たって薄く戻ってくる。天井の照明は等間隔に並び、その下を歩くたび、誠司の影は短くなり、長くなり、また短くなった。


 作業室の扉を開けると、冷たい空気が頬に触れた。


 ここはいつも少しだけ寒い。机も椅子も、夜の間に温度を失ったように冷えている。端末の黒い画面には、まだ何も映っていない。誠司は椅子を引き、腰を下ろした。座面がわずかに沈み、金属の脚が床に小さく鳴った。


「コトリ、始めよう」


 画面が淡く光った。


『こんばんは、誠司』


「こんばんは」


『十四度目の勤務を開始します』


 文字が静かに並ぶ。


 その数字を見た瞬間、誠司は少しだけ目を細めた。


 十四度目。


 そんなに来たのか、と思った。


 最初の夜、自分が何をしているのかも分からず、ただ言われるまま端末の前に座ったことを思い出す。あの時は、地下の空気も、画面の赤い表示も、柴田の無愛想な顔も、すべてが遠い世界のものに思えた。


 今は違う。


 赤い表示を見ると、胃の辺りが固くなる。そこに誰かがいると、知ってしまったからだ。


『本日の緊急表示は一件です』


 画面中央に、赤い枠が一つだけ浮かび上がった。


【注意】


【C-11区画 通路幅変動】


【区画内人員:2名】


【推奨処理:側壁固定】


 誠司は背筋を伸ばした。


 眠気が少し引く。指先を軽く握り、開く。手のひらに薄く汗がにじんでいた。赤い枠の中の文字を、一つずつ読み直す。二名。通路幅。側壁固定。


 焦るな。


 今夜は一件だけだ。


 画面の地図に目を走らせる。C-11区画の細い通路が、ゆっくりと揺らぐように表示されていた。周囲の道はまだ保たれている。人員の光点は二つ。片方が先に進み、もう片方が少し遅れている。


「通路を固定する。逃げ道は残せる?」


『可能です。右側の補助通路を維持できます』


「じゃあ、そっちは残して。側壁固定」


『確認します』


 誠司は画面に手を伸ばした。


 指先が、確定の枠の上で一瞬止まる。耳の奥で、自分の鼓動が聞こえた。どくん、どくん、と低く鳴っている。部屋の冷たさに反して、背中には汗がにじんでいた。


「……実行」


 赤い枠が白く弾け、画面の通路が青く安定した。


【処理完了】


【区画内人員:2名】


【状態:退避継続可能】


 誠司は、深く息を吐いた。


 肺の底に溜まっていた空気が、ゆっくり抜けていく。肩が落ちた。指先に残っていた力がほどける。たった一件。それでも、処理が終わるたびに、体のどこかが少しずつ削られていく気がした。


「……よかった」


『処理は適切でした』


「うん」


 誠司は椅子にもたれた。


 端末の光が、静かな部屋に広がっている。時計の針の音はない。外の車の音も、ここまでは届かない。空調の風と端末の低い音だけが、薄い層になって部屋を満たしていた。


 その静けさは、ただ音がないだけではなかった。


 赤い表示が消えたあとに残る静けさだった。


 誰かが今も息をしているかもしれない。誰かが狭い通路を抜け、肩で息をしながら、仲間の名前を呼んでいるかもしれない。そんな想像が、目に見えない重さとなって机の上に降り積もっていた。


 誠司は動けなかった。


 帰るにはまだ早い。けれど、次の表示は出ていない。何かをする必要もない。


 ただ、座っていた。


 どこからか、水滴の落ちる音がした。


 ぽつん。


 配管の奥か、壁の裏か、分からない。


 ぽつん。


 その音の間に、自分の呼吸がある。浅く、少しだけ速い。


『誠司』


 コトリの声がした。


 いつもと同じ、落ち着いた声だった。


「何?」


『業務外の質問を一つ、してもいいですか』


 誠司は、すぐには答えられなかった。


 部屋の空気が、そこで止まったように感じた。空調は動いている。端末も光っている。けれど、その言葉だけが、他の音から切り離されて、まっすぐ胸の前に置かれた。


「業務外?」


『はい』


 誠司は画面を見た。


 そこには、赤い表示も警告もない。ただ、淡い光だけがある。機械の声が、自分に仕事以外のことを聞こうとしている。その事実が、うまく飲み込めなかった。


 誠司は、乾いた唇を舐めた。


「いいよ。何だ?」


 少しの沈黙があった。


 ただの間ではなかった。


 冷たい部屋の中で、見えない誰かが慎重に言葉を選んでいるような、細く、張りつめた静けさだった。


 やがて、コトリは言った。


『なぜ、ここに来るのですか』


 誠司は、息を止めた。


 画面の光が、眼鏡もかけていない裸の目にまっすぐ入ってくる。白い文字も、青い線も、急に遠くなった。


『睡眠時間は低下しています。肉体負荷も増加しています。継続する理由は、十分ではありません』


 誠司の喉が、小さく鳴った。


 答えようとして、言葉が出ない。


 部屋の奥で、また水滴が落ちた。


 ぽつん。


 その音が、やけに遠くまで響いた。



誠司は、しばらく画面を見つめていた。


 なぜ、ここに来るのか。


 そんなことを、正面から聞かれたことはなかった。会社では、来るのが当たり前だった。家では、働くのが当たり前だった。減った給料をどうにか埋めるために、深夜に出ていくことも、自分で選んだというより、押し出された結果に近かった。


 答えは簡単なはずだった。


 金のため。


 それ以外に、最初は何もなかった。


 けれど、その言葉を口にしようとした瞬間、誠司の胸の奥で何かが引っかかった。


 赤い表示が消えた夜のことを思い出した。


 初めて画面の向こうに人がいると分かった時の、手の震え。退避経路を作ったあと、赤かった光が一つずつ消えていくのを見た時の、あの息苦しさ。嬉しいのか、怖いのか、自分でも分からなかった。ただ、椅子から立てなくなるほど、体の芯が熱くなった。


 あれは、金だけではなかった。


 誠司は膝の上で両手を組み直した。指先が冷えていた。爪の脇の小さな傷が、少しだけ痛む。深夜の作業室は静かで、画面の光だけが白く手の甲を照らしている。その手は荒れていて、少し赤く、どこにでもいる中年男の手だった。


「最初は、金のためだったよ」


 ようやく出た声は、思ったより掠れていた。


「給料が減ってさ。家計が回らなくなって。子どももいるし、住宅ローンもあるし、妻にばっかり負担をかけるわけにもいかなくて」


 言いながら、自分でも嫌になるほど現実的な理由だと思った。


 夢もない。使命感もない。立派な決意もない。


 ただ、足りなくなった分を埋めたかっただけだ。


 コトリは黙って聞いていた。


 相槌も、急かす言葉もなかった。その沈黙は冷たいものではなかった。水面に雪が落ちるのを待つような、静かで、乱さない沈黙だった。


「でも、途中から……少し変わった」


 誠司は画面ではなく、机の端を見た。


 古い机の角は、何度も擦れたのか、塗装が剥げている。そこに端末の光が当たり、細い白線のように光っていた。


「最初は、ただの表示だと思ってたんだ。赤い枠とか、数字とか、地図みたいな線とか。何が何だか分からないまま、言われた通りに押してた」


 喉の奥が詰まった。


 水を飲もうとして、やめた。今、喉を湿らせたら、言葉まで流れてしまう気がした。


「でも、四人って表示された夜があった。あそこに四人いるって分かった。俺が道を作らなきゃ、その人たちは帰れないかもしれないって思った」


 端末の画面は何も変わらない。


 けれど誠司には、あの時の赤い光がまた見えていた。暗い地図の中で、小さな点がいくつも動いていた。名前も顔も分からない。声も聞こえない。それでも、確かにそこにいた。


「赤いランプが消えた時さ」


 誠司は小さく息を吸った。


「もしかしたら、今、誰かが助かったのかもしれないって思ったんだ」


 口にした瞬間、胸の奥が熱くなった。


 地下の冷たい空気の中で、その熱だけが小さく灯っている。誠司はそれを押さえるように、両手を握った。


「俺は、別に強くないし、頭もよくないし、会社でも大したことはできない。二十年働いても、上の人から見れば、いくらでも替えがきく人間なんだと思う」


 自分で言って、少しだけ苦かった。


 蛍光灯が、かすかに揺れた気がした。天井の奥で空調が音を変え、冷たい風が首筋を撫でる。汗が乾き、そこだけがひやりとした。


「でも、ここでは……俺が押した一つで、誰かが帰れることがある」


 言葉にしてしまうと、ひどく重かった。


 誠司は椅子の背にもたれず、前かがみになった。床に落ちた自分の影が、机の脚と重なっている。靴の先が、ほんの少し震えていた。


「家に帰るとさ、子どもたちの靴が玄関にあるんだ。小さい靴が二つ、雑に脱いであって。妻が台所にいて、冷蔵庫の音がして、洗濯物が乾いてなくて、朝から誰かが水筒を忘れそうになって」


 そこまで言って、誠司は目を閉じた。


 台所の白い光。味噌汁の湯気。子どもの寝ぐせ。美咲が疲れた顔で、それでも「おかえり」と言う声。


 何でもない景色だった。


 けれど、そこへ帰れることが、今は奇跡みたいに思えた。


「たぶん、向こうにいる人たちにも、そういう場所があるんだよ」


 声が少し震えた。


「待ってる人がいるかもしれない。約束してる相手がいるかもしれない。誰にも言ってないけど、帰ったら食べようと思ってる弁当があるかもしれない」


 誠司はゆっくり目を開けた。


 画面の光が、また視界に戻ってくる。


「だから、帰してやりたいんだ」


 その言葉を出したあと、作業室は深く静まり返った。


 水滴の音もしなかった。


 空調の音さえ、遠くなった。


 何もない静けさではなかった。誠司の言葉が、部屋の壁や机や古い床に染み込んでいくような、重く、温かい静けさだった。


「帰りたい場所がある人を、帰してやりたい」


 誠司は、もう一度言った。


「それだけだよ」


 画面の光が、わずかに強くなった気がした。


『理解しました』


 コトリの声は、いつも通り平らだった。


 けれど誠司には、その声が少しだけ近く聞こえた。


『「帰りたい場所がある」――この考えは、本システムの記録に存在しませんでした』


「そうなのか」


『はい。記録します』


 画面の端に、小さな文字が走った。


【管理者行動理由:記録】


【項目:帰りたい場所がある人を帰す】


【重要度:最高】


 誠司は、その文字を見つめた。


 最高。


 そんなふうに言われるほどのことではないと思った。ただの中年男が、疲れた頭で絞り出した言葉だ。けれど、画面の中では、それが確かに残されている。


『もう一つ、記録します』


「まだあるのか」


『誠司が帰りたい場所に帰れるよう、本システムも支援します』


 誠司は、何も言えなかった。


 胸の奥にあった硬いものが、ふっと緩んだ。目の奥が熱くなる。泣くほどではない。けれど、視界の端がわずかに揺れた。


 誰かに、自分の帰り道まで気にされたのは、いつ以来だろう。


 家族ではない。会社の人間でもない。人間ですらない声が、静かな地下の部屋で、誠司の帰る場所を守ると言った。


「……ありがとう、コトリ」


『どういたしまして、誠司』


 その返事のあと、画面は静かになった。


 誠司はしばらく動かなかった。


 椅子の上で、両手を膝に置いたまま、ただ息をしていた。地下三階の冷たい空気が肺に入り、ゆっくり出ていく。さっきまで重かった鞄も、肩の痛みも、眠気も、消えたわけではない。


 それでも、立てる気がした。


「今夜は、もう赤いのはない?」


『現在、新規の緊急表示はありません』


「そっか」


 誠司は立ち上がった。


 椅子が床を擦り、乾いた音を立てた。作業室の扉へ向かう途中、ふと振り返る。黒い画面の中に、自分の姿が薄く映っていた。疲れた顔。曲がったネクタイ。寝不足の目。


 それでも、さっき電車の窓に映った顔よりは、少しだけましに見えた。


「帰るよ」


『はい。お疲れさまでした、誠司』


「お疲れさま」


 廊下に出ると、冷たい空気が肌に触れた。


 靴音が、静かな床に響く。


 コツ、コツ、コツ。


 その音は、来る時より少しだけまっすぐだった。


 地下三階の端末では、誠司が去ったあとも、画面の隅に小さな文字が残っていた。


【管理者行動理由:記録済】


【項目:帰りたい場所がある人を帰す】


【重要度:最高】


 しばらくして、その下に新しい一行が加わった。


【支援対象:管理者本人】


【目的:帰還】


【重要度:最高】

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