第16話 黒瀬環 〜失った時間は、守る理由になる〜
午前五時十二分。
国立管理領域対策局、地下解析室の窓には、朝の色が届かなかった。地上ではもう東の空が薄く白みはじめているはずなのに、分厚い壁と何枚もの扉に隔てられたこの部屋には、夜だけが置き去りにされていた。
天井に埋め込まれた細い照明が、机の縁を青白く照らしている。画面の光を受けたマグカップの影が、黒い水たまりのように書類の上へ伸びていた。空調の風は一定の強さで吹いているのに、室内の空気はどこか湿っていた。眠気と焦げたコーヒーの匂いと、夜を越えた人間の体温が、低い場所に沈んでいる。
黒瀬環は、椅子の背にもたれなかった。
小柄な体を机に近づけ、黒縁の眼鏡越しに、画面に並ぶ記録を追っていた。ショートボブの毛先が頬にかかり、空調の風にわずかに揺れる。その動きさえ邪魔だと言うように、彼女は指先で髪を耳にかけた。
画面には、S.Sと仮登録された管理者の操作記録が表示されている。
勤務開始は二十三時前後。終了は明け方近く。処理対象は、赤く分類された危険表示。操作速度は速くない。むしろ、遅い。だが、雑ではなかった。
一つずつ確認している。
危険度の高い箇所ほど、カーソルの滞在時間が長い。処理の直前に、必ず周辺の人員配置を見ている。自分の操作がどこへ影響するのか、画面の向こうにいる誰かを、見えないまま見ようとしている。
黒瀬は、無意識に息を止めていた。
細い沈黙が、部屋の中に落ちる。誰かのキーボードを叩く音が遠くで三度鳴り、それきり途切れた。空調の低い唸りだけが、天井の奥で続いている。
「……また、無理をしてる」
声は小さかった。誰かに聞かせるためではなく、胸の奥に溜まったものが、こぼれただけだった。
S.Sの睡眠時間は、推定値で三時間台に落ちている。昼間は別の勤務に出ている可能性が高い。肉体負荷の兆候も増えていた。視線の揺れ。入力の遅延。短時間の停止。どれも数字にすれば小さな乱れに見える。
だが、人間は数字ではない。
黒瀬は、そのことを嫌というほど知っていた。
引き出しに手をかける。金属の取っ手は冷たく、指先の熱をすぐに奪った。ゆっくり引くと、古びた紙の匂いがした。中には、薄い茶封筒が一つ入っている。
彼女は封筒を取り出し、中の写真を机に置いた。
十二年前の写真だった。
若い男が、少し照れたように笑っている。黒瀬大輝。環の兄。写真の中の兄は、今の環よりも若いままだった。白いシャツの袖を雑にまくり、片手をポケットに入れている。真面目に写るのが苦手で、いつも最後に変な顔をして、家族を笑わせようとする人だった。
あの日も、そうだった。
玄関先で靴紐を結びながら、兄は振り返った。廊下には夕方の光が斜めに差し込み、埃が金色の粒のように浮いていた。台所からは母の味噌汁の匂いがして、外では近所の子どもたちが自転車のベルを鳴らしていた。
特別な日には見えなかった。
ただの、よくある夕方だった。
「すぐ帰るから」
兄はそう言った。
黒瀬環は、その言葉を十二年間、何度も思い出してきた。雨の日も、眠れない夜も、報告書の最後に死亡者数を打ち込む朝も。
すぐ帰る。
その短い約束は、守られなかった。
画面の光が、写真の表面に反射する。兄の笑顔の上を、青白い線が横切った。まるで薄い氷を張られたように、そこにいるはずの人が遠ざかって見えた。
黒瀬は写真の端に触れた。
紙の角は少し丸くなっていた。何度も取り出し、何度も戻したせいだ。指先にざらついた感触が残る。その小さなざらつきだけが、兄が確かにいたことを証明しているようだった。
「今度は、失わせない」
喉の奥が乾いていた。声を出すと、そこに細い痛みが走った。
「兄さんの代わりに、この人を守る」
その時、背後で足音が止まった。
硬い床を叩く靴音は、途中から少し早くなっていた。夜を越えた職員が走る音ではない。何かを見つけた者の音だった。
「主任」
若い職員の声が、部屋の空気を裂いた。
黒瀬は写真を伏せた。感情の色を消すように、眼鏡の位置を直す。
「何」
「管理端末ネットワークに、外部からの接続試行がありました」
室内の音が、ひとつ減った気がした。
キーボードの音も、空調の唸りも、遠くなった。黒瀬の耳に残ったのは、自分の鼓動だけだった。胸の奥で、鈍く、重く、一度鳴る。
「件数は」
「直近七日間で十四回。すべて遮断されています」
「発信元の偽装は」
「複数段階で噛ませています。ただ、通信の癖が残っています」
職員は端末を操作し、別画面を開いた。
白い文字列と細い線が、黒い背景の上に広がる。接続経路は複雑に折れ曲がり、いくつもの拠点を経由していた。だが、その奥に残る波形には、見覚えがあった。
黒瀬の目が細くなる。
「……オービットゲート社」
その名前を口にした瞬間、室内の空気がさらに冷えたように感じた。
職員は短くうなずいた。
「白瀬総一郎の研究部門と一致する特徴があります。まだ断定はできませんが、偶然とは考えにくいです」
黒瀬はゆっくり立ち上がった。
椅子の脚が床を擦り、乾いた音を立てた。その音が、妙に大きく聞こえた。眠気は消えていた。代わりに、背中に冷たい汗が滲んでいた。首筋から落ちた一筋が、シャツの内側を伝っていく。
「目的は」
「管理端末への外部接続。おそらく、操作権限の解析です」
「S.Sの端末には」
職員の指が一瞬だけ止まった。
そのわずかな間が、黒瀬の胸を締めつけた。部屋の中に、紙一枚分ほどの薄い沈黙が張りつめる。誰も咳をしない。誰も椅子を動かさない。
「影響が出ています」
職員は、声を抑えて続けた。
「本人の端末に、警告表示が出るはずです」
黒瀬は画面を見つめた。
そこにS.Sの名前はない。ただ、記録番号と時刻と遮断結果が無機質に並んでいるだけだった。だが黒瀬には、その向こうにいる男の姿が見える気がした。
眠り足りない顔で、古い椅子に座っている。難しいことはよく分からないまま、目の前の赤い表示だけを消そうとしている。自分が何に狙われているのかも知らずに。
兄も、知らなかったのだろうか。
あの日、玄関で笑っていた兄も。
黒瀬は伏せた写真を、もう一度だけ見た。紙の裏側には何も書かれていない。それでも、そこから兄の声が聞こえた気がした。
すぐ帰るから。
彼女は唇を噛んだ。
薄い痛みとともに、眠気の残りが完全に消えた。
「S.Sへの直接接触は、まだしない」
「よろしいんですか」
「今、こちらが動けば、相手にも気づかれる。まず遮断経路を増やして。通信の癖を全部拾う。白瀬側の狙いを確認する」
黒瀬は画面から目を離さなかった。
「それから、S.Sの負荷推定を更新して。端末側の警告文も確認する。あの人はたぶん、警告の重さを理解しない」
「どうして、そう言い切れるんですか」
黒瀬は、わずかに目を伏せた。
兄の写真が、机の上で静かに光を返している。
「優しい人ほど、自分に向けられた危険を軽く見るから」
その言葉のあと、解析室にまた沈黙が落ちた。
ただ、今度の沈黙は空っぽではなかった。誰もいない廊下の奥から、朝の清掃機械が床を擦る低い音が聞こえてくる。遠く、地上へ続く換気口の向こうで、街が目を覚ましはじめている気配がした。
黒瀬環は写真を封筒に戻し、引き出しを閉めた。
金属の音が、小さく鳴る。
「守るわよ」
それは、部下に向けた命令ではなかった。
十二年前の夕方に取り残された、自分自身への言葉だった。
午前五時四十七分。
地下三階の作業室には、まだ夜の湿り気が残っていた。
佐藤誠司は、古い椅子に腰を下ろしたまま、両手を膝の上で組んでいた。指の関節が少し白くなっている。夜を越えた目の奥がじんじんと熱を持ち、瞬きをするたびに、蛍光灯の光が薄い膜の向こうでにじんだ。
壁際の空調は、低い音を立てて風を吐いている。書類棚の端に貼られた古いラベルが、その風でかすかに震えた。机の下では、誠司の革靴のつま先が床を軽く叩いている。自分でも気づかないほど小さな音だったが、静かな部屋では妙にはっきり響いた。
カツ、カツ。
その音が止まると、部屋は急に広くなった。
画面には、処理済みの表示が並んでいる。今夜の赤い表示は、すべて消した。胸の奥にわずかな安堵が生まれる。けれど、それは温かいものではなかった。薄い氷の板を飲み込んだような、冷たくて頼りない安堵だった。
「……終わった、か」
声に出すと、喉がひどく乾いていることに気づいた。
ペットボトルの水を飲む。ぬるくなった水が舌の上を通り、喉を落ちていく。それでも乾きは消えなかった。疲れが喉の内側に貼りついているようだった。
その時、画面の端が一度だけ白く瞬いた。
誠司は顔を上げた。
見慣れない枠が、中央に浮かんでいた。
【セキュリティ通知】
【外部からの不正接続試行を検出】
【試行回数:直近七日間で十四回】
【全件遮断済】
誠司は、しばらくその文字を見つめていた。
意味は分かる。外から何かが入ろうとした。だが、遮断済みと出ている。ならば、大丈夫なのだろう。会社のパソコンでも、似たような警告はたまに出る。総務から「開かないでください」と回ってくる迷惑メールの注意と、同じようなものだと思った。
ただ、十四回という数字だけが、妙に目に残った。
「コトリ」
『はい、誠司』
「これ、何かまずいのか」
少しの間があった。
端末の冷却音が、薄く部屋に広がる。どこか遠くで、水滴が落ちたような音がした。配管の奥だろうか。ぽつん、と一度鳴って、それきり途切れた。
『外部からの接続試行が増加しています』
「増加……」
『現在のセキュリティレベルで対応可能です。全件遮断済みです』
誠司は息を吐いた。
背中の力が少し抜ける。椅子の背もたれが、ぎしりと小さく鳴った。
「そっか。遮断できてるなら、大丈夫か」
『現時点では、管理操作への影響はありません』
「なら、いいや」
誠司はそう言って、額を指で押さえた。
頭の奥が重い。まぶたを閉じると、赤い表示の残像がまだ見える。細い線と数字が、瞼の裏で青白く揺れていた。ほんの少し眠れば楽になるのかもしれない。けれど、このあと家に帰り、朝食を食べ、会社へ行く準備をしなければならない。
美咲に疲れた顔を見せすぎるな。
子どもたちの前で、ため息をつくな。
そう思うたびに、胸の中に硬い石が沈んでいく。
『誠司』
「ん?」
『肉体負荷が上昇しています。休息を推奨します』
誠司は苦笑しようとして、うまく笑えなかった。
「それができたら、苦労しないよ」
画面は黙っていた。
沈黙の中で、端末の光だけが誠司の顔を照らしている。頬の下に影が落ち、目の下のくまが濃く見えた。机の上に置いた手は、昼間よりも荒れて見える。爪の脇が少し割れ、指先には細かなささくれがあった。
誠司はその手を見つめた。
何の特別な力もない手だ。
会社で書類を運び、家でゴミ袋を結び、子どもの水筒を洗い、深夜に意味の分からない画面を操作しているだけの手。
それでも、この手で赤い表示を消すたび、どこかで誰かが帰っている。
その実感だけが、誠司を椅子に縫い止めていた。
「じゃあ、今日は帰るよ」
『お疲れさまでした、誠司』
「お疲れ、コトリ」
端末の明かりが落ちると、部屋は急に暗くなった。
廊下に出ると、空気がさらに冷えていた。蛍光灯の下を歩くたび、革靴の音が硬い床に跳ね返る。
コツ、コツ、コツ。
誰もいない廊下で、その音だけが誠司についてくる。壁の角を曲がると、遠くの通用口のほうから、朝の薄い光が差し込んでいた。外はもう明るいのだろう。夜の底から地上へ戻るように、誠司は階段を一段ずつ上がった。
通用口の近くで、柴田源蔵が立っていた。
いつもの作業着。いつもの無愛想な顔。手には、まだ開けていない缶コーヒーが一本あった。蛍光灯の光を受けて、缶の表面に白い線が走る。
「終わったか」
「はい。今日は全部、消せました」
「そうか」
柴田はそれ以上聞かなかった。
誠司も、さっきの警告のことを言わなかった。言えば、柴田なら何か知っているかもしれない。そう思ったのに、口に出すだけの力が残っていなかった。
柴田の視線が、誠司の顔に止まる。
「寝ろよ」
「はい」
「返事だけうまくなるな」
誠司は小さく頭を下げた。
通用口の扉を開けると、朝の風が頬に当たった。湿った夜の空気とは違う、少し乾いた風だった。ビルの谷間を抜けてきた風が、植え込みの草を低く揺らしている。細い葉が擦れ合い、さわさわと頼りない音を立てていた。
東の空は薄い金色に変わり始めていた。
低い建物の屋上に朝日が引っかかり、光が斜めに伸びている。アスファルトの小さな凹みに残った水が、その光を受けて白く光った。誠司は目を細める。網膜に、さっきまで見ていた赤い表示と朝の光が重なって、妙な残像になった。
足を踏み出す。
靴底がアスファルトを叩く音は、地下の床より少し鈍かった。
一歩。
また一歩。
帰らなければならない場所がある。
それは誠司にとって、当たり前すぎて、これまで深く考えたことのないものだった。けれど今は、その当たり前がひどく遠く、ひどく大切に思えた。
駅へ向かう道の向こうで、始発を過ぎた街がゆっくり動き始めている。
新聞配達のバイクが走り抜ける音。コンビニの自動扉が開く電子音。信号待ちの車のエンジン音。遠くの踏切が、まだ眠そうに鳴っていた。
その全部が、誠司には帰ってきた世界の音に聞こえた。
◇
同じ朝。
黒瀬環は、地上へ向かうエレベーターの中で目を閉じていた。
体は疲れている。肩は重く、こめかみの奥が脈打っている。けれど眠ることはできなかった。まぶたを閉じると、兄の写真と、S.Sの操作記録と、外部接続の警告が順番に浮かんでは消える。
エレベーターが地上階に着いた。
扉が開いた瞬間、朝の光が差し込んだ。黒瀬は一瞬だけ目を細める。地下の青白い照明に慣れた目には、朝日は少し強すぎた。ビルのガラスに反射した光が、視界の端で白く弾ける。
外に出ると、街路樹の葉が風に揺れていた。
まだ柔らかい緑の葉が、朝の光を透かしている。風が吹くたび、葉の影が歩道の上で細かく揺れた。足元では、乾いた砂粒が靴底にこすれ、さり、と小さな音を立てる。
黒瀬は駅へ向かった。
電車は混み始める少し前だった。座席に腰を下ろすと、膝の上に鞄を置き、手を添えた。車内の窓から差し込む光が、彼女の眼鏡の縁を白く照らす。
電車が動き出す。
レールの継ぎ目を越えるたび、車体が小さく揺れた。規則正しい振動が足元から伝わってくる。窓の外では、低い住宅街の屋根が流れ、電線に止まった鳥の影が一瞬で後ろへ消えた。
黒瀬は鞄から封筒を取り出した。
写真の兄は、やはり若いままだった。
十二年という時間は、残された者の体だけを通り過ぎていく。兄の髪は白くならない。目尻に皺も増えない。疲れた顔で電車に揺られることもない。
帰ってこなかった人は、記憶の中でだけ、いつまでもあの日の姿をしている。
黒瀬の指先が、写真の端をなぞった。
車内アナウンスが流れた。誰かが咳をした。隣の席の会社員が、眠そうにスマートフォンを落としかけて、慌てて掴む。そのどれもが日常の音だった。
けれど黒瀬の胸の中には、地下の冷たい静けさがまだ残っていた。
「兄さん」
唇だけで、そっと呼ぶ。
声は電車の走行音に紛れた。
「あなたの後を継いだ人がいるよ」
写真の中の兄は、何も答えない。
黒瀬は眼鏡の奥で、まばたきをした。涙は出なかった。泣くには、十二年は長すぎた。それでも、胸の奥の一番深い場所が、静かに痛んだ。
「今度は、私が守るから」
電車がカーブに入り、朝日が窓いっぱいに広がった。
写真の表面が白く光り、兄の顔が一瞬、見えなくなる。
黒瀬環は、その光の中で写真を胸に押し当てた。




