第15話 ファミレスの奇跡 〜満ちることは分け合うことである〜
その朝、誠司のスマホは、食卓の端で短く震えた。
台所の窓から入る朝の光はまだ淡く、流し台に置かれた水滴を小さく光らせていた。薄いカーテンが風でわずかに膨らみ、冷えた空気に味噌汁の湯気がゆっくり混ざっていく。鍋の中で豆腐が小さく揺れ、刻んだ葱の緑が白い湯気の向こうでぼやけて見えた。
湊はリビングの床で、青いスニーカーの紐を結び直していた。
もう何度も結んでいるのに、まだ嬉しいらしい。紐を引っ張ってはほどき、ほどいてはまた結ぶ。そのたびに靴底が床を軽く叩き、ぱた、ぱた、と柔らかい音が朝の家に弾んだ。
陽菜は食卓でノートを開き、宿題の残りを確認している。鉛筆の先が紙に触れる音は小さく、時折、湊の靴音にかき消された。
美咲は味噌汁をよそっていた。
いつも通りの朝。
いつも通りの、足りないものを少しずつ隠して回す朝。
誠司は何気なくスマホを手に取った。
【給与振込完了のお知らせ】
表示された文字を見た瞬間、指先が止まった。
部屋の音が遠くなる。
湊の靴音も、陽菜の鉛筆の音も、味噌汁をよそう椀の音も、薄い膜の向こうへ退いていく。
誠司は画面を開いた。
【振込金額:167,580円】
数字は、以前見た明細と同じだった。
わかっていた金額だ。
驚くはずはなかった。
それでも、実際に口座へ入ったその数字は、画面の中で違う重みを持っていた。
「……入った」
声が小さく漏れた。
美咲が振り返った。
「何が?」
誠司は反射的にスマホを少し伏せた。隠すつもりではなかった。ただ、その数字を誰かに見せる前に、自分の中で一度受け止めたかった。
薄い紙で渡された減額の知らせ。
スーパーの精肉売り場で、手に取った肉を棚へ戻した美咲の背中。
家計簿の赤い線。
子供の靴を買うだけで、胸の奥に申し訳なさが積もった日。
その全部が、画面の数字の向こうで静かに揺れた。
誠司は一度、深く息を吸った。
「バイト代」
美咲の手が止まった。
椀の中で味噌汁の表面が小さく揺れる。
「入ったの?」
「ああ」
「……そう」
美咲はそれだけ言った。
けれど、声の端が少しだけ柔らかかった。
誠司はスマホを伏せ、食卓に置いた。朝の光が画面の端に反射して、細い白い線を作った。
湊が顔を上げる。
「パパ、お金入ったの?」
「湊」
陽菜がすぐにたしなめた。
湊は口を尖らせる。
「だって聞こえたもん」
誠司は苦笑しそうになったが、喉の奥で止めた。
笑ってごまかすには、少し大事な朝だった。
「少しな」
「少し?」
美咲が静かに聞き返した。
誠司は湯気の立つ味噌汁を見つめた。
「深夜のバイト、少し時給が上がったから」
「少し」
同じ言葉を、美咲がもう一度繰り返した。
追及する声音ではなかった。
ただ、全部は信じていない声だった。
誠司は椀を両手で包んだ。温かさが指に染みる。夜の端末に触れた時の熱とも、血の滲んだハンカチの熱とも違う。家の朝の温度だった。
「今日さ」
誠司は言った。
「外で食べないか」
湊の動きが止まった。
青いスニーカーの紐を持ったまま、目を丸くする。
「外って、どこ?」
「ファミレスでいいんだけど」
言い終わる前に、湊が跳ねた。
「やったーーー!」
床を蹴る音が、リビングに明るく響いた。スニーカーの青が朝の光を受けて、ぴかりと光る。陽菜は一瞬だけ目を丸くし、それから小さく笑った。笑い声にはならなかったが、頬の端が少し上がっていた。
美咲は、誠司を見ていた。
「大丈夫なの?」
「大丈夫」
誠司はすぐに答えた。
今度は、嘘にしたくなかった。
「今月、ちょっと余裕あるから」
美咲はしばらく黙っていた。
鍋の中で、味噌汁が小さく音を立てる。窓の外では、隣家の庭木が風に揺れ、葉が擦れる乾いた音がかすかに届いた。
やがて美咲は、ふっと息を吐いた。
「じゃあ、行こうか」
その一言で、湊はまた跳ねた。
陽菜は「宿題終わらせてからね」と小さく言いながら、鉛筆を持ち直した。
誠司は味噌汁を一口飲んだ。
薄い出汁の味が、喉を通っていく。
それだけで、胸の奥が熱くなった。
*
日曜日の夕方、空は薄い橙色に染まっていた。
駅前へ向かう道の両側で、街路樹の葉が風に揺れている。傾いた太陽の光が葉の隙間からこぼれ、歩道の上にまだらな影を落としていた。湊の青いスニーカーがその光の中を跳ねるたび、靴底がアスファルトを軽く叩いた。
「早く早く!」
「走らない」
美咲が言う。
湊は一瞬だけ歩幅を小さくしたが、すぐにまた半分走るような歩き方になった。
陽菜はその後ろを少し離れて歩きながら、誠司の横顔をちらりと見る。
「パパ、何食べるの?」
「まだ決めてない」
「また一番安いやつ?」
誠司は返事に詰まった。
陽菜はそれ以上言わず、前を向いた。
夕方の風が、彼女の髪を頬にかける。陽菜は指でそれを耳にかけ直し、少しだけ早足になった。
ファミレスのガラス扉が開くと、温かい空気と油の匂いが流れてきた。
店内は家族連れで賑わっていた。皿の触れる音、子供の笑い声、ドリンクバーの機械が氷を落とす音。天井の明かりは白く、テーブルの上を明るく照らしている。
案内されたボックス席に、四人は向かい合って座った。
湊はメニューを開いた瞬間、目を輝かせた。
「ハンバーグ! ドリンクバーもある! パパ、ドリンクバーいい?」
「いいよ」
「ほんと!?」
「今日はいい」
湊の顔がぱっと明るくなった。
その顔を見た瞬間、誠司の胸に何かが込み上げた。
ドリンクバーを許すだけで、こんなに喜ぶ。
それが嬉しくて、少し苦しかった。
陽菜はメニューを静かにめくり、オムライスの写真で指を止めた。
「私はこれにする」
「オムライス?」
「うん」
美咲はメニューを開いたまま、ページを進めなかった。
視線は、肉料理の並ぶページに留まっている。
厚みのあるステーキの写真。
鉄板の上で湯気を立てる肉。
添えられたポテトとコーン。
美咲の指が、ページの端を軽く押さえていた。
誠司はそれに気づいた。
スーパーの冷たい棚の前で、肉のパックを手に取り、値札を見て、静かに戻した美咲の横顔が胸に浮かぶ。
あの時、彼女は何も言わなかった。
何も言わずに豆腐を選んだ。
誠司はメニューを閉じた。
「美咲」
「ん?」
「好きなの頼めよ」
美咲は顔を上げた。
「いつも節約してくれてるだろ」
店内のざわめきが、少しだけ遠くなった。
美咲は何か言いかけて、やめた。
天井の白い光が、彼女の目の中で小さく揺れている。
長い沈黙ではなかった。
けれど、誠司にはひどく長く感じられた。
湊も、陽菜も、なぜか黙っていた。
美咲はもう一度メニューを見た。
そして、少しだけ息を吸った。
「じゃあ」
声は静かだった。
「ステーキにする」
その言葉が、テーブルの上にそっと置かれた。
*
注文を終えたあと、テーブルの上には少しだけ不思議な静けさが残った。
店内は変わらず賑やかだった。隣の席では小さな子がフォークを落とし、金属の乾いた音が床に跳ねる。ドリンクバーの前では氷が機械の中で崩れ、からからと軽い音を立てている。厨房の方からは、熱い鉄板に何かが乗せられた音が聞こえ、油の弾ける匂いが空気に混ざった。
それなのに、佐藤家のテーブルだけは、ほんの数秒、誰も言葉を出さなかった。
美咲はメニューを閉じて、両手を膝の上に置いていた。
湊はストローの袋を破りながら、ちらちらと母親を見ている。陽菜は水の入ったグラスを両手で包み、氷が溶ける音に耳を澄ませるように黙っていた。
誠司は、その沈黙を壊さなかった。
ステーキにする。
ただそれだけの言葉だった。
けれど、その言葉がここまで来るのに、いくつもの朝と夜が必要だった。
肉を買わずに豆腐を選んだ夕方。
家計簿の前で黙った美咲の背中。
子供たちの前で、できるだけ普通の顔をしていた食卓。
それらが、店の明るい照明の下で、静かにほどけていくようだった。
「パパ」
陽菜が、小さな声で言った。
「ん?」
「パパの好きなもの頼んでいいよ」
誠司は一瞬、意味がわからなかった。
陽菜はグラスの水面を見つめたまま、続ける。
「パパ、いつも最後に決めて、一番安いの頼むでしょ」
胸の奥を、細い針で押されたような気がした。
誠司は言葉を探した。
見ていないと思っていた。
気づかれていないと思っていた。
父親らしく、普通にしているつもりだった。家計を気にしていることも、値段を見て料理を選んでいることも、笑ってごまかせているつもりだった。
けれど十歳の娘は、ちゃんと見ていた。
音のない場所で。
何も言わないまま。
「……じゃあ」
誠司はメニューをもう一度開いた。
ハンバーグの写真が目に入る。いつもなら、もっと安い日替わりを選んでいただろう。ドリンクバーはつけない。子供の分だけで十分だと、自分に言い聞かせる。
でも今日は違う。
「パパも、ハンバーグにするかな」
陽菜が、ほんの少しだけ笑った。
湊がストローを口にくわえたまま、勢いよく顔を上げる。
「パパもハンバーグ!? じゃあ同じ!」
「ああ。同じだな」
その何気ない会話だけで、誠司の喉の奥が詰まった。
*
料理が運ばれてきた時、湊は椅子の上で小さく跳ねた。
湯気を立てるハンバーグ。照りのあるソース。白い皿の上で鮮やかな黄色を見せる陽菜のオムライス。そして、美咲の前に置かれた鉄板のステーキ。
熱せられた鉄板の上で、肉がじゅうじゅうと音を立てていた。
細かな油が弾け、湯気が白く立ち上る。店内の照明を受けた肉の表面は濃い茶色に光り、添えられたコーンの黄色と、ポテトの白が、その熱のそばで明るく見えた。
美咲は、しばらく箸を取らなかった。
湯気の向こうで、彼女の目が少しだけ揺れている。
「冷めるよ」
誠司が言うと、美咲は小さく頷いた。
ナイフを入れる。
肉の表面が静かに切れ、断面から湯気が上がった。
美咲は一切れを口に運んだ。
噛む。
その瞬間、彼女の目元がわずかに緩んだ。
そして、ほんの少しだけ潤んだ。
「おいしい」
声は小さかった。
周囲のざわめきに消えてしまいそうなほどだった。
けれど、誠司にははっきり届いた。
「久しぶりに、おいしいもの食べた」
その言葉を聞いた時、誠司は胸の奥で何かが崩れるのを感じた。
ファミレスのステーキだった。
特別な店ではない。
高級な料理でもない。
でも美咲にとって、佐藤家にとって、それはずっと我慢していたものだった。
湊はハンバーグを夢中で食べている。
「うまっ! これ、めっちゃうまい!」
「口に入れたまま喋らない」
陽菜が注意する。
湊は頷きながら、また大きく口を開けた。
陽菜は自分のオムライスを少しずつ食べていた。けれど時々、誠司の皿を見る。誠司がちゃんと食べているか確認するような目だった。
誠司はハンバーグを一口切り、口に運んだ。
温かい。
ソースの甘みと肉の匂いが広がる。
何度も食べたことのある味のはずなのに、その日は違って感じた。
夜の底で端末に触れた指。
青白い地図の中で動いていた光点。
鼻血の熱。
朝の味噌汁。
それらが全部、この一口に繋がっている気がした。
自分の深夜の時間が、ようやく家族の皿の上に届いた。
そう思うと、目の奥が熱くなった。
美咲がふと、誠司の手を見た。
「あなた」
「ん?」
「手、荒れてない?」
誠司は箸を持つ自分の指を見た。
指先が少し赤い。
皮膚が乾き、細かく白くなっている。端末に触れる時間が増えてから、妙に指先がかさつくようになっていた。自分では気にしないようにしていた。
「乾燥かな」
誠司はそう答えた。
美咲は、すぐには頷かなかった。
店内の明かりが、彼女の瞳に映って揺れる。
「痛くない?」
「大丈夫」
「……そう」
それ以上は聞かなかった。
でも、心配していないわけではない。
美咲の沈黙は、そういう沈黙だった。
*
帰り道、空はすっかり夜になっていた。
ファミレスの明るい看板が背後で小さくなり、住宅街の道には街灯の白い光が点々と落ちている。風は少し冷たくなっていた。歩道脇の草が揺れ、細い葉が互いに触れて、ささやくような音を立てる。
湊は満腹で眠くなったのか、青いスニーカーの足取りが少し遅くなっていた。
「おなかいっぱい……」
「帰ったら歯磨きして寝るんだぞ」
「うん……」
返事は半分眠っていた。
陽菜は美咲の隣を歩いていたが、時々、誠司を振り返る。何か言いたそうにして、結局何も言わない。その代わり、家の前に着いた時、小さくつぶやいた。
「また行けるといいね」
誠司は鍵を取り出しながら、頷いた。
「ああ。また行こう」
言ってから、その言葉の重さに気づいた。
約束だ。
軽く言っていいものではない。
でも、言いたかった。
また連れていきたい。
今日の美咲の顔を、湊の声を、陽菜の小さな笑みを、もう一度見たい。
家に入ると、テレビがついた。
湊はソファに倒れ込み、新しいスニーカーをなぜか胸に抱えたまま、すぐに目を閉じた。陽菜はランドセルからノートを出し、食卓で宿題の続きを始める。美咲は上着を片づけながら、テレビのリモコンを手に取った。
画面では、ニュース番組が流れていた。
『ダンジョン関連技術大手のオービットゲート社が、新たなダンジョン管理技術の開発を発表しました』
誠司は台所に立ち、残りご飯をラップに包んでいた。
テレビの音は、耳の端を流れていく。
『同社の白瀬総一郎常務取締役は会見で――』
画面に、整ったスーツ姿の男が映った。
白瀬総一郎。
字幕に出た名前を、誠司はぼんやり見ただけだった。
男は穏やかな表情をしていた。だが、その目は笑っていなかった。
『ダンジョンの管理は、人間の感情に左右されるべきではありません』
低く落ち着いた声だった。
誠司はおにぎりを握る手を一瞬だけ止めた。
言葉の意味が、胸のどこかに引っかかった。
けれど、美咲がチャンネルを変えた。
「湊、そこで寝ないで。起きて」
テレビから流れる音が、明るいバラエティ番組の笑い声に変わる。
誠司は再び手を動かした。
残りご飯を丸く握り、塩を少し振る。
来月も、連れて行けるだろうか。
その思いだけが、台所の薄い明かりの下で、静かに胸に残った。
*
夜遅く。
深夜バイトへ向かう時間になった。
玄関は静かだった。家族はもう眠っている。廊下の足元灯だけが淡く光り、壁に小さな影を作っていた。
誠司は靴を履いた。
隣には、湊の青いスニーカーがきちんと並んでいる。昼間より少し汚れていて、つま先に細かな砂がついていた。それさえ、今日一日をちゃんと生きた跡のように見えた。
誠司はドアノブに手をかけた。
指先の荒れた部分が、金属に触れて少しだけ痛んだ。
振り返る。
暗い廊下。
奥の部屋から聞こえる、家族の静かな寝息。
冷蔵庫の低い音。
どれも、守りたいものだった。
「行ってくるよ」
声は小さかった。
誰も返事はしない。
けれど、それでよかった。
誠司はドアを開けた。
夜の風が、すっと入り込む。外の空気は冷たく、街灯の光が階段の縁を白く照らしていた。
佐藤誠司はまだ知らない。
今日、テレビに映った男が、やがて自分の名前へ手を伸ばしてくることを。
自分が守りたいと思った小さな食卓が、遠い場所から見つめられ始めていることを。
それでも今夜の誠司は、少しだけ幸せだった。
ファミレスのステーキの匂い。
湊のはしゃいだ声。
美咲が言った「おいしい」。
陽菜の「パパの好きなもの頼んでいいよ」。
そのすべてが、夜の冷たい道を歩く胸の中で、まだ温かく灯っていた。




