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減給された40代社畜、深夜バイトで国家級ダンジョンの管理者になる  作者: Gaku


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第14話 光点 〜小さな光は誰かの帰り道である〜

十二度目の深夜勤務の日、雨は降っていなかった。


 けれど、夜の空気には湿り気が残っていた。駅前のアスファルトは薄く黒ずみ、街灯の白い光を鈍く返している。風が吹くたびに、歩道脇の植え込みが低く揺れ、濡れた葉と葉が擦れて、かすかな音を立てた。


 誠司はコートの袖口を握り、少しだけ肩をすぼめて歩いた。


 鼻血は、あの日以来出ていない。


 それでも、鼻の奥に残った鉄の匂いを、身体がまだ覚えている気がした。階段を上る時、頭の奥が重くなる。電車の揺れで目を閉じると、青白い線と赤い警告がまぶたの裏に浮かぶ。


 無理はするな。


 美咲の声が耳に残っている。


 休息を優先してください、誠司。


 コトリの声も、なぜか同じ場所に残っている。


 人間の声ではないはずなのに、その言い方は妙に忘れにくかった。


 誠司はビルの入口で足を止め、夜空を見上げた。雲の切れ間から、薄い月が見えている。ビルのガラスに反射した月は、本物よりも頼りなく、揺れる光の欠片みたいだった。


「今日は、何もないといいんだけどな」


 小さく言って、誠司は中へ入った。


   *


 勤務室は、いつもと同じ静けさだった。


 窓のない部屋。控えめに落とされた照明。机の上に置かれた端末。壁際の空調が低く鳴り、乾いた冷気が床へ薄く広がっている。


 誠司は椅子に腰を下ろし、缶コーヒーのタブを開けた。


 軽い破裂音が、静かな部屋に思ったより大きく響いた。


 画面には、すぐに赤い警告は出なかった。


 そのことに、誠司は胸の奥で少しだけ息をついた。


【待機状態です】


 コトリの声がした。


「了解」


 誠司は缶コーヒーを一口飲んだ。苦味が舌の上に広がる。ぬるくなる前の缶は手のひらに少し温かく、その温度が眠気で冷えた指に染みた。


 やることがない時間は、以前なら楽だと思えた。


 けれど今は違う。


 静かすぎると、逆に落ち着かなかった。


 どこかで誰かが動いているのではないか。自分が気づいていないだけで、危ない場所に近づいている光があるのではないか。そんな考えが、椅子の背にもたれていても胸の奥を小さく叩く。


 誠司は端末に手を伸ばした。


「コトリ。階層マップ、見られるか」


【第二段階権限により表示可能です】


「出してくれ」


 画面が青白く変わった。


 細い線で描かれた立体構造が、暗い画面の中に浮かび上がる。幾つもの通路、縦に落ちる空洞、閉じた壁、曲がりくねった細道。それらが重なり、まるで透明な地下の模型を覗き込んでいるように見えた。


 最初にこの地図を見た時、誠司はただ複雑だと思った。


 今は違う。


 犬飼がいた赤い点を、まだ覚えている。


 消えなかった光。


 帰っていった誰か。


 誠司は無意識に画面へ顔を近づけた。


 すると、青い線の合間に、小さな光がいくつも散っていることに気づいた。


 白に近い淡い光だった。


 ひとつは通路の途中でゆっくり動いている。別のひとつは、広い空洞の端で止まっている。三つ並んだ光は、同じ方向へ少しずつ進んでいた。


 誠司は眉を寄せた。


「コトリ。この光点って、何だ?」


【区画内の生体反応を示す表示です】


 誠司の指が止まった。


【主に人間の体温、心拍、呼吸による反応です】


 画面の中で、小さな光がまたひとつ動いた。


【現在、合計十三名の登録活動者が管理領域内で活動中です】


「十三名……」


 誠司は、椅子から少し身を引いた。


 青白い地図は、ただの地図ではなかった。


 そこには人がいた。


 光の数だけ、息をしている人がいる。


 寒い通路を歩き、濡れた床を踏み、ライトの光で暗闇を切りながら進んでいる誰かがいる。家を出る時に、誰かから「気をつけて」と言われたかもしれない。帰ったら温かいものを食べようと思っているかもしれない。待っている人がいるかもしれない。


 誠司の喉が、音もなく鳴った。


「……ここに、人がいるのか」


 言葉にした瞬間、光点が急に重く見えた。


 今までは、警告を消していた。


 通路を直していた。


 壁を開けていた。


 けれど本当は、その先にあるものを、見ないようにしていただけなのかもしれない。


 十三の光。


 一つ一つが、生きている。


 誠司は指先を端末の縁に置いた。冷たい表面に触れたはずなのに、指の腹がじんと熱くなる。


「俺がミスをしたら」


 声が掠れた。


「この光が、消えるのか」


 コトリはすぐには答えなかった。


 空調の音が、部屋の隅で静かに流れている。缶コーヒーの内側で、残った液体がほんのわずかに揺れた。


【不適切な操作は、登録活動者の危険度を上昇させる可能性があります】


 誠司は目を閉じた。


 冷たい汗が、背中に薄く滲んだ。


 数字ではなかった。


 赤い表示でもなかった。


 光だった。


 人だった。


 誰かの帰り道だった。


【誠司にも、帰りを待っている人がいます】


 その声は静かだった。


 誠司はゆっくり目を開けた。


 画面の光が、瞳の奥で滲む。


「……ああ、いるよ」


 小さく答えた。


 朝の台所。


 味噌汁の湯気。


 弁当箱を包む布。


 眠そうな陽菜の横顔。


 青い靴で玄関を跳ねる湊。


 美咲がこちらを見ずに置いてくれる温かい椀。


「味噌汁と弁当を作って、待ってる人がいる」


 声に出した途端、胸の奥が強く締めつけられた。


 画面の中では、十三の光がゆっくり動いている。


 そのどれもが、誰かのもとへ帰らなければならない。


 誠司は缶コーヒーを机の端へ寄せ、背筋を伸ばした。


「ちゃんと見ておかないとな」


【はい】


 青白い地図の中で、小さな光点がまたひとつ、静かに進んだ。


   *


 翌朝の会社は、乾いていた。


 窓の外には薄い雲が広がり、太陽の光は白く弱い。ビルの谷間を抜ける風が、街路樹の細い枝を揺らしている。葉は硬く擦れ、乾いた音を立てていた。


 誠司は自席に着き、まだ温かい缶コーヒーを机の隅に置いた。


 眠い。


 それでも、昨夜の光点が頭から離れなかった。


 パソコンの起動音が鳴る。隣の席では誰かが書類をめくり、コピー機が奥で低く唸っている。電話の着信音、キーボードの音、誰かのため息。いつもの会社の朝だった。


 その騒がしさの中にいると、昨夜の静かな地図が夢のように思える。


 けれど、夢ではない。


 十三の光は、確かにそこにあった。


「佐藤さん」


 背後から声がした。


 矢沢だった。


 誠司の肩がわずかに強張る。


「これ、今日中に追加しといて」


 机の上に、紙の束が置かれた。


 重い音だった。


「在庫表の追加分。品番と名称、全部入力。昼までに一回見せて」


 誠司は紙の束を見下ろした。


「今日中、ですか」


「うん。できるでしょ」


 矢沢はそれだけ言うと、返事も待たずに離れていった。


 誠司はしばらく紙を見ていた。


 会社の空調は弱く、室内は少し息苦しかった。窓際のブラインドが揺れ、細い光が机の上を何本も横切っている。


 誠司は一枚目をめくった。


 品番。


 数量。


 保管場所。


 そして名称。


 指が止まった。


【階層安定センサー】


 その下に、別の名称。


【退避経路制御ユニット】


 誠司は画面ではなく、紙の文字を見つめたまま動けなくなった。


「階層安定……退避経路……」


 喉の奥が、急に乾いた。



 *


 誠司は、紙の文字をもう一度見た。


 見間違いではなかった。


 階層安定センサー。


 退避経路制御ユニット。


 それは、深夜の端末で何度も見てきた言葉と、完全に同じではない。向こうでは区画の安定値や、開放する経路として表示される。けれど、紙の上に並んだ単語は、あまりにも近かった。


 会社の蛍光灯が、白く机を照らしている。


 紙の繊維が光を吸い、印字された黒い文字だけが、妙に浮き上がって見えた。周囲では、誰かが電話で謝っている。コピー機が紙を吐き出す音。椅子の軋む音。キーボードを叩く乾いた音。


 いつもの会社だった。


 いつもの、何も起きないはずの机だった。


 それなのに、誠司の背中には薄く汗が滲んでいた。


「佐藤さん、手止まってるけど」


 矢沢の声が飛んできた。


 誠司は肩を跳ねさせた。


「あ、すみません」


「昼までって言ったよね」


「はい。すぐやります」


 矢沢は面倒くさそうに鼻を鳴らし、自分の席へ戻っていった。


 誠司は唇を結んだ。


 調べてはいけない。


 契約書には、業務に関する調査や外部への照会を禁じる文言があった。深夜の仕事で見た内容を、会社の資料と照らし合わせることも、きっと許されない。


 けれど。


 どうして自分の会社の在庫表に、こんな名前がある。


 この部品は、どこへ納品されるものなのか。


 誰が使うものなのか。


 指が、マウスの上で止まった。


 検索欄に名称を打ち込みそうになって、誠司は息を呑んだ。


 画面の向こうに、十三の光点が浮かぶ。


 あの小さな光の一つ一つが、誰かの体温で、心拍で、呼吸だった。


 もし、この紙の束がそこへ繋がっているのなら。


 誠司の喉が、ひどく乾いた。


「佐藤さん」


 今度はさらに近い声だった。


 矢沢が、机の横に立っていた。


「入力、進んでる?」


「……はい」


「ぼうっとしないでよ。こっちも忙しいんだから」


「すみません」


 誠司は視線を下げた。


 考えるな。


 今は入力しろ。


 深追いしたらいけない。


 自分に何度も言い聞かせ、品番を打ち込んだ。数字と英字の羅列が画面に並んでいく。指先は動いているのに、頭の奥では青白い地図が消えない。


 階層安定。


 退避経路。


 光点。


 人。


 単語が胸の中で絡まり、ほどけないまま重く沈んでいった。


   *


 夜の分析室では、窓の代わりに何枚もの画面が光っていた。


 白い照明は抑えられ、机の上には青や緑の光が落ちている。空調は低く一定の音を立て、誰かが飲み残したコーヒーの苦い匂いが、機械の熱に混ざって漂っていた。


「黒瀬主任。S.Sに関する追加分析、まとまりました」


 若い職員が、薄い資料を差し出した。


 黒瀬環は、それを受け取った。


 細い指が紙の端を押さえる。爪は短く整えられていて、無駄な装飾は何もない。彼女は椅子に深く座り直すことなく、背筋を伸ばしたまま一枚目を開いた。


【暫定プロファイル】


【性別:推定男性】


【年齢:三十代後半から五十代前半】


【職業:一般企業事務職の可能性】


【居住地:東京都東部から埼玉県南部】


【家庭:あり】


 黒瀬の目が、一行ずつ静かに動いた。


「家庭あり、と判断した理由は」


「操作終了後の移動パターンです。寄り道がほぼありません。早朝の決まった時間帯に生活圏へ戻っています。それと、休日の操作前行動に買い物らしき移動が見られます」


「単身者でもあり得る」


「はい。ただ、帰宅後の活動が短時間で規則的です。家事か、家族対応の可能性があります」


 黒瀬は返事をせず、資料をめくった。


 画面の中で、点と線が細かく繋がっている。


 まだ顔は見えない。


 まだ名前もない。


 けれど、誰かの暮らしの輪郭だけが、薄紙の向こうから滲むように浮かび上がっていた。


 夜に働き、朝に帰る。


 日中は別の場所で働いている。


 家へ戻る。


 その繰り返し。


 黒瀬は、画面に表示された仮の識別名を見つめた。


【S.S】


 ただの二文字。


 けれど、その奥に生きている人間がいる。


 その人間は、C-8区画で一人を救った。D-4区画に残る記録とも似た痕跡がある。危険な最短路ではなく、安全な経路を選んでいる。少なくとも今のところ、彼は人を死なせないように動いている。


「オービットゲート社の動きは」


 黒瀬が訊いた。


 職員の表情が少し硬くなった。


「情報部が管理端末のログに関心を示し始めています。正式な照会ではありませんが、周辺企業への聞き取りが入っています」


「うちより先に、民間企業が接触する可能性がある」


「はい」


 黒瀬は資料を閉じた。


 分析室に沈黙が落ちる。


 画面の光だけが、彼女の横顔を淡く照らしていた。空調の風で、机の端の紙が一枚、かすかに震える。その小さな音が、やけに大きく聞こえた。


「この人を、獲物のように扱ってはいけない」


 黒瀬の声は静かだった。


 職員は顔を上げた。


「主任?」


「彼は、まだ自分がどれほど注目されているか知らない。知った時、逃げるか、壊れるかもしれない」


 黒瀬はペンを取った。


 レポートの最後に、短い一文を書き加える。


【この管理者は、守られるべき存在である】


 少しだけ間を置いて、さらに続けた。


【ただし、その判断は私個人の見解であり、組織の方針とは限らない】


 ペン先が止まる。


 黒瀬は画面の中の二文字を見つめた。


 S.S。


 夜の底で誰かを救い、朝になると家へ帰る、名も知らぬ誰か。


「あなたは、誰なの」


 その問いに答えるものは、まだどこにもなかった。


 ただ、画面の光だけが静かに揺れ、夜の分析室の中で、二文字の輪郭を冷たく照らしていた。

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