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減給された40代社畜、深夜バイトで国家級ダンジョンの管理者になる  作者: Gaku


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13/26

第13話 休息を優先してください 〜止まることは守ることである〜

夜の駅前は、昼間よりも広く見えた。


 店の看板はまだ明るいのに、人の流れだけが細くなっている。歩道の端に溜まった落ち葉が、ビルの隙間から吹く風に押されて、乾いた音を立てながら転がっていく。街路樹の葉は黒い空を背景に揺れ、時折、コンビニの白い光を受けて、裏側だけが薄く光った。


 佐藤誠司はコートの襟を少し立て、駅から職場へ向かった。


 靴底がアスファルトを叩く音が、夜の空気に硬く響く。


 眠気は、もう身体の一部になっていた。


 目の奥が重い。肩は固まり、首の後ろには鈍い痛みが居座っている。電車の中で何度も眠りかけ、そのたびに膝がかくんと落ちて目が覚めた。帰りのことを考えると、今からもう少し気が遠くなる。


 それでも足は止まらなかった。


 家の台所で見た美咲の横顔。


 湊が新しい靴を履いて玄関で跳ねた時の音。


 陽菜が弁当箱を包む手元。


 そういうものが、夜道の冷たさの奥で小さな灯りのように残っている。


 誠司は白い息を吐いた。


「あと少し、頑張ればいい」


 自分に言い聞かせる声は、風にすぐほどけた。


   *


 十一度目の勤務は、入室してすぐに赤く染まった。


 端末の前へ座った瞬間、画面の右側に赤い表示がいくつも並んだ。ひとつではない。二つでもない。八件。


 誠司は思わず、椅子の背から身体を起こした。


 部屋の空調はいつも通り静かだった。蛍光灯は少し落とされ、端末の光だけが机の上を青白く照らしている。壁際の時計は、まだ日付が変わってからそれほど経っていない時間を示していた。


 それなのに、画面の中だけが慌ただしい。


【警告:区画安定値低下】


【警告:退避経路閉鎖】


【警告:登録活動者接近】


【警告:障害物発生】


 赤い文字が、目の奥に刺さる。


「八件って……多いな」


【未処理項目:八件】


 コトリの声は、いつも通り澄んでいた。


 平らで、揺れがない。


 その声を聞くと、誠司は少しだけ呼吸を整えられた。誰かが隣で状況を読み上げてくれるだけで、ひとりで暗闇を覗き込んでいる感覚が薄れる。


「順番にやる。危険度が高いものから出してくれ」


【優先処理順を表示します】


 画面が切り替わる。


 一件目は、閉じかけた通路の安定化だった。二件目は、落下物の除去。三件目は、活動中の人員を危険な区域から遠ざけるための案内表示。四件目は、隔壁の一時開放。


 誠司はひとつずつ処理した。


 指先が端末の表面を滑る。青白い線が画面上で伸び、赤い警告が一つずつ消えていく。そのたびに、小さく息を吐く。


 けれど身体は、確実に重くなっていた。


 三件目を終えた頃には、こめかみの奥がじくじくと痛み始めた。


 四件目を終えた時、視界の端が一度だけ暗くなった。


 誠司は瞬きをした。


「……大丈夫」


 誰に言うでもなく、そうつぶやいた。


【未処理項目:四件】


 まだ半分ある。


 五件目の表示を開いた時、階層マップが必要だった。


 立体の地図が画面に浮かび上がる。幾重にも重なる通路と空洞。薄い青の線。赤い警告表示。誠司は身体を前へ傾け、迷路のような構造を目で追った。


 下層の細い通路が使える。


 ただし、その途中に不安定な場所がある。


 そこを固定してから、別の出口へ逃がす。


 犬飼を救った時と似ていた。


 その記憶がよぎった瞬間、誠司の胸の奥が小さく縮んだ。


 また、誰かがいる。


 画面上の表示だけではない。


 この先には、息をしている誰かがいる。


「ここを……繋げば」


 指を伸ばした。


 その瞬間、鼻の奥に熱いものが広がった。


 最初は、ただ鼻水が出たのかと思った。


 けれど、唇の上に落ちたものは熱かった。


 誠司は手の甲で押さえた。


 赤い。


 鮮やかな赤だった。


「……あ」


 手の甲に広がる血を見た瞬間、逆に頭が冷えた。


 部屋の空気が遠くなる。


 空調の音が、壁の向こうへ押しやられたように薄くなる。端末の光だけがやけに眩しい。青白い線の残像が、網膜の奥に細く焼き付いている。


【誠司】


 コトリの声がした。


 いつもより、ほんの少しだけ近く聞こえた。


【体調に異常を検出しました】


 誠司はポケットからハンカチを取り出し、鼻を押さえた。


「大丈夫。すぐ止まる」


【推奨:作業を中断し、休息を取ってください】


「あと四件ある」


【作業継続は推奨されません】


「わかってる。でも、今止まったら、向こうが困るだろ」


 向こう。


 自分で言って、誠司は眉を寄せた。


 いつの間にか、そう思っていた。


 画面の向こう。


 数字の向こう。


 警告の向こう。


 そこには、誰かがいる。


 血がハンカチに染みていく。白い布に赤が広がり、じわじわと形を変えた。誠司は片手で鼻を押さえ、もう片方の手で端末を操作しようとした。


 その時、コトリが沈黙した。


 わずか数秒だった。


 けれど、その数秒は不自然なほど長かった。


 空調の音。


 時計の針。


 ハンカチ越しに聞こえる、自分の浅い呼吸。


 それらが、部屋の中にむき出しで置かれた。


 そして、コトリがもう一度言った。


【休息を優先してください、誠司】


 名前がついていた。


 誠司は手を止めた。


 血の匂いが、ほんの少しだけ鼻の奥に残る。端末の光が、机の上の紙コップに反射して震えていた。


「……今のは」


 誠司はゆっくり顔を上げた。


「今のは、マニュアルにない言い方だな」


【適切な表現が見つからなかったため、自律判断で生成しました】


「自律判断……」


 誠司は小さく笑いそうになって、すぐにやめた。


 笑える場面ではなかった。


 胸の奥に、妙なものが込み上げていた。


 人間ではない声が、自分の名前を呼んだ。


 作業を止めろと、もう一度言った。


 それは命令ではなく、注意でもなく、もっと不器用な何かに聞こえた。


 心配、という言葉が頭に浮かんだ。


 誠司はハンカチを鼻に当てたまま、椅子の背にもたれた。


 目を閉じると、血の熱さと、端末の光の残像が重なった。


「……三分だけ休む」


【了解しました】


 少し間があった。


【誠司。三分経過後も出血が続く場合、作業中断を再提案します】


「ああ。わかったよ」


 静かな部屋の中で、誠司は初めて、端末の前から両手を離した。


 それでも画面の赤い警告は消えない。


 遠くの誰かを待たせているようで、胸が落ち着かなかった。


   *


 同じ夜。


 神代玲奈は、会議室の前で一度だけ足を止めた。


 廊下の窓には、夜の街が黒く映っている。遠くの道路を走る車のライトが、細い線になって流れていた。施設の中は静かで、床を踏む靴音だけが、まっすぐ伸びる廊下に硬く返ってくる。


 手の中には、薄い資料の束がある。


 犬飼陸斗の証言。


 C-8区画の記録。


 三年前のD-4区画の記録。


 青白い光の筋。


 壁の開放。


 安全な経路。


 それらは偶然とは思えなかった。


 玲奈はドアの前で息を整えた。


 指先に、かすかな冷たさがある。


 迷っているわけではない。


 ただ、これを口にすれば、もう後戻りできないことだけはわかっていた。


 ドアの向こうで、人の気配が動いた。


 玲奈はノックした。


「神代です。報告があります」


 中から低い声が返る。


「入れ」


 玲奈はドアを開けた。


 会議室の空気は、廊下よりもさらに冷えていた。


 榊原は長机の奥に座り、腕を組んでいた。窓際のブラインドは半分下ろされ、隙間から夜の光が細く入り込んでいる。その光が机の上の資料に斜めの影を落としていた。


 玲奈は一歩前へ進み、資料を置いた。


 紙が机に触れる音が、静かな部屋に小さく響いた。


「管理者を、こちらから追う必要があります」


 榊原の眉がわずかに動いた。


 玲奈は目を逸らさなかった。


「ただし、目的は拘束ではありません」


 部屋の空気が、さらに重くなった。


「保護と、協力関係の構築です」


 榊原はしばらく何も言わなかった。


 その沈黙は、地下の暗闇とは違う種類の圧力を持っていた。


 返答が来る前に、玲奈は続けた。


「今、彼を敵として扱えば、私たちは取り返しのつかないものを失います」


 ブラインドの隙間で、夜の光が細く揺れた。




 榊原は、資料の一枚目を指先で押さえた。


 老眼鏡の奥の目は細い。そこに驚きはない。だが、黙っている時間がいつもより長かった。会議室の隅で空調が低く鳴り、ブラインドの細い隙間から差し込む夜の光が、机の端でかすかに揺れていた。


「保護、か」


 榊原の声は重かった。


「お前は、そいつが善意で動いていると考えているのか」


「少なくとも、これまでの記録では」


 玲奈は資料を開いた。


「C-8区画では、最短経路ではなく安全側に寄せた退避経路が使われています。D-4区画の記録とも一致します。もし相手がこちらを試しているだけなら、もっと荒い操作になっていたはずです」


「推測だな」


「はい」


 玲奈は即答した。


 言い訳はしなかった。


 榊原の目が、わずかに険しくなる。


「推測で組織を動かすのは危うい」


「承知しています」


「なら、なぜ急ぐ」


 玲奈は一度だけ息を吸った。


 喉の奥が乾いていた。


 D-4区画の暗闇が、ふと足元に戻ってくる。崩れた天井。途切れた声。青白く開いた道。生きて出てきた自分の足音だけが、今も耳の奥で鳴る。


 玲奈はその音を振り払うように、榊原を見た。


「こちらが迷っている間に、別の誰かが接触する可能性があります」


 榊原の指が止まった。


「別の誰か?」


「民間企業です。管理系統の記録に関心を持っている動きがあります。もし彼らが先に管理者を見つければ、保護ではなく利用に向かう」


 会議室の空気が重く沈んだ。


 遠くで機器の電子音が一度鳴る。すぐに消えたその音が、かえって静けさを深くした。


「管理者は、人を救っています」


 玲奈は言った。


「けれど、自分がどれほど危うい場所にいるのか、まだ理解していない可能性があります。私たちは、彼を追う必要があります。でも、追い詰めるためではありません」


 榊原は、長く玲奈を見ていた。


 やがて、小さく息を吐く。


「人員は」


「私が指揮を執ります。現場担当として犬飼陸斗を補助につけたいです。C-8区画の当事者であり、光の筋を直接見ています。分析担当を一名。記録照合と行動範囲の推定が必要です」


「犬飼を使うのか。あの小僧を」


「独断行動は許しません。私の管理下に置きます」


 榊原は皮肉げに眉を動かした。


「お前に似てきたな、あの小僧」


 玲奈は返事をしなかった。


 似ていると言われて、嬉しくはない。


 けれど否定もできなかった。


 早く成果を出したかった若い頃の自分。踏み込むべきではない場所へ、あと一歩だけと進んだ自分。その結果、戻らなかった仲間。


 犬飼を放っておけば、同じ場所へ落ちる。


 だから、そばに置く。


 玲奈はそう決めていた。


 榊原は資料を閉じた。


「わかった。小規模で始めろ。表向きは記録照合班だ。大きく動くな」


「ありがとうございます」


「礼は早い」


 榊原の声が低くなった。


「相手が本当に善意だけで動いている保証はない。逆に、善意だけで動いているなら、それはそれで危険だ。優しい人間ほど、自分が壊れるまで止まらん」


 玲奈の脳裏に、青白い光が走った。


 暗闇の中で、誰かがこちらへ道を開く。


 その誰かの顔は、まだ見えない。


「はい」


 玲奈は静かに答えた。


「だから、止めるためにも探します」


   *


 三分は、短いようで長かった。


 誠司は端末の前でハンカチを鼻に当てたまま、時計の針を見ていた。赤い警告は画面に残っている。四件。何もしていない時間が、胸を内側から叩いてくる。


 血は少しずつ止まってきていた。


 ただ、鼻の奥には鉄の匂いが残っている。頭痛も完全には引いていない。こめかみの奥で、細い針がゆっくり押し込まれているような痛みがあった。


【三分が経過しました】


 コトリの声がした。


【出血状態を確認してください】


「ほとんど止まった」


【作業再開を許可します。ただし、連続作業時間を短縮してください】


「……許可制なのか」


【誠司の状態を考慮した提案です】


 誠司は、血のついたハンカチを見下ろした。


 白い布に広がった赤は、もう乾き始めている。これを美咲に見られたら、何と言われるだろう。会社で鼻血を出した、と言えば心配される。寝不足だと言えば怒られる。


 それでも、今は戻らなければならない。


 誠司は端末へ向き直った。


「残り、やろう」


【はい】


 その返事が、少しだけ柔らかく聞こえた気がした。


 誠司は画面の赤い表示を一つずつ処理していった。


 無理に急がない。


 まず通路の安定化。


 次に障害物の移動。


 危険区域へ近づいていた反応を、光の案内で迂回させる。


 最後の警告が消えた時、部屋の中はいつもより静かに感じられた。端末の青白い光が弱まり、机の上には乾いた紙コップと、丸めたハンカチだけが残っている。


【未処理項目:なし】


 誠司は椅子にもたれ、天井を見上げた。


 蛍光灯の白い光が、目に染みる。


「終わった……」


【本日の高優先度対応は完了しました】


「そうか」


 答えた声は掠れていた。


 達成感よりも、疲れのほうが大きい。


 それでも、胸の奥には小さな灯りがあった。


 誰かを帰した。


 少なくとも、そう信じられる仕事をした。


   *


 帰宅した時、空はもう明るかった。


 朝の光が住宅街の屋根を薄く照らし、電線に止まった鳥が短く鳴いている。道路脇の植え込みには露が残り、風が吹くたびに葉の先で小さく光った。


 誠司は玄関の前で一度立ち止まった。


 鼻の下を指でそっと触る。


 血はついていない。


 大丈夫だ。


 そう確認してから、鍵を開けた。


 家の中には味噌汁の匂いがしていた。台所から包丁がまな板を叩く音が聞こえる。規則正しいその音が、夜の警告音の記憶を少しずつ遠ざけていく。


「おかえり」


 美咲が振り返った。


 髪を後ろで軽く結び、エプロンの紐を腰で結んでいる。朝の光が窓から入り、彼女の頬に柔らかくかかっていた。


「ただいま」


 誠司は靴を脱いだ。


 その時、美咲の目がわずかに細くなった。


「鼻、赤くない?」


 誠司の背中に、冷たいものが走った。


「え?」


「ここ」


 美咲は自分の鼻の下を指した。


「少し赤い」


「ああ……会社で、ちょっと柱にぶつけた」


 自分でも下手な嘘だと思った。


 美咲はしばらく黙っていた。


 包丁の音が止まり、台所から湯気だけが静かに上がる。奥の部屋では、湊が寝ぼけた声で何か言い、陽菜が「早く着替えなよ」と小さく返していた。


 そのいつもの朝の音の中で、美咲の沈黙だけが、妙に重かった。


「柱に?」


「うん」


「そう」


 信じていない声だった。


 けれど、それ以上は追及しなかった。


 美咲は再び包丁を持ち、まな板の上の葱を刻み始めた。とん、とん、とん、と音が戻る。


 誠司はリビングの椅子に腰を下ろした。


 身体が沈む。


 湊がランドセルを背負いながら走ってきて、誠司の横を通り過ぎた。


「パパ、おかえり! いってきます!」


「おう。気をつけてな」


 青いスニーカーが玄関で軽く跳ねる。


 その音を聞くだけで、胸の奥が少し緩んだ。


 陽菜は少し遅れて出てきた。寝癖を気にしながら、ちらりと誠司を見る。


「パパ、眠そう」


「眠いよ」


「ちゃんと寝なよ」


「はい」


 陽菜はそれだけ言うと、湊の後を追った。


 玄関の扉が閉まる。


 家の中が、少し静かになった。


 美咲が味噌汁をよそいながら言った。


「最近さ」


「うん」


「前より、目が生きてるなって思う」


 誠司は顔を上げた。


 美咲は椀を置きながら、こちらを見ていなかった。


「楽しい?」


 誠司はすぐに答えられなかった。


 楽しい。


 その言葉は違う気がした。


 怖い。


 疲れる。


 眠い。


 鼻血まで出た。


 でも、会社で書類を右から左へ流している時とは、まるで違う。


 自分がやったことが、どこかでちゃんと形になっている。


 誰かの足元に道ができる。


 誰かが帰れる。


「やったことがさ」


 誠司は椀の湯気を見つめながら言った。


「ちゃんと結果になる気がするんだ。会社では、ずっとなかったから」


 美咲は黙っていた。


 味噌汁の湯気が、二人の間を白く揺れる。


「でも」


 美咲はようやく誠司を見た。


「倒れたらダメだからね」


「うん」


「倒れたら、パパの代わりに朝ごはん作る人、いなくなるよ」


 その言い方は少しだけ軽かった。


 けれど、目は笑っていなかった。


 誠司は椀を両手で包んだ。


 温かさが指に伝わる。


「気をつける」


 その返事がどれほど頼りないか、自分でもわかっていた。


   *


 夜。


 子供たちが寝た後、誠司のスマホが短く震えた。


 リビングの照明は落としてあり、窓の外には隣家の明かりが小さく滲んでいる。美咲は洗濯物を畳んでいた。布が重なる柔らかい音が、静かな部屋にゆっくり広がっている。


 誠司は何気なく画面を見た。


【給与明細のお知らせ】


 指が止まった。


 胸の奥が、静かに跳ねる。


 誠司は通知を開いた。


【対象期間:初月分】


【支給予定額:167,580円】


【振込予定日:来月末】


 数字が、画面の中で白く光っていた。


「十六万……七千五百八十円……」


 声に出すと、その金額が急に現実になった。


 少ないのか。


 いや、違う。


 多い。


 初月は勤務回数が少なかった。途中から時給が上がった分も、まだ十分には入っていない。それでも、この金額だ。


 来月末に、ちゃんと入る。


 家計簿の赤い線。


 スーパーで戻した肉。


 靴を買う時に使った貯金。


 そういうものが、ほんの少しだけ遠ざかる気がした。


 美咲が顔を上げた。


「どうしたの?」


「いや……明細が来た」


「バイトの?」


「うん」


「入るの?」


「来月末」


 美咲は洗濯物を畳む手を止めた。


 金額までは聞かなかった。


 誠司も見せなかった。


 ただ、画面を見つめたまま、もう一度だけ息を吐いた。


「ちゃんと入るんだ」


 その声は、自分でも驚くほど小さかった。


 けれど、美咲には届いたらしい。


 彼女は畳みかけのタオルを膝に置いたまま、少しだけ表情を緩めた。


「よかったね」


「ああ」


 誠司はスマホを伏せた。


 胸の奥に、安堵がゆっくり染み込んでいく。


 まだ振り込まれたわけではない。


 けれど、約束された数字がある。


 それだけで、夜の底に足場ができたような気がした。


   *


 同じ頃。


 内閣府の分析棟では、黒い画面に細い白文字が並んでいた。


 操作開始時刻。


 操作終了時刻。


 反応が集中する時間帯。


 日中の空白。


 一人の分析官が、椅子から立ち上がった。


 窓のない部屋には、機械の熱と冷めたコーヒーの匂いがこもっている。壁の時計の秒針が、静かに進んでいた。


「操作開始、二十三時前後」


 分析官は画面を見たまま言った。


「終了、五時前後。日中の操作は確認されず」


 隣の職員が顔を上げる。


「夜勤者ですか」


「可能性はある。ただし、操作終了後すぐに移動ログが途切れる。一定の生活圏へ戻っていると見るべきだ」


 別の画面に、地図が表示された。


 東京都東部。


 埼玉県南部。


 細い線で囲まれた範囲が、淡く光る。


「対象は日中、別の職業に従事している可能性が高い」


 分析官は赤い線を一本引いた。


「家庭を持っている可能性もある。操作後の行動が直線的すぎる。寄り道がない。帰る場所がある人間の動きだ」


 部屋に沈黙が落ちた。


 それは、誰かの輪郭が見え始めた時の沈黙だった。


 まだ名前はない。


 顔もない。


 しかし、存在だけが少しずつ近づいている。


 分析官は画面の中央に表示された仮の識別名を見た。


【S.S】


 その文字の周囲に、いくつもの線が集まり始めていた。


 足跡は、夜の底から一歩ずつ、佐藤誠司の暮らす場所へ近づいていた。

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